長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-120.鬼界島(改訂決定稿)

 明国(みんこく)の海賊、リンジョンシェン(林正賢)から手に入れた鉄炮(大砲)を積んだ武装船に乗った湧川大主(わくがーうふぬし)は、意気揚々と鬼界島(ききゃじま)(喜界島)に向かっていた。
 去年、前与論按司(ゆんぬあじ)の父子を鬼界按司(ききゃあじ)として、鬼界島を攻めさせたが、失敗して帰って来た。若按司は戦死して、百人の兵を失い、おまけに進貢船(しんくんしん)まで壊された。何とか修理をしたが、外洋に出るのは無理だという。リンジョンシェンが毎年、来てくれるので、進貢船で明国まで行く必要はないが、大損害だった。
 前与論按司は過去に与論島(ゆんぬじま)を攻め落としたという自信を持っていた。あの時もかなりの抵抗があったが、見事に攻め落とした。鬼界島も必ず落としてみせると意気込んで出掛けて行ったのだが、倅まで失う負け戦になってしまった。今年こそは鬼界島を奪い取って、島の者たちに去年の損害の穴埋めをしてもらわなければならなかった。
 湧川大主は加計呂麻島(かきるまじま)の諸鈍(しゅどぅん)に寄って、小松殿(くまちどぅん)から鬼界島の事を詳しく聞いた。
「あの島は独特な島じゃよ」と小松殿は言った。
「古くからヤマトゥ(日本)の勢力が入って来ている。明の国が唐の国と呼ばれていた五、六百年前、ヤマトゥの国で、海外との交易を担当していた『太宰府(だざいふ)』という役所が博多の近くにあった。そこの役人が鬼界島にやって来て、交易の拠点にしたらしい。当時、ヤコウガイがヤマトゥに大量に運ばれていて、ヤコウガイの交易をその役人たちが仕切っていたようじゃ」
ヤコウガイというのはヤクゲーの事でしょう。ヤクゲーの交易とはどういう事です?」
 湧川大主にはヤコウガイがヤマトゥに大量に運ばれていたという意味がわからなかった。
ヤコウガイの貝殻が『螺鈿(らでん)細工』という飾り物に使われたんじゃよ。これがそうじゃ」
 そう言って、小松殿は硯箱(すずりばこ)を見せてくれた。綺麗な花の絵が描いてあり、花びらがキラキラと輝いていた。その輝いているのがヤコウガイの貝殻だった。
「当時、ヤマトゥの偉い人たちが、こういう物を欲しがって、そのためにヤコウガイがヤマトゥに大量に運ばれたんじゃ。硯箱だけではない。首飾りや腕輪、琴や琵琶(びわ)などの装飾にも使われて、刀の鞘(さや)にも使われた。神社やお寺の祭壇にも飾られたんじゃよ」
「今は使われていないのですか」
螺鈿の技術が進歩して、今ではアワビを使っているようじゃ。アワビはヤマトゥでも採れるからのう。わざわざ、南の島から運ぶ必要もなくなってしまったんじゃよ」
琉球ヤコウガイの交易をしていたのですか」
「勿論じゃ。山北王(さんほくおう)の御先祖様の小松の中将(平維盛)様が琉球に来られたのも、ヤコウガイの交易で琉球に来ていた熊野水軍の船に乗って来たんじゃよ」
「成程、そうだったのか」と湧川大主は納得して、「ヤコウガイと交換していたのは何だったのですか」と聞いた。
熊野水軍は様々な物を持って来たじゃろうが、太宰府の役人たちが鬼界島にやって来た頃は、甕(かーみ)や鉢(はち)などの陶器じゃよ。役人たちは徳之島(とぅくぬしま)に窯(かま)を造って、そこで焼いた陶器をヤコウガイと交換していたんじゃ。時は下って二百年余り前になると、宋(そう)の国との交易が盛んになって、平家がその拠点を鬼界島に置いたんじゃ。すでに太宰府の力は弱くなっていて、島の役人たちも平家に従わなければならなくなっていた。やがて、平清盛(たいらのきよもり)が太宰大弐(だざいたいに)という太宰府を仕切る役人になると、清盛の配下の者たちが島に入って来て、島を支配するようになる。その頃、薩摩(さつま)に勢力を持っていた阿多平四郎(あたへいしろう)という男がいた。この男は、九州にやって来た源為朝(みなもとのためとも)と手を組んで、さらに勢力を広げたんじゃ」
源為朝というのは何者です?」
「為朝は鎌倉に幕府を開いた頼朝(よりとも)の叔父さんじゃ。背丈が七尺(約二メートル)もあった大男で、弓矢の名人じゃった。かなりの乱暴者だったらしくて、若い頃、九州に流されたようじゃ。九州に行っても大暴れをして、九州を平定してしまったんじゃよ。阿多平四郎はそんな為朝と手を結んで、自分の娘を為朝の嫁にやったんじゃよ」
「そんな凄い男がいたのですか」
 湧川大主は背丈が七尺もある大男が弓を構えている姿を想像して、そんな武将がいたら今帰仁(なきじん)にも欲しいものだと思った。
「阿多平四郎は宋の国との交易もやっていてな、為朝と組んだお陰でかなり稼いだようじゃ。しかし、京都で起こった『保元(ほうげん)の乱』に敗れた為朝は、伊豆の大島に流されてしまうんじゃよ。平四郎も追われる身となって、薩摩を離れて鬼界島に行くんじゃ。平四郎は清盛の家来たちを倒して、島を支配したようじゃ。鬼界島を拠点にヤマトゥと宋との交易をしていたんじゃ。何年かして、清盛は鬼界島を攻めた。平四郎は降参して清盛の配下になったようじゃ。それからまた何年か経って、『壇ノ浦の合戦』があって平家は滅び、安徳天皇の偽者が鬼界島にやって来るんじゃよ。平四郎は偽者とは知らずに、安徳天皇を迎えたようじゃ。壇ノ浦の合戦から二年後、源氏の兵が残党狩りにやって来た。その頃、平四郎は亡くなっていて、孫が跡を継いでいた。その孫というのは、為朝の妻になった平四郎の娘が産んだんじゃよ。為朝の息子なら鎌倉の将軍、頼朝とは従兄弟(いとこ)同士じゃ。為朝の武勇は頼朝も知っていて、為朝の息子を島の領主として認めたようじゃ。そこまでは、わしの御先祖様が書き残した記録に残っているが、その後の事はわからん。今、『御所殿(ぐすどぅん)』と呼ばれている島の領主は、為朝の息子の子孫なのじゃろう。名前は『阿多源八』というらしい」
「偽者の安徳天皇はどうなったのですか」と湧川大主は聞いた。
「若くして亡くなったようじゃ。誰を妻に迎えたのかはわからんが、娘が産まれたようじゃな。多分、その娘は為朝の孫と一緒になったのかもしれんな。宋の国との交易も終わって、ヤコウガイの交易も終わると、鬼界島も寂れたようじゃ。かつての繁栄を取り戻すために、倭寇(わこう)になって高麗(こーれー)を攻めていた時期もあったようじゃ。今は倭寇はやめて、琉球に行って明国の物を仕入れて、薩摩に行って、それを売り、刀を手に入れては琉球に行っているようじゃ」
「中山王(ちゅうさんおう)と取り引きしているのですか」
「そのようじゃな。鬼界島の『キ』じゃが、昔は貴いという字だったようじゃ。そして、薩摩の近くにあって煙を上げている硫黄島(いおうじま)が鬼が棲んでいる島として、鬼という字を使った鬼界島だったんじゃよ。京都に住んでいる者たちには硫黄島も貴界島も区別がつかん。やがて、貴界島も鬼が棲んでいる島だと思われて、鬼という字が使われるようになったようじゃ。鬼が棲んでいる島だと思われていたお陰で、倭寇たちの拠点にもならず、為朝の子孫たちが支配を続ける事ができたのじゃろう。昔は鬼が出るとの噂は確かにあったようじゃ。島の者たちがよそ者を追い返すために、鬼に扮していたのかもしれんな。為朝は大男だったから、子孫たちにも大男がいたのじゃろう。今も赤鬼(あかうに)、青鬼(あおうに)と呼ばれる大男のサムレーがいるようじゃ」
 前与論按司も大男の武将がいたと言っていた。大薙刀(おおなぎなた)を振り回して、そいつのために大勢の兵が殺されたと言っていた。どんなに強い大男だろうが、湧川大主には倒す自信はあった。でも、できれば降参させて、配下に加えたいとも思った。
 中山王と取り引きをしている鬼界島は、何としてでも倒さなければならないと湧川大主は決心を新たにして、奄美大島(あまみうふしま)を北上して戸口(とぅぐち)に向かった。
 戸口の左馬頭(さまのかみ)に、去年、前与論按司がお世話になったお礼を言って、ウミンチュ(漁師)に扮した配下の者を鬼界島に送って敵の様子を探らせた。
 翌日、湧川大主は北上して笠利崎(かさんざき)を回って赤木名(はっきな)に向かった。奄美按司の娘にヌルの修行をさせるために、先代の浦添(うらしい)ヌルが一緒に乗っていたのだった。
 浦添ヌルだったマジニが今帰仁に来て、すでに七年が過ぎていた。義兄の山北王(攀安知)は、中山王(思紹)と同盟を結んでしまい、父親(武寧)の敵(かたき)を討ってくれそうもなかった。兄のンマムイ(兼グスク按司)も島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)(サハチ)と仲よくしていて、敵討ちなんかすっかり忘れている。
 山北王が中山王と同盟を結んだあと、首里(すい)から『まるずや』という商人がやって来て、色々な物が安く手に入ると評判になった。侍女たちは『まるずや』に通って、姉のマアサ(山北王妃)や側室たちは女商人を御内原(うーちばる)に呼んで小間物類を買っていた。今帰仁ヌルも欲しかった鷲(わし)の羽根が手に入ったと喜んでいた。マジニも欲しかったけど、敵から手に入れた物を髪に飾るわけにはいかないと諦めた。
 首里から旅芸人もやって来て、城下の人たちは皆、お芝居に夢中になった。お芝居の中で舞姫たちが歌った歌が流行って、三弦(サンシェン)を欲しがる者も現れた。山北王は明国の海賊に三弦を持って来るように頼んだという。子供たちは『瓜太郎(ういたるー)』の真似をして遊んでいる。敵の芸人なんか見られないと意地を張っていたマジニは、何だか、自分だけが取り残されてしまったような気分だった。それでも、敵討ちを諦めずに、クボーヌムイ(クボー御嶽)でお祈りを捧げていた。
 今月の初め、志慶真(しじま)ヌルが馬天(ばてぃん)ヌルたちと一緒に安須森(あしむい)に行ったらしいと今帰仁ヌルがマジニに言った。マジニは十五歳の時に、ウタキ(御嶽)巡りをしていた馬天ヌルと会っていた。若ヌルだったマジニは、伯母の浦添ヌルと一緒に馬天ヌルを案内してウタキを巡った。馬天ヌルは伯母が知らない事まで知っていて、凄いヌルだと感心した。その時は知らなかったが、今帰仁に来て、馬天ヌルが中山王の妹だと知って、馬天ヌルも父の敵(かたき)の一味だと憎んだ。
 去年、馬天ヌルがまたウタキ巡りの旅をして、今帰仁に来た。マジニは父の敵の馬天ヌルを捕まえてくれと山北王に頼んだが、山北王は笑っているだけで、馬天ヌルを捕まえようとはしなかった。
 山北王と中山王が同盟してからというもの、今帰仁ヌルの態度も変わっていった。今帰仁に来た当初は可哀想だと同情してくれた今帰仁ヌルも、世の中が変わって行くにつれて、昔の事はもう忘れなさいと言うようになった。
 山北王にとって、マジニの父、武寧(ぶねい)は義父であるが、今帰仁ヌルにとって武寧は祖父と伯父を殺した敵であった。その敵を討ってくれた中山王を恨む理由はなかった。
 去年、馬天ヌルが訪ねて来なかったのは、マジニがいるせいだと今帰仁ヌルは思って、口に出しては言わないが、もうそろそろ出て行ってくれという態度を示すようになった。マジニも居心地の悪い雰囲気は察していたが、なかなか出て行く事はできなかった。そして、今回、馬天ヌルは大勢のヌルたちを連れて安須森に行き、そこに志慶真ヌルも加わっているという。
 今帰仁ヌルが調べたら、勢理客(じっちゃく)ヌルも羽地(はにじ)ヌルも名護(なぐ)ヌルも一緒に行った事がわかった。今帰仁ヌルは悔しがった。わたしが仲間はずれにされたのは、マジニのせいだと怒った。マジニは今帰仁ヌルと喧嘩をして、今帰仁ヌルの屋敷を飛び出した。
 姉のマアサを頼ろうかと思ったが、ふと奄美大島の若ヌルの指導のために、奄美大島に行かないかと山北王から声を掛けられた事を思い出した。その時は断ったが、しばらく今帰仁を離れて、様子を見るのもいいだろうと考え直した。マジニは運天泊(うんてぃんどぅまい)に行き、鬼界島攻めの準備をしている湧川大主に頼んで、奄美大島に行く事に決まった。すでに、奄美大島に行くヌルは決まっていたが、マジニが代わると言うと喜んで今帰仁に帰って行った。
 今帰仁ヌルと喧嘩した勢いで、奄美大島行きを決めてしまったが、行ったら、そう簡単には帰って来られない事に気づいて、マジニは悲嘆に暮れた。そんなマジニを慰めているうちに、湧川大主はマジニを哀れに思い、つい抱きしめてしまった。湧川大主に抱かれたマジニは覚悟を決めて、奄美大島に向かったのだった。
 マジニと別れて、戸口に戻ろうとした時、台風がやって来た。笠利湾内にいてよかったと湧川大主は神様に感謝した。もし戸口で台風に遭ったら、船が座礁したかもしれなかった。もしかしたら、マジニのお陰かもしれないと思うと余計に愛しくなって、台風が通り過ぎるまでの時を湧川大主はマジニと二人きりで過ごしていた。
 台風も去り、うねりもなくなって、湧川大主は戸口に戻った。マジニも一緒だった。マジニにしても、湧川大主にしても、もう別れる事は不可能だった。ヌルに惚れた男はそう簡単には別れる事はできなかった。
 鬼界島を偵察していた配下の者たちは戸口に帰っていた。
「あの島は噂通り、簡単には上陸できません。海岸は岩場だらけで、あの島がまるで、一つのグスクのようです。上陸できる地点は四カ所しかありません。湾泊(わんどぅまい)、小野津(うぬつ)、沖名泊(うきなーどぅまい)(志戸桶)、瀬玉泊(したまどぅまい)(早町)です。湾泊とその反対側にある瀬玉泊に敵の船が泊まっています。まずは鉄炮で敵の船を沈めたらよろしいかと思います」
「いや」と湧川大主は首を振った。
「沈めるのは勿体ない。奪い取った方がいい」
 湧川大主は前与論按司が作った絵地図を眺めながら、どこから攻めるか考えた。鬼界島はわりと平坦な島で、高い山はなかった。西側は崖がずっと続いているので、御所殿の屋敷に近い東側の湾泊から攻めるのが無難だろう。
「御所殿の屋敷は小高い丘の上にあって、特に高い石垣に囲まれているわけではないと聞いているが、本当なのか」と湧川大主は偵察してきた者たちに聞いた。
「民家にある石垣と大して変わりません。攻め取るのは簡単です」
 湧川大主はうなづいて、前与論按司の攻撃を思い出していた。
 前与論按司は最初に湾泊を攻めた。船の上から弓矢を放ちながら敵の反応を見て、小舟(さぶに)で上陸を試みたが、敵の反撃に遭って上陸する事はできず、十人の戦死者を出している。一旦、戸口に引き上げ、負傷者の手当てをして、二度目は小野津を攻めている。
 湾泊で懲りたので、充分に注意を払いながら上陸して、敵兵を何人か倒している。小高い丘の上に陣地を築いて、翌日の総攻撃に備えたが、その夜、敵の夜襲を受け、五十人近くが戦死した。三度目は沖名泊から上陸して、小野津と同じように陣地を築くが、夜は船に撤収した。翌日の早朝、御所殿の屋敷を目掛けて総攻撃を掛ける。距離にして二里(約八キロ)余りなのに、あちこちに罠(わな)が仕掛けてあって、その罠にはまって五十人余りも戦死した。若按司が戦死したのも、進貢船が丸太を積んだ敵の船に体当たりされたのも、その時だった。若按司と半数以上の兵を失った前与論按司は戦意を失い、壊れた進貢船を何とか戸口まで運び、修理をして、冬に帰って来たのだった。
 奄美按司の話によると敵の兵力は百人くらいで、今の時期はヤマトゥに行っている者もいるので、奴らが帰ってくれば、百五十人になるだろうという。
 湧川大主はマジニと相談して、吉日を選んで鬼界島を攻めた。
 天気がよく、波も穏やかな七月二十六日の早朝、鬼界島攻めが、鉄炮の爆音の響きで始まった。初めて聞く、雷のような轟音と次々に落ちて来る鉄の玉に、敵兵は腰を抜かすほどに驚き、戦意を失って逃げ散って行った。湾泊を守っていた敵兵が逃げると、湧川大主は御所殿の屋敷を鉄炮で狙わせた。郡島(くーいじま)(屋我地島)で稽古を積んだお陰で、命中率も確実に上がっていた。小高い丘の上にある御所殿の屋敷の周りには家々が密集していて、鉄炮の玉はそれらの家の上に落ちていた。驚いて逃げ惑う人たちの姿が小さく見えた。竈(かまど)の上に玉が落ちたのか、煙を上げている家もあった。
 百二十発の玉を撃ったあと、湧川大主は上陸を命じた。兵たちか小舟に乗って上陸した。敵の反撃はなかった。途中、敵の罠に気をつけながら御所殿の屋敷を目指した。いくつかの落とし穴があったが回避して、隠れている伏兵(ふくへい)も倒した。屋敷の近くで激戦となったが、諸喜田大主(しくーじゃうふぬし)が率いる今帰仁の兵たちは、鉄炮にひるんだ敵兵を次々に倒して行った。
 湧川大主がマジニと一緒に御所殿の屋敷に着いた時には、すでに味方の兵によって占領されていた。
「残念ながら、御所殿の姿は見当たりません。逃げられたようです」と諸喜田大主が報告した。
「赤鬼と青鬼は倒したのか」
「大男が一人いたのは確かです。かなりの使い手で、何人もの兵が奴にやられています。大男のわりには素早い奴で、逃がしてしまいました」
「もう一人の大男はヤマトゥに行っているようだな。御所殿とそいつは必ず探し出して殺せ。できれば生け捕りにしたいが、無理はしなくてもいい」と湧川大主は命じた。
 諸喜田大主はうなづいて、兵を率いて出て行った。
 屋敷の中に入るとヤマトゥの刀や明国の壺や水墨画などが飾ってあり、贅沢な暮らし振りが窺われた。
「凄い」とマジニは思わず言った。
 こんな田舎の小さな島の領主が持っている物とはとても思えなかった。
「源氏の末裔(まつえい)らしいからな、気高いのだろう」
 御所殿の屋敷を按司の屋敷と決めて、新たに任命された鬼界按司(ききゃあじ)を入れた。新たな鬼界按司は国頭按司(くんじゃんあじ)の弟の一名代大主(てぃんなすうふぬし)だった。一名代大主は先代の山北王(珉)からのサムレー大将で、口数が少なく、命令には忠実な男だった。今の山北王にとっては不気味な存在で、鬼界按司に昇進させて、今帰仁から遠ざけたのだった。
 御所殿の屋敷の隣りに、小さいが立派な屋敷があった。文机のそばに難しい書物が積んであって、調度類も立派だった。もしかしたら、隠居した先代の御所殿の屋敷かもしれなかった。湧川大主はマジニと一緒にその屋敷で暮らす事に決めた。
 小さな島なのに、御所殿も大男の武将も見つからなかった。島の者たちの噂では、船に乗って逃げて行ったという。倒した敵の数は五十人に上るので、逃げて行った者は五十人足らずの兵と家族たちだろう。ヤマトゥに行っている兵と合わせれば百人近くの兵が生き残っているという事になる。ヤマトゥに行った船が帰って来るのと合流して、この島を取り戻すつもりなのかもしれなかった。ヤマトゥの船と合流するとなれば、奄美大島の笠利崎の辺りに隠れているのかもしれない。トカラの島々まで逃げて行ったとすれば、探すのは不可能だった。あんな所まで行ったら冬になるまで帰って来られなくなる。奄美按司に命じて、笠利崎周辺を探させた。
 湧川大主は今帰仁の事も運天泊の事もすっかり忘れて、マジニと一緒に暮らしていた。誰にも邪魔されずに、二人だけの楽しい日々を満喫していた。
 ある日、湧川大主とマジニが仲よく馬に乗って島内を散策していた時、島のヌルと出会った。丁度、マジニと同じくらいの年頃のヌルで、出会った時、マジニは何かを感じた。
「古いウタキがあるのならお祈りさせてください」とマジニは島のヌルにお願いした。
 島のヌルはうなづいて、マジニを連れて山の中に入って行った。ウタキに男は入れない。湧川大主は近くの集落に行って待っている事にした。花良治(ひらじ)という集落で、ギン爺と呼ばれる年寄りの家で待っていてくれと島のヌルは言った。大きなガジュマルの木があるので、すぐにわかるという。ギン爺の家はすぐにわかった。湧川大主はギン爺にわけを話して休ませてもらった。
 ギン爺は体格のいい、腰の曲がった年寄りだった。ギン爺に出会った時、湧川大主は殺気を感じた。落ち武者が隠れているのかと辺りを見回したが人の気配はなかった。殺気も消えて、気のせいだったかと湧川大主は思い、ギン爺が出してくれたお茶を飲んだ。驚いた事に、明国のお茶だった。
「どうして、こんなお茶を持っているんだ?」と湧川大主は不思議に思って聞いた。
「わしは代々、ヌル様にお仕えしております。御所殿はヌル様をとても信頼なさっております。ヌル様が御所殿からいただいたお茶でございます」
「ほう、そなたはヌル様に仕えておったのか。あのヌル様は偉いヌルなのか」
「偉いかどうかは存じませんが、ヌルとしては凄いお人だと思っております」
「ほう。山の中にウタキがあるそうだが古いウタキなのか」
「この島の守り神、『キキャ姫』様を祀っております」
「キキャ姫様?」
「遙か昔、南の方からやって来て、この島に住み着いた御先祖様でございます」
「成程。あのヌル様はキキャ姫様の子孫というわけじゃな」
「さようでございます」
「南の方からやって来たと言ったが、琉球から来たのか」
与論島(ゆんぬじま)のようでございます」
「なに、与論島から来たのか」
 そう言えば、この島と与論島は似ているような気がした。どちらも高い山はなかった。与論島に住んでいた者たちが、似ているこの島を選んで住み始めたのかもしれなかった。
「ところで、御所殿だが、どこに逃げたと思う? 今の時期、与論島までは逃げられまい」
「御所殿の御先祖様はヤマトゥンチュ(日本人)です。与論島には行きません。薩摩まで逃げたのかもしれません」
 確かにそれもありえた。薩摩まで行って、仲間と合流して攻めて来るのかもしれない。もしかしたら、薩摩に同族がいて、援軍を率いて来るかもしれなかった。そうなると今いる二百の兵で守るのは難しくなる。今のうちに、守りを固めて、あちこちに罠を仕掛けておいた方がいいかもしれなかった。
 湧川大主が待ちくたびれた日暮れ近くになって、島のヌルが一人で帰って来て、マジニはウタキに籠もっていると言った。
「お籠もりは明日に終わるか、さらに続くかわかりません、すべて、神様のお導きです。山を下りて参りましたら、お送りいたします」
 湧川大主はマジニを心配したが、ウタキの中に行くわけにも行かず、あとの事を島のヌルに頼んで、屋敷に引き上げた。
 マジニが帰って来たのは三日後だった。無事の姿を見て、湧川大主はほっとした。マジニは疲れ切った顔をしていたが、目がキラキラと輝いていて、何かを見つけたような感じがした。
「わたし、生まれ変わったみたい」とマジニは嬉しそうな顔をして言った。
「ようやく一人前のヌルになったような気がするわ。古いウタキで、ずっと神様のお話を聞いていたの。まるで、夢でも見ているような心境だったわ。わたし、この島に来て本当によかった」
「神様というのはキキャ姫様の事か」と湧川大主は聞いた。
「そうなの。この島の御先祖様で、わたしの御先祖様でもあるみたい」
「何だって! 浦添で生まれたお前の御先祖様が、どうしてこの島にいるんだ?」
「それを延々と聞いていたの。遙か昔にキキャ姫様がこの島に来てから、島の人たちがどんな暮らしをして、今に至ったのかを聞いていたの。簡単に言うと、神様の世界では父親よりも母親の方が重要で、わたしのお母さんの先祖をたどって行くと、この島の女子(いなぐ)につながるみたい。ヤコウガイの交易が終わって、この島から琉球に移って行ったウミンチュの家族がいるの。その家族の娘が琉球の男と結ばれて娘が生まれ、その娘の何代かあとの娘が前田大親(めーだうふや)と一緒になって、わたしのお母さんが生まれたみたい。そして、お母さんが先代の中山王の側室になって、わたしが生まれたの」
「ほう。御先祖様の故郷に、お前は知らないうちに来ていたという事だな」
「きっと、神様に呼ばれたんだわ。わたし、生まれ変わったつもりで、奄美大島で自分を見つめてみるわ。たった一人で知らない土地で暮らすのは寂しかったけど、もう大丈夫よ。わたしには神様が付いているわ」
 湧川大主はマジニにうなづいて、マジニを送ってくれた島のヌルにお礼を言った。
 島のヌルは頭を下げると帰って行った。
「ミキさん、ありがとう」とマジニが島のヌルに言って手を振った。
 島のヌルも手を振り返した。ミキと呼ばれたヌルを見送りながら、湧川大主は妻を思い出していた。妻の名前もミキだった。妻は今帰仁で暮らしているが体が弱く、今回、旅立つ時も具合が悪そうだった。マジニの笑顔を見ながら、湧川大主は妻に対して後ろめたさを感じていた。

 

 

 

 

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