長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

30.出陣命令(改訂決定稿)

 サハチ(佐敷若按司)の長男誕生を一番喜んだのは、祖父のサミガー大主(うふぬし)だった。祖父は祖母と一緒に、毎日のように東曲輪(あがりくるわ)にやって来て、曽孫(ひまご)の顔が見られるとは思ってもいなかったと言って喜び、これを機に隠居すると言い出した。
 祖父も今年で六十一歳になっていた。去年、六十になった時に隠居しようかと考えたが、いや、まだまだ頑張らなくてはならないと取りやめた。今回、曽孫の顔を見て、いつまでも年寄りがうるさい事を言っていたら、ウミンター(思武太)も一人前にはなれんじゃろうと言って、隠居を決心したのだった。
 祖父の隠居屋敷を馬天浜から少し離れた仲尾(新里)の地に建てる事に決まり、早速、普請(ふしん)が始まった。祖父の隠居屋敷の隣りには、去年の台風で壊れてしまった馬天(ばてぃん)ヌルの屋敷も建てる事になっていた。屋敷が完成するまで、祖父と祖母は東曲輪のサハチの屋敷に滞在して、毎日、曽孫のサグルーと遊んでいた。そこに母方の祖母(故美里之子(んざとぅぬしぃ)の妻)も加わって、父と母も暇さえあれば孫の顔を見にやって来て、サハチの屋敷はサグルーを中心に毎日、賑やかだった。
 そんな頃、マチルギの供として佐敷に来ていた兄のサムが、一年間という約束だったので伊波(いーふぁ)に帰って行った。サムは滞在中の一年間、本気になって美里之子の道場で剣術の稽古に励み、サハチたちの知らないうちに、クマヌの娘のマチルーと仲良くなっていた。
 マチルーはサムが伊波に帰った二か月後の四月の吉日、佐敷按司重臣、熊野大親(くまぬうふや)(クマヌ)の娘として嫁いで行った。マチルギの教え子の中から二人の娘が選ばれて、侍女として付いて行き、伊波に残る事になった。
 サグルーはみんなに可愛がられて健やかに育っていた。
 今年は去年のような大きな台風が来る事もなく、サミガー大主と馬天ヌルの屋敷は九月には完成した。祖父と祖母が新居に移って、屋敷の中は急に静かになった。
「寂しくなったな」とサハチがサグルーを抱きながらマチルギに言っていた時、珍しく、クマヌが訪ねて来た。
 サハチはサグルーをマチルギに預けて、クマヌが待つ部屋に向かった。
「伊波に行っていたと聞いたけど、マチルーは元気でしたか」とサハチはクマヌに聞いた。
「城下に新しい屋敷を建ててもらって、二人で仲良くやっていた。近いうちに伊波にも武術道場を作って、若い者たちを鍛えるとサムは張り切っておった」
「そうですか。サムが師範ですか」
 クマヌは嬉しそうにうなづいた。
 その顔を見ているとクマヌも父親なんだなとサハチは思った。しかし、娘夫婦の事を言いにわざわざ来たとは思えない。他に何かがあるはずだった。
「帰りに浦添(うらしい)に寄って来た」とクマヌは言った。
「若按司にはまだ言っていなかったが、浦添の城下に『鎌倉屋』という刀屋を出したんじゃよ」
「刀屋? クマヌが商売を始めたのですか」
 クマヌは楽しそうに笑って、手を振った。
浦添の事を調べるためじゃよ。商売は二の次じゃ。大した刀は売っていない。名刀など売っていたら怪しまれるからな」
「誰がやっているのです」
「ヤマトゥンチュ(日本人)でキクチ(菊池)という奴じゃ。丁度、ヒューガ(三好日向)と一緒に佐敷に来た奴なんだが、琉球に来た時、無一文でな、しばらく、鮫皮(さみがー)作りの手伝いとして働いていたんじゃよ。グーシ(郷四郎)という家来を一人連れていて、二人で鮫皮作りをやっていた。南朝方として活躍した武将だというが怪しいもんじゃ。ただ、勘定(かんじょう)をするのが得意で、商売に向いているかもしれんと、そいつに任せてみる事にしたんじゃよ。店を出したのは、若按司がヤマトゥに行っている十一月じゃったから、もうすぐ三年になる。今の所、うまくやっているようじゃ。それで、伊波からの帰りに様子を見に寄ったんじゃが、そこで予想外の事を耳にしたんじゃよ」
「何があったのです?」
「先月、山北王(さんほくおう)(帕尼芝)が鳥島(とぅいしま)(硫黄鳥島)を奪い取ったと言うんじゃ」
鳥島というと硫黄(いおう)の採れる島ですね」
「そうじゃ。山北王は明国との交易をする事を条件に鳥島から手を引いた。中山王(ちゅうざんおう)(察度)は毎年、山北王の使者と貢ぎ物を中山王の進貢船(しんくんしん)に乗せて、一緒に明国まで行っていた。今年も五月に無事に帰って来ている。山北王はもう六回も明国に行っているのに、海船を賜わっていないんじゃよ。中山王は十一回目に、山南王(さんなんおう)(承察度)は四回目に海船を賜わっている。中山王はもう少し待てば、海船は手に入ると言ったようだが、山北王はもう待ちきれんと、鳥島を奪い取ってしまったらしい。中山王はかなり怒って、山北王を攻め滅ぼしてやると言ったようじゃ」
「えっ、中山王が山北王を攻めるのですか」
 クマヌはうなづいた。
浦添の城下では、いつ大戦(うふいくさ)が始まるのかと噂で持ちきりらしい」
「前にも鳥島を奪われた事がありましたよね。その時は鳥島を攻めて奪い返したのでしょう。どうして、今回もそうしないのです?」
「多分、跡継ぎのフニムイ(船思)のためじゃろう。中山王はもう七十を過ぎている。フニムイは浦添グスクで生まれて、浦添グスクで育って、戦(いくさ)の経験もない。総大将にして、大戦の経験をさせたいと思っているんじゃろう。それと、中山王に忠実な按司を見極めるのも目的かもしれん」
「忠実な按司を見極めるとはどういう事です?」
今帰仁(なきじん)グスクを攻めるとなれば、浦添の兵だけでは足らん。各地に出陣命令を出す事になろう。従って来た者たちが、中山王に対して忠実な按司というわけじゃよ。従わなかった者たちが敵となり、大戦が終わったあとに滅ぼすつもりなのかもしれん」
「佐敷にも出陣命令は来ますかね?」
「中山王からは来るまい。ただ、伊波按司(いーふぁあじ)からは来るじゃろう」
「そうですね‥‥‥」
「多分、伊波按司と山田按司は、道案内として先陣を勤める事になろう」
「マチルギたちの願いがかなうというわけですね」
「先陣と言っても行軍する時じゃ。向こうに着いて攻撃の先陣を勤めるのはやはり、フニムイの兵じゃろうな」
「マチルギが出陣すると言い出しそうだな」とサハチは言った。
 クマヌはうなづいた。
「敵討(かたきう)ちの絶好の機会じゃからな。どうしても行くと言うじゃろう」
 敵討ちはマチルギの生き甲斐だった。何を言っても止める事はできないだろう。出陣すれば戦死する可能性もある。マチルギが死ぬなんて考えたくもない。戦に行かせたくないが、引き留めるのは難しい。サグルーが生まれたばかりだというのに、大変な事が起こってしまったと先が思いやられた。
「父上には知らせたのですか」とサハチは聞いた。
「知らせた。若按司にも知らせろと言われて、ここに来たんじゃよ」
「出陣命令はいつ出ると思います?」
「今は進貢船(しんくんしん)の準備に忙しいから、船が出てからじゃろう」
「戦か‥‥‥大戦となれば今帰仁の城下は焼き払われますね。ミヌキチは大丈夫だろうか」
「すでに、向こうでは戦の準備を始めているかもしれん」
「向こうから攻めて来るという事は考えられませんか」
「それはこちらから攻めるよりも難しいな。浦添に行くまでにグスクがありすぎる。それらと一々戦っていたら、浦添に着くまでにやられてしまう」
「船を使う手もありますよ。ミーニシ(北風)が吹き始めましたからね」
「船で浦添の近くに上陸して攻めたとしても、負けた時の退却が問題じゃな。まごまごしていたら全滅の可能性もある」
「そうですね。大軍を遠征させるには兵糧(ひょうろう)もかなり必要だし、敵が攻めて来るのを待ち構えていた方が得策のようですね。しかし、山北王は鳥島を奪い取って、何か得でもあるのですか」
「中山王に痛手を負わせる事が一番じゃ。硫黄が手に入らなくなれば、明国との交易はできなくなる。それに、今までは中山王の許可を取って硫黄を手に入れていたが、硫黄が自由に手に入れば、明国との密貿易にも使える。倭寇(わこう)を使って高麗(こーれー)との取り引きにも使えるじゃろう」
「密貿易か‥‥‥」
 サハチは運天泊(うんてぃんどぅまい)に泊まっていた明国の密貿易船を思い出していた。
「覚悟をしておけ」と言って、クマヌは帰って行った。
 サグルーが眠ったあと、サハチはクマヌから聞いた事をマチルギに話した。
 マチルギは驚いて、目を丸くしてサハチを見つめた。
「中山王が今帰仁を攻める‥‥‥勿論、お父さんも出陣するのよね」
「多分。まだ正式に出陣命令は出ていないけど、伊波の父上も出陣する事になるだろう」
「あたしも一緒に行くわ」
 サハチはうなづいた。
「止めても行くのはわかっている。サグルーのためにも行かせたくはないが‥‥‥」
 マチルギは何も知らずに眠っているサグルーの顔を見た。しばらく見つめていたが、顔を上げるとサハチを見て、「行かなければならないわ」と覚悟を決めたような顔付きで言った。
「行けば死ぬかもしれないぞ」と言おうとしてサハチは口をつぐんだ。何を言っても無駄な事はマチルギの目を見てわかっていた。
「あなたは行かないの?」とマチルギは聞いた。
「それはわからない。親父が決める。俺か親父のどちらかが出陣して、どちらかが留守を守る事になる」
 マチルギはサハチにうなづいて、もう一度、サグルーの顔をじっと見つめた。
 進貢船が明国に出掛けて行っても、中山王が出陣命令を出す事はなかった。大げさな出陣はやめて、鳥島だけを奪い返す事に変更したのだろうか。そうなってくれればいいと願いながら、何も起こらずにその年は暮れた。
 年が明けて、サハチは二十歳、マチルギは十九歳、長男のサグルーは二歳になった。
 正月の儀式や挨拶も無事に終わって、五日から東曲輪の庭で娘たちの剣術の稽古が始まった。馬天ヌルも佐敷ヌルも侍女たちも真剣な顔をして稽古に励んでいた。今年も新人が加わって四十人はいそうだった。
 今帰仁への出陣の事など忘れかけていた二月の半ば、中山王の察度(さとぅ)は各地の按司に出陣命令を発した。佐敷には来ないだろうと思っていたが、佐敷にも浦添から使者がやって来た。
 山北王征伐(せいばつ)のため、四月一日、兵五十人を率いて浦添グスクに集結するようにと使者は告げた。
 使者が帰ると、佐敷按司重臣たちを集めて軍評定(いくさひょうじょう)を開いた。集まったのは、与那嶺大親(ゆなんみうふや)、兼久大親(かにくうふや)、屋比久大親(やびくうふや)、叔父の苗代大親(なーしるうふや)、クマヌとヤシルー、そして、若按司のサハチだった。ヤシルーは以前、サハチの弓矢の師匠だったが、今では八代大親(やしるーうふや)と呼ばれていた。
「佐敷と浦添は何の関係もないが、伊波按司と婚姻関係を結んだからには伊波按司のためにも、今回は出陣に応じなければならない」と佐敷按司重臣たちに言った。
 重臣たちは厳しい顔つきでうなづいた。
 五十人というのは妥当な人数だった。佐敷の兵力は百人で、五十人が出陣しても、残りの兵でグスクを守る事ができる。中山王も各按司の反発を恐れて無理強いはしなかったようだ。
 佐敷按司は人選と兵糧の確保を重臣たちに頼んだ。大将をどちらにするかは少し考えさせてくれと言った。
 軍評定が終わるとサハチは東曲輪に帰って、マチルギに出陣の事を話した。
「とうとう来たのね」とマチルギは顔を引き締めて言った。
「今回の戦の主役は浦添だ。戦に参加したとしても直接、今帰仁を攻める事はできないかもしれない。それでも行くのか」
 マチルギはサハチを見つめてうなづいた。
「直接、手を下せなくても、敵(かたき)が滅びるところをこの目で見たいの」
「そうか‥‥‥まだ、俺が行くのか、親父が行くのか、決まっていないんだ。どちらにしても出陣したら生きて戻れないかもしれない」
「中山王が負けるっていうの?」
「負けはしないだろうが、今帰仁だって必死だ。簡単には倒せないだろう。こちらが行くのを罠(わな)を仕掛けて待ち構えているに違いない。地の利は向こうにあるからな。油断をすれば戦死してしまうだろう」
 サハチもそうだが、マチルギも戦の経験はなかった。サハチから戦死するかもしれないと言われて、マチルギは初めて死ぬという事を考えていた。死んだらサグルーに会えなくなる。サハチにも会えないし、死にたくはなかった。急に出陣するのが恐ろしくなって来たが、弱気になっている自分を振り払って、あたしは決して死なない。見事に敵を討ってみせると自分に言い聞かせた。
 出陣命令が来てからマチルギはなお一層、武術の修行に励んだ。サハチも出陣する事を前提に、マチルギに負けるものかと修行に励んだ。
 三月の半ば、サハチは父親に呼ばれた。
「今回の戦じゃが、お前には留守を守ってもらう事にする」と父は言った。
 サハチは父の顔を見つめてうなづいた。そんな予感はしていた。
「お前に戦の経験をさせてやろうとも思ったんじゃが、今回の戦は浦添今帰仁の戦じゃ。わしらのような小さな按司には、活躍する場もないじゃろう。流れ矢にでも当たって戦死でもしたら、犬死にと同じじゃ。先の事を考えて、お前には残ってもらう事にした。ただ、留守を守るのも決して楽ではないぞ。クマヌが調べた所によると、玉グスク、垣花(かきぬはな)、知念(ちにん)、糸数(いちかじ)は出陣しない。島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)(汪英紫)は出陣するが、大(うふ)グスク按司(ヤフス)は残る。必ず、島添大里按司の留守を狙って糸数按司が動くじゃろう。糸数から何かを言われて来ても、決して動くんじゃないぞ。村人たちとグスクを守り通せよ」
「わかりました。クマヌは出陣しますか」
「出陣する。ヒューガは残る。ヒューガと相談してグスクを守れ」
 サハチは力強くうなづき、「マチルギを連れて行って下さい」と頼んだ。
「やはり、行く気か」
「俺にも止める事はできません」
「そうか、わかった」
 サハチは東曲輪に帰った。
 庭では娘たちの稽古が始まっていた。
 稽古が終わって着替えて来たマチルギに、「俺は留守を守る事になったよ」と告げるとマチルギはうなづいて、「あたしも残るわ」と言った。
「えっ?」とサハチは驚いて、マチルギを見た。
「行かないのか」
 マチルギはうなづいた。
「馬天ヌルの叔母さんから、残りなさいって言われたの」
「叔母さんからそう言われたからといって、自分の考えを変えるとは思えないが」
「何度も神様から、残りなさいって言われていたのよ。でも、我(が)を通していたんだけど、今日、叔母さんと顔を合わせた途端、あなたは残りなさいって言われて、やっぱり、神様には逆らえないって考え直したのよ」
「本当にそれでいいのか」
 マチルギはサハチをじっと見つめてうなづいた。
「あなたを守るのが第一だもの。あなたのそばにいなくちゃね」
「そうか、残ってくれるか。ありがとう」
 サハチはホッとしていた。
 マチルギの考えを変えてくれた馬天ヌルとマチルギの神様に、サハチは感謝した。