長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-110.鳥居禅尼(改訂決定稿)

 八月の一日、ササ(馬天若ヌル)たちは熊野新宮(しんぐう)の神倉山(かみくらやま)に来ていた。
 ササたちが大原から京都に戻ると、南蛮(なんばん)(東南アジア)から使者が来たとの噂で持ち切りだった。四年前に若狭(わかさ)(福井県)に来て、台風にやられた南蛮人だと言っていたので、旧港(ジゥガン)(パレンバン)の使者たちに違いなかった。シーハイイェン(施海燕)とツァイシーヤオ(蔡希瑶)が来たんだわとササたちは、旧港の使者たちの宿舎となっているお寺に飛んで行った。
 シーハイイェンとツァイシーヤオとの再会を喜んだササたちは、二人を高橋殿の屋敷に連れて行って、歓迎の酒盛りを始めた。
 五日後に、琉球の使者たちも京都に到着して、ササたちは行列に加わった。琉球の使者たちの宿舎はいつもの等持寺(とうじじ)で、等持寺に落ち着くと、佐敷ヌルは副使のクルシ(黒瀬大親)から、硫黄(いおう)の採れる島の事を聞いた。
硫黄島は永良部島(いらぶじま)(口永良部島)から坊津(ぼうのつ)に行く途中にある島じゃよ。その時の航路にもよるが、煙を上げている島が見えるはずじゃ。昔は『鬼界島(きかいがしま)』と言って、鬼が棲んでいる島だと思われていたようじゃ。流刑地(るけいち)になって、重罪人をその島に流した事もある。奄美大島の隣りにも鬼界島があって、そこは壇ノ浦の合戦の時、安徳天皇が逃げたという伝説のある島じゃよ」
「クルシ様は奄美大島の隣りの鬼界島に行った事はありますか」と佐敷ヌルは聞いた。
「一度だけ行った事がある。天皇の子孫だか知らんが、横柄な奴らが多くてな、二度と行きたくない島じゃった」
「今頃、山北王(さんほくおう)が横柄な奴らを攻めているでしょう」とササが言った。
「あの島は簡単には攻め落とせんじゃろうな。海岸は岩場が多くて、上陸する場所は限られている。ほとんど平らな島で、中央に高台があって、そこに『御所殿(ぐすどぅん)』と呼ばれている領主の屋敷がある。その屋敷から島の周りはよく見えて、敵が近づいて来るのがわかるんじゃ。待ち構えていて、上陸する前にやられるじゃろう」
奄美大島に平家の落ち武者が住み着いた所があるようですけど、知っていますか」と佐敷ヌルは聞いた。
「浦上(うらがん)じゃろう」とクルシは知っていた。
「右近(うこん)殿と呼ばれている男がいた。噂ではもう亡くなって、倅の代になっているようじゃ。平家の大将だった平清盛(たいらのきよもり)の孫が壇ノ浦の合戦から逃げて来て、浦上に住み着いたという。右近殿は悪い奴ではないんじゃが、寄るたびに、今帰仁(なきじん)に行けと勧めるんでな、だんだんと寄らなくなってしまった。浦上とは反対側の東の方に戸口(とぅぐち)という浦があって、そこにも左馬頭(さまのかみ)殿というのがいる。そこも鬼界島に行った時に一度だけ行った。トカラの宝島から奄美大島に行って、わざわざ、奄美大島の東側に出るのは面倒なので、その後は行ってはおらんな。それと、加計呂麻島(かきるまじま)の諸鈍(しゅどぅん)にも小松殿というのがおるのう。小松殿は博学でな、倭寇(わこう)たちにも慕われておる。小松殿に会ってから、琉球に行く者もいるはずじゃ」
「クルシ様は寄って行かないのですか」
「わしらが諸鈍に行った時は、今の小松殿ではなくて、先代の小松殿だったんじゃよ。先代はおっとりとした男で、それほど取り柄もなく、わざわざ会いに行くほどの男ではなかったんじゃ。今の小松殿なら会ってみたいとは思うが、あの辺りは島が多くてな、潮の流れも変わるし、風待ちをしなければならなくなるかもしれん。面倒なので、いつも素通りしてしまうんじゃよ」
 クルシが絵地図を持っていたので、佐敷ヌルたちは、硫黄島、鬼界島、奄美大島の浦上と戸口、加計呂麻島の諸鈍の位置を教わった。
 等持寺に、高橋殿がシーハイイェンとツァイシーヤオを連れてやって来て、ササたちは将軍様の御所に移った。
 佐敷ヌルは豪華な御所に驚き、侍女に案内されて行った広い部屋に、驚く程の書物があるのに驚いた。漢字ばかりの書物が多くて、読む事はできないが、ひらがな混じりの書物もあった。『平家物語』はひらがな混じりで、何とか読めそうだった。ただ、十二巻もある長い物語なので、滞在中に読めるかどうか自信がなかった。
 御所に移ってから三日後、将軍様伊勢の神宮参詣が行なわれて、佐敷ヌルとササたちは御台所様(みだいどころさま)(将軍義持の妻、日野栄子)に従って、お伊勢参りに出掛けた。シーハイイェンたちも師匠のシュミンジュン(徐鳴軍)を連れて一行に加わった。
 将軍様のお供をするサムレーたちの多さに、佐敷ヌルは驚いた。武装したサムレーが大勢従って、まるで戦(いくさ)にでも行くようで、中山王(ちゅうさんおう)(思紹)の久高島(くだかじま)参詣とは桁違いな規模だった。将軍様が一緒だと、高橋殿も自重しているのか、あまりお酒も飲まなかったので、ササたちも助かった。
 佐敷ヌルはササと一緒に、外宮(げくう)で玉依姫(たまよりひめ)の息子の『ホアカリ』に挨拶をして、小俣(おまた)神社で、ホアカリの姉の『トヨウケ姫』に挨拶をした。月読(つきよみ)神社で月の神様に挨拶した時、去年、サスカサ(島添大里ヌル)をここに連れて来ればよかったとササは思った。代々、月の神様を祀ってきたサスカサなら、月の神様とお話ができたかもしれなかった。
 内宮(ないくう)をお参りした時、「龍神(りゅうじん)様が封じ込められているわ」と佐敷ヌルは言った。その事はササも古い神様から聞いて知っていた。
「その龍神様は琉球と関係あるみたい」と佐敷ヌルは言った。
龍神様の声が聞こえたの?」とササは聞いた。
 佐敷ヌルは首を振った。
「感じたの。よくわからないけど、南の方から来た神様みたい」
 それ以上の事は佐敷ヌルにもわからないようだった。
「どうして、龍神様は封じ込められてしまったの?」と高橋殿が佐敷ヌルに聞いた。
安徳天皇様が封じ込められてしまったように、何か重大な事が隠されているんでしょうね」
「封印を解いたら天変地異が起こるのね」
「きっと、恐ろしい事が起こるのよ」
 伊勢から帰って来ると、住心院(じゅうしんいん)の御精進屋(ごしょうじんや)に入って心身を清め、熊野へと向かった。御台所様の熊野参詣の噂を聞いたサタルーたちが住心院までやって来て、荷物持ちでもいいから連れて行ってくれと頼んだ。サハチ(中山王世子)の息子とウニタキ(三星大親)の息子なら連れて行かないわけにはいかないと高橋殿は笑って、一緒に行く事になった。
 七月二十一日の夜中に京都を発って、夜が明ける頃に船津に着いて、船に乗り込んで淀川を下った。去年は酔い潰れてしまったササたちも、今年は景色を充分に楽しんだ。
「酒は飲むものだ。飲まれるものじゃねえ」と大口をたたいていたサタルーも簡単に酔い潰れて、酒なんてあまり飲んだ事のないウニタルとシングルーは、おいしいと言って飲み過ぎて、何度も吐いていた。
 シーハイイェンとツァイシーヤオも酔い潰れたが、さすがに、シュミンジュンは酔い潰れる事はなく、楽しそうにお酒を飲んでいた。
 佐敷ヌルは、まともに高橋殿に付き合っていたらかなわないと悟ったのか、景色を眺めて感じた事を笛を吹いて表現していた。佐敷ヌルの笛の調べを聞きながらの風流な船旅だった。
 去年と同じように、天王寺(てんのうじ)と住吉大社をお参りして、藤代(ふじしろ)の鈴木庄司に歓迎され、二十六日に田辺に着いた。土地の有力者たちの出迎えは、うっとうしかったが、シーハイイェンたちとサタルーたちがいるので、去年より賑やかで楽しい旅だった。
 シーハイイェンたちもサタルーたちも高橋殿のお酒好きには参っていた。ウニタルとシングルーは毎日、二日酔いで、頭が痛いと唸りながら、フラフラした足取りで歩いていた。
 シンシン(杏杏)のガーラダマ(勾玉)に憑(つ)いて来たアキシノによって、小松の中将(ちゅうじょう)(平維盛)が上陸した場所を知り、熊野権別当(ごんのべっとう)だった湛増(たんぞう)の屋敷跡にも行った。屋敷跡の近くにある新熊野(いまくまの)神社は、源氏に付くべきか、平家に付くべきかを占うために、湛増が闘鶏(とうけい)をしたとの伝説が残っていた。占いは源氏と出て、湛増熊野水軍を率いて壇ノ浦に向かい、源氏の勝利を導いたのだった。
湛増なら、わたしも知っているわ」と御台所様が言った。
熊野水軍の大将で、源氏に味方したんでしょう」
「そうなんです。湛増のお陰で、壇ノ浦で源氏が勝ったのです」とササが言うと、
「ここで白い鶏(にわとり)と赤い鶏が戦ったのね。もし赤い鶏が勝っていたら、壇ノ浦で平家が勝っていたのかしら」と御台所様は首を傾げた。
「白い鶏が勝つって決まっていたのですよ」と高橋殿が言った。
「えっ?」と御台所様が驚いた顔をして高橋殿を見た。ササと佐敷ヌルも高橋殿の言った事には驚いた。
湛増はずっと平家の味方だったのです。でも、平家が都落ちして苦戦しているのを見て、生き残るには源氏に寝返らなければならないと思ったのです。湛増がそう決めても、平家に恩を感じている者たちも多くいて、寝返るのは容易な事ではなかったのです。それで、神様に手伝ってもらったのです。神様のお告げとなれば、皆、従わなければなりませんからね」
「それも兵法(ひょうほう)の一つじゃ」と中条兵庫助(ちゅうじょうひょうごのすけ)が言った。
 そうだったのかと御台所様もササも佐敷ヌルも納得して、大きな戦の時は、神様の力を借りるのも兵法なのだという事を知った。
 小松の中将は湛増の屋敷に五日間滞在して、精進してから山伏姿になって熊野に向かった。中将の一行にはアキシノの他にも女たちが二十人もいて、武装したサムレーが三十人、総勢五十人もいたという。
 佐敷ヌルもササも驚いたが、安須森(あしむい)の村(しま)を全滅させたのだから、それくらいはいただろうと納得した。
 全員が熊野参詣をしたわけではなく、小松の中将とアキシノの他八人だけで、あとの者たちは船で那智に向かった。田辺から中辺路(なかへち)を通って本宮(ほんぐう)に向かい、本宮から船で新宮に向かい、新宮から那智に行って、色川左衛門佐(いろかわさえもんのすけ)に会うまで、誰かに会ったという事もなく、怪しまれる事もなかったという。
鳥居禅尼(とりいぜんに)様には会わなかったのですか」とササがアキシノに聞いた。
鳥居禅尼様って誰ですか」
「新宮の十郎様のお姉さんですよ」
「えっ、そんな人が熊野にいたのですか」
「熊野の別当の奥さんだったはずです。それに、湛増様の奥さんは鳥居禅尼様の娘さんだったはずです」
「そんな人がいたなんて知りませんでした。中将様は知っていたのでしょうか」
「大原で、聞けばよかったわね」と佐敷ヌルが言った。
 小松の中将は悩みながら、この道を歩いたのだろうと考えながら佐敷ヌルは中辺路を歩いていた。
 ササから話には聞いていたが、実際に来てみると熊野は凄い所だった。熊野の山々全体が大きなウタキのようで、霊気がみなぎっていた。今更ながら、佐敷ヌルはスサノオという神様の偉大さを思い知っていた。
 去年と同じように、高原谷(たかはらだに)の石王兵衛(いしおうひょうえ)に歓迎された。石王兵衛は高橋殿が来るのを待っていて、完成した面(おもて)を見せると、舞ってくれと頼んだ。
 佐敷ヌルが笛を吹いて、高橋殿が面を掛けて舞った。ササが見た所、去年の翁(おきな)の面とまったく同じではないかと思っていたが、全然違った。不思議な事に、高橋殿の舞に合わせて、面の表情が微妙に変わるのだった。木でできてる面が、まるで生きているようだった。これが名人芸と言われるものだろうかとササは感動していた。
 石王兵衛も今回は満足して、子供のように喜んでいた。夜遅くまで酒盛りをして、翌朝、ササたちが起きると、石王兵衛はすでに面を打っていた。昨夜、話していた『玉藻前(たまものまえ)』という美女の面を打ち始めていた。去年と同じように熱中してしまうと、周りの声も聞こえない。ササたちはお礼を言って石王兵衛と別れた。
 本宮に着くと神様に挨拶をして、湯の峰に登って湯垢離(ゆごり)をして旅の疲れを取り、夜になってから、本宮大社の神様たちにお祈りを捧げた。そして、昨日、熊野川を舟で下って新宮に着いて、新宮孫十に歓迎され、速玉大社(はやたまたいしゃ)をお参りして、今朝、神倉山に登ったのだった。
「中将様もここに来たのですか」とササがアキシノに聞くと、
「来ました」とアキシノは答えた。
「京都の六波羅(ろくはら)のお屋敷の近くに新熊野(いまくまの)神社があります。あの神社は後白河法皇(ごしらかわほうおう)のために、中将様のお父様が建てたものです。中将様は子供の頃から新熊野神社によく行かれて、スサノオの神様は馴染み深い神様でした。速玉大社をお参りした時、このお山の事を聞いて、熊野の発祥の地ならば行かなければならないとやって参りました」
 佐敷ヌル、ササ、シンシンがお祈りをするとユンヌ姫の声が聞こえてきた。
「待ちくたびれて、お祖父(じい)様(スサノオ)は京都に帰ってしまったわ。でも、鳥居禅尼はちゃんと見つけたから大丈夫よ」
「ありがとう」とササはユンヌ姫にお礼を言った。
鳥居禅尼と申します」と落ち着いた声が聞こえた。
琉球で生まれた十郎の子が、按司(あじ)というお殿様になって活躍したと聞いて喜んでおります。わたしがお役に立つのでしたら、知っている事はお話しいたします」
 佐敷ヌルはお礼を言ってから、小松の中将の事を聞いた。
「見栄えのいい殿御でしたから、勿論、存じております。初めて会ったのは二十歳をいくらか過ぎた頃でした。噂通りの美男子で、巫女(みこ)たちが大騒ぎしておりましたので、よく覚えております」
「小松の中将様は父親と一緒にいらしたのですか」
「そうです。その年の二月に法皇様(後白河法皇)がいらっしゃって、三月に小松殿(維盛の父)の御一行がいらっしゃいました。中将様だけでなく弟様方も御一緒でした。小松殿は大分具合が悪いようでした。子供たちが交替で面倒を看ておりました。小松殿は父親の福原殿(平清盛)と法皇様の間に挟まれて、随分と苦労なさったようです。その心労が祟ったのか、小松殿は熊野から帰るとお亡くなりになりました。小松殿が亡くなると、法皇様と福原殿の対立は激しくなって、平家は滅亡への道をたどる事になるのです」
「壇ノ浦の合戦の前に、小松の中将様が熊野に来た事を御存じですか」
「田辺の湛増から知らせを受けたので、知っております」
「えっ、湛増様が鳥居禅尼様に知らせたのですか」
「当時、湛増は悩んでおりました。今まで通りに平家に付いているか、寝返って源氏に付くか、悩んでいたのです。長年、平家に仕えておりましたから裏切るのは辛い事でしょう。しかし、平家が敗れてしまえば、一族郎党は田辺におれなくなってしまいます。湛増は中将様の事をわたしに告げて、わたしの反応を見たのでしょう」
鳥居禅尼様は、中将様を捕まえようとなさったのですか」
「いいえ。助けなさいと湛増に言いました。熊野の神様は、助けを求めた者を決して見捨てはいたしません。敵味方、貴賤(きせん)、男女を問わず、皆を救うのが熊野の神様なのです。わたしは密かに、中将様を守りましたが、会う事はしませんでした。中将様は本宮をお参りして、新宮、那智と行き、色川殿の助けで、冬まで色川村に隠れてから琉球に向かいました」
「色川村の事まで御存じだったのですか」と驚いた声でアキシノが聞いた。
「あなたは中将様と御一緒に来られた厳島(いつくしま)神社の内侍(ないし)ですね」
「アキシノと申します。わたしの事まで御存じだったなんて、驚きました」
「熊野の山伏たちは各地におります。どこで何が起こっているのか、すべて、わたしの耳に入るようになっておりました」
湛増様から知らせがなくても、中将様が来られた事がわかっていたのですか」と佐敷ヌルは聞いた。
「わかっておりました。湛増がもし、わたしに知らせず、中将様を匿(かくま)っていたら、湛増は追放されていたかもしれません。湛増はわたしの娘の婿殿ですからね、わたしの説得で寝返ってくれました。中将様は琉球に行って、成功したのでしょうか。その事がずっと気になっておりました」
「十郎様の息子が琉球の中部の按司になったように、中将様は北部の按司になりました」とササが答えた。
「そうでしたか。逃げてよかったのですね」
「十郎様を京都に送ったのは鳥居禅尼様だと聞きましたが、京都の事も詳しく知っていたのですか」とササが聞いた。
法皇様は毎年のように熊野に御幸(ごこう)なさっておりました。京都の事はよくわかりましたよ。勿論、京都にも熊野の山伏は大勢いますが、御所での事はわかりません。御所での事を知るのは、法皇様と一緒にいらした女房様から知る事が多いですね。女房様たちは、普段は言えない不満や愚痴をわたしにしゃべって、すっきりして都に帰って行かれます。わたしが出家しているので安心して、何でもしゃべるようです。それに、中将様がお父様と一緒にいらっしゃった前の年、法皇様の妹の八条院様が法皇様と御一緒にいらっしゃいました。八条院様がいらっしゃったのは二度目で、最初に来られた時はまだ十三歳の時でした。お母様の美福門院(びふくもんいん)様と御一緒に来られたのです。久し振りに見た八条院様はお母様に面影がよく似ておりました。美福門院様も鳥羽法皇様と御一緒に、何度も熊野に来ておりました。三十年振りの再会を喜んで、八条院様と色々とお話をいたしました。八条院様は鷹揚(おうよう)なお方で、細かい事にはまったくこだわらない面白いお方でございました。そのお人柄を慕って、八条院様の周りには大勢の人たちが集まっておりました。その中には、平家を快く思っていない人たちもいました。わたしは十郎を八条院様のもとへ送ろうと考えて、八条院様に相談したのです。八条院様は快く引き受けて下さいました。それで、十郎は八条院様の蔵人(くろうど)になれたのです」
「その時、三条宮(さんじょうのみや)様(以仁王)が『平家打倒』の令旨(りょうじ)を出す事を知っていたのですか」
「いいえ。その頃はまだ、福原殿と法皇様もそれほど険悪な状態になってはおりませんでした。十郎が京都に行った年の暮れには、高倉天皇様に嫁いだ福原殿の娘さんが皇子を産みます。のちの安徳天皇様です。福原殿も法皇様も共にお喜びになりました。その翌年、福原殿の娘の白河殿(平盛子)がお亡くなりになります。摂関家(せっかんけ)に嫁いだ白河殿は莫大な荘園を持っておりましたが、法皇様によって没収されてしまったのです。さらに、小松殿が亡くなると、その所領も法皇様は没収してしまうのです。怒った福原殿は京都を攻めて、法皇様を幽閉してしまいます。その時、福原殿は三条宮様の荘園を没収してしまいます。そして、翌年、福原殿は自分の孫を天皇にしてしまいます。あまりの横暴に、八条院様も怒ったのでしょう。三条宮様の『平家打倒』に賛同して、十郎に令旨を持たせて旅立たせたのです」
「三条宮様は八条院様の息子さんだったのですか」
「いいえ。三条宮様の父親は後白河法皇様で、八条院様の甥でございます。幼い頃に出家なさいましたが、師と仰いだ法親王(ほうしんのう)様がお亡くなりになったので還俗(げんぞく)して、八条院様の猶子(ゆうし)となられたのです。八条院様は生涯、独身を通しましたから、三条宮様の兄の二条天皇様もお育てになり、ほかにも何人か、母親代わりとして育てております。八条院様は父親の鳥羽法皇様と母親の美福門院様から莫大な荘園を相続しておりまして、殿上人(てんじょうびと)たちに一目置かれた存在だったのです。八条院様を天皇に即位させるというお話も、何度か持ち上がったようです」
八条院様の力というのは凄かったのですね」
「そうです。あの時、八条院様が熊野にいらっしゃらなかったら、こんなにもうまくは行かなかったでしょう。八条院様はその時、四十二歳でした。母親の美福門院様は四十四歳でお亡くなりになっております。もうすぐ、母親が亡くなった四十四歳になるので、今のうちに熊野参詣をしようと思い立って、兄の法皇様と一緒に来たと申しておりました。きっと、熊野の神様が八条院様を呼んでくださったものと信じております。三条宮様の令旨を持った十郎は各地の源氏だけでなく、各地にある八条院様の荘園も巡って、在地の武士たちも動かしたのです。在地の武士たちが源氏の旗のもとに集結したので、勝利を得る事ができたのです。それに、八条院様のお陰で、八条院様の姉の上西門院(じょうさいもんいん)様も動いてくれました。かつて、上西門院様に仕えていた真言僧の文覚(もんがく)が、伊豆の佐殿(すけどの)(頼朝)を説得して、蜂起させたのです。佐殿はとても慎重なお方で、三条宮様の令旨だけでは動かなかったのです。上西門院様も加わっているのなら、法皇様の『平家打倒』の院宣(いんぜん)も出るに違いないと思って、ようやく立ち上がったのです。佐殿は伊豆に流される前、上西門院様に仕えておりました。平治(へいじ)の乱の時、佐殿が殺されずに流罪で済んだのも、池禅尼(いけのぜんに)様と上西門院様のお陰だったのです」
「建春門院(けんしゅんもんいん)を連れて来たぞ」とスサノオの声がした。
「京都に探しに行っていたのですか」とササが聞いた。
「そうじゃ。丹鶴姫(たんかくひめ)(鳥居禅尼)が会いたいと言ったのでな」
 スサノオが言った通り、鳥居禅尼は建春門院との再会を喜んでいた。
「突然、亡くなってしまうんですもの。驚きましたよ」と鳥居禅尼は建春門院に言っていた。
「わたしだって驚きました。まだ若かったのに、亡くなるなんて思ってもいませんでした」
 建春門院は後白河法皇の妃(きさき)で、高倉天皇の母親だった。上西門院に女房として仕えていて、後白河法皇に見初められた。姉の時子は平清盛の正妻だったため、後白河法皇平清盛を結ぶ役目も果たしていた。後白河法皇と一緒に何度も熊野参詣に来ていて、鳥居禅尼と仲よくなっていた。来年、また会おうと約束して別れたのに、建春門院は突然、病死してしまったのだった。
 懐かしそうに思い出話をしている鳥居禅尼と建春門院に、佐敷ヌルは声を掛けた。
「失礼いたします。建春門院様にお聞きしたいのですが、小松の中将様を御存じでしたか」
「あら、ごめんなさいね。お客様を放っておいてしまったわ」と言ったのは建春門院だった。
「勿論、存じておりますよ。わたしが亡くなった年の三月に、法皇様の五十歳を祝う式典が盛大に行なわれました。小松の中将様、その頃はまだ少将でしたが、見事な舞を披露なさいました。あまりの美しさに、『桜梅少将(おうばいしょうしょう)』と呼ばれるようになったのです。桜梅少将様の奥方様は、わたしの御所に仕えていた新大納言(しんだいなごん)です。新大納言は十五歳だった桜梅少将様に嫁いで、跡継ぎの六代を産んでおります」
「あなたの突然の死は、とても大きかったのよ」と鳥居禅尼が建春門院に言って、二人はまた話し始めた。
 ササがスサノオとユンヌ姫に声を掛けたが返事はなかった。ササと佐敷ヌルは鳥居禅尼と建春門院にお礼を言って、お祈りを終えた。
 次の日、新宮孫十の船に乗って那智に行き、那智の滝をお参りした。
 次の日は、小松の中将が入水(じゅすい)したように見せかけたという山成島(やまなりじま)に行った。山成島は小さな無人島で、その周りにも小さな島がいくつもあった。
「中将様はこの海に大切な家宝の太刀を沈めたのです」とアキシノが言った。
「中将様の太刀はその後、見つかったのですか」とササが孫十に聞くと、太地(たいじ)の飛鳥(あすか)神社に、海から拾った太刀が奉納されているという。
 近くだというので飛鳥神社まで行って、その太刀を見たが、かなりぼろぼろで、アキシノに聞いても、小松の中将の太刀かどうかはわからなかった。
 また船に乗って太地の岬を越えて南側に出て、太田川をさかのぼって行った。途中から山道を歩いて、小松の中将が冬まで隠れていたという色川村に着いた。
 色川村は山に囲まれた小さな村で、小松の中将を神様として祀る神社があって、小松の中将の子孫だと名乗る色川左兵衛尉(さひょうえのじょう)がいた。左兵衛尉は村人たちを集めて、御台所様と高橋殿を大歓迎で迎えた。
「あの女たちから中将様の子供が産まれたのね」とアキシノが怒ったような口調で言った。
 シンシンもササも佐敷ヌルも聞かなかった振りをした。
 色川左兵衛尉は遠くからよく来てくれたと喜んでくれたが、小松の中将が琉球に行った事は知らなかった。村に伝わる伝説では、この村に隠れていた小松の中将は、源氏の追っ手が来たと聞いて、さらに山奥の龍神(りゅうじん)村に逃げて行ったという。小松の中将が琉球に逃げて、殿様になったと教えても、まさかと言って信じてくれなかった。
 孫十にお礼を言って別れ、ササたちは左兵衛尉のお世話になって村に泊まった。この村から大雲取(おおぐもとり)越えをして本宮に行けるという。
 左兵衛尉の屋敷に若い山伏がいて、ササたちの話を真剣な顔をして聞いていた。
「すると、源氏の新宮の十郎が平家の追っ手から逃げるために琉球に行って、平家の小松の中将が源氏の追っ手から逃げるために琉球に行ったという事ですね」と山伏の福寿坊(ふくじゅぼう)が言った。
「そうです。源氏は滅ぼされてしまいましたが、平家は今も残っています」
「源氏は滅びましたか」と言って、福寿坊は唸った。
「我が国では平家が滅んだあと、鎌倉の源氏の世の中となり、源氏の政権を奪って、平家の北条(ほうじょう)の天下となり、北条を滅ぼして、今は源氏の足利の世の中となっております」
「平家と源氏が交替で、ヤマトゥを治めていたのですか」と佐敷ヌルが聞いた。
「ヤマトゥ? ヤマトゥとは随分と古風な事を言いますね」
琉球では、この国をヤマトゥと呼んでいます」
「面白いですね。わしは歴史に詳しくはないが、ヤマトゥと呼ばれていたのはかなり昔の事でしょう。その頃から琉球とヤマトゥは交易していたという事ですか」
スサノオ様がタカラガイを求めて琉球に来ています」とササが言った。
スサノオ? スサノオといったら熊野の神様じゃないですか。スサノオ琉球に?」
 話を聞いていた左兵衛尉が笑った。
 福寿坊は笑わずに唸って、「実に面白い」と言った。
 次の日、福寿坊の案内で、大雲取越えをして本宮に出た。福寿坊は琉球に行ってみたいと言って、京都まで付いて来た。

 

 

 

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