長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-47.瀬戸内の水軍(改訂決定稿)

 博多に着いて七日後、サハチ(島添大里按司)たちは『一文字屋』の船に乗って京都へと向かった。
 博多に滞在中、サハチたちはヤマトゥンチュ(日本人)に変装していた。琉球から来た事がわかると妙楽寺に閉じ込められてしまうからだった。サハチたち男はジクー(慈空)禅師を除いて、修理亮(しゅりのすけ)の真似をしてヤマトゥ(日本)のサムレー姿になり、ササたち女はヤマトゥの娘の姿になっていた。
 女子(いなぐ)サムレーが女の格好をしているのを見るのは初めてだったので、新鮮な驚きだった。男勝りのクムの娘姿は思っていた以上に女らしく、「お前、本当は美人(ちゅらー)だったんだな」とサハチが言うと、恥ずかしそうに顔を赤らめた。そんなクムを見たのは初めてで、クムも本当は可愛い女子だなと改めて感じていた。
 日本人に化けたサハチたちは、都見物にやって来た田舎者(いなかもの)の一行のように、ぞろぞろと街中を歩き回った。去年来たササたちは得意になって、色々と説明してくれた。明国(みんこく)の都を知っているファイチ(懐機)とウニタキ(三星大親)も、独特な日本の建物や人々の風習を見て驚いていた。
 ンマムイ(兼グスク按司)は九州探題の渋川道鎮(どうちん)の家臣で知っている者がいるので、会いに行こうと言った。会うのはいいが、そのあと妙楽寺に閉じ込められてしまうぞと言ったら、それはうまくないと苦笑いした。
「ヤマトゥにいた時、俺は右馬助(うまのすけ)って呼ばれていたんです」とンマムイは言った。
「ウマノスケ?」
「昔、そういう役職があったようです」
「成程な。ヤマトゥにいる間はウマノスケと呼ぶ事にするか」
 サハチがそう言って笑うと、
「師兄(シージォン)は佐八郎(さはちろう)殿です」と言った。
 そう言えば、サハチの本当の名はサハチルーだったのを思い出した。いつの間にかルーがなくなっていた。
「ウニタキ師兄は鬼武(おにたけ)殿で、ファイチ師兄は破一郎(はいちろう)殿です」
「ファイチが破一郎か」とサハチは笑った。
 ンマムイの案内で遊女屋に出掛けたが、目当ての遊女屋は潰れていた。仕方がないと別の遊女屋に行ってみたが、一見(いちげん)さんはお断りと言われて、入る事もできなかった。一文字屋の紹介があれば、高級な遊女屋にも入れるだろうと一文字屋に頼んだが、その場をササに見られて、結局、遊女屋には行けなかった。この時だけは、ササを連れて来るんじゃなかったと後悔した。
 サハチたちが博多を離れる時になっても、妙楽寺の門は閉ざされたままで、中にいる者たちと会う事はできなかった。それでもウニタキが忍び込んで新川大親(あらかーうふや)と会い、『何事も九州探題の言う事を聞いて行動し、サハチたちが京都から帰って来るのを待つ必要はない。先に朝鮮(チョソン)に行っても構わないので、うまくやってくれ』というサハチの言葉を伝えた。
 一文字屋の船は、シンゴ(早田新五郎)とマグサ(孫三郎)の船よりも一回り小さい帆船で、二隻で京都に向かった。たっぷりと荷物が積んであり、かなり重そうだった。一応、将軍様重臣への贈り物も積んである。もし、会う事ができれば、それを贈って、来年、正式な使者を送る事を告げるつもりでいた。会えなければ、京都の『一文字屋』に預けておいて、来年使えばいいだろう。
 サハチ、ウニタキ、ファイチ、ジクー禅師、ササ、シンシン(杏杏)、シズが一隻めに乗り、ヂャンサンフォン(張三豊)、修理亮、ンマムイ、イハチ、クサンルー、三人の女子サムレーが二隻めに乗った。一文字屋孫三郎と娘のみおはサハチたちと一緒に乗っていた。
 吹き上げの浜(海の中道)と志賀島(しかのしま)を右に見ながら博多湾を出た二隻の船は右に曲がって、九州の山々を右に見ながら東へと進んだ。
 博多から京都までは、早ければ半月で行けるという。琉球から坊津(ぼうのつ)まで半月掛かったのだから、同じくらい掛かる事になる。京都は遠いと思いながらも、サハチはまだ見ぬ世界に胸を躍らせていた。
 夕方になって九州と本州の境目にある馬関(ばかん)海峡(関門海峡)に入った。まるで広い川のようで、潮の干満によって潮流が変わり、しかも流れが速いので難所だという。
 確かに海峡に入ると船の速さが早くなった。凄い所だと思いながらサハチたちは周りの景色を眺めた。
 しばらく行くと少し広くなった所に出て、左側に港が見えた。船は進路を変えて、港へと入って行った。赤間関(あかまがぜき)(下関)と呼ばれる港には大小様々な船が泊まっていた。
「もう少ししたら潮の流れが逆になります」と一文字屋孫三郎は言った。
「潮の流れに逆らって進む事はできません。ここだけではなく、これから入る瀬戸内海は島が多く、潮の流れも複雑です。潮の流れを知らなければ、瀬戸内海での航海はできないでしょう」
 サハチは孫三郎の話を聞いて、京都に行くのは大変のようだと改めて思った。
 その夜は、この辺りを治めている大内氏の家臣、広中三河守(みかわのかみ)の屋敷にお世話になった。広中三河守は大内氏の水軍の大将で、広中三河守の許可がなければ、馬関海峡を通過する事はできないという。孫三郎は広中三河守とは昵懇(じっこん)のようで、サハチたちは歓迎された。
 サハチが中山王の世子(せいし)(跡継ぎ)だという事は隠して、中山王の家臣たちが将軍様と交易をするための下見に来たという事にした。
琉球の王様が将軍様と交易を始めるのは喜ばしい事じゃ。将軍様も歓迎なさるじゃろう。わしらのお屋形様(大内徳雄(とくゆう))は今、京都におられるが、必ずや、そなたたちの力になる事であろう」
 そう言って、広中三河守はお屋形様宛ての書状を書いてくれた。
「ところで女子(おなご)たちもおるようじゃが、あれらは何者なんじゃ?」と広中三河守はサハチに聞いた。
「ヌルと言いまして、祭祀(さいし)を司(つかさど)る女でございます。琉球では何事を決めるにもヌルに相談してから決めます。それに、無事な航海を祈るのもヌルの務めなので連れて参りました」
 サハチがそう説明すると、
「成程のう。巫女(みこ)のような者じゃな」と言って、広中三河守は笑った。
 次の日は潮の流れが変わるのを待ち、ようやく正午(ひる)頃になって船出した。昨日の夜中から降り出した雨も正午前にはやみ、船は速い潮流に乗って、馬関海峡を抜け出して広い海へと出た。左側に続いている山々が本州で、船は本州を左に見ながら進んで行った。
 二時(にとき)(約四時間)足らずの間、快適に走ったが、潮の流れが変わって、風も弱くなってしまい進めなくなった。近くにあった小さな港に入って、その日の航海は終わりとなった。こんな事ではいつ京都に着くのか先が思いやられた。
 サハチたちは上陸してみたが、山に囲まれた小さな漁村で、見るべき物は何もなかった。
 ンマムイとシンシンが船の上で笛を吹いていたら、村の者たちが集まって来た。どこから来たかと聞かれたので、琉球と答えたが、どこだかわからないようだった。しばらくして、長老らしい年寄りがやって来て、遠い所からよく来てくれたと歓迎してくれた。
 長老の屋敷に招待されたサハチたちは、捕れ立ての魚介と酒の御馳走になり、笛や三弦(サンシェン)を披露して村人たちに喜ばれた。村の若い者たちも流行り歌を聴かせてくれた。ウニタキの三弦に合わせて、ササたちが踊り出すと、村の娘たちも踊り出し、楽しい時を過ごした。
 長老は屋敷に泊まっていけと勧めたが、孫三郎が首を振ったので、サハチたちは船に引き上げた。
「この辺りの漁師は海賊になって暴れる者たちもいるらしい」と船に戻ると孫三郎は言った。
「この村の者たちが海賊かどうかはわかりませんが、あの屋敷に泊まるのは危険です」
 あの者たちが海賊には見えなかったが、サハチは孫三郎にうなづいて、その夜は星を見上げながら甲板(かんぱん)の上で横になった。
 夜中にササに起こされた。
「危険よ。村人たちが襲って来るわ」
「何だって! 奴らはやはり海賊だったのか」
「お宝を積んだ船がわしらの港に入って来た。天からの授かり物だって言っているわ」
「何てこった」
 サハチは皆を起こした。
 星は出ているが月がないので辺りは暗い。暗い中、船を出すのは危険だが、逃げるしかなかった。
 ゆっくりと船を出して、港から離れた。しばらくして、港の辺りにいくつもの灯(あか)りが見えた。松明(たいまつ)を持った村人たちに違いない。舟に乗って追って来るかと思われたが、追って来る事はなく、引き上げて行くのが見えた。
 サハチたちはホッと胸を撫で下ろして、ササに感謝した。
 あまり沖まで出てしまうと潮に流されるので、碇(いかり)を下ろして明るくなるのを待った。
 夜明けと共に、漁村から見えない場所まで移動して、潮の流れが変わるのを待った。
 巳(み)の刻(午前十時)頃になって、ようやく潮の流れが変わった。潮の流れに乗って船は気持ちよく走った。申(さる)の刻(午後四時)前に、室積(むろづみ)という大きな港に入った。
 室積には赤間関にいた広中三河守の家臣がいて、サハチたちの宿舎と食事の世話をしてくれた。宿舎は大きな寺院の中にある宿坊(しゅくぼう)で、昨夜、ろくに眠れなかったので、ゆっくりと休む事ができた。
 四日目も潮待ちをして、巳の刻頃、ようやく船出となった。一時(いっとき)(約二時間)余りで、上関(かみのせき)という港に着いた。
 上関は細く突き出した岬と細長い島との間にあり、周辺にもいくつも島があった。
 上関から先は村上水軍の縄張りだと孫三郎は言った。
 六年前、孫三郎の兄の孫次郎は京都に進出しようと考えた。シンゴの船が毎年、琉球に行く事になったので、明国の商品を京都で売ろうと考えたのだった。博多と京都を往復するには、水軍(海賊)と手を組まなければならない。一々、足止めされて艘別銭(そうべつせん)を支払うのは面倒なので、水軍の頭領に会って話をつけようと思った。
 孫次郎は早田(そうだ)三郎左衛門(サンルーザ)に仲介を頼んだ。当時、三郎左衛門は七十歳を過ぎていたが元気だった。三郎左衛門は南朝の水軍大将として活躍した村上長門守(ながとのかみ)(義弘)と共に戦った経験もあった。
 三郎左衛門を連れて上関に来た孫次郎は、村上水軍の頭領、村上山城守(やまじろのかみ)と会った。村上山城守は対馬の早田水軍の噂を知っていて、三郎左衛門を歓迎し、長門守の活躍話を聞いて喜んだ。
 長門守は伊予(いよ)(愛媛県)の水軍として活躍したあと、配下を率いて瀬戸内海を出て、九州で懐良親王(かねよししんのう)のために働いた。今川了俊(りょうしゅん)に敗れて、懐良親王太宰府(だざいふ)から高良山(こうらさん)に移った二年後、長門守は消息を絶ってしまった。敵にやられたのか、暴風に遭って遭難したのか、長門守の船が帰って来る事はなかった。
 長門守が亡くなったとの噂が広まると、長門守が拠点としていた瀬戸内海の島々は海賊たちに奪われた。長門守の跡を継ぐべく、信濃(しなの)(長野県)からやって来たのが同族の村上山城守だった。山城守は伯父と一緒に瀬戸内海にやって来て、奪われた長門守の縄張りを取り戻し、村上水軍を再結成させたのだった。伯父はすでに亡くなり、山城守は三人の息子たちを能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)に配置して、西は上関から東は鞆(とも)の浦までを縄張りとして守っていた。
 鞆の浦から東を縄張りとしていたのは塩飽(しわく)水軍だった。三郎左衛門も塩飽水軍とは面識がなかった。それでも同じ水軍同士なので、頭領の塩飽三郎入道(にゅうどう)と会う事ができ、話もうまくまとまった。
 村上水軍も塩飽水軍も欲しい物は明国の銅銭だった。土地を持っていない水軍にとって、活躍した部下たちに与える褒美(ほうび)として、銅銭を与えるのが一番手っ取り早い方法だったのである。
 明国の銅銭は琉球で手に入れる事ができた。明国で取り引きをした代価が銅銭で支払われる事もあり、毎回、大量の銅銭が琉球にもたらされた。その銅銭は日本の商人との取り引きにも使われ、日本にもやって来る。シンゴに頼めば、必要な銅銭を手に入れる事は可能だった。
 今、頭領の村上山城守は能島にいて、上関にいるのは長男の又太郎だった。又太郎は二十代半ばの若者で、サハチたちが琉球から来た事を知ると、目を丸くして驚き、大歓迎してくれた。
 又太郎の立派な屋敷に招待されて、サハチたちは酒と料理を御馳走になった。又太郎は琉球の事を知りたがり、サハチたちを質問攻めにした。
 サハチが琉球と日本との間にある島々の話をしていた時、娘が入って来た。娘は刀を手に持ち、袴をはいたサムレー姿だった。
「あら、女子サムレーだわ」とササたちが騒いだ。
 又太郎が妹のあやだと紹介した。
「あやが十歳の頃、剣術の名人が、この島に滞在しておりました。わしら兄弟は指導を受けていたのですが、あやが一番熱中してしまい、このような有様となったわけです」
 又太郎はあやを見て苦笑した。
 サハチはササたちを見ながら、「あの女たちも皆、武術を身に付けております」と言った。
「あや殿のような格好で博多まで来たのですが、目立たないようにと娘の格好をしております」
「皆、かなりの腕よ」とあやは又太郎に言って、ササたちの前に座ると、「明日、御指導をお願いいたします」と頭を下げた。
「御指導だなんて」とササは言って手を振り、「あたしたち、毎朝、武当拳(ウーダンけん)のお稽古をしているの。一緒にやりましょう」と笑った。
武当拳?」
 ササはヂャンサンフォンを見ながら説明した。
 又太郎も武当拳に興味を持ったようで、ヂャンサンフォンに色々と質問した。
 武術の話に熱中しているうちに、上関に来た剣術の名人が慈恩禅師(じおんぜんじ)だとわかり、修理亮が目の色を変えて、慈恩禅師の事を尋ねた。
「ここを去ったのが五年前の事です。信濃の国に行くとか言っておりましたが、今、どこにおられるのかわかりません」
 又太郎はそう言ったが、信濃の国という手がかりが得られて、修理亮は喜んだ。修理亮がヒューガ(三好日向)の事を、ンマムイが阿蘇弥太郎の事を聞いたが、又太郎は首を傾げた。サハチもがっかりしたが、「聞いた事あるわ」とあやが言った。
「あたし、お師匠からお弟子さんたちの事を聞いたのよ。十人以上いたけど、三好日向は一番最初のお弟子だって言っていたわ。その次が中条兵庫(ちゅうじょうひょうご)で、三番目が阿蘇弥太郎だわ」
 それを聞いて、修理亮は飛び上がらんばかりに喜んだ。ンマムイも嬉しそうな顔をしてうなづいていた。サハチも嬉しかった。
「中条兵庫は将軍様の指南役になって京都にいるけど、三好日向と阿蘇弥太郎はどこにいるやらわからない。戦死してしまったのかもしれないって心配していたわ。二人とも琉球に行っていたなんて驚きだわ」
「中条兵庫は将軍様の指南役なのですか」とサハチはあやに聞き返した。
「お師匠はそう言っていました」
「その線から将軍様に近づけそうだな」とウニタキがサハチに言った。
 サハチはうなづき、「京都に行ったら、何としてでも中条兵庫を探して会おう」と言った。
将軍様に会うつもりなのですか」と又太郎が驚いた顔をしてサハチに聞いた。
将軍様は無理でも重臣の方と会って、琉球の王様が将軍様と交易ができるようにしたいと思っているのです」
「成程。そうなると、琉球の船がここに来るわけですね」
「そうなります。その時はよろしくお願いいたします」
「任せて下さい」と又太郎は力強く言った。
 サハチは瀬戸内の水軍の事を又太郎から聞いた。
村上水軍は上関から鞆の浦までを縄張りとしていますが、隅から隅まで見張れるものではありません。島が多すぎて隠れる所はどこにでもあります。それでも、一文字屋が持って来てくれる銭のお陰で、小さな海賊どもは吸収する事ができました。始末に負えないのは言葉の通じない奴らです。大した数ではないのですが、朝鮮や明国から流れてきた海賊どもが悪さをしています。言葉が通じれば何とかする手立ても見つかるのですが、お互いに何を言っているのかわからんので、どうしようもありません」
 朝鮮や明国の海賊がこんな所まで来ているとは驚きだった。
 又太郎は笑うと、ヂャンサンフォンから明国の事を尋ねた。又太郎の質問は延々と続いて、夜も更けていった。
 翌朝、サハチたちは屋敷の庭で、いつものように静座(呼吸法)と武当拳の稽古をやった。又太郎とあやも参加した。稽古のあと、ヂャンサンフォンとシンシンの模範試合を見た二人は唖然とした顔をして、「凄い!」と唸り、今日一日だけでいいから、ここに滞在して、武当拳を教えてくれと頼んだ。
 先を急ぎたい気持ちはあるが、これも何かの縁だろうとサハチは滞在する事に決めた。
 屋敷の裏にある山を登って行くと広い草原があって、サハチたちはそこで、武術の稽古に熱中した。
 一番年下のイハチは同い年の孫三郎の娘のみおと一緒に稽古に励んでいた。イハチは十一歳の頃から兄たちと一緒に剣術の修行を始め、去年から島添大里(しましいうふざとぅ)の武術道場に通っていた。師範はサムレー大将の苗代之子(なーしるぬしぃ)(マガーチ)だった。
 又太郎の妹のあやはササより一つ年下だった。ササはあやが気に入ったようで、妹ができたみたいと喜んでいた。
 楽しい一日が過ぎ、その晩は、昨夜よりも砕けた宴となって、酒もうまかった。
 ファイチはヤマトゥ言葉は難しいとぼやいていた。今回の旅のために、ヤマトゥ言葉を学ぼうと思ってはいても、毎日が忙しくて、そんな暇はなかった。旅の間に覚えるしかないなと笑った。
 翌日、又太郎と別れて船出した。又太郎は護衛の船を二隻付けてくれた。その船を指揮するのはあやだった。あやの船のあとに続いて、サハチたちの船は狭い上関海峡を抜けた。海峡を抜けると島がいくつも見えてきた。潮の流れに乗って東へと進み、大小様々な島々の間を通って行き、未(ひつじ)の刻(午後二時)頃、津和地(つわじ)港に着いた。潮の流れが変わって、これ以上は進めないという。
 津和地港は津和地島怒和島(ぬわじま)の間にある港で、古くから風待ち、潮待ちの港として利用されていた。
 あやのお陰で、宿舎の手配もすんなりと行き、まだ日が高いからと言って、武当拳の稽古が始まった。
「あたしが身に付けて、兄上に教えてあげるわ」とあやは嬉しそうに笑った。
 次の日は蒲刈島(かまがりじま)まで行き、その次の日に鞆の浦に着いた。蒲刈島から鞆の浦までの間は島ばかりだった。こんなにも大小様々な島が散らばっていれば、潮の流れも複雑になるはずだった。進貢船(しんくんしん)が瀬戸内海を進むには経験豊かな水先案内人が必要だとサハチは実感し、上関に滞在して、村上水軍と親しくなったのは正解だったと思った。
 鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央にあって、満潮になると四方から鞆の浦めがけて潮が流れ、干潮になると鞆の浦から四方に潮が引いていく。兵庫から来た船も九州から来た船もここで潮待ちをしなければ先には進めず、古くより潮待ちの港として栄えていた。山と海に挟まれた狭い土地に家々が所狭しと建ち並び、大きな寺院や神社がいくつも建っていた。
 鞆の浦では一文字屋の取り引き相手である商人『三星屋(みつぼしや)』のお世話になった。三星屋と聞いて、サハチもウニタキも顔を見合わせた。ヤマトゥにも三星を名乗る者がいたとは驚いた。理由を聞いたら、三星屋の先祖は渡辺綱(わたなべのつな)という有名な武将で、家紋が三星に一文字だという。『一文字屋』の一文字は家紋からではなく、先祖が備前(びぜん)一文字派と呼ばれた刀鍛冶だったためだった。お互いに一文字の縁だと喜んで、取り引きをする事に決めたという。
 あやたちは決まった宿舎があるらしく、そちらに移り、あやだけが『三星屋』に泊まった。明日は別れなければならないので、あやは日が暮れても武当拳の稽古に熱中し、あやの熱意に付き合って、サハチたちも稽古に励んだ。
 翌日、あやは朝早くに帰って行った。
「京都からの帰りには因島の兄上を訪ねてね」とササに言ったが、その目は少し潤んでいた。
 ササも目を潤ませながら、「また会いましょうね」と手を振った。
 潮の流れが変わるのを待ち、正午頃になって、サハチたちは船出した。島と島の間を抜けて、申(さる)の刻頃から潮の流れが速くなり、日暮れ間近に到着したのは児島(こじま)の下(しも)の津(下津井)という港だった。
 下の津で、塩飽水軍の頭領、塩飽三郎入道が待っていた。サハチたちは塩飽三郎入道が用意してくれた宿屋に入った。
 塩飽三郎入道はちょっと変わった男だった。サムレーというよりはウミンチュ(漁師)の親方といった感じだ。真っ黒に日焼けして、頭は綺麗に剃っているのに、顔は髭だらけで、赤い鞘(さや)に赤い柄(つか)の長い太刀を肩にかついでいた。
 サハチたちが琉球から来たと言っても別に驚く事はなかったが、博多に置いて来た進貢船の話をすると、急に目の色を変えて、どんな船だとしつこく聞いてきた。サハチは説明したが、わけのわからない専門用語を使うので、まったくお手上げだった。
 塩飽三郎入道は唸って、一人で納得したように手を打つと、「博多に帰る時、配下の船大工を一人、一緒に連れて行ってくれ」と言った。
 サハチがうなづくと、塩飽三郎入道はサハチの手を握って喜んだ。
「わしらは武士ではない。わしらは特別な腕を持った職人の集団なんじゃ。潮の流れにも詳しいし、帆や舵(かじ)の扱い方にも優れ、素早く移動できる船も造っているんじゃよ。武士と違って、平家だの源氏だの、南朝だの北朝だのは、わしらには関係ない。わしらの腕を高く買ってくれた者のために働く。一文字屋はわしらを高く買ってくれたんじゃ」
 そう言って、塩飽三郎入道は豪快に笑った。話を聞いていて、サハチは奥間(うくま)の鍛冶屋(かんじゃー)たちに似ていると思った。こういう集団は是非とも味方にしなければならなかった。
「夜明けと共に船出しろ」と言って、塩飽三郎入道は帰って行った。
 塩飽三郎入道の言う通りに、サハチたちは夜明けと共に船出をして、正午前には牛窓(うしまど)港に着いた。正午には流れが逆になっていたので、のんびりしていたら牛窓まで来られなかったかもしれなかった。
 牛窓には一文字屋の店があり、サハチたちは一文字屋の屋敷に入って、のんびりと過ごした。

 

 

 

村上水軍全史   歴史を変えた水軍の謎 (祥伝社黄金文庫)   水軍の活躍がわかる本: 村上水軍から九鬼水軍、武田水軍、倭寇…まで (KAWADE夢文庫)