長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

倭寇年表

1274年 10月5日 元寇対馬を襲撃。
    10月14日 元寇壱岐を襲撃。
    10月16日 元寇、松浦を襲撃。
    10月20日 元寇、博多を襲撃。
    10月21日 元寇、撤退する。
1281年 5月21日 元寇対馬を襲撃して占領。
    5月26日 元寇壱岐を襲撃して占領。
    6月6日 元寇志賀島に上陸。
    7月30日 台風襲来。
    閏7月5日 元寇、撤退する。
    元寇後、元も高麗も多くの船を失い海軍力が低下する。
1304年 元朝は江南に度重なって襲来するようになった日本武装商船を警戒し、千戸所を定海に設けて海防を強化させ、市舶司を廃して、元の商人が海外に出ることをずる禁海令を発布する。
1323年 元から博多に向かう船が沈没。
1325年 元に建長寺造営料唐船派遣。翌年帰国。
1326年 元から帰国の日本船、高麗の沿岸で座礁、土民に襲われる。
1329年 元に関東大仏造営料唐船を派遣。
1332年 元に摂津住吉社造営料唐船派遣。翌年帰国。
1342年 5月 懐良親王、九州薩摩の津に上陸。谷山城に入る。
    8月 元に天龍寺船を派遣する。
1347年 11月 懐良親王、谷山を出発し薩摩半島を迂回して九州西海岸を北上する。
1348年 懐良親王(20)、菊池氏に身を寄せる。
1349年 琉球で、察度が浦添按司となる。
1350年 4月 倭寇100余艘が高麗の順天府を襲い、穀物を奪う。
    5月 倭寇66艘が高麗の順天府を襲う。
    6月 倭寇20艘が高麗の合浦長興府を襲う。
    11月 倭寇、高麗の東莱郡を襲う。
1351年 8月 倭寇130艘が高麗を襲撃。
    11月 倭寇、高麗の南海県を襲う。
1352年 3月 高麗の首都開京は非常事態に落ちていた。それは朝鮮半島に食料などを求めて入ってきた 多くの日本人によるものだった。
    9月 倭船50余艘が高麗の合浦を襲う。
1354年 4月 倭寇、高麗全羅道の漕船40余艘を略奪。
1355年 4月 倭寇230艘が高麗全羅道の漕船200余艘を略奪。
1357年 高麗の武将崔瑩(1316-1388) は340隻、2万5600の大軍で済州島の反乱を制圧し、捕虜は容赦なく殺害する。
1358年 3月 倭寇、高麗の角山戊を襲い船300余艘を焼く。
    5月 倭寇、高麗の喬桐を焼く。
    高麗の武将崔瑩、倭船400隻を焼き払う。
    高麗では倭寇のため財政が困窮し、百官の俸禄が支給できなくなる。
    この頃より中国大陸に倭寇が出現する。
    以後、日本への航路は「大洋路」が避けられ、「南島路」に変更される。
1560年 5月 倭寇、高麗の江華島を襲撃、300余人を殺害し米4万石を盗む。
1361年 8月 征西府軍、少弐氏の太宰府を落とし、太宰府を征西府とする。
    1372年まで存続
1363年 4月 倭寇213艘が高麗を襲撃。首都開城を脅かす。
    倭寇、元の蓬州を襲う。元軍、これを破る。
1364年 3月 倭寇200余艘が高麗の河東、固城を襲撃。
    5月 高麗の鎭海県で倭寇3000人を斬る。
    元は高麗の反逆者崔儒に元兵1万を授けて高麗に侵攻させたが、李成桂は崔瑩らと共に国境近くでこれを殲滅する。この敗北により元は恭愍王の復位を容認して崔儒を高麗に送還し、高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却する。
1365年 3月 倭寇、高麗の喬桐江華を襲い、東西の江に至る。
1367年 3月 倭寇、高麗の江華府を襲う。
    高麗、使者を送り, 室町幕府倭寇の禁圧を求める。
    倭寇、元の沿海に寇し、元の守兵敗走し、民間巷に泣く。
1368年 元国滅ぶ、明建国
    倭寇、明の山東を襲う。また蘇州、崇明を侵し、民を殺し財を奪い、浜海の地、皆これに患う。
1369年 1月 倭寇、明の山東を襲う。
    4月 倭寇山東より転じて温州、明州を掠め、さらに福建沼海郡潮州、恵州を侵す。また海島に出没し蘇州、崇明に殺掠す。
    この頃、高麗に投化倭人現れる。
1370年 6月 倭寇、明の登莱を襲い、転じて浙江に至る。
1371年 6月 倭船200艘が明の海晏を襲う。
    7月 倭寇350艘が礼成江を襲い、兵船40艘を焼く。
     11月 九州探題に任じられた今川了俊の弟仲秋の軍勢、肥前呼子港に上陸する。
1372年 2月~6月 倭寇、高麗の白州、順天、鎮溟倉、江陵府、安辺威州等を襲う。
    高麗兵、洪州、陽州に敗れ、王自ら五軍を率いて昇天府に出陣する。
    5月 倭船200艘が明の温州府、永嘉、楽清の諸県を侵す。膠州に寇し、大いに琉球海上に戦う。
    8月 太宰府落城。懐良親王太宰府から髙良山に移る。
1373年 2月 高麗、倭寇100人を斬る。
    6月 倭寇、高麗の東西江に集まり、陽川を襲い、漢陽府に至り、慮舎を焼き、人民を掠め、数百里騒然たり、京城大いに震う。また、喬桐、海州を陥れる。
1374年 4月 倭寇350艘が高麗を襲撃。高麗の水軍、大敗して死する者5000。京城戒厳。
    6月 倭寇、明の膠州を襲う。
    7月 倭寇、明の海州を襲う。
    9月 今川了俊高良山を陥落させ、菊池勢を肥後菊池まで追い落とす。
1375年 6月 倭寇の将、藤経光(松浦党名護屋氏)、高麗の官憲にだまし討ちにされそうになる。この事件後、倭寇は高麗人の殺害に及ぶようになる。
    8月 倭寇、高麗の楽安、宝城を襲う。
    済州島で反乱が起こる。倭寇200余艘が済州島を攻める。
1376年 12月 倭寇、高麗の合浦の営を焼き、付近各地を襲撃。
    高麗の武将崔瑩、鴻山で倭寇を破る。
1377年 4月 高麗の栗浦の戦いで倭寇10余を斬り、馬60余匹を奪う。
    4月~5月 朴葳、金海府使として黄山江(洛東江下流)で倭寇を攻撃して29級を斬る。この戦いで溺死する倭寇も多かった。また、倭寇が50隻で金海の南浦に侵入して来る。倭寇黄山江から密城を攻撃しようとしている事を察知した朴葳は先回りして、伏兵を設け、自身も戦艦30隻を率いて倭寇待ち伏せし、倭寇を壊滅させる。
    6月 倭寇200余艘が高麗を襲撃。
    高麗の武将、鄭地、順天道兵馬使として順天・楽安等に侵入した倭寇を討ち、18級を斬り、3人を捕虜とする。
    8月 高麗の武将、李成桂西海道黄海道)一帯の倭寇を大破する。
    10月 高麗の牙州の戦いで倭寇3人を捕え、馬170余匹を奪う。
    11月 倭寇130艘が高麗を襲撃。
    鄭地、倭寇を討ち40級を斬り2人を捕虜とする。
    李成桂、智異山で倭寇を壊滅。
    崔瑩、西江倭寇を破る。
    火薬の製造に成功した高麗の崔茂宣は朝廷に建議して火桶都監を創設する。
    茂宣は兵器の開発に力を注ぎ、大将軍、二将軍、三将軍、六火石砲、火砲、信砲(大砲)火箭、流花、走火(砲弾)など8の火砲と5種の砲弾を開発
    この年、高麗は54回の倭寇の襲撃を受ける。
1378年 3月 倭寇、高麗の泰安郡に寇し南陽水原府を攻める。
    4月 倭寇、高麗の昇天府に入り京城を攻めるが、李成桂、崔瑩、これを破る。
    6月 倭寇、高麗の木州、寧州、温水、宗徳、松荘、永新等を襲う。
    9月 倭寇、高麗の瑞州、鉄州、益州、公州、尼山、連山、懐徳、珍同、青山等を襲う。
    10月 倭寇、高麗の休州、全州、陽県、益州を襲う。
    霊光・光州・同福に倭寇が侵入したため、鄭地は都巡問使の池湧奇、助戦元帥の李琳、韓邦彦等と共に追撃する。倭寇は弥羅寺に入ったため、包囲して火を放ち、ほしいままに矢を放ったため倭寇は殆ど死ぬ。この戦いで鄭地らは100余頭の馬を獲得する。
    11月 倭寇、高麗の延安府を襲う。
    鄭地、潭陽県に侵入した倭寇を池湧奇と共に討ち、17級を斬る。
1379年 2月 倭寇、高麗の順天、兆陽、珍原等を襲う。
    4月 倭寇、高麗の延安府合浦を襲う。
    5月 倭寇騎馬700、歩兵2000余で高麗の普州を襲撃。
    6月 倭寇、高麗の竜州、密城、彦陽を襲う。
    7月 倭寇、高麗の楽安、余美、丹渓、山陰、洞州、威陽などを襲撃。
1380年 2月 倭寇、高麗の永善県、宝城郡を襲い、富有県に入る。
    5月 倭寇100余騎が高麗の結城共州を襲う。
    高麗、火砲を搭載できる船を100隻、3000名の水軍部隊が創設する。
    8月 倭寇、広東の海豊を襲う。
    倭寇500艘、高麗の鎮浦口に入り、隊を分けて岸に登り州都に散入す。
    守備兵、崔茂宣が開発した大砲で倭船を焼く。
    9月 李成桂、雲峰にて倭寇の首領、阿只抜都(アキバツ)を倒す。
    10月 倭寇、高麗の金海府を焼く。
1381年 2月 倭寇、高麗の寧海府を焼く。
    5月~11月 阿只抜都の残党寇、高麗の各地を襲うが知果山において尽く滅ぶ。
    11月 倭寇、明の広東を襲う。
1382年 3月 倭寇、高麗の平海、羽渓、順興、南州を襲う。
    4月 高麗軍、倭寇を破る。
    10月 倭船50隻が鎮浦に侵入したため、鄭地は海道元帥としてこれを撃退し、更に群山島まで追撃して4隻を捕える。
    高麗で賤民が倭寇の名をかたり諸所を荒らす。
1383年 3月 倭寇、明の浙東を襲う。
    3月27日 征西将軍宮懐良親王(55)、妙見城にて没す。
    5月 倭寇120艘が高麗を襲撃するが撃退する。
    大船120隻1万6800名から成る倭寇の軍勢が侵入して来る。鄭地は戦艦47隻を率いて羅州の木浦に宿営していたが、合浦元帥の柳曼殊からの急報を受け、日夜問わ ず進軍し慶尚南道全羅南道の境にまで到達、ここで兵士を徴集した。この時には既に倭寇は南海の観音浦に到達していた。鄭地は迅速に朴頭洋に至り、ここで倭寇と戦い火砲を用いて殲滅する。
    6月 倭寇、高麗の慶尚道、江陵府、金化県、准陽府、平康県、安辺府を襲う。
    倭船18艘が明の金郷衛を襲う。明兵22人殺される。
    11月 高麗軍、倭寇を破り斬首20余、馬匹72を獲る。
1384年 1月 倭寇、頻りに明の浙東を襲う。
    5月 倭寇、明の長淵を襲う。
    6月 倭寇、明の浙東を襲う。
1385年 2月~8月 倭寇西海道反串らを襲撃し、高麗軍と戦う。
    9月 倭寇150艘が高麗を襲撃するが李成桂、李豆藺に撃退される。
    11月 朴葳、慶尚道都巡問使として倭寇14級を斬る。
1386年 7月 日本の覇家台(はかた)、高麗人の被虜150人を返す。
1387年 7月 倭寇、明の台州境上に至る。
1388年 5月 李成桂、軍事クーデターで高麗の実権を掌握。高麗の高官たちが博多に逃げてくる。
    倭船80艘、鎮浦に泊し、鄭地撃ってこれを破る。倭寇、三道を襲い秋に至る。
    夏から秋にかけて倭寇が楊広、全羅、慶尚の三道に侵入したため、鄭地は楊広-全羅-慶尚道の都指揮使として、都巡問使の崔雲海、副元帥の金宗衍、助戦元帥の金伯興・陳元瑞、楊広道、上帥の都興、副元帥の李承源を率いてこれを討ち、58級を斬り馬60余頭を獲得する。
    8月 朴葳、慶尚道都巡問使として尚州で倭寇と戦ってこれを破る。
    9月 朴葳、高霊県(高霊郡)で倭寇を攻撃して35級を斬る。
1389年 2月 高麗、対馬を攻撃する。朴葳が100隻を率いて対馬を攻撃し、火砲を以て日本の倭船300隻を破壊する。
    12月 倭寇、明の山東寧海を襲う。
    倭寇12艘が明の城山の及子口より岸に登りて却掠す。
1390年 1月 明の穿山浦より上陸した倭寇、守兵男女70余人を殺し、財物を奪う。
    9月 倭寇、明の広東を襲う。
1392年 2月 倭寇慶尚道仇羅島を襲い,李興仁これを破る。
    7月 李成桂、恭譲王を廃位して、高麗王として即位する。
    10月 南北朝が合一して、争いが終結する。
1393年 李成桂の王朝、明の裁可により国号が朝鮮となる。
    3月 倭寇、明の浙東を襲う。
    6月 倭船18艘が明の全郷小獲塞を襲う。
    8月 倭船7艘が明の小尖亭を襲う。
    12月 シャムの使者、日本に向かうが海賊に攻められ、礼物などすべて焼けてしまう。
1394年 2月 倭船9艘、明の小尖亭を襲う。
    10月 倭寇、明の金州を襲う。
1395年 4月 倭寇、明の金州を襲う。
    今川了俊九州探題を罷免される。
1396年 7月 シャムに行った朝鮮の使者、途中で倭寇に襲われ、捕虜になるが帰国する。
    8月 倭寇120隻が朝鮮慶尚道に入寇。
    12月 倭船60隻が朝鮮に投降。
    首領の久六は宣略将軍に任じられる。投降した倭寇は土地を与えられ、定住を許された。
1397年 4月 倭魁羅可温(早田左衛門太郎)等、朝鮮に降りる。以後、降倭続出する。
    羅可温(早田左衛門太郎)、京師にのぼり宣略将軍になる。