長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-34.対馬の海(改訂決定稿)

 博多に着いたマチルギたちは『一文字屋』のお世話になって、二十日間、博多に滞在した。梅雨も上がって、琉球ほどではないが、暑い夏になっていた。
 博多に滞在中、白い袴をはいて腰に刀を差して、街中をうろうろしているマチルギたちは目立ち、街の者たちの噂に上っていた。さらに、一文字屋の近くの空き地で剣術の稽古をしていたので、大勢の見物人たちに囲まれた。中には試合を申し込んでくるサムレー(侍)もいたが、ジクー(慈空)禅師がうまく追い払って、それでも言う事を聞かない者はヒューガ(日向大親)によって追い払われた。
 もし、九州探題(きゅうしゅうたんだい)の渋川満頼(しぶかわみつより)が博多にいたなら、マチルギたちの噂を聞いて屋敷に招待して、その後の成り行き次第では京都に行く事になったかもしれない。しかし、渋川満頼は足利義満が急死したため、京都に行っていて留守だった。
 博多でも足利義満の死は噂になっていて、戦(いくさ)にならなければいいがと心配している人が多かった。九州には将軍に反発している者たちがまだいて、九州探題の留守を狙って博多を攻めるかもしれないと恐れている人もいた。そんな噂を耳にしていたマチルギも京都まで行こうとは言い出さず、博多の賑わいを見ただけで充分に満足していた。
 マチルギたちが博多を去る時、ジクー禅師は知り合いに会いに行くと言って、マチルギたちと別れた。マチルギは驚いたが、必ず対馬(つしま)に行くと約束してくれたので、ジクー禅師を見送った。
 ジクー禅師の代わりに若い武芸者が一緒について来た。マチルギたちの稽古を毎日のように見に来ていた背の高い若者だった。
 若者の名は飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)といい、下総(しもうさ)の国(千葉県)、香取の生まれで、幼い頃より香取神宮に伝わる『神道流(しんとうりゅう)』の武術を修め、さらに強くなるために諸国修行の旅に出た。旅の途中、『念流(ねんりゅう)』という武術を編み出した禅僧の慈恩(じおん)の名を聞いて、是非とも教えを請おうと捜しているがなかなか見つからない。噂では博多にいると聞いてやって来たが、見つける事はできず、マチルギたちの稽古に遭遇したのだった。女の遊びに過ぎんと見物人たちは半ば馬鹿にしているが、修理亮の目には、恐るべき女たちだと映っていた。そして、一緒にいる二人の武士はかなりの使い手だと見破っていた。
 ヒューガと名乗っている武士は日本人だった。話を聞くと阿波(あわ)(徳島県)の生まれで、二十年以上も琉球にいるという。慈恩禅師の話をしたらヒューガは驚いた顔をした。慈恩はヒューガの師匠だという。琉球に渡る前の若い頃、二年余り一緒に旅をして指導を受けたという。もし、出会う事ができたら、『三好日向(みよしひゅうが)は琉球にいる』と伝えてくれと頼まれた。
 修理亮は迷った。今まで通り慈恩を捜すか、それとも、慈恩の弟子のヒューガに指導を頼むか‥‥‥修理亮はヒューガを選んで、弟子にしてくれと頼んだ。ヒューガは断った。わしは今回の旅で、ヂャンサンフォン(張三豊)殿から武術を学ぶつもりでいる。そなたも一緒に学ぼうと言って、ヂャンサンフォンを紹介した。修理亮はヂャンサンフォンを知らなかったが、ヒューガから明国(みんこく)の武術の神様じゃと言われた。修理亮はヂャンサンフォンの指導を受ける事になり、一緒について行ったのだった。
 博多を発ったのは六月の末で、壱岐島(いきのしま)に行き、荷物の積み替えのために一泊して、翌日、対馬の土寄浦(つちよりうら)に着いた。船の上から見た土寄浦は二十年前と変わっていないとヒューガは懐かしく思っていた。しかし、上陸してみると、何もかもが変わっていた。サハチとヒューガが琉球に帰った翌年、土寄浦は高麗(こうらい)軍の攻撃に遭って全焼してしまい、すべての建物は新たに再建されたものだった。
 二十年前に暮らしていた家はなく、後家のサワの家もイトの家もなかった。サワはイトと一緒に船越(ふなこし)に移ったという。
 一行は『琉球館』という立派な屋敷に案内された。毎年、琉球からサハチの弟や息子が来るので、シンゴ(早田新五郎)が建てたのだった。立派な屋敷だったが、今回は人数が多すぎて、その屋敷だけでは納まりきれなかった。空き家の手配がしてあるので、もう少し待ってくれとシンゴは言った。
「女たちに屋敷を使ってもらい、わしら男は庭で野宿をすればいい」とヒューガは笑った。
 一休みしていると刀を背負った二人の女がやって来た。頭に革の鉢巻きをして、袴姿の勇ましい女は屋敷の中を見回して、「マチルギ様はどなたですか」と聞いた。
 マチルギは屋敷の中から縁側に出た。
「わたしがマチルギです」と言って、二人の女を見たマチルギは、「もしかしたら、イトさんとユキさんですか」と聞いた。
 女はうなづいて、「娘のユキです」と娘を紹介した。
「ほう」とヒューガが言って立ち上がった。
 イトはヒューガを見ると、「お久し振りです」と笑って頭を下げた。
 イトは二十年前の面影を残していたが、女武将という貫禄があった。あのあとも剣術の修行に励み、この島を守るために戦って来たのかもしれない。娘のユキは可愛い顔をしていて、目つきがサハチによく似ていた。母親に鍛えられたとみえて、かなりの腕がありそうだった。
「まるで、二十年前のそなたを見ているようじゃ。あの時のそなたは美しかったが、いや、今でも勿論、美しいがのう。そなた以上にユキ殿は美しい。サハチに見せてやりたいものじゃ」
「サハチ殿のご活躍はシンゴ殿からよく伺っております」と笑って、マチルギを見たイトは、「マチルギ様のお話もシンゴ殿や対馬にいらした息子さんたちからよく聞いております。今回、マチルギ様がいらしたと聞いて、お会いするのを楽しみにしておりました。是非とも船越にお越し下さい。迎えに参ったのでございます」
 マチルギはあまりにも突然のイトとユキの出現に戸惑っていた。まさか、対馬に着いた途端に現れるなんて思ってもいなかった。心の準備もなく現れた二人を見て、何と言ったらいいのか言葉も出て来なかった。
 荷物を積み終わったら改めて迎えに来ると言って二人は帰って行った。
「ここにも女子(いなぐ)サムレーがいるのね」と佐敷ヌルが言った。
 確かに二人は女子サムレーだった。
「かなり強そうだわ」とナグカマが言った。
「大師匠(うふししょう)(マチルギ)にはかなわないわよ」とイヒャカミーが言った。
 女子サムレーたちの話を聞きながら、マチルギは可愛い顔をしたユキを思い出して、二十年前のイトはあんな感じだったのだろうかと思っていた。
 マチルギたち一行は次の日、シンゴが持って来た食糧を積んだイトの船に乗って船越に向かった。その船はマチルギたちが琉球から乗って来た船と同じ位の大きさで、驚いた事にイトが船長だった。船乗りたちも全員が女だった。女たちを指図して船を操っているイトの姿を、マチルギは目を丸くして驚き、凄いわと言って、一瞬にしてイトを尊敬した。
 イトはマチルギの想像を遙かに超えた素晴らしい女性だった。息子のサグルーやジルムイからイトの噂は聞いていた。綺麗な人で、船を操ってどこにでも行く。剣術もできるし、何となく、お母さんに似ていると言っていた。話を聞いた時は小舟に乗っているのだろうと思っていた。こんな大きな船を操っていたなんて考えも及ばない事だった。生意気な女だったら、痛い目に遭わせてやろうと密かに思っていたマチルギは、イトの姿を見て、完全に自分の負けだと心の中で頭を下げていた。
 浅海湾(あそうわん)は凄い所だった。島だか岬だかわからないが、海の中にいくつも岩山がせり出していて、まるで、迷路の中にいるようだ。琉球では絶対に見られない不思議な風景が次々に現れた。皆、驚いた顔をして、周りの景色を眺めていた。
 半日掛かって着いた船越(小船越)は深い入り江の奥にあった。ここは古くから小舟を担いで、東海岸に運んだ場所だという。南北に細長い対馬島は浅海湾から東海岸に出るには、北に行っても南に行っても、かなりの時間が掛かった。船越は二丁(約二百メートル)足らずで東海岸に出る事ができるので、舟を担いで小高い丘を超えたのだった。勿論、今も利用されている。山ばかりで、隣り村に行くのにも舟を利用するしかない対馬の人に取って、舟は馬のようなものだった。船越は交通の要衝として重要な地点で、早田左衛門太郎(そうださえもんたろう)(サイムンタルー)はここを第二の拠点として、次男の六郎次郎を置いたのだった。
 サイムンタルーの長男の藤次郎はサイムンタルーが朝鮮(チョソン)に投降した時、人質となって朝鮮の都、漢城府(ハンソンブ)(ソウル)で暮らしていたが、異国の地で病に罹って亡くなってしまった。六郎次郎はサイムンタルーの跡継ぎとなり、船越の地を守っていた。
 船から降りた一行は荷物を降ろすのを手伝って、荷車を押しながら坂道を上り下りして東海岸に出た。坂道の頂上辺りの左側に鳥居があり、山の上に神社があるようだった。集落は東海岸にあって、土寄浦と同じように山と海に挟まれた狭い土地に家々が建ち並んでいた。ここにも『琉球館』があった。しかし、全員を収容する事はできず、マチルギたちは六郎次郎の屋敷に、女子サムレーたちは琉球館に、男たちはサワの家とイトの父親、イスケの家に分散した。
 サワと二十年振りの再会をしたヒューガは複雑な心境だった。今回、妻の馬天ヌルと娘のササを連れていた。その事を話すと、よかったわねと笑ってくれた。当時十歳だった娘のスズは三十歳になり、十二歳の息子がいた。夫の姿が見えないので、サワと同じように後家になったのかと聞くと、「そうじゃないわよ」とサワは笑った。お屋形様と一緒に朝鮮にいるという。
「でも、十年過ぎても帰って来ないから、後家と同じだわね」と言った。
 お屋形様の家臣になった息子の三太郎も朝鮮にいるという。
 ユキの夫の六郎次郎はいなかった。シンゴが琉球に行っている間は土寄浦にいて、シンゴに引き継ぎをしたら帰って来るという。
 マチルギはイトから、どうして船長になったのか理由を聞いた。
「男手が足らないのよ」とイトは言った。
 十一年前の四月、お屋形様のサイムンタルーは朝鮮に投降した。その時、軍船二十四隻と八十人の家臣も連れて行った。サイムンタルーは宣略(せんりゃく)将軍という地位を与えられ、屋敷も与えられて、朝鮮にて倭寇(わこう)討伐の任務に携わっているという。投降した倭寇を丁寧にもてなして、倭寇の勢力を弱めようという、長年に渡って倭寇に苦しめられてきた朝鮮王朝が考え出した苦肉の策だった。サイムンタルーだけでなく、各地の有力な倭寇の頭領たちの多くが投降して、朝鮮で暮らしていた。
 主立った者たちがお屋形様と一緒に朝鮮に行ってしまい、土寄浦には最低限の男しかいなくなった。残された者たちで、留守を守っていくより他はなく、イトはサワと一緒に船に乗り込んで朝鮮や博多まで行くようになったという。
 おんぼろの船しか残っていなかったが、琉球との交易によって豊かになり、新しい船を手に入れる事もできた。今、船越には大型帆船が東海岸と西海岸に二隻あり、東海岸の船は博多に行く時に使い、西海岸の船は朝鮮に行く時に使うという。
 五年前にユキが嫁いで来た頃の船越は家も少なく、寂しい所だったが、今は六郎次郎の家臣も増え、船乗りたちも家族を呼んで住み着くようになって、賑やかになってきたとイトは笑った。
 イトはサハチとの出会いの事も話してくれた。
 イトの父親のイスケはイトが生まれる前から琉球に行っていた。サハチが生まれた時も琉球にいて、サハチの誕生を祝福した。イトが四歳の時、父は琉球から帰って来ると、イトと同い年のサハチの事を話した。イトが八歳の時も、十二歳の時も、琉球から帰って来ると父はサハチの事を楽しそうに話した。イトの心の中で、いつか、サハチに会いたいと思うようになり、その思いが強くなると、いつか必ず、サハチに会えると信じるようになった。
 男たちから騒がれても目もくれず、サハチとの出会いを夢見ていた。そして、十六歳の夏、とうとうサハチが対馬にやって来た。サハチは父が話していた通りの人だった。運命の人に出会ったとイトは思った。サハチと過ごした半年間は今のイトにとって、永遠の宝物だった。そして、ユキが生まれた。ユキは女の子だったが、サハチの面影があった。イトはユキを育てる事に生きがいを感じて生きて来た。勿論、ユキにも剣術を教えた。
 そのイトもいつしか年頃になって、無人島で若い男たちと語らうようになった。イトを目当ての男の子は多かったが、イトが好きになった男の子はいなかった。自分よりも弱い男には興味ないと言っていた。お嫁に行かなくてもいい。お母さんのように船長になるわと言っていた。ところがある日、無人島から帰って来ると、あたしより強い人がいたと言った。そして、顔を赤らめた。
 それから何日か経ったある日、若者が訪ねて来た。見た事もない若者だった。若者はユキをお嫁に欲しいと言った。突然の事で、イトは驚いた。ユキに訪ねると、ユキもお嫁に行きたいと言う。若者の話を聞いて、イトはまた驚いた。相手はお屋形様の息子の六郎次郎だった。
 土寄浦が高麗軍に襲撃された翌年、六郎次郎は母親と一緒に船越に移った。当時、四歳だった。その後、船越で育ったため、イトは六郎次郎に会った事はなかった。遠くにいた六郎次郎とユキが出会うなんて、何という運命だろう。お屋形様のお嫁さんになるなんてこれ以上の幸せはない。父親のサハチも満足してくれるに違いないと思った。
 二人の事をシンゴに話し、シンゴは朝鮮まで行って、サイムンタルーから許しを得て、二人の祝言(しゅうげん)は決まった。ユキが船越に嫁ぐと同時に、イトは両親とサワを連れて船越に移った。
 マチルギもサハチとの出会いをイトに話した。
「わたしと出会う前にあなたと会っていたのね」とイトは笑った。
「わたしに待っていてと言いながら、あなたと仲よくなったのよ」とマチルギは言った。
「ひどい男ね」とイトは顔をしかめた。
 マチルギは首を振った。
「でも、あの頃のわたしはまだ、サハチのお嫁さんになるなんて本気で考えていたわけではないの。あの頃のわたしは敵討ちの事しか考えていなかったわ。ところが、わたしをお嫁に迎えたいという男が現れたの」
「サハチさんの留守中に?」
 マチルギはうなづいた。
「わたしに勝てたらお嫁に行くって答えたの。わたしはサハチとも互角だったし、絶対に勝てるという自信があったの。でも、わたしは負けてしまった。わたしはもう一度、試合をしてくれって頼んだの。相手はうなづいてくれたわ。わたしはサハチの故郷の佐敷まで行って剣術のお稽古をしたわ。今までと同じお稽古をしても、その人には勝てない。佐敷には武術道場があって強い人がいるって聞いていたので行ったの。わたしはサハチの叔父さんの指導を受けて、約束の日にその人と試合をしたわ。勝つ事はできなかったけど、引き分けだった。今度はその人がもう一度、試合をしたいと言ってきたの。そして、わたしはうなづいたけど三度目はなかった。その人の父親が急に亡くなって、中山王(ちゅうざんおう)(察度)の孫娘をお嫁に迎える事に決まったらしいわ」
「その人の事が好きじゃなかったのね?」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、負けた事が悔しくて、わたしは必死になってお稽古をしたの。でも、その人のお陰で、わたしは知らないうちにサハチの事が好きになっていたんだって気づいたの。それに、佐敷の人たちもいい人ばかりだったわ」
「サハチさん、対馬にいた時、山に籠もって剣術の修行を積んでいたわ。どうしても勝たなければならない人がいるって言っていたけど、もしかしたら、それってあなたの事じゃないの?」
 マチルギは笑ってうなづいた。
「それで、どっちが勝ったの?」とイトは興味深そうに聞いた。
「サハチは引き分けだと言ったけど、真剣でやっていたら、わたしの負けだったの。サハチはヤマトゥ(日本)から帰って来て、心が大きくなっていたわ。勝ち負けにこだわらなくなっていた。きっと、あなたとの出会いがサハチを成長させたのね」
「そんな事はないわよ」とイトは首を振って、マチルギを見ると、「あなたでよかったわ」と言って笑った。
 マチルギもイトを見ながら笑っていた。サハチがイトに出会わなければ、こうして、イトと会う事もなかっただろう。イトに会うためにヤマトゥに来たのかもしれないとマチルギは思っていた。
 マチルギはイトに船の操縦法を教えてほしいと頼んだ。イトは驚いたが、マチルギならできると思い、すぐに承諾した。その代わりにマチルギは剣術の指導を頼まれた。マチルギは喜んで引き受けた。
 マチルギはチルー、女子サムレーたちと一緒に船に乗って、イトから船の操縦法を習った。
「わたしをお嫁にもらうために試合をした、その人の奥さんよ」とマチルギはチルーを紹介した。
「えっ、どういう事なの?」とイトは驚いた。
「その人、一緒になった奥さんと娘を殺されて、佐敷に逃げて来たの。そして、チルーさんと出会って一緒になったのよ。その人、今ではサハチの右腕として活躍しているわ」
「そうなの。不思議な縁ね」と言ってイトはマチルギとチルーを見比べた。
 ヂャンサンフォンとヒューガ、飯篠修理亮、馬天ヌルとササ、シンシン(杏杏)とシズはイスケの船に乗って対馬一周の旅に出て行った。ヒューガと修理亮は旅をしながら、ヂャンサンフォンから武術の指導を受けると張り切っていた。馬天ヌルは対馬の神様との出会いに期待し、ササとシンシンとシズの三人は修理亮の気を引こうと火花を散らしていた。
 佐敷ヌルとフカマヌルは船越の娘たちに剣術を教えていたが、土寄浦から娘たちに剣術を教えている女が来て、土寄浦の娘たちにも教えてくれと請われ、土寄浦に移って行った。二人の代わりに女子サムレーが交替で教える事になった。
 シタルーとクグルーも船越の若い者たちに剣術を教えていたが、土寄浦の若者を鍛えてくれとシンゴに頼まれて土寄浦に移った。
 イーカチは船越の若者たちを鍛え、その合間に小舟に乗って、あちこちに行っては絵を描いていた。

 

 

 

対馬と海峡の中世史 (日本史リブレット)   中世の対馬  ヒト・モノ・文化の描き出す日朝交流史 (アジア遊学)