長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-15.応天府の夢に酔う(改訂決定稿)

 ファイチ(懐機)は再会した友、ヂュヤンジン(朱洋敬)と一晩中、話し込んでいた。お陰で、サハチとウニタキも妓楼『桃香楼(タオシャンロウ)』に泊まる事になった。
 泊まったといっても、妓女(ジーニュ)と夜を共にしたわけではない。『富楽院(フーレユェン)』の妓楼で、妓女と床入りするには、何度も通って妓女と心を通じ合わさなければならなかった。当然、それなりの散財をしなければ、妓女を抱く事は許されない。ただ妓女が抱きたいだけなら、『富楽院』以外の妓楼に行けばいい。城外にはそういう妓楼がいくつもあるという。
 格式の高い『富楽院』の妓女たちは皆、一流の芸を身に付けている。お客も一流と呼ばれる男たちでなければならなかった。たとえ、どんなに金持ちの男でも、一流でなければ相手にはされないという。一流の男というのは、うまい詩が作れたり、うまい字や絵が描けたり、文学や歴史に詳しかったり、とにかく、何か人よりも優れたものを持っている人だという。
 俺たちには縁のない話だなとサハチもウニタキも思っていたが、そうでもなかった。ファイチがヂュヤンジンと話し込んでいる時、ウニタキが部屋に置いてあった三弦(サンシェン)を弾き始めて歌を歌った。言葉はわからないはずなのに、三人の若い妓女たちは真剣に聴いていて、歌が終わるとしきりに褒めていた。サハチも負けずと、横笛を見つけて吹き始めた。明国(みんこく)に来た喜びを表現した即興の曲だった。吹き終わると三人の妓女たちのサハチを見る目が変わっていた。少しは一流に近づいたような気がして嬉しかった。その後は、妓女たちが弾く琴や琵琶(びわ)を聴いたり、一緒に演奏したりして、夜が明けるまで楽しく過ごした。
 夜が明けると妓楼を出て、宿屋に寄って荷物を受け取り、馬を連れて、ヂュヤンジンの屋敷に向かった。ヂュヤンジンの屋敷は『夫子廟(フージーミャオ)』の裏にある『国子監(こくしかん)』のさらに先の方にあった。思っていた通り、ヂュヤンジンの屋敷は広い敷地を持った立派な屋敷だった。ヂュヤンジンはサハチたちを離れの客間に案内すると、官服(かんぷく)に着替えて宮廷に出仕して行った。
「あいつは偉い人なのか」とサハチが聞くと、ファイチはうなづいた。
「予想以上の出世をしていました」とファイチは笑って、ヂュヤンジンの事を話してくれた。
 ヂュヤンジンはファイチと同じ年に科挙(かきょ)に合格して、共に宮廷に仕えた。四年後、洪武帝(こうぶてい)が亡くなって建文帝(けんぶんてい)が即位した。当時、建文帝はまだ二十二歳で、側近の斉泰(チータイ)、黄子澄(ファンジーチェン)、方孝孺(ファンシャオルー)の三人が権力を握っていた。三人は建文帝を守るために、叔父たちの力を削減した。ヂュヤンジンはその政策に反対したために宮廷から追放されてしまう。
 追放されたヂュヤンジンは旅に出て、武当山(ウーダンシャン)(湖北省)に籠もって道士(どうし)の修行を積んだ。出家をして、もう世に出るつもりはなかったが、永楽帝(えいらくてい)が建文帝を滅ぼして即位した事を聞くと、急に宮廷に戻りたくなった。永楽帝のために働かなければならないと思ったらしい。ヂュヤンジンは山を下り、還俗(げんぞく)して応天府(おうてんふ)に向かった。ヂュヤンジンと永楽帝は一度会っただけだったが、永楽帝はヂュヤンジンの事を覚えていて、すぐに役職に就けたという。
「一度しか会っていないのに覚えていたなんて、余程の縁があったんだな」とサハチが言うと、
「ヂュヤンジンは科挙の合格者の二番目の成績だったのです」とファイチは言った。
「主席の合格者を状元(ジュアンユェン)、二番目を榜眼(バンユァン)、三番目を探花(タンファ)といって、その三人は宮廷内にある翰林院(ハンリンユェン)と呼ばれる役所で働く事になります。状元になったのは張信(ヂャンシン)という人でしたが、三年後に病死してしまいました。四十歳に近い人で、科挙に合格するためにずっと苦労して頑張ってきたのに、合格して三年で亡くなるなんて可哀想な人でした。その年の科挙では主席の状元よりも、榜眼と探花の方が有名になったのです。二人とも二十歳という若さでした。科挙の合格者は三十過ぎの人がほとんどです。それで、永楽帝も覚えていたのでしょう」
「もしかしたら、三番目はファイチなのか」とウニタキが聞くと、ファイチはニヤニヤしながらうなづいた。
「凄い奴だよ、お前は‥‥‥すると、ヂュヤンジンはまだ独り身なのか」
「どうも、リィェンファ(蓮華)に惚れているようです」
「成程」とウニタキは納得したようにうなづいた。
「それで、ヂュヤンジンは今は何をしているんだ?」とサハチは聞いた。
「礼部(リーブー)という役所に勤めていて、永楽帝の側近でもあるようです」
永楽帝の側近という事は、今頃、永楽帝に会って、ファイチの事を話しているかもしれんな」とサハチが言うと、
永楽帝がお前に会いたいと言うかもしれんぞ」とウニタキが言った。
「会いたいと言っても、それは無理というものです。皇帝に会うには、それ相当の身分が必要なのです。一般庶民や下級役人は会うことはできません。かなり地位の高い役人だけが皇帝に会う事ができるのです。この広大な明国を治めている皇帝というのは雲の上の人のような存在なのです。高い城壁に囲まれた宮殿の中にいて、一般の者たちは見る事もできません」
「そうだろうな」とサハチとウニタキはうなづいた。
 旅の疲れと一睡もしなかったのがたたって、三人はいつの間にか眠ってしまい、目が覚めたのは正午過ぎだった。
 ヂュヤンジンはまだ帰っていなかった。サハチたちは屋敷を出て、『会同館(かいどうかん)』に向かった。会同館は宮殿の近くにあって、歩いても半時(はんとき)(一時間)は掛からない距離だという。途中、ファイチは寄る所があると言って脇道にそれた。しばらく行くと、半ば崩れた石垣に囲まれた草ぼうぼうの荒れ地に、朽ちかけた屋敷が建っていた。ファイチは呆然とその屋敷を見つめていた。
「もしかしたら、ファイチの屋敷か」とウニタキが聞いた。
 ファイチは黙ってうなづいた。
「もうなくなっていると思っていました」
「ここで両親は殺されたのか」
「そうです。父と対立していた道士にやられたのです。その時、わたしは家族と一緒に城外の屋敷に住んでいたので助かりました。そして、知らせを受けると家族を連れてすぐに逃げたのです」
「兄弟はいなかったのか」とサハチが聞いた。
「わたしは五人兄弟の四番目です。二人の兄と一人の姉と妹がいます。上の兄は燕王(イェンワン)だった頃の永楽帝に仕えて、蒙古(もうこ)(元)を相手に戦って戦死しました。わたしが十八の時でした。下の兄も永楽帝に仕えていましたが、戦死したそうです。昨夜(ゆうべ)、ヂュヤンジンから聞きました。永楽帝が応天府に攻め込む前に、官軍相手の大戦(うふいくさ)があって、永楽帝の右腕だった将軍が戦死して、下の兄もその戦で戦死したそうです」
「兄貴二人が永楽帝に仕えていたのか。それで、ファイチも狙われたんだな」
「多分、そうでしょう。父は永楽帝が子供だった頃から、ただ者ではない。いつか、かならず皇帝になるに違いないと信じていたようです。それで、兄たちを永楽帝のもとへと送ったのです。姉も永楽帝重臣の倅に嫁いで行きました。生死はわかりません。妹は道士のもとに嫁いだので、多分、無事だと思います」
 ファイチは壊れた門から中に入ると、草をかき分けて屋敷に向かった。サハチとウニタキもあとに従った。
 今にも崩れそうな屋敷だった。中に入ったら屋根が落ちてくる危険があった。ファイチも気づいて中には入らず、懐かしそうに屋敷を眺めていた。
「わたしはここで生まれて、嫁をもらって独立するまでの二十年間をここで過ごしました。ここに来たら様々な事を思い出しました」
 ファイチは涙を拭って、無理に笑おうとした。
「両親が殺されたのはヂュヤンジンが宮廷を出てからなのです。ヂュヤンジンは建文帝の側近たちのやり方に反対して宮廷を飛び出しました。甥が叔父たちを倒していくのが我慢ならなかったのでしょう。わたしもヂュヤンジンと同じ考えでしたが、宮廷に留(とど)まりました。家族がいるからとか、戦にはならずにうまく治まるだろうとか、色々と自分で自分に都合のいいように言い聞かせて、はっきり言えば、楽な方に逃げていたのでしょう。ヂュヤンジンのように早いうちに見切りをつけて、両親と家族を連れて、ここから離れれば、こんな事にはならなかったと、今でも後悔しています。ヂュヤンジンは応天府に戻って来て、わたしの両親が殺されて、わたしが行方知れずになった事を知って探し回ったそうです。両親の遺体は父の仲間の道士たちが荼毘(だび)に付して、龍虎山(ロンフーシャン)(江西省)に連れて行ってくれました。龍虎山には父の先祖のお墓があります。そこに入れてくれたそうです。わたしの消息はまったくつかめなかったようです。城外にあったわたしの屋敷は戦の時に破壊されてしまって、跡形もなかったそうです。それでも、ヂュヤンジンはリィェンファと一緒にわたしが戻って来る事を信じて、ずっと待っていたのです」
 突然、目の前の天井裏から何かが落ちてきた。小さな木の箱だった。天井裏を覗くと、雨水で腐ったのかあちこちに穴が開いていた。ファイチが箱に手を伸ばした。開けてみると木彫りの人形が布にくるまれて入っていた。顎髭を伸ばして剣を持った武将のようだった。ファイチはその人形をじっと見つめていた。
「それは誰だ?」とサハチはファイチに聞いた。
「神様です」とファイチは答えた。
「『真武神(ジェンウーシェン)』という武術の神様です。父が大切にしていました」
「どうして、天井裏から落ちてきたんだ」
 ファイチは首を振った。
「何かの理由があって隠したのだと思いますが、わたしにはわかりません」
 ウニタキが腰から刀を鞘ごと抜いて、鐺(こじり)で天井裏をつついた。埃が舞っただけで、何も落ちては来なかった。
「父の遺品です」とファイチは言って、人形を木箱に戻すと懐にしまった。
 ファイチの屋敷を離れて、会同館に向かった。東の方に進んで行くと高い城壁が見えた。あの中に永楽帝がいる宮殿があるという。会同館は宮殿の城壁の近くにある大きな屋敷だった。各国から来た朝貢(ちょうこう)の使者たちは皆、そこに泊まるらしい。琉球中山王(ちゅうざんおう)の使者はまだ到着していなかった。山南王(さんなんおう)の使者は十日ほど前に帰って行ったという。宮殿を見てみたいと思ったが、高い城壁がずっと続いていて、門は閉ざされ、見る事はできなかった。
首里(すい)の御殿(うどぅん)をそのまま大きくしたような造りです」とファイチが言った。
「シタルー(山南王)がここの宮殿を真似して造ったんだな」とサハチが聞くと、ファイチはうなづいた。
「シタルーは宮殿を見たのか」とウニタキが驚いて聞いた。
「国子監の官生(かんしょう)(留学生)ならこの城壁内に入る事はできます。皇帝のいる宮殿の中まで入る事はできませんが、外から見る事はできます」
「使者のサングルミー(与座大親)も入れるのか」
「入れます。そこの門から中に入るとまた門があります。その門から入るとまた門があって、そこから先は首里グスクの御庭(うなー)のように広い場所があって、役人たちがずらりと並びます。御庭の向こう側に玉座(ぎょくざ)があって、永楽帝が座ります。朝貢の使者たちは御庭の入り口の門の所で永楽帝に拝謁(はいえつ)するのです」
「そんな遠くから拝謁するのか」とサハチは驚いた。
 父が正月に東方(あがりかた)の按司たちの挨拶を受けた時のように、使者は永楽帝玉座のすぐ側まで行って拝謁すると思っていたのに、まったく違っていた。ファイチが言ったように、永楽帝は雲の上の人のようだった。
 城壁に囲まれた宮殿の前には役所がいくつも並んでいた。皆、大きな建物だった。サハチが正月に着た明国の着物と同じような着物を来た役人たちが大勢、行き交っていた。
 それにしても、応天府には驚く程の人がいた。どこに行っても人ばかりだった。様々な人を見ているだけでも疲れてくる。あちこちをぶらついて、日暮れ前にヂュヤンジンの屋敷に帰ると、ヂュヤンジンが心配顔で待っていた。
「迷子にならないかと心配していたそうだ」とファイチがヂュヤンジンが言った事を訳した。
 妻のいないヂュヤンジンの屋敷には家婢(ジャビー)と呼ばれる女が二人いた。女の奴隷(ヌーリー)で、無錫(ウーシー)にある実家から連れて来たらしい。二人とも二十代の半ばくらいに見え、家事をテキパキとこなしていた。
「家婢は嫁に行かないのか」とウニタキが聞くと、
「奴隷同士なら一緒になれますが、一般の男とは一緒になれません」とファイチが説明した。
「家婢は主人の財産の一つなので、売り買いはできます。どこかから男の奴隷を買ってきて、家婢と夫婦にさせて、子供を産ませて増やす事はできます」
「その子も奴隷なんだな」
「そうです。奴隷の子は奴隷です」
「主人が家婢に手を出す事はないのか」
「自分の持ち物ですから、それは自由です」
「生まれた子は奴隷なのか」
「そこは難しい所ですね。自分の子として認める事もできます。ただ、女主人が奴隷と結ばれて子供を産んだ場合は罰せられて、女主人は奴隷にされてしまいます」
琉球には奴隷はいらない」とサハチがぽつりと言った。
 ファイチは笑ってうなづいた。
 サハチたちはヂュヤンジンの屋敷に滞在して、琉球の使者たちが応天府に来るのを待っていた。朝貢の使者たちはヂュヤンジンのいる役所、礼部の管轄なので、到着したらヂュヤンジンが教えてくれるという。サハチたちは都見物を楽しんだ。城外に出て、古いお寺なども見学したが、それに飽きると杭州(ハンジョウ)で別れた三姉妹の事が思い出された。
「なあ、杭州に行って来ようぜ」とウニタキが言い出した。
杭州なら四日で行ける。三姉妹と会って、ちょっと一杯やって戻ってくればいい。そうすれば、サングルミーたちも応天府に着いているだろう」
「ちょっと一杯だけで戻って来られるか、俺には自信がない」とサハチは言った。
「それでは二杯にしましょう」とファイチが笑った。
 三人の意見が一致して、明日、旅立とうと決めて、ヂュヤンジンの屋敷に帰ると、これから『富楽院(フーレユェン)』に行くとヂュヤンジンが言った。
 さては、リィェンファを口説くつもりだなとサハチとウニタキは思って、ニヤニヤしながらヂュヤンジンを見た。
 ファイチから聞いた話だと、ヂュヤンジンはずっとリィェンファが好きだったらしい。ところが、リィェンファの身請け話が決まり、ヂュヤンジンはやけになって、上司と喧嘩して宮廷を飛び出し、武当山に行って出家してしまう。ヂュヤンジンはリィェンファを忘れるために必死になって修行に励んだ。
 心の傷も癒えて、リィェンファの事も忘れた頃、永楽帝が皇帝になったという噂が流れてきた。一度だけ会った永楽帝を思い出すと同時にファイチの事も思い出した。ファイチはきっと、永楽帝の側近を務めているに違いないと思ったヂュヤンジンは、もう一度、宮廷に仕える決心をして山を下りた。
 永楽帝と会う事ができ、仕官もできたが、ファイチはどこにもいなかった。ファイチを探すために富楽院に行って、リィェンファと再会したのだった。身請けしてくれる相手が建文帝によって殺されたため、ずっと富楽院にいたという。早まった事をしてしまったとヂュヤンジンは悔やんだ。
 ヂュヤンジンは自分の事を話して、リィェンファに一緒になってくれと頼んだが断られた。リィェンファは亡くなったタオファ(桃華)のためにもファイチの帰りを待っていると言った。生きているのかもわからないファイチを待っていると言った。リィェンファの言葉を噛みしめ、ヂュヤンジンも一緒に待つ事にしたのだった。ファイチが帰って来たら、一緒になるとリィェンファは約束してくれた。あれから四年半の月日が流れ、ファイチは帰って来た。二人が結ばれるのも時間の問題だった。
 富楽院にやって来たが、先に立って歩いているヂュヤンジンは『桃香楼(タオシャンロウ)』の前を素通りした。
「おい、どこに行くんだ? ここじゃないのか」とウニタキは言ったが、ヂュヤンジンには通じない。
 どこか別の場所でリィェンファと会うつもりなのかなとサハチは思った。きっと、高級な料理屋に違いない。
 ヂュヤンジンが入って行ったのは『酔夢楼(ズイモンロウ)』という妓楼だった。『桃香楼』よりも高級そうな雰囲気が漂っていた。
「名前の通り夢に酔う妓楼です」とファイチが言った。
「富楽院でも一番高級な妓楼です」
「ここにリィェンファがいるのか」とウニタキが聞くと、ファイチは首を振って、
「ここには富楽院一といわれる妓女、リュウイェンウェイ(劉媛維)がいます。滅多にお目にかかれる妓女ではありません。拝むだけの値打ちはあります」と言って笑った。
 何が何だかわからないが、サハチたちは最高級の妓楼に入って行った。外見はそれほど豪華に見えなかった。内部は豪華な造りに違いないと思ったが、期待は裏切られ、派手派手しい物は何もなかった。それでも、高級そうな雰囲気が漂っているのは所々にさりげなく置いてある書画や置物のようだ。それらは決してわざとらしさがなく、自然に置いてある。高価な物をそれ見よがしに置いておくのは下品の最たるものだと言っているようだった。そして、何とも言えないいい香りがほんのりと漂っている。本物の贅沢というのはこういうものなのだろうか。
 奥の部屋に人がいた。男と女だった。男は円卓の側の椅子に腰掛け、女はその隣りに立って笑っていた。清楚な着物を着た女は見とれてしまうほどの美女だった。これが滅多に拝めない妓女、リュウイェンウェイに違いない。まさしく、富楽院一の美女だった。
 部屋の前でヂュヤンジンとファイチが急にひざまづいた。男が何かを言って、二人を立たせた。二人とも恐縮しているようだった。
永楽帝です」とファイチが小声で言った。
「えっ?」とサハチとウニタキは驚いて、どうしたらいいのか戸惑った。
永楽帝はお忍びです。皇帝とは思わないでくれと言っています」
 そう言われてもサハチとウニタキは緊張して、すっかり堅くなっていた。それから先は頭が真っ白になって、何がどうなったのかわからない。いつの間にか、永楽帝と一緒に、豪華な料理が並んだ円卓を囲んで酒を飲んでいた。酒を飲んだら気持ちも落ち着いて、改めて永楽帝を見た。
 想像していた永楽帝とは違っていた。毎日、うまい物を食べて贅沢をしているのだから、太っていて大柄な人だろうと思っていた。しかし、目の前にいる男は筋肉質で、武芸の腕もかなりありそうだった。北の方から応天府に攻めて来たと聞いたが、自ら先頭に立って攻めて来たのかもしれない。大軍を率いる大将としての貫禄があった。
 永楽帝はファイチと話し込んでいた。リュウイェンウェイはいなくなって、男五人だけになっていた。お忍びと言っていたが、警固の兵はどこにいるのだろうとサハチは思った。部屋の入り口の方を見てもそれらしき者は見えなかった。
 永楽帝がサハチを見て何かを言った。
 ファイチを見ると、「サハチさんにわたしを取られたと言っています」と笑った。
「ファイチは琉球に必要な人です。わたしにとっても大切な人です」とサハチが言うと、ファイチが訳して永楽帝に言った。
 永楽帝は笑ってうなづいた。そして、ファイチと話を続けた。ファイチは時々、笑ったり驚いたりしていたが、あとは真面目な顔をして永楽帝と話していた。何か、重要な事を永楽帝に頼んでいるようだった。
 話が一段落したあと、ファイチは朽ち果てた自宅の天井から落ちてきた神像を永楽帝に見せていた。永楽帝は神像を手に取ってじっと見つめた。永楽帝の目が潤んでいるように見えた。なぜか、ファイチは父親の遺品を永楽帝に贈っていた。
 永楽帝と一緒にいたのは一時(いっとき)(二時間)ほどだろうか。サハチはやたらと喉が渇いて、酒ばかり飲んでいた。永楽帝は遠慮なく料理を食べろと言うが、なかなか手が出せなかった。ウニタキは平気な顔をして料理を食べていた。そんな図太いウニタキがうらやましかった。永楽帝は、ゆっくりしていけと言って席を立ち、どこからか現れたリュウイェンウェイに伴われて去って行った。
 永楽帝の姿が消えるとサハチはホッとして溜め息をついた。
「こんなに緊張した事はない」とサハチは言ってファイチを見た。
「知っていたんだな?」
 ファイチはうなづいた。
「ヂュヤンジンに頼んだのです。実現するとは思っていませんでしたが、会えてよかったです」
「まったく、一言教えてくれよ」
「二人の驚く顔が見たかったのです」とファイチは笑った。
「俺も震えが止まらないほど驚いた」とウニタキが言った。
「嘘をつけ。お前は平気な顔して料理を食べていただろう」
「何もせずにはいられなかったんだ。とにかく、平静を装おうとして、目の前の料理に手を出したんだ。味なんか少しもわからなかった。それにしても、永楽帝は武芸の腕も立つな」
永楽帝は『真武神(ジェンウーシェン)』の生まれ変わりだと自ら言っています」
「それで、あの神様を永楽帝に贈ったのか」とサハチは聞いた。
「あの像は若い頃の永楽帝が彫ったものなのです。父と別れて北平(ベイピン)(北京)へ向かう時、父に贈ったそうです。あの神像を見て、わたしは永楽帝に会わなければならないと思って、ヂュヤンジンに頼んだのです。『真武神』は武当山(ウーダンシャン)に棲んでいる神様で、武当山は武術の本場です」
武当山と言えば、ヂュヤンジンが修行を積んだ山だな」
「そうです。わたしの武術の師匠も武当山の道士です」
 ヂュヤンジンが何かを言った。ファイチが訳した。
「ヂュヤンジンが武当山に行ったのは、わたしから話を聞いていたのと永楽帝が信仰している真武神に会いたかったからだと言っています」
「それで、真武神には会えたのか」
 サハチが言った事をファイチが告げると、ヂュヤンジンは笑ってうなづき、ファイチに何かを言った。
「真武神は山頂にいて武当山を見守っているそうです」
 リュウイェンウェイが三人の美女を連れて戻って来た。皆、すらっとしていて背が高く、足の小さな美女だった。リュウイェンウェイがファイチに何かを言って、「永楽帝は無事にお帰りになったそうです」とファイチが言った。
「この妓楼は永楽帝のために特別に造ったのか」とウニタキがファイチに聞いた。
 ファイチがリュウイェンウェイに聞くと、うなづいてウニタキを見た。
 ウニタキは天井を指さした。
 リュウイェンウェイは美しい笑みを見せて、ファイチに何かを言った。
 ファイチは驚いて、ウニタキを見た。
「ウニタキさん、さすがです。永楽帝の警固の者たちが、天井裏に隠れていたそうです」
「やはりな。下手な事をしたら殺されると思って、何も気づかない振りをして料理を食べていたんだ」とウニタキは言った。
 サハチはそんな事はまったく気づかなかった。大したもんだとウニタキを見直していた。
 美女たちが加わって、酒盛りが始まったが、ヂュヤンジンが先に帰ると言い出した。
「リィェンファ」とウニタキが言って笑った。
 ヂュヤンジンはウニタキを見てうなづいた。
「俺たちも行こう」とウニタキは言った。
 サハチたちは美女たちと別れて、『酔夢楼』を出た。
「本当に夢のような出来事だったなあ」とサハチは『酔夢楼』を振り返りながら言った。


 

 

 

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