長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

12.恋の病(改訂決定稿)

 旅から帰って来て二か月が過ぎていた。
 うりずんと呼ばれる過ごしやすい日々が続いていたが、サハチ(佐敷若按司)は悶々(もんもん)とした日々を送っていた。
 原因はマチルギだった。真剣な顔つきで剣術の稽古に励んでいるマチルギの姿、強い視線でサハチを見つめるマチルギの澄んだ目、一度だけ見た女の格好をしたマチルギの美しさが頭から離れなかった。すぐにでも伊波(いーふぁ)に行って会いたかったが、その事を父に言い出す事ができなかった。
 半月余り滞在した奥間(うくま)をあとにしたのは、二月の初めだった。ヒューガ(三好日向)は若い者たちに武術を教えるために残る事になった。
 奥間に滞在中に、道なき道を歩いて最北端の辺戸岬(ふぃるみさき)にも行って来た。天気が良かったので、北には与論島(ゆんぬじま)が見え、西には伊平屋島(いひゃじま)と伊是名島(いぢぃなじま)が見えた。伊平屋島は祖父のサミガー大主(うふぬし)が生まれた島だった。祖父の妹、我喜屋(がんじゃ)ヌルが住んでいると聞いている。いつか、行ってみたいと思った。
 奥間からの帰り道は、名護(なぐ)までは行きと同じ道だったが、名護から山を越えて東側の海岸に出て南下した。西海岸と比べれば、東側の方が歩きやすく、険しい山の中に入る事もなかった。途中で何度か大きな川にぶつかって、上流までさかのぼる事はあったが、こちらを通れば兵の移動も可能だとサハチは思った。
 伊波グスクに寄って、サハチはマチルギと試合をした。紙一重の差でサハチが勝った。マチルギは悔しそうな顔をして、次には絶対に負けないと言った。
 伊波から西海岸に出て、海岸沿いに西に向かい、読谷山(ゆんたんじゃ)の宇座(うーじゃ)に行った。
 広々とした草原に百頭以上、数え切れない程の馬が放牧されていた。こんなにも多くの馬を見たのは初めてのサハチは、凄いとただ驚くばかりだった。
 宇座按司(泰期)はサハチたちを歓迎してくれた。日に焼けた顔で白い髭を伸ばし、もう六十歳は過ぎているはずなのに、きびきびとした身のこなしで、大勢の使用人に指示をしていた。着ている着物は質素で、クマヌに言われなければ使用人と間違ってしまっただろう。宇座按司には若い奥さんがいて、去年生まれたばかりの男の子もいた。それにはクマヌも驚いて、「若いですのう」と目を丸くしていた。
 クマヌがサハチを佐敷の若按司だと紹介すると、宇座按司はサハチの顔をじっと見つめてうなづいた。
「佐敷按司を御存じですか」とクマヌは聞いた。
「サミガー大主(うふぬし)の倅じゃろう」と宇座按司は言った。
「サミガー大主を御存じなのですか」
「サミガー大主が作った鮫皮(さみがー)は評判がいいからのう。もう十年も前になるが、馬天浜(ばてぃんはま)に行って、サミガー大主に鮫皮を売ってくれと頼んだんじゃが、断られた。勿論、名を名乗って、銭も積んだが無駄じゃった。しかし、誰かをここで修行させて、よそで鮫皮を作るのならかまわんと言った。わしは早速、手先の器用な奴を選んで、サミガー大主のもとで修行させたんじゃ。今では、キラマ(慶良間)の島で鮫皮作りをしている。とても、サミガー大主の鮫皮にはかなわんが、ヤマトゥ(日本)の商人たちは喜んで買って行くよ。わしはサミガー大主に興味を持った。職人にとって技術というのは命のような物じゃ。普通なら商売敵(しょうばいがたき)に教えたりはするまい。それを簡単に教えてくれた。器(うつわ)の大きい男じゃ。できれば家臣に迎えたいと思ったんじゃよ。わしはサミガー大主の素性を調べさせた。そして、妻が大(うふ)グスク按司の娘だと知って、これは難しいと諦めたんじゃよ。島添大里(しましいうふざとぅ)グスクが落城したり、大グスクが落城したあとも、無事かどうか気になって調べて、倅が佐敷按司になった事も知ったんじゃ」
「それでは、わしが前回来た時、わしが佐敷按司の家臣だという事も御存じだったのですね」
「知っておった。クマヌというヤマトゥの山伏が家臣になったと聞いていた。そなたがクマヌと名乗った時、すぐに気づいたよ」
「そうでしたか、参りました」
「そなたが佐敷按司に頼まれて、昔の事を聞きに来たのじゃろうという事はわかった。あれからもう四十年近くにもなり、あの時の戦(いくさ)は今や伝説と化している。誰も真実など知ろうとはしない。佐敷按司が真実を知りたいというのなら教えてもいいじゃろう。佐敷グスクを守るための参考になるのなら、サミガー大主に対する恩返しにもなるじゃろうと思ったんじゃよ」
 宇座按司と言ってもグスク(城)を持っているわけではなく、牧場の片隅に屋敷を建てて暮らしていた。毎年、明国(みんこく)に馬を献上しているので、秋になると浦添(うらしい)から馬を引き取りに数十人のサムレーがやって来る。彼らが利用する離れがあって、サハチたちはそこに案内され、好きなだけいればいいと言われた。
 宇座按司は村人たちから尊敬されていて、村人たちが魚やら野菜やらを持って、気楽に屋敷に出入りしていた。何となく、祖父のサミガー大主の屋敷に似ているとサハチは思い、居心地は悪くなかった。祖父は二年前にここに来て、馬を二十頭買って行ったという。祖父が馬を買って来たのは知っていたが、祖父から宇座按司の話など一度も聞いた事はなかった。
 浦添から馬に乗って来た侍女がいた。袴(はかま)を着けて、腰に刀を差した勇ましい姿だった。浦添には女子(いなぐ)のサムレーがいるのかと驚いた。しかも、その顔は美しく、まるで、十数年後のマチルギを見ているようだった。
 宇座按司の屋敷に二晩お世話になり、西海岸を南下して浦添まで行き、浦添から与那原(ゆなばる)に出て佐敷に帰った。
 去年の暮れに旅立ってから、二か月余りの長い旅だった。馬天浜の祖父の屋敷に寄ったら、祖父やサンルーザ(早田三郎左衛門)たちに囲まれて、旅の話を聞かせてくれとせがまれ、その夜は帰る事ができずに祖父の屋敷に泊まった。祖父の屋敷に泊まるのも久し振りだった。
 翌朝、佐敷グスクに帰ったサハチは、父の佐敷按司に旅の様子を詳しく話した。そして、人々を苦しめている戦をなくすには、琉球を統一しなければならないと言った。
「お前が琉球を統一するというのか」と佐敷按司はあっけにとられたような顔をしてサハチを見つめた。
 サハチは真剣な顔をしてうなづいた。
「敵は島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)だけではありません。島尻大里按司(しまじりうふざとぅあじ)も、中山王(ちゅうざんおう)の察度(さとぅ)も敵です。察度と親戚の勝連按司(かちりんあじ)も敵です。今は敵ではありませんが、今帰仁按司(なきじんあじ)も倒さなくてはなりません」
「中山王を倒すじゃと‥‥‥」
 佐敷按司は呆れ果てたような顔をして、サハチを見つめて首を振った。
 とんでもない事を言い出したサハチを見つめ、旅に出て頭がおかしくなってしまったのだろうかと思った。佐敷按司は自分がヤマトゥから帰って来た時の事を思い出した。ヤマトゥの国を見て、自分が偉くなったような気がして、怖い物なしで、何でもできると自惚れていた。きっと、サハチもあの時の自分と同じ気持ちなのかもしれない。時が経てば、自分の愚かさに気がつくだろうと思ったが、ふと、サハチが生まれた時の事を思い出した。
「この子はただものではない。将来、大きな事を成すじゃろう」
 志喜屋の大主(しちゃぬうふぬし)がそう言っていたのを佐敷按司は思い出していた。志喜屋の大主はサハチが生まれた時、あの石がまるで、サハチの誕生を祝福するかのように、天に向かって光っていたと言った。
 佐敷按司も一度だけ、あの石が光ったのを見ている。剣術の修行小屋を作ろうとしていた時だった。剣の修行をする場所なら、当時住んでいた馬天浜にいくらでもあったのだが、惚れてしまった妻の近くで修行したいという気持ちがあって、美里之子(んざとぅぬしぃ)の屋敷の近くの山の中に入った。山の中をうろうろしている時、ガジュマルの木の下にあった、あの石が光ったのだった。
「ここだ!」と天の声を聞いたような気がして、あの石の隣りに修行小屋を建てた。あの小屋で寝泊まりして剣術の修行に励み、初めて妻を抱いたのもあの小屋だった。そして、あの小屋でサハチは生まれ、あの石が光った。
 志喜屋の大主が言ったように、サハチは本当にただものではないのかもしれない。目を輝かせて話しているサハチを見つめ、もしかしたら、本当に琉球を統一するのかもしれないと思い始めていた。
「そうか。中山王を倒すか」と佐敷按司はうなづいた。
「お前がその気なら、わしもお前のために、この命を懸けるとしよう」
 旅から帰った日に、そう大口をたたいたものの、時が経つにつれて、旅に浮かれて夢を見ていたような気になってきた。現実問題として、こんな小さな佐敷の按司が、察度どころか、目の前の島添大里按司を倒すのも難しかった。そんな夢のような話よりも、半月余りを一緒に過ごしたフジに会いたかった。
 もう一度、奥間に行きたいと思って、クマヌを捜したが、クマヌはどこに行ったのかいなかった。父に命じられて、どこかに行ったに違いないが、父に聞く事はできなかった。
 一月が経つとフジよりもマチルギに会いたくなってきた。マチルギの顔やちょっとした仕草が頭から離れず、剣術の稽古も身に入らなかった。もう我慢が出来ず、一人で伊波まで行こうと思っていたところにクマヌが帰って来た。
「一体、どこに行っていたのですか」とサハチはクマヌに詰め寄った。
「お前の嫁さんを捜しに行っていたんじゃよ」とクマヌは笑った。
「冗談はよして下さい」
「冗談ではない。お前の親父さんに頼まれて、お前にふさわしい嫁を捜しに行っていたんじゃ。以前、玉グスクや知念(ちにん)、糸数(いちかじ)を捜したが、ふさわしい娘はいなかった。お前の覚悟を聞いた親父さんは、もっと広い視野に立って、嫁さんを捜す事にしたんじゃ。それで、あちこちと行って来たわけじゃ」
「それで、ふさわしい娘は見つかったのですか」
「なかなか見つからなかったが、ようやく一人見つけた」
「誰です?」とサハチは期待を込めて聞いた。一人というのはマチルギに違いないと思っていた。
「北谷(ちゃたん)按司の娘じゃ」とクマヌは言った。
 予想外な答えを聞いて、「北谷按司?」とサハチは聞き返した。
浦添と読谷山の中間辺りにあるグスクじゃよ。そこの娘が美人(ちゅらー)との評判で、今、十五歳じゃという」
「北谷按司は敵でしょう」
「一応、察度に従ってはいるが、察度との婚姻関係はないようじゃ」
「伊波按司の娘は駄目なんですか」とサハチは思い切って聞いた。
「マチルギか」とクマヌは言ってから笑った。
「あれは無理じゃ。敵討(かたきう)ちの事しか頭にない。嫁に行く気などまったくないじゃろう」
「嫁にもらうとしたらマチルギしかいない」とサハチは思わず言ってしまってから顔を赤らめた。
「やはり、惚れていたのか。この前、伊波に行った時、フジの事しか頭になかったようじゃったがのう」
「あれはずっと一緒にいたから別れがたかっただけです。嫁にするとすればマチルギしかいない」
 クマヌはサハチの顔を見つめてからうなづいた。
「お前がその気なら力を貸してもいいぞ。伊波按司の娘なら、お前の親父さんも文句なかろう。だが、あの娘を承諾させるのは難しいぞ。まあ、女一人を口説き落とせんようじゃ、琉球を統一する事などできまい」
 伊波に剣術の好敵手がいて、是非とも勝たなくてはならないので、試合をしに行くと父の許可を得て、サハチはクマヌと一緒に馬に乗って伊波へと向かった。歩けば一日掛かりだが、馬なら二時(にとき)(四時間)も掛からずに伊波グスクに着いた。
 マチルギは相変わらず、汗びっしょりになって剣術の稽古に励んでいた。そして、驚いた事にヒューガの姿があった。
 サハチを見るとマチルギが飛んで来て、「いい所に来たな」と言った。
「お前を倒すために、お師匠(ヒューガ)に頼んで、佐敷まで連れて行ってもらおうと思っていたんだ。今度こそ負けないから」
 マチルギは馬上のサハチに向かって木剣を構えた。
 サハチは馬から降りると、用意して来た木剣を袋から出して構えた。
「よし、始め」とヒューガが言った。
 サハチは構えたまま動けなかった。
 マチルギは前回に会った時よりも数段と腕を上げていた。前回は紙一重の差で勝ったが、今回は負けてしまうかもしれない。
 そう思った時、マチルギの鋭い一撃が襲って来て、サハチはやっとの思いで、それを木剣で受け止めた。しかし、すぐに第二撃がサハチの右腕を狙って打ち下ろされ、右手を木剣から離してよけたが、そこまでだった。マチルギの第三撃をかわす事ができず、ヒューガの「それまで」という声が掛かった時、マチルギの木剣はサハチの首、一寸(いっすん)ばかりの所で止まっていた。
 サハチはマチルギに負けて、うなだれた。マチルギはそんなサハチを見ながら嬉しそうに喜んでいた。
 負けるなんて思ってもいなかった。マチルギに勝って、好きだと告白してお嫁に来てもらうつもりだった。負けてしまったため、マチルギに声を掛ける事も、顔をまともに見る事もできなかった。早く、この場から離れたかった。クマヌにもう帰ろうと言ったが、クマヌは首を振った。
「もうすぐ雨が降る」とクマヌは空を見上げながら言った。
「今帰っても、途中で雨宿りをしなくてはなるまい。今晩はここにお世話になって、明日帰った方がいい」
 黒い雲が現れて来て、確かに雨が降りそうだった。雨に降られてもいいから早く帰りたかったが、それを言う気力もなかった。
 お客用の離れに入ると雨がザアーッと勢いよく降って来た。
 ヒューガは半月ほど前に伊波に来て、マチルギたちに剣術を教えていた。奥間の長老にもう少しいてくれと引き留められたが、何となく、サハチの事が気になって引き上げて来た。伊波に寄ったら、マチルギにせがまれて剣術を教えていたという。
 ヒューガは奥間で共に暮らしていたシノとの別れは辛かったと話していたが、サハチはその場から離れ、縁側に座って、ぼんやりと雨に濡れる庭を眺めた。
 月桃(さんにん)の白い花が咲いていた。
 自分が情けなかった。マチルギに負けたのもそうだが、マチルギに自分の気持ちを言えない事がもっと情けなかった。
 しょんぼりと雨を見ていると、「サハチさん」と声を掛けられた。
 振り返るとマチルギがいた。クマヌとヒューガはどこに行ったのか姿がなかった。
 マチルギはサハチの隣りに座ると雨空を見上げた
「また来てくれるわね」とマチルギは言った。
「今日はあたしが勝ったけど、一勝二敗よ。もう一度勝たないとあなたと並べないわ」
「一勝二敗?」とサハチはマチルギを見た。
 マチルギはうなづいた。水を浴びて汗を流したのか、マチルギはさっぱりとした顔をしていた。
「あなたのお蔭で、あたし、随分と強くなったわ。兄たちも驚いている。兄たちもあたしに負けるかもしれないと言っていたわ。あたし、今まで敵討ちの事しか考えていなかった。敵を討つために、強くならなければならないと剣術のお稽古を始めたの。でも、あなたに会ってから敵討ちの事は忘れて、ただ、あなたに勝ちたいと必死になってお稽古したの。あなたと試合をするのを楽しみにお稽古をしていたの。だから、また来てね。それを楽しみに、あたし、またお稽古に励むわ」
 サハチはマチルギを見つめながら、「また来る」と言った。
 マチルギは嬉しそうに笑った。マチルギの笑顔を始めて見たような気がした。可愛い笑顔だった。ずっと一緒にいたいと思ったが、それを口に出して言えなかった。
「いつ来てくれる?」とマチルギは聞いた。
「一月後」とサハチは言った。
 マチルギはうなづいた。
「次も負けないわ」
「俺だって負けない」と言ってサハチは笑った。
 今思えば、マチルギと話らしい話をしたのは初めてだった。試合には負けたが、以前よりマチルギとの距離が近くなったような気がして嬉しかった。
「佐敷って遠いの?」とマチルギは聞いた。
「馬で行けば一日で往復できるよ」
「そう。あたし、勝連の城下までは行った事あるけど、それより遠い所に行った事ないの。あなたは今帰仁にも行ったんでしょ。どんな所なの?」
「賑やかな所だったよ。今帰仁グスクも大きかった。高い石垣に囲まれていて攻めるのは難しいと思った。グスクを見ながら、もし、戦がなかったら、マチルギはあの中で育っていたんだなと思ったよ」
「もし、そうだったら、あなたとは会えなかったわね」
「うん」
「ねえ、あたしを連れて行って」
今帰仁にか」
 マチルギはうなづいた。
「遠いよ」
「馬に乗って行けばいいわ」
 サハチは首を振った。
「馬で通れる道がないんだ。険しい山の中の細い道を行かなければならない。時には海の中を歩かなければならないんだ」
 西海岸側を通れば馬でも行けるかもしれないと思ったが、いくつもの川を渡るのは、やはり、馬では難しいかもしれなかった。
「そうなの。歩いてどのくらい掛かるの?」
「二日は掛かるな」
「そんな遠くなんだ‥‥‥」
「でも、いつか必ず連れて行くよ。敵に勝つには敵を知らなければならないからね。今帰仁グスクをその目で見るべきだよ」
「ほんと? 約束よ」
 サハチはマチルギを見つめて、強くうなづいた。
 一晩中降っていた雨も翌朝にはやんで、強い日差しが戻って来た。
 サハチはマチルギと別れて佐敷に向かった。伊波按司から武術指導のお礼としてもらった馬に乗って、ヒューガも一緒について来た。
 佐敷に帰ったサハチは、ヒューガを師匠として剣術の修行に励んだ。今度、マチルギに会う時は、試合に勝って、お嫁に来てくれと告げるつもりだった。
 梅雨が明けようとしていた四月の下旬、サハチは父から、「ヤマトゥに行って来い」と言われた。
 突然の事にサハチは驚いた。
「お前をいつか、ヤマトゥに行かせるつもりだった。今回はまだ早いと思っていたんだが、お前はもう十六だ。わしがヤマトゥに行ったのも十六の時だった。前回の旅で、この琉球を見て歩き、お前は大きくなった。今度はヤマトゥの国を見て、もっと大きくなって帰って来い」
「サンルーザ殿は今、浮島(那覇)にいるのですか」とサハチは聞いた。
 父はうなづいた。
「浮島での取り引きも終わって、今は風待ちをしている。お前も浮島に行って、サンルーザ殿の船に乗ってヤマトゥに行くんだ。ヒューガ殿も一緒に行ってくれるそうじゃ。ヒューガ殿と一緒ならわしも安心だ」
「帰って来るのはいつになるのですか」
「風にもよるが、早ければ年末、遅くても来年の正月には帰って来られるだろう」
「サンルーザ殿は年末にまた来るのですか」とサハチは聞いた。
 サハチが記憶している限り、サンルーザは三年か四年をおいて来ていた。
「サンルーザ殿が来なくても、サンルーザ殿の仲間の船が琉球に来る。それに乗ってくればいい」
「わかりました。行ってきます」とサハチは力強くうなづいた。
 その夜、サハチのヤマトゥ旅を祝う宴(うたげ)が開かれ、身内の者たちが全員集まって、サハチを祝福した。島伝いに行くヤマトゥへの船旅はそれほど危険はないが、海に出たら何が起こるかわからない。母や祖母は、帰って来られないのではないかと心配していた。それでも、叔母の馬天ヌルと妹のマシューが、サハチの無事を祈るので絶対に大丈夫と言うと少し安心したようだった。
 サハチは祖父のサミガー大主と父の佐敷按司から、ヤマトゥ旅の思い出話を聞いた。二人とも、若い頃の体験を懐かしそうに話していた。サハチはヤマトゥの国を想像しながら、期待に胸を膨らませて二人の話を聞いていた。
 次の日、サハチとヒューガは皆に見送られて、馬に乗って浮島に向かった。クマヌが浮島に用があると言って一緒について来た。
 与那原(ゆなばる)まで行くと道は二つに分かれ、西に進めば浦添を通って浮島へ、北へ向かうと中グスクへと行く。クマヌは立ち止まって、サハチを見た。サハチは迷わず北への道を示した。クマヌとヒューガは顔を見合わせて笑い、三人は北へと馬を走らせた。
 伊波に着くと、サハチはマチルギにヤマトゥ旅の事を話した。
 マチルギは大きな目をさらに大きくして驚いた。
 次の試合は帰って来るまで待っていてくれとサハチは言った。
 マチルギはサハチの顔をじっと見つめて、「待っている」と言った。
「あなたが帰って来るまで、修行に励んで待っているわ。絶対に無事に帰って来るのよ」
「帰って来たら、真っ先にマチルギに会いに来る」
 その夜は伊波按司が送別の宴を開いてくれた。
 マチルギも女の格好をして参加した。サハチにお酌をしに来た時、マチルギはそっとサハチに何かを差し出し、「お守りよ」と言った。
 受け取ってみると、それはマチルギが稽古の時に頭にしめている白い鉢巻きだった。
「ありがとう」とサハチはお礼を言って、マチルギに櫛(くし)を贈った。
 その櫛は奥間の木地屋が作ったもので、銅銭と交換して、いくつも持ち帰り、お土産として母や叔母、妹たちに配ったものだった。マチルギにも贈ろうと思っていたのだか、その機会がなく、ようやく渡す事ができたのだった。
 マチルギは櫛を見て笑った。
「サハチさんからサバチ(櫛)をいただくなんて‥‥‥」
「みんなからそう言われて笑われたよ」
 マチルギは真顔になってサハチを見つめると、「とても大切にするわ」と言った。
 サハチもマチルギを見つめ、「これを巻いて修行に励むよ」と言った。
 翌朝は小雨が降っていたが、サハチは晴れ晴れとした顔で、サンルーザたちが待つ浮島へと向かった。