長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-220.被慮人探し(改訂決定稿)

 ササ(運玉森ヌル)と安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)が須久名森(すくなむい)の山頂で『鎮魂の曲』を吹いた翌日の夕方、首里(すい)の『まるずや』で四度目の戦評定(いくさひょうじょう)が開かれた。安須森ヌルと一緒にササも加わっていた。奥間(うくま)から帰って来たウニタキ(三星大親)はサタルーを連れていた。
「奥間の状況を知らせてくれ」と思紹(ししょう)(中山王)が言った。
 ウニタキはうなづいて説明した。
「家々はすべて焼け落ちました。残っているのは諸喜田大主(しくーじゃうふぬし)がいる長老の屋敷とヌルの屋敷と八幡(はちまん)神社だけです。サタルーが村人の半数余りが殺されたという噂を流したので、ヤンバル(琉球北部)の按司たちは心配して、配下の者に様子を見に来させました。焼け跡となった村を呆然として眺めて、粗末な避難小屋で暮らしている村人たちを慰めて、長老と奥間ヌルに会って、村人が全員無事だと知ると安心して帰って行きました。たとえ、村人たちが無事だったとしても、ヤンバルの按司たちは山北王(さんほくおう)(攀安知)の仕打ちに怒っています。真喜屋之子(まぎゃーぬしぃ)が今、国頭(くんじゃん)にいます。まずは国頭按司を寝返らせて、羽地(はにじ)、名護(なぐ)と寝返らせます」
「羽地按司も寝返りそうか」
 ウニタキはうなづいた。
「羽地按司の母親は奥間から贈られた側室でした。先代の羽地按司の妻は若くして亡くなって、奥間から贈られた側室を後妻に迎えたのです。羽地按司だけでなく、弟の饒平名大主(ゆぴなうふぬし)も、名護按司に嫁いだ妹も、羽地ヌルも皆、後妻の子供たちです。後妻は今も健在で、リーポー姫(永楽帝の娘)様たちが羽地に行った時は、女たちを指図して昼食の用意をしていました」
「そうか。羽地按司の母親が奥間出身じゃったか」と思紹は満足そうな顔をして皆を見回した。
「後妻は大層怒っているようです。そして、羽地は米作りが盛んですから、農民たちは農具を作る鍛冶屋(かんじゃー)のお世話になっていて、農民たちもひどい事をすると憤(いきどお)っています」
 思紹はうなづいて、「名護はどうじゃ?」とウニタキに聞いた。
「松堂(まちどー)殿はカンカンに怒って、名護按司に山北王とは手を切れと言ったようです。寂れていた名護が盛り返してきたのは、中山王(ちゅうざんおう)がピトゥ(イルカ)の肉を買ってくれたお陰じゃ。何もしてくれない山北王には用はないと言ったそうです」
「そうか」と思紹はニヤッと笑った。
「サタルーは恩納(うんな)、金武(きん)、山田、伊波(いーふぁ)、安慶名(あぎなー)、勝連(かちりん)、北谷(ちゃたん)にも噂を流しています。恩納と金武にも奥間の側室はいて、噂を聞いて悲しみ、すぐに奥間に使者を送っています。恩納も金武も『まるずや』の世話になっているので、寝返るでしょう。山田、伊波、安慶名、勝連、北谷にも奥間の側室はいて、皆、悲しんでいます。ヤンバルの按司たちが寝返れば、山北王を倒せと言うでしょう」
「今日は正月の二十四日じゃな。奥間の者たちの避難を長引かせたくはないからのう。一か月で準備をして、三月の初め頃に攻めるか」と思紹が言った。
「キラマ(慶良間)の若者たちは今、何人いるのですか」とサハチ(中山王世子、島添大里按司)がヒューガ(日向大親)に聞いた。
「男が八百、娘が百といった所じゃな」
「二年足らずの修行者は無理じゃから六百か」と思紹が言うと、
「五百じゃよ」とヒューガが言った。
「今は男を百五十、娘を三十、毎年入れているんじゃ」
「なに、増やしたのか」
「昔と違って、素質のありそうな子供に首里のサムレーにならないかと誘えば皆、喜んで島に行くんじゃよ。娘もそうじゃ。女子(いなぐ)サムレーにならないかと言えば目を輝かせて喜ぶ。それに領地が広がって、浦添(うらしい)、八重瀬(えーじ)、具志頭(ぐしちゃん)、山グスク、手登根(てぃりくん)、ミーグスクと毎年のように補充していたからのう。百人では間に合わなかったじゃろう」
「そうじゃったのう。マニウシが続けてくれたので助かったな。まあ、五百いれば充分じゃろう」
「その五百の兵をどこに隠しておくのですか」とサハチが聞いた。
「前回は運玉森(うんたまむい)の整地をしておったのう」と苗代大親(なーしるうふや)が言った。
「どこかにグスクでも築くか」
「グスクもいいのですが、首里に庭園を造ったらどうでしょうか」とファイチ(懐機)が言った。
冊封使(さっぷーし)たちが、首里にのんびりと散歩ができる庭園があればいいと言っていました。都には必ず、庭園があります。大きな池があって、日陰になる木があって、所々に休憩する四阿(あずまや)があって、誰もが自由に散歩を楽しめる庭園です」
「それだ!」とサハチが手を打った。
「お寺をいくつも建てたけど、何かが足りないと思っていたんだ。庭園は是非とも造らなければならない。会同館の横辺りに大きな池を造ろう」
 思紹はヂャンサンフォン(張三豊)と一緒に明国(みんこく)を旅した時の事を思い出していた。都には必ず、一休みする場所があった。しかし、首里にはそれがない。遠くからやって来た旅人が休める場所は造らなければならなかった。
「よし、それでいこう」と思紹が言った。
「島から来た若者たちは、そこの人足(にんそく)として働いてもらおう。大規模な庭園を造り始めたと思わせておけば、山北王も油断するじゃろう」
「三月の初めに今帰仁(なきじん)を攻めるのですか」と安須森ヌルが思紹に聞いた。
「奥間の者たちのためにも、それがいいのではないのか」
「できれば、今帰仁のお祭り(うまちー)をさせてあげたいのです。油屋のユラは今、張り切ってお芝居のお稽古をしているでしょう」
今帰仁のお祭りはいつなんじゃ?」
「三月二十四日です」
「三月下旬か。奥間の者たちがそれまで待ち切れんじゃろう」
「ユラのために出陣を延期したと言えば、油屋も寝返り易くなりますよ」とファイチが言った。
「確かに『油屋』は味方に付けなくてはならんが‥‥‥」
「三月の初めだと、船はまだ出せないかもしれんのう」とヒューガが言った。
「兵糧(ひょうろう)は船で運ばなければならんから、三月じゃ無理か」と思紹は坊主頭をたたいた。
「三月三日の久高島参詣(くだかじまさんけい)はどうしますか」と馬天(ばてぃん)ヌルが聞いた。
「中止にすれば、女たちが騒ぐな」と思紹は顔をしかめた。
「三月十九日の中グスクのお祭りはどうしますか」と安須森ヌルが聞いた。
「クマヌ(先代中グスク按司)の命日か」
「去年までは身内だけで集まっていたけど、今年は城下の人たちにも先代を偲んでもらいたいといって、お祭りにしたのです。久場(くば)ヌルも中グスクヌルも女子サムレーたちも成功させたいと頑張っています。中止させるのは可哀想です」
「仕方ないのう。奥間の人たちには悪いが、やはり、出陣は四月一日じゃな。サタルー、先は長いがヤザイム殿にそう伝えてくれ」
「大丈夫です。中山王が動いてくれれば、奥間の者たちも我慢しますよ」
 思紹はうなづいて、「ところで、旅に出たファイテ(懐徳)とジルークは今、どこにいるんじゃ?」とウニタキに聞いた。
「二日前には今帰仁にいました。今頃は奥間の避難民たちの所にいるかもしれません」
「ほう。もう、今帰仁まで行ったのか」
「ウニタルとマチルーが一緒なので、名護では松堂殿の世話になったそうです。二人が『国子監(こくしかん)』に留学していた事を知ると松堂殿は驚いて、明国の事を色々と聞いたようです。二人は松堂殿に歓迎されて二晩、お世話になっています」
「あの二人も松堂殿の世話になったか。名護は完全に寝返るな」
「山北王の様子はどうなの?」とササがウニタキに聞いた。
「奥間を攻めたら自分が不利になるってわからなかったの?」
「山北王が何を考えているのかはわからんが、奥間を攻めた並里大主(なんじゃとぅうふぬし)と仲宗根大主(なかずにうふぬし)は城下の者たちから白い目で見られている。誰も殺してはいない。行った時はもう村には誰もいなかったと言い張っているが信じてもらえないようだ。山北王の側室のウクとミサはお芝居小屋で、奥間炎上の噂を聞いて、山北王に会いに行ったが会ってくれなかったようだ。それでも、奥間から知らせが入ったらしく、村人たちが全員無事だと知って、お芝居小屋に戻った。その後、お芝居小屋でユラたちと一緒に寝泊まりしていて、御内原(うーちばる)には行かないそうだ。もしかしたら、山北王は密かに抜け出して、沖の郡島(うーちぬくーいじま)(古宇利島)に行ったのかもしれんな」
「密かに抜け出して?」と思紹が言った。
今帰仁グスクには抜け穴があるのか」
「それはわかりませんが、幼い頃にグスクを追い出された千代松(ちゅーまち)が造ったグスクですから、どこかに抜け穴があるのかもしれません」
「抜け穴があったら逃げられてしまうではないか」
今帰仁グスクから出た山北王を狙うのはわけない事です」とウニタキは言った。
「沖の郡島にいる山北王を殺しても、山北王は消えません。弟の湧川大主(わくがーうふぬし)が新しい山北王になるでしょう。山北王を消すには今帰仁グスクを攻め落とすしかないのです」
「そうじゃな。あのグスクにいるから山北王なんじゃな」
「湧川大主は何をしているんだ? 今帰仁に行ったのか」とサハチは聞いた。
「それが不思議なんだよ。謹慎中だからって、世間が奥間の事で騒いでいるのに何の興味も示さず、羽地にいる息子に武当拳(ウーダンけん)を教えているんだ。鬼界島(ききゃじま)(喜界島)の負け戦で、湧川大主は魂(まぶい)を落としてきたのかもしれんな」
リュウイン(劉瑛)がいなくなって、湧川大主もいなくなれば、山北王は終わりじゃな」と思紹が笑った。
「いえ、湧川大主を甘く見てはいけません。馬鹿を装って、裏で何かをたくらんでいるのかもしれません」とサハチは思紹に言ってからウニタキを見た。
「わかっている。奴の配下の動きはちゃんと見張っている」
 サハチはうなづいた。
「山北王が何で奥間を攻めたのか理解できないわ」とササが言った。
「クーイの若ヌルにそそのかされたのかもしれん」とウニタキが言った。
「奥間攻めを諸喜田大主に命じたのは、山北王が沖の郡島から帰って来て、すぐだったらしい。サハチには話したんだが、クーイの若ヌルの母親はマチルギの従姉(いとこ)なんだよ」
「ええっ?」とマチルギが驚いた。
「どうして、わたしの従姉が沖の郡島にいるの?」
「クーイの若ヌルの祖母は今帰仁若ヌルだったんだ。帕尼芝(はにじ)に滅ぼされた時、沖の郡島に流されて、クーイヌルを継いだようだ」
「父の姉が今帰仁若ヌルだったって聞いた事があるわ。姉は殺されてしまったんだろうって父は言っていたけど、沖の郡島で生きていたのね」
今帰仁若ヌルだった祖母は娘に何も告げずに亡くなったので、クーイヌルも若ヌルも山北王が敵(かたき)だという事は知らないんだ。でも、山北王とクーイの若ヌルが結ばれたのは、何かわけがあるような気がする」
「奥方様(うなぢゃら)の従姉のクーイヌルは正式にクーイヌルの跡を継いだの?」とササが言ったので、ウニタキは驚いた。
「シズが沖の郡島に行って調べたんだが、先代の『天底(あみすく)ヌル』だったというお婆と出会って、そのお婆はクーイヌルは偽者だと言ったそうだ。今帰仁若ヌルが島に流される十年程前にクーイヌルは絶えてしまったらしい。お婆はいつか必ず、クーイヌルを継ぐ者が現れると言ったようだ」
「それはナナよ」とササが言った。
「なに?」とサハチはササを見た。
「ナナが首から下げているガーラダマはクーイヌルのガーラダマなのよ。真玉添(まだんすい)(首里にあったヌルたちの都)が滅びる時、真玉添にいて、アキシノ様と一緒に与論島(ゆんぬじま)まで逃げたのよ」
「それじゃあ、ナナがクーイヌルを継ぐのか」とサハチは驚いた顔をしてササに聞いた。
 ナナはルクルジルー(早田六郎次郎)の従妹だった。富山浦(プサンポ)(釜山)で生まれたが、母親は対馬の女だと聞いている。対馬の娘のナナがクーイヌルを継げるのか、サハチにはよくわからなかった。
「それはクーイヌルの御先祖様に会ってみなければわからないわ」
「沖の郡島は危険だ。行くなよ」とウニタキがササに釘を刺した。
「急ぐ事でもないから、山北王を倒してから行くわ」とササは言った。
 そのあと、ササのお土産の奈良の銘酒『菩提泉(ぼだいせん)』をみんなで飲んで、ササのお土産の琵琶(びわ)をウニタキが弾いた。弦が四本もあるのでよくわからんと言いながらも、やがて弾けるようになって、琵琶を弾きながら歌を披露した。ウニタキは琵琶が気に入って、ササは買ってきてよかったと喜んだ。


 対馬大親(つしまうふや)に任命されたカンスケと一緒に、李芸(イイエ)は倭寇(わこう)に連れ去られた被慮人(ひりょにん)を探していた。
 会同館での歓迎の宴(うたげ)の翌日、浮島(那覇)に戻った李芸は若狭町(わかさまち)に行って、マチルギの紹介状を見せて、遊女屋(じゅりぬやー)『松風楼(まつかぜろう)』の女将(おかみ)と会っていた。ヤマトゥ(日本)のサムレー相手の商売なので、女将はヤマトゥ言葉がしゃべれた。
 マチルギの話からサハチの話になって、李芸が朝鮮(チョソン)に来たサハチと会った事を話すと、女将は笑いながら、
「随分と昔にわたしも会いました」と言った。
「まだ、マチルギさんと出会う前です。去年、亡くなってしまいましたが、宿屋をやっていたハリマさんに頼まれて、サハチさんと会ったのです。こいつは将来、ど偉い事をするだろうとハリマさんは言っていました。わたしも見守っていましたが、まさか、中山王を倒すなんて思ってもいませんでしたよ」
 そう言ってから女将は、マチルギさんには内緒にしておいて下さいねと言った。李芸は笑ってうなづき、本題に入った。女将は昔の事を話してくれた。
「わたしがここに来た頃、もう三十年余りも前の事だけど、その頃は高麗(こうらい)の娘たちがいっぱいいました。倭寇たちによって市場も開かれて、高麗人の売り買いもされていたのです。わたしが二十歳の頃だったと思うけど、当時の中山王(察度)が高麗に使者を送りました。その時、倭寇に連れ去られてきた高麗人を集めて、高麗に送り返したのです」
 李芸が十七歳の時だった。琉球から富山浦に船が来て、倭寇にさらわれた人たちが帰って来たと噂が流れた。母がいるかもしれないと思い、李芸は富山浦に飛んで行った。その後も琉球からの船は何度も来ていて、その度に母を探しに富山浦まで行っていた。
「先代の中山王(武寧)の時代になると取り締まりも厳しくなりました。先代の中山王の母親は高麗人だったらしくて、高麗人を売り買いする事は禁止されて、市場も壊されました。その頃になると、ヤマトゥでも倭寇にさらわれた人たちを高麗に返して、『大蔵経(だいぞうきょう)』を手に入れようと考える人が多くなって、琉球に来る高麗人は減ってきました。その頃はもう朝鮮(チョソン)という国になっていたわね。先代の中山王は四回、朝鮮に使者を送りました。遊女(じゅり)をしていた人たちも年齢(とし)をとって遊女はできなくなって、みんな、そのお船に乗って帰って行ったのです」
「若い朝鮮の娘がいましたが、倭寇にさらわれて来た娘ですか」
「違います。昔と違って、倭寇働きする人はかなり減って来ています。自ら商人になるか、あるいは商人たちの護衛役を務めています。危険を冒して倭寇働きをするよりも、商売をした方が得だとわかってきたのです。あの娘たちは貧しい島の娘たちで、親に売られて琉球に来たのです。決められた仕事をしたあとは、自分で稼いだ銭を持って島に帰ります。器量のいい貧しい娘を探して琉球に来る専門の商人がいるのです」
「あの娘たちが島に帰りたいと言ったら手放しますか」
 女将は笑った。
「帰りたいとは言わないでしょう。島に帰れば食べるのにも困ります。ここにいれば、おいしい物が食べられますからね」
 李芸は女将の許可を得て、朝鮮の娘たちと会った。娘たちは楽しそうに遊女たちと一緒に暮らしていた。その笑顔を見て、李芸には何も言えなかった。朝鮮には両班(ヤンバン)の食い物にされている貧しい人たちが大勢いる事を李芸は知っていた。この娘たちは強制的に連れて来られたのではないと思い、連れて帰るのは諦めた。
 翌日、島添大里(しましいうふざとぅ)に行った李芸たちはサハチと会い、城下の屋敷を借りて、そこを拠点にして東方(あがりかた)を探す事にした。その日は島添大里と佐敷を探したが、朝鮮人(こーれーんちゅ)を探す事はできなかった。


 正月二十七日、冊封使のお礼のために送る山南王(さんなんおう)(他魯毎)の進貢船(しんくんしん)と一緒に、中山王の進貢船も船出して行った。サハチの六男のウリーとマタルー(八重瀬按司)の長男のハチグルーがクレー(シビーの兄)と一緒に乗っていた。
 ヤマトゥから帰って来たばかりのクレーだったが、明国に行ってくれと頼むと驚いた顔をして、俺が明国に行けるのですかと喜んで承諾してくれた。
「どうして、嫁をもらわないんだ?」とサハチが聞くと、
「好きだった娘が嫁に行ってしまって、それから立ち直れないんです」とクレーは言った。
「いつの話だ?」
 クレーは首を傾げてから、「もう十年になりますね」と言って苦笑した。
「十年も立ち直れないなんて、余程の美人(ちゅらー)だったんだな」
「今はもう面影がありませんよ。子供が四人もいますからね」
 サハチは笑って、「ウリーたちを頼むぞ」とクレーの肩をたたいた。
 ウリーが明国でリーポー姫と再会するかどうかはわからないが、様々な経験をして、一回り成長して帰って来るだろうとサハチは進貢船を見送った。
 その日、糸満(いちまん)の港で山南王の進貢船を見送っていた李芸は朝鮮人らしい夫婦を目撃した。見た目は琉球人だが、しゃべっている言葉が朝鮮の言葉だったような気がした。声を掛けようとしたが、人混みに紛れて見失ってしまった。山南王の許可を得ているので、李芸は照屋(てぃら)グスクに行って照屋大親(てぃらうふや)と会った。
 長い間、交易担当をしているので、照屋大親はヤマトゥ言葉がしゃべれた。李芸は城下に朝鮮人はいないかと聞いた。
 先代の中山王の側室になった高麗人の家族が、浦添グスクが焼け落ちた時に逃げて来たので匿(かくま)ったと照屋大親は言った。
「中山王が毎年、朝鮮に船を送っているので、頼めば故郷に帰れるぞと言っているんじゃが、政権が変わったので、帰っても殺されるじゃろうと言っているんじゃよ。詳しくはわからんが高麗だった頃の重臣の倅のようじゃ。先代の中山王が朝鮮に使者を送った時、その船に乗って、一族を連れて逃げて来たようじゃ。美人だった娘は先代の中山王の側室になって、一族の者たちは屋敷を与えられて浦添で暮らしていた。浦添グスクが炎上して、側室になった娘は亡くなり、敵が攻めて来ると聞いて逃げて来たようじゃ。そなたが今の朝鮮の様子を話したら帰る気になるかもしれん。会ってやってくれ」
 李芸は照屋大親の息子の東原之子(あがりばるぬしぃ)に案内されて、朝鮮人たちが住む屋敷に行った。そこは思っていたよりも立派な屋敷だった。後原之子(くしばるぬしぃ)と名乗って祐筆(ゆうひつ)を務めていたが、二年前に隠居したという。
「なかなかの達筆ですよ」と東原之子は言った。
 後原之子は李芸が朝鮮から来た使者だと知ると驚いた。自分を捕まえに来たのかと怯えたので、そうではない事を説明した。後原之子は安心して身の上を話してくれた。
 後原之子の父親は高麗最後の王、恭譲(コンヤン)に仕えていた重臣だったが李成桂(イソンゲ)に殺された。一族が皆殺しにされると恐れ、弟の家族と一緒に琉球に逃げて来た。娘のサントゥクを中山王の側室に差し出して、後原之子は浦添城下に屋敷を与えられて保護された。後原之子は字がうまかったので祐筆として中山王に仕え、弟は弓矢の名手だったので、武術師範になって中山王の兵たちに弓矢を教えた。浦添で暮らし始めて七年が経った頃、一緒に連れて来た使用人たちを朝鮮に行く中山王の船に乗せて故郷に帰した。それからまた七年が経って、浦添グスクが焼け落ちて、糸満に逃げて来た。浦添のサムレーに嫁いだ娘がいて、浦添に残してきたが、娘の夫は今の中山王に仕える事になって、首里で暮らしている。子供たちを連れて時々、遊びに来るという。
「もう故郷に帰る気はないのですね?」と李芸は聞いた。
「先代の中山王の側室になった娘は亡くなってしまったが、あとは皆、琉球で幸せに暮らしている。今更、帰った所で住む場所もないじゃろう」
「ちょっと待って下さい。側室になった娘さんの名前は何と言いました?」
「サントゥクじゃが‥‥‥」
「先代の中山王の名前は武寧(ぶねい)ではありませんか」
「そうじゃが‥‥‥」
「武寧の側室だったサントゥクは、今の中山王が朝鮮に送った最初の船に乗って朝鮮に帰っています」
「なに?」
「武寧の側室のサントゥク、チータイ、ウカの三人とウカの子供もいました」
 チータイとウカの名はサントゥクから聞いて後原之子も覚えていた。
「それは本当かね?」
「本当です。その時、島添大里按司も一緒に朝鮮に行っています。島添大里按司に確認すればわかりますよ」
「今も無事にいるのかね?」
漢城府(ハンソンブ)(ソウル)に屋敷を与えられて、三人で暮らしていると思います」
「そうか。サントゥクが無事に生きているのか」
 後原之子は目頭を拭いた。
「わたしは五月頃に帰ります。家族と相談して、帰郷したいのでしたら一緒にお連れします。よく考えてみて下さい」
 後原之子と別れて李芸は対馬大親たちと一緒に島尻大里(しまじりうふざとぅ)の城下の宿屋に帰った。
 南部を一回りしたが、見つかった朝鮮人は後原之子の家族だけだった。島尻大里にも遊女屋はあったが、朝鮮人はいなかった。すでに武寧によって、琉球にいた被慮人たちは皆、朝鮮に送り返されたのかもしれなかった。

 

 

 

倭寇―海の歴史 (講談社学術文庫)