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長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部はその後の尚巴志の活躍です。お楽しみください。

20.兵法(最終決定稿)

尚巴志伝 第一部

 対馬島の冬は、琉球育ちのサハチには物凄く寒かった。
 壱岐島(いきのしま)にいた頃の宇座(うーじゃ)按司(泰期(たち))が首に巻いていたという襟巻きを、イトに作ってもらって首に巻いていた。
 八月になると海水も冷たくなって、イトとサワは海に潜ってアワビ捕りができなくなってしまった。海に入らないで海藻採りはできるが、暇をもてあましていたイトは、ヒューガに武芸を教えてくれと頼んだ。今の世は物騒なので、女子(おなご)も自分の身を守る術(すべ)は知っていた方がいい。あたしが習って村の娘たちに教えるわと言って、木剣を振り始めた。それを見ていたサワも、武術の達人が側にいるのに、ただ見ているだけでは勿体ないと言って、一緒になって稽古を始めた。
 イトは素質があるのか、飲み込みも早く、みるみる上達して行った。
 木剣を振るイトを見て、サハチはマチルギを思い出した。マチルギは自分を倒すために、必死になって修行を積んでいるに違いない。今度は何があっても、負けるわけにはいかなかった。
 マチルギに勝って、お嫁に来てくれと言うつもりだったが、イトに会ってしまい、気持ちは揺らいでいた。今でも、マチルギは好きだった。嫁にするならマチルギしかいないと思っている。マチルギからもらった鉢巻きは、稽古の時に頭に巻いてはいないが、お守りとして肌身離さず持っている。しかし、イトも好きだった。イトと共に暮らしている今、このままずっと、イトと一緒にいたいと思う。イトが琉球に行きたいと言えば、連れて行こうと思っている。イトと一緒に帰れば、マチルギとの関係はなくなってしまう。それも仕方がない。成り行きに任せるしかないと思った。それでも、マチルギとの試合は勝たなければならない。マチルギに勝たなければ、次に進めないと思っていた。
 サハチは一人で山の中に入って厳しい修行に励んだ。叔父の苗代之子(なーしるぬしぃ)が、かつて、山の中で修行をしているのをサハチは見た事があった。叔父は山の中で、立ち木を相手に飛び回りながら重い木剣を振っていた。マチルギを倒すだけでなく、いつか、叔父も倒してみたい。ヒューガに教わった座禅も取り入れて、サハチは毎日、くたくたになるまで修行を積んだ。
 ヒューガに習っている読み書きの方も順調だった。一通りの漢字も覚え、今はヒューガに教わりながら兵法書(ひょうほうしょ)の『孫子(そんし)』を読んでいる。
 父は何冊かヤマトゥの書物を持っていて、時々、熱中して読んでいた。サハチが覗いても何が何だかわからず、こんな物のどこが面白いのだろうと思っていたが、字が読めるというのは確かに面白いものだった。書物が色々な事を教えてくれる。今まで知らなかった事が書物には色々と書いてあった。
 サハチは真剣になって『孫子』を読んでいた。『孫子』はサイムンタルーが読めと置いていったものだった。サハチが読み書きを習っているのを見て、何冊か持って来てくれた中の一冊だった。サンルーザが一文字屋に頼んで手に入れたもので、大事な書物だからやるわけにはいかないので、写せと言われた。サハチは読みながら写していた。
 『孫子』は兵法書の代表的なものだから、必ず役に立つとヒューガ言った。ヒューガも勿論、読んでいた。難しくてよくわからない事も多いが、謀攻篇(ぼうこうへん)に書いてある『彼を知り己(おのれ)を知れば百戦あやうからず』という事は、サハチにもよく納得できた。やはり、戦に勝つには敵をよく知らなければならない。琉球に帰ったら、島添大里(しましいうふざとぅ)按司の事をよく調べなければならないと思った。島添大里按司は鍛冶屋(かんじゃー)を使って情報を集めているという。何とかして、奥間(うくま)の鍛冶屋を味方につけて、敵の情報だけでなく、各地の情報も集めなければならないと思った。
 十月の半ば、イトの父親和田浦にやって来た。サハチは山に入っていて知らなかったが、母親が倒れてしまったため、イトを呼びに来たのだという。サハチが帰って来た時にはイトの姿はなく、手紙が残されていた。
 手紙には母親の病気の事と五の付く日には必ず来るから待っていてと書いてあった。
 その後、イトは冷たい雨が降っていても、海が少し荒れていても、五の付く日にやって来て、ヒューガから剣術を習い、一晩泊まって帰って行った。母親の病気はなかなか良くならないが、サイムンタルーが博多で手に入れたという高価な薬を飲んでいるので、少しづつだが快方に向かっているようだという。
 十二月の十五日、イトがやって来て、サハチが山から戻って十日振りの再会を喜んでいた時、雪が降って来た。
 サハチが初めて見る雪だった。辺り一面、真っ白になり、その景色は何とも言えずに美しかった。雪を手に取ると解けて水になった。こんな物が天から落ちて来るなんて、サハチには信じられず、いつまでも空を見上げていた。
琉球には雪が降らないの」とイトが聞いた。
「初めて見た」とサハチは手の平の上に落ちる雪を見ながら言った。
琉球は冬でも暖かいって父さんが言っていたわ。冬でも海に入れるの」
「まさか、ここほどじゃないけど冬は寒いよ。海には入れない」
「それじゃあ、カマンタ捕りの人たちは冬は何をしているの」
「冬は釣りをしているか、山に入って木を切っている」
「木を切ってどうするの」
「よく知らないけど、鮫皮を作るのに必要な木らしい」
「ふーん、そうなの」
 それから十日後、イトが来て、サンルーザたちが帰って来たと知らせた。
「昨日、みんなが帰って来て、土寄(つちより)の港はお祭り騒ぎだったのよ」
「ここには誰も帰って来ないよ」とサハチは言った。
「今、土寄で戦利品の分配をしているの。これが結構、時間が掛かるのよ。みんな、生活がかかっているからね。お頭としても、平等に配らなくちゃならないから大変なのよ」
「平等に配るのか」
「活躍した人は、それ相当の御褒美は出るわ。でも、戦に参加しない人たちもいるでしょ。船を漕ぐ人とか、炊事をしている人とか、そういう人たちにも平等に配るのよ」
「みんなが帰って来たのなら、俺たちはここに隠れている必要はないわけだな」
「そうよ。もうすぐお正月だし、みんなを連れて来てとお頭から言われたわ」
 次の日、サハチたちはイトの舟に乗って、土寄浦に戻った。
 港は船であふれていた。船の間をかいくぐって、やっとの思いで上陸した。指折り数えたら、ここを離れてから半年近くの月日が流れていた。サンルーザの屋敷に行っても忙しいだろうと、閉め切ったままのサワの家に上がり、夕方になってからサンルーザの屋敷に向かった。
 サンルーザは書類が散らかった部屋で仕事をしていた。
 サハチとヒューガに気づくと、「和田浦にずっといたそうじゃのう」と言って笑った。
「明(みん)はどうでしたか」とヒューガが聞いた。
「台州(タイチョウ)という所まで行って来た。そう言ってもわからないか。琉球の船が入る港は泉州(チュエンチョウ)にある。そこよりも、かなり北の方じゃ。明国も年々、倭寇に対する警固を強化しているが、まだ完全に機能していない。海辺に住む貧しい者たちは、わしらが役人たちが守る穀物蔵を襲うと喜んで見ているんじゃ。南に行けば行く程、役人たちに反感を持っている者たちは多い」
「うまく行ったのですね」
「被害も出たが、うまく行った方じゃろう。今年中に帰って来られたからな。久し振りに故郷で正月が祝えるわ」
「明の国は役人たちに反感を持っている人が、どうしてそんなにも多いのですか」とサハチは聞いた。
「明の国は大きすぎる。明が建国されてからまだ二十年じゃ。国が入れ替わるというのは大変な事なんじゃよ。明を建国するために、十万人もの人が殺されているらしい」
「十万人ですか」とサハチは驚いた。
 十万人というのがどれ程なのか、見当もつかなかった。今、琉球に十万人もの人がいるのだろうか。
「元(げん)の政府は北に逃げて行ったが、元とつながりのある奴らはまだ都に残っていて、そいつらは皆、家族共々殺されたんじゃろう。中には有能な役人も多かったはずじゃ。そいつらがいなくなってしまい、明の政府には有能な役人が足らん。それで、民衆をまとめる事もできんのじゃよ。北に逃げた元との戦も続いているので、兵糧を集めなければならず、その負担は民衆たちにのしかかって行く。貧しい者たちは搾れるだけ搾り取られて、明の政府に反感を持っているんじゃ」
 サハチはわかりましたと言うようにうなづいた。
「今回、戦死者も出たのですか」とヒューガは聞いた。
「残念ながら、敵の火砲(かほう)にやられて三隻を失った。何人かは助けたが、亡くなった者の方が多い」
 サンルーザは一瞬、厳しい顔つきになったが、すぐに笑って、「しかし、充分の収穫があった。みんながいい正月を迎えられるじゃろう」と言った。
 サワの家に帰るとシンゴとマツが待っていた。懐かしかった。
「お前、高麗(こうらい)なんかで何をしてたんだ」とシンゴがサハチの顔を見るなり聞いた。
「えっ、高麗には行ったけど、すぐに戻って来て、和田浦にいたんだよ」
和田浦って、この奥にある和田浦か」
「そうさ。そこの山で剣術の修行をしていたんだ」
「何だ、そうだったのか。急に消えちまったからどうしたのかと思ったぜ。後でわかったんだけど、あの三人が決闘を申し込んだんだってな。あの三人、お前が逃げたって捜し回っていたぜ。結局、高麗行きの船に乗って行ったってわかって、諦めたようだったよ。何で俺たちに決闘の事を言ってくれなかったんだ」
「一人で無人島に来いって書いてあったんだ。当日まで行くか行くまいか迷っていたんだけど、突然、お前の兄貴に出掛けるから支度しろって言われて、わけもわからずに船に乗ったら高麗に行ってしまったと言うわけだ」
「兄貴がか。大事なお客さんに怪我でもされたらかなわないと思ったのかな」
「あの三人はまだイトの事を思っているのか」
「そう言えばイトの事だけど、イトも消えちまったんだ。イトだけじゃねえ。サワさんもだ。サワさんはヒューガさんがいなくなって、実家の方に帰ったって聞いた。イトは婆さんが具合悪くなって、看病に行っていると母親から聞いたけど、もしかしたら、二人とも和田浦に行ったのか」
 サハチはうなづいた。
「何だ、この野郎。イトとうまい事やっていたのか。うらやましい野郎だ」
「それで、あの三人はイトの事を思っているのか」
「さあな。イトが消えた時、高麗まで行ったに違いないって言ってたから、諦めたんじゃないのか。高麗まで追って行くとか言ってたけど、結局は行かなかったしな。それに、親父が帰って来たから、おとなしくしているはずさ」
 二日後には、港を埋めていた船も、それ相当の分け前を積んで本拠地に帰って行った。
 大晦日の晩、サンルーザの屋敷で宴が開かれ、サハチとヒューガは招待された。高麗からサンルーザの長男、次郎左衛門と『津島屋』の五郎左衛門も来ていた。
 初めて見る次郎左衛門は、サンルーザの跡取りにふさわしい武将だった。サイムンタルーと並んで座っていると、やはり兄の方が貫禄があるように見えた。
 サイムンタルーの下の弟、左衛門次郎も和田浦から来ていた。丁度、サハチたちと行き違いになって、会うのは初めてだった。左衛門次郎は怪我をしたのか左腕を首から吊っていた。
 宴は夜遅くまで続いていたが、一族の集まりの中、サハチとヒューガは場違いな気がして、途中で抜け出した。
 外に出たら雪がちらほら舞っていた。松明(たいまつ)を借りてサワの家に帰るとイトが来ていた。
「どうしたんだ。こんな遅くに」とサハチは聞いた。
「もうすぐ年が明けちゃうわ。年が明けたら琉球に帰っちゃうんでしょ。そう思ったら寂しくなって、ここに来ちゃった。いない事はわかっていたんだけど、サワさんも同じ思いだと思って慰め合っていたのよ」
「一緒に行かないか」とサハチは思わずイトに聞いた。
 イトはサハチを見つめて首を振った。
「母さんが心配だし、琉球は遠すぎるわ。言葉は通じないし、それに、あなたは若殿様でしょ。あたしにはお城の中で暮らすなんて耐えられないわ。海に潜らなければ生きて行けないのよ」
「そうか‥‥‥」
 連れて行きたいが、たった一人で他国で暮らすのは辛いだろうとサハチは思った。
「サワはどうなんだ」とヒューガが聞いた。
「あたしも行けないわ」とサワは首を振った。
「あたしも色々と考えたんだけど、やっぱり行けない。でも、楽しかったわ。あたし、もう二度とあなたには会えないと思っていた。でも、また会えたわ。それだけで、もう充分よ」
「あたしもそう」とイトは言った。
「サハチさんに会いたいと子供の時から思っていた。その夢がかなったの。それだけで充分だわ。また、いつか、会いに来てね」
 サハチはうなづいた。
「きっと、また来るよ。今度、来る時は琉球の船に乗って、お土産をいっぱい持って来る」
「きっとよ」と言いながら、イトの目は涙で溢れていた。
「あなたもその時は一緒に来てね」とサワはヒューガに言った。
 ヒューガはサワを見つめてうなづいた。
 年が明けて、サハチは十七歳になった。
 サワが作った正月の御馳走を食べながら、サハチは故郷を思っていた。今頃、家族みんなが集まって、賑やかに新年を祝っているだろう。
 琉球に帰ったら、島添大里按司を倒す準備を始めなければならない。敵の様子を探って、隙を見つけなければならないし、敵の弱みも握らなければならない。そして、一番肝心なのは、島添大里按司に対抗できるだけの兵力を持たなければならなかった。目的に向かって着実に、少しづつでも前進して行こうと今年の抱負を考えていた。
 正月の六日、サハチとヒューガはサイムンタルーの船に乗って対馬島を後にした。
 手を振りながら見送るイトとサワを見ながら、サハチは知らずに涙を流していた。
「別れってつらいものですね」とサハチは涙を拭いながらヒューガに言った。
 ヒューガは何も言わなかった。
 船出の前、サハチはサンルーザから土産だと言って、備前物(びぜんもの)の立派な太刀をもらっていた。それはサハチが欲しいと思っていた刃渡りが三尺近くもある長い太刀だった。
「その太刀を使いこなすには相当の腕がいるが、お前なら大丈夫じゃろう」とサンルーザは言って、うなづいた。
「それと、この旗はお前が船を持った時、船に掲(かか)げるがいい。その二つの旗を掲げていれば、倭寇に襲われる事はない。わしらの仲間だという印じゃ」
 サハチは旗を広げてみた。一つは『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)』と書いてあった。もう一つは三つ巴(どもえ)の紋だった。
「これはサンルーザ殿の家紋ですか」とサハチは聞いた。
「三つ巴は八幡様の神紋(しんもん)じゃよ。それを家紋に使っている家もあるがな」
「これを家紋に使ってもいいのですか」
「八幡様にお願いすれば使っても構わんじゃろう」
「ヒューガ殿から家紋の事を聞いて、色々と考えていたのです。これに決めました。これを佐敷按司の家紋にします」
「そうか。八幡様が付いていれば、佐敷按司も大きくなれるじゃろう。頑張れよ」
「ありがとうございます」
 サハチは三つ巴の旗を掲げた兵が、島添大里グスクを包囲している場面を想像しながら、きっといつか、あのグスクを奪い取ってやると『八幡大菩薩』に誓っていた。
 サハチたちを乗せた船は、冬の北風を帆に受けて壱岐島へと向かっていた。