長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-119.桜井宮(改訂決定稿)

 手登根(てぃりくん)グスクのお祭り(うまちー)で、佐敷ヌルの新作のお芝居『小松の中将様(くまちぬちゅうじょうさま)』が上演された。
 手登根の女子(いなぐ)サムレーも旅芸人も『小松の中将様』を上演したが、台本が違っていた。
 最初に演じられた女子サムレーのお芝居は、なるべく歴史を忠実に再現した物語で、小松の中将(平維盛(たいらのこれもり))の家来の与三兵衛(よそうひょうえ)が語り手となって、お芝居が進行して行った。
 後白河法皇(ごしらかわほうおう)の五十歳を祝う宴(うたげ)で、小松の中将が華麗な舞を披露して、みんなから喝采を浴びる場面から始まった。小松の中将の衣装を始めとして、法皇の妃(きさき)や官女(かんじょ)たちの衣装が豪華絢爛(ごうかけんらん)で、平家の全盛期はこんなにも華やかだったのかと観客たちはうっとりしながら眺めていた。その後、小松の中将の父親の病死があって、安徳天皇の即位の式典が行なわれるが、喪(も)に服している小松の中将は呼ばれず、平家の中心は叔父の内府(だいふ)(平宗盛)に移ってしまう。やがて、源氏が蜂起して、小松の中将は源氏討伐(とうばつ)の総大将に任命される。
 戦勝祈願のために訪れた厳島(いつくしま)神社で、小松の中将は内侍(ないし)(巫女)のアキシノと出会う。小松の中将は関東と北陸に出陣したが、関東の出陣は省略されて、北陸の倶利伽羅(くりから)峠で木曽次郎(きすぬじるー)(源義仲)と戦う。小松の中将と木曽次郎の一騎打ちもあって観客を喜ばせた。一騎打ちは引き分けに終わるが、木曽次郎の夜襲に遭って平家軍は敗れてしまう。
 負け戦の大将になってしまった小松の中将は、厳島神社に行ってアキシノに慰められる。平家は京都を追われて、船に乗ってあちこちさまよい、讃岐(さぬき)の屋島に落ち着く。叔父や従兄弟(いとこ)たちが戦の仕度をしている中、小松の中将はアキシノを連れて、屋島を離れて熊野に向かう。熊野別当湛増(たんぞう)の助けで、小松の中将は琉球に渡って今帰仁按司(なきじんあじ)となり、めでたしめでたしで終わった。色々な出来事を説明する会話の場面が多くて、ちょっと難しいお芝居だった。
 一方、旅芸人たちのお芝居は難しい場面は省いて、子供たちにもわかるようになっていた。
 最初の場面は女子サムレーのお芝居と同じ、祝宴で華麗に舞う小松の中将で、次の場面では、早くも厳島神社での小松の中将とアキシノの出会いが描かれた。二人は会った途端にお互いに惹かれ合って、再会を約束して別れる。その後、アキシノが語り手となって話が進んで行った。
 小松の中将が総大将になって出陣して、木曽次郎と戦う場面は同じだが、アキシノも一緒に出陣していて、木曽次郎の側室の巴御前(とぅむいぬうめー)と一騎打ちをして、観客を喜ばせた。
 敵の夜襲に遭って平家軍は敗れ、小松の中将とアキシノはお互いに助け合って京都に逃げる。その後、都を落ちた平家は屋島に落ち着くが、平家の時代はもう終わったので、新天地を求めて、アキシノと一緒に琉球に行くという話になっていた。
 アキシノが勇ましい女子サムレーのように描かれていて、アキシノが観たら驚くだろうが、旅芸人のお芝居の方が今帰仁の人たちに喜ばれるような気がした。どちらのお芝居も小松の中将が安須森(あしむい)を滅ぼした事は語られていなかった。
 小松の中将を演じたのは女子サムレーがヌジュミ、旅芸人がフクだった。ヌジュミは手登根の娘で、手登根大親の妻、ウミトゥクに鍛えられて女子サムレーになった。さらにウミトゥクの期待に応えて、主役の座を勝ち取っていた。どちらの小松の中将も美男子で、平家の御曹司(おんぞうし)という役を見事に演じていた。アキシノを演じたのは女子サムレーがアキ、旅芸人がカリーだった。アキシノは旅芸人のお芝居の方が出番も多くて重要な役どころだった。カリーは可愛くて芯の強いアキシノをうまく演じていた。
 観客の反応を見ていた佐敷ヌルは、お祭りのあと、二つの台本を手直ししてから、二つの台本の写しを旅芸人の座頭(ざがしら)に渡した。旅芸人たちは五日間、稽古を積んだあと、今帰仁へと旅立って行った。
 手登根グスクのお祭りから十日後の七月四日、ヌルたちによる『安須森参詣』が行なわれた。浮島(那覇)の『那覇館(なーふぁかん)』に集まったヌルたちは、ヒューガ(日向大親)の船に乗って安須森を目指した。
 馬天(ぱてぃん)ヌルの呼び掛けで、各地のヌルたちが集まって来た。集まったヌルたちを見ようと見物人も大勢、押し掛けて来て、浮島はお祭りのような賑やかさだった。
 安須森ヌルを継ぐ佐敷ヌルも当然、娘のマユを連れて参加した。マユは十二歳になって、ヌルになるための修行を始めていた。島添大里(しましいうふざとぅ)ヌルのサスカサ、運玉森(うんたまむい)ヌル(先代サスカサ)、麦屋(いんじゃ)ヌル(先代与論ヌル)とカミー、佐敷の若ヌルのマチ、平田のフカマヌルと若ヌルのサチ、久高島のフカマヌルとヌルの修行を始めた娘のウニチルが参加した。中部からは中グスクヌル、仲順(ちゅんじゅん)ヌル、喜舎場(きさば)ヌル、越来(ぐいく)ヌル、勝連(かちりん)ヌル、北谷(ちゃたん)ヌルが参加した。久場(くば)ヌル(先代中グスクヌル)も行きたいようだったが、赤ん坊がいるので、次の機会に行くと言って諦めた。
 東方(あがりかた)からは大(うふ)グスクヌル、玉グスクヌル、知念(ちにん)ヌル、垣花(かきぬはな)ヌル、糸数(いちかじ)ヌル、志喜屋(しちゃ)ヌル、久手堅(くでぃきん)ヌルと佐宇次(さうす)の若ヌル、八重瀬(えーじ)ヌル、米須(くみし)ヌル、玻名(はな)グスクヌル、具志頭(ぐしちゃん)ヌルが参加して、山南王の領内からは豊見(とぅゆみ)グスクヌル、島尻大里(しまじりうふざとぅ)ヌル、大村渠(うふんだかり)ヌル、小禄(うるく)ヌル、李仲(りーぢょん)ヌル、座波(ざーわ)ヌル、照屋(てぃら)ヌル、糸満(いちまん)ヌル、真壁(まかび)ヌル、伊敷(いしき)ヌル、真栄平(めーでーら)ヌル、新垣(あらかき)ヌル、与座(ゆざ)ヌル、慶留(ぎる)ヌルが参加した。これだけのヌルたちが一堂に会するのは初めての事で、『那覇館』は不思議な霊気に包まれていた。
 ヌルたちの護衛役としてヂャンサンフォン(張三豊)、飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)、二階堂右馬助(にかいどううまのすけ)が付いて行った。修理亮はカナから一緒にヤマトゥ(日本)に行こうと誘われたが断って、ヂャンサンフォンのもとで改めて修行を積んでいた。右馬助は相変わらず修行三昧(ざんまい)で、また大きな壁にぶつかっていた。気分転換じゃとヂャンサンフォンに言われて、ぼさぼさの髪の毛も伸び放題の髭も切って、やって来たのだった。
 浮島を出帆したヒューガの船は長浜に寄って東松田(あがりまちだ)ヌルと若ヌル、瀬名波(しなふぁ)ヌルを乗せて、仲泊(なかどぅまい)に寄って山田ヌル、伊波(いーふぁ)ヌル、安慶名(あぎなー)ヌルを乗せて、恩納(うんな)で恩納ヌル、名護(なぐ)で名護ヌルと屋部(やぶ)ヌルを乗せて、名護の『御崎の御宮(うさきぬうみや)』でお祈りをして、昼食を取った。本部(むとぅぶ)に寄って本部ヌルを乗せて、親泊(うやどぅまい)に寄って志慶真(しじま)ヌルを乗せた。騒ぎが起きそうなので、今帰仁にいる今帰仁ヌルと先代の浦添(うらしい)ヌルには声を掛けていなかった。運天泊(うんてぃんどぅまい)で勢理客(じっちゃく)ヌルを乗せて、仲尾泊(なこーどぅまい)で羽地(はにじ)ヌルを乗せて、屋嘉比(やはび)に寄って国頭(くんじゃん)ヌルと屋嘉比ヌル、屋嘉比のお婆も乗せて、奥間(うくま)に寄って奥間ヌルと娘のミワを乗せた。ミワはまだ十歳で、ヌルの修行を始めていないが、佐敷ヌルに言われて連れて来た。ミワはカミー、マユ、ウニチルとすぐに仲よくなった。
 宜名真(ぎなま)に着いたのは日が暮れる一時(いっとき)(二時間)ほど前だった。宜名真のウミンチュ(漁師)たちは大きな船が来たので何事だと驚き、小舟(さぶに)に乗ってヌルたちを迎えに行った。
 安須森の麓(ふもと)の辺戸(ふぃる)の村(しま)に着くと、辺戸ヌルが驚いた顔をして一行を迎えた。
「ヌルたちがこんなにも大勢、やって来るなんて、まるで、夢のようです」と辺戸ヌルは涙を流しながら喜んだ。


 その頃、ヤマトゥ(日本)に行ったササたちは京都に着いていた。京都では梅雨になっても雨が降らず、日照りが続いていて、あちこちの寺院で雨乞いの祈祷(きとう)が行なわれていた。
 ササたちはいつものように高橋殿の屋敷に入ったが、高橋殿は留守だった。五月九日に高橋殿の父親、道阿弥(どうあみ)が亡くなって、法要のために近江(おうみ)(滋賀県)に行っていた。使者たちが京都に着いて、ササたちも行列に加わり、その後、将軍様の御所に移ったが、御台所様(みだいどころさま)(将軍義持の妻、日野栄子)のお腹が大きかった。
「ごめんなさいね。今年はどこにも行けそうもないわ」と御台所様は残念そうな顔をしてササに言った。
「何を言っているのですか。おめでたい事じゃないですか。立派なお子さんを産んでください」とササはお祝いを言った。
 船岡山に挨拶に行ったら、スサノオの神様もいなかった。何だか、今年はついていないようだとササは思った。
 それでも、京都に着く前に、児島(こじま)の新熊野三山(いまくまのさんざん)に寄って、英祖(えいそ)様のお父様、グルーの事はちゃんと調べていた。カナ(浦添ヌル)がついていて、グルーのお墓を見つける事ができ、カナは神様から詳しい事情を聞いていた。
 五月の末に坊津(ぼうのつ)に着いて、珍しく雨が降っていなかったので、梅雨はもう明けたのかと喜んでいたら、今年の梅雨は雨が降らないと皆が困っていた。坊津で『一文字屋』の船に乗り換えて、交易船と一緒に博多に向かった。
 博多で豊玉姫(とよたまひめ)のお墓参りをしたが、残念ながら玉依姫(たまよりひめ)の神様はいなかった。一緒に来たユンヌ姫は探しに行ってくると言って、どこかに行った。
 交易船より先に博多を発って、上関(かみのせき)で村上水軍のあやと再会して、児島に向かった。児島に着いたのは六月の二十日で、福寿坊(ふくじゅぼう)の案内で、熊野権現(くまのごんげん)に向かった。熊野の本宮(ほんぐう)とそっくりな新熊野(いまくまの)本宮があって、その周りには大きな寺院や宿坊(しゅくぼう)が建ち並んでいて、多くの山伏たちがいた。
 福寿坊が所属している中之坊(なかのぼう)に行って、その宿坊にお世話になった。その日は今熊野本宮に参拝して、その近くにある桜井宮(さくらいのみや)のお墓にお祈りを捧げた。桜井宮のお墓は大きな池の中にある島にあって、その島には立派な橋が架かっていた。
 桜井宮覚仁法親王(かくにんほうしんのう)は後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の皇子で、後鳥羽天皇安徳天皇の弟だった。後鳥羽天皇安徳天皇が平家と一緒に都落ちしたあと、祖父の後白河法皇(ごしらかわほうおう)によって三歳で天皇になった。十九歳の時に、三歳の息子(土御門(つちみかど)天皇)に天皇の座を譲って上皇となった。その年に、桜井宮は生まれている。
 後鳥羽上皇は祖父を真似して、上皇になるとすぐに熊野御幸(ごこう)を行なって、建春門院(けんしゅんもんいん)の孫の後鳥羽上皇鳥居禅尼(とりいぜんに)に歓迎された。その後、後鳥羽上皇は毎年、熊野御幸を行なっている。
 桜井宮は幼い頃に出家して、十二歳になった時、父と一緒に熊野に行って熊野別当(くまのべっとう)に預けられた。当時の別当湛増(たんぞう)の弟の湛政(たんせい)で、湛政は鳥居禅尼と相談して、先々代の別当を務めた行快(ぎょうかい)の息子の尋快(じんかい)を桜井宮の師匠に選んだ。尋快は鳥居禅尼の孫で、弓矢の名人だった父親に劣らず武芸に秀でていて、山伏としても厳しい修行を積んだ先達(せんだつ)山伏だった。
 尋快を師匠として、熊野の山々で厳しい修行を積んで先達山伏になった桜井宮は、二十歳になった年に師匠と一緒に京都に帰った。翌年の春、親王宣下(しんのうせんげ)によって法親王になり、師匠と共に東国へ旅に出た。鎌倉幕府の様子を探るためだった。
 鎌倉に滞在していた翌年の正月、将軍様が殺されるという大事件が起こった。三代目の将軍、実朝(さねとも)には跡継ぎがいなかった。幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしたが、後鳥羽上皇は断った。将軍のいない今こそ、幕府を倒そうと後鳥羽上皇は考えていた。
 幕府の混乱状態を見た桜井宮は師匠と共に京都に帰って、後鳥羽上皇と倒幕の計画を練った。師匠の尋快は熊野の山伏や水軍を味方に付けるために熊野に帰り、桜井宮は父親の倒幕に反対して備前(びぜん)の児島に下った。倒幕に反対したというのは偽装で、隠密裏に児島の山伏と水軍を味方に付けるためだった。
 承久三年(一二二一年)、後鳥羽上皇鎌倉幕府の執権(しっけん)、北条義時(ほうじょうよしとき)の追討の院宣(いんぜん)を発して、兵を挙げた(承久の乱)。各地の武士たちが上皇のために立ち上がるに違いないと思われたが、幕府の動きは素早く、一月後には京都は幕府の大軍に囲まれて、上皇は敗北した。熊野の山伏たちを率いて参戦した田辺の快実(かいじつ)(湛増の孫)は捕まって首を斬られ、師匠の尋快は行方不明になってしまった。桜井宮は水軍を率いて京都に向かったが、すでに間に合わず、途中から引き返した。
 戦のあと、父の後鳥羽上皇隠岐(おき)の島に流され、長兄の土御門上皇(つちみかどじょうこう)は土佐に流され、三兄の順徳上皇(じゅんとくじょうこう)は佐渡に流され、弟の六条宮雅成親王(ろくじょうのみやまさなりしんのう)は但馬(たじま)に流され、弟の冷泉宮頼仁親王(れいぜいのみやよりひとしんのう)は児島に流された。順徳上皇の子の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は廃されて、叔父の行助入道親王(ぎょうじょにゅうどうしんのう)(後鳥羽上皇の兄)の息子が後堀河天皇(ごほりかわてんのう)として即位した。
 弟の冷泉宮が児島に流されて来たが、今まで、ろくに話をした事もなかった。桜井宮の母親は白拍子(しらびょうし)(遊女)だったため、幼い頃に出家して、山伏としての活躍が認められて、親王宣下を受けたのは二十一歳になってからだった。反面、冷泉宮の母親は内大臣の娘で、十歳の時に親王宣下を受けて、鎌倉の将軍になるという話も持ち上がっていた。三代将軍実朝が甥に殺されたあと、後鳥羽上皇の気が変わって、鎌倉からの要望を蹴ったのだった。
 冷泉宮は児島に兄がいた事に驚き、見知らぬ兄と一緒に児島で生きて行く事になる。
 承久の乱のあと、鎌倉幕府の勢力が拡大して、西国にも大勢の御家人(ごけにん)が入り込んで来た。新熊野三山の荘園も次々に幕府に奪われて、見る見るうちに寂れて行った。何とかしなければならないと桜井宮は弟の冷泉宮と一緒に考えた。
 その頃、幕府が公式に宋銭(そうせん)の使用を認めた。桜井宮は宋の国に行って、大量の宋銭を手に入れようと決めた。博多に行って、宋に行く船の事を色々と調べ、外洋にも耐えられるように児島の船を強化して、準備を進めた。熊野にも協力してもらうために、別当にも相談に行った。その時の別当は尋快の弟の琳快(りんかい)だった。桜井宮は琳快から、尋快が琉球にいる事を聞いて驚いた。戦死したと思っていた師匠の尋快が琉球で生きている事を知った桜井宮は、どうしても師匠に会いたいと思った。琉球からも宋の国に行けると知った桜井宮は、承久の乱から六年後の冬、琉球へと向かった。
 尋快は浦添(うらしい)の城下で暮らし、舜天(しゅんてぃん)(初代浦添按司)の孫たちに読み書きを教えていた。桜井宮は舜天に歓迎されて、浮島の波之上に熊野権現を創建した。グルーは尋快の弟子になっていて、尋快から武芸や読み書きを習っていた。桜井宮は尋快とグルーを連れて宋の国に渡り、宋銭を手に入れて無事に帰国した。
 大量の宋銭のお陰で、児島の新熊野三山は再建されて、以前のごとく、山伏たちも集まって来て栄えるようになった。桜井宮と冷泉宮の兄弟は、新熊野の中興の祖として、今でも大切に祀られていた。
 児島に着いた二日目、ササたちは福寿坊の案内で、新熊野の新宮(しんぐう)といわれる木見(きみ)の諸興寺(しょこうじ)に行って、冷泉宮のお墓でお祈りを捧げ、新熊野の那智といわれる瑜伽山(ゆがさん)にある瑜伽寺もお参りした。諸興寺も瑜伽寺も周辺にいくつも僧坊や宿坊があって、修行している山伏たちで賑わっていたが、グルーに関する事は何も見つからなかった。やはり、本宮の周辺に何かが残っているに違いないと次の日、探し回ってみたが、何も見つからなかった。
 桜井宮が琉球に行ったという伝説も残っていないし、本当にグルーはここに来たのだろうかと不安がよぎった。
 四日目の朝、今日はどこを探そうかと相談していた時、宿坊の縁側から外を眺めていたカナが、「あの山は何?」と福寿坊に聞いた。
「あれは福南山(ふくなんざん)という山だ。山頂に明現宮(みょうげんぐう)という神社があって、勿論、修験(しゅげん)の山だ。山伏たちが修行している。そう言えば、山頂近くに大先達(だいせんだつ)を祀る五輪の塔があったな」
「大先達?」
「詳しい事は知らんが、昔、活躍した山伏なんだろう」
「それだわ」とカナは手を打った。
「それに違いないわ」とカナは自信たっぷりの顔でササを見た。
 ササも山を見ながらうなづいた。カナが言う通り、何かがあるような気がした。
 福寿坊の案内で、ササたちは福南山に登った。山頂の明現宮から少し離れた見晴らしのいい所に古い五輪の塔が立っていて、その前で巫女(みこ)がお祈りをしていた。
 巫女に聞いたら、大先達の龍玉坊(りゅうぎょくぼう)様のお墓だと言った。
「龍玉坊様は紀州の熊野からいらして、桜井宮様を助けて、新熊野の中興に貢献なされた大先達です。龍玉坊様の奥方様は明現宮の巫女で、三人の娘さんも巫女として、明現宮を再興されました。このお墓は三人の娘さんたちが建てたものです」
「熊野の山伏なんですね」とササが聞くと、
「そう伝わっております」と巫女は言って、ササたちに頭を下げると明現宮の方に去って行った。
「違ったみたい」とササはカナに言った。
 カナもがっかりしたような顔でうなづいたが、ひざまづいてお祈りを捧げた。
 ササたちもカナと一緒にお祈りをした。
 神様の声は聞こえなかった。
 カナはふと、グルーが伊祖(いーじゅ)ヌルに残した西行法師(さいぎょうほうし)の歌を思い出した。
「うむかぎぬ わすらるまじき わかりかな なぐりをひとぅぬ つきにとぅどぅみてぃ」
 カナが歌を詠むと、同じ歌が聞こえてきた。
 カナとササとシンシン(杏杏)が、その歌を聴いていた。
「伊祖ヌル‥‥‥」と神様は言った。
「神様は琉球から来られた、グルー様ですね?」とカナが聞いた。
「グルー‥‥‥懐かしい響きじゃ。確かに、わしは琉球から来たが、そなたたちは伊祖ヌルを知っているのか」
「伊祖ヌル様に頼まれて、グルー様を探しに参りました。伊祖ヌル様はグルー様の息子さんをお産みになられて、その息子さんは浦添按司(うらしいあじ)になりました」
「なに、伊祖ヌルがわしの子を産んだのか。そして、その子が浦添按司に‥‥‥伊祖ヌルは浦添按司だった舜天殿の孫だが、その息子が浦添按司になったなんて信じられん」
「その子は英祖という名前で、舜天様の孫の義本(ぎふん)を滅ぼして、浦添按司になったのです」
「なに、義本を滅ぼした‥‥‥そうじゃったのか。わしが琉球を離れる時、舜天殿は隠居して、倅の舜馬(しゅんば)殿が浦添按司だった。わしの師匠のクマヌという山伏が、義本に読み書きや武芸を教えていたが、どうしようもない奴だった。甘やかされて育ってしまったのだろう。舜天殿もそれを心配して、クマヌ殿を付けたのだろうが、クマヌ殿も手を焼いていた。奴はわしより一つ年下なのに、すでに正妻の他に四人も側室を持っていた。あんな奴が按司になったら大変だと誰もが思っていたんだ。そうか。わしの倅が、奴を倒して、按司になったのか」
 神様は嬉しそうに笑ってから、「わしの倅の評判はどうなんじゃ?」と聞いた。
「英祖様は立派な按司だったようです。今でも尊敬されております」
「そうか。伊祖ヌルの息子がのう。よくやってくれた」
「グルー様。クマヌという山伏が、グルー様の師匠だったのですか」
「そうじゃよ。クマヌ殿はヤマトゥの戦に敗れて琉球に逃げて来られたんじゃ。桜井宮様の師匠でもあって、桜井宮様はクマヌ殿が琉球にいる事を知って、琉球に来られたんじゃよ」
「そうだったのですか。伊祖ヌル様はあなたがヤマトゥに行ってからどうなったのか、とても心配しております。伊祖ヌル様にお伝えしたいので、わたしたちにお話していただけないでしょうか」
「わしも伊祖ヌルの事は気になっていたんじゃ。しかし、琉球に帰る事はできなかった。わしがヤマトゥで何をしていたのか、伊祖ヌルに伝えてくれ」
 そう言って、グルーは話し始めた。
 琉球からヤマトゥに行くと思っていたのに、長い船旅の末に着いた所は宋(そう)の国の明州(めいしゅう)(寧波)だった。グルーにとって見る物すべてが驚きだった。ヤマトゥから持って来た大量の刀が大量の宋銭と交換されて船に積み込まれ、半年近く滞在した明州をあとにしてヤマトゥに向かった。ヤマトゥの国は思っていたよりもずっと広く、九州の浦々に寄って博多に着き、瀬戸内海に入って、いくつもの島々に寄って、ようやく着いた所が備前の児島だった。
 グルーは桜井宮に連れられて熊野に行き、桜井宮の弟子、五郎坊として熊野で山伏の修行に励んだ。七年間、厳しい修行を積んで先達山伏となったグルーは児島に帰った。
 桜井宮から『龍玉坊』という新しい名前をもらって、修行の旅に出た。全国を回って修験の山々に登り、厳しい修行を積んだ。三年間、旅を続けたグルーは児島に帰り、その後は桜井宮を助けて、児島の新熊野権現を発展させるために尽くして来たのだった。
「三人の娘さんが、ここの巫女になったのですか」とカナは聞いた。
「そうじゃ。わしのかみさんはここの巫女じゃった。その頃、ここのお宮も荒れ果てておった。三人の娘たちがここのお宮を再建したんじゃよ」
「息子さんはいるのですか」
「残念ながら、息子はできなかったんじゃ。だが、冷泉宮様の御子息、道乗(どうじょう)殿が息子みたいなものじゃな。わしの弟子として厳しい修行に耐えてくれた。今、新熊野三山を守っているのは道乗殿の子孫たちなんじゃよ」
「宋の国から銭をいっぱい持って来たのでしょう。その銭で、ここのお宮を再建すればよかったんじゃないですか」とササが聞いた。
「ここはそれほど重要なお宮ではないからのう。後回しにされて、結局、その銭も回って来なかったんじゃよ。それでも、銭の力というのは凄いものじゃった。主要な建物はあの時の銭によって建て替えられたんじゃ」
「あなたの師匠だったクマヌ殿という山伏は、桜井宮様の師匠でもあったという事は、熊野でも偉い山伏だったのですか」
「わしは知らなかったんじゃが、師匠は熊野別当という熊野で一番偉いお人の息子さんだったんじゃよ。ヤマトゥに帰って来て、しばらく児島に隠れていたんじゃが、もう大丈夫だろうと熊野に戻って、晩年には熊野別当を務めたんじゃ。わしもお祝いに駆け付けたが、その立派な姿を見て驚いたもんじゃよ」
「グルー様、あなたは志喜屋大主(しちゃうふぬし)の次男ですよね。どうして、伊祖ヌルに玉グスク生まれと言ったのです?」とカナが聞いた。
「驚いたのう。そんな事まで知っておるのか。確かにわしは志喜屋生まれじゃ。しかし、志喜屋と言ってもわからんじゃろうと思って、玉グスクと言ったんじゃよ。それに、わしは七歳の時に玉グスクに呼ばれて、若按司と一緒に読み書きやら武芸やらを習ったんじゃよ。若按司と同い年だったので、遊び相手に選ばれたんじゃ。わしは十七まで玉グスクにいた。志喜屋よりも玉グスクの方が生まれ故郷(うまりじま)のような気がするのも確かなんじゃ。十年間、玉グスクに縛られていた反動で、わしは旅に出たんじゃ。旅の途中で師匠のクマヌ殿と出会った。クマヌ殿から武芸を習って、ヤマトゥの話なども聞いた。わしもヤマトゥに行ってみたいと思ったもんじゃ。その後、師匠は浦添に落ち着いて、浦添按司の孫たちの師匠になった。そして、桜井宮様がやって来て、わしも一緒にヤマトゥに行ったんじゃよ」
「ヤマトゥに行く前に伊祖ヌル様と出会ったのですね?」
「そうじゃ。運命の出会いかと思った。一目、見た途端、わしはこの娘と結ばれると思ったよ。伊祖ヌルと別れるのは辛かった。しかし、ヤマトゥに行くという夢の方が勝ったんじゃよ。だがな、ヤマトゥに来てからも、伊祖ヌルの事は忘れた事はなかった。別れの時、伊祖ヌルからもらった手拭い(てぃーさーじ)は、ずっと大切に持っていたと伝えてくれ」
「お伝えいたします」とカナは言った。
「ちょっと待って」とササが言った。
「グルー様、グルー様は琉球に帰れるはずですよ」
「えっ!」とカナは言ってから、「そうだわ。生まれ故郷(うまりじま)には帰れるはずだわ」とササにうなづいた。
「わしはのう。伊祖ヌルに会うのが怖かったんじゃよ」と神様は言った。
「わしが言うのもなんじゃが、伊祖ヌルは美人(ちゅらー)じゃった。あのあと、誰かと結ばれて、幸せに暮らしていたかもしれんと思うと、会いに行けなかったんじゃ。そなたたちのお陰で、会いに行く勇気が出た。さっそく、会いに行って来る。ありがとう」
 神様は本当に琉球に帰って行ったようだった。
「あたしが案内するわ」とユンヌ姫の声がした。
「お願いよ。ありがとう」とササはユンヌ姫にお礼を言った。
「ユンヌ姫様もいいとこあるじゃない」とカナが笑った。

 

 

 

修験道と児島五流―その背景と研究   修験道史研究 (東洋文庫 211)