長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-114.報恩寺(改訂決定稿)

 島添大里(しましいうふざとぅ)グスクの刺客(しかく)襲撃事件から二十日が過ぎた。
 女子(いなぐ)サムレーたちはユーナが山南王(さんなんおう)の間者(かんじゃ)だったと知って驚いたが、自分たちを裏切らなかったので、いつの日か、また会える事を願っていた。マチルギも驚いて、もっとよく調べるべきだったと後悔していた。ユーナの代わりに、キラマ(慶良間)の島からハミーという娘がやって来て加わった。
 島添大里グスクを奪い取るのを失敗したのに、山南王のシタルーの悪夢は消えた。父親の亡霊に悩まされて寝不足が続く事もなく、シタルーはホッと胸を撫で下ろしていた。
 座波(ざーわ)ヌルがおかしいと疑問を持って、シタルーの周辺にいるヌルたちを調べたら、慶留(ぎる)ヌルがシタルーに呪いを掛けて、父親の悪夢を見させていた事がわかった。
 慶留ヌルはシタルーの従妹(いとこ)だった。母親は汪英紫(おーえーじ)の妹で島添大里ヌルだった。母親が亡くなったあと島添大里ヌルを継いで、汪英紫が山南王になると、汪英紫と一緒に島尻大里(しまじりうふざとぅ)に移って島尻大里ヌルになった。汪英紫が亡くなって、シタルーが山南王になると島尻大里ヌルの座をシタルーの妹のウミカナに譲って、慶留ヌルとなった。
 慶留ヌルにとって島添大里グスクは十歳から二十四歳まで過ごした地で、思い出も多く、何とかして取り戻したいと思っていた。母親のお墓も島添大里にあって、お墓参りもできなかった。シタルーが中山王(ちゅうざんおう)(思紹)と同盟したあと、慶留ヌルは覚悟を決めて、島添大里グスクの近くにある母親のお墓に行ってお祈りを捧げた。その時、母親から島添大里グスクを取り戻すようにと頼まれたのだった。慶留ヌルは母親と相談して、シタルーに暗示を掛け、悪夢を見るように仕向けた。勿論、母親の霊も慶留ヌルを助けた。
 座波ヌルが慶留ヌルの行動に気づいた時はすでに手遅れで、シタルーは島添大里攻めの計画に熱中していた。座波ヌルもシタルーの作戦がうまくいくように祈ったが、失敗してしまった。座波ヌルは慶留ヌルを何とか説得して、シタルーの悪夢をやめさせた。
 襲撃に失敗したのは刺客の誰かが裏切ったのに違いないが、一体、誰が裏切ったのか、わからなかった。シタルーは粟島(あわじま)(粟国島)からアミーを呼んだが、アミーはいないという。島添大里の噂から、間者だった妹を心配して現れた姉も殺されたと聞いて驚いた。アミーとユーナの遺体を回収しようとしたが、どこに葬られたのか見つける事はできなかった。シタルーは豊見(とぅゆみ)グスクで子供たちに読み書きを教えているアミーとユーナの父親、中程大親(なかふどぅうふや)に謝った。
 やはり、座波ヌルが言ったように、まだ時期が早かったのかもしれない。焦らずに時期を待とうと思い、シタルーは来年の正月に送る進貢船(しんくんしん)の準備に励んだ。


 浮島(那覇)ではヤマトゥ(日本)に行った交易船が、二隻の旧港(ジゥガン)(パレンバン)の船を連れて帰って来た。メイユー(美玉)から、旧港の船が来る事を聞いていたので、準備を整えて待っていた。何の問題もなく、旧港の使者たちを迎え入れる事ができた。
 交易船を追って来たかのように、ヤマトゥの商人たちの船も続々とやって来た。昨日まで閑散としていた浮島が急に賑やかになって、人々が忙しそうに走り回っていた。
 旧港の使者たちはファイチ(懐機)と交易担当の北谷大親(ちゃたんうふや)に任せて、サハチ(中山王世子、島添大里按司)は交易船の使者たちを迎えた。
 総責任者のマタルー(与那原大親)、正使のジクー(慈空)禅師、サムレー大将の久高親方(くだかうやかた)、女子サムレーの隊長を務めたマナミー、皆、元気な顔で帰って来た。
「チタ、クニ、サキ、ナミーの四人はササたちと一緒に、あとから帰って来ます」とマナミーがサハチに言った。
「ササたちはシンゴ(早田新五郎)の船で帰って来るのか」
「佐敷ヌル様が調べたい事があって、奄美の島に寄って来るとの事です。クルシ(黒瀬大親)様も一緒です」
「なに、クルシも残ったのか」
「旧港のシーハイイェン(施海燕)様、ツァイシーヤオ(蔡希瑶)様、シュミンジュン(徐鳴軍)様も残っています」
「なに、シーハイイェンたちも残ったのか」
 『小松の中将様』のお芝居のために、奄美の島に寄って来るのだろうが、山北王(さんほくおう)(攀安知)の支配下になってしまった奄美の島で、問題が起きなければいいがとサハチは心配した。
 会同館(かいどうかん)の帰国祝いの宴(うたげ)で、マタルーから佐敷ヌルとササたちが将軍様の奥方様と一緒に熊野に行ったと知らされた。
「なに、また熊野まで行ったのか」とサハチは驚いた。
「熊野は山全体が大きなウタキ(御嶽)のようで、神気がみなぎっているとササは言っていました。一度、その魅力に取り憑かれると、二度三度と行きたくなるようです。旧港の娘たちも一緒に行きました」
「シーハイイェンたちもか」
「サタルーたちもです」
「サタルーたちもササたちと行動を共にしていたのか」
 サタルーがナナを追い掛けているなと思い、「困った奴だ」とサハチは独り言を言って、マタルーを見ると、「それで、京都の様子はどうだった?」と聞いた。
「九年振りのヤマトゥ旅でしたが、博多も随分と変わっていました。初めて行った京都の賑わいには驚きましたよ。まさしく、ヤマトゥの都です。明国(みんこく)の応天府(おうてんふ)(南京)とは違って、何というか、ヤマトゥらしい都でした。言葉も博多や対馬(つしま)とはちょっと違って、華やかな感じがしました。勘解由小路(かでのこうじ)殿(斯波義教)が歓迎の宴を開いてくれまして、増阿弥(ぞうあみ)殿の田楽(でんがく)という舞台を観ました。一流の芸というのは凄いと感激しましたよ」
「ほう。増阿弥殿の田楽を観たのか。佐敷ヌルも観たのか」
「俺たちが観た時、マシュー姉(ねえ)は熊野に行っていたけど、あとで、高橋殿のお屋敷で観たようです」
「そうか。佐敷ヌルが増阿弥殿の芸を観たら、琉球のお芝居ももっと素晴らしいものになるだろう」
「高橋殿ですが、綺麗な人ですね、あんな美人(ちゅらー)、初めて見ましたよ」
「高橋殿に会ったのか」
「等持寺(とうじじ)にササたちを迎えに来た時に挨拶にみえました。兄貴に会いたいと言っていましたよ」
「何を言うんだ」と言いながら、サハチはマチルギの姿を探した。
 マチルギは女子サムレーたちと一緒に『天使館』に料理を運ぶのを手伝っていて、まだ来ていないようだった。
「お前、そんな事をマチルギには言うなよ」
 マタルーは楽しそうに笑って、
「やはり、何かあったのですね」と言った。
「何もない。一緒にお酒を飲んで酔い潰れただけだ。高橋殿は先代の将軍様の側室で、今の将軍様の母親代わりの人なんだ。ササが気に入られて親しくしているけど、本来なら会う事もできない雲の上のお人なんだよ」
将軍様の母親代わりにしては若すぎるような気もしますが」
将軍様の母親は将軍様が十四、五歳の時に亡くなって、高橋殿は先代の将軍様から、今の将軍様を守るように頼まれたらしい」
「そうだったのですか‥‥‥ササの話だと、舞の名人で、武芸も一流だそうですね。一目見て、マシュー姉と仲よくなったようです」
「そうだろうな」とサハチは笑ってから、「対馬はどうだった?」と聞いた。
 マタルーは急に嬉しそうな顔をして、
「ユキさんが男の子を産みました」と言った。
「なに?」とサハチは驚いた顔でマタルーを見た。
「イトさんと一緒に明国の商品を船に積んで、あちこちに行って商売をしていたのですが、帰って来たら、だんだんとお腹が大きくなって、十一月の末に元気な男の子を産みました」
「ほう、そうだったのか。琉球に来た時、すでにお腹にいたんだな」
「ルクルジルー(六郎次郎)殿の跡継ぎが生まれたと皆、大喜びでした」
「そうか‥‥‥跡継ぎが生まれたか」
 サハチは嬉しそうに何度もうなづいていた。
「三郎という名前です。琉球風に言ったらサンルーですね」
「サンルーザ(早田三郎左衛門)殿の名前をもらったんだな」
「そのようです」
「サンルーか。サンルーはユキのお腹の中から、琉球の景色を見ていたに違いない。ミナミと同じように琉球対馬の架け橋になってくれるだろう。ところで、イトの商売の事だが、女だけで大丈夫なのか」
「女だけではありませんよ。武装した兵も護衛として付いて行っています」
「そうか。それなら大丈夫だな」
「サイムンタルー(早田左衛門太郎)殿ですが、浅海湾(あそうわん)内の人たち全員を助けるには、やはり、倭寇(わこう)働きをしなければならんのかと悩んでいました」
琉球の交易だけでは駄目なのか」
「貧しい浦々は交易をする元手もありませんからね。サイムンタルー殿が食糧を分け与えると言っても、わしらは乞食(こじき)ではない。自分の食い扶持(ぶち)は自分で手に入れると言って、朝鮮(チョソン)に行って倭寇働きをすると言い出すようです。朝鮮に行かれたら、サイムンタルー殿としても面目(めんぼく)がつぶれてしまうので、明国まで連れて行かなければならないと言っていました。でも、昔と違って、明国も警戒が厳重になっている。行けば、かなりの損害が出てしまうだろうと言っていました」
「サイムンタルー殿も大変だな」
「来年はルクルジルー殿が琉球に来るそうですよ」
「なに、ルクルジルーが来るのか」
「久し振りに会いましたが、立派な男になっていたので驚きましたよ」
「お前が前回、行った時に、ユキがルクルジルーに嫁いで行ったんだったな」
「そうです。ユキさんが嫁いで行ったあと、初めて船越に行って、ルクルジルー殿に会ったのです。あの時は、ただのガキ大将といった感じだったけど、武将という貫禄が付いていましたよ」
「サイムンタルー殿が朝鮮に行ったのは、ルクルジルーがまだ十歳の時だったらしい。色々な事があったのだろう。そう言えば、お前の留守中、大きな台風が来てな、与那原(ゆなばる)がやられたんだ」
「えっ、与那原が‥‥‥」とマタルーは心配そうな顔をした。
「みんな、グスクに避難していたので無事だった。海辺のウミンチュ(漁師)の家はかなりつぶれたが、もう再建も終わっている。マカミーがサムレーたちを顎(あご)で使っていたぞ。その姿を見て、親父(タブチ)によく似ていると思ったよ」
「そうでしたか‥‥‥よかった」と安心したあと、
「マカミーだけど、俺も時々、親父に似ていると思いますよ」とマタルーは楽しそうに笑った。
「親父はまた正使として明国に行ったよ」とサハチは言った。
「毎年、明国に行かないと気が済まないようですね」
 マチルギが顔を出した。
「佐敷ヌルもササたちも帰って来ないんですって?」
「そのようだ。対馬で正月を迎えるらしい」
対馬の正月か‥‥‥今頃、対馬は雪が降っているかもね」
「そうだな」とサハチも美しい雪景色を思い出していた。
「旧港の通事(つうじ)(通訳)のワカサさんを連れて来たわ」とマチルギは言った。
「慈恩禅師(じおんぜんじ)様に会いたいんですって」
「ワカサは慈恩禅師殿を知っているのか」
「九州にいた時、教えを受けたらしいわ」
「へえ、そうだったのか」とサハチは慈恩禅師と懐かしそうに話をしているワカサを見た。
 サハチはマタルーと別れて、慈恩禅師の所に行った。越来(ぐいく)ヌルも来ていて、馬天(ばてぃん)ヌルと一緒にユミーとクルーから旅の話を聞いていた。ヌルたちで帰って来たのは、ユミーとクルーの二人だけだった。
按司殿」とワカサはサハチに挨拶をして、「ジクー禅師殿から、慈恩禅師殿が琉球にいると聞いて驚きました」と言った。
「わしが若い頃、慈恩禅師殿が平戸(ひらど)にやって来て、しばらく滞在していました。その時、武芸の指導を受けたのです。もう二十五年も前の事です。琉球で師匠に会えるなんて、まるで、夢でも見ているようです」
「わしが平戸に行ったのは、喜次郎が嫁をもらったばかりの頃じゃったのう。嫁さんは元気でおるかね」と慈恩禅師がワカサに聞いた。
 ワカサの本当の名前は喜次郎というようだ。
「幸い、かみさんも子供たちも元気にしていたので助かりました。わしは二十年近く前に明国に行って、明国の水軍の鉄炮(てっぽう)(大砲)にやられてしまったのです。船は沈んでしまって、何日も海の上をさまよっていた所を明国の海賊に助けられたのです。リャンダオミン(梁道明)という広州では名の知られた海賊でした。師匠のお陰で、武芸の腕を認められて、リャンダオミンの護衛を務める事になったのです。やがて、旧港に行って、リャンダオミンは旧港の王様になります。リャンダオミンが引退したあと、シーハイイェンの父親のシージンチン(施進卿)が王様になって、今に至っているというわけです。わしは四年前、王様の命令でヤマトゥに行きました。そして、十六年振りにかみさんと子供たちに再会したのです。かみさんも子供たちもわしは死んだものと思っていました。わしが平戸を離れた翌年に生まれた娘もいて、わしは驚きました。かみさんは一人で三人の子供を立派に育てていました。そのまま、家族と一緒に暮らしたいと思いましたが、それはできません。旧港にもかみさんと子供がいるのです。まさか、日本に帰れるなんて思ってもいなかったので、向こうで家庭を持ったのです。今年も平戸に寄って来ましたが、かみさんは快く迎えてくれました」
「いい嫁さんじゃよ」と慈恩禅師は言った。
 いつの間にか、遊女(じゅり)のマユミがサハチの隣りに座って、ワカサの話を聞いていた。
「平戸の松浦党(まつらとう)は勝連(かちりん)に来ているんじゃないですか」とサハチはワカサに言った。
「多分、そうでしょう。わしも二度、勝連に行った事があります。勿論、浦添(うらしい)や浮島にも行きました。もしかしたら、今、倅が勝連にいるかもしれません」
「明国に向かうのは来年の正月です。息子さんに会いに勝連に行って来たらいいですよ。案内させますよ」
「ありがとうございます。わしは何もせんのに、倅は立派な船乗りになったようです」
「ヤマトゥとの交易なのですが、ヤマトゥの刀が欲しいのであれば、わざわざヤマトゥまで行かなくても、ここまで来れば手に入りますよ」とサハチはワカサに言った。
「シーハイイェンやメイユーからその話は聞いております。実はわしもその方がいいと思ってはいるのですが、王様は日本まで行って来いと言うし、わしも家族の事が心配だったので、日本まで行ったのです。家族の無事もわかったので、何とか、王様を説得してみます」
「よろしくお願いします。琉球をもっと栄えさせたいのです」
 その後、サハチは明国の海賊と過ごした日々をワカサから聞いた。他人事(ひとごと)のように話しているが、かなり危険な事を何度もやって来たようだった。
 次の日、ワカサは勝連に向かった。ワカサと入れ違いのように朝鮮(チョソン)に行った使者たちが勝連から首里(すい)に帰って来た。今年も大量の綿布(めんぷ)を持って来たというので、サハチは喜び、遊女屋(じゅりぬやー)『宇久真(うくま)』で帰国祝いの宴を開いた。
 正使の本部大親(むとぅぶうふや)の話によると、朝鮮の宮廷では、去年、ヤマトゥの将軍が明国の使者を追い返した事が話題になっていて、戦(いくさ)にならなければいいがと心配しているという。
「もし、明国とヤマトゥが戦になったとして、朝鮮も関係あるのか」とサハチは聞いた。
「明国とヤマトゥが戦になれば、百年余り前に起きた蒙古(もうこ)襲来(元寇)の時のような大がかりな戦になって。朝鮮は先鋒を務めさせられるのではないかと心配しているようです」
 蒙古襲来と言えば、対馬壱岐島(いきのしま)が全滅して、博多が焼け野原になった大戦(うふいくさ)だった。あんなのが起こったら大変な事になる。永楽帝(えいらくてい)は本気でヤマトゥを攻めるつもりなのだろうか。永楽帝が送った使者が追い返されたのだから、面目を潰されて怒るかもしれなかった。
永楽帝は怒っているのか」とサハチは本部大親に聞いた
「それを確かめるために、朝鮮の王様(李芳遠)は明国に使者を送ったようです」
「そうか。怒りを静めてくれればいいが」
「富山浦(プサンポ)(釜山)の五郎左衛門殿も心配しておりました」
 サハチは永楽帝が信じている真武神(ジェンウーシェン)に、永楽帝の怒りを抑えてくれるように祈った。


 年が明けて、永楽十一年(一四一三年)になった。素晴らしい初日の出も拝めて、今年もいい年になりそうだった。
 佐敷ヌルが留守なので、サスカサ(島添大里ヌル)は忙しかった。島添大里(しましいうふざとぅ)、佐敷、手登根(てぃりくん)で新年の儀式を行なわなければならず、ハルとシビーに手伝わせていた。ハルとシビーを引き連れて歩く姿が、ササによく似ていた。サスカサがハルと仲よくなったお陰で、サハチに対する風当たりも弱まってきて、サハチも一安心していた。ナツが言うように、時が解決してくれたようだった。
 運玉森(うんたまむい)ヌル(先代サスカサ)のもとで修行していたマチとサチは修行を終えて、マチは佐敷の若ヌル、サチは平田のフカマ若ヌルになった。マチはサスカサと一緒に佐敷で新年の儀式を行ない、サチは平田でフカマヌルと一緒に新年の儀式を行なった。
 正月の半ば、山南王の進貢船が船出して行った。中山王の進貢船も準備は整っているのだが、シーハイイェンたちが帰って来ないと船出はできなかった。
 その頃、ナンセン(南泉)禅師のために建てていたお寺が、首里グスクとビンダキ(弁ヶ岳)の中間辺りの静かな森の中に完成した。
 ナンセン禅師によって、『報恩寺(ほうおんじ)』と名付けられた。その名前には、長い間、お世話になった琉球に対して、その恩に報いるために、立派な学者や僧侶を育てるというナンセン禅師の意気込みが感じられた。
 首里グスクの北にある大聖寺(だいしょうじ)は子供たちに読み書きを教えるお寺で、報恩寺は、さらに勉学に励みたい者が通う学問所で、明国の『国子監(こくしかん)』を真似したものだった。学問を教えるのはナンセン禅師とすでに隠居している物知りを集めた。ファイチ(懐機)の紹介で、以前、通事をやっていた者が明国の言葉を教える事に決まって、チョルも朝鮮の言葉を教えてくれるという。クルシにも船乗りを引退したら航海術を教えてもらうつもりだった。さらに、医術や造船術、地理や歴史など、何でもいいから他人(ひと)より詳しく知っている者たちを集めなければならなかった。
 立派な山門にナンセン禅師が書いた『報恩寺』という扁額(へんがく)が掲げられ、境内は大聖寺よりも広く、本堂、法堂、庫裏(くり)は大聖寺と似たような造りで、さらに書庫と僧坊があった。書庫は書物を読む場所で、僧坊は勉学に励む者たちの宿舎だった。書庫には、ヤマトゥや明国、朝鮮の書物が置かれて、焼け落ちる前に浦添グスクから運び出した書物やサミガー大主(うふぬし)が集めたヤマトゥの書物なども置かれたが、まだまだ少なく、これから様々な書物を集めなければならなかった。
 広い境内を見回しながら、十年後にはここから使者や重臣になる者たちが現れる事を願った。サハチはふと、朝鮮の『成均館(ソンギュングァン)』を思い出した。今はお寺の周りに人家はないが、成均館のように人々が集まって来て、賑やかな村ができればいいと思った。
 本堂に鎮座している御本尊のお釈迦(しゃか)様は、新助が彫ったものだった。龍しか彫らなかった新助が、思紹(ししょう)が彫ったお釈迦様に刺激されて、仏像を彫る事に興味を覚えたようだった。龍のように鋭い顔付きのお釈迦様だが、しばらく見ていると、慈悲深い顔に変わっていくような気がした。誰かに似ているようだと思って、よく考えてみたら、一徹平郎(いってつへいろう)の顔に似ていた。
 ナンセン禅師、ソウゲン(宗玄)禅師、慈恩禅師、ジクー禅師の四人によって、開眼供養(かいげんくよう)が行なわれた。ソウゲン禅師の弟子になったシビーの弟のエイスク(裔則)も来ていて、しばらく見ないうちに、僧侶らしい顔付きになっていた。ナンセン禅師も二人の教え子を弟子にしていた。
 お経が響き渡って、厳かな儀式が始まった。ありがたいお経を聴きながら、首里が都らしくなって行くのをサハチは実感していた。
 儀式が終わると、あとは賑やかにお祭り騒ぎとなった。
 次にジクー禅師のお寺を建てるとサハチが言ったら、
「わしは使者としてヤマトゥに行っているので、半年は琉球にはいない。わしのお寺は、使者を引退してからでいい。慈恩禅師殿のお寺を先に建ててくれ」とジクー禅師は言った。
 サハチとしても、ジクー禅師が使者をやめたら困るので、次には慈恩禅師のお寺を建てる事に決めた。修理亮(しゅりのすけ)から、ヤマトゥにある慈恩禅師のお寺の話を聞いているので、慈恩禅師のお寺は、武術道場にしようと決めていた。今ある武術道場の隣りにお寺を建てて、キラマの修行者の中から才能のある若者を選んで、そこで鍛えようと思った。
 その夜、遊女屋『宇久真』で慰労の宴が開かれて、サハチと思紹は一徹平郎たちをねぎらった。
 話の成り行きから、一徹平郎の名前の事が話題になって、サハチは『平郎』のいわれを知った。
 本当の名前は平太郎だった。子供の頃、大工の修行に入った棟梁(とうりょう)の名も平太郎だった。名前が同じだと具合が悪い。お前はタヌキに似ているから、『太』の字を抜いて、『平郎』にしろと言われて、以来、『平郎』と呼ばれているという。サハチも思紹もタヌキという動物を知らなかったが、平郎の話は面白かった。『一徹』は、平郎が頑固(がんこ)すぎるので、知らないうちに皆が呼び始めて、いつしか通り名になっていたという。
 佐敷ヌルとササたちが帰って来たのは正月の晦日(みそか)になっていた。知らせを聞いて、サハチはすぐに馬天浜(ばてぃんはま)に向かった。今年も三隻の船で来ていた。
 佐敷ヌル、ササたち、サタルーたち、シーハイイェンたちはすでに上陸していて、みんなの顔を見て、サハチは安心した。
奄美大島(あまみうふしま)に寄って来ると聞いて、心配したぞ。大丈夫だったのか」とサハチは佐敷ヌルに聞いた。
「大丈夫よ。あたしたちには神様が付いているもの。安全を確認してから上陸したのよ」と佐敷ヌルは言って、「いい旅だったわ」と満足そうに笑った。
「お土産を二人連れて来たわ」とササが言った。
「お土産?」
 ササは小舟(さぶに)を指さした。サハチが見ると山伏と僧侶が乗っていた。
「熊野の山伏と、慈恩禅師様を探していたお坊さんよ」
「ほう」と言いながら、サハチが二人を見ていたら、
「親父、最高の旅だったよ」とサタルーが嬉しそうな顔をして言った。
「またお世話になります」とシーハイイェンとツァイシーヤオが笑って、シュミンジュンが、よろしくというように手を上げた。
「大歓迎ですよ」とサハチは言った。
「サハチ!」と誰かが呼んだ。
 振り返ると、シンゴと一緒に同年配の二人の男がサハチを見ながら笑っていた。その笑顔を見て、サハチは一瞬にして十六歳の頃に戻った。
「マツとトラか」とサハチは言った。
「久し振りじゃのう」とトラ(大石寅次郎)が言って、
琉球まで、お前に会いにやって来たぜ」とマツ(中島松太郎)が言った。
「おう、よく来たな」とサハチは言って、二人を見ながら、なぜか、目が潤んできていた。

 

 

 

松浦党研究とその軌跡