長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-201.真名井御前(改訂決定稿)

 京都に着いたササ(運玉森ヌル)たちは、三日後の夕方、『箕面(みのお)の大滝』に来ていた。大滝の下に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建した瀧安寺(りゅうあんじ)があった。弁才天堂(べんざいてんどう)を中心に多くの僧坊が建ち並んでいて、大勢の山伏がいた。
 ササの連れの人数が多すぎるため、お忍びで行くのは危険だった。御台所(みだいどころ)様(将軍義持の妻、日野栄子)の名前は隠すが、高橋殿の広田神社参詣という触れ込みで、護衛の兵に守られての旅だった。護衛を務めたのは将軍様の近習(きんじゅ)、細川右馬助(うまのすけ)(満久)で、右馬助は阿波(あわ)の国(徳島県)の守護を務めていた。
 右馬助が率いる二十名の武士が馬に乗って前後を固めて、豪華な三つのお輿(こし)の周りに侍女たちが従っていた。お輿に乗っているのは坊門局(ぼうもんのつぼね)、対御方(たいのおんかた)、平方蓉(ひらかたよう)で、御台所様と高橋殿は侍女に扮して、侍女に扮したササたちと一緒に歩いていた。御台所様は久し振りの旅にウキウキしていた。高橋殿に付き物のお酒と食材を積んだ荷車も従っていて、総勢五十人余りの大げさな一行になっていた。
 中条兵庫助(ちゅうじょうひょうごのすけ)も一緒に来ていて、阿蘇弥太郎(あそやたろう)と昔の事を懐かしそうに話しながら歩いていた。二人は同い年で、共に慈恩禅師(じおんぜんじ)の弟子だった。三十五年前、慈恩禅師が弥太郎を連れて京都に来た時、一緒に修行をしていて、その時以来の再会だった。兵庫助の娘の奈美は一行には加わらず、陰ながら皆を守っているようだった。
 高橋殿の屋敷にいたタミー(慶良間の島ヌル)とハマ(越来ヌル)も一緒に来た。クルーは交易船の使者たちが来るかもしれないので京都に残っていた。
 瀧安寺に着くと役僧たちに迎えられて、かつて先代の将軍(足利義満)が宿泊したという豪華な宿坊に案内された。住職が直々に挨拶に来て、高橋殿は機嫌よく迎えて、役僧たちに豪華な反物(たんもの)を贈っていた。
 役僧たちが引き上げたあと、ササたちはホッとしてくつろぎ、大滝を見に行った。役行者が選んだだけあって素晴らしい滝だった。
「気持ちいいわね」と言って御台所様は喜んだ。
 若ヌルたちはキャーキャー騒いでいた。そんな若ヌルたちを見ながら、「子供たちも連れて来ればよかったわ」と御台所様は言った。
 御台所様には十歳の娘と八歳の息子と三歳の娘がいた。
「そうですね」とササはうなづいたが、子供たちが一緒ならもっと大げさな一行になっていたに違いないと思った。
 滝の近くにある弁才天堂には役行者が彫った弁才天が祀られてあった。天川(てんかわ)の弁才天とよく似ているが、持ってる楽器がヴィーナではなくて琵琶(びわ)に変わっていた。
 観音堂如意輪観音(にょいりんかんのん)にお参りをして、行者堂に行って、ちょっととぼけた顔をした役行者像にお祈りをしたら、「待っておったぞ」と『役行者』の声が聞こえて、ササたちは驚いた。
「ここはわしが若い頃に修行した所なんじゃよ」
「その時、如意輪観音様を彫ってお祀りしたのですね?」とササは聞いた。
「そうじゃ。そして、弁才天様を知ってから、弁才天様を彫って、瀬織津姫(せおりつひめ)様としてお祀りしたんじゃよ」
瀬織津姫様も一緒にいらっしゃるのですか」
「いや。瀬織津姫様はスサノオの神様と一緒にサラスワティ様に会いに行かれたよ」
「えっ、クメールの国(カンボジア)まで行かれたのですか」
瀬織津姫様はお前が吹いた笛を聴いたら、急に元気になったようじゃ。昔、『ピーパ』という楽器を演奏した事があって、その事を聞いたスサノオの神様がサラスワティ様が『ヴィーナ』という楽器を弾くと言ったんじゃ。そしたら、サラスワティ様に会いに行こうと出掛けてしまったんじゃよ」
 京都に着いた翌日、御台所様と一緒に御所に行く時、船岡山に寄ってお祈りをしたが、スサノオ様の声は聞こえなかった。まだ、富士山にいるのだろうと思っていたのに、瀬織津姫様と一緒にクメール王国に行ったとは驚いた。
「ピーパって琵琶の事ですか」とササは聞いた。
「多分、琵琶の前身の楽器じゃろう」
 琉球には琵琶はなかった。お土産に持って帰ろうかとササは思った。ウニタキ(三星大親)かミヨンが弾くだろう。
「広田神社は今、御手洗川(みたらしがわ)のほとりに建っておるが、昔は甲山(かぶとやま)の裾野にあったんじゃよ。今、『元宮(もとみや)』がある所じゃ。そこに瀬織津姫様が暮らしていた屋敷があったんじゃよ。神功皇后(じんぐうこうごう)様(豊姫)が創建した由緒ある古い神社なんだが、それほど大きな神社ではなかった。今のように大きな神社になったのは『真名井御前(まないごぜん)』のお陰なんじゃよ。真名井御前が広田神社の近くに『神呪寺(かんのうじ)』を建てて、広田神社と瀬織津姫様の事を世間に広めたんじゃ。それを助けたのが『空海(くうかい)』じゃった。淳和(じゅんな)天皇の妃(きさき)だった真名井御前と大僧都(だいそうず)となった空海のお陰で、広田神社は有名になって、二人の死から二十年後に神位(しんい)が従五位下(じゅごいげ)になり、三十年後には正三位(しょうさんみ)になり、四十年後には従一位(じゅいちい)まで登ったんじゃよ」
「神位って何ですか」
「神様に与えられた位(くらい)じゃよ。熊野の神様が正二位じゃから、広田神社の方が格が上というわけじゃ。人間が勝手に作ったものじゃが、位が上がれば領地も増えて、神社も豊かになるというものじゃ。最盛期には武庫山(むこやま)(六甲山)一帯が、広田神社の領地だったんじゃよ。鎌倉の将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)も土地を寄進して、平家討伐を祈願している。神宮寺(じんぐうじ)もできて僧坊が建ち並ぶようになると甲山の裾野では狭くなってきて、火災に遭って全焼したのを機に、今の場所に遷座(せんざ)する事になったんじゃ。瀬織津姫様が暮らしていた頃は甲山は海の近くにあったらしいが、川から流れてきた土砂で海が埋められて、今では海から大分離れている。南の島からいらした瀬織津姫様は航海の神様でもあったので、海の近くに別宮ができて、『浜の南宮(なんぐう)』と呼ばれている。その浜の南宮の秘宝として、瀬織津姫様の『宝珠(ほうじゅ)』がある」
「えっ、瀬織津姫様の宝珠?」
「その事を瀬織津姫様に聞いたんじゃが、知らんと言っていた。その宝珠は『トヨウケ姫様』が神功皇后様に贈ったものらしい。トヨウケ姫様は丹後の国(京都府北部)に玻璃(はり)(水晶)の工房を持っていたようじゃ」
「玻璃って何ですか」
「透明で綺麗な石じゃよ。それを丸く加工したものが宝珠じゃ。トヨウケ姫様はカヤの国(朝鮮半島にあった国)の鉄を手に入れるために宝珠を作っていたらしい」
「トヨウケ姫様の宝珠が浜の南宮にあるのですね」
「高橋殿と御台所様が一緒なら宮司(ぐうじ)が見せてくれるじゃろう」
 ササは役行者にお礼を言って別れた。
 翌日の正午(ひる)前に『広田神社』に着いた。大鳥居の前には市場があって賑やかだった。参道には神官、巫女(みこ)、山伏たちが行き交っていて、山伏に連れられた参拝客の一行もいた。鳥居をくぐって境内(けいだい)に入ると宮司たちが大歓迎して高橋殿を迎えた。先代の将軍は明国(みんこく)に使者を送っていたので、航海の無事を広田神社に祈願して、その都度、多大なる礼物(れいもつ)を贈ったらしい。
 宮司の案内でササたちは本殿を参拝した。拝殿から見ると本殿は五つあった。『五所大明神(ごしょだいみょうじん)様』と呼ばれていて、広田神を中心に、八幡(はちまん)神、住吉神、南宮神、八祖神が祀られてあるという。どんな神様なのか宮司に聞いたら、広田神は武庫津姫(むこつひめ)様、八幡神八幡大神様、住吉神は住吉大神様、南宮神は神功皇后様、八祖神はタカミムスヒノ神様だと教えてくれた。タカミムスヒノ神様とはどんな神様かと聞いたら、天地を創造した神様だと言う。
 参拝のあと、宮司は立派な客殿に案内して、豪華な昼食を用意してくれた。
「このお屋敷は先代の将軍様が兵庫に来た時の宿所として建てたの。今の将軍様が広田神社に寄贈したのよ」と高橋殿が言った。
 金閣を造った将軍様らしく、贅沢な造りの客殿だった。食事に付き物のお酒も楽しんだ。若ヌルたちは酔っ払ってしまい、玻名(はな)グスクヌルと喜屋武(きゃん)ヌルに任せて、ササ、シンシン(杏杏)、ナナ、カナ(浦添ヌル)、タミー、ハマの六人は御台所様と高橋殿と一緒に、元宮に向かった。中条兵庫助と飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)と覚林坊(かくりんぼう)が護衛のために付いて来た。
 『元宮』は女神山(目神山)の北側にあって、正面に甲山を望む地にある小さな神社だった。甲山は神様が降臨するのに相応しい形のいい山だった。
瀬織津姫様はここで暮らしていたのね」とササは甲山を見上げながら言った。
「広田神社には将軍様と一緒に来た事があるけど、ここに来たのは初めてだわ。いい所ね」と御台所様が楽しそうに言った。
 ヤマトゥ(日本)に来る度に兵庫から上陸して、京都に行く時にこの辺りを通っていたのに、瀬織津姫の事は知らなかった。南の島を探しに行ったお陰で、瀬織津姫を知る事ができた。ササは感謝の気持ちを込めて、元宮でお祈りをした。
「母から聞いたわよ」と声が聞こえた。
「武庫津姫様ですか」とササは聞いた。
「そうよ。母の跡を継いで、『武庫津姫』を名乗ったわ。でも、晩年は丹後に行って、『与謝津姫(よさつひめ)』を名乗ったのよ」
「与謝津姫様ですか」
「今、丹後の国と呼ばれている京都の北の方を昔は『与謝』と呼んでいたの。そこに拠点を造って、貝殻の交易範囲を広げたのよ。わたしが亡くなってから四百年余りが経って、『トヨウケ姫』が与謝にやって来たわ。その頃、わたしの子孫たちが『宝珠』を作っていたの。トヨウケ姫は宝珠作りの規模を拡大して、カヤの国との交易を始めたわ。カヤの国から鉄を手に入れて、宝珠作りも発展して、豊姫が持っていたような立派な宝珠が造れるようになったのよ。残念ながらトヨウケ姫は子孫を残さなかったけど、弟の『ホアカリ』の子孫たちがわたしの子孫と一緒になって、与謝を発展させて来たのよ」
 精進湖(しょうじこ)で会った時、トヨウケ姫様が子孫を残さなかった事を悔やんでいたのをササは思い出した。
「祖父が亡くなってから、父と一緒に戦(いくさ)をしていて、気がついたら子供を産めない年齢(とし)になっていたわ。子孫がいないのは寂しいものよ。あなたは必ず、子孫を残しなさいね」とトヨウケ姫様はササに言った。
瀬織津姫様は女神山で雨乞いの祈祷(きとう)をしたのですね?」とササは聞いた。
「そうよ。その頃は女神山とは呼ばれていなかったけどね。雨乞いはわたしもやったのよ。母が役小角(えんのおづぬ)(役行者)と出会ったのも女神山だったわ。あの頃の母は富士山に籠もっていないで、娘たちの所を巡っていたわ。丁度、母がここに来ていた時、役小角がやって来て、面白い男がやって来たと言って声を掛けたのよ。あの時、母がいなかったら、わたしは声を掛けていなかったでしょう。そしたら、今のように広田神社は発展しなかったでしょうね。戦で焼かれて、その後、再建される事もなく、忘れ去られたかもしれないわ。役小角が天川に弁才天社を建てて母を祀って、そこで修行した空海が母の事を知ったわ。そして、空海は京都の六角堂(頂法寺)で、わたしの子孫の『小萩』と出会った。小萩は空海から母の事を聞いて、広田神社を発展させたのよ」
「小萩というのは『真名井御前様』の事ですね?」
「そうよ。面白い子よ。『神呪寺』であなたを待っているわ。早く行ってあげなさい」
 ササたちは武庫津姫と別れて、女神山に登った。
 山の中にはあちこちに大きな石があった。それらの石は誰かが意図して置いたようで、大昔の磐座(いわくら)のようだった。山頂にも祭壇のような岩があって、瀬織津姫が雨乞いの祈祷をした場所に違いなかった。
 ササたちはお祈りをした。
「懐かしいわ」と言ったのは『トヨウケ姫』の声だった。
 ササたちは驚いた。
「トヨウケ姫の案内で広田神社の奥の宮まで行って来たのよ」とユンヌ姫が言った。
「奥の宮ってどこにあるの?」とササは聞いた。
「武庫山の山頂よ。女人禁制(にょにんきんぜい)になっているからササたちは行けないわ」
「ここにも女人禁制の山があるの?」
「山伏たちがそう決めたのよ。役行者が山頂に石の祠(ほこら)を建てて瀬織津姫様を祀って、真名井御前が修行した所よ」
「真名井御前様の頃は女人禁制じゃなかったの?」
空海と真名井御前が修行したので、武庫山は有名になったのよ。やがて、山伏たちが集まって来て、女人禁制になってしまったの」
「トヨウケ姫様もそこで修行したのですか」
「違うわよ」とトヨウケ姫は笑った。
「山の中を走り回って修行を始めたのは役小角よ。わたしが生きていた頃は仏教も道教もなかったわ。わたしは丹後から京都に出て行った小萩をずっと見守っていたの。小萩が修行していたから知っていたのよ。生前にも、ここに来た事はあったけど、武庫山の山頂には登らなかったわ」
「トヨウケ姫様がここに来た時は、まだ広田神社はなかったのでしょう」
「なかったわ。武庫津姫様が暮らしていた屋敷の跡地に、琉球のウタキ(御嶽)のように石が祀ってあったのよ」
「トヨウケ姫様は琉球に行った事があるのですか」
「三度、行ったわよ。初めて行ったのは祖母(豊玉姫)が琉球に帰る時、一緒に付いて行ったの。十八の時だったわ。二度目に行ったのは、祖父(スサノオ)が亡くなって戦が始まって、母(玉依姫)に頼まれて、祖母を迎えに行ったのよ。三度目は祖母が亡くなって、遺品を叔母(アマン姫)に届けに行った時よ。ユンヌ姫と仲良くなったから、久し振りに琉球に行くわ」
 歓迎しますとササは言って、お祈りを終えた。
 女神山を東側に下りて、小高い丘を越えると『神呪寺』が見えた。思っていたよりも大きくて立派なお寺だった。
「凄いわね」とササが言うと、
南北朝の戦でここも被害を受けて、先代の将軍様が修繕したのよ」と高橋殿が言った。
「でも、この大伽藍(だいがらん)を造ったのは鎌倉の将軍だった源頼朝らしいわ」
「えっ、鎌倉の将軍様がどうして、こんな遠くにあるお寺を建てたのですか」
「さあ、詳しい事はわからないわ。お寺の住職なら知っていると思うわ」
 立派な山門をくぐって境内に入ると山伏や僧侶が大勢いた。高橋殿が来る事を知っていたのか、偉そうな袈裟(けさ)を着た住職が出迎えた。住職の案内で本堂に上がって、御本尊の如意輪観音にお祈りをしたが、真名井御前の声は聞こえなかった。ここではなくて別の所にいるようだった。
 住職の話によると、神呪寺の住職は京都の仁和寺(にんなじ)の住職である永助法親王(えいじょほうしんのう)が兼帯していて、自分は代理だと言う。代理の住職に神呪寺の歴史を聞いたら、得意になって話してくれた。
 淳和天皇の妃だった真名井御前が神様のお導きによってこの地に来て、空海のもとで出家して『如意尼(にょいに)』と号した。如意尼は空海が彫った如意輪観音を本尊として、神呪寺を創建した。四年後、如意尼は三十三歳の若さで亡くなってしまう。如意尼が亡くなった翌日、空海高野山(こうやさん)で亡くなったという。
 創建当初は甲山の中腹にあったが、戦乱や災害にあって荒廃してしまう。それをこの地に移して再建したのが源頼朝だった。
 頼朝は如意輪観音を信仰していて、神呪寺の御本尊が空海の彫った如意輪観音だと知って再建する事にしたのだという。その後、南北朝の戦があって、ここも赤松氏が陣を敷いたりして破壊されたが、北山殿(きたやまどの)(足利義満)によって修繕されたと言って、代理住職は高橋殿に両手を合わせた。
 境内には大師堂(だいしどう)、不動堂、行者堂、薬師堂(やくしどう)があって、池の近くには弁才天堂もあり、五重の塔も建っていた。順番に参拝したが、真名井御前の声は聞こえなかった。案内すると言った代理住職の申し出を断って、ササたちは奥の院に向かった。
 神呪寺から参道が続いていて、途中には真名井御前が空海と一緒に修行をしたという滝があった。
「真名井御前様と空海様はいつ頃の人ですか」とササは高橋殿に聞いた。
空海様は弘法大師(こうぼうだいし)と言って、高野山真言密教(しんごんみっきょう)のお寺を造った偉いお坊さんで、遣唐使(けんとうし)と一緒に唐の国に行って、仏教の修行を積んできた人なのよ。五百年以上も前の人でしょう」
役行者様は空海様よりも古い人なのですね?」
役行者様は修験道(しゅげんどう)の開祖と言われている人だから、空海様よりも古いわよ。空海様は役行者様が開いた葛城山(かつらぎさん)とか大峯山(おおみねさん)とかで修行をしているわ」
平清盛(たいらのきよもり)が兵庫に福原の都を造った時は、神呪寺はあったのですね」
「その頃は奥の院の所にあったんだと思うわ。でも、源氏と平家の戦で、破壊されてしまったんじゃないかしら。広田神社もね」
 甲山の裾野に石段があって、登って行くと山門があり、その正面に『奥の院』があった。境内はそれほど広くもなく、頼朝が今の地に移したのもうなづけた。奥の院を守っている老僧が出迎えて、本堂に案内してくれた。ここの御本尊も如意輪観音で、ここの仏像の方が古そうだった。
「これは内緒ですが、この如意輪観音様がお大師様(空海)が彫られたものです。桜の大木で如意尼様の姿を写したのです」と老僧は言った。
 如意輪観音は首を傾げて物思いにふけり、腕が六本もあって、蓮の花の上に座って、左足を下げ、右足は曲げて左膝の上に乗せていた。優しそうな顔をしているが、真名井御前は女人禁制を破って大峯山に登った女傑(じょけつ)のはずだった。
 一番目の右手は頬に当てて、二番目の右手で如意宝珠(にょいほうじゅ)を持ち、三番目の右手で数珠(じゅず)を持っている。一番目の左手は蓮華座(れんげざ)に置いて、二番目の左手は蓮のつぼみを持ち、三番目の左手の指先で法輪(ほうりん)を回している。如意宝珠は意のままに願いをかなえてくれる玉で、法輪は仏様(ほとけさま)の教えが広まって行く様子を表現している。如意輪観音は如意宝珠と法輪を持ったありがたい仏様で、武庫津姫の本地(ほんじ)としてお祀りしていると老僧は説明してくれた。
 ササたちは老僧から教わった真言(しんごん)を唱えて、お祈りを捧げた。
「待ちくたびれたわよ」と声が聞こえた。
「『真名井御前様』ですか」とササは聞いた。
「そうよ。そこまで来たから、こっちに来ると思っていたのに、新しいお寺の方に行ってしまったわね」
「申し訳ありません。真名井御前様があちらにいらっしゃると思ったのです」
「あそこは騒がしくて苦手なのよ。頼朝には感謝しているけどね」
「鎌倉の将軍様は、ここの御本尊様を守るために神呪寺を再建したのですか」
「違うわよ。この御本尊様を守るのなら、御本尊様は向こうの本堂に遷座するはずでしょ。頼朝が再建したのは上西門院(じょうさいもんいん)の願いを聞いたからなのよ」
「上西門院て誰ですか」
「頼朝が伊豆に流される前に仕えていた人よ。鳥羽天皇の娘さんよ。頼朝はその人のお陰で、殺される事もなく流罪(るざい)で済んだの。恩返しだと思って神呪寺を再建したのよ」
「上西門院様は神呪寺と関わりがあるのですか」
「上西門院のお屋敷には歌人たちが出入りしていて、その中に『西行(さいぎょう)』がいたの」
「えっ、西行法師ですか」とササは驚いた。
 西行法師は思紹(ししょう)(中山王)が尊敬している歌人だった。思紹は西行法師の歌集を持って旅をしていて、西行法師にあやかって自ら東行法師(とうぎょうほうし)と名乗っていた。西行法師が頼朝と同じ時代の人だったなんてササは知らなかった。
西行役行者空海を尊敬していて、山々を巡っては歌を詠んでいたのよ。そして、天川で瀬織津姫様の事を知ったの。その後、ここにも来て、広田神社が瀬織津姫様を祀っている事を知って、その事を上西門院に教えたの。上西門院は広田神社にお参りに来て、神呪寺にも来たわ。当時、神呪寺は寂れていたけど、住職から空海とわたしの話を聞いて、再建しなければならないと思ったのよ。上西門院は後白河天皇(ごしらかわてんのう)の姉だったけど、平家との戦が続いて、神呪寺の再建はかなわなかったわ。それで、平家を滅ぼした頼朝に再建を頼んだのよ。頼朝も西行から瀬織津姫様の事を聞いていたみたい」
西行様は頼朝様と会っていたのですか」
「上西門院に頼まれて様子を見に行っていたのよ。出家した僧なら罪人となった頼朝とも会えるわ。十四歳の時に伊豆に流されて、挙兵するまで二十年間も頼朝は孤独だったのよ。妻を迎えて子供もできたけど、世間とは切り離されていたわ。流刑地(るけいち)から見る富士山が唯一の慰めだったのよ。西行から富士山の神様が瀬織津姫様だと聞いて、神呪寺の如意輪観音様も瀬織津姫様だと聞いたのよ。それで、上西門院から神呪寺の再建を頼まれて、喜んで引き受けたのよ」
「真名井御前様は、どこで瀬織津姫様と出会ったのですか」
「そこの女神山よ。わたしが京都の六角堂にいた時、空海様から如意輪観音様の本当のお姿は瀬織津姫様だって聞いたけど、その時はよくわからなかったの。大伴皇子(おおともおうじ)様が天皇になって、わたしを迎えに来たの。わたしは驚いたけど断る事はできなかったわ。天皇のお妃になるなんて、夢を見ているような信じられない話よ。でも、御所はわたしのいるべき場所ではなかったわ。四年後、空海様に頼んで御所から抜け出したの。空海様は天皇に信頼されていたから、御所に出入りしていたのよ。わたしは空海様に連れられて広田神社に来たわ。広田神社は哀れなほどに寂れていたのよ。それに、祭神の瀬織津姫様のお名前も消されてしまって、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の荒魂(あらみたま)になっていたのよ」
天照大御神の荒魂ってなんですか」
空海様が言うには、アマテラス様を皇祖神(こうそしん)として伊勢の神宮に祀ったので、アマテラス様以前の古い神様は皆、消されてしまったらしいわ。でも、由緒ある古い神社を潰す事はできないし、祟りも恐ろしいので、天照大御神の荒魂なんて名前を付けたんだろうって言っていたわ。荒魂っていうのは荒々しい状態の魂の事よ。このままだと瀬織津姫様は忘れ去られてしまう。何とかしなければならないと思ったわ。空海様と相談して、瀬織津姫様を鎮守神(ちんじゅがみ)として、お寺を建てる事に決めたの。それが『神呪寺』よ。空海様は天皇勅願寺(ちょくがんじ)として『鷲林寺(じゅうりんじ)』も建てたわ。勿論、鷲林寺の鎮守神瀬織津姫様よ。ここに来た時、わたしは二人の侍女と一緒だったの。二人もわたしと一緒に出家して、空海様のもとで修行したのよ。山の中での修行は厳しかったけど、御所にいた時に比べたら、わたしは生き返ったかのように楽しかったわ。そして、ある日、女神山で瀬織津姫様のお声を聞いたのよ。驚いたわ。わたしが神様のお声を聞くなんて。空海様の厳しい修行に耐えたお陰よ。瀬織津姫様に広田神社の事を頼まれて、わたしは以前に増してやる気を出したわ」
「山伏のように山中で修行を積んだのですか」
「そうよ。空海様は山の中をまるで飛んでいるような速さで駈けるのよ。あとを追うのは大変だったけど、わたしたちは必死になってあとを追ったわ。雪の降る中、山頂で座り続けた事もあったわ。厳しい修行に耐えて、わたしは『阿闍梨位(あじゃりい)』という真言密教で最高の位(くらい)を空海様からいただいたのよ」
「その位があったから女人禁制の大峯山にも登れたのですね」
「そうじゃないわ。わたしが空海様の弟子だと言っても信じてくれなかったわ。わたしは『気合いの術』を使って、山伏たちを動けなくして、大峯山に登ったのよ」
「気合いの術?」
「そうよ。空海様から教わったのよ。山の中で呼吸を整えながら座っていると、だんだんと気力が強くなって、気合いの術が使えるようになるのよ」
 気合いの術はヂャン師匠(張三豊)から聞いた事があった。空海役行者はヂャン師匠のような人だったのかとササは納得した。
「山中で出会った山伏たちも文句を言ったので、気合いの術で動けなくしたわ。わたしが弥山(みせん)で修行をして山を下りたら、瀬織津姫様の化身(けしん)が現れたって噂になっていたのよ。大峯山に登ったあと、わたしは空海様が登った各地の霊山に登ったわ。女人禁制なんてお構いなしにね。そして、広田神社の神様、瀬織津姫様の化身だって言い触らしたのよ。山伏たちのお陰で、広田神社の名前も瀬織津姫様の名前も広まって行ったわ」
 そう言って真名井御前は楽しそうに笑った。
「真名井御前様は神呪寺ができてから四年後に亡くなったと聞きましたが、お亡くなりになる前に各地の山々に登ったのですか」
 真名井御前はまた笑って、「あれは嘘よ」と言った。
淳和天皇はわたしが出家しても、わたしを連れ戻そうとしていたの。正良親王(まさらしんのう)様に天皇の座を譲ったあと、神呪寺の近くに鷲林寺を建てて、そこで暮らすと言い出したのよ。淳和天皇には可愛い皇后(こうごう)がいて、そんな事をしたら皇后が可愛そうだわ。そんな時、空海様が亡くなってしまったの。空海様が亡くなれば、天皇は強引にわたしを京都に連れ戻そうとするでしょう。それで、空海様が亡くなった前日にわたしも亡くなった事にして、神呪寺から旅立ったのよ。各地の山々を巡って、天皇がお亡くなりになったあと、故郷の丹後に帰って静かに暮らしたわ。故郷で『慈雲寺』を創建して、そこにいた時、広田神社が従五位下の神位を贈られて、従三位になって、正三位になって、わたしが六十六歳の時、従一位になったのよ。嬉しかったわ。空海様もきっと喜んで下さると思って安心したわ。その四年前だったわ。富士山が大噴火して、瀬織津姫様が造った都が埋まってしまったのよ。それ以来、瀬織津姫様のお声を聞いた事がなかったのに、突然、瀬織津姫様のお声が聞こえたので、とても驚いたわ。あなたのお陰らしいわね。瀬織津姫様を蘇らせてくれて、ありがとう」
 神様からお礼を言われて、ササは何と答えたらいいのかわからなかった。
「わたしにもあなたの笛を聞かせてくれないかしら。この山にも鎮魂すべき霊たちが大勢いるのよ」
 ササは笛を取り出して、瀬織津姫の事を思いながら吹き始めた。
 阿蘇山から瀬織津姫がここに来て、娘が武庫津姫を継いで、この山の麓(ふもと)で暮らした。その頃、ここは海の近くだったという。それから五百年余りの時が流れ、豊姫が来て、瀬織津姫が暮らしていた屋敷跡に広田神社を創建した。まだ仏教が伝わっていない頃なので、それは小さな祠(ほこら)だったのかもしれない。
 それから何百年か経って、役行者がやって来て、瀬織津姫の声を聞く。役行者は天川に瀬織津姫弁才天として祀る。役行者が生きていた時、伊勢に神宮ができて、瀬織津姫の娘の伊勢津姫が封印されてしまう。
 それから百年位経って、空海が天川の弁才天社に籠もって瀬織津姫を知る。空海は六角堂で出会った真名井御前に瀬織津姫の事を教え、寂れてしまっていた広田神社を再興する。
 広田神社と瀬織津姫の存在が世間に認められて、従一位の神位を贈られた頃、富士山が大噴火して、瀬織津姫が造った都は埋まってしまう。
 ササは瀬織津姫に関する長い歴史に思いを馳せながら笛を吹いていた。
 シンシンとナナはターカウ(台湾の高雄)で阿蘇津姫を知ってから今日までの長い旅路を思い出していた。カナは富士山で出会った神様たちを思い出していた。神様の声は聞いていても、神様の姿を目の当たりにするのは初めてだった。
 ササの笛を久し振りに聞いたハマは、その上達振りに驚き、改めてササの凄さを思い知った。ハマはササが吹く曲を聴きながら幼い頃のササとの事を思い出していた。初めてササの笛を聞いたタミーは、まるで神様が吹いているようだと感激して、去年、船岡山で出会った様々な神様たちの事を思い出していた。
 高橋殿はササの吹く笛に感動して、胸の奥に抑えていた芸心が騒ぎ出しているのを感じていた。若い頃から念願の女猿楽(おんなさるがく)をそろそろを始めなければならないと思っていた。
 御台所様は如意輪観音に両手を合わせながら、ササの笛の音に誘(いざな)われて、古代の神様の世界に酔いしれていた。
 奥の院を守っている老僧は、神様と会話をしているササたちを見て驚き、もしかしたら観音様の化身ではないかと思い、心の中でお経を唱えながら、心地よくて神々しい笛の調べに聴き入っていた。

 

 

 

イスム Standard 如意輪観音_仏像 フィギュア イSム isumu MORITA (にょいりんかんのん)

2-200.瀬織津姫(改訂決定稿)

 精進湖(しょうじこ)のほとりで焚き火を囲んで、ササ(運玉森ヌル)たちは『瀬織津姫(せおりつひめ)』に出会えた感謝の気持ちを込めて酒盛りを始めた。
 酒盛りの前に、ササは富士山の大噴火で犠牲になった人たち、森の中で暮らしていた生き物たちのために『鎮魂の曲』を吹いた。
 何もかもを優しく包み込んでしまうような美しい笛の調べは、満月に照らされた富士山麓を静かに流れて、山頂へと響き渡って行った。命ある物たちは快い調べに酔いしれて、霊となって彷徨(さまよ)っている物たちは、落ち着くべき場所が見つかったかのように穏やかな気持ちになっていた。
 誰もが目を閉じてシーンと聞き入っていて、誰もが意識せずに両手を合わせていた。初めてササの笛を聞いた喜屋武(きゃん)ヌル(先代島尻大里ヌル)は、まるで神様が吹いているようだと感動していた。奥間(うくま)のミワは自分が生まれる前の遙か遠い記憶が蘇ったような気がして、自分も笛を習いたいと真剣に思っていた。
 曲が終わって横笛から口を離したササは月を見上げて、うまく吹けた事へのお礼をのべ、合掌をしているみんなを見て、「今回の旅の目的であった瀬織津姫様に会う事ができました。皆さんのお陰です。ありがとう」とお礼を言った。
「若ヌルたちは今回の旅で大変な思いをしたけど、きっと、あなたたちの役に立つ事でしょう。皆さん、御苦労様でした」
 持って来た肉の塩漬けや来る途中で集めた山菜を肴(さかな)に酒盛りが始まった。いつもは若ヌルたちにお酒は飲ませないが、今日は特別よと言って、皆で乾杯した。
「まさか、富士山までやって来るなんて思ってもいなかったわ」とナナが嬉しそうに言った。
対馬(つしま)にいた時、対馬に来た山伏から富士山の話を聞いて、ユキ(サハチの娘)と一緒に、いつか必ず富士山に行ってみたいわねって言っていたの。来られて本当によかったわ」
「あたしもいつか富士山を見たかったのよ」とシンシン(杏杏)も言った。
「ヂャン師匠(張三豊)から富士山の美しさは聞いていたわ」
「ヂャン師匠も富士山に来た事があったの?」とササはシンシンに聞いた。
「登ったって言っていたわよ。大昔、大陸に秦(チン)という国があって、『徐福(シュフー)』という仙人が大勢の子供たちを連れてやって来て、富士山の裾野に住み着いたって言っていたわ」
「どうして、子供たちを連れて来たの?」
「子孫を繁栄させるためでしょう。それに、色々な技術者も連れて来たらしいわ」
「そうだったの。瀬織津姫様もその仙人を知っているのかしら?」
「仙人だから、きっと、瀬織津姫様に会っているわよ」
「ねえ、富士山の神様なのに、どうして、『浅間大神(あさまのおおかみ)』なの?」とカナ(浦添ヌル)がササに聞いた。
「あたしもそれを聞きたかったんだけど、瀬織津姫様は急に黙り込んでしまったのよ」
「大噴火の悲劇を思い出してしまったんだわ」とナナが言った。
瀬織津姫様は未だに、子孫たちを助けられなかった事を悔やんでいるのよ」
「そうね」とササはうなづいた。
玉依姫(たまよりひめ)様が会いたがっていたのに声を掛けなかったのも、後悔の念が強すぎたからなのね」
「ありがとう。もう大丈夫よ」と瀬織津姫の声が聞こえた。
 声と同時に閃光(せんこう)が走った。まぶしい光に目を閉じて、恐る恐る目を開くと、古代の女神様と長い髭を伸ばした山伏の姿があった。
 瀬織津姫は白い絹の着物を着て、長い黒髪を垂らして、首に大きな勾玉(まがたま)を下げていた。美しい顔は偉大なる神様の尊厳さよりも、慈愛に満ちた優しさに溢れていた。
「そなたのお陰で、瀬織津姫様に会う事ができた。お礼を言うぞ」と山伏が言った。
役行者(えんのぎょうじゃ)様ですか」とササが聞くと、山伏は髭を撫でながら細い目をしてうなづいた。
 ササが若ヌルたちを見ると、みんな、眠りに就いていた。愛洲(あいす)ジルーも阿蘇弥太郎も飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)も辰阿弥(しんあみ)も覚林坊(かくりんぼう)も天久之子(あみくぬしぃ)も村上あやもミーカナとアヤーも眠りに就いていた。喜屋武ヌルは神様の姿を目の前にして、両手を合わせて拝んでいた。
「あなたが吹いた笛の調べを聴いて、気持ちが急に楽になったわ。過ちは悔い改めなければならないけど、いつまでも、それを引きずっている事も過ちだって気づいたわ」と瀬織津姫は美しい声で言った。
「わしらも仲間に入れろ」とスサノオの声がしたと思ったら、また光って、スサノオ玉依姫、ホアカリ、トヨウケ姫、そして、ユンヌ姫、アキシノ、アカナ姫、メイヤ姫が現れた。
「みんなしてお前のあとを付いて来たんじゃよ」とスサノオはササに笑ってから、瀬織津姫に皆を紹介した。
 初めて見た玉依姫は思っていた通り、威厳のある女神様だった。『日巫女(ひみこ)』と呼ばれ、『アマテラス』とも呼ばれた玉依姫は神々しいほどに美しく、きらびやかな衣装も女王にふさわしい華麗なものだった。ホアカリは大王という貫禄があって、祖父のスサノオによく似ていた。
 二人の顔を見比べながら、ササはホアカリの父親で、玉依姫の夫になった『サルヒコ』に会っていない事に気づいた。『大物主(おおものぬし)』とも呼ばれた二代目のヤマトゥ(大和)の大王になったサルヒコはどこにいるのだろう?
 トヨウケ姫は意外だった。小俣(おまた)神社で話をした時の感じでは、優しくて、しとやかな神様だろうと思っていたのに、弓矢を背負って勇ましく、女子(いなぐ)サムレーの大将のような感じだった。いたずらっぽい目つきでササを見て笑い、ユンヌ姫と仲良くなりそうな気がした。
「あなたたちがいるので、わたしの出番はないと隠れていたのよ」と瀬織津姫スサノオに言った。
「伊勢に神宮ができて、『伊勢津姫様』は封印されてしまいました。申し訳ありません」と玉依姫瀬織津姫に謝った。
「あそこに神宮ができたのは、あなたのせいではありません。気にする事はないわ。伊勢津姫は長い眠りに就いているだけよ」
「封印が解けたら戦世(いくさゆ)になるのですか」とササが瀬織津姫に聞いた。
「そんな事はないわ。ただ目覚めるだけよ。あの子はそんなに執念深くはないわ。ただ、大きな地震が起きるかもしれないわね」
「えっ、大きな地震が起こるのですか」
「伊勢の地は地震を起こす気(エネルギー)が強いって、あの子は言っていたわ。それで、あの子はその気を抑えるために伊勢に行ったのよ。でも、あの子自身が大きな気を身に付けてしまったので、恐れられて封印されてしまったの。あの子が意識しなくても、目覚めた時に大きな地震が起こるかもしれないわ。でも、あの子がきっと抑えてくれるでしょう。心配しなくても大丈夫よ」
 ササたちは安心して、神様たちと祝杯を挙げた。
「ササのお陰で、瀬織津姫様にお会いする事ができた。凄い美人じゃのう。噂では『コノハナサクヤヒメ』と最初に呼ばれたのは瀬織津姫様だったと聞いたんじゃが、まさしく、桜の花のような麗しい美しさじゃ」とスサノオが言った。
「美しさなんてはかないものです。わたしは八十年余りも生きましたが、最後は腰の曲がったお婆さんでしたよ」
瀬織津姫様、お聞きしたい事があるのですが、富士山の神様なのに、どうして浅間大神様なのですか」とササは聞いた。
「大昔は富士山とは呼んでいなかったのよ。阿蘇山と同じように煙を上げて噴火していたから、『アソムイ』と呼んでいたの。『アソ』は南の島の言葉で火山を意味して、『ムイ』は盛り上がった所、お山を意味しているわ。阿蘇山は『ムイ』が『ヤマ』に変化して、『アソヤマ』になって『アソサン』になったのよ。富士山の方は『アソムイ』が『アサマ』に変化したの。『アソムイノカミ』が『アサマノカミ』になったのよ」
「もしかして、琉球の安須森(あしむい)も『アソムイ』だったのですか」
「そうよ。当時は琉球って呼んでいなかったけど、あの島の目印があのお山だから『アソムイ』って、わたしが名付けたのよ。あのお山は火山じゃないけど、山頂に登れば神様に出会える聖なるお山だからね」
「いつから富士山と呼ばれるようになったのですか」
「わしが来た頃は富士山と呼ばれておった」と役行者が言った。
「『アサマ』から『フジ』になったのは、都で流行った『かぐや姫の物語』のお陰かもしれんのう。最後の場面で、不老不死の薬を山頂で焼いた事になっておるからのう。『不死の山』が、二つとない美しい山として、『不二の山』になったのじゃろう」
 『かぐや姫』の話が出て来るなんてササたちは驚いた。でも、琉球で演じられる『かぐや姫』は、かぐや姫が月に帰って終わりだった。富士山で不老不死の薬を燃やす場面は出て来なかった。
スサノオ様の頃は何と呼んでいたのですか」とササは聞いた。
「わしは富士山の事は知らなかったんじゃよ。伊勢より東には行った事はないんじゃ。噂では煙を上げている山があるとは聞いていたが、何と呼んでいたのか覚えておらんな。そんな事より、瀬織津姫様はどうして、こんな遠くまでやって来たのですか」
「どうしてかしらね。運命(さだめ)だったのかしら?」と瀬織津姫は首を傾げて笑った。
 うっとり見とれてしまうほど美しい笑顔だった。その笑顔を一目見たいと大勢の人たちが集まって来て、瀬織津姫様はみんなの神様として祀られたのだろうとササは思った。
「わたしは那智の滝が気に入って、そこを終焉の地にするつもりでいたのよ。でも、ある日、神津島(こうづしま)(伊豆諸島)の娘が訪ねて来たのよ。『矢の根石(やぬにーいし)(黒曜石)』と貝殻の交易がしたいと言って来たの。可愛い娘でね、自分の若い頃を思い出したわ。遠い那智まで来るのは大変だから、富士山の近くに拠点を造ってくれって言ったので、富士山まで行く事に決めたのよ。海の上から富士山を見て、わたしは一目で気に入ったわ。富士山こそが、わたしの終焉の地にふさわしいってね。沼津に交易の拠点を造って、都は富士山の北側に造ったの。富士山の上に昇る月が見られるから北側にしたのよ」
「ヤヌニーイシって何ですか」とササは聞いた。
「鉄が手に入る前、弓矢の鏃(やじり)は鋭い石を使ってたんじゃよ」とスサノオが説明した。
琉球では『黒石(くるいし)』と呼んでいて、魚を捕るモリの先にも付けていたんじゃ。琉球では手に入らん貴重な石だったんじゃよ。瀬織津姫様は矢の根石を求めてヤマトゥ(日本)に来たのですか」
「そうですよ。まだ、ヤマトゥとは呼ばれてはいなかったけどね。わたしは貝殻を積んで、百人の人たちを率いて、『矢の根石』と『翡翠(ひすい)』を求めてやって来たのよ。白川を遡(さかのぼ)って阿蘇山の麓(ふもと)に落ち着いたの。阿蘇山で矢の根石が採れたのよ。大量の貝殻を持って来たから、貝殻が欲しい人たちが大勢集まって来たわ。その中に『日向津彦(ひむかつひこ)』がいて、わたしは彼と結ばれたのよ。翡翠の産地のヌナカワ(糸魚川市の姫川)から来た人もいたわ。わたしはその人の案内でヌナカワまで行ったのよ。ヌナカワの首長の『ヌナカワ姫』と会って意気投合したわ。ヌナカワには翡翠を加工する工房があって、大勢の人たちが働いていたわ。わたしはそれを見倣って、琉球に貝殻の工房を造ったのよ。貝輪や首飾りを造らせて、ヤマトゥに運ばせたの。加工した方が運ぶのも楽だし、交易もうまくいったわ」
 ササが瀬織津姫の腕を見ると綺麗な貝輪をいくつも着けていた。玉依姫もトヨウケ姫も着けていて、今まで気づかなかったが、ユンヌ姫もアカナ姫もメイヤ姫も着けていた。貝輪はヌルの必需品だったのかもしれなかった。
瀬織津姫様はヤマトゥと琉球を行き来していたのですか」と玉依姫が聞いた。
「子供ができてしまったので、わたしはなかなか里帰りができなかったの。でも、一緒に来た人たちは毎年、冬に帰って夏に戻って来たわ。矢の根石と翡翠、絹や毛皮などを持って帰って、貝殻を運んでいたのよ。わたしが琉球に帰ったのは十年くらい経ってからだわ。子供たちを連れて帰ったのよ」
「その時、このガーラダマ(勾玉)を妹さんに贈ったのですね?」とササは首から下げたガーラダマを示しながら聞いた。
「そうよ。妹に垣花(かきぬはな)のヌル(首長)を継ぐように頼んだのよ」
「どうして、阿蘇から武庫山(むこやま)(六甲山)に移ったのですか」と玉依姫が聞いた。
「それは交易の範囲を広げるためよ。長女が十五歳になったので、阿蘇津姫の名前を譲って、阿蘇の事は長女と次女に任せたの。わたしは下の子供たちを連れて武庫山に移ったわ。武庫山にはヌナカワ姫の拠点があって、娘に跡を譲ったヌナカワ姫が武庫山にいたのよ。武庫山でも貝の交易はうまくいったわ。瀬戸内海沿岸の人たちは勿論の事、遠くの方からも山々を越えて、貝を求めてやって来たわ」
「武庫山から那智に移ったのも交易を広げるためですか」と玉依姫が聞いた。
那智に移ったのは交易のためじゃないわ。舟を造るための太い材木を探しに行って、那智の滝を見つけたの。ヌナカワ姫が亡くなってしまったので、わたしも死を予感して、終焉の地として那智を選んだのよ。でも、結局は富士山まで来てしまったわ」
瀬織津姫様の娘さんの『阿波津姫(あわつひめ)様』は、阿波の国(徳島県)の『大粟神社(おおあわじんじゃ)』にいらっしゃいますか」とササは聞いた。
「いると思うけど、阿波津姫がどうかしたの?」
「わたしの祖母は大粟神社の巫女の娘だったそうです」
「あら、もしかしたら、あなたのお祖母(ばあ)様は阿波津姫の子孫なの?」
「多分、そうだと思います」
「成程ね。それで、そのガーラダマを身に着ける事ができたのね」
「『大冝津姫(おおげつひめ)様』は阿波津姫様の事ですか」
「そうよ。阿波津姫はわたしたちの食糧を確保するために阿波の島(四国)に渡ったの。あそこは粟(あわ)の産地だったのよ。大冝津姫とも呼ばれたわ。オオゲツの『ゲ』は食物を意味していて、食物をつかさどる大いなる神様という意味なのよ」
瀬織津姫様にお尋ねいたします。秦から来られた『徐福』という仙人を御存じですか」とシンシンが聞いた。
「知っているわ。わたしが亡くなってから三十年くらい経って、大きな船でやって来たわ。徐福たちは河口湖のほとりで暮らしていたのよ。徐福は最新の技術を持って来たから、わたしの子孫たちも色々と教わったのよ。特に養蚕の技術はありがたかったわ。絹はわたしたちの都の特産になったのよ」
瀬織津姫様がお召しになっている絹もその都で造ったものなのですね」とササが聞いたら瀬織津姫は首を振った。
「これはヌナカワ姫が燕(イェン)の国と交易して手に入れた物なのよ。燕の国は秦に滅ぼされてしまうけど、あの頃は栄えていたのよ」
「ヌナカワ姫様の翡翠は燕という国まで行ったのですか」
「そうなのよ。ヌナカワ姫の配下の人たちは筑紫(つくし)の島(九州)の北にある弁韓(べんかん)(韓国南部)という所に渡って交易をしていたの。そこから、さらに北へと行って燕の国とも交易をしていたのよ。ヌナカワ姫は尊敬すべき凄い人だったわ」
「その凄いヌナカワ姫様よりも瀬織津姫様が有名なのはどうしてなのですか。何か凄い奇跡を起こしたのですか」
「そんなの起こしませんよ」と瀬織津姫は笑ったが、
「わしは知っておるぞ」と役行者が言った。
阿蘇津姫だった頃、阿蘇山の噴火を鎮めて有名になったんじゃよ」
「あの時は阿蘇に来て三年目で、わたしも若かったし、必死だったのよ。死ぬ覚悟で阿蘇山に登って、お祈りを捧げたら、阿蘇山の神様がわたしのお願いを聞いてくれたのよ。それ以後、わたしは阿蘇津姫と呼ばれるようになったのよ」
「武庫山では雨乞いのお祈りをして雨を降らせて、人々を喜ばせたんじゃ。雨乞いをした山は女神山(目神山)と呼ばれるようになった。武庫津姫様が住んでおられた屋敷跡には『広田神社』が建てられて、武庫津姫様をお祀りしておるんじゃよ」
「あの時もきっと、武庫山の神様がわたしのお願いを聞いてくれたのよ。武庫山には古くから人々が暮らしていて、その人たちは山の中のあちこちに神様を祀っていたわ。その人たちの神様が助けてくれたのよ」
「広田神社を創建したのは、わたしの跡を継いだ『豊姫』なのよ」と玉依姫が言った。
「豊姫が新羅(シルラ)を攻めて帰って来た時、戦(いくさ)に勝てたお礼として瀬織津姫様が住んでおられた地に広田神社を建てたのよ」
「シルラってどこですか」とササは玉依姫に聞いた。
「昔、朝鮮(チョソン)にあった国よ」
「豊姫様は朝鮮まで戦をしに行ったのですか」
「当時、朝鮮の南部には『倭人(わじん)』たちが住んでいて、小さな国を造っていたの。それを助けに行ったのよ」
「その時、豊姫は対馬(つしま)の『木坂の八幡宮(海神神社)』も建てたんじゃよ」とスサノオが言った。
「えっ、そうなのですか。もしかして、豊姫様は『神功皇后(じんぐうこうごう)様』なのですか」
「のちの世になって、そう呼ばれるようになったようじゃ」
 ササが神功皇后を知ったのは初めて対馬に行った時、ヂャンサンフォン(張三豊)と一緒に対馬一周の旅で木坂の八幡宮に行った時だった。神功皇后というヤマトゥの王妃が朝鮮まで戦に行ったと神様から聞いて驚き、ユキの母親のイトが女船頭として活躍しているのも納得できたのだった。
 スサノオ玉依姫の話を聞いていた役行者が、「スサノオの神様とヤマトの国の女王様、卑弥呼(ひみこ)殿(玉依姫)と一緒に酒が飲めるなんて思ってもいなかった」と嬉しそうに笑った。
「これも皆、瀬織津姫様のお陰じゃな。改めて感謝いたそう」
 皆で乾杯したあと、ササは話を戻して、「那智でも瀬織津姫様は奇跡を起こしたのですか」と役行者に聞いた。
那智ではのう、真冬の大雪の降る中、瀬織津姫様は滝に打たれておったんじゃよ」
 瀬織津姫は手を振りながら笑った。
「そんな事はしていませんよ。誰かが幻を見たのでしょう」
那智では瀬織津姫様は如意輪観音(にょいりんかんのん)様として祀られておった。わしも如意輪観音様がふさわしいと思っていたんじゃが、天竺(てんじく)(インド)から来た法道仙人(ほうどうせんにん)から弁才天(べんざいてん)様の事を聞いて、瀬織津姫様は弁才天様じゃと思ったんじゃ。それで、天川(てんかわ)に弁才天社を造ったんじゃよ」
 那智の如意輪堂で如意輪観音像を見たが、やはり、天川の弁才天像の方が瀬織津姫様にふさわしいとササも思った。
 その夜は夜明け近くまで楽しくお酒を飲んでいた。神様たちと一緒にお酒を飲むと、いくら飲んでもお酒がなくならないので安心だった。
 翌日は精進湖でのんびりと過ごして、五ヶ所浦に帰ったのは八月十八日だった。二日後、愛洲のお屋形様が兵たちを引き連れて戦から帰って来た。
 戦に参加できなくて不機嫌だったお屋形様は、ジルーが帰って来た事を知ると、ジルーを城に呼び出した。ジルーが持って来た明国の陶器、南蛮(なんばん)(東南アジア)の珍しい品々、そして、トンドの砂金を見ると、急に機嫌がよくなった。
「帰りが遅いので心配していたが、南蛮まで行って来たとは恐れ入った。今宵は帰国祝いの宴(うたげ)を開いて、旅の話をゆっくりと聞こう」
 お屋形様はニコニコしながらジルーを褒めていた。
 ササたちも帰国祝いの宴に参加して、琉球の話をして喜ばれた。お屋形様の話によると、伊勢の戦は終わって、将軍様の兵も皆、撤収したという。
 翌日、ササたちはジルーたち、村上水軍のあやと別れて、覚林坊の案内で京都に向かった。
「戦は終わっても、戦のあとは残党どもや山賊どもが出て来て悪さをする。充分に気を付けてくれ」と覚林坊は言った。
 ササはヤマトゥ言葉がわからない若ヌルたちに注意を与えた。若ヌルたちは真面目な顔付きになって、うなづいた。
 その日は伊勢の外宮(げくう)の近くにある世義寺(せぎでら)まで行った。広い境内に僧坊が建ち並び、大勢の山伏たちがいた。覚林坊は山伏たちから情報を集めた。ササたちは宿坊に泊まって、翌朝、全員が山伏の格好に着替えて、宮川を渡って西へと向かった。街道は危険だというので山道を通って行き、着いた所は役行者が開いたという飯福田寺(いふたじ)(松阪市)だった。次の日は伊賀の霊山寺(れいざんじ)、その次の日は近江(おうみ)の飯道山(はんどうさん)と山伏の拠点に寄りながら、五日目に無事に京都に着いて、高橋殿の屋敷を訪ねた。
 覚林坊も高橋殿の噂は知っていた。先代の将軍様足利義満)の側室で、今の将軍様にも顔が利いて、高橋殿の機嫌を損ねると官位を剥奪されて左遷させられると言われるほど力を持っている。美人だが恐ろしい女だと聞いていると言った。
「とても優しい人ですよ」とササが言うと信じられないと言って覚林坊は首を振った。
 高橋殿は屋敷にいて、山伏姿のササたちを見て驚いた。
「博多に行っていた奈美から、今年もササは来ないって聞いたわよ」
「南の島に行っていて、みんなのあとを追って来たのです」
「そうだったの。御台所(みだいどころ)様(将軍義持の妻、日野栄子)が喜ぶわ」
 ササたちは高橋殿の屋敷に入って、山伏姿からいつもの格好に着替えて、タミー(慶良間の島ヌル)とハマ(越来ヌル)とクルーに再会した。
「活躍は色々と聞いたわ」とササがタミーに言うと、
「活躍だなんて‥‥‥」とタミーは首を振った。
「ササ様の代わりを立派に務めなければならないと思っただけです。ササ様が来るなんて驚きました。愛洲様の船でいらしたのですね?」
「そうよ。色々と調べる事があってね。富士山まで行って来たのよ」
「えっ!」とタミーたちは驚いた。
 高橋殿も驚いて、「今度は何を調べているの?」と聞いた。
瀬織津姫様の事です。御存じですか」
瀬織津姫様なら西宮(にしのみや)と呼ばれている『広田神社』でしょ」
「広田神社に行った事があるのですか」
「先代の将軍様と一緒に行った事もあるし、その後も何度かお参りをしたわ」
 ササは嬉しそうな顔をして、「連れて行って下さい」と頼んだ。
 高橋殿が一緒ならどこに行っても怖い物なしだった。
「そうねえ。御台所様を誘って行きましょうか。御台所様もどこかに行きたくてしょうがないのよ。広田神社なら遠くもないし手頃だわね」
 ササたちは手を打って喜んだ。
「できれば、そのあと四国の『大粟神社』にも行きたいのですけど」とササは遠慮がちに言った。
「大粟神社?」
「阿波の国です。わたしの祖母がその神社の巫女の娘だったのです」
「えっ、あなたのお祖母様って、阿波の国の人だったの?」
 ササはうなづいた。
「祖母はもう亡くなってしまったんですけど、その神社には瀬織津姫様の娘さんの『阿波津姫様』がいらっしゃるので行ってみたいのです」
「阿波の国か‥‥‥いいわ。船を出して行きましょう」
 ササは頭を下げてお礼を言って、シンシン、ナナ、カナと顔を見合わせて喜んだ。
「ところで、あの子たちは何なの?」と高橋殿は若ヌルたちを見て聞いた。
「みんな、ササの弟子なんです」とナナが言った。
 高橋殿はササを見て笑った。
「八人も弟子がいるなんて大したものね。ずっと、あの子たちを連れて旅をしていたの?」
「そうなんです。阿波の国にも連れて行って下さい」
「賑やかな旅になりそうね」
 その夜、高橋殿は歓迎の宴を開いてくれた。豪華な料理を見て、若ヌルたちは目を丸くして驚いていた。中条(ちゅうじょう)奈美と対御方(たいのおんかた)と平方蓉(ひらかたよう)もやって来て、ササたちを歓迎した。
 ササたちが南の島の話をしていたら、御台所様がお忍びで現れた。
「明日まで待ちきれなかったわ」と御台所様はササのもとに駆け寄って、再会を喜んだ。
 覚林坊と辰阿弥、阿蘇弥太郎と喜屋武ヌル、天久之子、玻名グスクヌル、ミーカナとアヤーは唖然とした顔で、ササと御台所様の仲のいい様子を見守っていた。

 

 

 

サラスヴァティー弁才天(弁財天)彫像 知識と音楽、芸術の女神/ Saraswati - Hindu Goddess of Knowledge, Music & Art[輸入品   イスム Standard 如意輪観音_仏像 フィギュア イSム isumu MORITA (にょいりんかんのん)

 

2-199.満月(改訂決定稿)

 八月十五日、首里(すい)グスクで冊封使(さっぷーし)を迎えて『中秋(ちゅうしゅう)の宴(うたげ)』が催され、島添大里(しましいうふざとぅ)グスクでは『十五夜(じゅうぐや)の宴』が催された。中秋の宴は馬天(ばてぃん)ヌルと安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)が中心になって行ない、十五夜の宴はサスカサ(島添大里ヌル)と久高島(くだかじま)の大里(うふざとぅ)ヌルが中心になって行なった。
 スオナ(チャルメラ)を吹く楽隊を先頭に、馬に乗った護衛の兵たちに守られて、お輿(こし)に乗った冊封使たちが浮島(那覇)から首里まで行進した。大勢の見物人たちは小旗を振りながら、初めて聞く明国(みんこく)の音楽に驚いて、奇妙な着物を着た唐人(とーんちゅ)たちを物珍しそうに眺めていた。
 首里グスクに入った冊封使たちは北の御殿(にしぬうどぅん)の宴席に納まって、従者たちの席は北の御殿の前の御庭(うなー)に用意された。百浦添御殿(むむうらしいうどぅん)(正殿)の前に中山王(ちゅうざんおう)の思紹(ししょう)と王妃、世子(せいし)(跡継ぎ)のサハチ(尚巴志)と世子妃のマチルギが正装して座り、その両側に重臣たちが並び、南の御殿(ふぇーぬうどぅん)の前に按司たちが並んでいた。
 日暮れと同時にキーヌウチ(後の京の内)でヌルたちの儀式が始まって、安須森ヌルが吹く笛の音が流れた。
 百浦添御殿、北の御殿、南の御殿の軒下にいくつもの灯籠(ドンロン)が下げられて、御庭は昼間のように明るかった。祝杯を重ねながら儀式が終わるのを待って、やがて、百浦添御殿の屋根の上に満月が顔を出すと、儀式を終えたヌルたちが御庭に入って来て華麗に舞い始めた。
 薄衣(うすぎぬ)をなびかせて舞うヌルたちは妖艶で、幻想的な曲に合わせて舞う姿はこの世のものとは思えないほど美しく、冊封使たちも感激して見入っていた。
 ヌルたちの舞が終わると『宇久真(うくま)』の遊女(じゅり)たちが現れて、冊封使たちにお酌をした。皆、明国の言葉がしゃべれる遊女たちだった。
 御庭にはサングルミー(与座大親)が現れて二胡(アフー)の演奏が始まった。サングルミーの登場を一番喜んだのは思紹だった。いつも、この時期に明国に行っているので、満月を見ながらサングルミーの二胡を聞くのは久し振りだった。サハチもサングルミーの演奏を久し振りに聴いて感動していた。
 哀愁を帯びた二胡の調べは満月とよく似合って、皆、シーンとして聴き入っていた。
 その頃、島添大里グスクではファイチ(懐機)がヘグム(奚琴)を弾き、娘のファイリン(懐玲)が三弦(サンシェン)を弾いて合奏をしていた。南の島の人たちも招待して、賑やかな十五夜の宴となっていた。
 安須森ヌルは首里に行っていて、ササ(運玉森ヌル)たちもいないが、南の島のヌルたちが参加していたので、ヌルたちによる舞は例年以上に華やかだった。シーハイイェン(パレンバンの王女)たち、スヒター(ジャワの王女)たち、アンアン(トンドの王女)たち、リーポー姫(永楽帝の娘)たちも自国の歌と踊りを披露した。ハルのかぐや姫とシビーのチャンオー(嫦娥)の共演もあった。シビーが演じるのは初めてだったが、なかなかうまいものだった。ウニタキ(三星大親)はミヨンを連れて首里に行き、冊封使たちに歌と三弦を披露する事になっていた。
 『宇久真』では安謝大親(あじゃうふや)が旧港(ジゥガン)(パレンバン)とジャワ(インドネシア)とトンド(マニラ)の使者たちを招待して、十五夜の宴を開いていた。女将のナーサがいないのでマユミは大忙しだったが、立派に女将の代理を務めていた。


 その頃、ヤマトゥ(日本)に行ったササは精進湖(しょうじこ)のほとりで、富士山の上に昇っている満月をじっと見つめていた。
 六月十二日に浮島を出帆した愛洲(あいす)ジルーの船は二十八日に薩摩の坊津(ぼうのつ)に着いた。
 『一文字屋』の主人の孫三郎は京都に行っていて留守だった。若主人の弥三郎の話によると、二月に始まった伊勢の戦(いくさ)はまだ終わっていなくて、多分、琉球の交易船はまだ博多にいるだろうとの事だった。孫三郎はクレー(シビーの兄)とサジルー(苗代之子の長男)とマサンルー(ウニタキの次男)と越来(ぐいく)ヌルのハマ、トゥイ様(先代山南王妃)たちとナーサを連れて京都に向かったが、京都に着いたかどうかはわからないと言った。
 ササたちは坊津に二泊して、船旅の疲れを取ってから北上した。八代(やつしろ)に着いたのは七月三日で、阿蘇弥太郎(ヤタルー師匠)のお陰で、ササたちは八代城主の名和伯耆守(なわほうきのかみ)に歓迎された。
 名和伯耆守は南北朝の戦の時に弥太郎と一緒に戦っていて、弥太郎は戦死したものと思っていた。二十四年振りの再会を喜んで、お互いに昔の事を懐かしそうに語り合っていた。
 弥太郎は阿蘇神社の大宮司(だいぐうじ)の息子だった。阿蘇神社は広大な社領を持ち、武力も持っていて、大宮司は神主(かんぬし)でもあり、武将でもあった。
 弥太郎が生まれた時、南北朝の戦は始まっていて、阿蘇神社も北朝(ほくちょう)方と南朝(なんちょう)方に分かれて対立していた。分家だったが大宮司の娘婿となった弥太郎の祖父(阿蘇惟澄)は、南朝方として活躍して大宮司になった。祖父の長男(惟村)は北朝方として戦い、次男(惟武)は父と共に南朝方として戦っていた。祖父は亡くなる前に、兄弟で争うのはやめるように諭して、長男に大宮司職を譲った。しかし、南朝の征西府(せいせいふ)はそれを許さず、次男を大宮司と認めた。北朝は長男を大宮司と認めたので、阿蘇神社は二人の大宮司がいる事になって、完全に分裂してしまった。弥太郎は南朝の大宮司の息子だった。
 弥太郎は元服(げんぶく)すると父に従って戦に参加した。十九歳の時、父が戦死してしまい、兄が大宮司職を継いだ。二十一歳の時、阿蘇に来た慈恩禅師(じおんぜんじ)と出会って弟子になり、二年間、各地を一緒に旅をして武芸の修行に励んだ。阿蘇に帰ると武芸の腕を認められて、懐良親王(かねよししんのう)の跡を継いだ良成親王(よしなりしんのう)に仕える事になった。
 当時、北朝今川了俊(いまがわりょうしゅん)の活躍で、南朝の拠点は次々に落とされて、征西府は金峰山(きんぼうざん)の山中にあった。弥太郎は左衛門佐(さえもんのすけ)を名乗って良成親王に近侍した。
 三年後には征西府を宇土(うと)に移して、南朝方の盛り返しを狙うが、今川了俊の総攻撃に遭って、名和氏を頼って八代に移る。八代に移って一年後には、そこも攻められて、良成親王は矢部(やべ)の山中に逃げた。その時の戦で重傷を負った弥太郎は天草(あまくさ)氏に助けられた。天草で傷を治して、良成親王を探し出すつもりでいたが、南北朝の戦が終わった事を知らされる。名和氏も北朝に降参して、本領を安堵されたという。
 弥太郎は急に気が抜けてしまう。南北朝の戦が終わっても、兄と伯父は争いを続けていた。阿蘇に帰って、その争いに巻き込まれたくはなかった。どこか遠くに行きたいと思った。そんな時、天草氏が琉球に船を出すと聞いて、弥太郎は琉球に行ったのだった。
 翌日、名和伯耆守の息子の弾正(だんじょう)の案内で、ササたちは阿蘇山に向かった。二十人余りの一行は馬に乗って進んだ。城下の人たちはサムレーの格好をして馬に乗っている娘たちを珍しそうに眺めていた。
 弾正はササたちが八代に来た事を喜んでいた。ササたちは弾正を知らないが、弾正は丸太引きのお祭りを毎年、見ていて、ササたちの事はよく知っていた。ヤマトゥンチュ(日本人)たちは誰が勝つのか賭けをやっていて、ササに賭けて、たっぷりと儲けさせてもらった事もあると弾正は楽しそうに笑った。
 馬に乗って山道を進み、着いた所は阿蘇山の南にある矢部の『浜の館(やかた)』だった。堀と石垣に囲まれた大きな屋敷で、弥太郎の兄の大宮司がいて、弥太郎の出現に幽霊でも見ているような顔をしていた。
「兄上」と弥太郎が言うと、
「本当に弥太郎なのか」と兄は疑いの目で見ていたが、弥太郎が昔の事を話すと、「生きていたのか」と目に涙を溜めて喜んだ。
 ササたちは歓迎されて、その夜はお酒を飲みながら琉球の話をして喜ばれた。ササは大宮司から『阿蘇津姫(あそつひめ)』の事を聞いた。
阿蘇山の神様で、火の神様であり、水の神様でもあるし、戦の神様でもあるんじゃよ。そして、わしらの御先祖様じゃ」
 ターカウ(台湾の高雄)にいる五峰尼(ごほうに)の事を聞いたら、大宮司と弥太郎の叔母だという事がわかった。五峰尼が弥太郎の事を知らなかったと言うと、弥太郎は笑って、弥太郎を名乗ったのは元服したあとなので、叔母は知らないのだろうと言った。弥太郎が五歳の時に五峰尼は菊池三郎に嫁いで、弥太郎が元服した年にターカウに行ってしまったという。
 大宮司の話も五峰尼が言った事と同じで、それ以上の事はわからなかった。
 阿蘇津姫と結ばれた『アマテル』の事も聞いたが、大宮司は知らなかった。
阿蘇津姫様と結ばれたのは阿蘇津彦様じゃよ。タケイワタツノミコト様ともいう神様じゃ」と大宮司は言った。
 翌日、山伏の案内で阿蘇山に向かった。途中で馬から下りて細い山道を進んで、一日掛かりで、ようやく山頂にある阿蘇神社の奥の宮に着いた。
 阿蘇山は思っていたよりもずっと大きな山で、山頂には大昔に噴火したという大きな火口があった。そこからの眺めは雄大で、琉球では考えられないほど広々としていた。
 ササたちは奥の宮でお祈りをしたが、阿蘇津姫の声は聞こえなかった。ササが首から下げている瀬織津姫(せおりつひめ)のガーラダマ(勾玉)も目覚める事はなかった。
「どうして、瀬織津姫様の声が聞こえないの?」とシンシン(杏杏)がササに聞いた。
瀬織津姫様はここにはいらっしゃらないという事よ」
「でも、古い神様がそのガーラダマの事を知っているんじゃないの?」
「このガーラダマは瀬織津姫様が琉球からここに来たばかりの時に身に付けていた物よ。もし、瀬織津姫様の娘さんが阿蘇津姫を継いだとしても、娘さんはこのガーラダマは知らないでしょうね」
「そうか。玉グスクのウタキ(御嶽)に埋められたガーラダマじゃないとだめなのね」
瀬織津姫様の声は聞こえなかったけど、瀬織津姫様が遙か昔に、ここにいた事は確かだと思うわ」とササが言うと、シンシンとナナとカナ(浦添ヌル)は素晴らしい景色を眺めながらうなづいた。
 若ヌルたちはキャーキャー騒ぎながら景色を楽しんでいた。
 奥の宮から、来た道とは別の道を降りて行くと、西巌殿寺(さいがんでんじ)という大きなお寺があった。僧坊がいくつも建ち並んでいて、大勢の山伏たちがいた。ササたちはその中の宿坊(しゅくぼう)のお世話になって、翌日、阿蘇山を下りた。
 七月八日、五島(ごとう)の福江島に着いて、早田左衛門三郎(そうださえもんさぶろう)と再会して、七月十一日、壱岐島(いきのしま)で志佐壱岐守(しさいきのかみ)と再会した。壱岐守は八人の若ヌルたちを見て、ササの弟子だと知ると目を丸くして驚いていた。
「玻名(はな)グスクヌルと喜屋武(きゃん)ヌル(先代島尻大里ヌル)の弟子たちよ。あたしはちっとも面倒を見ていないわ」とササは笑った。
 七月十三日、博多の手前の可也山(かやさん)の西に船を泊めて、小舟(さぶに)で上陸してササたちは豊玉姫(とよたまひめ)のお墓に行った。
 お祈りをすると玉依姫(たまよりひめ)の声が聞こえた。
「ユンヌ姫から聞いたわよ。南の島に行って、アマミキヨ様の事を色々と調べて来たんですってね。新しい発見もあったらしいじゃない。お父様(スサノオ)を呼んで、ヤキー(マラリア)退治をさせるなんて、あなたは大したものだわ。そして、今度は瀬織津姫様の事を調べているのね」
「そうなのです。玉依姫様は瀬織津姫様の事を御存じですか」
「勿論、瀬織津姫様の事は知っているわよ。お父様から御先祖様だって聞いているわ。でも、瀬織津姫様が琉球のお姫様だっていう事はお母様(豊玉姫)から聞いて、初めて知ったのよ。驚いたわ。お母様がヤマトゥに来るよりずっと前に、瀬織津姫様が琉球から来ていたなんて。それでね、わたしなりに瀬織津姫様の事を調べてみたのよ」
「えっ、玉依姫様が瀬織津姫様の事を調べたのですか」
「そうよ。まさか、あなたがそんな古い神様の事を調べるなんて思ってもいなかったわ。お母様が琉球の事を調べたので、わたしはヤマトゥの事を調べたのよ。お父様から瀬織津姫様は伊勢で亡くなったのだろうって聞いていたので、伊勢の神宮の古い神様たちに聞いて回ったの。瀬織津姫様の事を知っている神様はいなかったけど、『伊勢津姫様』を知っている神様はいたわ。伊勢津姫様は伊勢で亡くなったらしいわ。伊勢の神様として祀られていたんだけど、わたしが『アマテラス』として伊勢の神宮に祀られる事になって、伊勢津姫様は封印されてしまったらしいのよ。内宮(ないくう)の正殿の床下に『心御柱(しんのみはしら)』というのがあるわ。それによって封印されているの。心御柱が腐ってしまうと封印が解けてしまうので、伊勢の神宮心御柱が腐る前に建て直しをしなければならないの。二十年以内には必ず新しい心御柱に替えて、伊勢津姫様が蘇らないようにしているのよ」
伊勢の神宮は今までずっと、二十年毎に建て替えをしていたのですか」
「二十年とは決まっていないけど、もう五百年以上も前から、心御柱が腐る前に必ず、建て替えをしているわ」
「もし、心御柱が腐ってしまうと、どうなるのですか」
「封印されていた伊勢津姫様が蘇って大変な事が起こるでしょう。戦乱の世が続いて大勢の人たちが犠牲になるかもしれないわね」
「伊勢津姫様がそんな恐ろしい事をするのですか」
「伊勢津姫様は誰からも尊敬されていた神様だったわ。それなのに、突然、封印されてしまった。怒りは物凄いのかもしれないわね」
「誰が封印したのですか」
「きっと、陰陽師(おんようじ)よ。でもね、伊勢津姫様は伊勢で亡くならないで、駿河(するが)の富士山まで行ったと言う神様もいたのよ。わたしは富士山まで行って調べたわ。富士山には『浅間大神(あさまのおおかみ)様』という神様が祀られていたけど、声を聞く事はできなかったの。わたしの勘なんだけど、浅間大神様は瀬織津姫様のような気がするわ」
「富士山ですか‥‥‥玉依姫様は瀬織津姫様の声を聞いた事があるのですか」
「あるわよ。危機に瀕した時、何度か助けていただいたのよ。でも、どこにいらっしゃるのかわからなくて、わたしから声を掛けてもお返事を聞いた事はないの。まだ、お礼も言ってないわ」
瀬織津姫様はどこにいらっしゃると思いますか」
「あなた、瀬織津姫様の勾玉(まがたま)を見つけたのよね。瀬織津姫様が気づけば、必ず声を掛けて来るはずよ。武庫山(むこやま)(六甲山)か、那智の滝か、伊勢の神宮か、天川(てんかわ)の弁才天社(べんざいてんしゃ)か、富士山にいらっしゃると思うわ」
「天川の弁才天社にいるかもしれないのですか」
瀬織津姫様があそこにいた事はないんだけど、のちの世に『役行者(えんのぎょうじゃ)』が瀬織津姫様をお祀りしたから、そこにいるかもしれないわ。山の中で居心地がよさそうだしね。武庫山は戦で荒らされてしまったし、伊勢の神宮は伊勢津姫様が封印されているから居心地はよくないでしょう」
「武庫山は戦で荒らされたのですか」
「そうよ。平清盛(たいらのきよもり)は福原に都を造る時に武庫山の木を大量に伐り出したし、源氏が平家を攻めた時は武庫山で戦も行なわれたわ。南北朝の戦の時も、赤松円心が山の上に城を築いたので、山中で戦が行なわれたのよ。武庫山では大勢の山伏たちが修行していて、神社やお寺がいくつもあったんだけど、戦で焼けてしまったものも多いのよ。今、思い出したけど、武庫山の中に『神呪寺(かんのうじ)』というお寺があるんだけど、そこに『如意尼(にょいに)』という面白い人がいたわ。五百年以上も前の人だから神様になって神呪寺にいるわよ。生まれは丹後の国(京都府北部)で、『ホアカリ(玉依姫の息子)』の子孫なのよ。幼い頃から霊力が強くて、十歳の時に京都に行って、六角堂(頂法寺)の如意輪観音(にょいりんかんのん)様に仕える巫女(みこ)になったの。そこで『空海(くうかい)』と出会ったのよ」
空海って誰ですか」とササは聞いた。
「お坊さんよ。若い頃は山の中を走り回っていて、唐の国に渡って仏教を学んで、帰って来てから熊野の近くの高野山(こうやさん)にお寺を造ったのよ。空海は霊力が強かったから瀬織津姫様の声が聞こえたのね。六角堂の如意輪観音瀬織津姫様の事だって、如意尼に教えたの。瀬織津姫様の事を知った如意尼は生涯、瀬織津姫様にお仕えしようと決めたんだけど、あまりにも美しすぎたために天皇に見初められて、御所に迎えられるの。天皇の妃(きさき)となって『真名井御前(まないごぜん)』と呼ばれて、五年間を過ごすんだけど、瀬織津姫様の事が忘れられなくて、空海の助けを借りて、御所を抜け出して武庫山に行くのよ。真名井御前は武庫山で空海の弟子になって、山々を歩き回って厳しい修行を積んだわ。そして、空海が師と仰いでいた役行者を慕って大峯山(おおみねさん)に行くの。大峯山は女人禁制(にょにんきんぜい)の山なんだけど、真名井御前はそんな事はお構いなしに大峯山に登って、二十一日間の修行を成し遂げたのよ」
「えっ、女人禁制のお山に登ったのですか」
「そうなのよ。天皇の妃で、しかも、空海の弟子だから、大峯山の大先達(だいせんだつ)たちも手が出せなかったのよ。真名井御前の気迫に負けたのに違いないわ。大峯山では真名井御前の事は隠してしまったけど、痛快だったわ。武庫山に帰った真名井御前は、空海が彫った如意輪観音像を本尊として神呪寺を建てたのよ。その時、正式に出家して如意尼と名乗ったの。会えばあなたと気が合うと思うわ」
「あたしが会う事ができるのですか」
「あなたが瀬織津姫様の事を話せば、きっと話に乗ってくると思うわ」
「わかりました。武庫山に行ったら会ってみます」
 ササたちは玉依姫と別れて、愛洲ジルーの船に戻ると赤間関(あかまがせき)に向かった。北畠(きたばたけ)氏の味方をした愛洲氏が博多に行くのは危険だというので、博多には寄らなかった。
 七月十七日に上関(かみのせき)に着いて、村上水軍のあやと再会した。あやは突然のササの出現に驚き、大喜びをしてササたちを迎えた。村上水軍南朝方として活躍していたので、愛洲ジルーたちも歓迎された。
 上関に二日間滞在して、あやの船に先導されて、鞆(とも)の浦、牛窓(うしまど)、室津と行った。武庫山に行きたかったけど、兵庫津に入るのは危険だとあやに言われて諦めて、淡路島に沿って南下して田辺に向かった。あやも熊野水軍に挨拶に行くと言って付いて来た。田辺まで来れば熊野水軍の領域だった。愛洲水軍も熊野水軍に属しているので安全だった。
 田辺から那智に行き、那智の滝にお参りした。残念ながら瀬織津姫の声は聞こえなかった。しかし、那智の滝を見上げていると、遙か昔に瀬織津姫がここにいらしたという事は感じられた。
 如意輪堂の前で偶然、愛洲ジルーたちは知り合いの山伏と出会った。覚林坊(かくりんぼう)という山伏は驚いた顔をしてジルーたちを見て、「無事に帰って来たのか」と聞いた。
「予定よりも帰るのが遅れてしまいました。戦があったようですが、皆、無事でしょうか」とジルーは覚林坊に聞いた。
「愛洲殿の兵も多気(たげ)まで出陣したんじゃが、敵も多気までは攻めて来なかった。詳しい事はわからんが、北畠殿の戦に同調して関東でも騒ぎが起きたようじゃ。幕府としても早々にけりを付けたいらしく、仲介役を送って来たようじゃな。まもなく、幕府軍も引き上げる事じゃろう」
 ジルーたちは安心して、ササたちを覚林坊に紹介した。若い娘たちを連れて琉球からやって来たと聞いて覚林坊は驚いていた。
 ササが『天川の弁才天社』に行きたいと言うと、また驚いて、険しい山道を歩いて三日は掛かると言った。どうして、天川の弁才天社に行きたいのかと聞いたので、ササは瀬織津姫様に会いに行くと言った。
琉球の娘が瀬織津姫様を知っているとは驚いた。確かに、天川の弁才天様は役行者殿が祀った瀬織津姫様だが、わざわざ、会いに行くとはのう。かなりきつい道のりだぞ。若い娘たちが行けるような所ではない」
「でも、どうしても会わなければならないのです。わたしたちを天川の弁才天社に連れて行って下さい」
 ジルーが詳しい説明をすると、「そなたはスサノオの神様と話ができるのか」と驚いた顔をして聞いた。
 ササはうなづいて、「瀬織津姫様はスサノオ様の御先祖様だと聞いております」と言った。
 覚林坊はササをじっと見つめた。
「わしの師匠は役行者殿の事を調べていて、わしは師匠と一緒に役行者殿にゆかりのある地を巡ったんじゃよ。葛城山(かつらぎさん)、箕面山(みのおさん)、笠置山(かさぎやま)、飯道山(はんどうさん)、愛宕山(あたごやま)に登って、四国の剣山(つるぎさん)と石鎚山(いしづちやま)と九州の彦山(ひこさん)、駿河の富士山にも登った。そして、役行者殿が瀬織津姫様を各地に祀っていた事を知ったんじゃよ。信じがたいが、瀬織津姫様が琉球のお姫様だったとは面白い。いいじゃろう。天川の弁才天社に案内しよう」
 宿坊に泊まったササたちは翌朝、覚林坊に従って、大雲取りを越えて熊野の本宮(ほんぐう)を目指した。本宮から熊野川に沿って北上して、険しい山道を歩き通し、三日目の夕方、ようやく、天川の弁才天社に到着した。
 若ヌルたちはお互いに励まし合って歯を食いしばって歩いた。一番辛そうだったのは喜屋武ヌルだった。阿蘇弥太郎に励まされて、何とか皆のあとを付いて来た。各地を旅していた飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)も辰阿弥(しんあみ)も、天川の弁才天社に来たのは初めてで、凄い所だと感激していた。
 山奥なのに妙音院というお寺があって、僧坊がいくつも建ち並び、山伏たちも大勢いた。若い娘たちがぞろぞろとやって来たので、山伏たちは奇異な目をしてササたち一行を見ていた。
 覚林坊に従って、両側に僧坊が建ち並ぶ参道を通って岩山の上に建つ本殿に登った。本殿には役行者が彫った弁才天が鎮座していた。その弁才天はイシャナギ島(石垣島)のウムトゥダギ(於茂登岳)で会った『サラスワティ』にそっくりだった。サラスワティがここに来たのは本当だったのだとササたちは感激した。
 五十鈴(いすず)を鳴らして、ササたちはサ弁才天にお祈りを捧げた。苦労してやって来たのに、瀬織津姫の声は聞こえなかった。
 ササはどっと疲れが出て来たが、疲れた顔を見せたら若ヌルたちが気落ちしてしまうので、「ここは瀬織津姫様が住むのに最高の場所だわ。でも、どこかにお出掛けみたい」と言って笑った。
 本殿から降りて、覚林坊はササたちを行者堂(ぎょうじゃどう)に連れて行った。お堂の中には錫杖(しゃくじょう)を持った『役行者』の像があった。
「わしら山伏にとっての神様じゃ」と覚林坊は言った。
 ササたちは無事にここまで来られたお礼を込めてお祈りをした。
「そなたは誰じゃ?」という声が聞こえたので、ササは驚いた。
「今の声、聞こえた?」とササは振り返って聞いた。
 シンシン、ナナ、カナ、玻名グスクヌル、喜屋武ヌルが驚いた顔をしてうなづいた。
「右から二番目にいる若い娘じゃ」と声は言った。
 ササは振り返って若ヌルたちを見た。右から二番目にいたのはマサキだった。
「わたしの弟子のマサキといいます。あの娘がどうかしたのですか」
「そなたたちはどこから来たんじゃ?」
琉球です」
「やはり、琉球から来たのか。何年か前に将軍の御台所(みだいどころ)(将軍義持の妻、日野栄子)と一緒に琉球の姫が熊野に来たと話題になったが、そなたたちだったんじゃな」
「そうです。源氏の事や平家の事を調べるために熊野に参りました。あなたは役行者様ですね?」
「そうじゃ。マサキが付けている勾玉はわしが琉球に行った時に、真玉添(まだんすい)(首里にあったヌルたちの都)にいた『沢岻(たくし)ヌル』に贈った物なんじゃよ。マサキは沢岻ヌルの子孫なのか」
 ササは母の馬天ヌルから聞いた話を思い出した。ヤマトゥから来た役行者がビンダキ(弁ヶ岳)に弁才天を祀ったと言っていた。
「それは違うと思います。真玉添は滅ぼされてしまいました。滅ぼされる前にヌルたちは勾玉を集めて山に埋めました。数年前に地震があって、埋められてあった勾玉が蘇ったのです。その中の一つがマサキの勾玉です。その勾玉を選んだマサキは役行者様に縁があったのだと思います」
「そうじゃったのか。わしは瀬織津姫様から琉球の事を聞いて、行ってみたくなったんじゃ。当時、勾玉は廃れていたが、琉球では喜ばれると聞いて持って行ったんじゃよ。まさか、その勾玉が戻って来るとは夢でも見ているようじゃ」
「どこに行ったら瀬織津姫様に会えますか」とササは聞いた。
「そいつは難しい問題じゃな。わしが初めて瀬織津姫様の声を聞いたのは武庫山じゃった。そして、この地に瀬織津姫様をお祀りした。その時、瀬織津姫様からお礼を言われて、琉球の事を聞いたんじゃよ。そして、最後に声を聞いたのは富士山に登った時じゃった。富士山から下りて、北麓の『剗(せ)の海』のほとりにあった『浅間大神(あさまのおおかみ)神社』にお参りした時、瀬織津姫様の声を聞いたんじゃ。浅間大神というのは瀬織津姫様の事で、富士山の神様として祀られていたんじゃよ」
「ここと武庫山と富士山なのですね?」
「わしが瀬織津姫様の声を聞いたのはその三か所だが、そこに瀬織津姫様がいらっしゃるかどうかはわからん。しかも、富士山の浅間大神神社は今はもうない。わしが行った時から百五十年くらい経った頃、富士山が大噴火して、剗の海も浅間大神神社も埋まってしまった。今では樹海になっている」
「埋まってしまったのですか‥‥‥」
 ササたちはお礼を言って役行者と別れた。
 覚林坊は驚いた顔をして、「役行者殿と話をしていたのか」とササに聞いた。
 ササはうなづいた。
「山伏も大先達になると神様の声が聞こえるようになると聞いた事があるが、実際に目にしたのは初めてじゃ。そなたたちは凄いのう」
 覚林坊はササたちを富士山まで連れて行ってやると約束してくれた。
 ササたちは将軍様の御台所様と一緒に熊野参詣をした琉球の姫様たちだと、覚林坊が弁才天社を守っている先達山伏に言ったため、ササたちは大歓迎された。その夜は歓迎の宴が開かれ、お酒と料理を御馳走になった。帰りは舟に乗って天(てん)ノ川を下り、熊野川を下って新宮(しんぐう)まで行った。
 若ヌルたちはキャーキャー騒ぎながら、川下りを楽しんでいた。ジルーたちも天川の弁才天社に行ったのは初めてで、行けてよかったと喜んでいた。あやもこんな山奥に来るなんて思ってもいなかったと楽しそうに笑った。
 新宮では新宮孫十に歓迎されて、天川の弁才天社に行って来たと言ったら驚いていた。ジルーの船は新宮で待っていて、次の日の八月五日、ジルーの故郷、『五ヶ所浦』に着いた。
 ササたちはジルーの父、愛洲隼人(あいすはやと)に大歓迎された。隼人は水軍を率いて伊勢湾まで出陣したが、尾張(おわり)の兵が海を渡って伊勢に行く事はなく、七月の半ばには五ヶ所浦に戻って来たという。
 五ヶ所浦は伊勢と熊野を結ぶ拠点として栄えていた。伊勢の神宮を参詣して、熊野に行く参詣客は五ヶ所浦から船に乗って新宮に向かった。逆に熊野参詣のあと、伊勢の神宮に行く人たちもいた。ただ、北畠氏が戦を始めたために参詣客も極端に減っていて、早く戦が終わる事を願っていた。
 ササはジルーの妻と子供たちに会った。ジルーを心配していた妻はジルーの無事の帰国に涙を流して喜んでいた。子供たちも泣いていた。その姿を見て、悪い事をしてしまったと後ろめたい思いに駆られていた。ミーカナとアヤーもゲンザ(寺田源三郎)とマグジ(河合孫次郎)の妻や子供と会い、後ろめたい気持ちになっていた。
 ササたちはジルーの案内で、五ヶ所浦から剣峠(つるぎとうげ)を越えて伊勢の神宮に向かった。ゲンザとマグジは荷物を下ろす指示をするために五ヶ所浦に残った。ミーカナとアヤーは若ヌルたちを守るために一緒に来た。
 伊勢の神宮は思っていたよりも近かった。正午(ひる)過ぎには内宮(ないくう)に着いた。『伊勢津姫』と呼ばれた瀬織津姫がいた所だった。正殿の下に『心御柱(しんのみはしら)』があって、伊勢津姫が封印されていると玉依姫は言っていた。伊勢津姫は怒りのために『龍神』になったのだろうか。
 お祈りをしたが瀬織津姫の声は聞こえなかった。瀬織津姫を祀っているという『荒祭宮(あらまつりのみや)』でお祈りしても、瀬織津姫の声は聞こえなかった。封印された伊勢津姫が瀬織津姫だったら、封印を解かなければ声を聞く事はできない。ここに封印されているのが瀬織津姫でない事をササは願った。
 外宮(げくう)に行って『ホアカリ』に挨拶をして、月読(つきよみ)神社にも挨拶をした。何となく、月読という神様は瀬織津姫の事ではないのかとササは感じた。小俣(おまた)神社に行って『トヨウケ姫』に挨拶をして、ジルーの知り合いの御師(おんし)の宿屋のお世話になった。
 五ヶ所浦に戻って、ジルーの船に乗って富士山に向かった。二日目に沼津に着いて、駿河の水軍、大森伊豆守(いずのかみ)に迎えられて上陸した。大森伊豆守は駿河や伊豆の参詣客を五ヶ所浦に連れて行っていて、愛洲氏とは古くからの付き合いがあった。
 雄大で形のいい富士山は美しく、船の上からササたちはうっとりしながら眺めていた。瀬織津姫がここまでやって来たわけがよくわかったような気がした。
 覚林坊の案内で、富士山の北側に回って『浅間大神神社』があった辺りに向かった。山中湖を過ぎ、河口湖を過ぎて、西湖(さいこ)に来た。西湖は埋まらずに残った『剗の海』の一部だという。その先は『青木ヶ原』と呼ばれる樹海が広がっていた。
「樹海の中に入ったら出て来られなくなると聞いている」と覚林坊が言った。
「こんな所にいないわよ」とシンシンが言った。
「きっと、お山の上よ」とナナが富士山を見た。
「でも、女子(いなぐ)は富士山に登れないんでしょ」とカナが言った。
 富士山は山伏たちによって女人禁制の山になっていた。
 富士山を見上げながら、大峯山に登った『真名井御前』を見倣って登ってしまおうかとササが考えていると、突然、ガーラダマがしゃべった。
「樹海の中よ」とガーラダマは言った。
 ササはガーラダマを握って、「わかったわ」と言って振り返ると、みんなに、「行くわよ」と言って樹海の中に入って行った。
「ササ、ガーラダマが蘇ったの?」とシンシンが聞いた。
「そうみたい。ガーラダマに案内してもらうしかないわ」
「出られなくなったらどうするの?」とカナが心配した。
 若ヌルたちも心配顔でササを見ていた。
「大丈夫よ」とササは若ヌルたちに笑うと先に進んで行った。
 ガーラダマの案内で、半時(はんとき)(一時間)ほど原生林の中を進んで行くと、「ここよ」とガーラダマが言った。
 ササは立ち止まって辺りを見回したが、樹木(きぎ)が生い茂っているだけで、今まで歩いて来た所と同じ景色しか見えなかった。
「この下に『パーリ』が造った都が埋まっているのよ」とガーラダマは言った。
「パーリ?」とササは聞いた。
「あなたが探している人よ。パーリは『垣花姫(かきぬはなひめ)』という名前で、筑紫(つくし)の島(九州)にやって来たのよ」
瀬織津姫様の童名(わらびなー)はパーリだったのですね?」
 ガーラダマの返事はなかった。ササたちはその場に跪(ひざまづ)いて、お祈りを捧げた。
「とうとう、ここまでやって来たわね」と神様の声が聞こえた。
 ササは感激して叫びたい心境だったが、気持ちを抑えて、「瀬織津姫様ですね?」と聞いた。
「『瀬織津姫』という名前は、わたしが那智にいた時の名前で、娘に譲ったのよ。ここでは『浅間大神』と呼ばれているわ。役小角(えんのおづぬ)(役行者)が弁才天瀬織津姫を習合したお陰で、瀬織津姫の名前が有名になってしまったのよ」
「何とお呼びしたらよろしいのでしょうか」
瀬織津姫で構わないわ。あなたがここに来る事は娘の阿蘇津姫から聞いていたのよ。琉球から来た娘がわたしを探しているってね。あなたは一体、誰なの? どうして、わたしが身に付けていたガーラダマを身に付けているの?」
 ササは瀬織津姫の妹の知念姫(ちにんひめ)から借りてきた事を告げた。
琉球にわたしの子孫がいたなんて驚いたわね」
「わたしも驚きました。そして、瀬織津姫様に会いたいと思ってヤマトゥにやって来たのです。豊玉姫様よりもずっと昔に琉球からヤマトゥに行って、偉大な神様になられた瀬織津姫様にどうしても会いたかったのです」
「偉大な神様だなんて‥‥‥わたしは偉大でも何でもないわ」
阿蘇津姫様は瀬織津姫様の娘さんだったのですか」
「わたしには六人の娘がいるのよ。長女が『阿蘇津姫』を継いで、次女は『日向津姫(ひむかつひめ)』、三女は『武庫津姫』を継いで、四女は『阿波津姫(あわつひめ)』、五女は『瀬織津姫』を継いで、六女は『浅間大神』を継いだのよ。五女は那智から伊勢に移って、『伊勢津姫』になったわ」
伊勢の神宮に封じ込められている伊勢津姫様も娘さんだったのですか」
「そうなのよ。あそこには伊勢津姫が祀られていたのに、伊勢津姫は封じ込められて、神宮が建てられたのよ。それでも、伊勢津姫の祟りを恐れて、今、外宮が建っている地に『月読の宮』を建てて、伊勢津姫を祀ったのよ」
「月読の神様は伊勢津姫様だったのですか」
「月読っていうのは後に付けられた名前で、以前は『アマテラス』と呼ばれていたのよ」
「えっ、伊勢津姫様がアマテラスだったのですか」
「そうよ。伊勢津姫が月の神様のアマテラスだったのよ」
「えっ? アマテラスは月の神様なのですか」
「そうなのよ。大昔の人たちにとって、月は最も尊い存在だったの。夜空を照らしてくれて、満ちては欠けて新生する。長い航海をする人たちにとって、星と共に重要な存在よ。潮の満ち引きにも関係しているしね。月よりも太陽が尊ばれるようになったのは、稲作が広まってからなの。月の神様の『アマテラス』に対して、太陽の神様として『アマテル』という男の神様が生まれるのよ。でも、アマテラスが太陽の神様に変えられてしまったので、アマテルは消えてしまったわ」
「アマテル様は瀬織津姫様の夫だった人ですよね?」
「そうよ。筑紫の島で出会って、わたしたちは結ばれたのよ。阿蘇にいた頃は『日向津彦(ひむかつひこ)』って呼ばれていたけど、亡くなってから太陽の神様として祀られたのよ」
「誰がアマテラスを太陽の神様に変えたのですか」
「『ウノノサララ姫(持統天皇)』という女の天皇よ。当時は強い者が天皇になれた時代だったので、サララ姫は伊勢の神宮に皇祖神(こうそしん)として『玉依姫』を祀ったの。サララ姫は玉依姫の子孫だったのよ。玉依姫の子孫でなければ天皇にはなれないという事を世に知らしめるために神宮を建てたのよ」
玉依姫様の子孫なら、伊勢津姫様の子孫でもあるんでしょう。どうして、伊勢津姫様を封じ込めたのですか」
「伊勢津姫の事は知らなかったのよ。霊力がかなり強い者でなければ、古い神様の事はわからないわ。伊勢津姫は恐ろしい『龍神』と間違えられて封じられたのよ。大昔に自然と一体化して暮らしていた人たちは神様の声を聞く事ができたけど、定住して暮らすようになってから、その能力は失われてしまったの。霊力の強い人だけが聞こえるようになって、その人たちは指導者になって人々を導くのよ。『日巫女(ひみこ)』と呼ばれた玉依姫のようにね。やがて、巫女たちも形だけ神様に仕えるようになって、神様の声が聞こえる者はいなくなってしまう。その後の時代で、わたしの存在を知ったのは、『役小角』と『空海』だけだわ。役小角は伊勢津姫が封じ込められる事を知って反対したんだけど、伊豆に流されてしまったのよ。母親を人質に取られていたので、役小角も止める事はできなかったわ」
「この下には琉球の垣花のような都があったのですか」
「そうなのよ。私の子孫たちが平和に暮らしていた都があったの。わたしには助ける事ができなかったわ。あんな大きな噴火が起きるなんて予想もできなかった。未だに悔やんでいるのよ。わざわざ会いに来てくれてありがとう。でも、これ以上はもう話せないわ」
 その後、何を聞いても瀬織津姫の返事はなかった。ササたちはお祈りを終えて、ガーラダマの案内で樹海から出た。
 入った所の反対側で、目の前に精進湖があって、富士山の上に満月が出ていた。
 満月を見つめながら、瀬織津姫は月の神様だったんだなとササはしみじみと思っていた。

 

2-198.他魯毎の冊封(改訂決定稿)

 慈恩寺(じおんじ)が変わっていた。
 前回、サハチ(中山王世子、島添大里按司)が慈恩寺に来たのは六月の初めで、クマラパたちを連れて来た時だった。二か月足らずのうちに、慈恩寺の隣りに、『南島庵』というお寺ができていて、南の島から来たヌルたちと首里(すい)の女子(いなぐ)サムレーたちが武芸の稽古に励んでいた。
 そこは慈恩寺を建てる時の資材置き場で、慈恩寺ができてからは空き地になっていた。伸び放題だった草を刈り取って、竹でできた小屋が四つ建っていた。
 サハチが驚いた顔をして眺めていると、タマミガが来て、「わたしたちのお寺(うてぃら)です」と言って笑った。
 女子サムレーの隊長のマナミーも来て、「わたしたちも非番の時は、ここでお稽古する事にしました」と嬉しそうな顔をして言った。
「以前はお稽古する場所はいくらでもあったのですけど、おうちが建て込んできて、お稽古する場所もなくなってしまいました。特に弓矢のお稽古は町中ではできません。ここなら思う存分、お稽古ができます」
 サムレーたちの武術道場はあるが、女子サムレーたちの武術道場はなかった。女子サムレーたちは北曲輪(にしくるわ)か御内原(うーちばる)で稽古をしていた。御内原には的場もあるが、非番の時は使いづらいのだろう。ここを女子サムレーたちの武術道場にするのもいいかもしれないとサハチは思った。
「マチルギは知っているのか」とサハチはマナミーに聞いた。
「知っています。奥方様(うなぢゃら)もあの小屋を造るのを手伝ってくれました」
「そうか」とサハチはうなづいて、弓矢の稽古をしている女子サムレーたちを見た。指導しているのはミッチェ(名蔵若ヌル)のようだった。
「ミッチェさんは凄い腕を持っています」とマナミーが言った。
「頑張れよ」と言って、サハチはチウヨンフォン(丘永鋒)を連れて慈恩寺に入った。
 境内(けいだい)は閑散としていた。本堂に行くと慈恩禅師、クマラパ、シュミンジュン(徐鳴軍)がいた。
 シュミンジュンを見て、チウヨンフォンが、「師兄(シージォン)!」と呼んだ。
 シュミンジュンは驚いた顔をして近づいて来ると、「チウヨンフォンか」と聞いた。
 二人は再会を喜んで、明国(みんこく)の言葉で話し始めた。
「修行者たちはどこに行ったのですか」とサハチは慈恩禅師に聞いた。
「馬天浜(ばてぃんはま)じゃ。カマンタ(エイ)捕りに行っているんじゃよ」
「カマンタ捕り?」
「あれはいい修行になるんじゃよ。サミガー大主(うふぬし)殿も喜んでくれるしな」
 サハチは今まで、修行だと思ってカマンタ捕りをした事はないが、確かに、海に潜ってカマンタを捕るのは武芸の修行になった。道場で木剣を振るだけが修行ではない。あらゆる事が修行になるんだなとサハチは感心した。
 ワカサも師範を務めていて、ワカサとヤンジン(楊進)と三春羽之助(みはるはねのすけ)(真喜屋之子)とガンジュー(願成坊)が修行者たちを連れて行ったという。
「ガンジューも師範なんですか」とサハチは驚いた。
 ササ(運玉森ヌル)から聞いた話だと、ガンジューはミッチェよりも弱いと言っていた。
「武芸の腕は大した事ないが、山伏だから足腰は頑丈じゃ。修行者たちを引き連れて走らせているんじゃよ。この間は勝連(かちりん)グスクまで走って来たんじゃよ」
「えっ、勝連グスクまで走ったのですか」とサハチは驚いた。
 昼食を御馳走になって、サハチはチウヨンフォンを連れて与那原(ゆなばる)グスクに向かった。毎年の事なので、城下にはお祭りの準備のための屋敷が用意してあって、リーポー姫(永楽帝の娘)たちもユリたちと一緒にそこにいた。
「新作はできたのか」とサハチがハルとシビーに聞くと、
「面白いお話ができました」とシビーが言って、
按司様(あじぬめー)の三番目の奥さんのお話ですよ」とハルが言った。
「なに、メイユー(美玉)の話か」とサハチは驚いた。
 前回の『サスカサ』の続きに違いないと思っていた。
「メイユーさんが南の国(ふぇーぬくに)で大活躍するんです」
 ササからメイユーの活躍を聞いて驚いたサハチは、改めて凄い女だと感心していた。そんな事があったなんて、メイユーは一言も語ってはいない。来年は娘を連れて来るというので、会って話を聞くのが楽しみだった。
 サハチは与那原大親(ゆなばるうふや)のマウーと会って、リーポー姫が永楽帝(えいらくてい)の娘だと告げて、お祭りが終わるまで面倒をみてくれと頼んだ。
「ええっ!」とマウーは口をポカンと開けた。
永楽帝の娘がここに来ているのですか」
 信じられないといった顔をしてマウーはサハチを見た。
「まだ十五の娘だ。永楽帝の娘だという事は内緒にしておけ。城下の人たちに知られたら騒ぎになって、逃げ出してしまうかもしれんからな」
「今、思い出しましたが、応天府(おうてんふ)(南京)でリーポー姫様を見た事があります。前回に行った時で、島尻大親(しまじりうふや)(タキ)と一緒に行ったのですが、応天府でタブチ殿と出会って、一緒に都見物をしていた時です。リーポー姫様が通って、気さくに街の人たちに挨拶をしていました。まだ十二、三歳なのに賢い娘だと思って、誰だと聞いたら永楽帝の娘だと聞いて驚きました。永楽帝の娘だったら綺麗なお輿(こし)に乗って、大勢の侍女たちに囲まれているはずなのに、数人の供を連れただけでした。あの娘がここに来たなんて信じられない事です」
「俺も驚いたよ。突然、島添大里(しましいうふざとぅ)グスクに数人の供を連れてやって来たからな。一応、ウニタキにも守るように頼んである」
「わかりました。それとなく見守ります」
 サハチは島添大里グスクに帰った。
 八月一日、豊見(とぅゆみ)グスクで『諭祭(ゆさい)の儀式』が行なわれた。その日の日暮れ頃、ウニタキがやって来て、サハチは儀式の様子を知った。
 豊見グスクの南御門(ふぇーぬうじょう)の近くの丘の上に汪応祖(おーおーそ)(シタルー)のお寺(廟所)を建てて、そこで儀式をしたという。
「サングルミー(与座大親)から聞いた話だと、前回の察度(さとぅ)(先々代中山王)の諭祭の儀式は浮島(那覇)の護国寺(ぐくくじ)でやって、汪英紫(おーえーじ)(先々代山南王)の諭祭の儀式は島尻大里(しまじりうふざとぅ)グスクの隣りに造ったお寺でやったそうだ」
「島尻大里グスクの隣りにお寺なんかあったのか」とサハチは聞いた。
「お寺といっても、それほど立派な物ではなかったのだろう。汪英紫の墓は八重瀬(えーじ)にある。当時、シタルー(先代山南王)とタブチ(先々代八重瀬按司)は争っていたので、島尻大里にお寺を造って、そこで儀式をやったようだ。そのお寺はタブチが島尻大里グスクを攻めた時に、タブチの兵によって焼かれたようだ。その後、再建されてはいない。シタルーの墓は豊見グスクの裏にあるガマ(洞窟)だ。ガマの中で儀式をやるわけにはいかないので、近くの丘の上にお寺を建てたようだ。朝早くから山南王(さんなんおう)の重臣たちが天使館に来て、諭祭使(ゆさいし)を案内して豊見グスクに行ったんだ。船に乗って国場川(くくばがー)を遡(さかのぼ)って、豊見グスクの船着き場から上陸して、お寺に向かった。儀式には他魯毎(たるむい)(山南王)と重臣たち全員が参加した。暑い中、明国の官服(かんぷく)を着て汗にまみれていたよ。見物人たちも大勢やって来た。サムレーたちが縄を張って、見物人たちを抑えていた。儀式は半時(はんとき)(一時間)くらいで終わった。その後は諭祭使たちは他魯毎と一緒にグスクに入って、『諭祭の宴(うたげ)』が行なわれたようだ。重臣たちもいなくなるとお寺は開放されて、見物人たちが並んで神様になったシタルーを拝んでいたよ。俺も並んで拝んでやったんだ。お寺の中にはシタルーの名前を書いた漆(うるし)塗りの板が立っていて、香炉(こうろ)に線香が立っていた」
「線香?」
武当山(ウーダンシャン)に登った時、崖の上に飛び出した所にあった香炉に差しただろう。あれだよ」
「ああ、あれか」とサハチは思い出した。
道教のお寺で、神様の前にも立っていたな」
「そうだ。琉球には必要ないだろうって買っては来なかった。でも、これからは必要になるかもしれないぞ」
「そうだな。首里のお寺の仏像の前にも香炉を置いて、線香を立てた方がいいかもしれんな」
「亡くなった人の名前を書いてある板は『神位(シェンウェイ)』というそうだ。ここに来る途中、大聖寺(だいしょうじ)に寄って和尚(おしょう)に聞いたら、ヤマトゥ(日本)では『位牌(いはい)』というそうだ。将軍様や公家(くげ)の偉い人たちは位牌を作って、御先祖様を拝んでいるらしい」
「ヤマトゥでも線香を立てているのか」
「大きなお寺では使っているようだ。ヤマトゥでもかなり高価な品で、公家(くげ)の偉い人たちが贈り物として使っていると言っていた」
「そうか。線香を持って行けば、ヤマトゥでも喜ばれるという事だな」
「そういう事だ。次に送る進貢船(しんくんしん)の使者たちに大量に仕入れさせればいい。ところで、宦官(かんがん)だが久米村(くみむら)を調べ始めたぞ。久米村を守っているファイチ(懐機)の配下から聞いたんだが、どうも、探しているのはヂャン師匠(張三豊)ではなさそうだ」
「なに、そいつは本当か」
「ヂャン師匠の事は聞いてはいない。人相書きを見せて、見た事はないかと聞いて回っているようだ」
「誰を探しているんだ?」
「ファイチにもわからないようだ。永楽帝を倒そうとしている応天府の重臣がどこかに逃げて、そいつを探しているのかもしれないと言っていた」
「そんな奴が逃げて来るとなると密貿易船だろう。そうなると今帰仁(なきじん)じゃないのか」
「そうかもしれんな。最近、海賊が来たからな」
「ヂャン師匠じゃなくてよかったな」
 ウニタキはうなづいて、「一応、見張りは続ける」と言ってから、「リーポー姫はお芝居の稽古に夢中になっているようだ」と言った。
「リーポー姫もお芝居に出るのか」
「鬼(うに)にさらわれる娘の役だそうだ。でも、その娘は強過ぎて鬼たちを倒しちゃうんだ」
「娘が鬼を倒したら、瓜太郎(ういたるー)の出番がないじゃないか」
「そうなんだ。そこで大鬼(うふうに)が出て来る事になって、娘もその大鬼にはかなわなくて、瓜太郎が退治するという話だ」
「リーポー姫のために話も変えてしまうのか」
「お芝居は生き物だよ。お客が喜べば、どんどん話は変わって行くんだ」
「そうか。まあ熱中していれば、それでいいか。フラフラと旅に出られたらかなわんからな」
 八月八日、与那原グスクでお祭りが行なわれ、ハルとシビーの新作のお芝居『女海賊(いなぐかいずく)』が上演された。シーハイイェン(パレンバンの王女)たちのお芝居『瓜太郎』と旅芸人たちのお芝居『ウナヂャラ』も上演されて、観客たちは大喜びだったという。
 その頃、サハチは安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)と一緒に島尻大里グスクに滞在していて、『冊封(さっぷう)の宴(うたげ)』の準備をしていた。冊封の宴でお芝居を演じる事に決まって稽古を続けてきたが、女子(いなぐ)サムレーの隊長のマアサがトゥイ様(先代山南王妃)の護衛でヤマトゥに行ってしまい、心配になって島尻大里ヌルが島添大里グスクにやって来た。サハチは安須森ヌルを送ると言って、首里にいた安須森ヌルと一緒に島尻大里グスクに行った。
 サハチは様子を見て引き上げるつもりでいたが、前回の戦(いくさ)で有能な役人たちを失ってしまったため、重臣たちの思うように事が運ばず、サハチも手伝うはめになってしまった。
 サハチと安須森ヌルは西曲輪(いりくるわ)の客殿に滞在した。客殿にはヌルたちも滞在していて、毎晩、安須森ヌルから南の島の話を聞くために集まっていた。その中に子供を連れた伊敷(いしき)ヌルもいて、マチルーには悪いが、他魯毎が伊敷ヌルに惹かれたわけがわかるような気もした。
 サハチの部屋には交代で重臣たちが酒を持ってやって来た。最初にやって来たのは『照屋大親(てぃらうふや)』だった。お祭りの時には挨拶をしただけで話はしなかった。山南王の重鎮(じゅうちん)がわざわざやって来るなんて、サハチは驚いた。
 挨拶を交わしたあと、「恐れ入りました」と照屋大親は頭を下げた。
 サハチには何の事だかわからなかった。
冊封使(さっぷーし)殿から伺いました。永楽帝の娘さんがお忍びで琉球に来ていて、島添大里按司殿に預けたと言っておりました。按司様(あじぬめー)が永楽帝とお知り合いだったなんて驚きましたよ」
「お知り合いだなんて。一度、お会いしただけです」
 照屋大親は目を見開いてサハチを見ていた。
「やはり、お会いしていたのですか」と信じられないといった顔をして首を振っていた。
「わしは若い頃、従者として明国に行った事があります。正使は玻名(はな)グスク大親(うふや)(シラー)殿でした。玻名グスク大親の話によると、遠くにいる洪武帝(こうぶてい)に挨拶をしただけで、まさに、洪武帝は雲の上の人だったと言っておりました。そんな明国の皇帝と会うなんて、とても信じられません。そして、可愛い娘さんを預かるなんて、それ程、永楽帝から信頼されているなんて、按司様は一体、どんなお人なのでしょう。わしにはまったく理解ができません」
「一緒に行ったファイチが、皇帝になる前の永楽帝を知っていただけですよ。永楽帝はファイチに会いにやって来たのです。わたしはたまたまその場にいただけです」
「いいえ」と照屋大親は首を振った。
「ファイチ殿と出会って、一緒に明国に行ったという事が凄い事なのです。ファイチ殿は按司様と出会う前に、豊見グスクに滞在していたと先代(シタルー)から聞いた事がございます。先代はファイチ殿を引き留めませんでした。按司様はファイチ殿を客将(かくしょう)として迎えました。按司様に人を見る目があったという事です」
 照屋大親はサハチが明国に行った時の話を聞きながら酒を飲んで、機嫌良く帰って行った。
 『中程大親(なかふどぅうふや)』もやって来て、娘のアミーとユーナを助けてくれたお礼を言った。戦で怪我をして杖(つえ)を突きながら歩いていたが、その顔には見覚えがあった。シタルーが大(うふ)グスク按司だった頃、シタルーの護衛として、いつも一緒にいた『カジ』と呼ばれていた男だった。
「お久し振りです」と中程大親は笑った。
「去年の正月、先代の王妃様(うふぃー)が豊見グスクにユーナを連れて来た時、わしは夢でも見ているのかと思いました。ユーナから話を聞いて、アミーも生きている事を知って、自分の命を狙った者を助けるなんて信じられませんでした。本当にありがとうございました」
「ユーナこそ、わたしの命の恩人なのです。助けるのは当然の事です」
 サハチは中程大親と昔話をして、若い頃を懐かしんだ。
 『小禄按司(うるくあじ)』もやって来て、祖父(泰期)とサハチが知り合いだった事を聞いて驚いたと言った。今まで、シタルーとサハチが対立していたために話をする機会はなかったが、ようやく、一緒に酒が飲めると喜んでいた。
 若い頃、小禄按司は宇座(うーじゃ)の牧場に行って、乗馬の稽古に励んでいた。祖父から馬天浜の若夫婦の話は聞いていたが、それがサハチだと知ったのは、父親の葬儀の時に来たクグルー(泰期の三男)の話を聞いた時だったという。
 小禄按司は懐かしそうに祖父の話をしてから、十六になる娘がいるんだが、サハチの息子か甥に嫁がせたいと言った。宇座の御隠居(うーじゃぬぐいんちゅ)様の曽孫(ひまご)を嫁に迎えるのは、サハチにとっても歓迎すべき事だった。サハチは喜んで申し出を受け、改めて知らせると答えた。
 『瀬長按司(しながあじ)』がやって来たのにはサハチも驚いた。いつも、サハチを睨んでいた瀬長按司がニコニコしながら酒をぶら下げてやって来た。
「姉(トゥイ)から話を聞いて驚いたぞ」と瀬長按司は言った。
「島尻大里グスクのお祭り(うまちー)が終わったあと、姉は中山王(ちゅうざんおう)の船に乗ってヤマトゥに行って来ると言ったんじゃ。わしは腰を抜かさんばかりに驚いた。ナーサと一緒にヤンバル(琉球北部)に行って来たと聞いた時も驚いたが、まさか、姉がヤマトゥに行くなんて思ってもいなかった。そして、そなたの事を聞いて驚いたんじゃ。そなたは宇座の御隠居様とナーサとも親しかったそうじゃないか。宇座の御隠居様はわしの叔父であり、義父でもあるんじゃ。わしは宇座の牧場で従妹(いとこ)のユイを見初めて妻に迎えたんじゃよ。わしは妻と一緒に牧場に行くのが楽しみじゃった。実の親父(察度)とは一緒に酒を飲んで語り合う事もなかったが、御隠居様とはよく一緒に酒を飲んだ。わしにとって、実の親父よりも義父の方が親父のような存在だったんじゃ。そんな義父がそなたと会っていたなんて知らなかった。それに、ナーサもだ。ナーサはわしが八歳の時に御内原(うーちばる)に来た。わしの母は側室で、わしが七歳の時に亡くなってしまった。ナーサが母親のような者だったんじゃよ。姉からそなたを恨むのはやめろと言われた。子供の頃から姉には頭が上がらんのじゃ。姉の言う通り、もうやめる事にしたよ」
「敵討(かたきう)ちは諦めるというのですか」
 瀬長按司は苦笑した。
「兄貴の敵討ちというよりは、首里グスクを奪われた義兄のために、そなたを恨んでいたんじゃよ。義兄は亡くなってしまったし、姉がやめろというのに、わしが恨んでいてもしょうがないからのう」
 瀬長按司は子供の頃のトゥイ様の話をしてから、十五の娘がいるんだが、サハチの息子に嫁がせたいと言った。
 六男のウリーは十五歳だが、玉グスク按司の娘と婚約していた。甥でもいいかと聞いたら、それでもいいと言ったので、サハチは喜んで承諾した。
 ほんの手伝いのつもりで顔を出した島尻大里グスクで、小禄按司と瀬長按司との縁談が来るなんて思ってもいない幸運だった。
 八月九日の夜、『冊封の儀式』が無事に済むように、ヌルたちが東曲輪(あがりくるわ)にあるウタキ(御嶽)でお祈りを始めた。お祈りは深夜まで続いたらしい。
 浮島で待機していた重臣たちが翌朝早く、天使館に迎えに行って、『冊封使』を船に乗せて糸満(いちまん)の港に連れて来た。川船に乗り換えて婿入り川(報得川)を遡(さかのぼ)り、大村渠(うふんだかり)の船着き場で降りて、島尻大里グスクに向かった。沿道には見物人たちが小旗を振って冊封使一行を歓迎した。
 お輿(こし)に乗ったまま大御門(うふうじょう)(正門)から入った冊封使たちは、二の曲輪でお輿から降りて、一の曲輪の御庭(うなー)に入って『冊封の儀式』を執り行なった。重臣たちは皆、官服を着て儀式に参加した。
 サハチと安須森ヌルは西曲輪の客殿で儀式が無事に終わるのを待った。半時余りで儀式は終わって、冊封使たちが南の御殿(ふぇーぬうどぅん)の会所(かいしょ)で休憩をしている間に、サハチと安須森ヌルも冊封の宴の準備に加わった。南の御殿の大広間では宴のための料理と酒を並べ、御庭には舞台を設置した。
 準備が完了して冊封使たちは大広間に移った。無事に任務を終えた安堵感から冊封使たちの表情も和らいでいた。
 正式に山南王になった他魯毎のお礼の挨拶で、『冊封の宴』は始まった。李仲按司(りーぢょんあじ)が冊封使たちに通訳をした。祝杯を挙げたあと、着飾った娘たちが入って来て、冊封使たちの前に座ってお酌をした。娘たちが明国の言葉をしゃべったので冊封使たちは驚いた。久米村(くみむら)の遊女屋(じゅりぬやー)『慶春楼(チンチュンロウ)』の遊女(じゅり)たちだった。
 安須森ヌルが吹く軽やかな笛の調べが流れて、舞台に李仲ヌルが上がって明国の言葉で挨拶をした。
 城下の娘たちによる歌と踊りが披露され、女子サムレーたちによるお芝居『瓜太郎』が上演された。お芝居は琉球の言葉で演じられるので、冊封使たちにはわからないが、前もってお芝居を観ている遊女たちが説明していた。冊封使を前にして緊張していた女子サムレーたちも、冊封使たちの笑い声が聞こえると安心して、見事な演技を披露した。冊封使たちは喜び、お芝居は成功に終わった。
 拍手が鳴り響いている中、サハチが舞台に上がって一節切(ひとよぎり)を吹いた。冊封使がいる事は意識しなかったが、自然と明国を旅していた頃の事が思い出されて、感じるままに吹いていた。
 延々と続く果てしない大地、悠々と流れる長江(チャンジャン)(揚子江)、険しい山々、高い城壁に囲まれた都、華やかな富楽院(フーレユェン)、メイユーとの出会いも思い出された。
 曲が終わってサハチが一節切を口から離すとシーンと静まり返っていた。拍手もないので、明国の人には通じないかと思って、頭を下げて舞台から降りようとしたら、喝采が沸き起こった。音曲(おんぎょく)は明国の人たちにも通じる事がわかり、サハチは満足して、もう一度、頭を下げた。
 役目を終えたサハチと安須森ヌルが西曲輪に戻ると、西曲輪が開放されていて、城下の人たちが集まっていた。屋台がいくつも出ていて、酒や餅が配られ、みんなが他魯毎冊封を祝っていた。
 屋台の側に王妃のマチルーの姿を見つけたサハチと安須森ヌルは驚いて、マチルーの所に行った。
「お前、こんな所で何をしているんだ?」とサハチは女子サムレーの姿をしたマチルーに言った。
「あら、お兄さんとお姉さん。この度はありがとうございます。冊封の儀式も無事に済みました。ヤマトゥに行っているお義母(かあ)様もきっと喜んでくれるでしょう」
「トゥイ様はどうして、冊封使が来るのを知っていてヤマトゥに行ったんだ?」
「わたしも止めたんですけど、行ってしまいました。わたしがお義母様に頼り切っていたので、わたしが一人前の王妃になれるように、あえて大事な儀式の時に留守にしたのだと思います。お義母様だったらどうするのだろうと考えて、西曲輪を開放する事にしたのです」
「そうか。お前も王妃らしくなってきたな」
 マチルーは嬉しそうに笑ってから、ちょっと驚いた顔をして、「あれを見て」と言った。
 サハチと安須森ヌルがマチルーの示した方を見るとシーハイイェンたちがいた。
「あっ!」とサハチは驚いた。
 スヒター(ジャワの王女)たち、アンアン(トンドの王女)たち、そして、リーポー姫もいた。
「なんてこった」と言ってサハチはリーポー姫の所に飛んで行った。
 娘のマチルーとウニタルも一緒にいた。
「お前たちまで、どうしてここにいるんだ?」
「親父にリーポー姫様を守れと言われたんです」とウニタルが言った。
「ウニタキはお前たちに護衛を頼んだのか」とサハチは言ってから、「どうしてここに来たんだ?」とマチルーに聞いた。
「あたしたち、昨日、与那原から島添大里に移ったんだけど、今日、十五夜(じゅうぐや)の宴の準備をしていた時、お父さんと安須森ヌルの叔母さんが島尻大里の冊封の宴のお手伝いに行っている事をリーポー姫様が知ってしまったの。リーポー姫様が山南王に会いに行こうって言い出して、そしたら、シーハイイェン様たちも山南王に会ってみたいと言って、それで、みんなでやって来たというわけよ」
「参ったなあ。こんな大勢でやって来て」とサハチは舌を鳴らした。
「しかし、来てしまったものはしょうがない。あとで山南王を紹介するよ」
 シーハイイェンが通訳をしてみんなに言うとみんなは喜んだ。
 冊封使たちを送り出したあと、他魯毎は西曲輪に顔を出して、集まっていた城下の人たちに挨拶をして、みんなから祝福された。
 その夜、客殿でお祝いの宴とリーポー姫たちの歓迎の宴が開かれて、リーポー姫たちは山南王の他魯毎と会った。山南王がサハチの義弟だと知って、みんなが驚いていた。重臣たちも挨拶に来て、自分の名前を覚えてもらおうと覚えやすい童名(わらびなー)をリーポー姫たちに教えていた。
 翌日、リーポー姫が中山王に会いたいと言ったので、サハチたちは首里に向かった。馬に揺られながらリーポー姫たちは楽しそうに明国の歌を歌っていた。先頭をウニタルとマチルーが行き、アンアンたち、シーハイイェンたち、リーポー姫たち、スヒターたちと続いて、最後尾にサハチと安須森ヌルがいた。
 南風原(ふぇーばる)の新川森(あらかーむい)に近づいた時、目の前で騒ぎが起こった。何者かが斬り合いを始めていた。ウニタキの配下たちかと思ったが、どうも違うようだ。どちらも唐人(とーんちゅ)のようだった。
 サハチたちは警戒して立ち止まり、様子を見守った。やがて、けりが付いたらしく、勝った方が近づいて来た。八人いた。敵なのか味方なのかわからないので、サハチたちは身構えた。
「チャイシャン(柴山)の手下たちです」と通事のツイイー(崔毅)が言った。
「リーポー姫を守るために琉球に来たのです」
「リーポー姫は誰かに狙われているのか」とサハチはツイイーに聞いた。
永楽帝はリーポー姫をとても可愛がっています。そのリーポー姫が琉球で亡くなったらどうなると思います?」
「そんな事になったら大変だ。永楽帝琉球に攻めて来るかもしれない」
「それを狙っている者がいるのです。永楽帝が怒って琉球を攻めている隙に、皇帝をすげ替えようと企んでいる者がいるのです」
 サハチは驚いてツイイーを見つめていた。
 チャイシャンの配下の者たちがチャイシャンに報告していた。チャイシャンがツイイーに何事かを言って、ツイイーが訳した。
「敵は全滅したそうです」
 サハチはうなづいた。
 チャイシャンの配下の者たちは森の中に消えて行った。
「わたしたちの出番はなかったわね」とシーハイイェンが言って笑った。
 サハチたちは警戒しながら首里に向かった。
 首里グスクの龍天閣(りゅうてぃんかく)で思紹(ししょう)に会ったリーポー姫たちは驚いていた。中山王である思紹は木屑にまみれて仏像を彫っていた。リーポー姫を紹介すると思紹は驚いた。
「なに、永楽帝の娘じゃと?」
 思紹は木屑を払って、改めてリーポー姫に挨拶をした。リーポー姫は楽しそうに笑って、思紹に挨拶をすると回廊に出て景色を眺めた。
「あんな若い娘を異国の旅に出すなんて永楽帝も大した男じゃな」
永楽帝にもリーポー姫のわがままは止められないようです」
 思紹が用意してくれた昼食を三階で食べて、サハチたちは島添大里グスクに帰った。安須森ヌルは『中秋の宴』の準備のために首里に残った。
 その日の夜、ウニタキが現れて、新川森の騒ぎの時、現場にいたが出る幕はなかったと言って笑った。
「何だ、お前もあそこにいたのか」
「リーポー姫を狙った奴らは久米村の『慶春楼』に出入りしていたんだ。今帰仁に住んでいる唐人たちで冊封使の見物に来たと言っていたらしい。怪しいと睨んで見張っていたんだが、宦官(かんがん)たちも奴らを見張っていたんだよ。奴らが動き出すと宦官たちがあとを追った。そのあとを俺たちが追って行ったというわけだ」
「そうだったのか。その宦官たちはチャイシャンの配下だ。皆、リーポー姫を守るために来たようだ。今、宦官たちはどこにいるんだ?」
「久米村にいる。奴らが滞在していた宿屋を調べて、まだ仲間がいるかどうか探っている」
「仲間が今帰仁にいるかもしれんな」
今帰仁には知らせた。今頃、唐人町を調べているだろう」
 サハチはうなづいて、「山南王と中山王に会ったリーポー姫は、今度は山北王(さんほくおう)(攀安知)に会いに行くと言い出すかもしれん。その時は頼むぞ」と言った。
「リーポー姫だけならいいが、シーハイイェンたちも一緒に行くとなると大変だな」
「多分、一緒に行くだろう。なるべく危険は避けなければならない。行きはヒューガ(日向大親)殿に頼もう」
「わかった。宦官がヂャン師匠を探しに来たんじゃなくてよかったが、永楽帝の娘に振り回されるとは思ってもいなかった。しかし、やらなければならんな」
 翌日、他魯毎冊封のお礼のために天使館に出向いた。王冠をかぶって、お輿に乗っている山南王を一目見ようと見物人たちが大勢、沿道に集まったと島添大里まで噂が流れてきた。
 李仲按司が涼傘(リャンサン)(大きな日傘)を明国から買ってきたとみえて、国場川を渡る船に乗った時、他魯毎は赤い涼傘を差していた。浮島に渡ってから、あらかじめ用意してあったお輿に乗って天使館に向かった。天使館ではお祝いの宴が催されて、明国の雑劇(ざつげき)が演じられたという。

 

2-197.リーポー姫(改訂決定稿)

 『安須森参詣(あしむいさんけい)』から帰って来た安須森ヌル(先代佐敷ヌル)は、「ヤンバル(琉球北部)のヌルたちもみんな参加してくれたのよ」と嬉しそうにサハチ(中山王世子、島添大里按司)に言った。
「金武(きん)ヌルも来てくれたわ」
「金武ヌル?」
「馬天(ばてぃん)ヌルの叔母さんも心配していたの。腰が痛いって言って、今まで参加しなかったのよ。金武から山田まで出て行くのが大変だったみたい。今年は若ヌルを連れて参加したわ。若ヌルは金武按司の娘さんよ。しっかりした娘だったわ」
「そうか。恩納(うんな)の若ヌルも恩納按司の娘なのか」
「そうよ。恩納按司が恩納ヌルと結ばれて生まれたのが若ヌルよ。でも、恩納ヌルの娘はまだ六歳らしいわ」
今帰仁(なきじん)ヌルも参加したのか」
今帰仁ヌルは去年も参加したわよ。今年は若ヌルを連れて来たわ。山北王(さんほくおう)(攀安知)の娘で、マナビー(チューマチの妻)の妹よ。お姉さんに似て武芸が好きみたい。サスカサ(島添大里ヌル)が武当拳(ウーダンけん)を教えたら喜んでいたわ」
「サスカサが山北王の娘と仲良くなったのか」
「湧川大主(わくがーうふぬし)の娘にも教えていたわよ。湧川大主の娘は勢理客(じっちゃく)ヌルの若ヌルよ」
「勢理客ヌルというのは山北王の叔母さんだな?」
「そう。先代の今帰仁ヌルで、今帰仁ヌルを山北王の姉に譲って、勢理客ヌルを継いだの。ヤンバルで一番力を持っているヌルだわ。叔母さんととても仲がいいのよ」
 サハチはうなづいて、「沖の郡島(うーちぬくーいじま)(古宇利島)の若ヌルは来たのか」と聞いた。
「来たわ。山北王が夢中になっている若ヌルでしょ。可愛い娘だけど、みんなから仲間はずれにされていたわ。でも、マチとサチと仲良くなったみたい」
「なに、佐敷ヌルと平田ヌルが、クーイの若ヌルと仲良くなったのか」
「独りぼっちでいたクーイの若ヌルに、二人が声を掛けたのかもしれないわね。それより、奥間(うくま)ヌルよ。あたしが、お姉さんて呼んだら驚いていたわ」
「ばれた事を話したのか」
「話したわ。マチルギ姉さんに謝りに行かなければならないって言っていたわよ。いつまでも隠してはおけないし、ミワの今後の事を考えたら、ばれてよかったのかもしれないって言っていたわ」
「そうか」
「そして、若ヌルたちと一緒にヤマトゥ(日本)旅をすれば、みんなと仲良くなって、大きな視野に立って物事を考えられるようになるだろうって言っていたわ」
「大きな視野か‥‥‥」
 一緒に行った若ヌルは、ヤグルー(平田大親)の娘のウミ、マタルー(八重瀬按司)の娘のチチー、クルー(手登根大親)の娘のミミ、ンマムイ(兼グスク按司)の娘のマサキ、安須森ヌルの娘のマユ、アフリ若ヌルのカミー、フカマ若ヌルのウニチルだった。ミワがその仲間に入ったのは、確かに今後のためになるだろうとサハチも思った。
 次の日、ユリと娘のマキク、ハルとシビーは、お祭りの準備のために与那原(ゆなばる)グスクに行った。島添大里(しましいうふざとぅ)グスクの事はマグルーとサスカサ、ナツに任せて、サハチは安須森ヌルと一緒に首里(すい)に行った。そろそろ冊封使(さっぷーし)がやって来るので、準備をしながら首里で待機するつもりだった。冊封使一行の中にヂャンサンフォン(張三豊)を探しに来た宦官(かんがん)がいるかもしれないので、そいつらの様子を探るためにウニタキにも首里にいてもらう事にした。
 七月の二十日、冊封使よりも先に旧港(ジゥガン)(パレンバン)とジャワ(インドネシア)の船が来た。冊封使と重ならなくてよかったとサハチはホッとした。シーハイイェン(パレンバンの王女)たちとスヒター(ジャワの王女)たちが上陸して来て、ササ(運玉森ヌル)たちがヤマトゥに行ったと言ったらがっかりしたが、アンアン(トンドの王女)たちの顔を見て驚き、再会を喜んでいた。
 ヂャンサンフォンの事を聞いたら、三姉妹たちと一緒にムラカ(マラッカ)に行ったと言った。シーハイイェンたちとスヒターたちも杭州に寄って引っ越しを手伝って、一緒に旧港まで行ったらしい。旧港で一休みしてから、三姉妹の船はムラカに向かったという。
「メイユー(美玉)さんの娘のロンジェン(龍剣)は可愛かったわ。来年はロンジェンを連れて琉球に行くって言っていました」とシーハイイェンが言った。
「早く会いたいよ」とサハチはまだ見ぬ娘の姿を想像した。
 その夜、『那覇館(なーふぁかん)』で歓迎の宴(うたげ)が催され、南の島の人たちも参加して、楽しい夜を過ごした。トンド(マニラ)から来ていたシュヨンカ(徐永可)は祖父のシュミンジュン(徐鳴軍)との再会を喜んでいた。
 次の日、安須森ヌルの先導で、旧港とジャワの使者たち、シーハイイェンたち、スヒターたちが首里に上った。沿道には人々が集まって、小旗を振って歓迎した。首里グスクの百浦添御殿(むむうらしいうどぅん)(正殿)で思紹(ししょう)(中山王)に挨拶をした使者たちは、北の御殿(にしぬうどぅん)の大広間での歓迎の宴に参加してから那覇館に引き上げた。シーハイイェンたちとスヒターたちはアンアンたちを連れて与那原グスクに行った。お祭りの準備を手伝うのも琉球に来る楽しみの一つになっていた。
 二日後、久米島(くみじま)から冊封使の船が着いたとの知らせが届いた。ファイチ(懐機)に呼ばれて、サハチはウニタキと一緒に久米村(くみむら)に行ってメイファン(美帆)の屋敷に顔を出した。ファイチと一緒に李仲按司(りーぢょんあじ)がいた。
 サハチとウニタキの顔を見ると、「いよいよ、来ましたね」と言って、ファイチは笑った。
「よろしくお願いします」と李仲按司はサハチに頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」とサハチも頭を下げて、円卓を囲んだ椅子に腰を下ろした。
「李仲按司殿は前回、冊封使が来た時、山南王(さんなんおう)(シタルー)の重臣として接待したのでしたね?」
 李仲按司はうなづいた。
「あの時はアランポー(亜蘭匏)がいましたからね、奴が何でも決めていて、わしらは従うしかありませんでした。それでも、山南王はアランポーをやり込めていましたよ。先代の中山王(ちゅうざんおう)(察度)が亡くなったのは九年も前の事で、アランポーはその事をずっと隠していましたからね。冊封使にばらすぞと脅して、山南王としての意見を通していました。アランポーの下にサングルミー(与座大親)がいて、サングルミーも筋が通らない事は認めなかったので、アランポーも好き勝手な事はできなかったようです。あの時は四月に来て十一月までいましたからね。長かったですよ。早く帰ってくれと誰もが願っていました」
 ファイチは予定表を見せてくれた。
冊封使の都合もありますから多少の変更はあると思いますが、こんな流れです」
 冊封使の一行には、『冊封使』の他に『諭祭使(ゆさいし)』と『頒賜使(はんしし)』がいて、諭祭使は先代王の廟所(びょうしょ)の前で先代王の業績を讃える儀式を行ない、頒賜使は冊封の儀式のあとに永楽帝(えいらくてい)から賜わった王冠と王様の着物を新しい王様に与える儀式をする。諭祭の儀式は冊封使が来てから五日後、冊封の儀式はその十日後の予定になっていた。
「今回の冊封使は『山南王』のために来ます」と李仲按司が言った。
「『冊封の儀式』のあとの『冊封の宴』までは、山南王に任せてほしいのですが、いかがでしょう?」
「えっ!」と驚いて、サハチはファイチを見た。
「それでいいと思います」とファイチは言った。
冊封使が着いた時の歓迎の宴はどうするのですか」とサハチは聞いた。
「歓迎の宴はやりません」とファイチが言った。
「前回もやってはいません。重臣たちが出迎えて、『天使館』に送ったあと、食料を届けますが、冊封使が連れて来た料理人たちが料理を作ります」
「その届ける食料も山南王が負担すると言うのですか」
 李仲按司はうなづいた。
「必要な物は前回の進貢船(しんくんしん)で集めましたので大丈夫です」
「豚(うゎー)も集めたのですか」
「一応、生きた豚を連れて来ましたが、多分、豚は冊封使も連れて来ると思います。琉球に豚がいない事を知っていますから、前回、来た時は豚を連れて来ていました」
「そうですか。わかりました。冊封の宴までは山南王に任せる事にします。足らない物があった時は知らせて下さい。用意させます」
「ありがとうございます。中山王には『中秋(ちゅうしゅう)の宴』と『重陽(ちょうよう)の宴』をお任せします。そして、『餞別(せんべつ)の宴』は山南王に任せて下さい」
 中秋の宴は八月十五日、重陽の宴は九月九日だった。二つの宴だけでは物足りないような気もするが、今回は山南王に花を持たせようと思い、サハチはうなづいた。
「ヂャン師匠を探しに宦官が来ると思いますか」とウニタキが李仲按司に聞いた。
永楽帝は今、順天府(じゅんてんふ)(北京)に新しい宮殿を造っていますが、その一画に宦官たちの秘密の組織があるらしいとの噂が流れていたそうです」
「ヂャン師匠を探すために秘密の組織を作ったのですか」とサハチは驚いて聞いた。
「そうではありません。応天府(おうてんふ)(南京)にいる重臣たちを見張るためですよ。永楽帝には三人の息子がいて、長男は病弱で、次男は武勇に優れているようです。それで、跡継ぎに次男を押す重臣たちが多いので、そいつらの動きを探っているようです」
永楽帝は長男に跡を継がせようと思っているのですか」
「そのようです。長男の息子が利発らしい。永楽帝はその孫を可愛がっていて、戦(いくさ)にも一緒に連れて行っているようです」
永楽帝には息子が三人しかいないのですか」とサハチは不思議に思って聞いた。
「四男もいたようですが幼い頃に亡くなったらしい。側室は大勢いるのですが、皇帝になってからは子に恵まれてはいません。噂では、甥(建文帝)を殺した祟(たた)りで不能になってしまったに違いないと言われているようです」
 以前、ヂャンサンフォンから永楽帝不能になって、それを治すためにヂャンサンフォンを探していると聞いたが、本当だったようだとサハチとウニタキは顔を見合わせた。
「そんなよからぬ噂をしている奴らも秘密組織の宦官に捕まっているようです。今回、奴らが琉球に来るかどうかはわかりませんが、言葉が通じないと思って、永楽帝の悪口など言ったら捕まるかもしれないので気を付けた方がいいでしょう」
永楽帝はヂャン師匠が琉球にいた事を知っているのか」とウニタキがファイチに聞いた。
「知らないと思いますよ」とファイチは言った。
「ヂュヤンジン(朱洋敬)は知っているだろう。永楽帝に話さないのか」
「ヂュヤンジンもヂャン師匠の孫弟子です。師匠の不利になる事は、たとえ永楽帝でも話さないはずです。師匠を裏切る事になりますからね。永楽帝がヂャン師匠を探している事は一部の宦官しか知りません。それに、ヂャン師匠が生きている事を知っているのは、明国(みんこく)でもほんのわずかの人だけです。名前を知っている人はかなりいますが、過去の仙人だと思っています」
「確かにな。百六十年も生きているなんて、信じろと言っても無理だろう」
 サハチもウニタキも納得した。
 次の日、明国の官服(かんぷく)を着た山南王の重臣たちが浮島(那覇)に来て、冊封使たちが来るのを待ち構えていたが、久米島から使者が来て、冊封使の一行は久米島に滞在しているので、明日、浮島に着くだろうと知らせた。
 久米島でヂャン師匠を探しているに違いないとサハチもウニタキも思い、宦官たちの動きを見張らなければならないと警戒を強めた。
 翌日の正午(ひる)近く、冊封使の船が二隻、浮島にやって来た。進貢船よりも大きな船だった。
 山南王の重臣たちと久米村の役人たちが出迎えて、一行は『天使館』に入った。見物人たちが大勢集まって、小旗を振って冊封使たちを歓迎した。
 南の島の人たちは勿論の事、旧港のシーハイイェンたち、ジャワのスヒターたちも冊封使を見るのは初めてだった。トンドのアンアンたちは父親が王様になった時に冊封使を迎えていた。
 ファイチは正装して、国相(こくしょう)のワンマオ(王茂)と一緒に出迎えたが、サハチとウニタキは見物人たちの中に紛れて見ていた。
 山南王の重臣たちに先導されて、冊封使と諭祭使と頒賜使は立派なお輿(こし)に乗って天使館に向かった。その尊大な態度は、永楽帝が送った使者だという威厳に満ちていた。
 一行が天使館に入って、天使館が明国の兵たちによって警護されるのを見届けるとサハチは首里に戻り、ウニタキは宦官たちの動きを探るために残った。
 冊封の宴が終わるまでは山南王に任せる事に決まったので、翌日、サハチは島添大里グスクに帰った。
 その日の夕方、島添大里グスクに珍客が訪れた。
 娘たちの剣術の稽古が始まる頃で、東曲輪(あがりくるわ)に城下の娘たちが集まって来ていた。その中に見た事もない唐人(とーんちゅ)の娘が三人と男が三人いて、娘たちの剣術の稽古を眺めていた。
 木剣の素振りのあと、サスカサが出て来て、武当拳套路(タオルー)(形の稽古)が始まった。それを見ていた唐人たちが驚いて、その中の一番若い娘が騒ぎ出した。女子(いなぐ)サムレーのリナーが静かにするように注意をした。男の一人は通事(つうじ)らしく、リナーが言った事を伝えた。若い娘は通事に何事かを言った。
「どうして、武当拳套路をしているのかと聞いています」と通事の男がリナーに言った。
「ヂャンサンフォン様から教わったのです」とリナーは答えた。
 別の男が驚いた顔をして何事か言った。
「ヂャンサンフォン様は琉球にいるのかと聞いています」と通事が言った。
「今はもういません」とリナーは答えた。
 若い娘が、「サハチ、サハチ」と言った。
 リナーは驚いて若い娘を見た。
「サハチ様に会いたいと言っています」
 リナーはシジマにサハチを呼びに行かせた。
 知らせを聞いたサハチは一体、誰だろうと不思議に思った。三姉妹と関係のある娘が冊封使と一緒に来るはずはないし、サハチの名前を知っている娘に心当たりはなかった。
 東曲輪に行くと娘たちの稽古を見ている唐人たちがいた。一人は道士(どうし)らしい老人、三十歳前後の男が二人、若い娘が三人だった。三人の中の一人は十代の半ばに見え、そんなに若い娘が冊封使の船に乗っていたなんて不思議に思えた。
「島添大里按司のサハチ殿ですね」と通事が言った。
 サハチはうなづいた。知っている人は一人もいなかった。
永楽帝の娘のリーポー(麗宝)姫です」と通事は一番若い娘を紹介した。
永楽帝の娘?」とサハチは驚いて、娘を見た。
 娘は何事か言ったが、サハチには意味がわからなかった。
永楽帝からサハチ殿の事を聞いて会いに来たと言っています」
「リーポー姫様、ようこそ、いらしてくれました」とサハチはリーポー姫に言ったが、本当に永楽帝の娘なのか疑っていた。
 一緒にいるのは武当山(ウーダンシャン)の道士のチウヨンフォン(丘永鋒)、リーポー姫の護衛役のチャイシャン(柴山)、同じく護衛役のリーシュン(李迅)とヂュディ(朱笛)、そして通事のツイイー(崔毅)だった。
「チウヨンフォン殿はヂャンサンフォン殿の弟子ですが、呼吸法を取り入れた套路を初めて見たと言って驚いています」とツイイーがサハチに言った。
「あれはヂャンサンフォン殿がヤマトゥの鞍馬山(くらまやま)に登った時に考えついたのです」
 サハチの言った事を通事がチウヨンフォンに伝えると、チウヨンフォンは納得したような顔をして笑った。
 サハチはリナーに与那原にいるシーハイイェンたちを呼んでくれと頼み、リーポー姫たちを一の曲輪の屋敷に連れて行った。
 ナツにお茶を頼んで、サハチはツイイーの通訳で、永楽帝のお姫様がどうして、琉球に来たのかを聞いた。
 リーポー姫は永楽帝が皇帝になる前の戦(いくさ)の最中に北平(ベイピン)(北京)で生まれた。母親は永楽帝に仕えていた女官だった。リーポー姫の母親との関係は皇后(こうごう)に内緒にしていたため、皇帝になってからも応天府に呼ぶ事ができず、永楽帝はチウヨンフォンにリーポー姫の行方を捜させた。
 チウヨンフォンは北平に行って、リーポー姫を見つけ出した。リーポー姫が八歳の時、母親は亡くなってしまい、以後はチウヨンフォンに育てられた。九歳の時、永楽帝が北平に来て、初めて父親と会った。十歳の時、永楽帝と一緒に応天府に行き、宮殿で暮らすようになる。当時、皇后はすでに亡くなっていて、リーポー姫は正式に永楽帝の娘と認められるが、宮殿での堅苦しい生活を嫌って、街に出て暮らす事になる。その時、チャイシャンと二人の娘、リーシュンとヂュディがリーポー姫の護衛を命じられた。
 リーポー姫は幼い頃からチウヨンフォンに武芸を仕込まれて、怖い物知らずで、好奇心旺盛だった。永楽帝琉球冊封使を送る事を知ると一緒に行くと言い出して、永楽帝を困らせた。永楽帝もリーポー姫のわがままを止める事はできず、サハチならリーポー姫を守ってくれるだろうと思い、サハチに会いに行けと言ったのだった。
 与那原からシーハイイェンたち、スヒターたち、アンアンたちがやって来た。リーポー姫は言葉が通じる娘たちがいるので驚いた。そして、旧港、ジャワ、トンドの王女たちだと知って、さらに驚き、目を輝かせて、それぞれの国の事を聞いていた。サハチには何を言っているのかさっぱりわからず、時々、シーハイイェンが通訳してくれた。
 サハチはマーミに頼んでウニタキを呼んだ。リーポー姫の事を告げて、ファイチも一緒に来るように頼んだ。忙しいからファイチは来られないだろうと思ったが、ファイチも来た。
永楽帝の娘が来たのですか」とファイチは驚いていた。
冊封使から聞いていないのか」とサハチは聞いた。
「聞いていますが会ってはいません。お転婆娘らしくて、天使館に落ち着かず、浮島を散策しているようだと言っていました。まさか、ここに来ていたなんて驚きましたよ」
「今、安須森ヌルの屋敷にいるよ。今晩、歓迎の宴をやる。ヂャン師匠の弟子のチウヨンフォンという道士が一緒にいる。リーポー姫の師匠だ」
永楽帝の娘がヂャン師匠の孫弟子とは面白い」とウニタキが楽しそうに笑った。
「娘たちがここに来ている事は配下の者から聞いて知っていたが、冊封使が娘を連れて来たんだと思っていた。永楽帝の娘だったとは驚いた。調べた所、宦官が何人か来ている事は確かだ。まだ、動いてはいないがな」
久米島に滞在したのもリーポー姫が島を見てみたいと出掛けてしまったからだと冊封使が言っていました」とファイチが言った。
「クイシヌ様と会ったかな」とサハチは言って、「ミカと気が合いそうだ」と笑った。
 その夜の歓迎の宴は酒盛りというよりは、お菓子を食べながらおしゃべりを楽しむ宴だった。リーポー姫はファイチとウニタキの名前も知っていて、三人が揃ったと言って喜んでいた。
 サハチたちはチウヨンフォンとチャイシャン、通事のツイイーと一緒に酒を飲み、ファイチが三人から話を聞いた。
 驚いた事にチャイシャンは宦官だった。
 十歳の時、洪武帝(こうぶてい)の粛清(しゅくせい)に巻き込まれて、武将だった父は斬首刑(ざんしゅけい)となり、チャイシャンは宮刑(きゅうけい)となって去勢(きょせい)され、宦官になった。後宮(こうきゅう)で雑用をやらされて、夢も希望もない日々を送っていた。十六歳の時、燕王(イェンワン)(永楽帝)が挙兵して、応天府にいたチャイシャンは上司に命じられて、書状を持って北平に向かって燕王と会った。燕王は書状を読んで、よく知らせてくれたと喜んだ。その後は燕王に従って出陣した。燕王の陣にいたチウヨンフォンの弟子になって、武芸や兵法(ひょうほう)も学んだ。戦でも活躍して、燕王が皇帝になったあとは、永楽帝の側近くに仕え、リーポー姫が応天府に来てからは、リーポー姫の護衛役になっていた。
「痛かっただろう」とウニタキがチャイシャンに聞いた。
 チャイシャンは笑って、「痛いなんてものじゃありません」と言った。
「台の上に乗せられて手足を縛られ、口の中にぼろ切れを突っ込まれて、切られた瞬間、激痛が走って気絶しました。気がついた時にはもう何もなくなっていました。その後、喉がやたらと渇きましたが水を飲む事も許されず、傷口は痛むし、腹は膨れて痛くなるし、苦しくて、殺された方が増しだったと泣いていました。傷口が悪化して死んでしまう者も多いんですよ」
 ファイチの通訳で、チャイシャンの言葉を聞いたサハチとウニタキは顔をしかめた。
 チウヨンフォンは武当山五龍宮(ウーロンゴン)の住持だったユングーヂェンレン(雲谷真人)の甥だった。サハチたちが武当山に登った時、ユングーヂェンレンはすでに亡くなっていて、思紹が登った時、思紹はユングーヂェンレンに間違えられて、ユングーヂェンレンが戻って来たと騒ぎになり、弟子たちが大勢集まって来たのだった。
 険しい山々を巡って修行を積んでいたチウヨンフォンは崆峒山(コンドンシャン)にいた時、ヂャンサンフォンが武当山に帰って来たとの噂を聞いて武当山に行き、ヂャンサンフォンの弟子になった。武当山で十二年間、修行を積んだあと旅に出た。たまたま、北平にいた時、燕王が挙兵した。燕王に呼ばれて戦に参加して応天府を攻めた。燕王が皇帝になったあと、リーポー姫を探しに北平に行き、母を亡くしたリーポー姫を育てて、今に至っている。
「リーポー姫が十歳の時じゃった。武当山にヂャン師匠と叔父のユングーヂェンレン殿が現れたとの噂が流れたんじゃ。ヂャン師匠はともかく、亡くなった叔父が現れるなんて信じられなかった。真相を確かめようと当時、北平にいたわしはリーポー姫を連れて武当山まで行ったんじゃよ。ヂャン師匠には会えなかったが、昔の仲間との再会を喜んだ。叔父の事はよくわからなかった。あれは確かに叔父だったという者もいるし、叔父によく似たヂャン師匠の弟子だと言う者もいた。ヂャン師匠なら叔父を蘇らせたとしても不思議ではないとわしは思った。その時の旅が余程楽しかったらしく、リーポー姫は旅好きになってしまったんじゃよ」とチウヨンフォンは笑った。
「あの時、ヂャン師匠と一緒に武当山に登ったのは中山王です」とファイチが言ったら、チウヨンフォンは驚いた。
「中山王もヂャン師匠の弟子なのかね?」
「中山王だけではありません。琉球にはヂャン師匠の弟子は一千人以上います。東曲輪で娘たちの指導をしていた女子サムレーたちも弟子ですし、各地にいるサムレーたちも弟子です。勿論、わたしたち三人も弟子です」
「ほう、そんなにも弟子がいるとは驚いた」
「シュミンジュン殿を御存じではありませんか」とサハチが聞いて、ファイチが通訳した。
「シュミンジュン? 懐かしいのう。共に修行を積んだ師兄(シージォン)じゃよ。年齢(とし)はわしより二つ下なんじゃが、師兄は幼い頃から師匠の弟子だったから滅法強かった。わしはいつの日か、師兄を倒そうと必死に修行したんじゃよ。わしが武当山を下りる前年に、師兄は旅に出て行った。その後、どこに行ったのか、音沙汰なしじゃ」
「今、琉球にいます」とファイチが言ったら、チウヨンフォンは目を見開いて驚いた。
首里慈恩寺(じおんじ)にいます。住持の慈恩禅師殿はヂャン師匠からすべての教えを授かっています」
慈恩寺か。行かなければならんのう」
「フーシュ殿というウーニン殿の師匠を御存じですか」とファイチが聞いた。
「フーシュ殿もわしの師兄じゃ。ウーニンというのは知らんのう」
「ウーニン殿の弟子のクマラパ殿も慈恩寺にいます」
「フーシュ師兄はわしが武当山にいた頃、武当山に帰って来て、その二年後に亡くなってしまわれたんじゃ。師兄の孫弟子までいるとは驚いた。リーポー姫様が琉球に行くと行った時、わしは反対したんじゃよ。そんな島に行っても面白くもなんともないと思っていた。まさか、ヂャン師匠がこの島にいて、弟子たちがそんなにもいるとは思ってもいなかった。本当に来てよかったと思っている」
 ツイイーは通事の子として生まれ、通事になるために『国子監(こくしかん)』に入って勉学に励んだ。父親は日本語の通事で、何度も日本に行っていた。ツイイーも日本語を学んでいたが、琉球の言葉に興味を覚えて学ぶ事にした。琉球の言葉を教えていたのはサングルミーだった。琉球に帰って来ても自分の居場所がない事を知ったサングルミーは、再び明国に渡って国子監に戻った。講師を頼まれて琉球の言葉を教えながら、サングルミーは自らの勉学にも励んでいた。
 通事になったツイイーは琉球の使者たちを泉州で迎えて応天府、あるいは順天府まで連れて行っていた。
「おれたちが明国に行った時、泉州の来遠駅(らいえんえき)にいたのか」とウニタキが聞いた。
 ツイイーは首を傾げた。
「会ってはいないと思います。多分、山南王の使者と一緒に応天府に行ったのかもしれません」
「タブチは知っているのか」とサハチは聞いた。
「勿論、知っています。タブチ殿は毎年、来ていましたからね。何度か、御馳走になりましたよ。戦で戦死したと聞いています。惜しい人を亡くしたと残念に思いました」
 もしかしたら、久米島でタブチと会ったのではないかとサハチは不安になった。
久米島を散策したようですが、どうでした?」とファイチが聞いた。
 ツイイーは苦笑して、「船酔いがひどくて寝込んでいました」と言った。
 それを聞いてサハチもファイチもウニタキもほっと胸を撫で下ろした。
琉球に行くのを楽しみにしていたのですが、船酔いには参りました。あの日一日、休んだお陰で、ようやく治ったのです。リーポー姫様に感謝しています。もし、次の日に船出していたら、今も寝込んでいたかもしれません」
 翌日、リーポー姫たちはシーハイイェンたち、スヒターたち、アンアンたちと一緒に与那原に行き、チウヨンフォンはサハチと一緒に慈恩寺に行った。ファイチとウニタキは浮島に戻った。
「リーポー姫を守ってくれ」とサハチがウニタキに頼むと、
永楽帝が俺たちに託した娘だ。明国に帰るまでは責任を持たなくてはならない」と言って、うなづいた。

 

 

 

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