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長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部はその後の尚巴志の活躍です。お楽しみください。

2-18.霞と拳とシンシンと(第二稿)

尚巴志伝 第二部

 サハチたちは武当山(ウーダンシャン)の山の中で、ヂャンサンフォン(張三豊)の指導のもとに武術修行に励んでいた。
 数日前の朝早く、朝天宮(チャオティェンゴン)を出発して天界に入った。細い山道を登って、一天門、二天門、三天門と三つの門をくぐって山頂に着くと、金堂(ジンタン)と呼ばれる銅でできたお堂が建っていた。苦労して登って来た山の頂上にこんな物が建っているなんて、まったく信じられない事だった。お堂の中には真武神(ジェンウーシェン)が鎮座していた。その神々しさにサハチもウニタキも無意識のうちに手を合わせていた。
 山頂からの眺めは最高だった。まさしく、天界にいるようだった。白い雲が辺り一面を覆っていて、いくつかの山頂が所々に顔を出している。自分たちが今、雲の上にいるという事が信じられなかった。サハチもウニタキも感動して、この世のものとは思えない不思議な光景を無言のまま見入っていた。
「金堂は元(げん)の時代に建てられました。白蓮教(バイリィェンジャオ)の者たちがこのお堂を破壊しようとした時、雷が落ちて、真武神が光ったそうです。白蓮教の者たちも真武神の怒りを恐れて、破壊せずに山を下りて行ったようです」とファイチが説明した。
 サハチとウニタキは振り返って、白蓮教の者たちを追い払ったという真武神を改めて見た。まさしく、永楽帝の奇跡を起こした偉大なる神様だった。二人はもう一度、合掌して山を下りた。
 来た時と同じ道を下りていると思っていたが、途中から違う道に入ったようで、いつまで経っても朝天宮に着かなかった。そして、谷底を流れる川に出て、そこで一休みした。川の水は冷たくて、最高にうまかった。川を飛び越えて、今度は山登りだった。山道なのか獣道なのかよくわからない狭い道を通り、時には険しい岩をよじ登ったりして、ようやく着いた所は、山の中腹らしい日当たりのいい広い草原だった。眺めもよく、金堂のある山頂も見えた。
 サハチとウニタキは金堂のある山が武当山だと思っていたが、あの山は天柱峰(ティェンジュフォン)といい、武当山の中の一つの山だという。武当山というのはこの辺り一帯の事で、七十二もの山が連なっているという。
 明の国は山も大きいと感心しながら、琉球なんて一つの山になってしまうと思った。あの島を一つの山と見たので、中央にある浦添(うらしい)が中山(ちゅうざん)で、山の北にある今帰仁(なきじん)が山北(さんほく)、山の南にある島尻大里(しまじりうふざとぅ)が山南(さんなん)になったのかとサハチは一人で納得していた。
 草原の先に切り立った崖があって、その前に小屋が建っていた。小屋を覗くと、ヂャンサンフォンがのんきに昼寝をしていた。シンシンがヂャンサンフォンを起こすと、目を開けて皆を見たが、シンシンに何かを言うとまた目を閉じた。
 シンシンに連れられてサハチたちは小屋の後ろにある崖に向かった。崖に穴が開いていた。中を覗いてみても真っ暗で何も見えなかった。
「この洞穴(ほらあな)は向こうの穴に通じているそうです」とファイチが言って、十間(けん)(約二十メートル)ほど先を示した。
 見ると崖の下に同じような穴が開いているのが見えた。
「修行をするための第一関門が、この洞穴を通り抜ける事だそうです」
「真っ暗な洞穴を灯りもなしに通り抜けるのか」とウニタキが聞いた。
 ファイチはうなづいた。
「獣(けもの)が棲んでいるんじゃないのか」
 ファイチがシンシンに聞くと、シンシンは笑ってファイチに答えた。
「怖いマジムン(魔物)が棲んでいるそうです」
 嘘をつくなという顔をしてサハチとウニタキはシンシンを見た。シンシンは口をとがらせてマジムンのような顔をして見せ、「行くわよ」と言って、洞窟の中に入って行った。おかしな娘だったが、可愛い娘だった。
 サハチたちは慌ててシンシンのあとを追った。真っ暗で何も見えなかった。足場も悪く、でこぼこしていて、おまけに濡れているようだった。サハチたちは互いに声を掛け合いながら、岩壁に交互に手を置いて真っ暗闇の中を進んで行った。
 サハチの手に何かが触れた。何かわからないが虫のようだった。素早く手を振って、気味の悪い虫を払った。シンシンに声を掛けると返事は遙か先の方から聞こえてきた。あの娘は暗闇でも見えるのだろうか、不思議だった。サハチの前を行くウニタキが悲鳴を上げた。
「どうした」と聞くと、「わからん。何かがいた」と言った。
「きっと、マジムンだろう」とサハチは言った。
「馬鹿を言うな」と言ったウニタキの声は怒っているようだった。
 今度はウニタキの先を行くファイチが悲鳴を上げた。
「大丈夫か」と聞くと、「水たまりがあります。気をつけて下さい」と言った。
 ファイチの言った水たまりは思っていたよりも深かった。六、七寸(約二十センチ)ほどはあっただろう。気味の悪い水たまりだった。きっと、不気味な虫がうようよいるに違いない。水たまりは三歩歩くとなくなった。
 洞窟の中は曲がりくねっていて、方向がまったくわからなかった。出口に近づけば外の光が見えるはずだが、いつまで経っても真っ暗闇だった。
「行き止まりです」とファイチが言った。
「何だと」とウニタキとサハチは調べた。
 確かに行き止まりだった。シンシンを呼んでも返事はなかった。
 壁を伝わりながら、三人は戻った。
「ここで間違えたようです」とファイチが言った。
 壁が直角に曲がっていた。三人とも右側の壁を頼りに歩いていたので、行き止まりに入ってしまったようだ。そのまま、右側の壁を伝わりながらしばらく行くと、先頭を行くファイチが、「段差があります。気をつけて下さい。」と言った。
「わかった」とウニタキが返事をした。
 両手で段差を確かめながら、サハチはウニタキのあとを追った。
「あがっ(痛い)」と上の方からファイチの声が聞こえた。
「気をつけて下さい。立つと頭をぶつけます」
 三尺(約一メートル)ほどの段差を乗り越えた先は、中腰で進まなければならないほど天井が低かった。壁を伝わりながら中腰のまま進むと、「もう大丈夫だぞ。立っても平気だ」とウニタキが言った。
 サハチは上を気にしながら腰を伸ばした。手を伸ばしても天井には届かなかった。
「今度は狭いです」とファイチが言った。
「体を横にしないと通れません」
「大丈夫か」とウニタキがファイチに言った。
「何とかなりそうです」
 手探りで壁を触りながら体を横にして、サハチも何とか通り抜ける事ができた。
「サハチさん、通り抜けましたか」とファイチが言った。
「ああ、通り抜けた」とサハチは返事をした。
「太った奴はここは通れないぞ」とウニタキが言った。
「太った奴は来た道を戻るしかあるまい」とサハチは言った。
「ここから戻るのと先に進むのと、どっちが出口に近いんだ」とウニタキが言った。
「今まで歩いた距離からすると、もう少しで出口のはずです」とファイチが言った。
「そう願いたいよ」とウニタキが言って苦笑した。
「出口はどこだ!」と叫びたい心境だった。
 真っ暗闇の中を進むのは、気が狂ってしまうのではないかと思うほどに恐ろしかった。
「先に行きますよ」とファイチが平然とした口調で言った。
 壁に伝わって、また歩き始めた。曲がりくねっていて、出口に向かっているのか不安だった。どこかで道を間違えて、洞窟の奥へ奥へと進んでいるように思えた。
「また段差があります」とファイチが言った。
 先程の段差よりも高かった。そこをよじ登って少し進むと、ようやく、外の光が見えてきた。
「光が見える!」とウニタキが嬉しそうに叫んだ。
「光だ!」とサハチも思わず叫んでいた。
 本当にありがたい光だった。光を頼りに三人は無事に洞窟から脱出した。
 外はまぶしいほどの光であふれ、その光の中に、ヂャンサンフォンとシンシンが立っていた。
「胎内くぐりじゃ」とヂャンサンフォンがヤマトゥ言葉で言った。
「お前たちは胎内をくぐって今、生まれたんじゃ。新しく生まれ変わった、と言いたいが、生まれ変わるのはこれからじゃ。これから楽しい修行が待っている」
 ヂャンサンフォンはそう言って大笑いした。わけがわからないと言った顔をしているファイチにサハチがヂャンサンフォンが言った事を琉球言葉に訳して教えた。
 その時から厳しい修行が始まった。まず始めにやらされたのは断食(だんじき)だった。生まれ変わるには、体内に溜め込んだ毒をすべて出さなくてはならない。それには霞(かすみ)だけを食って、五日間を過ごせという。
 近くにある小川での水汲みから一日が始まった。午前中は大地に座り込んで、呼吸に専念しろと言われ、午後は武術の稽古だった。武術といっても剣術や棒術ではなく、素手で戦う武術だった。
 模範を見せると言ってヂャンサンフォンがファイチを相手に戦ったが、華麗な舞を見ているようだった。拳で突いたり、掌(てのひら)で突いたり、敵の攻撃を流れるように受け流したり、足で蹴ったり、体を回転させて敵の足を払ったりと凄い技が次々に現れた。サハチもウニタキも目を見張って、ヂャンサンフォンとファイチの動きを追っていた。あの技を身に付ければ、武器などなくても怖い物なしだと思った。
 サハチもウニタキも『武当拳(ウーダンチェン)』と呼ばれる拳術を身に付けようと必死になって修行に励んだ。武当拳を教えるのはファイチとシンシンだった。二人が交互にサハチとウニタキの指導に当たった。ファイチが強いのは知っていたが、シンシンも思っていた以上に強かった。サハチもウニタキもシンシンに手も足もでず、あちこちがアザだらけになって、おまけに腹が減って力もでなかった。
 『武当拳』には套路(タオルー)という形の稽古もあった。色々な技を組み合わせた形がいくつかあって、呼吸に合わせて、ゆっくりと行なう一人でできる稽古だった。サハチとウニタキはファイチの動きを真似しながら套路を覚えた。
 『胎内くぐり』は日課となって、毎日、やらされた。三人一緒ではなく、午前中に交替で、暗闇の中を一人で歩かされた。洞穴の中に獣もマジムンもいないとわかっていても、一人で真っ暗闇の中を歩くのは恐ろしかった。誰かがあとから付いてくるような気がしたり、風の音にびくついたり、姿の見えない不気味な虫を追い払ったり、逃げ出したいと思うが、それもできず、一歩一歩、足下を確かめながら進むしかなかった。外の光が見えてくると、ホッと胸をなで下ろして、生きている事に感謝した。
 ただ呼吸だけに専念して座っていると色々な事が頭に浮かんでは消えていった。
 どうして、こんな所に座り込んでいるのだろう。
 サングルミーたちはもう応天府に着いているに違いない。宮殿に入って永楽帝に拝謁しただろうか。
 ヂュヤンジンとリィェンファは幸せな時を過ごしているに違いない。
 杭州(ハンジョウ)に行っていれば、今頃、メイユーと楽しい一時を過ごしていただろう。
 突然、マチルギの怒っている顔が思い出された。琉球は何事もなく大丈夫だろうか。
 馬天ヌルと馬天若ヌルのササ、妹の佐敷ヌル、サスカサヌルとサスカサ若ヌルのサハチの娘のミチ、久高島のフカマヌルが、サハチたちの無事を必死に祈っている姿が見えてきた。
 島添大里の『まるずや』の裏の屋敷の縁側で、独り寂しく座っているナツの姿も見えてきた。あの時は先の事も考えずにナツを抱いてしまったが、琉球に帰ったら一波乱起きそうな予感がした。
 なぜか、子供の頃の事も思い出された。世間の事など何も知らず、海に潜って遊んでいた無邪気な頃が思い出された。
 師匠のヂャンサンフォンが言うには、人間は生まれたばかりの赤ん坊の時、先の事がわかる予知能力や、遠くで起こった事が見える千里眼や、生まれる以前の遠い過去の記憶など、様々な能力を持っているという。しかし、人間として育っていくうちに、それらの能力を使う事なく、忘れ去ってしまう。人間が本来持っていた、それらの能力を呼び覚ますための修行を積むのが道教だという。
 厳しい修行を積んで、それらの能力を呼び覚ます事ができれば、自然と一体化して、老いる事なく長生きができ、仙人と呼ばれるようになるという。その基本として、正しい呼吸をしなければならない。自然の中には気が流れ、人間の体内にも気が流れている。気の流れが悪くなると病気になる。体内の気の流れを正常に戻さなくてはならない。
 武当拳も気の流れに従って動く拳術だという。気の流れがわかれば体が自然に動くというが、サハチには気というものがよくわからなかった。
 サハチたちが座り込んでいる時、シンシンは一人で剣術や棒術の工夫をしていた。そんなに強くなってどうするのだろう。マチルギと同じように敵討ちでもするつもりなのか。ぼんやりとシンシンを見ながら、サハチはマチルギと初めて出会った時の事を思い出していた。
 断食を初めて三日め、サハチはフラフラしながら拳術の稽古をしていた。腹が減って体の力が出なかった。ファイチは以前にも断食をした事があるので、コツがわかっているのか何ともないようだった。ウニタキも昨日はフラフラしていたのに、今日はそんな素振りもなく稽古に励んでいた。あの野郎、隠れて何かを食べていたなとサハチは思ったが、そうではなかった。昨日までは腹が減ってどうしようもなかったが、なぜか、今日は空腹を感じず、体が軽くなったようで、よく動くとウニタキは言った。信じられなかったが、その夜、サハチも空腹を感じる事なくよく眠れた。翌朝も不思議と空腹は感じなかった。ウニタキが言うように体が軽くなったように感じ、武術の稽古でも思うように体が動いた。
 五日めの断食の日は朝から雨が降っていた。雨に濡れながら座り込んでいた。雨は冷たかった。風邪でも引いてしまうのではないかと心配だったが、なぜか、体が熱くなってきた。病に罹って出る熱とは違う、体の奥の方から感じる熱さだった。午後の稽古も今までと違って、体がなめらかに動くように感じられた。何となく、気というものがわかってきたような気がした。
 五日間の断食も終わって、うまい物が食べられると期待していたが、朝食は薄いお粥(かゆ)だった。断食を五日間したら、五日間を掛けてもとの食事に戻さなければならない。断食のあとに普通の食事を取ると内臓が破裂して死ぬこともあるという。
 断食が終わって三日目の夜、「今日は呂祖(リュズー)(呂洞賓(リュドンビン))の生誕日だから、お祝いに酒を飲もう」と師匠のヂャンサンフォンは言った。サハチたちも喜んだが、お前たちはまだ駄目じゃと言われた。今、酒を飲んだら腹痛(はらいた)を起こすという。師匠はシンシンと二人で酒を飲み、サハチたちはただの水だった。
「呂祖とは誰です」とサハチは師匠に聞いた。
「仙人じゃよ。終南山(ジョンナンシャン)にいると聞いて、わしも昔に行った事があるが、会えんかった」
「今も生きているのですか」とウニタキが水を飲みながら聞いた。
「仙人は死なんのじゃよ」と言って師匠は笑った。
 シンシンが何かを言った。師匠がそれに答えた。ファイチが笑って、シンシンもサハチとウニタキを見て笑った。
 師匠が何を言ったのか、ファイチに聞くと、「サハチさんとウニタキさんがシンシンの事を可愛いと言っているとシンシンに伝えていました」
「そんな事は言っていない」とウニタキが手を振った。
 サハチはシンシンを見ながら、「どうして、シンシンは師匠の弟子になったんです」と師匠に聞いた。
 師匠はうまそうに酒を飲むと、「シンシンは孤児だったんじゃよ」と言った
シンシンは襄陽(シャンヤン)の近くにある村で生まれたんじゃ。十歳の時に村は山賊に襲撃されて、父親は殺され、母親はさらわれてしまったんじゃ。隠れていたシンシンは助かって、父親の死体のそばで泣いているところをわしに拾われたんじゃよ。洪武帝が亡くなった翌年の事じゃった。世の中は物騒になって、あちこちで山賊やら盗賊やらが暴れ回っておった。わしはシンシンを連れて帰って、ファイチの妹夫婦に預けたんじゃ。弟子にするつもりなどなかったが、子供ながらに親の敵(かたき)を討ちたいと思ったんじゃろうのう。見よう見まねで武術を覚え、三年後にはかなりの腕になっていた。見込みがあると思って弟子にしたんじゃよ」
「敵を討つつもりなんですね」
 師匠はシンシンを見て笑い、「まだ諦めてはいないようじゃ」と言った。
「そろそろ、嫁に行く年頃なんじゃが、男には興味がないらしい。困ったもんじゃ」
「その山賊というのはまだ暴れているのですか」とウニタキが聞いた。
「さあのう。もう八年も前の事じゃからな。捕まって殺されたかもしれんのう。シンシンをファイホンに預けたあと、母親が無事なら助けてやろうと探してみたが、見つからなかったんじゃ。たとえ、生きていたとしても探すのは大変じゃろう」
 シンシンがまた何かを言った。酒が好きなのか、一人でぐいぐい飲んでいた。ファイチがシンシンに何かを言い、二人で何かを話し始めた。
 師匠は琉球の事を聞いてきた。サハチとウニタキは琉球の事を師匠に話した。師匠は興味深そうな顔をして話を聞いていた。
 急にシンシンが泣き出した。
「どうしたんだ」とウニタキがファイチに聞いた。
「自分よりも強くて素敵な男の人に巡り会えないと言って嘆いているんです」
 ウニタキが片言の明の言葉で、「いつか、素敵な人と会える」と言ったら、シンシンは泣くのをやめて、ニコッと笑った。そして、そのまま酔いつぶれてしまった。
「酒を飲んだのは初めてなんじゃ」と師匠は言った。
 それから二日が経ち、サハチたちはようやく普通の食事が取れるようになり、厳しい修行は続いていった。

 

 

 

 

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