長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-203.大物主(改訂決定稿)

 大粟(おおあわ)神社から鮎喰川(あくいがわ)を舟で下って八倉比売(やくらひめ)神社に戻ったササは、アイラ姫から父親のサルヒコの事を聞こうと思ったのに、アイラ姫はユンヌ姫と一緒に琉球に行ってしまっていた。幸いに『トヨウケ姫』がアキシノと一緒に残っていたので、ササはトヨウケ姫から『サルヒコ』の事を聞いた。
「父を祀った神社はいっぱいあるわ。阿波(あわ)の大麻山(おおあさやま)も、讃岐(さぬき)の金毘羅山(こんぴらさん)も父を祀っているのよ」とトヨウケ姫は言った。
「アイラ姫様が大麻山にサルヒコ様を祀ったと聞きましたが、金毘羅山にも祀ったのですか」
「金毘羅山は父が四国を平定した時に拠点にした場所なの。そこに神社ができて、役小角(えんのおづぬ)が金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)として、父を祀ったのよ」
役行者(えんのぎょうじゃ)様が‥‥‥そこに行けば、サルヒコ様に会えますか」
「多分、いないでしょう。いるとすれば、『三輪山(みわやま)』じゃないかしら」
三輪山も四国にあるのですか」
「四国じゃないわ。大和(やまと)の国(奈良県)よ。祖父(スサノオ)と父が三輪山の麓(ふもと)に都を造って、父はそこの御所にいて、ヤマトゥの国々をまとめていたのよ。亡くなったあと、三輪山に祀られたわ。父に会いたいの?」
「はい。一度も会っていないので、御挨拶したいのです」
「ちょっと気難しい人よ。でも、ササなら大丈夫ね。会ってくれると思うわ。三輪山に行くのなら住之江(すみのえ)の港から上陸すれば、一日で行けるわよ」
「住之江の港?」
「今、住吉大社(すみよしたいしゃ)がある所よ。あそこは重要な拠点だったから、祖父を祀る住吉大社ができたのよ」
 住吉大社なら熊野参詣に行く時にお参りしていた。宮司(ぐうじ)であり武将でもある津守摂津守(つもりせっつのかみ)が歓迎してくれたのをササは思い出した。
 御台所(みだいどころ)様(将軍義持の妻、日野栄子)と高橋殿に相談すると、兵庫に行って同じ道を帰るよりも、そっちの方が面白いと言って賛成してくれた。
 ササたちが勝瑞(しょうずい)の船着き場から船に乗って住吉大社に向かったのは九月の五日だった。いつの間にか九月になってしまい、ずっと南の島を旅していたササたちには、寒さが身に堪える季節になっていた。
 熊野参詣の時は何も考えずにお参りをした住吉大社も、ここにスサノオの拠点があったと聞いて、ササは興味を持ってお参りをした。
 宮司の話だと、ここだけでなく、重要な港には必ず住吉神社があって、博多とここをつないでいるという。対馬(つしま)と壱岐島(いきのしま)にも住吉神社はあった。カヤの国(朝鮮半島にあった国)から手に入れた鉄を運ぶ時、拠点となった港に、航海の無事を祈るための住吉神社が建てられたのだろうとササは思った。
 豪華な料理を御馳走になり、神宮寺(じんぐうじ)の宿坊(しゅくぼう)に泊まって、翌朝、三輪山に向かった。途中、河内(かわち)の守護所(しゅごしょ)がある高屋(羽曳野市)の城下に寄って、守護代の遊佐河内守(ゆさかわちのかみ)に歓迎されて、昼食を御馳走になったのはいいけど、護衛の兵まで付けてくれた。余計なお世話だが、御台所様が一緒にいるので仕方のない事だった。
 三輪山に着いたのは日暮れ近くになっていた。大和の国の奈良は南都と呼ばれて、昔、ヤマトゥの都だったはずだが、のどかな田園風景が続いていた。
「奈良の都はもっと北の方にあるわ。ここは大昔の都だった所よ」と高橋殿は笑った。
 御台所様も楽しそうに笑っていた。
 『三輪山』は富士山を小さくしたような形のいい山で、古くから神聖な山としてあがめられていた事がよくわかった。大三輪(おおみわ)神社(大神神社)の周辺には建物が建ち並んでいて賑やかだった。薄暗くなって来たので、参拝は明日にして、遊佐河内守が付けてくれた侍(さむらい)、水走助三郎(みずはいすけさぶろう)の案内で、ササたちは大きなお寺の宿坊に入った。高橋殿が一緒だと、泊まる所と食事の心配はしなくてもいいので助かっていた。
 そのお寺は平等寺という大三輪神社の別当寺(べっとうじ)で、奈良の都にある興福寺(こうふくじ)の末寺(まつじ)だという。興福寺は武力も持っていて、大和の国の守護も務めているという。お坊さんが国を治めていると聞いてササたちは驚いた。
「先代の将軍様足利義満)でも大和の国に守護として武将を送り込む事はできなかったのよ」と高橋殿は言った。
興福寺にも山伏がいっぱいいるのですか」とササは聞いた。
「ここは山伏がいっぱいいるけど、興福寺には僧兵がいっぱいいるのよ。最近はないけど、昔は気に入らない事があると、春日大社(かすがたいしゃ)の御神木(ごしんぼく)を奉じて京都まで行進して強訴(ごうそ)したのよ。相手が神様だから神罰を恐れて、手が出せないのよ」
武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)ですね」とササは聞いた。
 以前、高橋殿の屋敷で見た増阿弥(ぞうあみ)の田楽(でんがく)をササは思い出していた。
「そうよ。僧兵というのは弁慶みたいな人たちよ。頭巾(ずきん)をかぶって、大薙刀(おおなぎなた)を振り回すのよ」
 その夜の歓迎の宴(うたげ)では奈良の銘酒『菩提泉(ぼだいせん)』が出て来て、高橋殿は勿論の事、ササたちも、そのおいしいお酒を充分に堪能した。ササが『菩提泉』を琉球のお土産にしたいと言ったら、御台所様が将軍様に頼んであげると言ってくれた。
 翌日、平等寺の先達(せんだつ)山伏に連れられて、ササたちは大三輪神社に向かった。大三輪神社の神様は『三輪大明神(みわだいみょうじん)』あるいは『大物主大神(おおものぬしのおおかみ)』と呼ばれていて、どちらもサルヒコの別名のようだった。
 鳥居をくぐって参道に入ると、まっすぐ続いている参道の向こうに三輪山が見えた。参道には山伏、僧侶、神官、巫女(みこ)たちが行き交い、ササたちと同じように山伏に連れられた参詣客もいた。お寺や神社もいくつもあって、参詣客が一休みするお茶屋もあった。
 山門をくぐって境内に入ると正面に大きな拝殿があった。特に強い霊気は感じないが、心地よい神気が漂っていた。立派な拝殿の後ろに本堂はなく、三輪山御神体として祀っていた。
 ササたちは拝殿からお祈りをした。サルヒコの声は聞こえてこなかった。
 奥の宮はありますかとササは先達山伏に聞いた。奥の宮は三輪山の山頂にあるが登る事はできないという。先達山伏がどこかに行って宮司を連れて来た。御台所様と高橋殿の御威光(ごいこう)で、奥の宮には登れないが、拝殿の裏にある『三つ鳥居』に案内してくれた。
 三つの鳥居がくっついた不思議な鳥居があって、そこから先は神様の領域なので入れないという。拝殿ができる前は、ここでお祈りを捧げたが、拝殿ができてからは特別な人以外はここには入れないと宮司は言った。
 三つ鳥居の向こうには大きな杉の木が何本も立っていて、霊気がみなぎっていた。ササたちは三つ鳥居の前でお祈りを捧げた。
「ササというのはどいつじゃ?」という神様の低い声が聞こえた。
「わたしです」とササは答えた。
「話はトヨウケ姫から聞いた。琉球から来たそうじゃのう。アマン姫は元気にしておるかね?」
「はい。お元気です。アマン姫様を御存じなのですか」
「わしが親父(スサノオ)と一緒に九州に行った時、まだ六歳じゃった。わしらと一緒に九州平定の旅をしたんじゃよ。九州を平定して、わしらが九州を去った年に、アマン姫は琉球に行ったんじゃ。それ以後、会ってはおらん。十五歳の可愛い娘じゃった」
 神様は『サルヒコ』に違いないとササは確信した。
「そうだったのですか。アマン姫様は御先祖様として、琉球で大切に祀られております」
「そうか。それはよかった。『スクナヒコ』も大切に祀られておるのだな?」
「スクナヒコ? スクナヒコ様とはどなたですか」
「なに? スクナヒコを知らんのか」
 サルヒコは少し怒ったような口調だった。
「左端にいる娘はスクナヒコの子孫ではないのか」とサルヒコは言った。
 ササは驚いて、サルヒコから見て左端を見た。タミー(慶良間の島ヌル)がいた。
「あなた、スクナヒコ様を御存じなの?」とササはタミーに聞いた。
須久名森(すくなむい)の神様だと思います」とタミーは言った。
「えっ、須久名森? あそこに古いウタキ(御嶽)があるの?」
「わたしの伯母は須久名森のヌルでした」
「その娘が身に付けている勾玉(まがたま)は、わしがスクナヒコに贈ったものじゃよ」とサルヒコは言った。
「ええっ!」とタミーが驚いて声を上げた。
 ササたちも驚いてタミーを見ていた。
「これは伯母が身に付けていたガーラダマ(勾玉)です。でも、伯母はわたしが二歳の時に亡くなってしまったので、ほとんど覚えていません。母も十歳の時に亡くなってしまって、わたしは大叔父に育てられました。わたしがヌルになった時、大叔父は伯母がヌルだった事を話してくれました。そして、わたしがヤマトゥ(日本)に行く時、伯母の形見だと言って、このガーラダマをわたしの首に掛けてくれたのです。このガーラダマがそんなに古い物だったなんて、初めて知りました」
「スクナヒコは琉球では忘れ去られてしまったのか。情けない事じゃな」とサルヒコは言った。
「タミーと一緒に、わたしが復活させます」とササは言った。
「スクナヒコ様がどんなお方だったのか教えて下さい」
「奴のためじゃ。話してやろう。奴は豊玉彦(とよたまひこ)の船乗りとして琉球とヤマトを行ったり来たりしていたんじゃよ。わしが初めて奴と出会ったのは、当時、琉球に行く船が出ていたアイラ(鹿屋市)じゃった。小柄な男だったが、賢い奴でな、わしは軍師としてスクナヒコを迎えたんじゃよ。わしはスクナヒコと一緒に四国を平定してから、ここに来て、親父と一緒に三輪山の麓に都を造ったんじゃよ。この地がヤマトと呼ばれていたので、この国を『ヤマトの国』と呼び、今までに平定した国々をまとめて『大(おお)ヤマト』と呼ぶように決めたんじゃ。当時は奈良の盆地は湖になっていて、湿地帯も多かったんじゃ。稲作に適した土地だったんじゃよ。都ができてからも、わしらはここに落ち着く事なく、北へと向かって越(こし)の国(福井県、石川県、富山県新潟県)を平定して大ヤマトの国に加えたんじゃよ。ここに都が造れたのも、四国や越の国を平定できたのも、わしらだけでは無理じゃった。スクナヒコが一緒にいてくれたからできたんじゃ。奴は立派な軍師じゃった。決して忘れてはならない英雄なんじゃよ」
 そんな人がいたなんて全然知らなかった。
「勿論、豊玉姫(とよたまひめ)様もスクナヒコ様の事を御存じなのですね」とササは聞いた。
「当然じゃ。スクナヒコは豊玉姫様を送って、一緒に琉球に帰って行ったんじゃ」
 豊玉姫はどうして教えてくれなかったのだろうとササは思ったが、以前、ユンヌ姫が忘れ去られたウタキの事をササに教えて怒られたと言ったのを思い出した。教えられるのではなく、自分で見つけなければならないのだった。
琉球に帰ったら須久名森に行って、スクナヒコ様を探して、お祀りいたします」とササは約束してから、「サルヒコ様は大物主大神様と呼ばれていますが、『大物主』というのはどういう意味なのですか」とサルヒコに聞いた。
 琉球には『大主(うふぬし)』という尊敬すべき人に付ける称号がある。それと関係あるのかしらとササは思っていた。
「当時は天皇という言葉はなかったんじゃよ。国の指導者を『国主(くにぬし)』といい、いくつもの国をまとめている者を『大国主(おおくにぬし)』と呼んだんじゃ。当時、大ヤマトには三人の大国主がいた。九州をまとめていた『日向(ひむか)(宮崎県)の大国主』、中国地方と四国をまとめていた『出雲(いづも)(島根県)の大国主』、木の国(和歌山県)から越の国までをまとめていた『大和(奈良県)の大国主』の三人じゃ。その三人のうちの一人が、すべての国を治める『大物主』になるんじゃよ。親父は出雲の大国主として大物主になって、わしは大和の大国主として二代目の大物主になった。わしが亡くなったあと、出雲にいた『ホアカリ』が大和の都に来て、三代目の大物主になった。ホアカリが亡くなったあと、日向にいた九州の大国主だった『玉依姫(たまよりひめ)』が大物主になったんじゃよ」
「えっ、玉依姫様は『豊(とよ)の国(大分県)』にいたんじゃないのですか」
「親父が亡くなったあと、九州で戦が始まったんじゃよ。何とか平定する事はできたんじゃが、豊の国にいたのでは睨みがきかんので、玉依姫は日向の国に移ったんじゃ。日向の国には『隼人(はやと)』と呼ばれる南の島から来た人たちが住んでいた。豊玉姫様の娘の玉依姫は快く迎えられて、国主になったんじゃよ」
玉依姫様はここには来なかったのですか」
「来ていない。わしも呼びたかったんじゃが、九州を離れる事はできなかったんじゃろう。わしが亡くなってから五十年後、アイラ姫の孫娘がここにやって来て、大物主を継いでいる」
「えっ、アイラ姫様の孫娘が大物主になったのですか」
「そうじゃ。『豊姫(とよひめ)』じゃよ」
「えっ、豊姫様はアイラ姫様の孫娘だったのですか」
「そうじゃ。アイラ姫の娘が豊の国のミケヒコの孫に嫁いで、豊姫が生まれたんじゃよ。豊姫は玉依姫の跡継ぎになって、日向の大国主になったんじゃ。そして、わしの曽孫(ひまご)のアシナカヒコに嫁いで来た。玉依姫が亡くなって、大ヤマトの国々が分裂するのを防ぐために、豊姫は大和の都に嫁いで来たんじゃよ。豊姫の墓は近くにある。行ってみるがいい。それとな、生駒山(いこまやま)に『伊古麻津姫(いこまつひめ)』という古い神様がおられる。わしも何度か助けられたんじゃが、詳しい事はわからんのじゃ。お前ならわかるかもしれんな」
生駒山に行ってみます」とササは言ってから、「一つ聞きたい事があるのですが、玉依姫様は母親違いの妹ですよね。どうして、玉依姫様と結ばれたのですか」と聞いた。
「そんな事はわしにはわからん。好きになっちまったんだから仕方のない事じゃろう」
「当時は許されたのですか」
「今のように夫婦というものもなかったんじゃよ。同じ腹から生まれた兄妹が結ばれるのはうまくないが、腹が違えば何の問題もなかったんじゃ。玉依姫は実にいい女じゃった。いつも一緒にいたいと願っていたんじゃが、アイラ姫が生まれる前に別れて、その後、会う事はなかったんじゃ。お互いに亡くなってからはよく会っているがのう。実はお前の事は玉依姫からよく聞いていたんじゃよ」
 そう言ってサルヒコは笑っていた。
 ササはサルヒコにお礼を言って別れた。
 先達山伏の案内で、昔、大和の都があったという所に行ったが、稲刈りが終わった田んぼが広がっているだけだった。
「一千年余り前に、ここにヤマトの国の都があったと伝えられております。初代の天皇は『神武(じんむ)天皇』で、ここに立派な御所が建てられたそうです」と先達山伏は説明した。
神武天皇というのはスサノオの神様の事ですか」とササが聞いたら、
「まさか?」と言って先達山伏は笑った。
スサノオは熊野の神様じゃろう。大峯山(おおみねさん)の蔵王権現(ざおうごんげん)様もスサノオかもしれんが、神武天皇ではあるまい」
 そう言ったが少し考えてから、「神武という字は『神』と武勇の『武』じゃ。勇ましい神様と言ったら、スサノオという事になるのう」と言った。
 先達山伏は納得したように一人でうなづき、「もしかしたら、スサノオの神様の事かもしれんのう」とササを見て笑った。
 都の跡地の西側に大きな池があって、その中に樹木に覆われた大きなお墓があった。
 豊姫のお墓は『箸墓古墳(はしはかこふん)』と呼ばれていた。『日本書紀』という古い書物に、豊姫とは何の関係もない伝説が載っていて、いつしか箸墓古墳と呼ばれるようになったという。
 豊姫のお墓は前方後円墳と呼ばれていて、このお墓ができてから、このお墓を真似した大きなお墓が各地にできるようになったと先達山伏は言った。
 若ヌルたちが、「凄い!」と言って騒いでいた。ササたちは池の手前にひざまづいてお祈りを捧げた。神様の声は聞こえなかった。
「お留守かしら?」とササはお墓を見つめてから、空を見上げた。
「ちょっと待って」とアキシノの声がした。
「トヨウケ姫様が探しに行っているわ」
 ササはうなづいて、お祈りを続けた。
 ササが豊姫の事を知ったのは池間島(いきゃま)のウパルズの話からだった。その後、パティローマ(波照間島)に行って、パティローマ姫から豊姫が九州から奈良に嫁いだと聞いた。豊姫は玉依姫の弟、ミケヒコの曽孫と聞いていたので、ミケヒコを知らないササにとって、あまり馴染みはなかった。しかし、アイラ姫の孫娘だと聞いて、会いたくなっていた。
「連れて来たわよ」とトヨウケ姫の声が聞こえた。
「あなたの事は曽祖母様(ひいおばあさま)(玉依姫)から聞いているわ。会いに来てくれたのね。『ヌナカワ姫』が遊びに来たので、ちょっと、お山の上でお話をしていたの」と豊姫が言った。
「ヌナカワ姫様って、翡翠(ひすい)の国のお姫様ですか」とササは聞いた。
「そうよ。曽祖父様(ひいおじいさま)と結ばれて、二人の子供を産んだのよ」
「曽祖父様ってサルヒコ様の事ですか」
「そうよ。越の国を平定するために北に行った時、翡翠の国でヌナカワ姫と出会って、曽祖父様は一目惚れしたんですって」
瀬織津姫(せおりつひめ)様と仲良しだったヌナカワ姫様の子孫よ」とトヨウケ姫が言った。
翡翠の国の首長は代々、ヌナカワ姫を名乗っていたのよ」
「今もヌナカワ姫様はいらっしゃるのですか」
「今はもういないわ。勾玉が廃れてしまって、翡翠の国も消滅してしまったの。ヌナカワ姫の子孫は『奴奈川神社(ぬなかわじんじゃ)』の宮司を務めているわ」
「お祖母様(アイラ姫)は琉球に行ったそうね」と豊姫が言った。
「従妹(いとこ)のユンヌ姫様と一緒に行きました」とササは答えてから、「広田神社の浜の南宮で豊姫様が奉納した『宝珠(ほうじゅ)』を拝見いたしました」と言った。
「懐かしいわ」と豊姫は笑った。
「あの年は本当に大変だったわよ。大物主だった夫が筑紫(つくし)(福岡県)の香椎宮(かしいのみや)で、急に亡くなってしまったのよ」
「えっ?」とササだけでなく、何人かが言った。
「最初から話さないとわからないわね」と言って、豊姫は玉依姫が亡くなった時の事から話してくれた。
曽祖母様は偉大な人だったわ。曽祖母様が亡くなって、わたしは九州を統治していた『日向の大国主』を継いだのよ。大物主はホアカリ様の息子の大和の大国主が継ぐ事に決まったんだけど、大物主を継ぐ前に亡くなってしまったの。それで、誰が大物主になるのかが問題になったのよ。大和はホアカリ様の孫のアシナカヒコ様が大国主を継いで、出雲はイタケル様(サルヒコの弟)の曽孫のタケヒコ様が大国主を継いでいたわ。各国から長老たちが集まって相談したんだけど、なかなか決まらなかったわ。誰が継いだとしても内乱が始まりそうな雰囲気だったの。そして、決まったのが、日向の大国主のわたしが大和の大国主のアシナカヒコ様に嫁いで、二人で協力して大ヤマトの国々をまとめるという事だったの。わたしは大和の都に嫁いで、アシナカヒコ様が大物主になったわ。わたしは都の人たちに歓迎されたけど、都に落ち着く暇もなく、わたしたちは各国に挨拶回りをしなければならなかったのよ」
「九州の大国主が奈良に来てしまって、九州は大丈夫だったのですか」とササは聞いた。
「豊の国にはわたしの父がいて、日向の国には妹のソラツ姫がいたから大丈夫だろうと思ったのよ。わたしたちは角鹿(つぬが)(敦賀)の笥飯宮(けひのみや)に行って、木の国(和歌山県)の德勒津宮(ところつのみや)に行って、吉備(きび)(岡山県)の高島宮(たかしまのみや)に行って、国主たちに挨拶をしたわ。出雲の杵築宮(きづきのみや)に行って、出雲の大国主に挨拶をして、穴門(あなと)(長門)の豊浦宮(とよらのみや)に行った時、九州で問題が起きたのよ。南部にいる隼人たちが反乱を起こしたの。阿蘇津姫(あそつひめ)様の子孫たちで、山の中で暮らしている人たちなの。『熊襲(くまそ)』って呼ばれていたわ。海で暮らしている隼人たちは大ヤマトの国造りに協力してくれたけど、熊襲たちは反抗的だったの。それでも、曽祖母様が日向の国にいた時は、従ってくれていたのよ。曽祖母様が亡くなって、跡を継いだわたしが大和に行ってしまったので、また騒ぎ出したのよ。わたしが説得するって言ったんだけど、夫は攻め滅ぼすって言い張って戦支度を始めたの。わたしは熊襲退治よりも、カヤの国を攻めているシラの国(後の新羅)を退治すべきよと言ったけど、聞いてはくれなかったわ。筑紫の香椎宮に移って、戦の準備が整うと夫は兵を率いて松峡宮(まつおのみや)に向かったの。わたしは連れて行ってもらえなかったわ。お前が行けば静まるだろうが一時的な事だ。また騒ぎ出すに違いない。一気に滅ぼすと言って出陣したんだけど、負けてしまったのよ。夫は大怪我をして帰って来て、傷が悪化して亡くなってしまったわ。大変な事になってしまって、このまま帰るわけには行かなくなってしまったの。せっかくまとまり掛けていたのに、大物主の戦死が知れ渡ったら大ヤマトの国々は分裂してしまうわ。わたしは神様に祈って、シラの国を攻める事に決めたのよ。神様の御加護があって、航海も無事で、戦にも勝ったわ。筑紫に帰って、わたしは息子を産んだの。大和に帰る時、夫の息子たちが攻めて来たけど、それも何とか倒したわ。大和の都に帰って、わたしは大物主を継いだのよ」
「夫の息子たちって、豊姫様が嫁いだ時、別に奥さんがいたのですか」
「いたわ。わたしが嫁いだ時、夫は四十歳に近かったのよ。二人の息子がいて、わたしが息子を産んだのを知って、わたしたちを亡き者にしようと攻めて来たのよ。シラ国攻めが成功したお陰で、わたしは大物主になる事を認められて、大ヤマトの国々も分裂する事はなかったわ。わたしを守ってくれた瀬織津姫様に感謝して、広田神社を創建したのよ」
 お墓の東側にあったという都の様子を聞いて、ササたちは豊姫にお礼を言って別れた。
 平等寺に帰って昼食を食べ、午後は三輪山の東側にある長谷寺(はせでら)をお参りした。このお寺にも大勢の山伏たちがいた。高橋殿は先代の将軍様と一緒に来た事があると言った。
 翌日、生駒山に向かって、途中、南都の興福寺に寄った。大和の国の守護を務めているだけあって、興福寺は大きなお寺だった。噂に聞く僧兵も大勢いた。頭巾をかぶって腰に刀を差し、薙刀(なぎなた)や槍を杖(つえ)代わりに突いていた。先代の将軍様興福寺にはよく来ていたらしく、先代の将軍様が利用した宿坊に案内されて、昼食を御馳走になった。
「北山殿(足利義満)と一緒にここに来て、一乗院で世阿弥(ぜあみ)様の猿楽(さるがく)を観たのを思い出したわ」と高橋殿が言った。
「わたしが側室になったばかりの頃よ。もう二十年も前の事ね」
 昼食の後、興福寺別当を務めている春日大社をお参りした。春日大社の神様は藤原氏の神様で、御台所様の実家の日野家藤原氏なので、お参りができてよかったと御台所様は喜んでいた。
「ここの神様は俺の故郷の神様ですよ」と飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)が言った。
香取神宮の『フツヌシ』の神様と鹿島神宮の『タケミカヅチ』の神様です。どちらも武芸の神様です」
「えっ、藤原氏の神様って、武芸の神様だったの?」と御台所様が驚いた。
「それに、関東の神様がどうして、藤原氏の神様なの?」
 修理亮は首を傾げたが、案内してくれた興福寺の山伏が答えてくれた。
藤原氏の御先祖様の中臣鎌足(なかとみのかまたり)様は常陸(ひたち)の国(茨城県)で生まれたようです。詳しい事はわかりませんが、父親が鹿島神宮の神官だったとも伝えられています。鎌足様の息子の不比等(ふひと)様が、春日山に鹿島の神様をお祀りしたのが春日大社の始まりのようです」
香取神宮の大宮司(だいぐうじ)は大中臣氏で、鹿島神宮の大宮司を務める鹿島氏も中臣姓だったと聞いた事があります」と修理亮が言った。
 香取と鹿島の神様の事は以前、ホアカリから聞いた事があった。ホアカリは浅間大神(あさまのおおかみ)と関係ありそうだと言っていた。もしかしたら、瀬織津姫の孫たちだろうかとササは思った。
「あなた、故郷に帰りたくなったんじゃないの?」とカナ(浦添ヌル)が聞いた。
 修理亮は笑いながら首を振って、「まだ帰れんよ。まだまだ修行を積まなければならん」とカナに言った。
 興福寺門前町には商人たちの大きな屋敷が並んでいた。興福寺の山伏の案内で、ササたちは奈良の街中を通り越して西へと向かった。途中でちょっとした峠を越えたがあとは平坦な道で、一時(いっとき)半(三時間)ほどで生駒山の東麓にある『生駒神社(往馬坐伊古麻都比古神社)』に着いた。
 鳥居をくぐって石段を登り、山門をくぐって、さらに石段を登ると拝殿が見えた。どこからか巫女を連れた宮司が現れて、ササたちを出迎えた。興福寺から知らせが入ったとみえて、宮司は御台所様と高橋殿がいる事を知っていた。宮司の案内で拝殿に行き、本殿の方を見るといくつものお堂が並んでいた。
「当社は七座の神様を祀っております」と宮司が言った。
「創建当初は生駒山の神様であられる伊古麻津彦(いこまつひこ)様と伊古麻津姫様を祀っておりましたが、東大寺が建てられた頃、神功皇后(じんぐうこうごう)様、神功皇后様の夫の仲哀(ちゅうあい)天皇様、お二人の息子の応神(おうじん)天皇様、それと、神功皇后様の御両親様の五座の神様が加わったようでございます」
 中央におられるのが伊古麻津姫様かと聞いたら、伊古麻津姫様は一番右端で、中央におられるのは仲哀天皇様だと宮司は言った。
 一体、誰が伊古麻津姫様を隅の方に追いやってしまったのだろうとササは少し腹を立てていた。
 お祈りを捧げると、すぐに神様の声が聞こえた。
「阿波の叔母様(阿波津姫)からササの事を聞いて待っていたのよ」
「『伊古麻津姫様』ですか」とササは聞いた。
「そうよ。母は武庫津姫(むこつひめ)、祖母は瀬織津姫よ。祖母が突然、現れたのでびっくりしたわ。祖母が元気になったのはササのお陰だってね、ありがとう」
 神様にお礼を言われて何と答えたらいいのかわからず、ササは別のことを聞いた。
「伊古麻津姫様はどうして、生駒山にいらっしゃったのですか」
「当時はね、生駒山は半島のように突き出ていて、東側も西側も海だったのよ。武庫山からお舟で来られたのよ。三輪山の近くまでお舟で行けたわ。伊勢に叔母の伊勢津姫様がいたので、わたしは伊勢までの陸路を開いたのよ。母のいる武庫山から伊勢まで行くのは木の国(和歌山県)を一回りしなければならないので遠いのよ。陸路も険しい山道だけど、お舟で行くよりも早く着けたわ。伊勢まで行けば、祖母のいる富士山も近いしね」
「サルヒコ様たちがここに来る前から、伊古麻津姫様の御子孫たちがこの辺りに住んでいたのですね」
「そうよ。サルヒコが来た時、わたしの子孫のトミヒコはサルヒコに従ったのよ。トミヒコの妹がサルヒコに嫁いで、うまくやっていたわ。でも、サルヒコが亡くなるとトミヒコは妹が産んだ『ウマシマジ』に大物主を継がせようとして、出雲から来たホアカリを倒そうとしたのよ。ホアカリはサルヒコの息子だから喜んで迎えなさいと言ったんだけど、言う事を聞かなかったわ。神罰が下ってトミヒコは亡くなったのよ。ウマシマジは伯父に反対して、岩屋に閉じ込められていたから助け出されて、兄のホアカリに仕えたわ。尾張(おわり)(愛知県)と美濃(みの)(岐阜県)を平定したのはウマシマジだったのよ。お陰でわたしの子孫たちは尾張や美濃にもいるわ」
 聞きたい事があったような気がしたけど、日も暮れてきたので、伊古麻津姫様と別れて、ササたちは神宮寺に行って宿坊に納まった。
 次の日は役行者が開いたという山の中にある『千光寺』を参詣した。遊佐河内守の家臣の水走助三郎は生駒山の西麓にある枚岡(ひらおか)神社の宮司の息子だった。生駒山の事なら任せておけと言って案内してくれた。覚林坊(かくりんぼう)も千光寺には行った事があると言っていた。
 九月九日の重陽(ちょうよう)の節句で、境内には菊の花が飾られて、菊酒が振る舞われていた。いい時に来たわねと皆で喜んで、綺麗な菊の花を眺めながら、ササたちは菊酒を御馳走になった。
 生駒山役行者が開いた修験(しゅげん)の山で、空海も修行を積んでいたらしい。山伏たちも集まって来て、重陽節句を祝っていた。
 琉球の交易船が兵庫に着いたとアキシノが知らせてくれたので、ササたちは京都に帰る事にした。