長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-99.ミナミの海(改訂決定稿)

 慈恩禅師(じおんぜんじ)と別れて、島添大里(しましいうふざとぅ)グスクに帰るとサスカサが(島添大里ヌル)待っていた。
 ナツと話をしていたサスカサは、サハチ(中山王世子、島添大里按司)を見ると急に目をつり上げて、「あたしよりも年下の娘を側室に迎えるなんて許せない」と鬼のような顔をして騒いだ。
 その顔は母親のマチルギにそっくりだと思いながら、山南王(さんなんおう)(汪応祖)から贈られたから仕方がないんだとサハチは説明した。何を言ってもサスカサの怒りは治まらず、「絶対に許せない」と言って飛び出して行った。
「サスカサの気持ちになってみれば当然の事ですよ。あたしだって、サスカサに認めてもらうまで時間が掛かったもの」
「そうだったのか」とサハチはナツの顔を見ていた。
 サスカサの気持ちなんて、今まで考えてもいなかった。
「あたしが側室になった時、サスカサはヌルの修行中でいなかったわ。サスカサになって戻って来た時も、口に出して言わなかったけど、あたしを憎んでいるようだったのですよ。時が解決してくれて、今では仲良しになれましたけど、サスカサもまだ若かったし、心の中で葛藤(かっとう)があって、それを乗り越えて来たのだと思いますよ。メイユー(美玉)の時はすんなりと認めて、佐敷ヌルさんと一緒に婚礼の儀式をやっていました。その姿を見て、サスカサも大人になったなと思ったのです。でも、今回のハルはサスカサよりも年下です。受け入れるのには時間が掛かると思いますよ」
 サハチはサスカサに会いに行ったが、サスカサは一言も口を利いてはくれなかった。
 次の日、ササたちが久高島(くだかじま)に行こうとサスカサを誘いに来た。サスカサはハルの事をササに告げた。ササも驚いて、佐敷ヌルの屋敷にいるハルに会いに行った。
 佐敷ヌルがハルにササたちを紹介した。
「従妹(いとこ)のササよ。馬天(ばてぃん)ヌルの娘さん。右にいるのが明国(みんこく)から来たシンシン(杏杏)で、左にいるのが朝鮮(チョソン)から来たナナ、朝鮮から来たけど、朝鮮人(こーれーんちゅ)じゃないのよ。ヤマトゥンチュ(日本人)よ。後ろにいる三人はジャワ(インドネシア)から来た人たちよ」
 ササがスヒターとシャニーとラーマを紹介した。
 噂には聞いていたが、外国から来た娘たちを目の当たりにして、ハルは声が出ないほどに驚いていた。
 ササはハルを誘って外に出た。決闘でも始まるのかと、みんながぞろぞろとあとを追うと、二人は物見櫓(ものみやぐら)に登って行った。二人はしばらくの間、上で話をしていた。
 ササが物見櫓から飛び降りると、ハルも負けじと飛び降りた。二人とも見事に着地して笑い合った。
「大丈夫よ」とササはサスカサに言って笑った。
 サグルーの屋敷から、奥間(うくま)のサタルーが出て来て、
「ササ、帰って来たのか」と近づいて来た。
「どうして、サタルーがここにいるの?」とササは驚いた顔で聞いた。
「お前に会いたくなってな」とサタルーは笑ってから、「ナナさん、お久し振りです」とナナに挨拶をした。
「何を言っているのよ。ナナに会いたくて来たんでしょ」
「ササったら何を言っているの」とナナが顔を赤らめた。
「これから久高島に行くのよ。帰って来るまで待っていてね」
「久高島か、いいな。俺も一緒に行くよ。女だけだと心配だからな」
 ササは笑いながら、「いいわ。あたしたちの護衛を頼むわね」と言った。
 兄の出現で、話が中断してしまった。サスカサには何が大丈夫なのかわからなかった。ハルと何を話したのか、ササに聞いた。
「あんたのお父さんの事が好きかって、聞いたのよ。そしたら、あの娘(こ)、はっきりと好きだって言ったわ。嘘をついている目じゃなかったから大丈夫よ」
 好きか嫌いかの問題じゃないけどとサスカサは思った。
「幼い頃に両親を亡くして、座波(ざーわ)ヌルに育てられたって言っていたわ。十三の時に粟島(あわじま)(粟国島)に行って武芸のお稽古に励んだらしいわ。そして、ある日、突然、山南王から、島添大里按司の所にお嫁に行けって言われて、二人の侍女を連れてやって来たのよ。あの娘には断る事はできないわ。不安な気持ちで島添大里に来たけど、来てよかったって言っていたわ。ここには強い女子(いなぐ)がいっぱいいて、修行の励みになるし、マシュー姉(ねえ)(佐敷ヌル)と一緒に、お祭り(うまちー)の準備をやるのも楽しいって言っていた。ヤマトゥ(日本)のお話が聞きたいって言っていたから、久高島から帰ったら、お酒を飲みながら、あの娘に旅のお話をしてあげましょ」
 サスカサはうなづいて、ササたちと一緒に久高島に向かった。
 サタルーは荷物持ちをやらされた。ササはフカマヌルへのお土産を馬の背に積んで来たのだが、その荷物をサタルーに背負わせた。サタルーは任せておけと引き受けた。奥さんがいるのに、ナナと楽しそうに話をしているサタルーを見ながら、お父さんに似たのかしらとサスカサは思っていた。
 サスカサは久高島のフボーヌムイ(フボー御嶽)で、御先祖様の大里(うふざとぅ)ヌル(サスカサ)の神様に、舜天(しゅんてぃん)(初代浦添按司)の父親、新宮(しんぐう)の十郎の事を話した。
「あの人は、平家を倒さなければならないと、いつも言っていました。願いがかなったのですね。本当によかった」と大里ヌルは涙声で言って、ササとサスカサに感謝した。
 今の大里ヌルにも挨拶をして、フカマヌルに旅の話を聞かせた。スヒターたちも久高島に来て喜んでいた。神人(かみんちゅ)のラーマは、フボーヌムイにはジャワの神様もいると言った。遠い昔、ジャワから久高島にやって来た人がいたようだ。
 サタルーは女たちに囲まれて、始終、ニコニコして楽しそうだった。気持ちが素直というか、ナナが好きなのが見え見えで、ナナもサタルーが好きなようで、あんな女らしいナナを見たのは初めてだった。
 サスカサがサタルーに会ったのは一昨日(おととい)の事だった。ササたちと別れて、島添大里グスクに帰り、佐敷ヌルに挨拶をしに行ったら、そこにハルがいた。話を聞いて、父に対する怒りで頭の中が真っ白になり、自分の屋敷の前で、呆然と立ち尽くしていたら、御門番(うじょうばん)が来て、奥間のサタルーという人が訪ねて来たと言った。
 サタルーの名は兄のサグルーから聞いていた。サスカサはサタルーを迎えて、サグルーの屋敷に連れて行った。妻のマカトゥダルがサグルーを呼びに行って、サグルーはすぐに現れた。サグルーはサタルーとの再会を喜んでいた。サスカサはサタルーを兄だと認めたが、母と出会う前に、父が二人も子供を儲けたなんて許せないと、さらに父に対する怒りが募った。
 久高島から帰るとサスカサはハルを連れて、佐敷グスクの東曲輪(あがりくるわ)のササの屋敷に行った。一緒にお酒を飲みながら、ササたちはハルに旅の話を聞かせた。ハルは目を丸くして、ササたちの話に何度も驚いて、興味深そうに話を聞いていた。ハルは素直で可愛い娘なので、友達として付き合うのなら問題ないが、父親の側室になるなんて、やはり許せなかった。
按司様(あじぬめー)はやがて、王様(うしゅがなしめー)になるわ。王様になったら次々に側室が贈られて来るのよ。みんな、サスカサよりも若い娘たちなのよ。そんなの一々怒っていたら、どうしようもないわ。大きな心を持って見守りなさい」
 そうササに言われて、頭ではわかっていても、心では許せなかった。
 翌日、サスカサがハルと一緒に島添大里グスクに帰ると、サタルーは奥間に帰ったとサグルーから聞いた。
「楽しい思い出ができたと喜んでいたよ」とサグルーは言った。
 年が明けて、永楽(えいらく)十年(一四一二年)となった。去年、三人の王様が同盟したお陰か、城下の人々も晴れやかな顔付きで、新しい年を迎えていた。タブチ(八重瀬按司)が明国から持って来た獅子舞(しーしまい)が大通りを練り歩いて、子供たちがキャーキャー騒ぎながら楽しんでいた。
 例年のごとく新年の儀式が行なわれ、サハチは首里(すい)と島添大里を行ったり来たりと忙しかった。ハルも側室として儀式に参加して、ヌルとしてのサスカサの姿に驚いていた。相変わらず、佐敷ヌルの屋敷に入り浸りだが、ササとも仲よくなって、佐敷にも出掛けているようだった。最近は侍女たちを伴う事もなく、ハルは一人で行動していた。
 ジャワの三人娘は与那原(ゆなばる)に行って、ヂャンサンフォン(張三豊)の指導を受けていた。シンシンからヂャンサンフォンの凄さを聞いて、明国の武術をジャワの武術のプンチャックに取り入れようとしていた。ナナも一緒に加わった。
 正月の十八日、去年の九月に送った進貢船(しんくんしん)が帰って来た。これで、二月に進貢船が送れるとサハチはホッと胸を撫で下ろした。去年は十二月が閏月(うるうづき)で二回あったので、何とか間に合ったようだった。
 使者のサングルミー(与座大親(ゆざうふや))、副使の末吉大親(しーしうふや)、サムレー大将の田名親方(だなうやかた)、従者として行った重臣たちの息子たちが元気な姿で帰って来た。サングルミーは三弦(サンシェン)を三十丁も持って来てくれた。そして、永楽帝が造ったという永楽通宝(えいらくつうほう)という新しい銭(じに)も大量に持って来た。できたての銭は光り輝いていた。
 鄭和(ジェンフォ)と一緒に来た各国の使者たちはまだ応天府(おうてんふ)(南京)にいるのかと聞くと、遠くから来た使者たちは、鄭和の次の航海の時に帰るらしいとサングルミーは言った。
「いつもだと夏に帰って来ると、その冬には次の航海に出掛けていたのですが、今回は少し間を置くようです。三回も続けざまに行ったので、船も大分、傷んできたのでしょう。まだ、いつ行くとは決まっていないようですが、四度目の航海はさらに西の国を目指すようです」
「ムラカ(マラッカ)の王様が来たと聞いたが、その王様もまだ応天府にいるのか」
「いえ、永楽帝から進貢船を賜わって、その船に乗って帰ると聞いています。もう帰ったんじゃないでしょうか」
「そうか。今、ヤマトゥに行ったジャワの使者たちが『天使館』に滞在しているんだ。ファイチ(懐機)が話をつけて、次に来る時はヤマトゥまで行かずに琉球に来る事になったんだ」
「それはよかったですね。琉球も南蛮(なんばん)(東南アジア)にある港のように、中継貿易で栄えなければなりません」
「中継貿易?」
「そうです。たとえば、シュリーヴィジャヤ国の旧港(ジゥガン)(パレンバン)は天竺(ティェンジュ)(インド)やタージー(アラビア)から来る商人たちに唐(とう)の国の商品を売って、唐の国から来る商人に天竺やタージーの商品を売って栄えたのです。琉球も南蛮から来る者たちにヤマトゥの商品を売って、ヤマトゥから来る者たちに南蛮の商品を売れば、益々、栄える事でしょう」
「成程な、中継貿易か。ヤマトゥからは何もしなくても来るからいいが、南蛮の国々に、琉球に行けばヤマトゥの刀が手に入ると宣伝しなければならんな」
「明国に行く使者たちにも、応天府の会同館(かいどうかん)で宣伝させた方がいいですね」
「そうだな。そう言えば、礼部のヂュヤンジン(朱洋敬)殿は元気でしたか」
「忙しいと言って走り回っておりました。聞いた事もないような国から使者が来て、言葉がまったく通じない事もあると言って困った顔をしていましたよ。そして、跡継ぎが生まれたと言って喜んでおりました」
「なに、リィェンファ(蓮華)殿が子供を産んだのか。そいつはめでたい。よかったなあ」
「ヂュヤンジン殿から言われたのですが、なるべく泉州に着くようにしてほしいとの事です。永楽帝はさほど気にしていないようですが、琉球の船が入った港の役人から苦情が殺到すると言っておりました」
「そうか。四月に行った船が杭州から上陸したからな。来年は気を付けよう」
 その夜、首里の会同館で帰国祝いの宴(うたげ)が行なわれ、サングルミーが『二胡(アフー)』という楽器の演奏を披露した。朝鮮のヘグムによく似た楽器だった。流れるような調べが心地よく、サハチは明国を旅した時の事を思い出していた。サングルミーが楽器の演奏をするなんて意外だったが見事なものだった。演奏が終わると指笛が飛んで、喝采が沸き起こった。
「二年前、首里グスクのお祭りで、按司様の一節切(ひとよぎり)を聴いて感動しました。自分でも楽器がやりたくなって、明国で二胡を手に入れて始めたのです。笛はとても按司様にはかないませんし、三弦も三星大親(みちぶしうふや)(ウニタキ)殿にはかないません。二胡をやる者は琉球にはおりませんからね。下手(へた)でもわかるまいと思って始めたのです。ようやく、他人様(ひとさま)に聴かせられる腕になりました」
「いやあ、大したものですよ。今度、お祭りの時、城下の人たちにも聴かせてやって下さい」
 サングルミーは照れながらも、嬉しそうにうなづいた。
 マユミに言われて、サハチはサングルミーと合奏した。広々とした明国の大地を心地よい風が吹き抜けて行くような調べが流れた。皆、うっとりしながら聞き惚れた。
 十日後、馬天浜にサイムンタルー(早田左衛門太郎)かやって来た。サイムンタルーの船とシンゴ(早田新五郎)の船とマグサ(孫三郎)の船と三隻の船がやって来た。ウミンチュ(漁師)たちが法螺貝を吹いて、何艘もの小舟(さぶに)が迎えに行った。
 サイムンタルーの船は朝鮮で新造した船で、サハチがヤマトゥに行った時に乗って行ったサンルーザ(早田三郎左衛門)の船を手本にして造ったという。進貢船を一回り小さくしたような船で、朝鮮の水軍もその船を真似して、同じような船が今、倭寇(わこう)の取り締まりをしているという。
 サイムンタルーの船に、イト、ユキ、ミナミの三人が乗っていた。サイムンタルーの妹のサキも娘のミヨを連れてやって来た。サワも一緒にいた。イトもユキも、サキもミヨも袴をはいて、刀を腰に差した女子(いなぐ)サムレーの格好で、ヤマトゥにも女子サムレーがいるのかと馬天浜のウミンチュたちは驚いていた。
 十六年振りに琉球に来たサイムンタルーだったが、主役の座はミナミに奪われた。九歳になったミナミはみんなの人気者になった。
 白い砂浜だと言って、目を丸くして驚いている姿や、楽しそうに笑っているその顔は、まるで、ニライカナイ(理想郷)からやって来た可愛い天女のようだとみんなから言われて、ミナミを見る人たちは皆、にこやかになっていた。
 そんなミナミを祖父となったサハチとサイムンタルーは目を細めて眺めていた。
「孫娘を連れて、琉球に来るなんて思ってもいなかったぞ」とサイムンタルーは笑った。
 サハチはイト、ユキ、ミナミを連れて来てくれたお礼を言った。
「お前が対馬(つしま)に来て、イトと出会って、ユキが生まれた。ユキがわしの倅の六郎次郎と一緒になって、ミナミが生まれた。ミナミは琉球対馬の架け橋じゃ。どうしても、ミナミに琉球を見せたくてな、連れて来たんじゃよ」
 シンゴの船から降りて来たチューマチ(サハチの四男)と越来(ぐいく)の若按司のサンルーは目を輝かせて、「いい旅でした」と満足そうに言った。
「驚く事がいっぱいありました。行って来て、本当によかったです」と言ったチューマチに、
「驚く事はまだあるぞ。あとで教える」とサハチは言った。
 チューマチは首を傾げてから、「作戦はうまく行ったのですね?」とサハチに聞いた。
与論島(ゆんぬじま)には『三つ巴』の旗はなくて、伊平屋島(いひゃじま)にはありました」
「おう、うまく行ったぞ。うまく行き過ぎたくらいだな」とサハチは笑った。
 知らせを聞いて、マチルギ、佐敷ヌル、ユリ、ササ、シンシン、マウシ(山田之子)が首里からやって来た。佐敷ヌルとユリは娘を連れていた。佐敷ヌルとユリ、ササとシンシンは首里のお祭りの準備のために首里にいた。非番だったマウシもお祭りの準備を手伝っていて、ミナミが来たと聞いて飛んで来たのだった。
 ササとシンシンはユキとミヨとの再会を喜び、佐敷ヌルの娘のマユ、ユリの娘のマキクは、ミナミとすぐに仲良しになった。マチルギはイトとの再会を喜んで、マウシは相変わらず、ミナミの家来になっていた。
 馬天浜の『対馬館』で歓迎の宴が開かれ、サハチはサイムンタルーから対馬の事を聞いた。
「わしが留守にしている間に、宗讃岐守(そうさぬきのかみ)(貞茂)は対馬に勢力を広げておった」とサイムンタルーは言った。
「一族の者たちを各地に配置して、郡守(ぐんしゅ)を名乗らせている。しかし、対馬の浦々は海でつながっている。陸を支配したところで、対馬を統一する事はできんじゃろう。今回、浅海湾(あそうわん)内の浦々を巡ってみてわかったんじゃが、相変わらず、貧しい浦々がいくつもあった。まずは奴らを食わせなければならん。それで、今回は三隻でやって来たんじゃ。わしの顔を見て、昔のように倭寇働きをしようという者も何人もいた。朝鮮に行けないのなら明国まで行こうと言っておった」
「行くのですか」とサハチは聞いた。
「行けば、以前より危険が伴う。しかし、行かなければならなくなるかもしれん」
 サイムンタルーは厳しい顔付きでそう言ったが、急に笑って、「琉球ではのんびりするつもりじゃ」と言った。
 サハチは今、浮島(那覇)にジャワの船が来ている事を話した。
「何年か前に、倭寇に襲われたジャワの船が朝鮮の島に漂着した事があった」とサイムンタルーは言った。
倭寇に襲われた?」
「荷物を奪われて、乗っていた者たちも皆、殺されたようじゃ。誰の仕業だかわからなかったんじゃが、宗讃岐守がジャワの船を襲った倭寇から奪い取ったと言って、南蛮の珍しい品々を朝鮮王に献上したんじゃよ。多分、宗讃岐守の配下の者たちの仕業じゃろう」
「宗讃岐守も倭寇働きをしていたのですか」
「宗氏は今、主家である少弐氏(しょうにし)のために軍資金を集めている。対馬に腰を落ち着けて、朝鮮との交易に励んでいるのもそのためじゃ。倭寇の首領で、宗讃岐守の配下になった者もいる。また、九州にいる倭寇の首領で、少弐氏のために働いている者もいるじゃろう。そいつらがジャワの船を襲ったのに違いない」
琉球の船も危険ですね」とサハチは言った。
「いや、琉球の船は将軍様足利義持)と取り引きをしている。襲えば、将軍様の怒りを買う事になる。安全とは言い切れんが、琉球の船だという目印をはっきりと付けておけば大丈夫じゃろう」
 『三つ巴紋』の旗と『八幡大菩薩』の旗は掲げてあるが、『龍』の旗も掲げた方がいいなとサハチは思った。
 サイムンタルーの話を聞いたあと、サハチはチューマチの所に行った。チューマチはマチルギに旅の話をしていた。
「例の話は話したのか」とサハチがマチルギに聞くと、「あなたが来るのを待っていたのよ」とマチルギは言った。
 サハチはうなづいて、「お前のお嫁さんが決まった」とチューマチに言った。
「えっ!」とチューマチは驚いた顔をして、サハチとマチルギを見た。
「お前、もしかして、対馬で好きになった娘がいたのか」とサハチは聞いた。
「いえ、そんな‥‥‥」とチューマチは首を振って、「好きになった娘がいたんですけど、琉球には行けないって言われて‥‥‥結局、振られたんです」と笑った。
「そうか。すぐには忘れられないだろうが、気持ちの整理をして、花嫁を迎えろ。婚礼は来月だからな」
「はい」とチューマチはうなづいて、「やはり、按司の娘なんですか」と聞いた。
按司の娘には違いないが、王様の娘でもある。山北王(さんほくおう)の娘だ」
「ええっ!」とチューマチは目を見開いて、口をポカンと開けて、サハチとマチルギを見ていた。何が何だかわからないような顔付きだった。
「意外な展開になったんだよ」とサハチは山北王と同盟をした経緯(いきさつ)を話した。
「信じられない事が起こったんですね。三人の王様が同盟を結ぶなんて‥‥‥」
「そういうわけだから、断るわけにはいかないんだ。噂では、その娘はかなりの美人(ちゅらー)らしいぞ。お前たちが住む事になるグスクも今、造っている」
「えっ、グスクに住むのですか」
「グスクといっても島添大里グスクの出城だがな」
「俺がグスクに住むなんて考えてもいませんでした。兄貴たちがグスクを持っていないのに、俺がグスクを持ってもいいのですか」
「その事は皆、納得済みだから心配するな。ジルムイもイハチもグスクはいらない。サムレー大将として船に乗ると言っている」
「俺もサムレー大将になりたかった」とチューマチは言った。
「サムレー大将にはなれんが、従者として明国やヤマトゥに行ける。従者を何度か務めれば、副使や正使にもなれるぞ」
「俺が正使ですか」と言って、チューマチは楽しそうに笑った。
「あなたのお嫁さんになる娘だけど、馬術と弓矢の名手らしいわよ」とマチルギが言った。
「ンマムイ(兼グスク按司)の奥さんに聞いたのか」とサハチがマチルギに聞くと、マチルギはうなづいた。
「山南王の息子に嫁いだ長女はおとなしい娘だったけど、次女のマナビーは男勝りで、子供の頃からお父さんと一緒に狩りに行っていたらしいわ。あなたも馬術と弓矢のお稽古に励んだ方がいいわ。お嫁さんに負けたらみっともないわよ」
 チューマチは剣術の稽古には励んでいるが、馬術と弓矢は自信がなかった。
「負けないように頑張ります」とチューマチは答えた。
 次の日、島添大里グスクで歓迎の宴が開かれ、サイムンタルー、イトとユキとミナミ、サキとミヨ、サワは、サハチが用意しておいた城下の屋敷に移った。
 島添大里グスクの高い石垣を見たサイムンタルーは、「よくこんなグスクを攻め落としたのう」と感心した。
 イトとユキもサハチから話は聞いていたが、実際に目にして、凄い城だと驚いていた。
 歓迎の宴にはハルもサスカサも参加した。サスカサはユキをお姉さんと呼んで、再会を喜んだ。ヤマトゥにも側室がいたのかとハルは驚いていた。サスカサはハルと普通に話をしていたが、相変わらず、サハチとは口を利かなかった。ミナミはサハチの娘たちと一緒に遊んでいた。
 次の日は、サハチが案内して首里に行った。首里グスクに入って北曲輪(にしくるわ)にいる孔雀(くじゃく)に驚いて、西曲輪(いりくるわ)の龍天閣(りゅうてぃんかく)に驚いて、広い庭の奥に建つ百浦添御殿(むむうらしいうどぅん)(正殿)を見て、まるで、龍宮(りゅうぐう)のようだと驚いていた。皆、呆然とした顔付きで、言葉もでないようだった。
「乙姫様がいらっしゃるのね」とミナミが言った。
 龍天閣の三階で、サイムンタルーは思紹(ししょう)とヒューガ(日向大親)に再会した。サイムンタルーが最後に思紹と会ったのはキラマ(慶良間)の島だった。あの時、若い者たちを鍛えていた思紹が、今は中山王(ちゅうさんおう)になっている。現実とはいえ、あの頃の事を思うと、まったく信じられない事だった。
 ヒューガとは一緒に琉球に来て、一緒に琉球内の旅をした。その後、ヒューガは琉球に腰を落ち着けて、思紹が中山王になるのを助けてきた。久し振りに見るヒューガは、すっかり琉球人(りゅうきゅうんちゅ)になりきって、水軍の大将という貫禄があった。
 思紹は酒を用意させて、酒盛りが始まった。サイムンタルーと思紹とヒューガは、昔の事を懐かしそうに話しては笑っていた。
 龍天閣からの景色を楽しんだあと、サハチは女たちを連れて百浦添御殿を案内して、ヌルたちと女子サムレーたちがいる南の御殿(ふぇーぬうどぅん)も案内した。マチルギはみんなを御内原(うーちばる)に連れて行って、女同士で歓迎の宴をやると言った。サハチはあとの事をマチルギに任せて、龍天閣の酒盛りに加わった。

 

 

 

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2-98.ジャワの船(改訂決定稿)

 十二月の末、ヤマトゥ(日本)に行った交易船が無事に帰国した。交易船はジャワ(インドネシア)の船を連れて来た。
 突然のジャワの船の来訪で、浮島(那覇)も首里(すい)も大忙しとなった。
 サハチ(中山王世子、島添大里按司)を始め、首里の者たちは『ジャワ』という国を知らなかった。久米村(くみむら)に行って、ファイチ(懐機)に聞くと、旧港(ジゥガン)の近くにある国らしいとわかったが、ファイチも詳しい事は知らなかった。
 ジャワの船に、ジャワの国の女王の娘が乗っていて、ササ(馬天若ヌル)たちと仲よくなっていた。サハチとファイチは、女王の娘をササたちと一緒にメイファン(美帆)の屋敷に呼んで、詳しい事情を聞いた。船に乗って来た者たちは『天使館』に案内して、久米村で用意した料理と明国(みんこく)の酒で持て成した。
 女王の娘の名前は『スヒター』といい、二十歳前後で、同じ年頃の娘、シャニーとラーマを連れていた。ヤマトゥ言葉はしゃべれないが、明国の言葉はしゃべれるので、シンシン(杏杏)を通訳としてササたちは会話をしていた。
 ササたちが京都に滞在していた九月、ジャワの使者たちが京都にやって来た。ササたちは高橋殿と一緒に、ジャワの使者たちの宿舎となっているお寺に行って、スヒターたちと出会った。スヒターと一緒にいるラーマは『サドゥク』と呼ばれる神人(かみんちゅ)で、ヌルのササたちと同類だった。しかも、三人とも『プンチャック』と呼ばれる武芸の達人で、同じ年頃だった事もあり、すぐに仲よくなった。ササたちはスヒターたちを連れて京都見物を楽しんだ。ササたちが先に京都を去ったが、博多で落ち合って、一緒に琉球まで来たのだった。
 ファイチはスヒターからジャワの国の事を聞いた。
 ジャワの国の正式名は『マジャパイト王国』といい、元(げん)の国の侵攻によって滅ぼされた『シンガサリ王国』の娘婿、ウィジャヤによって建国された。百年余り前の事だという。二代目のジャヤナガラ王の時、ジャワ島を統一して、三代目のラージャパトニ女王の時、宰相(さいしょう)のガジャ・マダの活躍によって、バリ島を支配下に置き、マラッカ海峡を支配していた『シュリーヴィジャヤ王国』を滅ぼして勢力を広げた。四代目のハヤムウルク王の時、『スンダ王国』を滅ぼして、今は四代目の娘のクスマワルダニが女王として国を治めている。跡継ぎだったスヒターの兄が亡くなると家督争いの内乱が始まった。五年も続いた内乱もようやく治まったので、兵力を強化するために、日本の刀を求めて、日本まで行って来たとスヒターは言った。
「旧港(パレンバン)の近くにあると聞いたが、どの辺なんだ?」とファイチが絵地図を広げて聞いた。
 スヒターは軽く笑って、
パレンバンマジャパイト王国の国内にある港です」と言って、パレンバンとマジャパイトの位置を示した。
 パレンバンスマトラ島の南の方にあり、マジャパイトはジャワ島の東にあって、スマトラ島もジャワ島も、ほとんどがマジャパイト王国だという。
パレンバンは、かつてはシュリーヴィジャヤ王国の首都でしたが、マジャパイト王国に滅ぼされました。滅ぼしたあとに放って置いたら、海賊たちの巣窟(そうくつ)になってしまいました。その後、明国から鄭和(ジェンフォ)が大船団を率いてやって来て、海賊の一人をあの港の代表と決めてしまったのです」
「成程。パレンバンマジャパイト王国の港だったのか。それで、パレンバンを放って置くのか」
「残念ながら、今のマジャパイト王国にはパレンバンを攻める力はありません。身内同士の争いが続いたせいで、今はジャワ島をまとめるのが精一杯です」
 ファイチはうなづいて、「マジャパイト王国も明国に朝貢(ちょうこう)しているのか」と聞いた。
「しています。鄭和がマジャパイトに来た時、内乱の最中でした。争いを止めようとした鄭和の兵が、二百人も戦死してしまいました。戦に勝利したわたしどもは明国に使者を送って謝罪しました。多額な罰金を請求されましたが、朝貢する事によって、罰金を減らしてもらう事ができたのです。その負い目もあって、明国からパレンバンには手を出すなと言われ、承諾するよりほかはありませんでした」
「ムラカ(マラッカ)という国も近くにあるのか」
「近いとは言えません。ここです」とスヒターは絵地図の位置を示した。
 ムラカはシャム(タイ)の国から細長く伸びた半島の先の方にあった。
「ジャワのスラバヤから船で二十日近く掛かります。スラバヤからパレンバンまで十日から十二日、パレンバンからムラカまでは七日か八日掛かります。ムラカはムラカ海峡の中程にあって、鄭和が大船団の中継基地にしたお陰で、栄えたのです」
「成程、鄭和のお陰で、新しい国になったのだな」
「そうです。パレンバンから逃げたシュリーヴィジャヤ王国の王子が、ムラカの国を造ったと言われています。場所がいいので、立ち寄る船も増えてきて、少しづつ栄えて行きましたが、シャムの国から金(きん)を上納しろと言われました。断れば、攻め滅ぼされてしまいます。仕方なく金を納めて、シャムの属国のような立場でしたが、鄭和が来たお陰で、シャムとの悪縁も切れたようです。明国の皇帝が、ムラカに手を出すなとシャムの王様に言ったのです。シャムも明国に朝貢していますので、皇帝には逆らえません」
「成程、そういう事情があったのか。ところで、明国の言葉が堪能だが、ジャワにも明国の者たちが住んでいるのか」
「広州や泉州から来た商人がトゥバン、グレシック、スラバヤの港には大勢、住んでおります。今回、使者として来た者も広州の人です」
「日本に行ったのは今回が初めてなのか」
「いいえ」とスヒターは首を振って目を閉じた。
 しばらくして目を開けると、
「五年前にも参りました」と言った。
「しかし、帰って来る事はありませんでした。日本で聞いたら、ジャワから使者が来たのは初めてだという事なので、日本に着く前にどこかで遭難してしまったようです」
「そうでしたか‥‥‥」
「日本は遠いです」と言ってスヒターは軽く笑った。
「日本の刀でしたら、日本まで行かなくても、琉球に来れば手に入りますよ」とファイチは言った。
「本当ですか」とスヒターは目を輝かせた。
 ファイチはサハチに説明した。
「不要緊(ブーヤオジン)(大丈夫)」と言って、サハチはうなづいた。
 マチルギが顔を出した。
「終わったのか」とサハチはマチルギに聞いた。
「何とか終わったわ」とマチルギは笑った。
 マチルギは女子(いなぐ)サムレーたちを連れて、久米村から天使館に料理を運ぶのを手伝っていたのだった。
 サハチは席を立った。『会同館(かいどうかん)』での帰国祝いの宴(うたげ)に参加しなければならなかった。ササが誘うとスヒターたちも付いて来る事になり、ファイチにジャワの使者たちの応対を頼んで、あとの者は首里へと向かった。
 会同館では宴が始まっていた。サハチはジャワの事を思紹(ししょう)(中山王)に報告してから宴に加わった。
 ヂャンサンフォン(張三豊)と運玉森(うんたまむい)ヌル(先代サスカサ)、慈恩禅師(じおんぜんじ)と越来(ぐいく)ヌル、ヒューガ(日向大親)と馬天(ばてぃん)ヌルも来ていた。修理亮(しゅりのすけ)と浦添(うらしい)ヌルもいた。ンマムイ(兼グスク按司)もヤタルー師匠(阿蘇弥太郎)と一緒に来ていた。
 サハチは責任者を務めたヤグルー(平田大親)、正使を務めたジクー(慈空)禅師、副使を務めたクルシ(黒瀬大親)、サムレー大将の宜野湾親方(ぎぬわんうやかた)にお礼を言って、旅の話を聞いた。
 旅は順調に行き、京都での行列も評判がよかったという。三弦(サンシェン)が欲しいという者が大勢現れて、来年は三弦を持って行かなければならないとヤグルーは言った。
「そうか」とサハチは満足そうにうなづいた。
 そんな事もあるかもしれないと思って、明国に行った使者たちに三弦を買って来いと頼んであった。
「朝鮮(チョソン)に行かなくてもいいので、京都でもゆっくりできました。ササたちは将軍様足利義持)の奥方様と一緒に熊野まで行って来ています」
「そうか。奥方様と一緒にか」
 サハチは将軍様の奥方様に会った事はないが、ササと奥方様の仲がよければ、琉球とヤマトゥとの交易もうまく行くに違いない。来年もササがヤマトゥに行ってくれる事を願った。
将軍様は明国の使者を追い返したようです」とヤグルーが言った。
「明国の使者が来ていたのか」とサハチは聞いた。
「俺たちが兵庫に着いた時、明国の船がいて、上陸許可を待っていたんだけど、結局、許可は下りずに追い返されたらしい。詳しい事はわからないけど、どうも冊封使(さっぷーし)だったんじゃないかと思います」
「なに、冊封使を追い返したのか‥‥‥琉球が来るから明国にはもう用はないというわけだな。琉球にとっては好都合だが、永楽帝(えいらくてい)が怒らなければいいがな」
「明国がヤマトゥを攻めるとでも?」
 サハチは首を振った。
「そうならん事を祈るしかない。対馬(つしま)はどうだった?」
「男たちが朝鮮から帰って来て、賑やかでした。活気に満ちていましたよ」
「サイムンタルー(早田左衛門太郎)殿は戦(いくさ)をしているのか」
 ヤグルーは首を振った。
「戦をしなくても、浅海湾(あそうわん)内の者たちは皆、サイムンタルー殿に従ったようです。朝鮮で宣略(せんりゃく)将軍という地位にいましたからね。俺も久し振りに会いましたが、凄い貫禄でした。対馬の者たちは皆、従うんじゃないですか」
「そうなればいいが、守護の宗讃岐守(そうさぬきのかみ)がいるからな、難しいだろう。守護に刃向かえば、将軍様を敵に回す事になる。そう言えば、お前、船越の後家と仲よくなったんじゃなかったのか」
「えっ、どうして知っているのです?」
「船越で噂になっていたぞ」
「よしてくださいよ。兄貴じゃあるまいし、俺の事なんて噂になんかなりませんよ。そんな事より、浅海湾内が一段落したので、サイムンタルー殿が久し振りに琉球に行くと言っていましたよ」
「なに、サイムンタルー殿が来られるのか」
「サイムンタルー殿だけでなく、イトさんもユキさんとミナミちゃんを連れて琉球に行くと行っていました」
「なに、イトが来るのか。ユキとミナミもか。そいつは楽しみだ」
「大丈夫なんですか。奥方様(うなじゃら)が怒るんじゃないですか」
「マチルギはイトと仲良しになったんだよ。マチルギも喜ぶだろう」
「そうなんですか」とヤグルーは首を傾げた。
 サハチはさっそく、イトたちが来る事をマチルギに知らせに行った。
 マチルギはサスカサ(島添大里ヌル)から旅の話を聞いていた。遊女(じゅり)のマユミも一緒にいた。ササは馬天ヌルとヒューガ、佐敷ヌルに旅の話をしていて、シンシンがササの話をスヒターたちに訳していた。
 マユミが席を空けてくれたので、サハチはマチルギとマユミの間に座り込んで、サスカサの話を聞いた。
「ミチ(サスカサ)が熊野で舜天(しゅんてぃん)(初代浦添按司)のお父さんとお話したんですって」とマチルギが興奮した顔付きで言った。
「なに、ササじゃなくて、お前が話をしたのか」とサハチも驚いて、サスカサを見た。
「舜天のお母さんがこのガーラダマ(勾玉)を持っていて、舜天のお父さんはその事を覚えていたのよ。あたしが舜天のお母さんに似ているって言っていたわ」
「そうか。舜天のお母さんもサスカサだったんだな」
 サスカサはうなづいて、話を続けた。
 サハチもマチルギもマユミも、真剣にサスカサの話を聞いていた。舜天の父親は平家を滅ぼした源氏の大将だった。戦死してしまったが、凄い人だったんだなとサハチは感心した。でも、こんなにも早くわかるなんて思ってもいなかった。神様から頼まれた課題が解決してしまって、来年はもうヤマトゥには行かないとササが言い出さなければいいがとサハチは心配した。
「熊野から帰って来て、あたしたち舜天のお父さんの事を調べ直したんだけど、舜天のお父さんのお兄さんで、鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)っていう人がいる事がわかったの」とサスカサは言った。
「その人、とても面白いのよ。弓矢の名人で、背丈が七尺(約二メートル)もある大男で、手の付けられない暴れん坊で、十三歳の時に父親から勘当されて九州に追放されるの。でも、九州に行っても大暴れして、十六歳の時には九州を平定して、自分で鎮西八郎って名乗るのよ。八郎が暴れるので、お父さんは責任を取って、御所の警護のお仕事を辞めさせられてしまうわ。八郎は京都に行って謝るんだけど、その翌年、京都で大戦(うふいくさ)が始まるの。八郎はその戦で大活躍するんだけど、負けてしまって、伊豆の大島っていう所に流されてしまうの。でも、島流しにあってもおとなしくしていないで、周辺の島々を平定して、王様気取りの生活をしていたんだけど、とうとう大軍に攻められて、自害して果てたらしいわ。叔母(佐敷ヌル)さんがお芝居にしたら、きっと面白いだろうと思うわ」
「ほう、そんな凄い兄貴がいたのか。確かに面白いお芝居になりそうだな。ササから色々と聞いているが、お前から見て、将軍様の奥方様はどんな人なんだ?」
「ササ姉(ねえ)とはとても仲良しよ。ササ姉が来るのを首を長くして待っていたって言っていたわ。心を許せるお友達っていう感じね。将軍様の奥方様だから回りの人たちは気を使って、対等に付き合える人は一人もいないわ。ササ姉だけは対等に付き合える相手なんじゃないかしら。高橋殿から聞いたけど、ササ姉に会ってから奥方様は変わったって言っていたわ。今までは回りから言われた通りにやっていたけど、今では何でも自分で決めて行動するようになったって。話は変わるけど、高橋殿は凄いお酒飲みなのよ。熊野に行く旅の間、毎日、お酒を飲んでいて、ササ姉も参っていたわ。お陰で、あたしもお酒が強くなったのよ」
「なに、お前もお酒を飲むようになったのか」
「最初はひどい目に遭ったわ。でも、お酒のおいしさがわかって、今では好きになったのよ」
「参ったなあ。俺も高橋殿と一緒にお酒を飲んで酔い潰れたんだよ。高橋殿は底なしだよ。いくら飲んでも酔っ払わない。お前もササも呑兵衛(のんべえ)になったとはなあ。ヤマトゥ旅に出すんじゃなかったな」
「楽しかったわ。また行きたいわ」
「来年は佐敷ヌルが行くって張り切っているよ。お前は留守番だ」
「高橋殿って面白そうな人ね。あたしも会ってみたいわ」とマチルギが言った。
「きっと、お母さんと気が合うわよ」とサスカサは笑った。
「でも、お母さんも酔い潰されるわ」
 次の日、サハチは首里グスクの北の御殿(にしぬうどぅん)で、来年に送る進貢船(しんくんしん)の事で頭を悩ましていた。今、琉球にいるのはヤマトゥから帰って来た船だけで、二隻は明国に行っていた。今年、四回も送ったのはいいが、来年の正月に送る船がなかった。ヤマトゥから帰って来た船は毎年、ヤマトゥに行っているので航海に慣れている。ほかの二隻はヤマトゥに行った事はない。できれば来年もその船をヤマトゥに送りたかった。九月に明国に行った船が、正月のうちに帰ってくれればいいと願った。琉球の船だけだったら多少遅れても構わないが、ジャワの船を連れて行かなければならない。夏になってしまえば、ジャワまで帰れなくなってしまう。遅くても二月中には船出しなければならなかった。
 突然、奥間(うくま)のサタルーが顔を出した。
「お前、どうしたんだ?」とサハチは驚いた。
「国頭按司(くんじゃんあじ)の材木を運んで来ました」とサタルーは言った。
「お前が運んで来たのか」
「国頭按司が困っていたんで、運んでやったんですよ」
「何を困っていたんだ?」
「材木を運ぶのはいいけど、夏まで帰って来られない。人出にそんな余裕はないと言うのでね」
「お前の所は大丈夫なのか」
「何とかなりますよ。俺は陸路で帰ります。船乗りたちは木地屋(きじやー)の店を手伝ってもらいます。浦添と与那原(ゆなばる)に新しい店を出したので、人出が足らないんですよ」
「そうか。お前も色々とやっているようだな。マチルギには会ったか」
「ええ、会いました。赤ん坊がいたので驚きましたよ」
「お前の弟だ」
「名前を聞いて笑ってしまいましたよ」
 サハチは怪訝(けげん)な顔をしてサタルーを見た。
「だって、『剣(ちるぎ)』の子が『太刀(たち)』だなんて、できすぎですよ」
「そうか。言われてみればそうだな。気がつかなかったよ」
 サハチがサタルーを連れて島添大里(しましいうふざとぅ)に帰ろうとしたら、勝連(かちりん)から朝鮮に行った新川大親(あらかーうふや)と南風原大親(ふぇーばるうふや)、通事(つうじ)のチョルとカンスケたちが首里に帰って来た。
 サタルーはサグルーに会って来ると言って、一人で島添大里に向かった。サハチは新川大親から報告を聞いて、その夜、思紹と一緒に遊女屋(じゅりぬやー)『宇久真(うくま)』で帰国祝いの宴を行ない、旅の話を聞いた。
 船は進貢船ではなかったが、対馬守護の宗讃岐守が一緒だったので、何の問題もなく富山浦(プサンポ)(釜山)に上陸できた。漢城府(ハンソンブ)(ソウル)に行く許可もすんなりと下りて、漢城府ではかなり待たされたが王様にも会えた。お経と仏像、大量の綿布(めんぷ)を積んで来たという。
「世子(せいし)のヤンニョンデグン(譲寧大君)殿が尋ねて参りまして、一緒に妓楼(ぎろう)に行きました。十八の若者ですが遊び慣れていて、琉球の事を色々と聞かれましたよ」と新川大親が言った。
「世子はまだ十八なのか」
 サハチは二年前、漢城府の『津島屋』で会った朝鮮王とその娘を思い出した。世子というのは、あの娘の弟なのだろう。
「噂ではヤンニョンデグン殿の素行(そこう)の悪さは有名で、王様は次男のヒョリョンテグン(孝寧大君)殿を可愛がっているので、そのうち世子が交替するだろうと言っておりました」
「王様の息子はその二人だけなのか」
「いえ、十数人いるようです。王様は正妻のほかに二十人近くの側室を持っているそうですから、子供の数も相当なものになるでしょう」
「どこの王様も大勢の側室を持っているようだな」とサハチが言うと、
「どこの国も同じじゃ」と思紹が言った。
「王様に自分の娘を献上して、その娘が王様の子を産めば、自分の地位が上がるからな。琉球は今の所、娘を利用して偉くなろうと思う奴はいない。しかし、やがて、そんな輩(やから)が現れて来るだろう。そんな奴を近づけてはならんぞ」
 思紹はサハチに注意した。
「ええ、気を付けます」とサハチは答えた。
 次の日、島添大里に帰ったサハチはグスクに行く前に、城下のソウゲン寺(でぃら)を訪ねた。今は『ジウン寺』と呼ばれていた。宗玄禅師が首里大聖寺(だいしょうじ)に移ったあと、慈恩禅師が越来ヌルと一緒に暮らして、午前中は子供たちに読み書きを教え、午後は島添大里のサムレーたちを鍛えていた。サハチはクルシに頼んでいたのだったが、慈恩禅師がやってくれるというので、慈恩禅師に任せて、クルシには事情を説明した。クルシはヂャンサンフォンから教わった呼吸法のお陰で若返ったような気がして、陸に上がるのは早い。まだまだ海に出ると言って笑った。
 慈恩禅師は武術道場から帰っていなかった。洗濯物を取り入れていた越来ヌルが、サハチを見ると驚いて迎えに来た。
按司様(あじぬめー)、どうなさったのです?」
「忙しくて、お礼もできなかったので、改めてお礼を言いに来たのですよ」
「わざわざありがとうございます。慈恩様もまもなく帰って参るでしょう。ゆっくりしていって下さい」
 サハチは縁側に腰を下ろした。越来ヌルがお茶を持って来た。
琉球のお茶はおいしいと慈恩様が申しておりました」
「いただきます」と言って、サハチはお茶を御馳走になった。
「わたしがここにいるのはおかしいと思っていらっしゃるのでしょう?」と越来ヌルは言った。
「いいえ。あなたのお陰で、慈恩殿が琉球に落ち着いてくれればいいと思っています」
 越来ヌルは軽く笑って、「自分でも、どうしてここにいるのかわからないのです。成り行きで、こうなってしまいました」と言った。
「慈恩殿と初めて会ったのは、慈恩殿が琉球を旅した時ですか」とサハチは聞いた。
「そうです。イハチさんとチューマチさんが連れて参りました。越来按司様と武芸の話で盛り上がって、三日、滞在なさいました。その時、わたし、慈恩様に失礼な事を言ってしまいました」
 サハチは越来ヌルを見たが何も言わなかった。越来ヌルは軽く笑って、話を続けた。
「わたし、ヤマトゥのお坊さんの事をよく知りませんので、奥さんの事とかお子さんの事とか聞いたのです。お坊さんには奥さんはいないし、子供もいないと言われました」
 サハチも子供の頃、ソウゲンにどうしてお坊さんは奥さんをもらわないのと質問した事があった。俗世間と縁を切って出家したお坊さんは、奥さんをもらわず、一生、修行を続けると言っていた。俗世間と縁を切ったといっても、山奥に籠もっているわけではないし、俗世間で生きているのだから、奥さんをもらうべきだとサハチが言うと、仏教には戒めがあって、奥さんはもらえないと言った。サハチには未だに理解できない事だった。
「慈恩様が旅に出て行ったあと、なぜか、慈恩様の事が思い出されて、胸が熱くなりました。こんな経験は初めてです。五十を過ぎたわたしが誰かを好きになるなんて、考えてもいない事でした。十年余り前、馬天ヌル様がウタキ(御嶽)巡りの旅をして、越来にいらっしゃいました。マレビト神のお話を聞いて、わたしにもそんな人が現れるかしらと期待をしましたが、縁はありませんでした。それが、慈恩様と出会って、マレビト神かもしれないと思いましたが諦めました。五十を過ぎたお婆さんに、偉いお坊さんが見向くはずもないと思いました。ところが、四月になって、慈恩様は越来に来ました。わたしは娘に戻ったかのように嬉しくて、慈恩様を迎えました。慈恩様はずっと、どうして、お坊さんは妻を持ってはいけないのかと考えていたそうです。そして、自然の成り行きで一緒に暮らすようになって、わたしはハマに越来ヌルを譲って、ここに参りました。今、とても幸せです。子供たちの面倒を見るのも楽しいし、こんな生活ができるなんて、一年前は考えてもいませんでした」
「うちの倅のマグルーとウリーが通っているんだが、今度のお師匠は奥さんがいるからいいと言っていましたよ。奥さんが色々と細かい事に気を使ってくれるので、みんなが助かっていると言っていました」
「ありがとうございます。わたしは子供がいませんから、みんな、自分の子供だと思って可愛がっております」
 慈恩禅師が帰って来た。越来ヌルと一緒にいるせいか、高僧という威厳が消えて、親しみやすい和尚さんという感じがした。慈恩禅師はニコニコしながら、「いらっしゃい」と言った。
「お邪魔しております」とサハチは答えて頭を下げた。
 着替えてきた慈恩禅師と縁側に座って、お茶を飲みながら話をした。
琉球はいい所じゃ」と慈恩禅師は言った。
「原点に戻れるような気がする。わしは幼い頃に出家して、ずっと旅を続けて来た。一度、還俗(げんぞく)して、親の敵(かたき)を討ち、再び、出家して禅僧になった。今まで、僧が妻帯してはならないという事に疑問を持った事はなかった。出家した僧なのだから当然の事だと考えてもみなかった。ミフー(越来ヌル)から、どうして僧は妻帯しないのかと聞かれて、初めて疑問に思ったんじゃよ。多分、日本にいたら、そんな疑問は持たなかったじゃろう。琉球に来て、あちこちにあるウタキを見て、これが本来の神様の姿に違いないと思った。日本にある立派な神社は見せかけに過ぎない。神社だけでなく、立派なお寺も見せかけに過ぎないと思ったんじゃ。僧としての修行は立派な僧坊でやるのではなく、山伏のように山々を駈け回ってするべきじゃと思った。そして、僧とは一体、何なのかと考えたんじゃよ。禅僧は悟りを開くために厳しい修行をする。しかし、悟りを開く事が目的ではないんじゃ。肝心なのは悟りを開いたあと、何をするかじゃ。わしは今まで、わしが考えた武芸を若い者たちに教えてきた。これからは武芸だけでなく、わしが経験した様々の事や知識を若い者たちに教えようと決めた。わしが教えた事が、琉球にためになってくれればいいと思っている。わしがやろうとしている事に、ミフーはどうしても必要なんじゃよ」
 サハチは慈恩禅師に感謝した。
琉球の若者たちに、色々な事を教えてやって下さい」
 慈恩禅師は夕暮れの空を見つめながら、晴れ晴れとした顔付きでうなづいた。

 

 

 

東南アジアの港市世界―地域社会の形成と世界秩序 (世界歴史選書)   東南アジア史〈2〉島嶼部 (世界各国史)   歴史世界としての東南アジア (世界史リブレット)

2-97.大聖寺(改訂決定稿)

 与那原(ゆなばる)グスクのお祭り(うまちー)が無事に終わった。
 サハチ(中山王世子、島添大里按司)は忙しくて行けなかったが、慈恩禅師(じおんぜんじ)が越来(ぐいく)ヌルと一緒に来たらしい。佐敷ヌルの話だと、二人は夫婦のように仲がよかったという。意外な展開に驚いたが、慈恩禅師と越来ヌルが一緒になって、ずっと琉球にいてくれればいいとサハチは思った。
 与那原グスクのお祭りが終わると佐敷ヌル、ユリ、シビー、ハルと侍女たちも島添大里(しましいうふざとぅ)グスクに戻って来た。
 来月に送る進貢船(しんくんしん)の準備でサハチは忙しく、島添大里に帰る事も少なくなって、首里(すい)の屋敷でメイユー(美玉)と過ごしていた。ハルが与那原からいなくなったと聞くと、メイユーはリェンリー(怜麗)、ユンロン(芸蓉)、スーヨン(芸蓉)を連れて与那原に行き、ヂャンサンフォン(張三豊)のもとで一か月の修行を始めた。
 ユンロンはクルーとの再会を楽しみにしていたが、クルーの妻のウミトゥクと会って、自分の出番はなさそうだと諦めていた。ユンロンはクルーを諦めたが、慶良間之子(きらまぬしぃ)はユンロンを諦めきれず、首里まで会いに来ていた。ユンロンは慶良間之子から逃げるために与那原に行ったのだった。
 リェンリーも伊是名親方(いぢぃなうやかた)の事で悩んでいた。伊是名親方の妻、ユウがやって来て、伊是名親方と別れてくれと泣いて頼んだのだった。ユウが普通の女だったら、奪い取ってやると思っていたリェンリーも、ユウが自分たちと同じように武芸を嗜み、かなりの腕がある事がわかると、何だか、自分が悪い事をしているように思えてきた。しばらく、伊是名親方の事は忘れようと与那原に向かった。
 みんなが出て行ってしまい、首里の屋敷も寂しくなった。サハチは久し振りに島添大里に帰った。
 島添大里グスクにハルはいなかった。佐敷ヌルと一緒に平田グスクのお祭りの準備に出掛けたという。
「ハルに会いたかったのですか」とナツに聞かれて、
「もう一月以上会ってないからな。顔が見たくなったんだよ」とサハチは答えた。
 ナツは楽しそうに笑った。
「あの子、側室になったっていう自覚はまったくないですよ。お祭りの準備が楽しくてしょうがないみたい。あたしは来年、ヤマトゥ(日本)に行くから、あたしの代わりに頑張るのよって佐敷ヌルさんに言われて、張り切っているみたいですよ」
「なに、佐敷ヌルはヤマトゥに行くのか」
「今年、サスカサ(島添大里ヌル)が行ったから、来年はあたしの番だって言っていましたよ」
「確かに行って来いとは言ったが、佐敷ヌルがヤマトゥに行って、お祭りは大丈夫なのか」
「ユリさんがいるし、シビーも頑張っています。ハルもいるから大丈夫ですよ」
「そうか‥‥‥佐敷ヌルが京都に行くか‥‥‥」
 佐敷ヌルが京都で本場のお芝居を観れば、琉球のお芝居も格段の進歩をするだろう。そして、佐敷ヌルと高橋殿が意気投合する場面をサハチは想像していた。
「何を笑っているんです?」とナツが聞いた。
「佐敷ヌルと初めて旅をした時の事を思い出したんだよ。何を見ても目を丸くして驚いていたんだ。京都に行っても、驚く事がいっぱいあるだろう」
「あたしも行ってみたいわ」
「もう少し我慢してくれよ。ハルの侍女たちも平田に行ったのか」
「あの二人、すっかり顔付きが変わっていましたよ。ここに来た当初、何かをたくらんでいるような顔付きだったけど、すっかり明るくなって、お祭りの準備を楽しんでいるみたい。お裁縫が得意だから、佐敷ヌルさんも助かっているみたいですよ」
「そうか。あの二人もハルの影響を受けて、溶け込んでくれたようだな」
 九月三日、四月に送った進貢船が無事に帰って来た。本部大親(むとぅぶうふや)、又吉親方(またゆしうやかた)、クグルーと馬天浜(ばてぃんはま)のシタルーが帰国した。
 泉州まで行けずに、杭州(こうしゅう)から上陸して応天府(おうてんふ)まで行って来たという。六月に鄭和(ジェンフォ)の大船団が長い航海から帰って来て、応天府はお祭り騒ぎだった。『会同館』には色々な国からやって来た使者たちが泊まっていて、みんな、違う言葉をしゃべっているのには驚いた。明国(みんこく)にはそれぞれの言葉がわかる通事(つうじ)がいるという。真っ黒な肌をした大男もいて、まるで鬼のようだった。世界は広いとしみじみと思ったとクグルーとシタルーは言った。
 『国子監(こくしかん)』にも行って、ファイテ(懐徳)とジルークにも会って来た。二人とも元気に勉学に励んでいて、明国の言葉もしゃべっていたというので、サハチも安心した。
「ムラカ(マラッカ)という国の王様が大勢の家臣を連れて来ていて、皇帝から歓迎されていたようです」とクグルーが言った。
「ムラカ? 遠くにある国か?」
「旧港(ジゥガン)(パレンバン)の近くのようです。新しくできた国のようで、噂ではシャム(タイ)の国から攻撃されているようで、明国の助けが必要みたいです」
 『ムラカ』というのは、三姉妹から聞いたような気もするが、サハチにはよくわからなかった。
「お前たち、来年もまた行って、どこにどんな国があって、どういう国なのか、そういう事をよく調べて来い」
 サハチがそう言うと二人は喜んで、来年もまた行ってきますと言った。
 進貢船の準備も一段落したサハチは、ナツと子供たちを連れて津堅島(ちきんじま)に出掛けた。子供たちを連れての旅は初めてだった。
 十三歳の次女のマチルーを筆頭に、十一歳の六男のウリー、九歳の三女のマシュー、七歳の四女のマカトゥダル、五歳の七男のナナルー、それに佐敷ヌルの十歳の娘、マユとユリの九歳の娘、マキクを連れた賑やかな旅だった。サハチは断ったが、もしもの事があったら大変だからと女子(いなぐ)サムレーが五人ついて来た。
 津堅島ではナツの年老いた祖母だけでなく、島人(しまんちゅ)全員が歓迎してくれた。太鼓や指笛が鳴り響いて、まるでお祭りのような騒ぎとなった。子供たちは島の子供たちと遊び回って、サハチたちは島人たちと酒盛りを始めた。島に一泊しただけのささやかな旅だったが、子供たちを連れての旅は楽しかった。疲れが一遍に吹き飛んだような感じがした。
 九月十日、平田グスクのお祭りが行なわれ、サハチも子供たちと一緒に見に行った。お芝居は『かぐや姫』だった。
 竹林の中に暮らしていたお爺さんとお婆さんは、ある日、竹が光っているのに気づく。不思議に思って竹を切ると、中から可愛い女の子が出て来た。竹から生まれた女の子は成長して美しい娘になり、『かぐや姫』と名付けられる。かぐや姫の美しさに惹かれて五人の男が言い寄ってくる。かぐや姫は難問を出して、かなえた人のお嫁さんになると言う。
 石屋の若按司には、『アマミキヨが使った鉢』、車屋の若按司には『ニライカナイの玉の枝』、安部(あぶ)の若按司には『火ネズミの皮衣』、大門(うふじょう)の若按司には『龍の首の玉』、中門(なかじょう)の若按司には『燕(つばめ)が産んだシビグァー(タカラガイ)』を持って来いと言う。
 五人の男たちは難題をかなえる事ができずに諦めるが、かぐや姫の美貌は王様の耳にも入って、王様が会いたいと言ってくる。かぐや姫は何度も断るが、王様は諦めきれず、不意にかぐや姫を訪ねて、その美しさに目を奪われる。王様がかぐや姫をグスクに連れて帰ろうとすると、なぜか、かぐや姫の回りには近づく事もできない。王様は連れ去る事を諦めて帰り、かぐや姫に何度も文(ふみ)を書き続ける。
 八月の満月の日、かぐや姫は月に帰らなければならないと言う。王様は帰してはならないと大勢の兵でかぐや姫を守るが、かぐや姫は月に帰ってしまう。
 五人の男が宝探しをする場面で、剣舞が行なわれ、かぐや姫が月に帰る場面では、舞台の隣りにある大きなガジュマルの木の上に満月を置いて、そこから垂らした綱に登って行くかぐや姫の姿は観客を笑わせた。それでも、枝の上に立ったかぐや姫に拍手喝采が送られた。
 かぐや姫を演じたのは、女子サムレーのチリで、『浦島之子(うらしまぬしぃ)』では乙姫(うとぅひめ)様を演じた美人(ちゅらー)で、『十二単(じゅうにひとえ)』と呼ばれるヤマトゥの華やかな着物がよく似合っていた。
 サハチは月にも人が住んでいるのかと思いながら、このお芝居は島添大里グスクのお祭りの時に観たいと思った。ササが言うには、島添大里グスクのウタキ(御嶽)は『月の神様』を祀っているという。島添大里グスクにぴったりな演目だった。東曲輪(あがりくるわ)に手頃なガジュマルの木はないが、物見櫓(ものみやぐら)を使えばできるだろう。物見櫓に仕掛けを作って、かぐや姫を吊り上げたら、もっとよくなるような気がした。
 お祭りの次の日、今年三度目の進貢船が出帆して行った。正使はサングルミー(与座大親)、サムレー大将は田名親方(だなうやかた)だった。使者の従者として、島添大里、佐敷、平田、与那原の重臣の息子たちが乗っていた。
 その日の夕方、メイユーたちが与那原から首里の屋敷に帰って来た。みんな、さっぱりとした顔付きで、メイユーは体が軽くなって、十歳は若返ったと喜んでいた。メイユーたちは首里の女子サムレーの屋敷に通って、非番の女子サムレーたちを鍛えていた。サハチは十一月に送る進貢船の準備で、また忙しくなっていた。
 次回の正使を八重瀬按司(えーじあじ)のタブチに頼もうという事に決まって、タブチを呼んで相談すると、タブチは快く引き受けてくれた。
「わしが進貢船の正使になるなんて、まるで、夢のような話じゃな」とタブチは嬉しそうに笑った。
「親父(汪英紫)は明国に行ってから、すっかり変わってしまった。当時、わしらは島添大里グスクを手に入れて、次は玉グスクを倒すつもりじゃった。ところが、明国から帰って来た親父は玉グスクを攻める事をやめて、明国との交易に力を入れた。わしは親父に付いて行けず、親父はシタルーと組んで交易をやり、わしは蚊帳(かや)の外に置かれたんじゃ。親父が亡くなって、わしはシタルーと争い、結局は山南王(さんなんおう)の座を弟に奪われてしまった。その後、じっと我慢して、中山王(ちゅうざんおう)(武寧)と手を結んで、いよいよ、山南王になれると思っていたのに、そなたに邪魔された。あの時はそなたを恨んだぞ。そなたの親父が中山王になって、首里グスクに挨拶に行った時、立派な首里グスクを見て、わしは完全に負けたと思った。そして、明国に行って、わしも親父と同じように生き方を変えたんじゃ。明国に行って、初めて親父の気持ちがわかったんじゃよ。それからは毎年、明国に行った。お陰で、八重瀬の城下も栄えている。わしが中山王の正使になった事を親父が知ったら、どんな顔をするじゃろうのう」
 サハチはタブチの父親を数回しか見ていないが、いつも険しい顔をしていたような気がする。今、気づいたが、子供の頃に見た汪英紫の顔と今のタブチの顔はよく似ているような気がした。
「八重瀬殿のお陰で助かっているのは、こちらの方ですよ。よろしくお願いいたします」とサハチは頼んだ。
「前回と同じように、米須按司(くみしあじ)と玻名(はな)グスク按司を連れて行ってもよろしいですかな」
「勿論ですよ」
「それと、真壁按司(まかびあじ)と伊敷按司(いしきあじ)も連れて行きたいんじゃが、どうじゃろう?」とタブチは言った。
「連れて行っても構いませんが、山南王から攻撃を受けるのではありませんか」
「二人はすでに隠居したんじゃよ。真壁按司は真壁より南の山の中にグスクを築いて、『山グスク大主(うふぬし)』と名乗っておる。伊敷按司は伊敷の西の海辺にグスクを築いて、『ナーグスク大主』を名乗っておるんじゃよ。隠居した者が中山王の船に乗っても、文句は言うまい」
 真壁按司と伊敷按司が新しいグスクを築いている事はウニタキから聞いていたが、まさか、隠居したとは思ってもいなかった。隠居したとはいえ、山南王を裏切れば、山南王も黙ってはいないだろう。南部で騒ぎが起こるような気がした。それでも、じわじわと山南王の領地が狭まって行くのは、五年後の今帰仁(なきじん)攻めの事を考えると、いい方向に向かっているような気もした。山南王の動きを封じ込めておかないと、ヤンバル(琉球北部)には出陣できなかった。
 サハチは隠居した真壁按司と伊敷按司渡航を了承してから、「八重瀬殿も新しいグスクを築いていたと聞いていますが完成したのですか」と聞いた。
「おう。わしもようやく、海辺のグスクを手に入れた。残念ながら港はないがのう。それでも小舟(さぶに)は置ける。今は次男のウシャに任せているが、隠居したらあそこで暮らして、のんびり釣りでも楽しもうと思っておるんじゃ」
 タブチはそう言って、嬉しそうに笑った。
 タブチの明るい笑顔を眺めながら、もう山南王になる事は諦めたのだろうかとサハチは思っていた。
 一月があっという間に過ぎて、馬天浜のお祭りがあり、その翌日、メイユーたちは帰って行った。
 馬天浜のお祭りでは、「サミガー大主、その三」のお芝居が演じられた。佐敷グスクを築いて佐敷按司となったサミガー大主の長男のサグルーは、大(うふ)グスク按司と協力して、島添大里按司になった八重瀬按司を倒そうとする。とうとう戦(いくさ)が起こって、美里之子(んざとぅぬしぃ)と佐敷按司の弟の苗代之子(なーしるぬしぃ)が活躍するが、大グスクは落城して、島添大里按司に奪われてしまう。佐敷グスクの留守を守っていたサミガー大主と孫のサハチは、無事に帰って来た佐敷按司を迎えるが、美里之子を初め多くの兵が戦死してしまった。その一とその二は、めでたしめでたしでお芝居は終わったのに、その三は辛い幕切れとなっていた。
 サハチは行けなかったが、メイユーたちはお祭りに行った。ナツも子供たちを連れて来ていたので、メイユーは子供たちとの再会を喜び、ハルとも会ってしまった。ナツはメイユーを旧港から来た人で、サハチの側室だと紹介した。ハルはメイユーを一目見て、自分よりも強いと悟り、素直に挨拶をしていた。
 メイユーたちは、荷物ごと奪い取った船は琉球に置いていった。永楽帝(えいらくてい)に命じられて役人たちが、その船を探し回っているかもしれなかった。進貢船より一回り小さい船で、サハチは朝鮮(チョソン)に行く船に使おうと思い、勝連(かちりん)から船乗りたちを呼んで操縦法を身に付けさせていた。
 今年は例年よりもメイユーと過ごす時間が多く、メイユーも側室になった事を実感していて、サハチも楽しい時を過ごしていた。楽しかった分だけ余計に別れは辛く、メイユーが去ったあと、胸にぽっかりと穴が空いたような空虚さが残った。
 三姉妹たちが帰った三日後、マウシ(山田之子)の妻のマカマドゥが首里の御内原(うーちばる)で女の子を産んだ。マウシは男の子を望んでいたが、二人目も女の子だった。それでも、マウシは嬉しそうに赤ん坊を抱いていた。
 その翌日、十月十九日には、会同館の隣りに宗玄寺(そうげんじ)が完成した。
 ヤマトゥの大寺院に比べたら、こぢんまりとしたお寺だったが、首里にできた最初のお寺として、サハチは充分に満足していた。山門には達筆で『大聖寺(だいしょうじ)』と書かれた扁額(へんがく)が掲げてあった。サハチは宗玄寺にするつもりだったが、ソウゲンが首里の最初のお寺に自分の名を付けるのは恐れ多いと言って、大聖寺に決め、ソウゲン自ら揮毫(きごう)したのだった。
 山門の中は塀で囲まれていて、本堂と法堂と庫裏(くり)があった。本堂には御本尊のお釈迦(しゃか)様がいて、法堂は子供たちに読み書きを教える所、庫裏は住職のソウゲンの住まいだった。本堂、法堂、庫裏のあちこちに、新助の彫った龍が建物を守っているかのごとく飾られてあった。
 シビーの弟のグラーは馬天浜から島添大里に通って、ソウゲンから読み書きを習っていた。禅僧に興味を持っていて、以前からソウゲンに弟子にしてくれと頼んでいた。ソウゲンは弟子を取るつもりなどなかったが、お寺ができれば、跡を継ぐ者が必要だった。ソウゲンは七十の半ばを過ぎ、先はそう長くはない。グラーを弟子にして鍛えて、跡を継がせようと考えた。半年前にグラーは頭を丸めてソウゲンの弟子となり、エイスク(裔則)と名乗っていた。
 御本尊のお釈迦様を掘ったのは思紹(ししょう)(中山王)だった。新助と栄泉坊から詳しい様子を聞いて、龍天閣(りゅうてぃんかく)の二階で彫っていた。完成するまで、誰も見てはいかんと言って、戸を閉め切った中で黙々と彫っていた。
 高さ三尺(約九〇センチ)ほどで、座禅を組んでいるお釈迦様は、どことなく祖父のサミガー大主に似た顔付きで、威厳があり、そして、暖かみもある神々しい姿をしていた。お釈迦様の回りには朝鮮から持って来た小さな仏像が並んでいた。
 その日、本堂で開眼供養(かいげんくよう)が行なわれた。ソウゲン禅師、ナンセン(南泉)禅師、慈恩禅師の三人によってお経が読まれ、大勢の人が集まって来て、お祭り騒ぎになった。
 その夜、遊女屋(じゅりぬやー)『宇久真(うくま)』で慰労の宴(うたげ)が開かれて、一徹平郎(いってつへいろう)、源五郎、新助の三人と大聖寺の普請に従事した主立った職人たちを招待した。半月ほど休んだら、次は南泉寺だった。ナンセン禅師は、南泉寺は僧侶を育てるお寺にしようと言って、修行するには郊外の方がいいだろうと首里グスクとビンダキ(弁ヶ岳)の中間辺りに建てる事に決まった。もう整地も終わって、材木もまもなくヤンバルから届くだろう。首里の都造りは順調に進んでいた。
 十一月十二日、四度目の進貢船を送り出して、サハチは島添大里グスクに帰った。山北王(さんほくおう)(攀安知)の娘をお嫁に迎えるチューマチが入る予定の新しいグスクの進行状況を見ていた時、侍女のマーミが来て、ウニタキ(三星大親)が『まるずや』で待っていると知らせた。
 三姉妹が帰ってから一月近く、ウニタキとは会っていなかった。多分、ヤンバルから帰って来たのだろう。サハチは城下の『まるずや』に向かった。
 『まるずや』に行くのも久し振りだった。明国から帰って来て、ナツにお土産を持って行った時以来だった。島添大里グスクにはハルがいるので、ウニタキと会うわけにはいかなかった。
 馬天浜のお祭りのあと、島添大里グスクに帰って来たハルは相変わらず、佐敷ヌルと一緒にいて、お芝居の事を色々と学んでいた。この時期、佐敷ヌルはユリと一緒に、新作のお芝居の構想を練っていた。
 以前、古着屋だった『まるずや』は、古着だけでなく、色々な物を売っていた。ナツが一人でやっていた時とは違って、女主人と売り子の娘も二人いた。女主人の案内で、店の裏にある屋敷に行くと、縁側で絵地図を眺めていたウニタキは、サハチを見ると手を上げた。
「また、ここを使うようになるとは思わなかったよ」とウニタキは言った。
「今、店の者がここで暮らしているんだ」と言って、ウニタキは女主人のサチルーを紹介した。佐敷出身で、マチルギの弟子だという。
「知っているか」とウニタキは聞いたが、サハチは知らなかった。
「佐敷の女子サムレーのカリーと同期らしい」
 カリーはサハチも知っていた。佐敷の女子サムレーの三番組の隊長だった。カリーにしろ、サチルーにしろ三十歳に近かった。お嫁にも行かずに、中山王のために働いてくれるのは本当にありがたい事だった。
「よろしくな」とサハチはサチルーに言った。
 サチルーは頭を下げると下がって行った。ウニタキはニヤニヤ笑っていた。
「何がおかしいんだ?」とサハチはウニタキに聞いた。
「何でもないよ」とウニタキは手を振った。
 サハチは縁側に座ると、「『綿布屋(めんぷやー)』の様子はどうなんだ?」とウニタキに聞いた。
 『綿布屋』は朝鮮の綿布を売る店で、中山王が今帰仁に出した店だった。首里二番組のサムレーだったウトゥジが主人となり、女子サムレーを三人連れて行った。
「評判はいいぞ」とウニタキは言った。
「綿布は丈夫だからな。使い道は色々ある。ウトゥジもなかなか商売がうまい。サムレーより商人の方が向いているようだ」
「奴はウミンチュ(漁師)の倅で、子供の頃、母親が市場で魚を売るのをよく見ていたそうだ」
「そうか。母親が商売上手だったんだな」
 サハチはうなづいて、
「『まるずや』も今帰仁に出したのか」と聞いた。
「ああ、山田の『まるずや』の主人だったマイチに任せた。マイチはヤンバルの生まれなんだ。故郷に帰れたのが嬉しくて、毎日、出歩いているよ」
「出歩いている?」
「行商(ぎょうしょう)さ。羽地(はにじ)、名護(なぐ)、国頭(くんじゃん)と行って、按司と会って商売をまとめてきた」
「なに、按司に会って来たのか。よく会えたな」
 ウニタキは笑って、「ンマムイ(兼グスク按司)と一緒に行ったのさ」と言った。
「ンマムイも今帰仁に行っていたのか」
「頼んだら、快く引き受けてくれたよ」
「最近、姿を見ないと思ったら、ヤンバルに行っていたのか。それで、奴は帰って来たのか」
「一緒に帰って来たんだが、今、勝連にいる」
「勝連?」
「勝連の若按司の嫁さんは奴の姪(めい)なんだ。姪に武当拳(ウーダンけん)を教えてくれと頼まれて、勝連の娘たちに武当拳を教えている。若い娘たちに囲まれて、ニヤニヤしているよ」
「相変わらず、フラフラしている奴だな」
「奴のお陰で、ヤンバルの按司たちとの商売はうまく行ったんだよ。羽地按司とは米の取り引きをまとめて、名護按司とはピトゥ(イルカ)の塩漬けの取り引きをまとめ、国頭按司とは材木の取り引きをまとめた。三人とも明国の商品が欲しいんだよ」
「国頭按司と直接、材木の取り引きをしたら、山北王が怒るだろう」
「それが狙いさ。山北王を怒らせて対立させ、国頭按司を味方に引き入れるのさ」
「成程。そいつはうまく行きそうだな。しかし、手に入れた材木や米を運ぶのは大変だぞ」
「お前の親父が船も明国の商品も提供してくれた。すでに運天泊(うんてぃんどぅまい)に入っている。来月になったらたっぷりと荷物を積んで帰って来るよ」
「うまくやってくれよ。お前はまたヤンバルに行くのか」
「最初の取り引きだからな。俺も陰ながら立ち会うつもりだ。旅芸人たちを連れてヤンバルに行ってくる」
「馬天浜で旅芸人たちが演じた『瓜太郎(ういたるー)』は見事だったぞ。あれなら、どこに行っても恥ずかしくない」
「ああ、みんな、よくやってくれたよ。『浦島之子(うらしまぬしぃ)』と『瓜太郎』と二つの演目があれば充分だ。ヤンバルの小さな村(しま)の人たちが喜んで迎えてくれるだろう。話は変わるが、お寺(うてぃら)が完成したようだな」
「ああ、立派なお寺だよ」
「お寺が完成したのはいいが、ソウゲンが首里に行ってしまったら、誰が読み書きを教えるんだ? ここから首里まで通えまい」
「心配はいらんよ。クルシがヤマトゥから帰って来たら、ここで読み書きを教えてくれる事になっている」
「なに、黒瀬大親(くるしうふや)が子供たちに教えるのか」
「クルシももう六十の半ばになる。船旅がきつくなったと言っていた。それで、子供たちに読み書きを教えてくれって頼んだんだ。読み書きだけでなく、航海の事も教えてくれって頼んだ」
「そうか、そいつはいい。いい船乗りが育つだろう。俺の息子たちも船乗りになりたいと言っていた」
「言い忘れていたが、来年、ウニタルとシングルー(佐敷大親の長男)をヤマトゥに送るつもりだ」
「なに、ウニタルをか。ウニタルもヤマトゥに行く年齢(とし)になったんだな。ヤマトゥ旅から帰って来たら、お前の娘をお嫁にもらうか」
「まだ早い」とサハチは手を振った。
「マチルーはまだ十三だ。お嫁に行くのは十六になってからでいい」
「お嫁に出したくないんだろう」と言って、ウニタキはサハチの顔を見ながら笑っていた。

 

 

 

中国が海を支配したとき―鄭和とその時代 (ヒストリー・ブック・シリーズ)   中国人の南方見聞録―瀛涯勝覧

2-96.奄美大島のクユー一族(改訂決定稿)

 中山王(ちゅうさんおう)(思紹)と山北王(さんほくおう)(攀安知)の同盟を決めるために、今帰仁(なきじん)に来たンマムイ(兼グスク按司)を見送った本部(むとぅぶ)のテーラー(瀬底之子)は、その三日後、奄美大島(あまみうふしま)攻めの大将として二百人の兵を引き連れて、進貢船(しんくんしん)に乗って奄美大島に向かった。新たに奄美按司に任命された志慶真(しじま)のシルータも、五十人の兵を率いて別の船で従った。
 明国(みんこく)から賜わった進貢船は進貢には使われず、兵を送る船として使われていた。その大型の船は奄美大島の浦々に住む島人(しまんちゅ)たちを驚かせ、無駄な争いをする事なく、支配下に組み入れるのに役に立っていた。
 二年前にテーラーは湧川大主(わくがーうふぬし)と一緒に奄美大島を攻めて、島の北部を支配下にした。去年は本部大主(むとぅぶうふぬし)と奄美按司奄美大島の南部を攻めたが、『クユー一族』にやられて、本部大主は戦死し、兵の半数余りを失って帰って来た。
 今年は三度目の奄美大島攻めだった。いつまでも奄美大島に関わってはいられない。今年こそは、奄美大島すべてを支配下にしなければならなかった。
 二年前に攻めた時、最初に上陸したのは北部にある浦上(うらがん)(名瀬)だった。今帰仁に来るヤマトゥンチュ(日本人)から、浦上が一番栄えていると聞いていたからだった。
 浦上には、領主として平家の流れを汲む孫六(まごろく)という男がいた。今帰仁按司の先祖も平家だし、テーラーという名も平(たいら)がなまったものだった。同じ先祖だという事で孫六と話し合って、うまく話はまとまった。孫六今帰仁按司の家臣となって、以前のごとく、浦上の領主としてヤマトゥ(日本)との交易を助ける事に決まった。
 テーラーと湧川大主は浦上を拠点に、まず北へと向かった。阿木名(あきにゃ)(秋名)、嘉渡(かどぅ)、円(いん)、瀬花留部(しるべ)、浦(うら)、芦徳(あっしょ)、赤尾木(ほーげ)、喜瀬(きし)、手花部(てぃーぶ)と小さな浦々を巡って、支配下に組み入れた。皆、進貢船を見て驚き、小舟(さぶに)に乗って近づいて行っても、抵抗する者たちはいなかった。話がまとまると、明国の陶器やヤマトゥの刀などを贈って喜ばれた。
 夜になれば、ささやかな宴(うたげ)が開かれて、大した物はないが精一杯の御馳走を用意してくれた。手作りの酒を出してくれるが、はっきり言ってうまくはなく、今帰仁から持って来たヤマトゥの酒を浦の者たちにも配って、楽しい夜を過ごした。そして、その浦自慢の美女が大将のテーラーと湧川大主の夜伽(よとぎ)として提供された。二人とも遠慮したが、この島の風習だというので、遠慮なく可愛い娘と一夜を共にした。どこの浦に行ってもそんな有様なので、戦(いくさ)に来たのか、遊びに来たのかわからない状況だった。
 赤木名(はっきな)で最初の抵抗を受けた。上陸したあと突然、武装した敵兵に囲まれた。浦上の孫六から赤木名は気を付けろと言われていた。ヤマトゥの南朝(なんちょう)の残党が住み着いて、海賊働きをしているという。
 テーラーたちも警戒して、二手に分かれて攻撃する事にした。湧川大主は海上から行き、テーラーは手前の手花部に上陸して、山を越えて赤木名に向かった。途中に広い川があったが何とか渡って、敵を挟み撃ちにする事ができた。敵は混乱に陥って、山の上のグスクに逃げ込んだ。グスクといっても石垣はなく、堀と土塁に囲まれたグスクだった。攻め落とすのに一月余りも掛かり、負傷者も出て、戦後処理にも手間取った。
 浦の長老の話では、ヤマトゥのサムレーたちがやって来たのは四十年前だという。九州の征西府(せいせいふ)のサムレーで、将軍宮(しょうぐんみや)様(懐良親王(かねよししんのう))が明国と交易するために、ここを中継基地にしたらしい。その頃はヤマトゥから明国に行く船が、ここで水の補給をして南に向かい、明国の使者を乗せた大きな船も来た事があった。
 将軍宮様が亡くなると明国に向かう南朝の船は来なくなったが、琉球に向かう倭寇(わこう)の船がやって来るようになった。ここにいたサムレーたちはヤマトゥに帰る事なく、ここに落ち着いて、琉球に向かう船の世話をしていた。
 二十年位前までは、港に入って来る船がかなりあって栄えていたが、だんだんとその船も減ってきた。倭寇たちがそれぞれ拠点を作って、そこで水の補給や風待ちをするようになったのだった。最近では港に入って来た船を襲って、荷物を奪い取るという海賊まがいの事までしていて、今回もいいカモが来たと襲ったのだという。
 首領の名和小五郎は二代目で、子供の頃から暴れ者で、父親が亡くなってからはもうやりたい放題で、浦の人たちも困っていた。退治してくれて本当に助かったと長老はお礼を言った。
 二か月余りも滞在した赤木名をあとにしたテーラーたちは屋仁(やん)に着いたが、雲行きが怪しくなって来た。赤尾木まで戻って、台風をやり過ごした。波が治まるのを待って、再び北上して、屋仁と佐仁(さん)を支配下に置き、最北端の笠利崎(かさんざき)を回って南下した。辺留(ぶる)が倭寇の拠点になっていて、ここでも戦になった。ここにも小高い山にグスクがあって、それを落とすのに手間取った。
 倭寇を倒して、辺留を出たのは十一月の半ばになっていた。その後、万屋(まにや)、和野(わの)、湯湾(ゆわん)(用安)を支配下にして、戸口(とぅぐち)に着いた。
 戸口にも平家の流れを汲む左馬頭(さまのかみ)というサムレーがいた。浦上の孫六から知らせがあって、テーラーたちが来るのを待っていたと歓迎してくれた。左馬頭から加計呂麻島(かきるまじま)の諸鈍(しゅどぅん)という所に、小松殿(くまちどぅん)という同族がいる事を知らされた。きっと、歓迎してくれるだろうと言った。
 戸口をあとにして、古見(くみ)(小湊)、和瀬(わすぃ)、山間(やんま)を支配下に入れ、十二月になってしまったので、そこから南下して加計呂麻島の諸鈍に行った。
 諸鈍の小松殿はテーラーたちを歓迎してくれた。小松殿の屋敷には書物が山のようにあって、かなりの物知りだった。小松殿の博学はヤマトゥンチュたちにも有名で、琉球に行く倭寇たちも小松殿に会うために、諸鈍に寄って行く船もあるらしい。
 小松殿の先祖は、新三位(しんざんみ)の中将(ちゅうじょう)と呼ばれた平資盛(たいらのすけもり)で、浦上の孫六の先祖は資盛の弟で、小松の少将と呼ばれた有盛(ありもり)、戸口の左馬頭の先祖は資盛の従弟(いとこ)の左馬頭行盛(ゆきもり)で、三人は壇ノ浦の合戦で敗れて、奄美大島まで逃げて来た。そして、今帰仁按司の先祖は資盛の兄で、小松の中将と呼ばれた平維盛(たいらのこれもり)だという。
 テーラーも湧川大主も驚いた。志慶真(しじま)の長老も、今帰仁に来た平家の武将の名前は知らなかった。
「初代の今帰仁按司平維盛という御方だったのですか」と湧川大主は聞き返した。
「わしらの先祖の資盛殿は、筆まめな御方で多くの記録を残しておるんじゃよ。それを代々書き写して、わしの代まで伝えて来たんじゃ。資盛殿の記録によると、壇ノ浦の合戦のあと、生き残った平家の者たちは各地に散って行った。そして、源氏の追っ手から逃げるために、皆、名前を隠して隠れ住んでいた。琉球にも平家の者がいるとの噂は流れていて、壇ノ浦の合戦から二十年近く経った頃、資盛殿は琉球に行って、今帰仁按司と会ったらしい。そしたら、それが兄の維盛殿だったので、驚くと共に再会を喜んだようじゃ。二人が会ったのはその時が一度だけじゃった。資盛殿は兄と会った事は誰にも話さず、記録に残したが、その記録も百年間は極秘として、代々伝えられたようじゃ」
平維盛という御方は、どのようなお人なのですか」とテーラーは聞いた。
「平家と源氏が争っていた二百年余りも前の事じゃ。平家の大将は平清盛(たいらのきよもり)という御方じゃった。清盛殿の嫡男が重盛(しげもり)殿で、重盛殿の長男が維盛殿なんじゃよ。次男がわしの先祖の資盛殿じゃ。維盛殿は平家の総大将として源氏と戦ったが、時の勢いか、負け戦が続いて、とうとう平家は京都を追われてしまった。維盛殿は壇ノ浦の合戦の前、行方知れずになり、熊野に行って入水(じゅすい)自殺をはかったと噂されていたそうじゃ。熊野水軍の力を借りて琉球まで逃げて来たようじゃな。ついでに言うと、維盛殿は光源氏(ひかるげんじ)の再来と言われるほどの美男子だったそうじゃ」
 光源氏が誰だかテーラーも湧川大主も知らないが、御先祖様が美男子だったと聞いて、二人は顔を見合わせて喜んだ。
 小松殿と別れて、テーラーたちが今帰仁に帰ったのは十二月の半ばを過ぎていた。
 去年の奄美大島攻めは、山北王の叔父、本部大主を大将として、奄美按司に任命された羽地按司(はにじあじ)の次男が一緒に行った。湧川大主もテーラーも行くつもりだったが行けなかった。交易担当の湧川大主がいないと山北王が忙しくなるので、湧川大主は行ってはならんと命じられ、テーラーは山北王の側室に手を出して謹慎になってしまった。小松殿の話では山ばかりの南部には、山北王に抵抗する者はいないだろうと言っていた。叔父の本部大主は苦労する事なく、奄美大島を平定して帰って来るだろうとテーラーは思っていたのに、戦死してしまった。
 クユー一族にやられたという。クユー一族なんて聞いた事もなかった。
 去年、今帰仁を発った本部大主たちは、まず諸鈍(しゅどぅん)に行って小松殿に挨拶をして、二手に分かれた。奄美按司は本拠地を造るために赤木名(はっきな)に向かった。赤木名は深い入り江を持つ笠利湾に面していて、台風時の避難場所になり、川が流れているので水も豊富で、山の上にはグスクもある。前年の戦の時にグスク内の屋敷は焼け落ちてしまったが、屋敷を再建して、堀と土塁も強化すれば、充分に使えた。それに、奄美大島の次に攻める鬼界島(ききゃじま)(喜界島)にも近いので、鬼界島攻めの拠点としても使えた。奄美按司の居場所として、最も適した場所だった。
 本部大主は、諸鈍から加計呂麻島奄美大島の間にある大島海峡に入って、奄美大島側の浦々を東から西へと寄って行った。抵抗を受ける事はなく、どこでも歓迎された。テーラーたちが北部の浦々を巡った時と同じように、どこでも精一杯のもてなしをしてくれ、夜伽の娘も提供された。初めのうちは戸惑っていた本部大主もだんだんと慣れていき、自分でも知らぬ間に横柄な態度を取るようになって行った。
 何の問題も起こらず、大島海峡を抜けて、島の西側を北上して行った。各浦々を支配下に置いて、浦上に着いたのは八月の下旬で、孫六に歓迎されて、旅の疲れを取ったあと、赤木名に向かった。
 奄美大島で残っているのは東側の南部、山間(やんま)から大島海峡までのいくつかの浦だけとなり、あとは加計呂麻島だけだった。十二月に奄美按司と諸鈍で落ち合う約束をして、本部大主が赤木名を出たのは九月の初めだった。笠利崎(かさんざき)を回って南下して、辺留に寄って、戸口(とぅぐち)に寄り、山間の次にある嘉徳(かどぅ)、節子(すぃっこ)を支配下にして、次の勝浦(かっちゅら)で、クユー一族の攻撃に遭って本部大主は戦死した。半数以上の兵を失い、諸鈍に行き、赤木名に使者を送って、本部大主の死を知らせた。十一月の初めに諸鈍に来た奄美按司は、勝浦を攻める事なく今帰仁に帰ったのだった。
 テーラーは生き残った武将から当時の様子を聞いたが、詳しい事情はよくわからなかった。
 進貢船には百人の兵が乗っていて、どこの浦に行っても、そこに二泊する事になっていて、五十人づつ交替で船を降りて浦に泊まった。降りた兵たちは浦の人たちに歓迎されて、中には浦の娘と仲よくなる果報者(かほうもの)もいた。その日もいつもと変わった事は何もなかったのに、決まった時刻になっても、先に上陸した兵たちは戻って来なかった。おかしいと思って様子を見に行った者も戻っては来ない。これはただ事ではないと武装した兵を送ったが、その兵も帰って来る事はなく、これ以上、戦死者を増やすわけにはいかないと退却したのだという。
 諸鈍の小松殿に聞いたら、勝浦には『クユー一族』と名乗る琉球から来た者が住んでいると言った。五、六年前にやって来て、あそこに住み着いたが、詳しい事はわからない。戦に敗れて逃げて来たようだ。諸鈍のウミンチュ(漁師)であそこに行った者がいて、歓迎してくれたらしい。その浦には、男よりも女がやけに多くいて、いい思いをして帰って来たと、そのウミンチュはニヤニヤしたという。
 本部大主と五十人の兵が上陸して、何かが起こって、皆殺しにされたようだった。クユー一族が何人いるのかわからないが、二百人の兵で攻め込めば、倒す事ができるだろうとテーラーは思った。
 今帰仁を船出したテーラーたちは与論島(ゆんぬじま)に寄って、新しい与論按司(ゆんぬあじ)の様子を見て、永良部島(いらぶじま)(沖永良部島)に行くと、奄美大島の浦上の孫六の弟の孫八がいた。
 どうして、ここにいるんだと聞いたら、永良部の若按司と気が合って、ここに住む事に決めたという。すでに家族も呼んであり、今、グスクを築いていた。
「謹慎は解けたようですね」と孫八は笑った。
 テーラーたちが奄美大島から帰った何日かして、孫八は兄の代理で今帰仁に来て、山北王と会って臣下の礼を取っていた。孫八が今帰仁に滞在中にテーラーは謹慎となり、本部に帰ったのだった。
「まあな。ちょっとひと休みしただけさ」とテーラーは笑った。
 孫八と別れて、徳之島(とぅくぬしま)に寄って、徳之島按司と会い、加計呂麻島の諸鈍に寄って、小松殿と再会した。奄美按司と諸鈍で別れて、奄美按司は本拠地造りのために赤木名(はっきな)に向かい、テーラーは勝浦(かっちゅら)に向かった。
 勝浦は入り江の奥にあり、様子を見るため手前にある節子(すぃっこ)という浦に入った。勝浦と節子の間には岬が飛び出していて、船を隠す事ができた。節子に上陸して、山に登って勝浦を見たが、武器を持って待ち構えている様子はなかった。
 テーラーは百人の兵を陸路で勝浦に向かわせ、山の中で待機するように命じた。時間を見計らって、テーラーは勝浦に向かった。沖に船を泊めると五十人の兵を率いて、小舟に乗って勝浦に向かった。砂浜に出て来る人影は見えたが、武器を持っている様子はなく、弓矢が飛んで来る事もなかった。
 テーラーたちは次々に上陸した。敵が攻撃を仕掛ければ、挟み撃ちにする手はずになっていた。
 五十人の兵を出迎えたのは、長老らしい年寄りと首領らしい男だった。二人とも武器は持っていなかった。数人のウミンチュらしい男たちが、遠くで成り行きを見守っていた。
「敵討(かたきう)ちに来られたのですかな」と長老が言った。
「なぜ、本部大主と五十人の兵を殺したんだ?」とテーラーは聞いた。
「本部大主様を殺したのは、無礼な態度を取ったからでございます。五十人の兵を殺したのは、わしらが生き残るためでございます」
「無礼な態度を取ったとは、どういう事だ?」
「酔っ払った本部大主様は、わしらの主人に言い寄って、強引に夜伽(よとぎ)をさせようと迫ったのでございます」
「そなたの主人というのは女なのか」
琉球のさる按司の奥方様(うなじゃら)だったお人でございます。一緒にいた息子が堪(こら)えきれずに、無礼者めと斬ってしまったのでございます」
「なに、倅の前で、母親に迫ったのか」
 そう言って、テーラーは首を振った。
 本部大主はテーラーの叔母の夫で、琉球にいた頃は堅物(かたぶつ)と言ってもいい程、女遊びなどしない真面目な男だった。浦々を巡って、ちやほやされて、人が変わってしまったようだった。
「本部大主を殺した理由はわかった。そなたの言う通りなら、本部大主が悪い。倅に斬られても仕方がないとも言える。五十人の兵はどうして殺したんだ?」
「その宴席には、本部大主様の供として五人のサムレーがおりました。本部大主が斬られるのを目の前で見て、皆、呆然としておりました。わしらも勿論、呆然としておりました。本部大主を殺した倅は仲間に合図をして、その五人も殺してしまったのでございます。さて、これからどうしたらいいのか考えました。五十人の兵たちは別の場所で酒盛りをしております。大将が殺された事を知れば、わしらは皆殺しにされると思ったのでございます。それで、眠っている所を襲って、全員を殺したのでございます」
「成程のう。話の筋は通っているが、兵士に飲ませた酒はどうしたのじゃ。そんな大量の酒を持っていたのか」
「わしらは酒など持っておりません。船から持って来て飲んでいたのでございます。この島を支配下にしたお祝いじゃと言っておりました」
 ここが最後の浦だったのかとテーラーは納得した。本部大主にヤマトゥの酒を大量に持って行けと言ったのはテーラーだった。奄美大島の者たちにうまい酒を飲ませてやれとも言った。あんな事を言わなければよかったと後悔した。それにしても、最後のお祝いで亡くなってしまうなんて、あまりにも哀れな事だった。
「どうなさる?」と長老が聞いた。
「わしらを討ち取るかね?」
「難しいところじゃな。原因を作ったのは本部大主だが、殺された五十人の兵たちには殺される理由などないからのう」
 テーラーは女主人に会ってみる事にした。兵たちを浜辺に待機させて、二人の供を連れただけで、長老たちに従った。
 女主人は奥方様と呼ばれるにふさわしい上品な顔付きをした美人だった。酔っ払った本部大主が口説いたわけもわかる気がした。テーラーよりも年上のようだが、魅力的な女だった。息子らしい二十歳前後の男と娘なのか、若いヌルも一緒にいた。
「ウトゥミと申します」と女主人が言ったので、
「山北王の家臣、瀬底之子(しーくぬしぃ)と申します」とテーラーも名乗った。
「事の成り行きは聞いたと思いますが、叔父が言った通りでございます」
「話はわかったが、そうでござるかと帰るわけにはいかん。殺された兵たちには家族がいる。家族たちに敵(かたき)を討って来ると言って出て来たんだからな」
 ウトゥミが急に手を叩いた。
 女たちがぞろぞろと現れた。皆、大きなお腹をしていた。
「あの時、できた子供たちです」とウトゥミが言った。
「あの時?」
「五十人の兵たち全員に夜伽の女を付けたのです。そのうち十八人が子宝に恵まれました」
「なに、五十人の兵たち全員に、女をあてがったのか」
「わたくしどもは兵たちを大歓迎で迎え入れたのです。あの事件さえ起きなければ、皆、満足して帰って行ったはずです」
「そうか」と言って、テーラーは女たちを見た。若い娘たちがほとんどだった。
「どうして、娘たちを兵たちに提供したのです?」
「一族を増やすために、子供が欲しいのでございます。戦でほとんどの男が戦死してしまいました。男手を増やさなければなりません」
「成程」と言って、テーラーは腕を組んだ。
 まったく、叔父の不始末で五十人の兵が殺されるなんて情けない事だった。しかし、何とか、けりをつけなければならなかった。
「ところで、クユーとはどういう意味ですか」とテーラーは聞いた。
「クユーとは九つの星の事でございます」と長老が答えた。
「クユー紋(九曜紋)という家紋があって、ヤマトゥから来たわしらの先祖がそれを使っていたそうです」
「あなた方の御先祖はヤマトゥから来られたのですか」
「もう昔の事ですよ」とウトゥミが言った。
琉球按司の奥方様だったと聞きましたが、どちらの按司だったのか教えていただけないでしょうか」
「それは‥‥‥」と言って、ウトゥミは口ごもった。
「もし、復帰を狙っているのであれば、山北王としても手助けができるかもしれません」
 ウトゥミは長老と顔を見合わせてから、「勝連(かちりん)です」と答えた。
 意外な答えだった。テーラーは先代の中山王の奥方ではないかと思っていた。勝連では立て続けに按司が代わったと聞いている。奇病に罹って亡くなった按司もいた。詳しい事情はわからないが、内部でもめ事があったのかもしれない。今の勝連は中山王の親戚が按司になっている。中山王を倒す時、勝連の残党なら利用できるに違いないとテーラーは思った。
 半時(はんとき)(一時間)ほど経って、テーラーは血の滴る生首と朱鞘の刀を持って外に出て来た。
「本部大主を殺した奴の生首だ」とテーラーは待機していた兵たちに向かって生首をかかげた。
「これで、すべて解決じゃ。こいつが本部大主を斬ったこの刀を今帰仁に持って帰る。山北王も納得してくれるだろう」
 生首を持って帰っても腐ってしまうので、丁重に弔(とむら)ってやれと言って返した。
「引き上げるぞ」と言うと、テーラーは兵たちを引き連れて勝浦から去って行った。
 生首はウトゥミの倅の首ではなかった。掟(おきて)を破って、ここから逃げ出そうとした若者が数日前に捕まって、穴蔵に閉じ込められていた。そいつの首を斬って、本部大主を斬った下手人(げしゅにん)に仕立てたのだった。

 

 

 

復刻 大奄美史   奄美の歴史入門

2-95.新宮の十郎(改訂決定稿)

 熊野の本宮(ほんぐう)から新宮(しんぐう)までは船だった。淀川下りのようにお酒を飲みながら、のんびりできるとササたちは思っていたが、山の中の川はそんな甘くはなかった。
 淀川のような大きな船ではなく、四、五人乗りの小さな舟で、曲がりくねった川を下った。流れは穏やかだったが、突然、急流になったりして、舟が揺れるのでお酒なんか飲めなかった。それでも天気に恵まれて、あちこちにある滝を見たりして、楽しい舟旅だった。
 新宮に着くと新宮孫十が待っていた。鈴木庄司から知らせがあって、御台所様(みだいどころさま)一行が来るのを待っていたという。孫十の案内で、宿坊(しゅくぼう)が建ち並んで賑やかに人々が行き交う参道を通って、『速玉大社(はやたまたいしゃ)』をお参りした。境内(けいだい)の中にはいくつも神社があって、住心院(じゅうしんいん)殿の言われるままにお参りをした。ここにも古い神様はいっぱいいるようだが、異国のササたちに語り掛けてくる神様はいなかった。
 速玉大社の近くにある大きな宿坊に入ると、ササは孫十から新宮の十郎の事を聞いた。孫十の話は、鈴木庄司から聞いた話とほとんど同じだった。十郎が琉球に行ったかどうかはわからないが、当時、熊野水軍が奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)の藤原氏のために琉球に行っていたのは事実だという。
 平泉の藤原氏が滅んだあとは、琉球に行く事もなくなって、鎌倉幕府のために働き、南北朝の争いの時は南朝のために働いた。今は京都の将軍様足利義持)のために働いているという。そして、十郎の姉の『丹鶴姫(たんかくひめ)』の事を詳しく知っていた。
 かつて熊野を支配していた熊野別当(くまのべっとう)は、今は消滅してしまったが、十郎が生きていた時代、絶大な力を持っていた。丹鶴姫は十六代熊野別当長範(ちょうはん)の長男、行範(ぎょうはん)に嫁いだ。行範は長い間、権別当(ごんのべっとう)を務めて、晩年に十九代別当になっている。丹鶴姫が生んだ長女は、十八代別当湛快(たんかい)の次男で、二十一代別当湛増(たんぞう)に嫁いだ。長男の範誉(はんよ)は那智執行(なちしぎょう)を務め、三男の行快(ぎょうかい)は弓矢の名手であり、二十二代別当となった。四男の範命(はんめい)は二十三代別当となり、六男の行遍(ぎょうへん)は歌人として有名になっている。
 長女が湛増に嫁ぐ二年前、父の源為義(みなもとのためよし)が保元(ほうげん)の乱で戦死した。そして、長女が嫁いだ翌年、平治(へいじ)の乱で、長兄の義朝(よしとも)を初めとした兄弟がほとんど戦死してしまった。生き残ったのは常陸(ひたち)(茨城県)にいる三郎義広(よしひろ)と、伊豆大島に流されている八郎為朝(ためとも)、そして、新宮にいる十郎義盛(よしもり)だけになってしまった。十一年後には、八郎為朝も伊豆大島で殺された。
 晩年になって別当に就任した夫の行範は、別当になってから一年後に亡くなった。夫が亡くなると、丹鶴姫は出家して『鳥居禅尼(とりいぜんに)』と称して、菩提寺(ぼだいじ)として東仙寺(とうせんじ)を創建する。夫や戦死した父や兄弟を弔いながらも源氏の再興を祈り、山伏たちを使って各地の情報を集めていた。京都にいる摂津(せっつ)源氏の頼政(よりまさ)とも連絡を取り合い、後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨(りょうじ)を下す事を知ると、弟の十郎を京都に送り出した。この時、鳥居禅尼は父が速玉大社に奉納した源氏の宝刀を十郎に渡して、必ず、平家を倒して来いと言ったという。
 作戦が平家に漏れて、以仁王頼政は戦死してしまうが、十郎の活躍で各地の源氏が立ち上がった。伊豆に流されていた義朝の嫡男の頼朝(よりとも)、奥州平泉にいた頼朝の弟の義経(よしつね)、信濃木曽義仲、十郎も加わって、平家を京都から追い出した。
 壇ノ浦の合戦の時の熊野別当は、鳥居禅尼の娘婿の湛増で、初めは平家の味方をしていたが、鳥居禅尼に説得されて源氏方となり、熊野水軍を率いて壇ノ浦に行き、平家を滅ぼしている。
「丹鶴姫様と十郎様は、新宮が誇れる英雄でございます」と孫十は力を込めて言った。
「丹鶴姫様が住んでおられたお屋敷はなくなってしまいましたが、東仙寺がある山は『丹鶴山』と名付けられて、新宮の者たちは決して、お二人の事を忘れてはおりません」
 翌日は新宮に滞在して、熊野別当の屋敷跡地や丹鶴山に登って、十郎と丹鶴姫を忍んだ。
 十郎が琉球に行った事は確認できなかったが、十郎の活躍で平家を倒した事はわかった。久高島(くだかじま)の大里(うふざとぅ)ヌルも納得してくれるだろう、と丹鶴山から景色を眺めながらササは思っていた。
 玉依姫(たまよりひめ)が言っていたスサノオが祀られている山は、『神倉山(かみくらやま)』と呼ばれていた。神倉山の裾野にはお寺や僧坊が建ち並び、大勢の山伏がいた。その中にある『妙心寺』という尼寺は、熊野の比丘尼(びくに)たちを仕切っていて、住持の妙祐尼(みょうゆうに)は高橋殿の知り合いだという。熊野の比丘尼は絵解き比丘尼とも呼ばれていて、極楽図や地獄図を描いた絵巻物を持って旅をして、歌を歌いながら熊野信仰を各地に広めていた。
 妙心寺に寄って、おいしいお茶とお菓子を御馳走になり、神倉山に登った。急な石段を登って行くと、山の中腹に巨大な石があった。まるで、琉球のウタキ(御嶽)のようだった。
「昔は立派な神社がここにもあったんだけど、戦(いくさ)で焼かれてしまったわ。妙祐尼様は神社を再建しようと頑張っているんだけど、なかなか難しいみたいね」と高橋殿が言った。
 ササたちは巨大な石の下にひざまずいてお祈りをした。
「遅いぞ」と神様が言った。
 スサノオの声だった。ササは驚いて、体を震わせた。スサノオを祀っている山なので、スサノオがいるのは当然と言えるが、ここに来るまでスサノオの声を聞いていなかったので、スサノオは京都にいると思っていた。まさか、ここにいたなんて思いもしない事だった。
「あたしが連れて来たのよ」とユンヌ姫も一緒にいた。
「色々とお世話になったから恩返しよ。新宮の十郎も一緒よ」
「えっ!」とササはまた驚いた。十郎と会えるなんて考えてもいなかった。
「ユンヌ姫から聞いたぞ」とスサノオが言った。
琉球に行った男を捜しているそうじゃのう。この地から琉球に行った男は何人もおる。また、琉球からこの地に来た者も何人もおる。お前が探している新宮の十郎とやらを探すのは容易な事ではないと思ったが、丹鶴姫の弟じゃという事で、何とか見つける事ができたんじゃよ」
「丹鶴姫様を知っていたのですか」
「丹鶴姫はよくこの山に来て、源氏再興をお祈りしていたんじゃ。それに琉球に行った弟の事も心配しておったのう。けなげで可愛い女子(おなご)じゃったので覚えておったんじゃよ」
「美人だったのですね?」とササが聞くと、
「勿論、美人じゃが、それだけでなく、賢くて、強い女子じゃったのう。あの頃、熊野別当家を支えていたのは丹鶴姫じゃった。何となく、リュウに似ているな」とスサノオは言った。
リュウ?」
「お前が高橋殿と呼んでいる女子じゃよ」
「えっ、高橋殿も知っていたのですか」
「あれほどの舞を舞える女子は滅多におらんからのう」
「クミなのか」と誰かが言った。
「違います」とサスカサが答えた。
「その勾玉(まがたま)は覚えている。クミがいつも首から下げていた」
「新宮の十郎様なのですね」とサスカサが聞いた。
「そうだ。クミと子供たちがどうなったのか教えてくれ」
 ササは口を出さず、サスカサに任せる事にした。
 サスカサは息子の舜天(しゅんてぃん)が浦添按司(うらしいあじ)になって、娘のフジが浦添ヌルになった事を教えた。
「そうか、シンテンが按司になったのか」と十郎は嬉しそうに言った。
「舜天という変わった名前は、十郎様が付けたのですか」
「そうだよ。ここは出雲(いづも)の熊野に対して新宮と名付けられた。俺は琉球に行って、新しい天地に来たと思って、『新天』と名付けたんだ」
「新天だったのですか。今はなまってしまって、シュンティンと呼ばれています」
「そうか、新天の事はちゃんと語り継がれているんだな?」
「はい。初代の浦添按司だと伝わっております。新天のお母さんが、あなたが琉球を去ったあと、何をしていたのか知りたがっています」
「そうか。そうだろうな。戻ると言って琉球を去ったきり戻らなかったからな」
「どうして、戻らなかったのですか」
「今思えば欲が出たんだろうな。憎き平家を倒すのが目的だった。平家を倒したら、あとの事は甥たちに任せて琉球に帰ればよかったんだ」
 十郎は久し振りに話を聞いてくれる者を見つけたとみえて、子供の頃からの事を延々と話し始めた。
 十郎が生まれた時、父親の源為義(みなもとのためよし)は左衛門少尉(さえもんしょうじょう)を辞任して、京都から新宮に帰っていた。年の離れた姉の丹鶴姫は、十郎が生まれた年に熊野別当家に嫁いだ。
 母親の父親は速玉大社の禰宜(ねぎ)(神官)を務めていて、水軍の大将でもあった。十郎は水軍の荒くれ者たちに囲まれて育った。船に乗って海に出るのが好きで、大人になったら船乗りになって、遠い国々に行ってみたいと思っていた。元服(げんぶく)の時、先達(せんだつ)に連れられて神倉山に登って修行をした。以後、山の魅力に取り憑かれて山伏になろうと決心した。幼馴染みの弁慶(べんけい)と一緒に山に籠もって修行に励み、いつの日か『奧駈け』をして、吉野の大峯山(おおみねさん)まで行ってみたいと思った。
 弁慶は別当家の一族だが庶流なので、別当になる事はできず、先達山伏になって別当家のために働く事になっていた。十郎と同い年だったので、幼い頃から一緒に育っていた。
 十六歳の時に、京都で『保元の乱』が起こって父が戦死した。父の戦死を聞いても、十郎には実感がわかなかった。十郎が生まれた翌年、父は京都に行ってしまい、父との思い出はまったくなかった。亡くなる三年前、父は鳥羽上皇(とばじょうこう)の熊野御幸(ごこう)の警護をして熊野に来た。山の中で修行していた十郎は、姉に呼ばれて父と対面した。山伏姿の十郎を見た父は目を細めて、「大きくなったのう」と言った。十郎はただうなづくだけで、何も言わなかった。
 十郎にとって、実の父よりも、姉の夫である行範が父のような存在だった。行範は厳しい修行を何度もしていて、山伏たちから尊敬されていた。山の中に籠もって修行ばかりしていたので、姉を妻に迎えた時は二十七歳になっていて、姉より十一歳も年上だった。十郎も行範を尊敬して、父親のように慕っていた。
 父が亡くなったあと、十郎は行範から父親の事や会った事もない兄たちの事を聞いて、武士として生きようと決心した。
 翌年、十郎は弁慶と一緒に熊野水軍の船に乗って、奥州の平泉に行った。武士として生きるのなら、将来のために、平泉の藤原氏とつながりを付けておいた方がいいと行範に言われたのだった。
 当時、平泉では豪勢な寺院をいくつも造っていて、螺鈿(らでん)細工に使うヤコウガイを欲しがっていた。熊野水軍藤原氏の願いを引き受けて、ヤコウガイを手に入れるために琉球まで行っていた。十郎たちは琉球から帰って来た船に乗り込んで、平泉まで行ったのだった。
 山国育ちの十郎と弁慶にとって、平泉は驚くべき都だった。立派な屋敷が建ち並ぶ大通りを、華やかに着飾った人々が大勢行き交い、まるで、異国に来たようだと思った。平泉を見た十郎は、京都に行こうと決心した。
 平泉から帰った十郎は、藤代の鈴木氏の娘を妻に迎えた。その翌年、長兄の義朝に呼ばれて、弁慶と一緒に京都に上った。姉が家臣として二十人の兵を付けてくれた。平泉を見た十郎は京都も似たような所だろうと思っていたが、やはり、新しい都の平泉とは違って、重々しさが感じられた。そして、公家(くげ)や僧侶が多いのには驚いた。
 義朝は後白河上皇に仕えている武士で、左馬頭(さまのかみ)に任じられていた。十郎たちは兄の郎党(ろうとう)となって院庁(いんのちょう)の警護に従事しながら、都住まいを楽しんだ。
 京都に来て一年余りが建った頃、二条天皇後白河上皇が争い、そこに信西(しんぜい)という偉そうな僧侶が加わって、今にも戦が始まりそうな状況となった。六波羅殿(ろくはらどの)(平清盛)と呼ばれている武将がいて、義朝とは仲が悪いようだった。
「あいつは武士のくせに、公家になろうとしているんじゃよ」と兄は苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
 六波羅殿が熊野参詣に出掛けると、義朝の長男、鎌倉源太が東国の兵を率いて京都に入って来た。熊野からも妻の父親が兵を率いてやって来た。そして、戦が始まった。十郎にとって初陣(ういじん)だったが、恐ろしいという事しか覚えていない。我に返ると血だらけの刀を持って、弁慶と一緒に山の中を逃げていた。
「どうなったんだ?」と十郎が聞くと、
「負け戦だ」と弁慶は言った。
「再起を図るため、左馬頭殿(義朝)は東国に向かった。お前らは熊野に帰って待機していろ。熊野水軍に動いてもらう事になるかもしれんと言っていた」
 十郎と弁慶は八人に減ってしまった家臣たちを連れて新宮に帰った。山伏たちによって、義朝の死が知らされ、妻の父親の戦死も知らされた。義朝の長男の源太も討ち取られたという。源太は十郎と同い年だった。同い年なのに、東国の兵を引き連れて、まるで大将のようだった。羨ましいと思う反面、源太には負けられないと思ったのに死んでしまった。
 六波羅殿は残党狩りをしていたが、熊野まで来る事はなかった。姉から、兄たちの敵(かたき)を討たなければならないと言われたが、十郎にはそんな事ができるとは思えず、これからどうしたらいいのか、まったくわからなかった。
 京都の戦の噂も治まって、ほっと安心していた頃、後白河上皇が熊野にやって来た。一緒に六波羅殿もいた。十郎と弁慶は山の中に隠れた。後白河上皇たちが帰ったあと新宮に戻ると、六波羅殿は十郎の事を知っていたと姉に言われた。
 身の危険を感じた十郎はその年の冬、熊野水軍の船に乗って琉球に行った。弁慶も誘ったが、山伏の修行をすると言って、一緒には来なかった。
 琉球への船旅は楽しかった。海を見ていると嫌な事がすべて忘れられるような気がした。いくつもの島を経由して、着いた琉球は美しい島だった。
 大里按司(うふざとぅあじ)に歓迎されて、大里按司の娘で大里ヌルのクミと仲よくなった。やがて、新天が生まれ、フジも生まれた。
 熊野水軍は一年おきくらいに琉球に来て、熊野や京都の様子を知らせてくれた。後白河上皇は毎年のように熊野御幸をして、一緒に来る六波羅殿の家来たちは十郎の事を探しているという。六波羅殿は出家して、京都を離れて摂津(せっつ)の福原(神戸市)にいるが、今や平家の全盛時代になってしまった。
 琉球に来てから十三年の月日が流れた。琉球に来た熊野水軍から、義兄の行範の死を知らされた。姉の事が思い出され、新宮にいる妻や子の事も思い出された。ちょっと様子を見に行こうと十郎は思った。次に熊野水軍琉球に来る時には必ず帰るとクミと子供たちに約束して、十郎は新宮に向かった。
 弁慶が義朝の息子の義経と一緒に奥州平泉にいると聞いて、十郎は会いに行った。弁慶は義経の家来(けらい)になっていて、いつの日か、必ず平家を倒すと言っていた。熱弁を振るう弁慶を、そんな事は無理だと十郎は覚めた目で見ていた。
 琉球に帰ろうと思っていた矢先に母が亡くなった。その翌年に、福原殿(平清盛)と後白河法皇の対立が深まって、平家の時代に陰りが見え始めた。姉の鳥居禅尼は各地にいる源氏と連絡を取り合っていた。そんな姉を助けようと十郎は山伏姿になって、姉の手紙を各地の源氏のもとへと届けて回った。
 治承(じしょう)二年(一一七八年)三月、後白河法皇の二十二回目の熊野御幸が行なわれ、妹の八条院を伴っていた。八条院の周りには平家に反発する者たちが集まっている事を知っていた鳥居禅尼は、八条院に頼んで、十郎を八条院に送り込む事に成功した。十郎は京都に行き、八条院の蔵人(くろうど)を務めた。
「京都に行くにあたって俺は名前を変えたんだ」と十郎はサスカサに言った。
「義盛という名前のままだと危険なので、行家(ゆきいえ)と改めた。行は義兄の行範からもらって、家は曽祖父の八幡太郎義家からもらった。平治の乱から二十年近くが経っていたので、俺の顔を覚えている者などいないだろうし、名前を変えれば絶対に安全だと思ったんだよ」
 その年の十一月、高倉天皇に嫁いだ福原殿の娘(徳子)が男の子を産んで、都はお祭り騒ぎになった。翌年の七月、福原殿の嫡男の小松殿(平重盛)が亡くなった。そして、十一月、福原殿は大軍を率いて京都を攻め、後白河法皇を鳥羽に幽閉してしまう。翌年の四月、福原殿に所領を没収された後白河法皇の皇子、以仁王が『平家討伐』の令旨を発した。
 以仁王八条院の猶子(ゆうし)で、八条院摂津源氏頼政の支持があって、平家打倒を決心したのだった。その令旨を各地の源氏に伝える任務を見事に果たしたのは十郎だった。前回の旅と同じように山伏姿となった十郎は、各地を回って源氏の蜂起を促した。
 信濃木曽にいる甥の義仲、甲斐(かい)源氏の武田信義、伊豆にいる甥の頼朝、常陸志田にいる兄の義広、奥州平泉にいる甥の義経と回って京都に戻ると、頼政以仁王も福原殿にやられて戦死していた。
 熊野に帰ると熊野でも戦があって、平家方の田辺別当家の湛増が新宮に攻めて来たという。追い払う事はできたが、娘婿の湛増は何としてでも寝返らせなければならないと姉は言った。
 新宮で待機していた十郎は、八月に伊豆の頼朝が挙兵したとの知らせを受けると、倅の太郎と次郎を連れて、新宮の兵を率いて出陣した。水軍の船に乗って尾張の津島に上陸した十郎は、スサノオを祀る津島神社に戦勝祈願をして兵を募った。源氏の白旗のもとに兵たちが続々と集まって来た。
 五千余騎となった兵を率いた十郎は、頼朝を倒すために東国に向かう平家軍を墨俣川(すのまたがわ)(長良川)で待ち伏せした。
「あの時は最高の気分だった。俺も源氏の御曹司(おんぞうし)だと初めて実感したんだ。しかし、戦には負けてしまった。敵の方が兵力は勝っていたが、負けるなんて思ってもいなかった」
 戦に負けた十郎は三河まで逃げて態勢を建て直し、鎌倉にいる頼朝のもとへ行った。
「三郎(頼朝)の所は居心地がよくなかった。俺としても甥の家来になるつもりはまったくなかったので、三郎と別れて、木曽の次郎(義仲)と合流したんだ。そして、各地の平家を破って、大軍を率いて京都に入った。平家の奴らはみんな西に逃げてしまった。こんな事が起こるなんて信じられなかった。京都のあちこちに源氏の白旗がなびいていた。世の中が変わった事を実感して、なぜか、涙が溢れて来たんだ。戦死した親父や兄貴に、この眺めを見せてやりたいと思ったよ。俺は備前守(びぜんのかみ)に任じられた。それが気に入らないと鎌倉の三郎が文句を言って来た。自分より先に俺たちが京都に入ったのが気に入らなかったのだろう。俺と次郎との仲も悪くなって、俺は平家を倒すために京都を出た。播磨の室津(むろのつ)で平家と戦ったが、惨敗だった。俺は親父の本拠地だった河内(かわち)に逃げた。俺が河内で態勢を建て直している時、次郎は鎌倉から来た九郎(義経)の兵にやられて戦死してしまった。次郎が戦死したあと、俺は九郎と一緒にいる弁慶に会いに京都に行った。弁慶は喜んで俺を迎えた。令旨を伝えに平泉に行った時、次は京都で会おうぜと弁慶は言った。それが実現したなんて信じられないと言っていた‥‥‥そこまでだ。そのあとは悲惨すぎる。俺と九郎は鎌倉の三郎の兵に追われた。俺は南の島に帰ろうと思った。大物浦(だいもつのうら)(尼崎市)から船に乗って逃げようとしたんだが、暴風に遭って船は転覆してしまった。その後、九郎と別れて半年間の逃亡の末、隠れ家を敵兵に囲まれて戦死したんだよ。源氏の武将として立派に戦死したと、クミに伝えてくれ」
「かしこまりました。お伝えいたします」とサスカサが言った。
「ありがとう。俺もクミの事はずっと気になっていたんだ。そなたはどことなく、クミに似ている。会えてよかったよ」
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「ああ。構わんよ」
「あなたが琉球に行った時、大里グスクはどこにありましたか」
「馬天浜(ばてぃんはま)を見下ろす山の上にあったぞ。でも、俺たちは馬天浜の近くに屋敷を建てて住んでいたんだ。ウミンチュ(漁師)たちと一緒に海に潜ってヤコウガイを捕っていたんだよ。源氏だの平家だのなんて忘れて、幸せに暮らしていたんだ」
「その大里グスクの中にウタキはありましたか」
「ウタキ? ああ、クミがお祈りをしていたウタキがあったな。『月の神様』を祀っていると言っていた」
「ありがとうございます。わたしは今、そのグスクで暮らしております。今は島添大里(しましいうふざとぅ)グスクと呼ばれております」
「懐かしいな。グスクへと続く山道を子供たちと一緒に登ったのを思い出したよ」
 サスカサがササを見た。
 ササはうなづいて、「壇ノ浦で平家が滅ぼされたと聞きましたが、あなたはその戦に参加したのですか」と十郎に聞いた。
「そなたは誰じゃ」と十郎は言った。
「馬天浜のヌルです」とササは答えた。
「おお、そうか」と十郎は納得した。
「俺は参加しなかった。鎌倉の三郎の軍に入りたくなかったんだ。戦で活躍しても、手柄は三郎のものだからな。俺は河内で、拠点となる城を築いていたんだよ。壇ノ浦の大将は六郎(範頼)と九郎の二人だ。熊野水軍が加わって源氏が勝って、平家は滅んだんだ」
「朝盛法師(とももりほうし)って御存じですか」
「朝盛法師?」
陰陽師(おんようじ)です」
「そう言えば、一度会った事がある。源三位入道(げんざんみにゅうどう)殿(源頼政)と親しい法師殿だった」
「理有法師(りゆうほうし)は御存じですか」
「会った事はないが、福原殿(平清盛)が贔屓(ひいき)にしていたようだな。その二人の陰陽師がどうかしたのか」
「二人とも琉球に来ています」
「何だって!」
「最初に理有法師がやって来て、ヌルたちを殺しましたが、朝盛法師がやって来て、舜天と協力して、理有法師を滅ぼしました」
「そうだったのか。源三位入道殿が戦死したあと、朝盛法師の姿を見かけなくなったので、戦死してしまったのだろうと思っていたが、理有法師を追って行ったのか。理有法師は不思議な術を使うと聞いていた。その術を封じていたのが朝盛法師だと源三位入道殿から聞いた事があった。そうか。理有法師が琉球に逃げて、それを追って行ったのか」
「色々と教えていただきありがとうございました」とササはお礼を言った。
「こちらこそ、わざわざ会いに来てくれてありがとう」
 ササはスサノオにお礼を言おうとしたが、スサノオもユンヌ姫もどこかに行って、いないようだった。
 その後、ササたちは『那智の滝』をお参りして、大雲取りを越え、萬歳峠(ばんぜとうげ)を越えて本宮に行き、あとは来た道を戻って、京都に着いたのは八月一日になっていた。

 

 

 

源平合戦事典   決定版 図説・源平合戦人物伝 (歴史群像シリーズ)