長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-17.武当山の仙人(改訂決定稿)

 果てしない大地が延々と続いていた。
 軽い気持ちで武当山(ウーダンシャン)に行くと決めたが、武当山はあまりにも遠かった。辺り一面、広々とした平原が延々と続き、山はずっと遠くの方に見えた。人とまったく出会わない事もあり、人が大勢いた都が懐かしく思えた。杭州(ハンジョウ)に行っていたら、今頃は三姉妹と楽しい時を過ごしていただろう。そう思うと後悔の念も湧いてきた。
 九日目に南陽(ナンヤン)という城壁に囲まれた街に着いた。ここまで来ると山も近くに見えてきた。
武当山はもうすぐです」とファイチ(懐機)は気楽な顔をして言った。今度は山道を三、四日も馬に揺られるのかと思うとうんざりした。
 二日前にサハチたちは奇妙な娘と出会った。何もない広い平原の中、道の脇に大きな木があった。その木陰から突然、娘が現れて、「助けて!」と叫んだ。ファイチがわけを聞くと、悪い男たちに追われていると言う。そう言われて辺りを見回してみたが、草原が広がっているだけで、人の気配はまったくなかった。
 娘は周りを見ながらおどおどしていた。年の頃は十七、八の可愛い顔をした娘だった。こんな所に一人で置いておくわけにはいかないだろうとサハチは思った。
 俺たちは悪い男ではないのかとファイチが聞いたら、馬に乗って旅をしているんだから偉い道士に違いない。悪い人ではありませんと言ったという。
「助けてやろうぜ」とウニタキが言った。
 異国の言葉を聞いて娘が驚いた。ファイチが娘に説明した。
 娘はウニタキとサハチを見て意味もなく笑った。
「この娘に何と言ったんだ?」とサハチはファイチに聞いた。
「二人は琉球から来た道士で、武当山に向かうところだと言ったのです」
「どこに行くんだ?」とウニタキが明国の言葉で娘に聞いた。
南陽です」と娘は答えた。
「俺の言葉が通じたぜ」とウニタキは喜んだ。
「名前は?」とサハチが娘に聞いた。
「シンシン(杏杏)」と娘は答えた。
 サハチはウニタキを見て笑った。
 ファイチが娘に何かを言って、一緒に行く事になった。
 ウニタキが馬から下りて、娘を馬に乗せた。娘は嬉しそうに笑った。
 その後、シンシンが言っていた悪い男たちは現れなかった。その夜は小さな村の宿屋に泊まった。簡単な食事が取れる店と宿屋を兼ねていて、二階に粗末な寝台が並んでいた。客はサハチたちだけだった。シンシンはファイチと何かを話していたが、すっかり安心したのか、ぐっすりと眠っていた。
 次の日もウニタキはシンシンを馬に乗せて、自分は歩いていた。片言の言葉を使って話をしているらしく、時々、二人の笑い声が聞こえた。その日は唐河(タンフェ)という街に着いて、宿屋に泊まった。生憎、三人が泊まれる部屋はなく、二人部屋を二つ取って、当然のようにウニタキはシンシンと同部屋になった。
「お前、シンシンに手を出すなよ」とサハチがウニタキに言うと、
「馬鹿を言うな。シンシンは娘のようなものだ。そんな事するか」と言った。
 そう言われてみると、殺されたウニタキの長女はシンシンと同じ年頃かもしれないと思った。シンシンの中に亡くなった娘の面影を見たのだろうか。
 サハチはファイチと部屋に入って、「あの二人、大丈夫かな」と心配した。
「何やら、わけありの娘ですね」とファイチは言った。
「サハチさんも気づいていると思いますが、シンシンはかなり強いです。あの若さで、あれほどの腕を持つにはかなりの修行を積んだはずです。もしかしたら武当山の女道士かもしれません」
「やはり、悪い男に追われているというのは嘘だったんだな。何の目的があって、俺たちに近づいて来たんだろう」
 ファイチは首を傾げた。
 翌朝、シンシンは消えていた。
「お前、シンシンに手を出したんだろう」とサハチがウニタキに聞くと、
「馬鹿を言うな。琉球の事を話してやっただけで、すぐに眠った。知らないうちに消えていたんだ」とウニタキは言って、わけがわからないというように両手を広げた。
 馬から下りて南陽の街を歩いていると、誰かが声を掛けてきた。サハチたちが振り返ると漢方薬を並べた薬屋の主人らしい男が手を上げて笑っていた。
 ファイチは驚いた顔で立ち止まって、薬屋の主人をじっと見ていた。薬屋の主人が何かを言って、ファイチが答えて、ファイチは薬屋の主人に駆け寄った。
 薬屋の主人の後ろから娘が顔を出して、笑いながら両手を振った。何とシンシンだった。サハチとウニタキは驚いて、シンシンのそばに駆け寄った。
「わたしの師匠、ヂャンサンフォン(張三豊)様です」とファイチはサハチとウニタキに言った。
「えっ?」と二人は顔を見合わせて首を傾げた。
 どう見ても武芸の達人には見えなかった。どこにでもいそうな普通のおじさんだった。永楽帝(えいらくてい)が必死になって探している男とはとても思えなかった。
 サハチたちは薬屋に入って、シンシンが出してくれた奇妙な味のするお茶を飲みながら、ヂャンサンフォンの事を聞いた。
 ファイチがヂャンサンフォンと出会ったのは十二歳の時だった。応天府(おうてんふ)(南京)城外の長江(チャンジャン)(揚子江)の河原だった。ファイチと同い年のリャンウェイ(梁威)という男の子が剣術の稽古をしていた。父から剣術を教わっていて腕に自信があったファイチは、リャンウェイに試合を申し込んで試合をした。完敗だった。ファイチはリャンウェイの師である道士に剣術の指導を頼んだ。それがヂャンサンフォンだった。
 ヂャンサンフォンはリャンウェイを連れて旅をしていたが、ファイチが気に入ったのか、応天府の城外で暮らし始めた。ファイチは父の許しを得て、毎日、ヂャンサンフォンの家に通って、武術の指導を受けた。月日は流れて、リャンウェイとファイチの妹のファイホン(懐虹)が結ばれた。その三年後、洪武帝が亡くなって世の中が騒がしくなると、ヂャンサンフォンは妹夫婦を連れて、どこかに消えてしまったのだった。
 あれから九年振りの再会だった。
「師匠はまったく変わっていませんよ。驚きました」とファイチはサハチとウニタキを見ながら笑って、「わたしが初めて出会った時から少しも変わっていません。師匠の年齢(とし)を当ててみて下さい」と言った。
「五十代だろう」とウニタキが言った。
 髪と髭に白髪は混ざっているが、しわもそれほどないし顔付きはどう見ても五十代で、それでもサハチの父親よりは年上に見えた。父より年上でクマヌより年下だろう。
「五十八歳」とサハチは言った。
 ファイチは首を振って、ヂャンサンフォンを見ながら、「百六十一歳です」と言った。
「まさか?」とサハチもウニタキも信じなかった。
「わたしと出会った時、百四十でした。あれから二十一年が経っています。わたしはもう亡くなってしまっただろうと思っていたのですが、二十年前と変わらず、お元気のようです」
「ほんとに百六十歳なのか」とサハチは聞いた。
「本当です。元(げん)の国が建国された時、二十五歳だったそうです。若い頃は嵩山(ソンシャン)(河南省)や宝鶏山(バオジーシャン)(陝西省)で武術の修行をしたそうです。七十歳の頃、終南山(ジョンナンシャン)(陝西省)に籠もって不老長寿の修行を積んで、いつまでも若く、長生きができるようになります。八十歳の頃、武当山に籠もって武術の研究に励んで、武当拳(ウーダンチェン)を編み出します。百三十歳の時に一度、亡くなったのですが、また蘇(よみがえ)ったそうです」
「凄え!」とウニタキがうなった。
「明の国というのは、信じられない事がいっぱいあるけど、百六十年も生きてきた人間を拝めるなんて‥‥‥」そう言って、ウニタキはヂャンサンフォンに合掌した。
 サハチもヂャンサンフォンを見つめていたが、どう見ても五十歳くらいにしか見えなかった。サハチの祖父、サミガー大主(うふぬし)は七十三歳で亡くなった。宇座の御隠居(うーじゃぬぐいんちゅ)は七十七歳で亡くなった。八十過ぎまで生きていた人は知っているが、百歳を超えて生きている人は見た事がない。百六十まで生きられるなんて、あり得るのだろうか。信じられない事だが、ファイチが嘘をつくはずもない。世の中には凄い人がいるものだと感心するしかなかった。
 ファイチがシンシンを見ながら、ヂャンサンフォンに話しかけた。ヂャンサンフォンがシンシンの事を説明しているようだった。
「やはり、シンシンは師匠の弟子でした」とファイチはサハチとウニタキに言った。
永楽帝の使いの者が師匠を探しにやって来たので、師匠は皆に黙って山を下りました。誰にもわからないだろうと思っていたのに、シンシンは付いて来たようです。そして、二人でこの薬屋の留守番をしていました。この薬屋は師匠の弟子の店なのですが、用があって都まで行ったようです。師匠はわたしが来るのがわかって、シンシンに迎えにやったそうです。ただ、シンシンにはわたしの事を弟子だとは言わないで、三人の道士が来るから、その中の一人を口説いて来いと命じました。しかし、シンシンは諦めて戻って来たようです」
「お前が口説かれたんだな」とサハチはウニタキを見て笑った。
「俺は一度も口説かれてはいない」とウニタキは言って、シンシンを見た。
「言葉が通じないから諦めたようです」
「どうして、ファイチを口説かなかったんだ? ファイチなら言葉が通じるだろう」
 ファイチがシンシンにその事を聞くと、「三人とも父親のような年齢なので、やめたそうです」とファイチが言って笑った。
「師匠はどうして、ファイチが来る事がわかったんだ?」とウニタキが聞いた。
 ファイチは首を傾げて、ヂャンサンフォンを見た。
「師匠は不思議な人です。わたしたちがこちらに向かって来るのが見えたんだと思います」
 サハチとウニタキはヂャンサンフォンを見た。とぼけた顔をして通りを眺めていた。百年以上も生きると特殊な能力が備わるのかもしれないと思った。
「ところで、永楽帝はどうして、師匠を探しているんだ?」とサハチはファイチに聞いた。
「わたしが師匠に出会った時、師匠の事は何も知りませんでした。しかし、師匠は凄い人だったのです。武当山では武術の神様と言われるほど有名な人なのです。勿論、道士としても一流です。実際に百六十年も生きているのですから、すでに仙人と言ってもいいでしょう。師匠を尊敬している道士は多いですからね、師匠を味方に付けたいと思っているのでしょう。永楽帝の父親の洪武帝も師匠に会いたがっていましたが師匠は断っています。今回も会う事はないでしょう」
 ヂャンサンフォンが何かを言った。ファイチは師匠としばらく話をしていた。何かに驚いているようだった。
「師匠が言うには、永楽帝不能になってしまったそうです」
「えっ、まさか」とサハチもウニタキも驚いた。
 『酔夢楼(ズイモンロウ)』で会った永楽帝は精気がみなぎっているようだった。不能だなんて信じられなかった。
「師匠を探しに来た宦官(かんがん)たちが内緒話をしていたそうです。永楽帝不能なので、後宮(こうきゅう)の女たちは可哀想だと‥‥‥不能を治してもらいたいので、師匠を探しているようです」
「治せるのか」とウニタキが聞いた。
 ファイチが師匠に聞いて、師匠が答えた。
「治療に専念すれば治す事はできるそうです。でも、忙しい皇帝という身分のままでは無理のようです」
後宮には一千人の美女がいるんだろう」とウニタキが言った。
 ファイチは笑って、「まだそんなにはいないでしょう」と首を振った。
永楽帝が皇帝になって、まだ五年ですからね。それでも百人くらいはいるかもしれません」
「美女が百人もいるのに、不能になるなんて可哀想な事だ。奇跡の戦で精力を使い果たしてしまったのかな」
「そうかもしれんな」とサハチは言って、「宦官というのは何だ?」とファイチに聞いた。
「それこそ、不能者ですよ」とファイチは言った。
「宦官というのは性器を切断して不能になった役人の事です。古くから宮廷では宦官を使っています。皇帝の妻や側室たちがいる後宮には男は入れません。しかし、後宮でも力仕事をする男手は必要です。そこで考えたのが宦官です。古くは捕虜となった者たちを宦官にして、後宮に入れて雑用をさせていました。宦官は皇帝の一族たちの身近に仕えているので、やがて、権力を持った宦官も現れて来ます。今、大船団を率いて航海に出ている鄭和(ジェンフォ)も宦官です。永楽帝重臣たちが力を持つのを恐れて、宦官を重要な地位に就けて働かせているようです」
永楽帝不能者に重要な任務を任せているのか」とウニタキが聞いた。
「宦官は子孫を作れません。権力を持ったとしても一代だけで終わります。重臣たちが権力を持てば、それは子や孫の代へと続いて、年を経るごとにその一族は大きくなって行きます。やがては宮廷を乗っ取るかもしれないと恐れているのです」
 サハチは武寧(ぶねい)(先代中山王)を思い出していた。首里(すい)グスクの石垣が台風で壊れて、それに従事していた者たちを去勢して明国に送ったと噂が流れた。その時は、ひどい事をすると思っただけで、明国に宦官という役人がいるとは知らなかった。明国には見習うべき素晴らしい事が色々と多いが、宦官や奴隷は琉球にはいらないとサハチは思っていた。
 ファイチが師匠と話し始めた。シンシンがお茶のお代わりを注いでくれた。ウニタキがシンシンに片言の言葉で、「何のお茶か」と聞いた。
「精力が出るお茶じゃよ」とヂャンサンフォンがヤマトゥ(日本)言葉で答えた。
 サハチとウニタキは驚いて、ヂャンサンフォンを見た。
「百年ほど前じゃったかのう。わしがまだ五十代の頃、博多に行ったんじゃよ。いい女子(おなご)と出会ってのう。十年余り、向こうで暮らしておった。最近、日本の言葉を話した事はなかったが、まだ、覚えているようじゃ」
 サハチは自分も博多には行った事があると言って、ヂャンサンフォンとヤマトゥ言葉で話し始めた。ウニタキもヤマトゥ言葉で色々と質問した。ヤマトゥ言葉のわからないファイチとシンシンはわけのわからない言葉を黙って聞いていた。
 その夜は妓楼に行って騒いだ。百六十歳の師匠は元気だった。若い妓女(ジーニュ)たちにおかしな踊りを披露したりして笑わせていた。酔った勢いで、サハチとウニタキはヂャンサンフォンに武術の指導をお願いした。ヂャンサンフォンは快く引き受けてくれた。
 次の日の朝早く、サハチたち三人とヂャンサンフォンとシンシンは武当山へと向かった。うまい具合に薬屋の主人は昨夜、帰って来ていた
 山の中で野宿をして、三日めにようやく、武当山に到着した。思っていた通りの凄い山だった。琉球ではとても考えられない大きな山だった。山の裾野にファイチの妹夫婦が住んでいる家があった。
 ファイチの妹、ファイホンとその夫のリャンウェイはファイチを見ると驚いて、幽霊でも見ているような表情だった。ファイチが声を掛けると、二人とも涙を流しながら喜んだ。ファイチは妹夫婦との再会を心の底から喜んでいた。ファイホンには二人の子供がいて、不思議そうな顔をして、ファイチを見ていた。
 ファイチとファイホンの再会はヂャンサンフォンとの再会と同じく九年振りの事だった。ヂャンサンフォンに連れられて武当山に来てから一年余りが経った頃、両親と兄に宛てた手紙を託した道士が戻って来て、両親の死と兄の行方不明を知らされた。ファイホンには信じられず、都に行くと言い張ったがヂャンサンフォンに止められた。ヂャンサンフォンが都に行って、両親の死と兄の行方不明は確認され、ファイホンは悲しんだ。兄の無事を祈って、その後も都に行く道士に頼んで、兄の行方を探したが見つける事はできず、あの大戦で死んでしまったに違いないともう諦めていた。それが突然、目の前に兄が現れた。しかも、師匠が連れて来てくれた。ファイホンは奇跡が起きたに違いないと武当山の神々に感謝した。
 ファイチの友、ヂュヤンジン(朱洋敬)が武当山に来たのはファイホンが武当山に来てから半年後だった。ファイホンは都にいた頃、兄の紹介でヂュヤンジンと会っていた。しかし、出家して山中で修行していたヂュヤンジンとファイホンが出会う事はなかった。何度か山中ですれ違う事があったかもしれないが、お互いに気づく事はなかった。
 サハチたちはファイホンの家に泊めてもらい、次の日、シンシンの案内で武当山に登った。山の頂上にいる『真武神(ジェンウーシェン)』を拝んだら、武術修行を始めるので荷物を持って行けと言われた。馬はファイホンに預ける事になった。ヂャンサンフォンは永楽帝の使いの者がうろうろしているから隠れているといって一緒には来ないで、修行をする場所で待っているという。
 山への登り口の近くに破壊されたままの大きな道教寺院があった。
「ここには『玉虚宮(ユーシュゴン)』という大きな建物があったようです」とファイチが言った。
「八十年くらい前、師匠はここで武術の研究に没頭したそうです」
「誰が壊したんだ?」とウニタキが聞いた。
「白蓮教(バイリィェンジャオ)の者たちです」
「白蓮教とは何だ?」
「貧しい人たちが支持した宗教です。仏教の弥勒(みろく)信仰と明教(みんきょう)(ラマ教)が合体してできた教えのようです。世の中は『明(ミン)』と『暗(アン)』でできていて、今の世は『暗』だから、『暗』を倒して『明』にしなければならないと言って蜂起したのです。白蓮教の人たちは赤い頭巾をかぶっていたので、紅巾(ホンジン)の乱と呼ばれています。この乱が大きくなって、元(げん)の国は滅んだのです。『明』の国を建てた洪武帝も白蓮教の一員でした。白蓮教の力を借りて元の国を滅ぼしたのに、皇帝になると、白蓮教は危険思想だといって弾圧しました。白蓮教から見れば、栄えているもの、すべてが敵で、道教の道場として栄えていた武当山も標的にされて破壊されたのです。これから登ってみればわかりますが、あちこちに破壊された建物が、再建もされずに放置されています」
永楽帝に頼めば直してくれるんじゃないのか」とウニタキが言った。
「多分、師匠が頼めば再建してくれるでしょう。でも、師匠は立派な建物とかにこだわらない人です。山は自然のままでいい。建物などなくても修行はできると言っています」
「白蓮教が暴れていた時、師匠はここにいたのか」とサハチは聞いた。
「いたようです。しかし、どうにもならなかったそうです。白蓮教の者たちは数十万もいて、元の官軍でさえ敗れているのです。無駄死にはするなと言って、弟子たちを逃がしたようです」
 山道に入って先に進んだ。シンシンは早足でさっさと歩いて行った。小娘に負けられるかとサハチたちも必死になってあとを追った。ファイチの言った通り、山道の途中に破壊された建物がいくつもあった。そして、思っていた通りに簡単に登れる山ではなかった。曲がりくねった山道を三時(さんとき)(六時間)余りも掛かって、ようやく、中腹にある眺めのいい広い場所に着いた。そこで一休みして、ファイチの妹が用意してくれた昼食を食べて、壮大な眺めを楽しんだ。
 そこから少し行くと壊れた大きな門があった。門の先には石段がずっと続いていた。石段の先には広い敷地があって、武術修行に励んでいる道士たちがいた。白い道服を着て、剣を片手に持って打ち合っている。道士たちの後ろには石でできた大きな高台があって、その上にあるはずの建物はなかった。
 シンシンは道士の一人に声を掛けられて、二人はしばらく話をしていた。サハチたちは中央にある石段を登って高台に上がった。建物の残骸は何もなかった。道士たちが綺麗に片付けたのだろう。
「ここには『紫霄宮(ズーシャオゴン)』という立派な建物が建っていました。武当山の中心的な建物でしたが、焼かれてしまいました。せめて、ここだけでも再建したいと思いますが、再建には莫大な費用と人出が必要です」
「ここまで、資材を運ぶだけでも相当の人出がいる」とサハチは言った。
「前にこの建物を建てたのは誰なんだ?」とウニタキがファイチに聞いた。
「最初に建てられたのは三百年程前の宋(そう)の時代だそうです。その後、戦乱で焼け落ちて、百三十年ほど前に全真道(チェンジェンダオ)の道士によって再建されました。全真道というのは道教の中の一派です。全真道は元(げん)の皇帝と強く結びついていたので、元の皇帝の援助があって再建できたものと思われます」
 シンシンが下で何かを言っていた。
「先に行くそうです」とファイチが言って、三人は高台から下りた。
「あれはこの山の剣術なのか」とウニタキが剣を打ち合っている道士たちを見ながらファイチに聞いた。
「そうです。師匠が工夫して編み出した剣術で、武当剣(ウーダンけん)と呼ばれています」
「早く習いたいな」とウニタキはサハチに言った。
「そうだな」とサハチはうなづいた。
 昼食を食べた広場まで戻って、また曲がりくねった山道に入った。毎日、山の中を走り回っているとみえて、シンシンは疲れも知らずにさっさと先へと歩いて行った。
「いつまでも若いつもりでいたが、俺たちも年齢(とし)を取ったな」と息を切らせながらウニタキが言った。
「最近、刀も振らずに怠けていたからな」とサハチも息を切らせていた。
「まったくです」とファイチも言った。
「わたしは十七の時、師匠に連れられて、この山を登ったのです。あの時は、シンシンみたいに疲れ知らずで登ったのですが、今は息が続きません。鍛え直した方がいいようです」
 半時(一時間)余りで、南岩(ナンヤン)と呼ばれる所に着いた。あちこちに破壊された大きな建物が無残な姿をさらしていた。破壊される前はかなりの建物が建っていたようだ。こんな山奥にこんなにも建物があるなんて信じられない事だった。『南岩宮(ナンヤンゴン)』も焼け落ちていた。紫霄宮(ズーシャオゴン)と同じように石でできた高台だけが残っている。
 南岩宮から出て、さらに進んだ。山道は険しい崖に沿って続いていて、そこからの眺めは最高だった。どれだけの高さがあるのかわからないが、かなり高い所まで登って来たようだ。遠くの方まで山々が連なっている。奇妙な形をした岩山もいくつもあった。決して琉球では見られない風景だった。その景色を眺めているだけで、疲れが一気に吹き飛んだような気がした。
 崖に張り付くように建てられた石でできた建物があった。
「ここは『天乙真慶宮(ティェンイージェンチンゴン)』といって、百二十年ほど前に建てられました。石でできているので焼かれずに残っていますが、内部は破壊されて、いくつもあった神像は谷底に投げ捨てられたそうです」
 ファイチがサハチとウニタキに説明している時、シンシンが火の点いた一尺(約三十センチ)ほどの線香を持ってやって来て、みんなに配るとファイチに何かを言った。
「ここから先へ進むには、あそこに線香を立てなければならないと言っています」
 ファイチが示した方を見ると、崖に突き出した石の梁(はり)の先端に龍の彫り物があって龍の頭の上に香炉があった。そこに線香を立てろというらしい。近くまで行ってみると、梁の幅は一尺ほどで、長さは十尺ほどだった。足を踏み外せば、遙か下にある谷底へ転落して死ぬだろう。
 まず、シンシンが見本を見せた。シンシンは余裕で歩いて行って、線香を立てると振り向いて戻って来た。それを見ていたサハチは行きはいいが帰りが難しいと思った。シンシンのように振り返った方がいいか、後ろ向きのまま戻った方がいいか、そこが問題だった。
 ファイチが次に行った。ファイチは線香を立てるとそのまま後ろ向きに戻って来た。ウニタキがサハチを見て、「先に行くぞ」と言った。
 ウニタキは線香を立てると振り返った。振り返る時に体がぐらついたが、何とか持ちこたえて戻って来た。
「危なかった」とウニタキは溜め息をついた。
 サハチはウニタキに軽く笑うと梁の上に出た。梁の上に立つと谷底が真下に見え、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。心を落ち着けて、正面にある香炉を目指して歩いた。線香を立てて振り返る事なく、そのまま後ろに下がって無事に成功した。
 サハチが戻った事を確認するとシンシンは軽く笑って、さっさと先へと進んで行った。
 途中、崖っぷちにある細い道を岩に張り付くように進み、曲がりくねった山道を登ったり下ったりして着いた所は『朝天宮(チャオティェンゴン)』という道観(ダオグァン)(道教寺院)だった。ここも白蓮教によって破壊されたが、二十年ほど前に再建されたらしい。ヂャンサンフォンの弟子のスンビーユン(孫碧雲)が住持として朝天宮を管理していた。
 朝天宮は天界と下界の境界にあって、これより上は神様の住む天界だとファイチが説明した。
 すでに夕方になっていたので、天界に行くのは明日にして、朝天宮に泊まる事になった。

 

 

 

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