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長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部はその後の尚巴志の活躍です。お楽しみください。

03.察度と泰期(最終決定稿)

 浮島(うきしま)を見下ろす高台に立って、右手を目の上にかざし、海を眺めている大柄な男がいる。武装はしていないが腰に長い太刀を佩(は)き、ひとかどの武将という貫禄があった。
 男の視線の先には、浮島の近くに浮かぶ明国(みんこく)から来た二隻の唐船(とーしん)があった。夏の強い日差しを浴びて輝く海を、何艘もの小舟(さぶに)が荷物を積んで唐船と浮島の間を行き来している。
 当時の那覇国場川の河口に浮かぶ小島で『浮島』と呼ばれていた。領主もいなかったため、琉球にやって来た唐人(とーんちゅ)やヤマトゥンチュの商人が住み始め、唐人たちが住む久米村(くみむら)とヤマトゥンチュたちが住む若狭町(わかさまち)ができていた。久米村は土塁に囲まれた城塞都市で、若狭町は波之上権現(ごんげん)の門前町として発達した町だった。
 明国との朝貢(ちょうこう)貿易が始まってから、唐人の住む久米村は重要な拠点となっていた。明国の皇帝に送る文書の作成や、言葉の通訳も久米村の唐人に頼まなければならない。それに、船の問題もあった。浦添グスクは古くから牧港(まちなとぅ)と泊(とぅまい)の港を利用していた。平底のヤマトゥの船や琉球の船はその二つの港で充分だったが、喫水の深い明国の大型船はそこに入る事はできなかった。浮島の近くまで来て、あとは小舟を利用して人と荷物を運ぶしかなかった。
 浮島に唐人やヤマトゥンチュが住むようになったのは、二十年程前からだった。倭寇(わこう)が高麗(こーれー)だけでなく、大陸の方まで進出して行ったため、大陸から高麗を経由してヤマトゥに向かう航路や、大陸から済州島(ちぇじゅとう)を経由して東シナ海を渡る航路は、倭寇に襲撃される恐れがあるので使えなくなった。そこで、南回りの琉球を経由してヤマトゥに向かう航路が使われるようになった。
 浮島は水の補給や風待ちのための基地となり、住み着く者も現れた。また、浮島を拠点にして東南アジアと交易をする唐人も現れた。大陸や東南アジアの商品が琉球で手に入る事がわかるとヤマトゥの商人たちもやって来て住み着いた。寂しい漁村に過ぎなかった浮島は、言葉の違う人たちが行き交う賑やかな島へと発展して行った。
 その浮島を眺めている男は、琉球中山王(ちゅうざんおう)となった浦添按司(うらしいあじ)の察度(さとぅ)であった。カタカシラに結った髪には白髪が目立ち、顎鬚(あごひげ)にも白いものが混じっている。すでに五十七歳になっていた。振り返ってみれば、何度も危ない目に遭い、五十過ぎまで生きられるとは思ってもいなかった。
 察度は静かに輝く海を眺めながら、視線を右の方に移して浦添グスクの方を見た。こんもりとした丘の上にあるグスク(城)が小さく見える。察度が生まれたのは浦添グスクの北にある謝名(じゃな)という村(しま)だった。
 察度が生まれた時、浦添按司は南部の玉グスクに婿(むこ)養子に入った先代(英慈(えいじ))の四男だった。先代が亡くなると家督争いが始まり、四男の玉城(たまぐすく)が三人の兄たちを倒して跡を継いだ。その家督争いは各地の按司たちを巻き込んで、以後、戦乱の世となってしまった。
 察度の祖父、奥間之子(うくまぬしぃ)は先代の浦添按司の長男、若按司(わかあじ)に仕える武将だった。玉グスクの兵に攻められた時、奥間之子は若按司に頼まれて、十一歳になる娘を連れて浦添グスクから逃げた。その娘が成長して奥間之子の息子と結ばれ、察度が生まれた。察度の母親は察度が十歳の時に亡くなってしまうが、察度は母親の出自を知らなかった。
 十六歳になった察度は、牧港(まちなとぅ)にやって来たヤマトゥの船に乗って、ヤマトゥへと旅に出た。その時、一緒だったのが、のちに義弟となる泰期(たち)だった。泰期の父親も若按司に仕えていたサムレー(武士)だった。重傷を負って倒れているところを察度の祖父に助けられて、共に隠れ住んでいた。泰期も父親の素性は知らなかった。
 二人が乗った船は倭寇(わこう)の船だった。壱岐島(いきのしま)を拠点にした倭寇で、二、三十艘の船団を組んで高麗(こーれー)の国(朝鮮半島)まで出かけて行っては港を襲撃し、船積みにされた米や食糧を奪った。さらに、若い男女も捕まえて連れ帰り、田畑を耕す労働力として酷使した。
 百年前、二度に渡る元寇(げんこう)で、壱岐島の住民は高麗の兵と元(げん)(明の前の王朝)の兵に皆殺しにされ、生き残った者は捕虜として連れ去られた。その時の事は決して忘れるなと倭寇たちは強く誓い合っていた。
 軽い気持ちで船に乗った二人は故郷に帰る事もできず、八年余りの間、倭寇の荒くれ男たちと一緒に高麗の海を荒らし回った。何度も危険な目に遭い、何度も死にそうになったが、何とか乗り越えて来た。倭寇の中でも一目(いちもく)置かれる存在となった察度は、二十四歳になった年の暮、大量の鉄と銅銭(宋銭)を積んだ船に乗って、泰期と一緒に故郷に帰って来たのだった。
 死んでしまったと諦めていた父親の奥間大親(うくまうふや)は、察度の帰郷を涙を流して喜んだ。そして、母親の出自を証(あか)して、先代の浦添按司から預かった財宝を察度に渡した。ガマ(洞窟)の中に隠してあった財宝は金塊や鉄、武器や鎧(よろい)で、先代が、もしもの時に使えと若按司に残したものだった。若按司はその財宝を使う事もなく、敗れてしまった。
「これを使って、若按司の敵(かたき)を討て。浦添グスクを取り戻すんじゃ」と父親は強い口調で言った。
 今まで思ってもいなかった事を突然言われて、察度は戸惑った。それでも、今の自分なら、できるかもしれない。いや、祖父の敵を打たなくてはならないと覚悟を決めた。
 唐人(とーんちゅ)やヤマトゥンチュが住み始めていた浮島を本拠地に決めて、察度は浦添按司の様子を窺(うかが)った。察度が留守にしている間に玉城は亡くなり、息子の西威(せいい)が按司になっていた。西威はまだ十七歳で、実権を握っているのは母親だという。母親は玉グスク按司の娘で、島添大里(しましいうふざとぅ)按司八重洲(えーじ)按司、北谷(ちゃたん)按司、中グスク按司、越来(ぐいく)按司が玉グスク按司と同盟を結んでいた。
 浦添グスクを攻め落とすのは容易な事ではないと改めて悟った察度は、焦らず周りの状況を探りながら戦(いくさ)の準備を始めた。
 二十六歳の時、浦添按司を快く思っていなかった勝連(かちりん)按司の娘を嫁にもらって、密かに同盟を結んだ。勝連按司は先々代(英慈)の弟だった。察度が先々代の長男の孫だと知ると喜んで、可愛い娘を察度に嫁がせた。勝連按司は古くからヤマトゥと交易を行なっていて城下は栄え、ヤマトゥの武器も大量に蓄えていた。勝連按司が味方になったのは大きな前進と言えた。
 嫁を迎えた察度は浮島の対岸の安里(あさとぅ)の地に豪勢な屋敷を建てて、『安里大親(うふや)』と呼ばれるようになった。玉グスク按司と敵対している島尻大里(しまじりうふざとぅ)按司とも手を結び、中グスク按司の座を姉の婿(西威の叔父)に奪われて、不遇を託(かこ)っていた長男とも手を結び、祖父の財産を使ってヤマトゥから大量の武器も仕入れ、察度は着々と勢力を蓄えて行った。
 二十九歳になった時、好機が訪れた。浦添按司の先代(玉城)の十三回忌が、浦添グスクの近くにある極楽寺で盛大に行なわれた。法要に参加するため各地から按司たちが集まって来た。
 察度は極楽寺を襲撃して、西威とその母親、まだ六歳だった若按司を殺し、刃向かって来る按司たちを倒した。この時、戦死した按司は、先代の弟の越来(ぐいく)按司義弟の北谷(ちゃたん)按司と玉グスク按司、甥の八重瀬(えーじ)按司と具志頭(ぐしちゃん)按司、従兄弟違(いとこちが)いの糸数(いちかじ)按司だった。混乱に陥った浦添グスクを奪い取った察度は、浦添按司になる事を宣言したのだった。
 浦添グスクの蔵を開けて、代々溜め込んでいた財宝をすべて使い、ヤマトゥから鉄を買入れて民衆に分け与え、帰郷の時に持って来た銅銭も貨幣として流通させた。敵対する按司たちも次々に倒して中部地域を平定し、『世の主(ゆぬぬし)』と呼ばれるようになった。浮島を拠点とした交易にも力を入れ、ヤマトゥの商人や元の商人の出入りも増え、東南アジア諸国の船も出入りするようになった。
 順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の察度だったが、ただ一つ悩みがあった。跡継ぎができない事だった。妻の勝連按司の娘は四人の子を産んだが、すべて女の子だった。そして、四人目の子を産んだ後、体調を崩して、妻は子供の産めない体になってしまった。
 察度は側室(そくしつ)を迎える事にした。ようやく、五人目に男の子か生まれた。産んだのは馴染みの倭寇から贈られた高麗の姫だった。察度は大喜びした。待望の男の子はフニムイ(船思)と名付けられた。その後も子供に恵まれ、今では五男七女の父親になっている。
 四十六歳の時、大陸で内乱が起きて元が滅び、明が建国した。内乱が続いていたお陰で、大陸からの船が浮島に来なくなっていた。ようやく新しい国ができて、以前のように船が来るだろうと安心していたら、明を建国した洪武帝(こうぶてい)は倭寇対策のために海禁政策を始めるという。そんな事をされたら明国の商人たちは交易ができなくなり、明国からの船が来ないとヤマトゥや東南アジアと取り引きする商品が手に入らなくなってしまう。これは一大事だった。
 翌年、明の皇帝の使者を乗せた船が浮島に寄り、水の補給をしてヤマトゥへと向かって行った。浮島に住む唐人の話によると、ヤマトゥを冊封(さっぷー)させるために皇帝が送った使者だという。冊封というのは明の皇帝と君臣関係を結んで、国同士で交易を行なう事だという。察度は長史(ちょうし)と呼ばれている唐人の長老に頼んで、琉球冊封するように頼んだ。唐人たちも海禁政策には困っていて、それはいい考えだと賛同してくれた。
 ヤマトゥの国は南北朝の争いが続いていて、明国の思うようにはならなかった。明国が欲しいのはヤマトゥの硫黄(いおう)だった。建国したとはいえ、まだ国を平定していない明国は火薬の原料となる硫黄を必要としていた。硫黄は明国では採れなかった。硫黄は琉球にもあり、徳之島の西に浮かぶ硫黄鳥島で採掘されていた。硫黄鳥島の硫黄採掘は百年ほど前の浦添按司、英祖(えいそ)が始め、以後、代々の浦添按司が引き継いで、大陸との交易に使われていた。
 琉球にも硫黄がある事を告げて、ようやく、明国からの使者が来たのが、明が建国してから五年目の事だった。察度は洪武帝から琉球中山王(ちゅうざんおう)に任じられた。
 琉球王ではなく中山王となったのは、明国の使者が琉球が一つにまとまっていないで、北、中、南の三つの国に分かれていると判断したからだった。山というのは国を意味している。
 『察度』という名は浮島の通事(つうじ)(通訳)が『アサトゥ』を『サトゥ』と聞き違えて『察度』となったのだった。察度は明国の言葉は知らないし、ヤマトゥ言葉は知っていても漢字までは読めなかった。また、察度自身、自分の名前など気にしなかった。幼い頃は生まれた土地の『ジャナ』と呼ばれ、倭寇の船頭(しんどぅー)(船長)になって暴れ回っていた頃は『オカシラ』と呼ばれた。嫁を貰って安里に落ち着いてからは『安里大親』と呼ばれ、浦添按司になってからは『世の主』と呼ばれている。中山王としての名が『察度』になったところで、どうでもいい事だった。
 察度は小禄(うるく)按司になっている義弟の泰期を琉球中山の使者に任命した。泰期は明国の使者と一緒に明国に渡って、皇帝に貢物(みつぎもの)を捧げ、お返しとして貴重な品々を賜(たま)わって帰って来た。それから毎年、明国の船に乗って、泰期は明国と琉球を行き来している。
 今、浮島の近くに浮いている明国の船は十日前に泰期を乗せて明国から戻って来た船だった。
 明国と琉球を往復するには八か月近くの月日を要した。明国と琉球の間を黒潮が流れ、黒潮を乗り切るには季節風を利用しなければならなかった。失敗すれば黒潮に流されて遭難してしまう。ミーニシと呼ばれる北風を利用して十月頃、琉球を出港して大陸に向かい、帰りは五月頃から吹く南風を利用して大陸から琉球に向かった。
 浮島を出帆した船は久米島(くみじま)で風を待ち、黒潮を乗り越えて明国の泉州(せんしゅう)の港に向かう。泉州にある『琉球館』と呼ばれる施設に入り、そこから陸路で険しい冬山を超えて、明国の都、応天府(おうてんふ)(南京)へと行く。応天府で新年を迎え、宮殿で行なわれる式典に参加し、洪武帝に新年の挨拶をして貢物を捧げる。そして、また険しい山々を超えて泉州に戻り、南風が吹く五月まで待って帰って来るのだった。寒さに慣れない琉球の人たちにとって明国の厳しい冬は耐え切れず、旅の途中で亡くなってしまう者も多かった。
 暴風に遭って船が遭難する恐れもあるし、無事に船旅が終わっても、その後の厳しい冬山で遭難する恐れもあった。明国に渡るのは、まさに命懸けの長旅だった。泰期はすでに四回も、その厳しい長旅をして、使者としての任務を果たしてきたのだった。
 明国の使者たちを迎えて、毎日、大忙しだったが、接待も一段落して、察度は久し振りに、この丘にやって来た。浦添を攻める前、何度もこの丘に登り、浦添グスクを睨みながら作戦を練っていた。月日の経つのは速いもので、あれから三十年近い歳月が過ぎていた。
 察度が再び、浮島の方に視線を戻した時、近づいて来る馬の蹄(ひづめ)の音が聞こえてきた。振り返って見ると、護衛の兵たちの間を抜けて近づいて来るのは小禄按司の泰期だった。
 奴も随分と齢(とし)を取ったなと思いながら、察度は手を上げた。
 馬から降りると泰期は顔の汗を拭きながら海を眺め、「いい眺めじゃ」と言った。
「ご苦労じゃったな」と察度は改めて、泰期をねぎらった。
 泰期は日に焼けた顔を察度に向けると、「なに、まだまだ若い者には負けられんわ」と白い歯を見せて笑った。
「やらなきゃならん事がたっぷりと残っておるからのう」
「そうじゃな」と察度はうなづいた。
 泰期は汗を拭きながら唐船(とーしん)を見下ろしていた。
「船が欲しいのう」と泰期は言った。
 琉球にはまだ黒潮を乗り超えて明国に行ける船はなかった。ヤマトゥから手に入れた和船は何隻かあったが、その船で明国へ行くには危険が多すぎる。何とかして唐船を手に入れたいと思い、泰期は応天府に行くたびに、明国の高官に嘆願するが、なかなか許可が下りなかった。
「難しいのか」と察度は聞いた。
「向こうで倭寇が暴れ回っておるからのう。海岸の守りを固めなければならず、琉球に回す船はないそうじゃ」
壱岐島(いきのしま)の倭寇も明まで行っているのか」
「噂では壱岐対馬、松浦(まつら)の倭寇じゃ。百年前の恨みがまだ消えておらんのじゃろう。それに、済州島(チェジュド)の奴らも加わっているらしい」
「そうか。奴らは明まで行っているのか」
「ヤマトゥ船(ぶに)じゃから外洋には出られん。高麗西岸を北上して、明の山東(シャントン)半島に渡り、海岸沿いに南下して行くようじゃ。二百艘(そう)余りで船団を組んで、海辺の村々を襲撃しているようじゃな」
「二百艘とは、随分と規模が大きくなったものだな」
「詳しい事はわからんが、南朝の征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)様(懐良親王(かねよししんのう))というのが後ろ盾になっているらしい」
「征西将軍宮様といえば、わしらが高麗の海で暴れ回っていた頃、薩摩(さつま)の国に上陸したという宮様じゃろう」
「覚えておったか。その将軍宮様が肥後(ひご)の菊池と結んで北朝方の武将を次々に倒し、太宰府(だざいふ)を占領して九州を統一したんじゃ」
 察度と泰期が壱岐島にいた頃、九州はバラバラで、あちこちで戦をやっていた。博多の町は焼け跡になっていて無残なものだった。
 薩摩にやって来た将軍宮様は菊池に移り、菊池武光と協力して北朝方の武将たちを倒していった。その事は琉球にやって来る昔の仲間たちから察度も聞いていた。あの頃の事を思えば、九州が統一されたなんて信じられない事だった。
「将軍宮様が倭寇の後ろ盾になっていたとはのう」
「噂じゃから本当のところはわからんがのう。しかし、わしらがいた頃、仲が悪かった壱岐対馬が一緒になって働いているところを見ると将軍宮様が後ろ盾になって、共に南朝のために手を結んだのかもしれん」
「そうか」と察度は腕組みをしながら、何度もうなづいていた。
 泰期の話から、博多で対馬の連中と喧嘩した事を思い出し、可愛い対馬の娘にかなわぬ恋をした事も思い出していた。
「タチ」と察度は久し振りに童名(わらびなー)で呼ぶと、「奴らから唐船が手に入るんじゃないのか」と言った。
 泰期は首を振った。
「わしもその事は考えた。奴らに頼めば確かに唐船は手に入る。しかし、明から奪った船に乗って明に行けば、わしらも倭寇と同類になってしまう。そうなれば朝貢はできなくなる。わしらが倭寇と取り引きしている事は、明には知られてはならんのじゃ」
「うむ、確かにな。倭寇とのつながりは隠さなくてはならん」
「気長に頼んでみるさ」と泰期は笑った。
「明としても、いつまでも琉球への船を出すわけにもいくまい。そのうち、船をくれて、後は自分の力でやって来いと言うじゃろう」
「頼むぞ」と察度は泰期の肩をたたいた。
「わしも李浩(リーハオ)殿(明国の使者)に頼んでみるが、おぬしも諦めずに向こうの高官に頼んでくれ」
「わかっておる」と泰期はうなづいた。
「ところで、どうした。こんな所に呼んで」
 泰期は察度の顔を見てから、視線を南に移して、「いよいよ、南部を攻め取るつもりなのか」と聞いた。
 察度は笑いながら首を振った。
「今の所、南部の事は婿殿(島尻大里按司)に任せておけばいい。そうじゃなくて、この地をどう思う」
「どう思うとは?」
「ここは浮島を見下ろせる絶好の地じゃ。わしは本拠地を浦添からここに移そうと思っているんじゃよ」
「ここにグスクを築くのか」
「そうじゃ。おぬし、明の都の話をしておったじゃろう。ここに明の皇帝が住んでいるような宮殿を建てるんじゃ。どうじゃ、いい考えじゃろう」
 泰期は樹木(きぎ)が鬱蒼(うっそう)と生い茂る丘を見回して、「うーむ」とうなった。
「確かに、ここに新しいグスクを造るのはいい考えじゃ。浮島からも近いからのう。だが、今はまだ無理じゃな」
「わかっておる。明との交易が軌道に乗ってからの話じゃ」
 泰期はうなづき、「まずは硫黄の件を解決しなければならん」と言った。
「毎年、明に送るとなると人足(にんそく)を増やして採掘量を増やさなくてはならん。それに馬も増やさなくてはならんぞ」
「馬じゃと?」と察度は聞いた。
「明の港に着いてから都に硫黄を運ぶのに、馬が足らんのじゃ。明は力のある琉球の馬を欲しがっている。何しろ、雪山をいくつも越えなければならんからのう。牧場を作って馬の増産もしなければならん」
「そうか。馬が足らんのか」
「明も建国したばかりじゃから、まだ国内が平定しておらんのじゃ。兵馬はいるが、それを駄馬(だば)に回すわけにはいかんらしい」
「成程のう」
「それに、ヤマトゥからの品々も足らなくなってきている。ヤマトゥからの船をただ待っているだけでは間に合わなくなる。こっちからもヤマトゥに行かなくてはならなくなるかもしれんな」
「そうか。まだまだ問題が山積みじゃのう」
「やり甲斐があるというものよ」
 察度はうなづき、「やがて、ここに移るという事だけは覚えておいてくれ」と泰期に言った。
「おう、いつの日か、ここに立派な宮殿を建てようぞ。琉球の王が住むのにふさわしい豪華絢爛な宮殿をのう」
 泰期は笑いながら察度を見ると、「話は変わるが」と言った。
「何じゃ」と察度は慶良間(きらま)の島々を眺めながら聞いた。
「おぬしの母親は天女だったそうじゃな」と泰期は言った。
「何じゃと」と察度は驚いた顔をして泰期の顔を見た。
 泰期はニヤニヤしている。
「ここに来る途中、おぬしの噂をしている奴らがいてな、何気なく聞いていたら、真面目な顔してそんな事を言っておったわ」
「天女か‥‥‥」と察度はポツリと言って笑った。十歳の時に亡くなった母親の面影は、まさしく天女のようだったと思った。
「初代の浦添按司、舜天(しゅんてぃん)はヤマトゥの武将の倅だったという伝説ができ、四代目の浦添按司、英祖(えいそ)は太陽(てぃだ)の子だという。そして、九代目のおぬしの母親は天女じゃ。すでに、おぬしは伝説となっておる。それだけ民衆に支持されているという事じゃ。さらに多くの伝説を作らなけりゃならんぞ」
「何を言っておる。そんな伝説なんぞ死んでからでいい。わしはまだまだ死ぬわけにはいかん。やるべき事がまだまだ山積みじゃ」
「その意気じゃ。若い者には負けちゃおれんぞ」
 二人の男は顔を輝かせながら、青い海を見下ろしていた。