長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-199.満月(改訂決定稿)

 八月十五日、首里(すい)グスクで冊封使(さっぷーし)を迎えて『中秋(ちゅうしゅう)の宴(うたげ)』が催され、島添大里(しましいうふざとぅ)グスクでは『十五夜(じゅうぐや)の宴』が催された。中秋の宴は馬天(ばてぃん)ヌルと安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)が中心になって行ない、十五夜の宴はサスカサ(島添大里ヌル)と久高島(くだかじま)の大里(うふざとぅ)ヌルが中心になって行なった。
 スオナ(チャルメラ)を吹く楽隊を先頭に、馬に乗った護衛の兵たちに守られて、お輿(こし)に乗った冊封使たちが浮島(那覇)から首里まで行進した。大勢の見物人たちは小旗を振りながら、初めて聞く明国(みんこく)の音楽に驚いて、奇妙な着物を着た唐人(とーんちゅ)たちを物珍しそうに眺めていた。
 首里グスクに入った冊封使たちは北の御殿(にしぬうどぅん)の宴席に納まって、従者たちの席は北の御殿の前の御庭(うなー)に用意された。百浦添御殿(むむうらしいうどぅん)(正殿)の前に中山王(ちゅうざんおう)の思紹(ししょう)と王妃、世子(せいし)(跡継ぎ)のサハチ(尚巴志)と世子妃のマチルギが正装して座り、その両側に重臣たちが並び、南の御殿(ふぇーぬうどぅん)の前に按司たちが並んでいた。
 日暮れと同時にキーヌウチ(後の京の内)でヌルたちの儀式が始まって、安須森ヌルが吹く笛の音が流れた。
 百浦添御殿、北の御殿、南の御殿の軒下にいくつもの灯籠(ドンロン)が下げられて、御庭は昼間のように明るかった。祝杯を重ねながら儀式が終わるのを待って、やがて、百浦添御殿の屋根の上に満月が顔を出すと、儀式を終えたヌルたちが御庭に入って来て華麗に舞い始めた。
 薄衣(うすぎぬ)をなびかせて舞うヌルたちは妖艶で、幻想的な曲に合わせて舞う姿はこの世のものとは思えないほど美しく、冊封使たちも感激して見入っていた。
 ヌルたちの舞が終わると『宇久真(うくま)』の遊女(じゅり)たちが現れて、冊封使たちにお酌をした。皆、明国の言葉がしゃべれる遊女たちだった。
 御庭にはサングルミー(与座大親)が現れて二胡(アフー)の演奏が始まった。サングルミーの登場を一番喜んだのは思紹だった。いつも、この時期に明国に行っているので、満月を見ながらサングルミーの二胡を聞くのは久し振りだった。サハチもサングルミーの演奏を久し振りに聴いて感動していた。
 哀愁を帯びた二胡の調べは満月とよく似合って、皆、シーンとして聴き入っていた。
 その頃、島添大里グスクではファイチ(懐機)がヘグム(奚琴)を弾き、娘のファイリン(懐玲)が三弦(サンシェン)を弾いて合奏をしていた。南の島の人たちも招待して、賑やかな十五夜の宴となっていた。
 安須森ヌルは首里に行っていて、ササ(運玉森ヌル)たちもいないが、南の島のヌルたちが参加していたので、ヌルたちによる舞は例年以上に華やかだった。シーハイイェン(パレンバンの王女)たち、スヒター(ジャワの王女)たち、アンアン(トンドの王女)たち、リーポー姫(永楽帝の娘)たちも自国の歌と踊りを披露した。ハルのかぐや姫とシビーのチャンオー(嫦娥)の共演もあった。シビーが演じるのは初めてだったが、なかなかうまいものだった。ウニタキ(三星大親)はミヨンを連れて首里に行き、冊封使たちに歌と三弦を披露する事になっていた。
 『宇久真』では安謝大親(あじゃうふや)が旧港(ジゥガン)(パレンバン)とジャワ(インドネシア)とトンド(マニラ)の使者たちを招待して、十五夜の宴を開いていた。女将のナーサがいないのでマユミは大忙しだったが、立派に女将の代理を務めていた。


 その頃、ヤマトゥ(日本)に行ったササは精進湖(しょうじこ)のほとりで、富士山の上に昇っている満月をじっと見つめていた。
 六月十二日に浮島を出帆した愛洲(あいす)ジルーの船は二十八日に薩摩の坊津(ぼうのつ)に着いた。
 『一文字屋』の主人の孫三郎は京都に行っていて留守だった。若主人の弥三郎の話によると、二月に始まった伊勢の戦(いくさ)はまだ終わっていなくて、多分、琉球の交易船はまだ博多にいるだろうとの事だった。孫三郎はクレー(シビーの兄)とサジルー(苗代之子の長男)とマサンルー(ウニタキの次男)と越来(ぐいく)ヌルのハマ、トゥイ様(先代山南王妃)たちとナーサを連れて京都に向かったが、京都に着いたかどうかはわからないと言った。
 ササたちは坊津に二泊して、船旅の疲れを取ってから北上した。八代(やつしろ)に着いたのは七月三日で、阿蘇弥太郎(ヤタルー師匠)のお陰で、ササたちは八代城主の名和伯耆守(なわほうきのかみ)に歓迎された。
 名和伯耆守は南北朝の戦の時に弥太郎と一緒に戦っていて、弥太郎は戦死したものと思っていた。二十四年振りの再会を喜んで、お互いに昔の事を懐かしそうに語り合っていた。
 弥太郎は阿蘇神社の大宮司(だいぐうじ)の息子だった。阿蘇神社は広大な社領を持ち、武力も持っていて、大宮司は神主(かんぬし)でもあり、武将でもあった。
 弥太郎が生まれた時、南北朝の戦は始まっていて、阿蘇神社も北朝(ほくちょう)方と南朝(なんちょう)方に分かれて対立していた。分家だったが大宮司の娘婿となった弥太郎の祖父(阿蘇惟澄)は、南朝方として活躍して大宮司になった。祖父の長男(惟村)は北朝方として戦い、次男(惟武)は父と共に南朝方として戦っていた。祖父は亡くなる前に、兄弟で争うのはやめるように諭して、長男に大宮司職を譲った。しかし、南朝の征西府(せいせいふ)はそれを許さず、次男を大宮司と認めた。北朝は長男を大宮司と認めたので、阿蘇神社は二人の大宮司がいる事になって、完全に分裂してしまった。弥太郎は南朝の大宮司の息子だった。
 弥太郎は元服(げんぶく)すると父に従って戦に参加した。十九歳の時、父が戦死してしまい、兄が大宮司職を継いだ。二十一歳の時、阿蘇に来た慈恩禅師(じおんぜんじ)と出会って弟子になり、二年間、各地を一緒に旅をして武芸の修行に励んだ。阿蘇に帰ると武芸の腕を認められて、懐良親王(かねよししんのう)の跡を継いだ良成親王(よしなりしんのう)に仕える事になった。
 当時、北朝今川了俊(いまがわりょうしゅん)の活躍で、南朝の拠点は次々に落とされて、征西府は金峰山(きんぼうざん)の山中にあった。弥太郎は左衛門佐(さえもんのすけ)を名乗って良成親王に近侍した。
 三年後には征西府を宇土(うと)に移して、南朝方の盛り返しを狙うが、今川了俊の総攻撃に遭って、名和氏を頼って八代に移る。八代に移って一年後には、そこも攻められて、良成親王は矢部(やべ)の山中に逃げた。その時の戦で重傷を負った弥太郎は天草(あまくさ)氏に助けられた。天草で傷を治して、良成親王を探し出すつもりでいたが、南北朝の戦が終わった事を知らされる。名和氏も北朝に降参して、本領を安堵されたという。
 弥太郎は急に気が抜けてしまう。南北朝の戦が終わっても、兄と伯父は争いを続けていた。阿蘇に帰って、その争いに巻き込まれたくはなかった。どこか遠くに行きたいと思った。そんな時、天草氏が琉球に船を出すと聞いて、弥太郎は琉球に行ったのだった。
 翌日、名和伯耆守の息子の弾正(だんじょう)の案内で、ササたちは阿蘇山に向かった。二十人余りの一行は馬に乗って進んだ。城下の人たちはサムレーの格好をして馬に乗っている娘たちを珍しそうに眺めていた。
 弾正はササたちが八代に来た事を喜んでいた。ササたちは弾正を知らないが、弾正は丸太引きのお祭りを毎年、見ていて、ササたちの事はよく知っていた。ヤマトゥンチュ(日本人)たちは誰が勝つのか賭けをやっていて、ササに賭けて、たっぷりと儲けさせてもらった事もあると弾正は楽しそうに笑った。
 馬に乗って山道を進み、着いた所は阿蘇山の南にある矢部の『浜の館(やかた)』だった。堀と石垣に囲まれた大きな屋敷で、弥太郎の兄の大宮司がいて、弥太郎の出現に幽霊でも見ているような顔をしていた。
「兄上」と弥太郎が言うと、
「本当に弥太郎なのか」と兄は疑いの目で見ていたが、弥太郎が昔の事を話すと、「生きていたのか」と目に涙を溜めて喜んだ。
 ササたちは歓迎されて、その夜はお酒を飲みながら琉球の話をして喜ばれた。ササは大宮司から『阿蘇津姫(あそつひめ)』の事を聞いた。
阿蘇山の神様で、火の神様であり、水の神様でもあるし、戦の神様でもあるんじゃよ。そして、わしらの御先祖様じゃ」
 ターカウ(台湾の高雄)にいる五峰尼(ごほうに)の事を聞いたら、大宮司と弥太郎の叔母だという事がわかった。五峰尼が弥太郎の事を知らなかったと言うと、弥太郎は笑って、弥太郎を名乗ったのは元服したあとなので、叔母は知らないのだろうと言った。弥太郎が五歳の時に五峰尼は菊池三郎に嫁いで、弥太郎が元服した年にターカウに行ってしまったという。
 大宮司の話も五峰尼が言った事と同じで、それ以上の事はわからなかった。
 阿蘇津姫と結ばれた『アマテル』の事も聞いたが、大宮司は知らなかった。
阿蘇津姫様と結ばれたのは阿蘇津彦様じゃよ。タケイワタツノミコト様ともいう神様じゃ」と大宮司は言った。
 翌日、山伏の案内で阿蘇山に向かった。途中で馬から下りて細い山道を進んで、一日掛かりで、ようやく山頂にある阿蘇神社の奥の宮に着いた。
 阿蘇山は思っていたよりもずっと大きな山で、山頂には大昔に噴火したという大きな火口があった。そこからの眺めは雄大で、琉球では考えられないほど広々としていた。
 ササたちは奥の宮でお祈りをしたが、阿蘇津姫の声は聞こえなかった。ササが首から下げている瀬織津姫(せおりつひめ)のガーラダマ(勾玉)も目覚める事はなかった。
「どうして、瀬織津姫様の声が聞こえないの?」とシンシン(杏杏)がササに聞いた。
瀬織津姫様はここにはいらっしゃらないという事よ」
「でも、古い神様がそのガーラダマの事を知っているんじゃないの?」
「このガーラダマは瀬織津姫様が琉球からここに来たばかりの時に身に付けていた物よ。もし、瀬織津姫様の娘さんが阿蘇津姫を継いだとしても、娘さんはこのガーラダマは知らないでしょうね」
「そうか。玉グスクのウタキ(御嶽)に埋められたガーラダマじゃないとだめなのね」
瀬織津姫様の声は聞こえなかったけど、瀬織津姫様が遙か昔に、ここにいた事は確かだと思うわ」とササが言うと、シンシンとナナとカナ(浦添ヌル)は素晴らしい景色を眺めながらうなづいた。
 若ヌルたちはキャーキャー騒ぎながら景色を楽しんでいた。
 奥の宮から、来た道とは別の道を降りて行くと、西巌殿寺(さいがんでんじ)という大きなお寺があった。僧坊がいくつも建ち並んでいて、大勢の山伏たちがいた。ササたちはその中の宿坊(しゅくぼう)のお世話になって、翌日、阿蘇山を下りた。
 七月八日、五島(ごとう)の福江島に着いて、早田左衛門三郎(そうださえもんさぶろう)と再会して、七月十一日、壱岐島(いきのしま)で志佐壱岐守(しさいきのかみ)と再会した。壱岐守は八人の若ヌルたちを見て、ササの弟子だと知ると目を丸くして驚いていた。
「玻名(はな)グスクヌルと喜屋武(きゃん)ヌル(先代島尻大里ヌル)の弟子たちよ。あたしはちっとも面倒を見ていないわ」とササは笑った。
 七月十三日、博多の手前の可也山(かやさん)の西に船を泊めて、小舟(さぶに)で上陸してササたちは豊玉姫(とよたまひめ)のお墓に行った。
 お祈りをすると玉依姫(たまよりひめ)の声が聞こえた。
「ユンヌ姫から聞いたわよ。南の島に行って、アマミキヨ様の事を色々と調べて来たんですってね。新しい発見もあったらしいじゃない。お父様(スサノオ)を呼んで、ヤキー(マラリア)退治をさせるなんて、あなたは大したものだわ。そして、今度は瀬織津姫様の事を調べているのね」
「そうなのです。玉依姫様は瀬織津姫様の事を御存じですか」
「勿論、瀬織津姫様の事は知っているわよ。お父様から御先祖様だって聞いているわ。でも、瀬織津姫様が琉球のお姫様だっていう事はお母様(豊玉姫)から聞いて、初めて知ったのよ。驚いたわ。お母様がヤマトゥに来るよりずっと前に、瀬織津姫様が琉球から来ていたなんて。それでね、わたしなりに瀬織津姫様の事を調べてみたのよ」
「えっ、玉依姫様が瀬織津姫様の事を調べたのですか」
「そうよ。まさか、あなたがそんな古い神様の事を調べるなんて思ってもいなかったわ。お母様が琉球の事を調べたので、わたしはヤマトゥの事を調べたのよ。お父様から瀬織津姫様は伊勢で亡くなったのだろうって聞いていたので、伊勢の神宮の古い神様たちに聞いて回ったの。瀬織津姫様の事を知っている神様はいなかったけど、『伊勢津姫様』を知っている神様はいたわ。伊勢津姫様は伊勢で亡くなったらしいわ。伊勢の神様として祀られていたんだけど、わたしが『アマテラス』として伊勢の神宮に祀られる事になって、伊勢津姫様は封印されてしまったらしいのよ。内宮(ないくう)の正殿の床下に『心御柱(しんのみはしら)』というのがあるわ。それによって封印されているの。心御柱が腐ってしまうと封印が解けてしまうので、伊勢の神宮心御柱が腐る前に建て直しをしなければならないの。二十年以内には必ず新しい心御柱に替えて、伊勢津姫様が蘇らないようにしているのよ」
伊勢の神宮は今までずっと、二十年毎に建て替えをしていたのですか」
「二十年とは決まっていないけど、もう五百年以上も前から、心御柱が腐る前に必ず、建て替えをしているわ」
「もし、心御柱が腐ってしまうと、どうなるのですか」
「封印されていた伊勢津姫様が蘇って大変な事が起こるでしょう。戦乱の世が続いて大勢の人たちが犠牲になるかもしれないわね」
「伊勢津姫様がそんな恐ろしい事をするのですか」
「伊勢津姫様は誰からも尊敬されていた神様だったわ。それなのに、突然、封印されてしまった。怒りは物凄いのかもしれないわね」
「誰が封印したのですか」
「きっと、陰陽師(おんようじ)よ。でもね、伊勢津姫様は伊勢で亡くならないで、駿河(するが)の富士山まで行ったと言う神様もいたのよ。わたしは富士山まで行って調べたわ。富士山には『浅間大神(あさまのおおかみ)様』という神様が祀られていたけど、声を聞く事はできなかったの。わたしの勘なんだけど、浅間大神様は瀬織津姫様のような気がするわ」
「富士山ですか‥‥‥玉依姫様は瀬織津姫様の声を聞いた事があるのですか」
「あるわよ。危機に瀕した時、何度か助けていただいたのよ。でも、どこにいらっしゃるのかわからなくて、わたしから声を掛けてもお返事を聞いた事はないの。まだ、お礼も言ってないわ」
瀬織津姫様はどこにいらっしゃると思いますか」
「あなた、瀬織津姫様の勾玉(まがたま)を見つけたのよね。瀬織津姫様が気づけば、必ず声を掛けて来るはずよ。武庫山(むこやま)(六甲山)か、那智の滝か、伊勢の神宮か、天川(てんかわ)の弁才天社(べんざいてんしゃ)か、富士山にいらっしゃると思うわ」
「天川の弁才天社にいるかもしれないのですか」
瀬織津姫様があそこにいた事はないんだけど、のちの世に『役行者(えんのぎょうじゃ)』が瀬織津姫様をお祀りしたから、そこにいるかもしれないわ。山の中で居心地がよさそうだしね。武庫山は戦で荒らされてしまったし、伊勢の神宮は伊勢津姫様が封印されているから居心地はよくないでしょう」
「武庫山は戦で荒らされたのですか」
「そうよ。平清盛(たいらのきよもり)は福原に都を造る時に武庫山の木を大量に伐り出したし、源氏が平家を攻めた時は武庫山で戦も行なわれたわ。南北朝の戦の時も、赤松円心が山の上に城を築いたので、山中で戦が行なわれたのよ。武庫山では大勢の山伏たちが修行していて、神社やお寺がいくつもあったんだけど、戦で焼けてしまったものも多いのよ。今、思い出したけど、武庫山の中に『神呪寺(かんのうじ)』というお寺があるんだけど、そこに『如意尼(にょいに)』という面白い人がいたわ。五百年以上も前の人だから神様になって神呪寺にいるわよ。生まれは丹後の国(京都府北部)で、『ホアカリ(玉依姫の息子)』の子孫なのよ。幼い頃から霊力が強くて、十歳の時に京都に行って、六角堂(頂法寺)の如意輪観音(にょいりんかんのん)様に仕える巫女(みこ)になったの。そこで『空海(くうかい)』と出会ったのよ」
空海って誰ですか」とササは聞いた。
「お坊さんよ。若い頃は山の中を走り回っていて、唐の国に渡って仏教を学んで、帰って来てから熊野の近くの高野山(こうやさん)にお寺を造ったのよ。空海は霊力が強かったから瀬織津姫様の声が聞こえたのね。六角堂の如意輪観音瀬織津姫様の事だって、如意尼に教えたの。瀬織津姫様の事を知った如意尼は生涯、瀬織津姫様にお仕えしようと決めたんだけど、あまりにも美しすぎたために天皇に見初められて、御所に迎えられるの。天皇の妃(きさき)となって『真名井御前(まないごぜん)』と呼ばれて、五年間を過ごすんだけど、瀬織津姫様の事が忘れられなくて、空海の助けを借りて、御所を抜け出して武庫山に行くのよ。真名井御前は武庫山で空海の弟子になって、山々を歩き回って厳しい修行を積んだわ。そして、空海が師と仰いでいた役行者を慕って大峯山(おおみねさん)に行くの。大峯山は女人禁制(にょにんきんぜい)の山なんだけど、真名井御前はそんな事はお構いなしに大峯山に登って、二十一日間の修行を成し遂げたのよ」
「えっ、女人禁制のお山に登ったのですか」
「そうなのよ。天皇の妃で、しかも、空海の弟子だから、大峯山の大先達(だいせんだつ)たちも手が出せなかったのよ。真名井御前の気迫に負けたのに違いないわ。大峯山では真名井御前の事は隠してしまったけど、痛快だったわ。武庫山に帰った真名井御前は、空海が彫った如意輪観音像を本尊として神呪寺を建てたのよ。その時、正式に出家して如意尼と名乗ったの。会えばあなたと気が合うと思うわ」
「あたしが会う事ができるのですか」
「あなたが瀬織津姫様の事を話せば、きっと話に乗ってくると思うわ」
「わかりました。武庫山に行ったら会ってみます」
 ササたちは玉依姫と別れて、愛洲ジルーの船に戻ると赤間関(あかまがせき)に向かった。北畠(きたばたけ)氏の味方をした愛洲氏が博多に行くのは危険だというので、博多には寄らなかった。
 七月十七日に上関(かみのせき)に着いて、村上水軍のあやと再会した。あやは突然のササの出現に驚き、大喜びをしてササたちを迎えた。村上水軍南朝方として活躍していたので、愛洲ジルーたちも歓迎された。
 上関に二日間滞在して、あやの船に先導されて、鞆(とも)の浦、牛窓(うしまど)、室津と行った。武庫山に行きたかったけど、兵庫津に入るのは危険だとあやに言われて諦めて、淡路島に沿って南下して田辺に向かった。あやも熊野水軍に挨拶に行くと言って付いて来た。田辺まで来れば熊野水軍の領域だった。愛洲水軍も熊野水軍に属しているので安全だった。
 田辺から那智に行き、那智の滝にお参りした。残念ながら瀬織津姫の声は聞こえなかった。しかし、那智の滝を見上げていると、遙か昔に瀬織津姫がここにいらしたという事は感じられた。
 如意輪堂の前で偶然、愛洲ジルーたちは知り合いの山伏と出会った。覚林坊(かくりんぼう)という山伏は驚いた顔をしてジルーたちを見て、「無事に帰って来たのか」と聞いた。
「予定よりも帰るのが遅れてしまいました。戦があったようですが、皆、無事でしょうか」とジルーは覚林坊に聞いた。
「愛洲殿の兵も多気(たげ)まで出陣したんじゃが、敵も多気までは攻めて来なかった。詳しい事はわからんが、北畠殿の戦に同調して関東でも騒ぎが起きたようじゃ。幕府としても早々にけりを付けたいらしく、仲介役を送って来たようじゃな。まもなく、幕府軍も引き上げる事じゃろう」
 ジルーたちは安心して、ササたちを覚林坊に紹介した。若い娘たちを連れて琉球からやって来たと聞いて覚林坊は驚いていた。
 ササが『天川の弁才天社』に行きたいと言うと、また驚いて、険しい山道を歩いて三日は掛かると言った。どうして、天川の弁才天社に行きたいのかと聞いたので、ササは瀬織津姫様に会いに行くと言った。
琉球の娘が瀬織津姫様を知っているとは驚いた。確かに、天川の弁才天様は役行者殿が祀った瀬織津姫様だが、わざわざ、会いに行くとはのう。かなりきつい道のりだぞ。若い娘たちが行けるような所ではない」
「でも、どうしても会わなければならないのです。わたしたちを天川の弁才天社に連れて行って下さい」
 ジルーが詳しい説明をすると、「そなたはスサノオの神様と話ができるのか」と驚いた顔をして聞いた。
 ササはうなづいて、「瀬織津姫様はスサノオ様の御先祖様だと聞いております」と言った。
 覚林坊はササをじっと見つめた。
「わしの師匠は役行者殿の事を調べていて、わしは師匠と一緒に役行者殿にゆかりのある地を巡ったんじゃよ。葛城山(かつらぎさん)、箕面山(みのおさん)、笠置山(かさぎやま)、飯道山(はんどうさん)、愛宕山(あたごやま)に登って、四国の剣山(つるぎさん)と石鎚山(いしづちやま)と九州の彦山(ひこさん)、駿河の富士山にも登った。そして、役行者殿が瀬織津姫様を各地に祀っていた事を知ったんじゃよ。信じがたいが、瀬織津姫様が琉球のお姫様だったとは面白い。いいじゃろう。天川の弁才天社に案内しよう」
 宿坊に泊まったササたちは翌朝、覚林坊に従って、大雲取りを越えて熊野の本宮(ほんぐう)を目指した。本宮から熊野川に沿って北上して、険しい山道を歩き通し、三日目の夕方、ようやく、天川の弁才天社に到着した。
 若ヌルたちはお互いに励まし合って歯を食いしばって歩いた。一番辛そうだったのは喜屋武ヌルだった。阿蘇弥太郎に励まされて、何とか皆のあとを付いて来た。各地を旅していた飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)も辰阿弥(しんあみ)も、天川の弁才天社に来たのは初めてで、凄い所だと感激していた。
 山奥なのに妙音院というお寺があって、僧坊がいくつも建ち並び、山伏たちも大勢いた。若い娘たちがぞろぞろとやって来たので、山伏たちは奇異な目をしてササたち一行を見ていた。
 覚林坊に従って、両側に僧坊が建ち並ぶ参道を通って岩山の上に建つ本殿に登った。本殿には役行者が彫った弁才天が鎮座していた。その弁才天はイシャナギ島(石垣島)のウムトゥダギ(於茂登岳)で会った『サラスワティ』にそっくりだった。サラスワティがここに来たのは本当だったのだとササたちは感激した。
 五十鈴(いすず)を鳴らして、ササたちはサ弁才天にお祈りを捧げた。苦労してやって来たのに、瀬織津姫の声は聞こえなかった。
 ササはどっと疲れが出て来たが、疲れた顔を見せたら若ヌルたちが気落ちしてしまうので、「ここは瀬織津姫様が住むのに最高の場所だわ。でも、どこかにお出掛けみたい」と言って笑った。
 本殿から降りて、覚林坊はササたちを行者堂(ぎょうじゃどう)に連れて行った。お堂の中には錫杖(しゃくじょう)を持った『役行者』の像があった。
「わしら山伏にとっての神様じゃ」と覚林坊は言った。
 ササたちは無事にここまで来られたお礼を込めてお祈りをした。
「そなたは誰じゃ?」という声が聞こえたので、ササは驚いた。
「今の声、聞こえた?」とササは振り返って聞いた。
 シンシン、ナナ、カナ、玻名グスクヌル、喜屋武ヌルが驚いた顔をしてうなづいた。
「右から二番目にいる若い娘じゃ」と声は言った。
 ササは振り返って若ヌルたちを見た。右から二番目にいたのはマサキだった。
「わたしの弟子のマサキといいます。あの娘がどうかしたのですか」
「そなたたちはどこから来たんじゃ?」
琉球です」
「やはり、琉球から来たのか。何年か前に将軍の御台所(みだいどころ)(将軍義持の妻、日野栄子)と一緒に琉球の姫が熊野に来たと話題になったが、そなたたちだったんじゃな」
「そうです。源氏の事や平家の事を調べるために熊野に参りました。あなたは役行者様ですね?」
「そうじゃ。マサキが付けている勾玉はわしが琉球に行った時に、真玉添(まだんすい)(首里にあったヌルたちの都)にいた『沢岻(たくし)ヌル』に贈った物なんじゃよ。マサキは沢岻ヌルの子孫なのか」
 ササは母の馬天ヌルから聞いた話を思い出した。ヤマトゥから来た役行者がビンダキ(弁ヶ岳)に弁才天を祀ったと言っていた。
「それは違うと思います。真玉添は滅ぼされてしまいました。滅ぼされる前にヌルたちは勾玉を集めて山に埋めました。数年前に地震があって、埋められてあった勾玉が蘇ったのです。その中の一つがマサキの勾玉です。その勾玉を選んだマサキは役行者様に縁があったのだと思います」
「そうじゃったのか。わしは瀬織津姫様から琉球の事を聞いて、行ってみたくなったんじゃ。当時、勾玉は廃れていたが、琉球では喜ばれると聞いて持って行ったんじゃよ。まさか、その勾玉が戻って来るとは夢でも見ているようじゃ」
「どこに行ったら瀬織津姫様に会えますか」とササは聞いた。
「そいつは難しい問題じゃな。わしが初めて瀬織津姫様の声を聞いたのは武庫山じゃった。そして、この地に瀬織津姫様をお祀りした。その時、瀬織津姫様からお礼を言われて、琉球の事を聞いたんじゃよ。そして、最後に声を聞いたのは富士山に登った時じゃった。富士山から下りて、北麓の『剗(せ)の海』のほとりにあった『浅間大神(あさまのおおかみ)神社』にお参りした時、瀬織津姫様の声を聞いたんじゃ。浅間大神というのは瀬織津姫様の事で、富士山の神様として祀られていたんじゃよ」
「ここと武庫山と富士山なのですね?」
「わしが瀬織津姫様の声を聞いたのはその三か所だが、そこに瀬織津姫様がいらっしゃるかどうかはわからん。しかも、富士山の浅間大神神社は今はもうない。わしが行った時から百五十年くらい経った頃、富士山が大噴火して、剗の海も浅間大神神社も埋まってしまった。今では樹海になっている」
「埋まってしまったのですか‥‥‥」
 ササたちはお礼を言って役行者と別れた。
 覚林坊は驚いた顔をして、「役行者殿と話をしていたのか」とササに聞いた。
 ササはうなづいた。
「山伏も大先達になると神様の声が聞こえるようになると聞いた事があるが、実際に目にしたのは初めてじゃ。そなたたちは凄いのう」
 覚林坊はササたちを富士山まで連れて行ってやると約束してくれた。
 ササたちは将軍様の御台所様と一緒に熊野参詣をした琉球の姫様たちだと、覚林坊が弁才天社を守っている先達山伏に言ったため、ササたちは大歓迎された。その夜は歓迎の宴が開かれ、お酒と料理を御馳走になった。帰りは舟に乗って天(てん)ノ川を下り、熊野川を下って新宮(しんぐう)まで行った。
 若ヌルたちはキャーキャー騒ぎながら、川下りを楽しんでいた。ジルーたちも天川の弁才天社に行ったのは初めてで、行けてよかったと喜んでいた。あやもこんな山奥に来るなんて思ってもいなかったと楽しそうに笑った。
 新宮では新宮孫十に歓迎されて、天川の弁才天社に行って来たと言ったら驚いていた。ジルーの船は新宮で待っていて、次の日の八月五日、ジルーの故郷、『五ヶ所浦』に着いた。
 ササたちはジルーの父、愛洲隼人(あいすはやと)に大歓迎された。隼人は水軍を率いて伊勢湾まで出陣したが、尾張(おわり)の兵が海を渡って伊勢に行く事はなく、七月の半ばには五ヶ所浦に戻って来たという。
 五ヶ所浦は伊勢と熊野を結ぶ拠点として栄えていた。伊勢の神宮を参詣して、熊野に行く参詣客は五ヶ所浦から船に乗って新宮に向かった。逆に熊野参詣のあと、伊勢の神宮に行く人たちもいた。ただ、北畠氏が戦を始めたために参詣客も極端に減っていて、早く戦が終わる事を願っていた。
 ササはジルーの妻と子供たちに会った。ジルーを心配していた妻はジルーの無事の帰国に涙を流して喜んでいた。子供たちも泣いていた。その姿を見て、悪い事をしてしまったと後ろめたい思いに駆られていた。ミーカナとアヤーもゲンザ(寺田源三郎)とマグジ(河合孫次郎)の妻や子供と会い、後ろめたい気持ちになっていた。
 ササたちはジルーの案内で、五ヶ所浦から剣峠(つるぎとうげ)を越えて伊勢の神宮に向かった。ゲンザとマグジは荷物を下ろす指示をするために五ヶ所浦に残った。ミーカナとアヤーは若ヌルたちを守るために一緒に来た。
 伊勢の神宮は思っていたよりも近かった。正午(ひる)過ぎには内宮(ないくう)に着いた。『伊勢津姫』と呼ばれた瀬織津姫がいた所だった。正殿の下に『心御柱(しんのみはしら)』があって、伊勢津姫が封印されていると玉依姫は言っていた。伊勢津姫は怒りのために『龍神』になったのだろうか。
 お祈りをしたが瀬織津姫の声は聞こえなかった。瀬織津姫を祀っているという『荒祭宮(あらまつりのみや)』でお祈りしても、瀬織津姫の声は聞こえなかった。封印された伊勢津姫が瀬織津姫だったら、封印を解かなければ声を聞く事はできない。ここに封印されているのが瀬織津姫でない事をササは願った。
 外宮(げくう)に行って『ホアカリ』に挨拶をして、月読(つきよみ)神社にも挨拶をした。何となく、月読という神様は瀬織津姫の事ではないのかとササは感じた。小俣(おまた)神社に行って『トヨウケ姫』に挨拶をして、ジルーの知り合いの御師(おんし)の宿屋のお世話になった。
 五ヶ所浦に戻って、ジルーの船に乗って富士山に向かった。二日目に沼津に着いて、駿河の水軍、大森伊豆守(いずのかみ)に迎えられて上陸した。大森伊豆守は駿河や伊豆の参詣客を五ヶ所浦に連れて行っていて、愛洲氏とは古くからの付き合いがあった。
 雄大で形のいい富士山は美しく、船の上からササたちはうっとりしながら眺めていた。瀬織津姫がここまでやって来たわけがよくわかったような気がした。
 覚林坊の案内で、富士山の北側に回って『浅間大神神社』があった辺りに向かった。山中湖を過ぎ、河口湖を過ぎて、西湖(さいこ)に来た。西湖は埋まらずに残った『剗の海』の一部だという。その先は『青木ヶ原』と呼ばれる樹海が広がっていた。
「樹海の中に入ったら出て来られなくなると聞いている」と覚林坊が言った。
「こんな所にいないわよ」とシンシンが言った。
「きっと、お山の上よ」とナナが富士山を見た。
「でも、女子(いなぐ)は富士山に登れないんでしょ」とカナが言った。
 富士山は山伏たちによって女人禁制の山になっていた。
 富士山を見上げながら、大峯山に登った『真名井御前』を見倣って登ってしまおうかとササが考えていると、突然、ガーラダマがしゃべった。
「樹海の中よ」とガーラダマは言った。
 ササはガーラダマを握って、「わかったわ」と言って振り返ると、みんなに、「行くわよ」と言って樹海の中に入って行った。
「ササ、ガーラダマが蘇ったの?」とシンシンが聞いた。
「そうみたい。ガーラダマに案内してもらうしかないわ」
「出られなくなったらどうするの?」とカナが心配した。
 若ヌルたちも心配顔でササを見ていた。
「大丈夫よ」とササは若ヌルたちに笑うと先に進んで行った。
 ガーラダマの案内で、半時(はんとき)(一時間)ほど原生林の中を進んで行くと、「ここよ」とガーラダマが言った。
 ササは立ち止まって辺りを見回したが、樹木(きぎ)が生い茂っているだけで、今まで歩いて来た所と同じ景色しか見えなかった。
「この下に『パーリ』が造った都が埋まっているのよ」とガーラダマは言った。
「パーリ?」とササは聞いた。
「あなたが探している人よ。パーリは『垣花姫(かきぬはなひめ)』という名前で、筑紫(つくし)の島(九州)にやって来たのよ」
瀬織津姫様の童名(わらびなー)はパーリだったのですね?」
 ガーラダマの返事はなかった。ササたちはその場に跪(ひざまづ)いて、お祈りを捧げた。
「とうとう、ここまでやって来たわね」と神様の声が聞こえた。
 ササは感激して叫びたい心境だったが、気持ちを抑えて、「瀬織津姫様ですね?」と聞いた。
「『瀬織津姫』という名前は、わたしが那智にいた時の名前で、娘に譲ったのよ。ここでは『浅間大神』と呼ばれているわ。役小角(えんのおづぬ)(役行者)が弁才天瀬織津姫を習合したお陰で、瀬織津姫の名前が有名になってしまったのよ」
「何とお呼びしたらよろしいのでしょうか」
瀬織津姫で構わないわ。あなたがここに来る事は娘の阿蘇津姫から聞いていたのよ。琉球から来た娘がわたしを探しているってね。あなたは一体、誰なの? どうして、わたしが身に付けていたガーラダマを身に付けているの?」
 ササは瀬織津姫の妹の知念姫(ちにんひめ)から借りてきた事を告げた。
琉球にわたしの子孫がいたなんて驚いたわね」
「わたしも驚きました。そして、瀬織津姫様に会いたいと思ってヤマトゥにやって来たのです。豊玉姫様よりもずっと昔に琉球からヤマトゥに行って、偉大な神様になられた瀬織津姫様にどうしても会いたかったのです」
「偉大な神様だなんて‥‥‥わたしは偉大でも何でもないわ」
阿蘇津姫様は瀬織津姫様の娘さんだったのですか」
「わたしには六人の娘がいるのよ。長女が『阿蘇津姫』を継いで、次女は『日向津姫(ひむかつひめ)』、三女は『武庫津姫』を継いで、四女は『阿波津姫(あわつひめ)』、五女は『瀬織津姫』を継いで、六女は『浅間大神』を継いだのよ。五女は那智から伊勢に移って、『伊勢津姫』になったわ」
伊勢の神宮に封じ込められている伊勢津姫様も娘さんだったのですか」
「そうなのよ。あそこには伊勢津姫が祀られていたのに、伊勢津姫は封じ込められて、神宮が建てられたのよ。それでも、伊勢津姫の祟りを恐れて、今、外宮が建っている地に『月読の宮』を建てて、伊勢津姫を祀ったのよ」
「月読の神様は伊勢津姫様だったのですか」
「月読っていうのは後に付けられた名前で、以前は『アマテラス』と呼ばれていたのよ」
「えっ、伊勢津姫様がアマテラスだったのですか」
「そうよ。伊勢津姫が月の神様のアマテラスだったのよ」
「えっ? アマテラスは月の神様なのですか」
「そうなのよ。大昔の人たちにとって、月は最も尊い存在だったの。夜空を照らしてくれて、満ちては欠けて新生する。長い航海をする人たちにとって、星と共に重要な存在よ。潮の満ち引きにも関係しているしね。月よりも太陽が尊ばれるようになったのは、稲作が広まってからなの。月の神様の『アマテラス』に対して、太陽の神様として『アマテル』という男の神様が生まれるのよ。でも、アマテラスが太陽の神様に変えられてしまったので、アマテルは消えてしまったわ」
「アマテル様は瀬織津姫様の夫だった人ですよね?」
「そうよ。筑紫の島で出会って、わたしたちは結ばれたのよ。阿蘇にいた頃は『日向津彦(ひむかつひこ)』って呼ばれていたけど、亡くなってから太陽の神様として祀られたのよ」
「誰がアマテラスを太陽の神様に変えたのですか」
「『ウノノサララ姫(持統天皇)』という女の天皇よ。当時は強い者が天皇になれた時代だったので、サララ姫は伊勢の神宮に皇祖神(こうそしん)として『玉依姫』を祀ったの。サララ姫は玉依姫の子孫だったのよ。玉依姫の子孫でなければ天皇にはなれないという事を世に知らしめるために神宮を建てたのよ」
玉依姫様の子孫なら、伊勢津姫様の子孫でもあるんでしょう。どうして、伊勢津姫様を封じ込めたのですか」
「伊勢津姫の事は知らなかったのよ。霊力がかなり強い者でなければ、古い神様の事はわからないわ。伊勢津姫は恐ろしい『龍神』と間違えられて封じられたのよ。大昔に自然と一体化して暮らしていた人たちは神様の声を聞く事ができたけど、定住して暮らすようになってから、その能力は失われてしまったの。霊力の強い人だけが聞こえるようになって、その人たちは指導者になって人々を導くのよ。『日巫女(ひみこ)』と呼ばれた玉依姫のようにね。やがて、巫女たちも形だけ神様に仕えるようになって、神様の声が聞こえる者はいなくなってしまう。その後の時代で、わたしの存在を知ったのは、『役小角』と『空海』だけだわ。役小角は伊勢津姫が封じ込められる事を知って反対したんだけど、伊豆に流されてしまったのよ。母親を人質に取られていたので、役小角も止める事はできなかったわ」
「この下には琉球の垣花のような都があったのですか」
「そうなのよ。私の子孫たちが平和に暮らしていた都があったの。わたしには助ける事ができなかったわ。あんな大きな噴火が起きるなんて予想もできなかった。未だに悔やんでいるのよ。わざわざ会いに来てくれてありがとう。でも、これ以上はもう話せないわ」
 その後、何を聞いても瀬織津姫の返事はなかった。ササたちはお祈りを終えて、ガーラダマの案内で樹海から出た。
 入った所の反対側で、目の前に精進湖があって、富士山の上に満月が出ていた。
 満月を見つめながら、瀬織津姫は月の神様だったんだなとササはしみじみと思っていた。