長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

05.佐敷グスク(改訂決定稿)

 ヤマトゥ(日本)から来た弓矢の名人、ヤシルー(八代)を師として、サハチは弓矢の稽古に励んでいた。
 十二歳のサハチは大人用の弓はまだ引けないが、祖父のサミガー大主(うふぬし)は子供用の弓を持っていた。祖父が父のためにヤマトゥから仕入れた物だという。
 父は祖父の期待に反して、弓矢の稽古をあまり真剣にしなかったらしい。父が弓矢の稽古を始めた頃、ヤマトゥから剣術の名人がやって来て、父は剣術に夢中になってしまった。夢中になったとはいえ、その頃の父は大して強くはなかった。父が強くなったのは母と出会ってからじゃよと祖父は笑った。母を妻に迎えるために必死になって修行に励んだようだった。
「女子(いなぐ)というのは男にとって、いい励みになる。お前もそのうちにいい女子を見つけることじゃな」と祖父は目を細めて言った。
「お爺にもいたの? いい女子が」とサハチは聞いてみた。
 祖父が女子に夢中になっている姿なんて想像もできなかった。
「勿論、いたとも。お前のお婆(ばあ)じゃよ」
「えっ?」とサハチは驚いた。
「お爺がヤマトゥの船から鉄をいっぱい手に入れたご褒美として、大(うふ)グスクの按司様(あじぬめー)からお嫁さんをもらったって、お父から聞いたよ」
「まあ、そうには違いないが、わしがお婆をお嫁に下さいって頼んで、お許ししていただいたんじゃよ。わしが伊是名(いぢぃな)島からここに来て、一年くらい経った頃じゃったかのう。お婆が大勢の城女(ぐすくんちゅ)を連れて馬天浜(ばてぃんはま)に遊びに来たんじゃ。十六歳の美しいお姫様じゃった。その頃、わしと美里之子(んざとぅぬしぃ)は浜辺に粗末な小屋を建てて暮らしておったんじゃ。わしよりも美里之子の方が先におったがのう。奴はウミンチュ(漁師)の世話になりながら、剣術の稽古に励んでおった。わしらは二人ともお姫様に一目惚れしてしまったんじゃ。美里之子はもっと強くなって、大グスク按司に仕えて、お姫様をお嫁にもらうんだと厳しい修行を始めた。わしも負けるものかと、鮫皮(さみがー)作りに精を出したんじゃ。やがて、奴は腕を認められて、大グスク按司に仕えるようになった。奴は喜んで、浜から出て行った。しかし、結局はわしが勝って、お姫様をお嫁に迎えたんじゃがのう。まさか、サグルーが恋敵(くいがたき)だった美里之子の娘に惚れるとは思ってもいなかったわ」
「馬天浜のお爺と美里のお爺が恋敵だったの?」
「そうじゃよ」
「美里のお婆は武将の娘だったって聞いたよ」
「美里のお婆の父親は當山大親(とうやまうふや)といって、大グスクで一番強い武将なんじゃよ」
「お爺はお婆に一目惚れしたんだ」とサハチは祖父を見て笑った。
「お父もお母に一目惚れしたんじゃろう。お前にもいつか、そんな日が来るさ」
 サハチが自ら弓矢の稽古をしたいと言い出したので、祖父は嬉しそうに蔵にしまってあったその弓を出してくれた。子供用とはいえ、それは立派な弓だった。
 サハチが持って来た弓を見たヤシルーは、細い目を丸くして驚いた。
「ヤマトゥでもそんな弓を持てるのは、かなり勢力を持った武将の倅だろう。その弓に負けないように修行を積まねばならんぞ」と厳しい顔をして言った。
 サハチは立派な弓に負けないように、毎日、弓矢の稽古に励んでいた。ただ立って的を射るだけでなく、揺れる小舟(さぶに)の上から的を狙ったり、馬上から的を狙ったり、時には山に入って飛んでいる鳥を狙ったりした。神業(かみわざ)とも思えるヤシルーの技を見るたびに、サハチは凄いと驚嘆すると共に、自分もあのようになりたいと益々、稽古に力を入れた。遊び仲間だったヤタルーとサンラーも、それぞれ親の仕事を手伝うようになって、以前のようには遊べなくなっていた。
 島添大里(しましいうふざとぅ)グスクが敵の八重瀬按司(えーじあじ)に奪われたので、大(うふ)グスク按司は守りを固めるために、佐敷にグスク(城)を築いて、佐敷按司となって、領民を敵から守れと父の苗代大親(なーしるうふや)に命じた。父は力強くうなづいた。
 佐敷按司になった父は母の実家、美里之子(んざとぬしぃ)の屋敷の近くの山の中腹にグスクを築いた。そこは馬天浜を見渡せる眺めのいい場所だった。海の向こうには勝連(かちりん)半島が見えた。勝連半島には勝連グスクがあって、その城下は活気があって栄えているとヤマトゥの山伏、クマヌ(熊野)から聞いた事があった。遠くを眺めながら、いつの日かクマヌのように色々な所に行ってみたいとサハチは思った。
 村(しま)の人々が総出で、山の樹木(きぎ)を切り倒す事から始まって、大きな木の根を引き抜き、土地を平らにならして庭を造った。敵が攻めて来ても、領内の人たち全員が避難できるような広い庭で、それを土塁で囲んだ。その庭を見下ろす高い所に立派な屋敷を建てて、サハチたちは苗代(なーしる)の屋敷からグスク内の屋敷に移った。屋敷の隣りには、苗代の屋敷から運んだ『ツキシル(月代)の石』と呼ばれる大きな石が大切に置かれた。その石はサハチを守る神様だと両親から聞いていた。両親は毎朝、その石を拝み、サハチたち兄弟も皆、毎朝、拝むのが習慣になっていた。
 新しい屋敷は前の屋敷よりずっと広く、二つの屋敷に分かれていた。手前の屋敷には軍議をするための大広間があり、奥の屋敷には生活するための部屋がいくつもあって、二つの屋敷は渡り廊下でつながっていた。
 サハチの弟や妹は嬉しそうにキャーキャー言いながら屋敷の中を走り回っていた。サハチとマシューはそんな弟たちを笑いながら見ていた。
 マシューはもうすぐ、叔母の馬天(ばてぃん)ヌルのもとでヌル(ノロ)になるための修行をする事になっていた。叔母と同じようにお嫁に行かないで、神人(かみんちゅ)として一生を過ごさなければならない。サハチたち兄弟の無事を祈り、祭祀(さいし)の時はマシューが中心になって執り行なわなければならなかった。
 以前の屋敷には、カマンタ(エイ)捕りの名人のキラマの娘を嫁にもらった父の弟、サジルー(佐次郎)が入って『苗代之子(なーしるぬしぃ)』と名乗った。
 サジルーはサミガー大主の三男で、サハチの父と同じように美里之子の弟子だった。島添大里グスクが八重瀬按司に奪われてからは、いつか必ず、八重瀬按司を倒さなければならないと厳しい武術修行に明け暮れている。サミガー大主の次男のウミンター(思武太)は、陸にいるより海にいる方が好きで、父親の跡を継いで、鮫皮作りの親方になる事が決まっていた。
 佐敷グスクの築城と同時に、父は祖父と相談しながら家臣たちを集めていた。按司になったからには有能な家臣が何人も必要だった。グスクを守るには強い武将が必要だし、領内の様々な問題を解決するには知識のある者も必要だった。まず、大グスク按司に頼んで、大グスク按司に仕えている兼久大親(かにくうふや)、屋比久大親(やびくうふや)、与那嶺大親(ゆなんみうふや)の三人を譲ってもらった。その三人は共に領内に住んでいて、苗代大親が佐敷按司になったのなら、ぜひとも仕えたいと言ってくれた。年齢も佐敷按司と同じ、三十歳前後だった。そして、美里之子の武術道場に通っている修行者の中から、領内に住む者を選んで家臣に加えた。
 サミガー大主の屋敷に滞在していたヤマトゥのサムレーのビング(備後)と、サハチの弓の師匠であるヤシルーも家臣になってくれた。さらに、各地を歩き回って地理や情勢に詳しい山伏のクマヌと、サハチに読み書きを教えているヤマトゥの禅僧のソウゲン(宗玄)も家臣になってくれたのは嬉しい事だった。
 佐敷按司となって張り切っていた父は、やらなければならない事が次から次へと現れて、毎日、大忙しだった。家臣たちの住む家を建てなければならないし、家事も母だけでは間に合わず、女たちも雇わなければならなくなり、その女たちの住む家も建てなくてはならなかった。グスクを築くには莫大な費用が掛かったが、すべて、サミガー大主が引き受けてくれた。この日のために溜め込んでおいたのだと、長年の交易で稼いだ財産を惜しみなく使い、武器や鎧(よろい)なども充分に用意してあった。父は心から祖父に感謝していた。
 そんな慌ただしい日々から三年が経って、父も佐敷按司としての風格も備わってきた。サハチは以前のように名前で呼ばれる事が少なくなり、『若按司(わかあじ)』と呼ばれるようになっていた。
 島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)になった八重瀬按司は、三年の間に島添大里グスクを大規模に改築して、周囲を高い石垣で囲んで守りを強化した。焼けてしまった城下の村も再建された。そして、与那原泊(ゆなばるどぅまい)を整備して、やがては明国(みんこく)との交易をしようと準備を進めている。八重瀬按司が島添大里グスクを奪い取った年の冬、甥の島尻大里按司(しまじりうふざとぅあじ)が明国との朝貢貿易を始め、洪武帝(こうぶてい)より『承察度(うふざとぅ)』という名前で、『琉球山南王(さんなんおう)』に任じられた。甥に負けてなるものかと、代々の島添大里按司が溜め込んだ財宝を使って、明国との交易に使う品々を各地から集めていた。
 島添大里按司は島尻大里按司の次男に生まれた。二十歳の頃、与座按司(ゆざあじ)になって、東に対する守りを任された。三十二歳の時に、八重瀬按司を倒して八重瀬グスクを奪い取り、八重瀬按司となった。その八年後に、新(あら)グスクを築いて東に進出して行き、三年前に、島添大里グスクを奪い取って、島添大里按司になった。
 島添大里按司は先代の島添大里按司や島尻大里按司、大グスク按司とは違って、親の跡を継いで按司になったのではなく、実力をもって按司の座を手に入れてきた武将だった。南部の東半分を我が物にしようとの野心を持ち、目的達成のためには手段を選ばず、非情と思える事でも平気な顔でやってきた。無能な者はたとえ重臣の倅でも退け、才能ある者は誰でも家臣に加えて勢力を広げて来た。次に狙っているのは大グスクだが、今はまだ時期が早い。ようやく手に入れた島添大里の領内を平定しなければならなかった。
「大グスクを攻めるのは地盤を固めてからじゃ」と血気にはやって攻めるだけの武将ではなく、冷静さも持ち合わせた恐るべき武将だった。三男三女の子供がいて、長女のウシ(牛)は中山王(ちゅうざんおう)、察度(さとぅ)の嫡男のフニムイ(船思)の妻となり、長男のタブチ(太武喜)は八重瀬按司を継いで八重瀬グスクを守っている。次女のマチ(松)は八重瀬ヌルになり、次男のシタルー(四太郎)は新グスクを守り、三男のヤフス(屋富祖)は具志頭(ぐしちゃん)按司の婿になり、三女のウミカナ(思加那)はそろそろお嫁に行く年頃になっていた。
 島添大里按司は時間稼ぎのため、大グスク按司を味方に引き入れようと使者を送って誘いをかけるが、大グスク按司はきっぱりと断り、何度も島添大里グスクを攻めていた。島添大里按司が領内を平定する前に奪い返さなければならないと攻撃するが、守りは固く、攻め落とす事はできなかった。その大グスク按司も三か月前に急に倒れてしまい、そのまま、あっけなく亡くなってしまった。
 大グスク按司は父の伯父だった。サハチも父に連れられて大グスクに行った時、何度か会っている。正月にも会ったが、その時は元気で、サハチが弓矢の稽古に励んでいる事を聞くと、目を細めて喜んでくれた。それなのに、突然、亡くなってしまうなんて信じられなかった。
 サハチは初めて葬儀に参列した。島添大里按司が攻めて来るかもしれないと厳重な警固の中、葬儀は行なわれた。島添大里按司が攻めて来る事はなく、葬儀は無事に終わった。
 亡くなった大グスク按司の長男が大グスク按司を継いで二か月ほど経った頃、島添大里按司は自分の娘、ウミカナを嫁に迎えないかと言って来た。すでに、大グスク按司には妻も子もいた。それを知りながら、娘を嫁に迎えろとは馬鹿にするなと大グスク按司は使者を追い返した。すると次の日、側室でもいいから迎えないかと言う。追い返そうと思ったが、重臣の稲福大親(いなふくうふや)の助言によって考え直して、側室として迎える事になった。
 七月の暑い日、島添大里按司の娘、ウミカナのお輿(こし)入れが大々的に行なわれた。髭に覆われた鬼のような顔をした島添大里按司の娘とは信じられない程、ウミカナは清楚で可憐な娘だった。見物していた民衆はウミカナの美しさに見とれながら、これでしばらくは戦もないだろうと喜んでいた。
 サハチも弟たちと一緒に華やかな行列を見ていた。人々が喜ぶように、本当に戦が起きないのだろうか心配だった。
 夕方、サハチは大広間のある屋敷の縁側に座って、海を見ながら父の帰りを待っていた。
 屋敷の前に中御門(なかうじょう)と呼ばれる櫓門(やぐらもん)ができて、グスクとしての見栄えはよくなったが、屋敷からの眺めは悪くなってしまった。以前は大広間のどこからでも海が見えたのに、今は中御門の正面からしか海が見えなかった。
 サハチたちが住む屋敷と大広間のある屋敷が建っている所は一の曲輪(くるわ)と呼ばれ、その入り口に中御門がある。その御門(うじょう)ができた当初は見張りの兵がいたが、普段は必要ないという事になって、非常時以外は誰もいなかった。サハチは中御門の櫓の上に登っては、そこからの眺めを楽しんでいた。
 中御門から広い庭までは石段が続いていて、途中に二の曲輪と呼ばれる所がある。そこには重臣たちが詰めている屋敷と、グスクに仕えている城女(ぐすくんちゅ)たちが住む屋敷と、食事の用意をする炊事場があった。広い庭は三の曲輪と呼ばれていて、大御門(うふうじょう)(正門)の近くに厩(うまや)があり、奥の方に蔵があった。
 大グスクから帰って来た父に島添大里按司の娘のお輿入れの事を聞くと、「お互いに駆け引きをしているんだよ」と父は言って、サハチの隣りに腰を下ろした。
「島添大里按司は今、明国と交易するために何かと忙しい。大グスク按司に攻められると困るんだよ。大グスク按司は島添大里按司が領内をまとめる前に、何度も島添大里グスクを攻めている。幸い、激しい戦にはならずに、お互いに手を引いているが、こう何度も攻められていたんでは交易の準備がはかどらない。そこで、娘を敵に送って、交易が済むまで戦はやめようと考えたんだ。大グスク按司としても、敵がグスクを強化してしまった今となっては、攻め落とすのは難しい。娘を人質に取って様子を見ようと思っているのだろう」
「あの娘は人質なのですか」とサハチは聞いた。
「そうだ。もし、八重瀬按司が攻めて来たら殺されてしまうだろう。可哀想な事だな」
「あの娘はその事を知っているのですか」
「島添大里按司が娘にどう説明したのかはわからんが、父親のためだと思って大グスクに行ったのだろう。あの娘の姉は浦添(うらしい)に嫁いでいる。中山王となった浦添按司の若按司に嫁いだんだが、それも人質と同じようなものだ」
「父親のためにまったく知らない所に嫁いでいるんですか」
 サハチは嫁いで行った叔母たちの事を思い出していた。マナビー(真鍋)叔母さんは大グスクのサムレーに見初められて、マナビー叔母さんもそのサムレーの事が好きになってお嫁に行った。マチルー(真鶴)叔母さんはカマンタ捕りのウミンチュと仲良くなってお嫁に行った。マウシ(真牛)叔母さんは鮫皮作りの職人と仲良くなってお嫁に行った。みんな、お互いに好き合って一緒になっていた。父や祖父だって、一目惚れした相手と一緒になっている。
 お輿入れの時、何となく寂しそうな顔をしていたウミカナの顔を思い出しながら、会った事もない人の所にお嫁に行くなんて可哀想だとサハチは思っていた。
「可哀想だが、按司の娘に生まれたからには、それは宿命とも言えるな」と父は言った。
「この佐敷グスクを守るために、お前の妹たちもどこかの按司のもとに嫁がせなくてはならなくなるかもしれん」
「えっ?」とサハチは顔を上げて父を見た。
 父は夕暮れの海の方を見ていた。
「ここを守り抜くために、娘たちに犠牲になってもらいたくはないが、按司になったからには、それもやむを得えん事なんだ」
 遠くを見ていた父はサハチに視線を戻すと、じっとサハチを見つめて、「お前は佐敷按司の跡継ぎだ。その事をしっかりと肝に銘じてくれ」と言った。
 サハチは父を見つめながらうなづいた。みんなから『若按司』と呼ばれて、偉くなった気分で喜んでいたが、按司になるというのは大変な事なんだとサハチは改めて感じていた。
「しばらくの間は戦も起こらんだろうが、いつか必ず、島添大里と大グスクの大戦(うふいくさ)が起こる。お前の初陣(ういじん)になるかもしれん。弓だけでなく、棒や剣の修行もしなけりゃならんぞ」
 サハチは力強くうなづいた。

 

 去年の秋、北部の今帰仁(なきじん)按司も中山王の察度の勧めで、明国に使者を送って、『帕尼芝(はにじ)』という名前で『琉球山北王(さんほくおう)』に任じられた。帕尼芝というのは羽地(はにじ)按司の事だった。羽地按司は十三年前に今帰仁按司を滅ぼして、今帰仁グスクを本拠地にして、琉球の北部と奄美(あまみ)の永良部島(いらぶじま)(沖永良部島)を支配していた。ヤマトゥとの交易で栄えている今帰仁にとって、奄美にある鳥島(とぅいしま)(硫黄鳥島)には興味はなく、今までは放っておいたが、察度が硫黄のお蔭で、明国との交易で富を手に入れている事を知ると邪魔をして来た。そこで察度は、今帰仁按司にも明国との交易をさせて、その交換条件として鳥島の領有権を手に入れたのだった。
 中山王、山南王、山北王の使者を乗せた明国の船には、琉球の馬が一千頭近くも乗っていた。察度の義弟、小禄按司(うるくあじ)の泰期(たち)が読谷山(ゆんたんじゃ)で育てた馬だった。泰期は一千頭の馬を明国の使者、梁珉(りょうみん)に引き渡すのを最後の仕事として明国への使者を引退した。すでに六十歳を過ぎて、厳しい長旅は体に応えていた。小禄按司も倅に譲り、読谷山で馬の飼育に専念すると言って浦添から去って行った。
 新たに中山王の使者になったのは、浮島(那覇)の久米村(くみむら)の実力者、アランポー(亜蘭匏)だった。アランポーは通事(つうじ)(通訳)として、泰期と一緒に何度も明国に渡っていた。交易で得た利益を久米村のために使い、アランポーのお蔭で、久米村は以前よりもずっと広くなり、高い土塁も新しくなって、賑やかな街へと発展した。久米村に貢献した事で、村内での地位も上がり、泰期の推薦もあって使者に昇格したのだった。
 運悪く、使者としてのアランポーの最初の航海は、激しい暴風に見舞われて、宮古島(みゃーく)まで流されてしまった。それでも、優秀な航海士たちのお蔭で明国に渡る事ができ、アランポーは無事に任務を全うした。
 この時、琉球が王国として明国と交易している事を知った宮古島の与那覇勢頭(ゆなぱしず)は、琉球と交易しようと考え、五年後、琉球に渡る事になる。