長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-161.保良のマムヤ(改訂決定稿)

 上比屋(ういぴやー)のムマニャーズの屋敷に泊まった翌朝、漲水(ぴゃるみず)のウプンマは娘が心配だと言って帰って行った。赤崎のウプンマは大丈夫と言って残り、ムマニャーズの孫娘、クマラパの孫娘でもあるツキミガが一緒に行くと言った。クマラパの娘のタマミガと孫娘のツキミガは一歳違いで、まるで姉妹のようだった。
 ササ(運玉森ヌル)たちはムマニャーズと別れて、赤崎のウプンマとツキミガの案内で、『百名(ぴゃんな)(東平安名)』に向かった。
 馬に乗って景色を眺めながらのんびりと行ったが、一時(いっとき)(二時間)くらいで着いた。百名は険しい崖の上にある小さな集落だった。崖の高さは十丈(三〇メートル)はありそうだ。こんな高い所にあるのに津波でやられたなんて信じられなかった。山の上にある上比屋グスクは大丈夫だろうが、赤崎も赤名も漲水もやられたに違いなかった。
 百名ヌルもやはり、百名のウプンマと呼ばれていた。赤崎のウプンマとツキミガが一緒だったので、ササたちを歓迎してくれた。
「御先祖様は琉球からいらっしゃいました。『百名』というのは琉球にある地名らしいですね。わたしもいつか行ってみたいわ」と百名のウプンマは琉球の言葉で言った。
 百名のウプンマはタマミガと同じ位の年頃で、母親は二年前に亡くなってしまったが、母親は琉球に行った事があるという。
 百名のウプンマに連れられて険しい崖の中にある細い道を通って、下にある砂浜に降りた。
「御先祖様はここから上陸なさいました」と百名のウプンマは海の方を眺めながら言った。
「ここから琉球に行くお船も出ていたんですね?」とササは聞いた。
「そうだと思います。遙か昔、ここからシビグァー(タカラガイ)を積んだお船琉球に行ったのでしょう」
 崖の方を見上げるとかなり高かった。この崖を乗り越える大津波なんて想像もできなかった。思っていたよりも悲惨な状況だったのだろうとササは思った。
 崖下にあるウタキ(御嶽)にお祈りを捧げた。神様の声は聞こえなかった。
「ここは大津波のあとに造ったウタキだそうです。昔もウタキがあったそうですが、津波のあと、わからなくなってしまったようです」
 崖を登って集落に戻り、集落の奥にある森の中のウタキに入った。ここにはちゃんと神様がいらした。ウパルズの娘で、アカサキ姫の妹のピャンナ姫だった。
「わたしが池間島(いきゃま)からここに来たのは、琉球から来た人たちが村(しま)を造ってから三十年ほど経った頃だったわ。ウムトゥ姫の孫だったわたしは歓迎されて、村のウプンマになったのよ。池間島の姉に負けるものかと、『パナリ干瀬(びし)』でシビグァーを採って、琉球に送ったわ。わたしが亡くなったあと、シビグァーの交易は下火になってしまったけど、代わって、ヤクゲー(ヤコウガイ)の交易が始まったわ。百名は栄えて、大きな村になっていたのよ。ところが三百年前の大津波で全滅してしまったの。幸いに、当時のウプンマは助かって、村の再建に尽くしたわ。このウタキもそのウプンマによって再建されたのよ。でも、以前の繁栄を取り戻す事はできなかったわ。お船はないし、船乗りたちも亡くなってしまって、琉球との交易もできなくなってしまったのよ。上比屋にはヤマトゥ(日本)から平家がやって来て、保良(ぶら)には藤原氏がやって来て、琉球と交易をして栄えて行ったわ。やがて、按司が現れて、恐ろしい倭寇(わこう)もやって来たのよ。幸いに、百名は倭寇の襲撃を免(まぬが)れたけど、大津波に襲われた時のように、ミャーク(宮古島)では多くの人たちが亡くなったわ。目黒盛(みぐらむい)がミャークを統一して、ようやく安心して暮らせるようになったのよ。百名が以前のように栄える事を願っているわ」
「大津波の時、赤崎、赤名、漲水のウプンマたちは助かったのでしょうか」とササはピャンナ姫に聞いた。
「みんな、流されてしまったわ」
「やはり、そうだったのですか。すると、それらのウプンマの跡を継いだのは誰なのですか」
池間島のウプンマは生き残ったのよ。池間島のウプンマは『ナナムイウタキ』を再興して、娘たちを漲水、赤名、赤崎に送り込んだのよ。今のウプンマはその子孫たちなの。百名のウプンマは大津波が来た時、まだ十二歳の若ヌルだったのよ。やがて、娘を産んで跡を継がせたわ。池間島と百名だけが、御先祖様からずっと続いているのよ」
 ササたちはピャンナ姫にお礼を言ってお祈りを終えた。わたしが案内すると言って百名のウプンマも一緒に来た。百名のウプンマはナナの隣りに馬を寄せて、琉球の事をしきりに聞いていた。
 しばらく行くと馬が飼育されている牧場があった。
「ここは保良を滅ぼした野城按司(ぬすくあず)が、保良から奪い取った馬を飼育するために造った牧場なんじゃよ。野城按司が大嶽按司(うぷたきあず)に滅ぼされた時、城下から逃げて来た者たちが、ここに『崎山』という村を造ったんじゃ」
 クマラパが柵の中で草を食べている馬を見ながら説明した。二十数頭の馬がのんびりと草を食べていた。
 崎山の集落に寄って、崎山のウプンマと会った。ウプンマは琉球の言葉がしゃべれたが、古いウタキはないと言った。村ができてから六十年しか経っていないので、この村を造った御先祖様を祀るウタキしかないという。
 崎山のウプンマと別れて、細長く突き出した『百名崎(ぴゃんなざき)(東平安名岬)』に行った。両側は崖で、海からの風が強く、『パナリ干瀬』と呼ばれる大きな干瀬が見えた。ここで採れたブラゲー(法螺貝)が琉球やヤマトゥの戦で活躍したのだろう。熊野の山伏たちが持っているブラゲーも、ここから採れたものに違いない。
 風が強いので途中から引き返して、『保良』の集落に行った。
 ここにも馬を飼っている牧場があった。ピャンナ姫は栄えていたと言ったが、その面影はなく、保良は閑散とした村だった。
「保良は野城按司に滅ぼされたが、野城按司も大嶽按司に滅ぼされた。大嶽按司が佐田大人(さーたうふんど)に滅ぼされたあと、保良按司(ぶらーず)の娘が野城按司になったんじゃ。保良から野城(ぬすく)に移って行った者たちが多いんじゃよ」とクマラパは言った。
 百名のウプンマの案内で、保良のウプンマと会った。
「御先祖様はヤマトゥの平泉(ひらいずみ)の藤原氏だそうですね?」とヤマトゥ言葉で聞くと保良のウプンマは驚いた顔をしてササを見た。
藤原氏を御存じなのですか」と少し訛りのあるヤマトゥ言葉で言った。
「平泉には黄金(くがに)のお寺(うてぃら)があって、京都のように栄えていたと聞いています。藤原氏に頼まれて、琉球熊野水軍がやって来て、大量のヤコウガイを運んで行ったそうです。源氏が平家を壇ノ浦で滅ぼしたあと、藤原氏も源氏に滅ぼされてしまいました」
「御先祖様は熊野水軍の船に乗ってミャークに来たと伝えられています。野城按司を隠居した伯母がヤマトゥの歴史に興味を持っています。ヤマトゥの事を話してあげて下さい」
 ササは安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)を見て、うなづいた。
 保良のウプンマの案内で古いウタキに行った。保良の集落の東側の海岸はずっと崖が続いていて、ウタキは崖の近くの森の中にあった。大津波の時も、かろうじて被害を免れたという。ウタキの神様は『寿姫(ことぶきひめ)』という平泉から来た保良の御先祖様だった。
「わたしは西木戸太郎(藤原国衡(くにひら))の娘です。父はお屋形様(藤原秀衡)の長男として、一族のために戦って戦死しました。当時、十一歳だったわたしも死ぬ覚悟をしていましたが、父から逃げろと言われて、熊野水軍お船に乗って逃げました。どこに行くのかも知らず、着いた所がミャークでした。まったく知らない南の島に来て、はかない望みを持って、一族の無事を祈っていたのです。でも、ミャークの海の美しさが、わたしの心を癒やしてくれました。上比屋に平家の人たちが先に来ていたのにも励まされました。同じ源氏を敵として戦っていたので、親しくなれました。上比屋のハツネ様には大変お世話になりました。ハツネ様に言われて、琉球との交易も始めて、保良の村もだんだんと栄えて行きました」
「その頃、琉球には浦添(うらしい)に舜天(しゅんてぃん)様という按司がいましたが、舜天様と交易をしたのですか」とササは聞いた。
「いいえ。浦添ではありません。大里按司(うふざとぅあじ)様と交易していました」
「大里按司というと馬天浜(ばてぃんはま)に行ったのですか」
「そうです。佐敷という所に船乗りたちの宿舎があって、帰るまでそこに滞在していました」
「わたしと安須森ヌルは佐敷で生まれました」とササが言うと、寿姫は驚いているようだった。
 ササたちもミャークの人たちが昔、馬天浜に来ていたと聞いて驚いていた。
「ご縁があるようですね」と寿姫は言った。
「わたしも一度、琉球に行って、佐敷に滞在した事があるのですよ。大里按司様は歓迎してくださって、色々な所に案内してくれました。玉グスクや垣花(かきぬはな)、浦添にも行きました。久高島(くだかじま)という島に行った時、浦添按司様のお母様がいらして、大変、お世話になりました」
「久高島にいらしたのですか」とササは驚いた。
 寿姫が会ったのは初代の大里ヌルに違いなかった。
「久高島は神々しい島でした。保良と大里按司との交易は百年くらい続いたと思います」
「どうして、やめてしまったのですか」
琉球が戦世(いくさゆ)になったのと、貝殻が売れなくなってしまったからです。危険を冒して琉球まで行っても元も取れなくなってしまって、行くのをやめてしまいました」
「今、大里グスクにはわたしの兄がいます。ミャークの人たちが馬天浜に来てくれたら大歓迎しますよ」と安須森ヌルは言った。
「えっ、あなたのお兄さんが大里按司なのですか」
「以前の大里按司は八重瀬(えーじ)の按司に滅ぼされてしまいました。兄が八重瀬按司を倒して、大里按司になりました。今では島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)と呼ばれています」
「そうなのですか。やはり、琉球は戦をやっていたのですね。目黒盛が琉球に与那覇勢頭(ゆなぱしず)を送った時、保良の若者も一緒に行ったのですよ。その若者も今では五十歳を過ぎてしまいましたが、琉球まで行けるかもしれません」
「目黒盛様にも琉球と交易するように頼んであります。保良の人も一緒にそのお船に乗って行けばいいと思います、今の琉球の中山王(ちゅうざんおう)はわたしの父なので大歓迎です」
「えっ、あなたは王様の娘なの? お姫様がミャークまで来られたのですか」
「お姫様だなんて」と安須森ヌルは照れていた。
「先代の野城按司の『マムヤ』と話してみてください。きっと、喜んで、話に乗ってくると思います」
 寿姫と別れたあと、ササたちは保良の人たちが馬天浜に来ていた事に、改めて驚いていた。
「いつの人なの?」とシンシン(杏杏)が聞いた。
「平家が滅んだあとだから、二百年位前よ」とササが言った。
「新宮(しんぐう)の十郎様も大里ヌルと子供の舜天と一緒に佐敷で暮らしていたと言っていたわ」
スサノオの神様が上陸したのも馬天浜だったし、佐敷の歴史は古いのよ」と安須森ヌルが誇らしげに言った。
「クマラパ様も行ったしね」とナナがクマラパを見ながら笑った。
 保良のウプンマの案内で野城(ぬすく)に向かった。途中、馬と牛がいる牧場があって、海岸沿いにちょっとした山があった。その山に古いウタキがあると保良のウプンマが言ったので、寄って見る事にした。
「ここは昔、『アラウス按司(あず)』という女按司(みどぅんあず)がいた所じゃ。なかなか色っぽい女子(いなぐ)じゃった」とクマラパがニヤニヤしながら言った。
「ちょっかいを出したのですね?」とナナが横目で見た。
「わしがちょっかいを出す前に、高腰按司(たかうすあず)に取られてしまったんじゃよ」とクマラパは楽しそうに笑った。
「その女按司も佐田大人にやられたのですか」とササが聞いた。
「高腰按司の後妻になってしまったせいで、高腰按司と一緒に殺されてしまったんじゃ。アラウスの女按司はここの牧場でかなりの馬を飼っていたんじゃが、その馬も一緒に高腰按司のものとなって、佐田大人に奪われてしまったんじゃよ」
 樹木に被われた小さな山の近くに何軒かの家々が建ち並んでいた。その中に『アラウスのウプンマ』が住んでいた。しわだらけの顔をした老婆だった。
 保良のウプンマから話を聞いたアラウスのウプンマはササたちをじっと見ると、
「今朝、神様からお告げがあったんじゃよ」と琉球の言葉で言った。
琉球に行った事があるのですか」とササが聞いた。
「行った事などあるものか。琉球の言葉は神様から教わったんじゃよ。神様はアマミキヨ様の事を調べに琉球からヌルが来た。ウタキに御案内しなさいとおっしゃったんじゃ」
「えっ、アマミキヨ様を御存じなのですか」
 ササは驚いて安須森ヌルと顔を見合わせた。まったく予想外だった。こんな所にアマミキヨ様と関係のあるウタキがあるなんて思ってもいなかった。
「南の国からやって来られたアマミキヨ様は、ここの下にある砂浜から上陸なさったんじゃよ」とアラウスのウプンマは言った。
「赤崎ウタキから上陸したのではなかったのですか」
「ここから赤崎や漲水に移って行った者たちがいたんじゃよ。アマミキヨ様はここに上陸して、旅の疲れを癒やしてから琉球に向かわれたんじゃ。ここに残った一族の者たちもいた。この島はその者たちによって島造りされたんじゃが、一千年前の大津波で、ほとんどの者が亡くなってしまったんじゃ。その時の大津波の時も、ここのウタキは無事だったんじゃよ」
 アラウスのウプンマは険しい崖にある細い道を通って、下にある砂浜にササたちを案内してくれた。腰の曲がった老婆だが、足腰はしっかりとしていた。
 崖に囲まれた中に綺麗な白い砂浜があった。赤崎にも砂浜はあったけど、ここの砂浜の方がずっと広かった。遙か遠くからやって来たアマミキヨ様の一族はここに船を乗り上げて、一息ついたに違いなかった。
「昔はこの浜にもウタキがあったらしいが、津波にやられて今はない」とアラウスのウプンマは言った。
「もしかして、アラウス按司の妹さんですか」とクマラパがアラウスのウプンマに聞いた。
 アラウスのウプンマはクマラパを見て笑うと、「久し振りじゃのう」と言った。
「そなたは姉に夢中になって、わしには見向きもしなかったのう」
「そんな事はない。可愛いと思っていたんじゃ」
「今頃、お世辞などいらんわ」
「跡継ぎはいるのかね」
「姉が高腰按司の後妻になって出て行って、わしがウプンマを継いだんじゃよ。飼っていた馬も、その世話をしていた男たちも連れて行ってしまった。わしは子孫を絶やすわけにはいかんと子作りに励んだんじゃ。今では孫が二十人もおるよ」
「そうか。そいつはよかったのう」とクマラパは安心したように笑った。
「どうして、姉を助けに来てくれなかったんじゃ?」とウプンマは怖い顔をしてクマラパを睨んだ。
「わしはあの時、佐田大人を倒すために伊良部島(いらうじま)で兵を鍛えていたんじゃよ。大嶽按司を倒した佐田大人はしばらくは動くまいと思っていたんじゃ。考えが甘かった」
 アラウスのウプンマは鼻で笑ってから、「それでも、上比屋に嫁いでいた姉の娘に高腰按司を継がせたのは上出来じゃった」と満足そうな顔をして言った。
 崖の上に戻ってウタキの近くまで来た時、
「今まで、このウタキに子孫以外の者が入った事はない」とアラウスのウプンマは言った。
「安須森ヌル様とササ様はアマミキヨ様の子孫なので問題ないが、他の者たちは遠慮してほしい」
 安須森ヌルとササ以外の者たちはアラウスのウプンマの屋敷で待っていてもらう事にして、安須森ヌルとササだけがアラウスのウプンマに従ってウタキに入った。
 小高い山の南側の斜面に古いウタキがあった。今まで見てきたミャークのウタキの中で、一番古いウタキだという事はすぐに感じられた。三百年前の大津波の時も、一千年前の大津波の時も、神様に守られてきたウタキだった。
 安須森ヌルとササはウプンマに従ってお祈りを捧げた。
 最初の神様はアマンの言葉をしゃべった。何を言っているのかはわからないが、『ミントゥングスク』で聞いた言葉と同じだと思った。ササと安須森ヌルはアマミキヨ様の足跡が見つかった事に感激していた。
 次の神様は琉球の言葉をしゃべった。
「わたしは一千年前の大津波の時に生き残ったウプンマよ」と神様は言った。
「その時、この山に逃げて、生き残ったのはわたしと兄と、十数人の者たちだけだったわ。辺り一面、海になってしまって、ここと大嶽と高腰だけが海面から顔を出していたのよ。まったく信じられない光景だったわ。この世の終わりかと思ったのよ。やがて、潮が引くと兄は生き残った人たちを探しに行ったわ。大嶽に数人、高腰にも数人の人が生きていたけど、言葉が通じなかったのよ。当時はあちこちから来た人たちが住んでいて、言葉も違っていたの。五年位経った頃、神様のお告げがあって、兄は北(にし)の方に行ったわ。そして、琉球から来たという娘と出会ったのよ。兄はその娘と身振り手振りでお話をして、琉球にいるアマミキヨ様の子孫だという事がわかって、琉球の言葉を学んだわ。兄は生き残った人たちを集めて、琉球の言葉を教えて、この島の人たちは同じ言葉をしゃべるようになったの。当時はまだ狩俣(かずまた)とは呼ばれていなかったけど、わたしも狩俣に行って、『マツミガ様』から言葉を学んだのよ」
「マツミガ様が出会った人と言うのはあなたのお兄さんだったのですか」とササは驚いて聞いた。
「そうなのよ。兄はマツミガ様と結ばれて狩俣の神様になったのよ」
「すると、狩俣の人たちはアマミキヨ様の子孫なのですね?」
「そうよ。それと、大津波の前に、ここから池間島に行った人も大勢いるのよ。池間島にも生き残った人がいたから、アマミキヨ様の子孫かもしれないわ」
池間島にはアマミキヨ様の子孫の『ネノハ姫(ウムトゥ姫)様』がいらっしゃいました。ネノハ姫様は島の男の人と結ばれて、ウパルズ様をお産みになりました。その男の人がここの子孫かもしれないのですね?」
「そうよ。アマミキヨ様のミャークの子孫と琉球の子孫が結ばれて、偉大なる神様と呼ばれるウパルズが産まれたのよ」
「ウパルズ様からここのウタキの事は聞いていませんが御存じなのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「知らないと思うわ」と神様は言った。
「このウタキは一族の者でも限られた人しか入れないわ。ウパルズが来れば、神様のお許しがあって、ここに入れたと思うけど、ウパルズは来なかったわ。ウパルズの娘たちは漲水、赤崎、百名に来たけど、やはり、ここには来なかったわ」
「ウパルズ様に教えてもよろしいでしょうか」とササが聞いた。
「勿論よ。このウタキはミャークで一番古いウタキなのよ。今後も守って行かなければならないわ」
アマミキヨ様はどうして、ミャークに落ち着かずに、さらに北へと行ったのでしょうか」と安須森ヌルが聞いた。
「この島には船の材料となる太い木がなかったからよ。アマミキヨ様は一冬をこの島で過ごしたのよ。夏になってサシバが北へ行くのを見て、北に島がある事を知って、サシバのあとを追って行ったのよ。一族の者をここに残したのは、この島がシビグァー(タカラガイ)の産地だったからなの。北の島に行ってみて、気に入らなかったら戻って来るつもりだったのかもしれないわ。でも、アマミキヨ様は琉球に落ち着いたのよ」
「そうだったのですか」と安須森ヌルは納得して、ササを見た。
 ササも納得したようにうなづいた。
 二人は神様にお礼を言って、ウタキから出た。
 アラウスのウプンマの案内で山頂まで登って景色を眺めた。
 南から来たアマミキヨ様は百名崎の東側を通って北上して、この下にある浜辺から上陸したのだった。アマミキヨ様がミャークに来た事がわかって、ミャークに来た甲斐があったとササと安須森ヌルは海を眺めながら、しみじみと感動を味わっていた。
「狩俣の人たちと池間島の人たちがアマミキヨ様の子孫だったなんて驚いたわね」と安須森ヌルが言った。
大神島(うがんじま)もアマミキヨ様の子孫だわ。きっと、神様があたしたちを導いてくださったのよ」とササは言った。
「そうよね。狩俣にお祖父(じい)様を知っている人がいたなんて、できすぎだわ。クマラパ様に出会わなかったら、こんなにもうまくは行かなかったわね」
「ほんとね」と言ったのはユンヌ姫だった。
「誰じゃ?」とアラウスのウプンマが空を見上げて、ササたちに聞いた。
アマミキヨ様の子孫の神様です。ミャークに来る時に助けてくれました」
「ほう。琉球の神様をお連れしたのか」とアラウスのウプンマは言って、空に向かって両手を合わせた。
 ササたちを見ると、「よく来てくださった」とお礼を言った。
「お会いできて、本当によかったです」と安須森ヌルはアラウスのウプンマに両手を合わせた。
 アラウスのウプンマは嬉しそうに笑った。
「ユンヌ姫様もここのウタキは知らなかったの?」とササはユンヌ姫に聞いた。
「知らなかったわ。アカナ姫も一緒にいるんだけど、知らなかったって言っているわ」
「わたしが池間島から赤名に来た時、ここではたくさんの馬を飼っていたのよ」とアカナ姫が言った。
「わたしも馬を手に入れるためにここに来たわ。女の首長がいて、この山には馬の神様を祀ってあるウタキがあると言ったのよ。一族の者以外は入れないと言われて、ずっと馬の神様だと信じていたわ」
「馬の神様‥‥‥」とササは呟いた。
「古くからこの辺りでは馬を飼っていたんじゃよ。大津波のあと、生き残った馬をここに集めて増やしたんじゃ。保良に来たヤマトゥンチュ(日本人)もヤマトゥから連れて来た馬を育てていたんじゃよ」とアラウスのウプンマは言った。
 ササと安須森ヌルは山を下りると、アラウスのウプンマの屋敷で待っていたシンシンとナナ、クマラパとタマミガ、赤崎のウプンマとツキミガ、百名のウプンマと保良のウプンマに神様の言った事を話した。
「あたしもアマミキヨ様の子孫なのね?」とタマミガが言った。
「わたしもそうかしら?」と赤崎のウプンマが言った。
 神様の世界では母親の家系を重んじるので、はっきりとそうだとは言い切れないが、「そうかもしれないわ」とササは言った。
 アラウスのウプンマにお礼を言って別れ、ササたちは『野城(ぬすく)』に向かった。
 野城は高台にある石垣に囲まれたグスクだった。グスクの大御門(うふうじょー)へと続く大通りには家々が建ち並んでいて、どこからかおいしそうな匂いが漂ってきた。
「お腹が減ったわね」とシンシンが言った。
「そうね」と言ってササは食事ができそうな店はないかと探した。
「グスクに着いたら姉に頼んで用意させるわ」と保良のウプンマが言った。
 みんなで喜んで、保良のウプンマにお礼を言った。
「あのグスクを築いたのは琉球から来た武将じゃよ」とクマラパが言った。
按司を名乗ったのも、その武将が最初らしい」
「いつ頃の事ですか」とササは聞いた。
「わしがミャークに来る五十年ほど前の事じゃ。そして、わしがミャークに来た時は、大嶽按司に滅ぼされたあとじゃった。その武将が亡くなって、跡を継いだ若按司が保良の娘に惚れて、その娘が亡くなると嘆き悲しんで、大嶽按司に滅ぼされたそうじゃ。わしが来た時は野城按司が滅ぼされてから十年近くが経っていて、石垣だけが無残に残っていたんじゃよ」
 保良のウプンマのお陰で、グスクに入る事ができて、ウプンマの姉の按司と会い、隠居している先代の女按司と会った。
 東側にある曲輪(くるわ)内の屋敷に、先代の女按司は弟と一緒にいた。弟は今の女按司とウプンマの父親で、先代の女按司も弟も七十歳を過ぎていると言うが、先代の女按司は気品があって若々しく、どう見ても五十代くらいにしか見えなかった。
「相変わらず、そなたは美しいのう」とクマラパは先代の女按司に言った。
「丁度、クマラパ様の噂をしていた所ですよ」と弟は笑った。
 先代の女按司の弟はミャークの言葉しか話せないので、タマミガが訳してくれた。
「どうせ、ろくな噂ではあるまい」とクマラパは苦笑した。
「違いますよ」と弟は手を振って、「姉がクマラパ様の事を好きだったって告白したんですよ」と言った。
 タマミガは訳しながら、父を睨んでいた。
「いやですよ」と顔を赤らめた先代の女按司は、まるで、娘のように可愛らしく見えた。
「なに、それは本当かね」とクマラパが驚いた顔をして先代の女按司を見た。
「もっと早くにお会いしていればよかったわ。あの時のわたしは亡くなった事になっていました。野城按司が滅ぼされたのも、わたしのせいなのです。大勢の人を死なせてしまって、自分だけが幸せになる事なんてできませんでした」
「そうじゃったのか。そんな事を考えていたのか。わしは嫌われたと思って去って行ったんじゃ」
 クマラパは昔を思い出していたようだが、振り返ってササたちを見ると、
「『保良のマムヤ』と言って、若い頃は天女と見まがうほどの美しさだったんじゃよ」とクマラパは先代の女按司を紹介した。
「クマラパ様と出会った時、亡くなった事になっていたとおっしゃいましたが、どういう事ですか」と安須森ヌルが聞いた。
 マムヤは笑うだけで答えなかったが、弟が答えてくれた。
「姉は野城按司に見初められて嫁いだのです。でも、野城按司には妻も子もいました。妻や子に申し訳ないと思った姉は身を引いて、百名崎のガマ(洞窟)の中に隠れました。野城按司はしつこく探し回りました。姉は崖から飛び降りて亡くなった事にしたのです。姉が亡くなると野城按司はグスクに籠もって嘆き悲しんでいました。そして、大嶽按司に攻め滅ぼされたのです」
「ずっと、隠れていたのですか」とタマミガが聞いた。
「野城按司が滅ぼされたあとは生き返りましたよ」とマムヤは笑った。
「このグスクに古いウタキはありますか」とササはマムヤに聞いた。
「およそ百年前に野城按司琉球からやって来て、ここにグスクを築きました。わずか二代で滅びてしまいましたが、初代の按司が作ったお墓があります。そこに初代の按司とその娘のヌルが眠っています。娘のヌルは弟の按司が戦死したあと、崎山に移って、そこで亡くなりました。姉のヌルはわたしが生きている事を知って、弟が亡くなったのはわたしのせいだと恨んでいました。わたしがここの按司になった時、崎山のウプンマと相談して、ヌルの遺骨をこちらに移しました。幸い、神様になられてからは、わたしへの恨みも消えたようなので安心しました」
 野城按司が用意してくれた昼食を御馳走になってから、ササたちはグスクの外の西の崖にある初代野城按司のお墓へと行った。
浦添にある英祖(えいそ)様のお墓に似ているわね」と安須森ヌルが言った。
 そう言われてみるとササも似ていると思った。
 マムヤと一緒にササたちはお祈りを捧げた。
琉球から来たそうじゃのう」と神様の声が聞こえた。
「はい。琉球から参りました」とササが答えた。
「わしを琉球から追い出した弟の玉城(たまぐすく)が浦添按司になったのは知っているが、その後、どうなったのか知っておるかね?」
「えっ、神様は玉城様のお兄様だったのですか」
「そうじゃ。わしは『北原按司(にしばるあじ)』じゃった。親父(英慈)が亡くなったあと、葬儀も済まないうちに、玉城の兵が突然、攻めて来たんじゃ。わしは逃げて馬天浜にいたミャークの船に乗ってこの島に来たんじゃよ」
「保良按司お船に乗って来たのですね?」
「そうじゃ。そして、ここにグスクを築いて、野城按司を名乗ったんじゃよ」
「玉城様が浦添按司になった時から琉球は戦世になったと伝えられています。玉城様が亡くなったあと、幼い息子が跡を継ぎましたが、察度(さとぅ)様に滅ぼされました」
「なに、滅ぼされたのか。いい気味じゃ。その察度というのは何者なんじゃ?」
「察度様の母親は浦添の若按司の娘さんです。若按司も玉城の兵に攻められて戦死しましたが、若按司の武将だった奥間之子(うくまぬしぃ)に助けられて、奥間之子の息子とその娘が結ばれて察度様が生まれました。察度様は自分の出自を知らず、若い頃はヤマトゥに行って倭寇(わこう)として暴れていました。お宝を積んで琉球に帰って来ると、父親から母親の事を聞いて、祖父である若按司の敵を討とうと心に決めました。そして、玉城の息子の西威(せいい)を倒して、浦添按司になったのです」
「兄貴の孫が敵を討ったのか‥‥‥そうか。そいつはよかった。玉城の奴は若按司だった兄貴と八重瀬按司(えーじあじ)だった兄貴を殺して、浦添按司になった。天罰が下ればいいと思っていたんじゃが、兄貴の孫が敵を討ってくれたとは、喜ばしい事じゃ。教えてくれてありがとう」
「いいえ。英慈(えいじ)様の息子さんがミャークにいたなんて驚きました」
「馬鹿な倅を持ったせいで、二代で終わってしまった。まったく情けない事じゃよ」
「保良按司お船に乗って来たのに、どうして保良按司を滅ぼしてしまったのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「わしがミャークに来た時の女按司とはうまく行っていたんじゃ。その女按司が亡くなって、娘が跡を継いだ時、ヤマトゥから大嶽按司がやって来たんじゃ。娘の按司は大嶽按司と取り引きを始めて、わしの言う事は聞かなくなってしまったんじゃよ。その娘は五十歳になる前に亡くなってしまい、跡を継いだのはまだ二十歳の娘じゃった。放って置いたら保良は大嶽按司に奪われてしまうと思ったんじゃ。それで、保良を攻め取ったんじゃよ。保良は船を持っていたんで、わしは琉球に送ったんじゃが、その船は帰って来なかった。しばらく、琉球に船を送っていなかったので、遭難してしまったらしい」
「その船は途中で嵐に遭って沈んでしまったそうじゃ」とクマラパが言った。
「それでも、琉球にたどり着いた男がいた。その男は十三年後、浮島(那覇)にいた程復(チォンフー)という唐人(とーんちゅ)の船に乗ってミャークに帰って来た。わしはその船に乗って来たんじゃよ」
「なに、無事に帰って来た者がいたのか」と北原按司は驚いていた。
「どうして、琉球に帰らないのですか」とササが北原按司に聞いた。
「なに? 琉球に帰る? そんなの無理じゃろう」
「神様は故郷(うまりじま)には帰れるはずですけど」
「そうなのか? どうやって帰るんじゃ?」
 そう聞かれてもササにはわからなかった。
「目をつぶって、故郷を念じれば帰れるわ」とユンヌ姫が教えた。
「誰じゃ?」
琉球の神様です」
琉球の神様も連れて来たのかね」と言ったあと、神様の声は聞こえなくなった。
琉球に帰って行ったわ」とユンヌ姫が言った。
「帰ったら驚くでしょうね」と安須森ヌルがササを見て笑った。
 マムヤはササと安須森ヌルを優しい眼差しで見ながら微笑んでいた。

 

 

 

泡盛 宮古島の泡盛 1800ml×6本セット

2-160.上比屋のムマニャーズ(改訂決定稿)

 女按司(みどぅんあず)のマズマラーのお世話になって、村(しま)の人たちと一緒に楽しい酒盛りをして、狩俣(かずまた)で一泊したササ(運玉森ヌル)たちは、翌日、クマラパとタマミガの案内で赤崎のウタキ(御嶽)に向かった。
 途中、白浜(すすぅばま)に寄ったら浜辺に仮小屋がいくつも建っていて、船乗りたちがのんびりとくつろいでいた。炊き出しをしている島の女たちと身振り手振りで話をしながら楽しそうに笑っていた。
 ササたちに気づいて、みんなが集まって来たので、
「うまく行っているわ。取り引きもできそうよ。もう少し待っていて」と言って、空になった瓢箪(ちぶる)に酒を補給して、ササたちはまた馬にまたがった。
 『大嶽(うぷたき)』は大した山ではないので、グスクの跡地まで馬に乗って行けると思っていたのに、誰も登らないとみえて、かつての道は草に被われて、まったくわからなかった。仕方なく馬を下りて草をかき分けながら登った。
 崩れた石垣があって、大御門(うふうじょー)(正門)があったと思われる辺りから中に入ったが、一面、草茫々(くさぼうぼう)で屋敷らしい物は何も残っていなかった。
「与那覇(ゆなぱ)バラの兵に屋敷は皆、焼かれたんじゃよ」とクマラパが言った。
「与那覇バラ?」と安須森(あしむい)ヌルが聞いた。
「与那覇の奴らという意味じゃ。残酷な事をする佐田大人(さーたうふんど)の兵たちは憎しみを込めて、そう呼ばれていたんじゃよ」
「与那覇勢頭(ゆなぱしず)様のグスクも与那覇グスクでしたよね?」
 クマラパはうなづいた。
「与那覇は二つあるんじゃよ。盛加越(むいかぐす)の与那覇と下地(すむずぃ)の与那覇じゃ。盛加越の与那覇は与那覇グスクのある辺りで、下地の与那覇は丁度その反対側じゃ。赤崎のウタキの近くじゃよ」
「このグスクにウタキはありますか」とササは漲水(ぴゃるみず)のウプンマに聞いた。
 ウプンマは首を傾げた。
「ウタキはないじゃろう」とクマラパが言った。
「大嶽按司(うぷたきあず)はヤマトゥ(日本)の商人だったんじゃ。交易のために元(げん)の国(明の前の王朝)に向かう途中、嵐に遭ってミャーク(宮古島)まで流されて座礁(ざしょう)してしまったんじゃよ。船は壊れて使い物にならなくなったが、積み荷は無事じゃった。ヤマトゥの商品を上比屋按司(ういぴやーず)や保良按司(ぶらーず)に引き取ってもらって、それを元手に大嶽にグスクを築いて按司になったんじゃ。三人の息子はいたが、娘はいない。ヌルがいないからウタキもないじゃろう。ただ、按司が拝んでいたという霊石(れいせき)が山頂にある」
「霊石ですか」とササが首を傾げた。
「先代の上比屋の女按司が造って、山頂まで運んで、大嶽按司の守護神として祀(まつ)ったんじゃよ。上比屋按司も子供たちの事まで考えなかったようじゃな。大嶽按司が亡くなったら、佐田大人に滅ぼされてしまった」
 そう言って、クマラパは顔を歪めて首を振った。
 グスク跡から出て、ササたちは山頂に向かった。眺めのいい山頂のすぐ下に、その霊石はあった。高さ五尺(約一五〇センチ)足らずで、直径四尺(約一二〇センチ)くらいの円柱の石だった。
「大嶽按司の守護神はどんな神様なんですか」とササはクマラパに聞いた。
「八幡(はちまん)様じゃと言っていたのう。故郷に何とか八幡という神社があって、元の国に行く時には必ず八幡様に航海の無事を祈ったそうじゃ。元の国には行けなかったが、ミャークという美しい島に来られた。これも神様の思(おぼ)し召しなんじゃろうと言っておった。太っ腹な男じゃったが、野心もあった」
「八幡様ならスサノオの神様だわ」とササは言った。
対馬(つしま)の木坂の八幡様ね」とナナが言った。
 ササはうなづいて、「熊野権現(くまぬごんげん)様を探さなくちゃ」と言った。
 みんなで草をかき分けて探し回った。
「これかしら?」とシンシン(杏杏)が見つけた。
 小さな石の祠(ほこら)で、熊野という字がかすかに残っていた。
「間違いないわ」とナナが嬉しそうに言った。
 祠の周りの草を刈って綺麗にして、ササたちはお祈りを捧げた。神様の声は聞こえなかった。
 霊石の前でお祈りをしていた漲水のウプンマも何も聞こえないと言った。
 ササは空を見上げてから、腰に差していた横笛を袋から出して、安須森ヌルを見た。安須森ヌルはうなづいた。
 ササは横笛を吹き始めた。
 さわやかな調べが流れた。ミャークに来た喜びが軽やかな調べに現れていた。去年の暮れ、浜川(はまがー)ウタキで、アマミキヨ様が南の島からいらっしゃったと百名姫の神様から聞いた時、南の島に行かなければならないと思った。ミャークの事を色々と調べて、ようやく、やって来られたのだった。無事に来られて、ウムトゥ姫様の娘のウパルズ様に出会えた事を、ササは様々な神様に感謝していた。
 皆、シーンとしてササの笛の音に聞き入っていた。
 ササは吹き終わると空を見上げた。
「イシャナギ島(石垣島)まで聞こえたわよ」と声が聞こえた。
 ユンヌ姫の声だった。
「帰って来たの?」とササは聞いた。
「何かあったのですか」とアキシノの声もした。
熊野権現様を見つけたので、スサノオの神様を呼んでみたんだけど駄目だったみたい」
「イシャナギ島のウムトゥダギ(於茂登岳)の山頂にも熊野権現があったわ。あそこは高い山だから、あそこで笛を吹いたらお祖父(じい)様もやって来るわよ」とユンヌ姫は言った。
「ウムトゥダギにもあったのね」とササは喜んだ。
「マシュー姉(ねえ)(安須森ヌル)も吹いてみて」とササが言って、安須森ヌルはうなづくと横笛を吹いた。
 ササの曲とはまったく違った低音でゆっくりとした曲だった。安須森ヌルはミャークに来た喜びよりも、三十年前の戦(いくさ)で亡くなった大勢の人たちを慰めようとしていた。
 『鎮魂(ちんこん)の曲』だと気づいたササは、安須森ヌルに合わせて笛を吹き始めた。
 心に響き渡る荘厳(そうごん)な曲が流れて、聞いている者たちは皆、感動していた。
 曲が終わると、「素晴らしいわ」とアキシノが涙声で言った。
「これを聞いたらお祖父様は必ずやって来るわ」とユンヌ姫は力強く言ったが、スサノオの声は聞こえなかった。
「すごいのう」とクマラパが言った。
「笛の音を聴いて泣けてきたのは初めてじゃ」
 漲水のウプンマもタマミガも涙を拭きながら、尊敬の眼差しでササと安須森ヌルを見ていた。
「ありがとう」と神様の声が聞こえた。ヤマトゥ言葉だった。
「すまなかった」とクマラパが両手をついて謝った。
「なぜ、そなたが謝るんじゃ」
「佐田大人からこのグスクを守れなかった」
「そなたは狩俣にいたんじゃろう。たとえ、そなたが援軍を送ったとしても無駄死にしただけじゃ。奴らがミャークに来た時、わしは倅たちに充分に守りを固めさせた。もし、わしが生きていたとしても敗れてしまったじゃろう」
「大嶽按司様は博多の商人だったのですか」とササは聞いた。
 神様は微かに笑った。
「博多で有名な商人の倅だったんじゃよ。しかし、三男だったからのう、船頭(船長)になって元の国まで行っていたんじゃ。宇佐(うさ)の八幡様の荷物を積んで慶元(けいげん)(寧波)に向かう途中、嵐に襲われてミャークに着いたんじゃよ。八幡様の荷物を勝手に使ってしまい、申し訳なくて八幡様の霊石を建ててお詫びをしていたんじゃ。この山に熊野権現様が祀られていたとは知らなかった。もしかしたら、熊野権現様に呼ばれて、わしはこの島に来たのかのう」
 突然、大雨が降ってきた。空を見上げたら真っ黒な雲に被われていた。
 ササたちは神様と別れて、クマラパのあとに従って、近くにあったガマ(洞窟)の中に逃げ込んだ。
 ガマの中は白骨だらけだった。
「野ざらしになっていた亡くなった者たちを、このガマに葬ったんじゃよ」とクマラパは言った。
 ササたちは亡くなった人たちにお祈りを捧げた。名もなき神様たちのお礼の言葉があちこちから聞こえた。
 お祈りを済ませたあと、土砂降りの雨を眺めながら、
「神様が怒ったのかしら」とササが言った。
「神様も感激して泣いているんじゃろう」とクマラパが言った。
「最近、雨が降らなかったから恵(めぐ)みの雨じゃ。みんな、喜んでいるじゃろう」
「お二人の笛には本当に感動いたしました」と漲水のウプンマが言った。
「わたしにも笛を教えてください」とタマミガがササに頼んだ。
 ササはタマミガに笛を渡して、吹き方を教えた。
「大嶽按司様はミャークに来てからは、商売はしなかったのですか」と安須森ヌルがクマラパに聞いた。
「保良按司は野城按司(ぬすくあず)に滅ぼされたんじゃが、野城按司が亡くなると、大嶽按司は跡を継いだ若按司を滅ぼして、保良の船を手に入れたんじゃ。その船を使って、イシャナギ島に行って材木を運んで来たんじゃよ。それからは材木の商売を始めたんじゃ。小舟(さぶに)を造る丸太はウミンチュ(漁師)たちに喜ばれて、成功したんじゃよ。だが、倅たちは商売には興味を示さず、目黒盛(みぐらむい)を倒して、ミャークを我が物にしようとたくらんでいたんじゃ」
 雨は半時(はんとき)(一時間)程でやんだ。
 大嶽から下りて馬に乗って、佐田大人の船が座礁した与那覇湾に行き、港の近くにある『赤名ウタキ』に寄った。
 赤名ウタキにはアカサキ姫の娘のアカナ姫の神様がいた。アカナ姫はササたちを歓迎してくれた。すでにユンヌ姫と会っていて、一緒にイシャナギ島まで行っていたらしい。
 佐田大人が来た時の様子を話していた時、急にアカナ姫はウタキの外で待っていたクマラパを呼んだ。
「お祖母(ばあ)様(ウパルズ)には言っていないでしょうね?」と聞いて、クマラパが、「言っていない」と言うと、「絶対に内緒よ」とアカナ姫は念を押した。
 お祈りを終えてウタキから出たあと、何の事ですかとササがクマラパに聞いたら、「何でもない」と言って教えてくれなかった。
「クマラパは佐田大人の船が与那覇湾で座礁したあとに台風が来た時、アカナ姫の力を借りて、船を破壊したのよ」とユンヌ姫が教えてくれた。
 ササたちは驚いて、クマラパを見た。
「誰の声じゃ?」とクマラパが聞いた。
「ユンヌ姫様です。ウパルズ様のお母様の大叔母様にあたる神様です」
琉球から神様まで連れて来たのかね。恐れ入ったよ。あの時、佐田大人に大嶽按司を倒してほしかったんじゃ。佐田大人が来た時、大嶽按司は具合が悪くて寝込んでいたんじゃ。余命幾ばくもない事はわかっていた。大嶽按司が亡くなったら倅どもが目黒盛を攻めて来る事もわかっていたんじゃよ」
「ウパルズ様にばれたら、また怒られますね」と漲水のウプンマが言った。
「アカナ姫様も追放されてしまうじゃろう。内緒にしておいてくれ」とクマラパは皆に頼んだ。
「ウパルズ様はきっと、その事もお見通しだと思うわ」と安須森ヌルが言った。
「きっと、そうね」とササも言った。
「本当?」とアカナ姫の心配そうな声が聞こえた。
 佐田大人たちの本拠地だった与那覇村には生き残った家族たちが暮らしていた。皆殺しにしてしまえという声が多かったが、目黒盛は女子供に罪はないと言って許したという。
 『赤崎のウタキ』は海に突き出た岩場の近くの森の中にあった。見るからに古いウタキで、霊気がみなぎっていた。
 近くの集落に『赤崎のウプンマ』が住んでいて、一緒にウタキに入った。漲水のウプンマと赤崎のウプンマは同じ位の年齢で、同じ位の娘もいて、仲がいいようだった。
 ササたちがお祈りを捧げると、
琉球からアマミキヨ様の事を調べるために、ミャークまでやって来たなんて感心だわね」とウパルズの娘の『アカサキ姫』の神様は言った。
アマミキヨ様はここからミャークに上陸したのですね?」とササは聞いた。
「残念ながらアマミキヨ様がミャークに来たかどうかはわからないわ。でも、アマミキヨ様の一族の人たちがここで暮らしていたのは確かだと思うわ。一千年前の大津波の前は、もっとウタキがあったはずなんだけど、今はここしかわからないの。琉球のように、浜川ウタキ、ミントゥングスク、垣花森(かきぬはなむい)、そして、玉グスクと垣花グスクが残っていれば、アマミキヨ様の一族の人たちがどのように移動したのかわかるんだけど、ここだけしかわからないので、ここからどこに行ったのかわからないのよ」
「アカサキ姫様は琉球に行った事があるのですか」
「母と一緒に行ってきたわ。ここに来る前にね」
「そうだったのですか。セーファウタキ(斎場御嶽)にも行ったのですね?」
「勿論よ。豊玉姫(とよたまひめ)様にもアマン姫様にもお会いしたわ」
「そうでしたか」
「でも、琉球に行ったのは一度だけ。また、行ってみたいわ。さっきの話の続きだけど、漲水ウタキのコイツヌ様とコイタマ様は、ここから移動して行ったアマミキヨ様の一族の人たちじゃないかしらと思うんだけど、はっきりとそうだとは言い切れないのよ。漲水のウタキも大津波でやられてしまったの。赤崎と漲水の間に古いウタキが残っていればいいんだけど、残念ながら見つけられなかったわ」
 ササたちはアカサキ姫にお礼を言って別れた。赤崎の岩場から南の海を眺めながら、ササはさらに南の方に行ってみたいと思った。でも、ここより南の島ではきっと言葉も通じないのに違いない。琉球の言葉を知っている人はいないだろう。
「ササ、アマンの国を探しに行くつもりなの?」とシンシンが心配そうな顔をして聞いた。
 ササは笑って首を振った。
「これより先は何があるかわからないわ。それより、旧港(ジゥガン)(パレンバン)とジャワ(インドネシア)に行きましょうよ。シーハイイェン(施海燕)たちとスヒターたちがいるから、何とか言葉も通じるでしょう。もしかしたら、アマンの国もあるかもしれないわ」
「あたしも行ってみたいと思っていたのよ」とナナが楽しそうに言った。
「旧港とジャワなら、明国(みんこく)の言葉が通じるわ」とシンシンも嬉しそうに言った。
 赤崎のウプンマの屋敷で昼食を御馳走になって、上比屋(ういぴやー)グスクに向かった。漲水のウプンマに誘われて、赤崎のウプンマも一緒に付いて来た。
 赤崎から上比屋までは思っていたよりも遠かった。『上比屋グスク』に着いたのは申(さる)の刻(午後四時頃)になっていた。
 グスクは樹木(きぎ)が生い茂った丘の上にあって、高い石垣で囲まれていた。
「ミャークで一番初めにグスクができたのがここじゃよ」とクマラパが言った。
「平家の落ち武者がミャークまで逃げて来て、ここにグスクを築いたのですね」と安須森ヌルが聞いた。
「そうじゃ。ここも女按司(みどぅんあず)でな、わしがミャークに来たばかりの頃、色々とお世話になったんじゃよ。美人(ちゅらー)だが、気の強い女じゃ。今は娘に按司の座は譲ったが、相変わらず威勢のいいお婆(ばあ)じゃよ」
 クマラパの顔を見ると御門番(うじょうばん)は笑って、グスク内に入れてくれた。クマラパはなかなか顔が広いようだ。
 グスク内は思っていたよりも広くて、石垣でいくつかに仕切られてあった。御門番に馬を預けて、広い庭の正面に見える御門(うじょう)に向かった。御門を抜けると立派な屋敷が建っていた。クマラパは勝手知っている我が家のように、さっさと歩いて女按司がいる部屋へと行った。
「あら、お久し振りですわね、お父様」と女按司はクマラパに言った。
 通訳してくれたタマミガの言葉を聞いてササたちは驚き、クマラパと女按司を見比べた。親子と言われれば、そう見えない事もなかった。
「お久し振りです。お姉様」とタマミガが挨拶をした。
「お母さんは元気かね」とクマラパは女按司に聞いた。
「相変わらず、元気ですよ。御願山(うがんやま)のお屋敷にいます。いえ、今頃は多分、ウタキでお祈りをしていると思いますよ」
 クマラパはササたちに説明して、行ってみるかねと聞いた。
 ササたちはうなづいた。
 女按司と別れて、ウタキに向かった。
「先代のお婆はあの娘がわしの子だという事を、ずっと内緒にしていたんじゃよ」とクマラパが言った。
「佐田大人を倒したあと、やっと、わしの娘だと打ち明けたんじゃ」
「どうして、内緒にしていたのですか」とササは聞いた。
「さあな」と言ってクマラパは首を振った。
 森の中にあるウタキで、お婆がお祈りをしていた。いつもならウタキに入って来ないクマラパも、今回は何も言わずに付いて来た。
琉球からいらしたお客様を連れて来たのね」と白髪頭のお婆は背中を向けたまま言った。琉球の言葉だった。
「ここの古い神様と話がしたいそうじゃ」とクマラパは言って、「平家の事も色々と詳しいぞ」と付け足した。
「わかりました。ミャークにいらした初代の按司様をお呼びいたします」
 ササたちはお婆にお礼を言って、一緒にお祈りを始めた。
「ヤマトゥからミャークにやって来た『ハツネ』と申します」と神様の声が聞こえた。勿論、ヤマトゥ言葉だった。
 安須森ヌルが自己紹介をしてから、「平家はミャークと交易をしていたのですか」とハツネと名乗った神様に聞いた。
「いいえ、していません。ミャークの事は熊野別当湛増(たんぞう)から聞きました。熊野の者たちが琉球の南にあるミャークという島に行って、法螺貝(ほらがい)をたくさん持って来たと言っていました。わたしたちは初めからミャークを目指していたわけではないのです。琉球を目指したのですが、トカラの宝島から奄美大島に向かう途中で嵐に遭ってしまいました。方向を見失って、何日も海上をさまよった末、ようやくミャークにたどり着いたのです」
「もしかして、安徳天皇様をお連れしたのですか」
「いいえ、違います。わたしは中納言(ちゅうなごん)様(平知盛)にお仕えしていましたが、安徳天皇様は中納言様ご自身がお守りになって、どこかにお連れいたしました。わたしは中納言様のお姫様をお連れしたのです。でも、辛い船旅が祟って、お姫様はミャークに着いてからお亡くなりになってしまわれました」
厳島神社(いつくしまじんじゃ)の内侍(ないし)(巫女)だったハツネ様なのね?」とアキシノの声が聞こえた。
「えっ、あなたは誰なの?」
「あなたと一緒に厳島神社の内侍を務めていたアキシノよ」
「えっ、アキシノ‥‥‥あなたがどうしてミャークにいるの?」
「わたしは今、琉球にいるのよ。ササたちと一緒にミャークに来たのよ」
「アキシノが琉球に? あなたは小松の中将(ちゅうじょう)様(平維盛)と一緒に熊野に行って、そこで亡くなったんじゃなかったの?」
「熊野から中将様と一緒に琉球に行って、中将様は今帰仁按司(なきじんあじ)になったのよ」
「中将様が生きていたなんて‥‥‥そうだったの。まさか、あなたに会えるなんて夢のようだわ」
「あなたは理有法師(りゆうほうし)の弟子になると言って厳島神社から出て行ったけど、本当に理有法師の弟子になったの?」
「なったわ。でも、理有法師が福原殿(平清盛)を呪い殺すのを見て、恐ろしくなって逃げ出したのよ」
「よく理有法師に殺されなかったわね」
「弱みを握っていたし、理有法師の術を封じる術も身に付けたから大丈夫だったのよ」
「理有法師は壇ノ浦の合戦のあと、琉球に来て、ひどい事をしたのよ。理有法師を追って来た朝盛法師(とももりほうし)によって退治されたけどね」
「理有法師と朝盛法師が琉球で戦ったなんて‥‥‥見ものだったでしょうね」
「あなたが琉球に行っていたら理有法師と会っていたに違いないわ」
「そうね。神様のお陰で、会わずに済んだのね」
 ハツネとアキシノは懐かしそうに昔の事を語り合っていた。
「神様のお邪魔はしない方がいいわね」とお婆は言って、お祈りを終えた。
 振り返ってササたちを見たお婆の顔を見て、ササたちは驚いた。髪は真っ白なのに顔付きは若々しくて、とてもお婆とは呼べなかった。今でも美人だが、若い頃はすごく綺麗だったに違いない。クマラパが惚れるのもうなづけた。
 『ムマニャーズ』と名乗った先代の按司に従って、森の中の細い道を通って海岸に出た。海岸に突き出た丘の上に屋敷があった。そこからの眺めは最高だった。
 岩場と砂浜に囲まれた池のような入り江に船が何艘も浮かんでいた。小舟が多いが、明国風の船もあった。反対側を見ると透明度の高いイノー(礁池)の先に、島など一つもない大きな海が広がっていた。
 ムマニャーズが御馳走とお酒を用意してくれたので、ササたちは素晴らしい景色を眺めながら酒盛りを楽しんだ。ターカウ(台湾の高雄)で手に入れた明国のお酒だという。ササたちがいつも飲んでいるヤマトゥのお酒よりも強いが、香りのいいお酒だった。
「クマラパ様に娘さんの事をどうして内緒にしていたのですか」と安須森ヌルはヤマトゥ言葉でムマニャーズに聞いた。
「跡継ぎは欲しかったけど、クマラパがそばにいると、うっとうしいと思ったからよ」とムマニャーズは琉球言葉で言って笑った。
「わしがうっとうしいじゃと」とクマラパがムマニャーズを睨んだ。
 ムマニャーズは笑って、「あなたをここに縛り付けては置けないと思ったのよ」と言った。
「よくわからないけど、あなたは何かをやるためにこの島に来たから、それを邪魔してはいけないと神様に言われたのよ」
「神様って、初代の按司様の事ですか」
「そうよ。あとになってわかったけど、クマラパの役目はバラバラだった按司たちを結び付ける事だったのよ。佐田大人を倒したあと、目黒盛を中心にミャークは一つにまとまったわ。二度とあんな悲惨な目に遭う事はないでしょう」
「昔はヤマトゥと交易をしていたのですか」とササがムマニャーズに聞いた。
「ヤマトゥにも行ったし、琉球にも行っていたらしいわ。でも、わたしが生まれた頃はヤマトゥへも琉球にも行かなくなっていたわ。ヤマトゥも琉球も戦世(いくさゆ)になってしまって、交易ができなくなってしまったらしいの。それに、琉球に行っていた頃の船乗りたちも亡くなってしまって、琉球に行く事もできなくなってしまったのよ。ここだけの話じゃないのよ。琉球やヤマトゥと交易していた保良もそうなのよ。わたしが十歳頃の時、保良按司琉球に船を出したんだけど、その船は帰って来なかったわ。佐田大人を倒したあと、与那覇勢頭が琉球に行く事が決まったんだけど大変だったわ。どうやったら琉球へ行けるのか誰も知らなかったの。久米島(くみじま)から来た若者が伊良部島(いらうじま)にいたけど、サシバを追って来ただけなので、琉球への行き方はわからないって言ったわ。久米島からミャークに向かう潮の流れがあって、その潮の流れに乗ればミャークに来られるけど、その逆の流れがあるかどうかわからないって言ったのよ。でも、このグスクに古い記録が残っていて、星の位置とかが詳しく書いてあったの。それを頼りに行って来たのよ。わたしも一緒に行ったわ。何とか無事に琉球に着いたんだけど、言葉が通じなくて参ったわ。クマラパを連れて来ればよかったって後悔したわよ。でも、そのお陰で、琉球の言葉が覚えられて、今こうして、あなたたちとお話ができるわ」
「どうして一緒に行かなかったのですか」とササはクマラパに聞いた。
「わしはその時、野崎(ぬざき)(久松)で船を造っていたんじゃよ。野崎の船もかなり古くなっていたからのう。琉球との交易が始まれば、南蛮(なんばん)(東南アジア)の商品が必要となるからのう。トンド(マニラ)の国に行く船を新しくしなければならなかったんじゃよ」
「その後も琉球に行ったのですか」と安須森ヌルがムマニャーズに聞いた。
「その時だけよ。一度行けば、与那覇勢頭は星の位置をちゃんと覚えたわ。ねえ、平家の事を教えてくれないかしら。神様から平家の事はよく聞くんだけど、わからない事が多いのよ」
「いいですよ。わたしが知っている事でしたら喜んでお話しします」
 安須森ヌルはムマニャーズに平家の事を話した。ムマニャーズもクマラパも真剣な顔をして聞いていた。

 

2-159.池間島のウパルズ様(改訂決定稿)

 狩俣(かずまた)から小舟(さぶに)に乗ってササ(運玉森ヌル)たちは池間島(いきゃま)に向かった。クマラパは池間島の神様は苦手じゃと言って、行くのを渋っていたが、娘のタマミガに説得されて一緒に来てくれた。
 神様のお陰か、季節外れの南風を帆に受けて小舟は気持ちよく走った。蛇のように細長く続く世渡崎(しどぅざき)を過ぎると池間島がよく見えた。
池間島は二つの島でできているんじゃ」とクマラパが櫂(うえーく)で舵取りをしながら言った。
「東(あがり)の島は神様の島で人は住んでおらん。島人(しまんちゅ)たちは西(いり)の島に住んでいて、池間按司(いきゃまーず)のグスクも西の島にあるんじゃ」
「中央にある入り江は向こう側に抜けられるのですか」と安須森(あしむい)ヌルが聞いた。
「北(にし)の方はかなり狭くなっているんじゃが抜けられる。島の北方(にしかた)は岩場ばかりなんじゃが、入り江の中に入ると砂浜があるんじゃ。『ヤピシ(八重干瀬)』で採った貝を入り江の中の砂浜まで運んで作業をするんじゃよ」
「ウパルズ様のウタキ(御嶽)は東の島にあるのですか」とササが聞いた。
「いや、西の島じゃ。『ナナムイウタキ』といって、遙か昔にネノハ姫様が暮らしていた屋敷跡にできたようじゃ」
「ネノハ姫(ウムトゥ姫)様の娘さんのウパルズ様に会うのが楽しみだわ」とササが言うと、
「歓迎してくれるじゃろう」とクマラパは言った。
 二つの島の間にある入り江に入って、西の島の砂浜から上陸した。白い砂浜が長く続いていて、海辺にある小屋の中で、ウミンチュ(漁師)のおかみさんたちが貝の身を抜く作業をしていた。
 ササたちに気づくとと皆、驚いた顔をしてササたちを見ていた。袴(はかま)をはいて腰に刀を差した女を見るのは初めてなのだろう。
 一人の女が近づいて来て、クマラパに声を掛けた。タマミガも漲水(ぴゃるみず)のウプンマも知っているようだった。三人から話を聞いて、その女はササたちを見て笑うと、「池間島にようこそ」と琉球の言葉でしゃべった。
琉球に行った事があるのですか」とササが聞くと、
琉球の言葉は神様から教わったのよ」と言った。
「池間(いきゃま)のウプンマじゃよ」とクマラパが言った。
 池間のウプンマの案内で、小高い丘の上にあるグスクに行って、ウプンマの父親の池間按司に会った。それほど高くない石垣に囲まれた小さなグスクだった。屋敷は少し高い所に建っていて、屋敷からの眺めは最高だった。北の方を見ると『ヤピシ』が広がっていて、南を見るとミャーク(宮古島)と伊良部島(いらうじま)が見えた。
 池間按司は言葉が通じないが、クマラパの通訳で、遠い所からよく来てくれたと歓迎してくれた。イシャナギ島(石垣島)に行った娘の事を聞くと、困ったような顔をして首を振った。
 マッサビは先代の娘で、今の按司の妹だという。十七歳の時に神様のお告げがあって、イシャナギ島に行かなければならないと言い出した。マッサビの姉の先代のウプンマが止めても駄目だった。久米島(くみじま)から来たグラーという若者と一緒にイシャナギ島に行ってしまった。
 その頃、イシャナギ島では『ヤキー(マラリア)』という熱病が流行っていて、多くの人が亡くなっていた。蚊に刺されるとヤキーになるので、マッサビはグラーと一緒に蚊の退治を始めた。あれから三十年が経つが、ヤキーがなくなる事はなく、未だに蚊の退治をしているという。それでも、マッサビはイシャナギ島から舟を造るための丸太を送ってくれるので、島人たちは大いに助かっているという。池間島もミャークと同じように平らな島で、太い木が生えている山はなかった。
「三十年間も蚊(がじゃん)の退治をしているのですか」とササたちは驚いた。
「一時は叔母さん(マッサビ)もヤキーに罹って、死ぬところだったらしいわ」と池間のウプンマが言った。
「でも、イシャナギ島の神様が助けてくれたのよ。イシャナギ島の神様は池間島の神様のお母さんですからね、叔母さんを守ってくれたのよ」
 池間按司は目黒盛豊見親(みぐらむいとぅゆみゃー)のために、『ヤピシ』でシビグァー(タカラガイ)を採っていると言ったので、目黒盛豊見親と相談して、琉球と交易して下さいとササは頼んだ。
 グスクから西側の海岸に下りて、池間のウプンマの案内で『ナナムイウタキ』に向かった。クマラパはグスクで待っていると言って付いて来なかった。
 岩場の海辺で禊(みそ)ぎをして、樹木(きぎ)が生い茂った森の中に入って行った。セーファウタキ(斎場御嶽)のように霊気がみなぎっているのをササたちは感じていた。
 細い道をしばらく行くと広場に出た。広場の中央に奇妙な形の岩があって、その周りを石で囲んであった。ササたちは池間のウプンマの後ろに並んでお祈りを捧げた。
琉球からいらしたお客様を連れて参りました」と池間のウプンマは言った。
「狩俣のタマミガも一緒なのね」と神様は言った。
「タマミガ、お父さんをここに連れて来なさい」
「えっ?」とタマミガは驚いた。
「一緒に来たんでしょ。話があるのよ。早く、連れていらっしゃい」
 タマミガは池間のウプンマを見た。
 ウプンマはうなづいた。
 タマミガはウタキから出て行った。
「ユンヌ姫様からあなたたちの事は聞いたわ。よく来てくれたわね。歓迎するわよ」と神様は言った。
「ユンヌ姫様がここにいらしたのですか」とササは聞いた。
 ミャークに着いてからユンヌ姫もアキシノもどこに行ったのか行方知らずになっていた。
「あなたたちが来たら、イシャナギ島に行ったって伝えてくれって頼まれたのよ」
「そうだったのですか」
「あなたたちも母に会いに行くのね?」
「はい。ミャークに来る前に久米島に行って、ウムトゥ姫様の妹のクミ姫様に会ってまいりました」
「叔母の事は母から聞いているわ。母と叔母はユンヌ姫様と一緒に久米島に行って、母はシビグァーが採れる御願干瀬(うがんびし)の近くのアーラタキを拠点にしたのよ。叔母は久米島で一番高いニシタキを拠点にしたの。母はシビグァーをたくさん採って琉球に送ったけど、アーラタキよりニシタキの方が高いので、叔母に見下されているようで面白くなかったようだわ。そんな時、母はアーラタキの古い神様からミャークという南の島(ふぇーぬしま)に、久米島よりもっとシビグァーが採れる場所があると聞いて、久米島の事は叔母に任せて、池間島に来たのよ」
「最初からイシャナギ島に行くつもりではなかったのですか」
「母は琉球にシビグァーを送るために池間島に来たのよ。この島は古くからシビグァーの交易で栄えていたの。母がこの島に来る一千年も前から、この島で採れたシビグァーは唐の大陸に運ばれて行ったようだわ。やがて、シビグァーに代わって銅で作った銭(じに)が使われるようになると、唐人(とーんちゅ)たちもやって来なくなって、シビグァーを採る事も忘れてしまったわ。母が来る五十年前には大津波がやって来て、池間島の人たちも大勢、流されてしまったのよ。母は池間島に来て、島人たちにシビグァーを採る事を教えて、琉球まで運ばせたわ。琉球との交易で、貴重な品々を手に入れて、池間島は昔のような活気を取り戻したのよ。イシャナギ島に行ったのは、舟を造るための丸太を手に入れるためだったの。イシャナギ島には久米島のニシタキよりも高いウムトゥダギ(於茂登岳)があったので、晩年はそこで過ごして、母はイシャナギ島の神様になったのよ」
「そうだったのですか。ここのシビグァーが琉球からヤマトゥ(日本)に行って、朝鮮(チョソン)まで渡って行ったのですね」
「そうよ。ここのシビグァーのお陰で、玉依姫(たまよりひめ)様の跡を継いだ『豊姫(とよひめ)様』は、カヤの国(朝鮮半島にあった国)から鉄を手に入れて、ヤマトゥ(大和)の国を守って来たのよ」
「豊姫様という人は玉依姫様の娘さんなのですか」とササは聞いた。
 豊姫様というのは初めて聞く名前だった。
「いいえ、違うのよ。玉依姫様は長生きなさったので、二人の娘さんの方が先に亡くなってしまったの。豊姫様は、玉依姫様の弟のミケヒコ様の曽孫(ひまご)さんなのよ。幼い頃からシジ(霊力)の高い娘さんだったらしいわ。『日巫女(ひみこ)』と呼ばれたヤマトゥの女王様を務めるには高いシジがなくてはならないのよ。わたしもお会いしたけど、凄い人だと思ったわ」
「ウパルズ様はヤマトゥに行ったのですか」
「行ったわよ。母も行っているわ。母からヤマトゥのお話を聞いて、わたしも行ってみたくなったのよ」
「そうだったのですか。今と違って、大変な舟旅だったでしょう」
「そうだわね。何度も死ぬ思いをしたわ。でも、神様が守ってくださったのよ。行って来て本当によかったと思っているわ」
 タマミガがクマラパを連れて来た。
「クマラパ、久し振りだわね。ずっと、わたしから逃げていたのね?」
 ウパルズの口調が急に険しくなったので、ササたちは驚いた。そして、クマラパはヂャンサンフォン(張三豊)と同じように、神様の声を聞く事ができるようだった。
「別に逃げていたわけではない」とクマラパは小声で言った。
「あなたのお陰で何人の人が亡くなったと思っているの?」
「わしも後悔しておるんじゃ。あの時はいっぱしの軍師気取りだったんじゃよ。亡くなった者たちにはすまなかったと思っている」
「何の事ですか」と漲水のウプンマが聞いた。
「三十年前の悲惨な戦(いくさ)の事よ」とウパルズは言った。
「えっ?」と漲水のウプンマは驚いて、「あの時の戦はクマラパーズ様の活躍があって、目黒盛豊見親様は勝利したと聞いておりますが」
「戦には勝ったけど、クマラパは助けられた人たちを見殺しにしたのよ」
「どういう事ですか」
「クマラパ、自分でちゃんと説明しなさい」
 クマラパは溜め息をつくと、
「まだ十七歳だった目黒盛に会ったのが、そもそもの始まりなんじゃ」と言った。
「今、与那覇(ゆなぱ)グスクがあるイナピギムイで、目黒盛はイーヌツツ(上の頂)の七兄弟(ななちょーでー)を倒したんじゃ。七兄弟は保里按司(ふさてぃあず)にそそのかされて、目黒盛の両親を殺して、イナピギムイを奪い取ったんじゃよ。目黒盛は両親の敵(かたき)を討って、土地を奪い返すために七兄弟と戦ったんじゃ。わしはたまたまその場に居合わせて決闘を見た。目黒盛は弓矢の腕も剣術の腕も大したものじゃった。わしはただ者ではないと思った。将来、大きな事をしでかすじゃろうと思ったんじゃ。わしは陰ながら目黒盛を見守った。七兄弟を倒したあと、目黒盛は白川殿(すさかどぅぬ)の娘を嫁に迎えた。白川殿は何人もの鍛冶屋(かんじゃー)を抱えていて、武器や農具を作らせて長者になった男じゃった。白川殿を味方に付けた目黒盛は勢力を広げた。広げたと言っても、根間(にーま)から白浜(すすぅばま)までの細長い一帯で、周りには糸数按司(いとぅかずあず)、北嶺按司(にしんみあず)、大嶽按司(うぷたきあず)といった大きな勢力を持った按司たちがいたんじゃよ。目黒盛がどうやって、そいつらを倒すのか楽しみだったんじゃ。その頃、わしはアコーダティ勢頭(しず)と一緒に船造りに励んで、船が完成したらトンド(マニラ)の国に行ったりしていた。そんな時、北嶺按司が弓矢の決闘をして殺された。殺したのは目黒盛の妻の弟のウキミズゥリじゃった。ウキミズゥリは石原按司(いさらーず)に雇われて北嶺按司を倒したという。北嶺按司は飛鳥主(とぅびとぅりゃー)と呼ばれた武芸の達人で、ウキミズゥリも弓矢の名手じゃった。ウキミズゥリが目黒盛のために北嶺按司を殺したのか、弓矢の対決がしたかっただけなのかはわからん。だが、北嶺按司はいなくなって、石原按司は北嶺按司の領地を手に入れた。それから三年後、石原按司は糸数按司に殺されて、糸数按司は石原按司と北嶺按司の領地を手に入れて、大按司(うぷあず)となったんじゃ。糸数按司というのは保里按司の息子で、北嶺按司の従兄なんじゃよ。従弟の北嶺按司の敵を討ったというわけじゃ。糸数大按司はウキミズゥリもだまし討ちにしたようじゃ。義弟を殺されて目黒盛も怒っただろうが何もしなかった。わしは石原按司に嫁いでいた妹から敵(かたき)を討ってくれと頼まれた。わしは妹の頼みを聞いて敵を討ってやったんじゃ。糸数大按司が亡くなると、目黒盛は糸数グスクを攻め取った。目黒盛は糸数按司の領地をすべて自分のものとしたわけじゃ。そして、佐田大人(さーたうふんど)がやって来たんじゃよ」
「どうやって、糸数大按司を倒したのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「わしの弟子に美しい娘がいてな、その娘を糸数大按司の側室として送り込んだんじゃ。その娘が糸数大按司とお楽しみ中に、針を首の急所に刺したんじゃよ。お楽しみ中に亡くなったとは言えず、簪(かんざし)で耳を刺して亡くなったという事にしたんじゃろう」
「恐ろしい事をするわね」と言ったのはウパルズだった。
「糸数大按司は石原按司を殺した時も、ウキミズゥリを殺した時も、だまし討ちにしたんじゃ。あんな卑怯な事をする奴は按司の資格はない。バチが当たったんじゃよ」
「その事は大目に見るわ。話を続けて」
「佐田大人は下地(すむずぃ)の与那覇(ゆなぱ)に上陸して、与那覇に住んでいたウミンチュたちを皆殺しにして、そこを拠点にしたんじゃ。奴らは最初からミャークの者たちと仲よくしようという気持ちはなかった。ミャークの者たちを見下して、島人たちを皆殺しにして、この島を奪い取ろうとたくらんでいたんじゃ。ヤマトゥ(日本)での戦に敗れて、ミャークに新しい南朝(なんちょう)の国を造ろうとしていたんじゃよ。奴らは総勢一千人近くいて、サムレーは半分の五百人、残りは連れて来た家族たちじゃった。その家族の中に南朝の皇子(おうじ)もいたらしい」
「佐田大人が来た時、ミャークにとって危険な者たちだから早く倒しなさいとわたしは警告したはずよ」
「わしはウパルズ様の警告に従って様子を見に行ったんじゃ。武装したサムレーたちが大勢いた。倒せと言われても奴らの兵力は五百人、しかもミャークの者たちよりも立派な武器を持っている。奴らを倒すには、ミャークの按司たちが協力しなければ無理じゃった。しかし、現実は按司たちはお互いに争っていて、一つにまとまりそうもなかったんじゃ。台風が来て、奴らの船が全滅すると奴らは凶暴になった」
「佐田大人が来てから台風が来るまで一月近くあったわ。あなたの妖術を使えば、追い返す事はできたはずだわ」
「そんなのは無理じゃよ」
「そうかしら? あなたは『ターカウ(台湾の高雄)』まで行っているから知っているはずよ。ヤマトゥンチュ(日本人)が『首狩り族』を恐れている事を。ミャークにも首狩り族がいるように見せかければ、佐田大人たちも恐れて逃げて行ったでしょう」
「そんな事をしたら、ミャークが首狩り族の島だと噂になって誰も来なくなってしまう」
「大勢が殺されるよりもましでしょ。それに、ネズミも使わなかったわ」
「あの時点では、奴らの出方を見るしかなかったんじゃ」
「台風で船がやられて、佐田大人たちはもう島から出て行く事はできなくなったわ。わたしはミャークの人たちを守るように、守りを固めなさいとあなたに言ったわ」
「言われた通りに狩俣の村(しま)を石垣で囲んだ。島尻(しまずー)の村にも伝えて、ウプラタス按司にも、野崎按司(ぬざきあず)にも、目黒盛にも伝えて、皆、守りを固めたんじゃ」
「でも、南部の按司たちには伝えていないわ」
「上比屋(ういぴやー)には伝えた」
「あなたは目黒盛の味方になりそうな按司だけに伝えたのよ。あなたは目黒盛のために佐田大人を利用しようと考えたのよ」
「確かにそうじゃ。あの頃、最も勢力のあった大嶽按司を佐田大人が倒してくれればいいと思っていたんじゃ」
「美野按司(みぬあず)には伝えたの?」
「伝えた。だが、奴はわしの言う事を笑って、従わなかったんじゃ」
「美野村(みぬしま)が皆殺しにされて、みんなが佐田大人を恐れたはずよ。その時、按司たちが一致団結して倒す事もできたはずだわ。でも、あなたは様子を見ているだけで何もしなかった。美野村が全滅してから一月後、大嶽按司が亡くなったわ。跡を継いだ若按司はまだ若かった。佐田大人に攻められて、大嶽グスクは落城して、城下の住民たちは皆殺しにされた。あなたの願った通りになったのよ。大嶽按司が滅ぼされて、あなたはようやく腰を上げて、目黒盛と会って佐田大人退治の作戦を練った」
「大嶽城下の者たちには悪かったが、ミャークを一つにまとめるためには大嶽按司は邪魔だったんじゃ。大嶽按司がいなくなって、あとは目黒盛が佐田大人を退治すれば、ミャークは目黒盛を中心にして一つにまとまるじゃろうと思ったんじゃよ。わしはアコーダティ勢頭に頼んで、ターカウから武器を調達してもらい、伊良部島(いらうじま)で兵たちを鍛えた。ウプラタス按司が攻められたのは全くの誤算じゃった。根間から白浜までは目黒盛が守りを固めていたので、奴らが北に出て来る事はあるまいと思っていた。ところが、奴らは高腰按司(たかうすあず)を倒して馬を奪い取り、奇襲を掛けて来たんじゃ。突然の攻撃に耐えきれず、ウプラタスは全滅してしまった。しかし、その頃になると敵も分裂し始めたようじゃった。佐田大人の残虐さに付いて行けなくなった者たちが現れたようじゃ。ウプラタス按司の船を奪い取った奴らは、下地の与那覇には帰らずにミャークから去って行ったんじゃ。あとになってターカウの倭寇(わこう)から聞いたんじゃが、ウプラタス按司の船を奪った奴らはヤマトゥに帰って行ったらしい。その後、佐田大人は北部に出て来る事はなく、南部の按司たちを攻めていた。奴らが上比屋を攻めた時、わしらは助けるために出撃した。激戦になったが敵を追い返す事ができた。その時、敵もかなりの損害が出て、目黒盛を倒そうと考えたようじゃ。わしは敵の動きを探って、あちこちに罠(わな)を作って待ち構えた。敵はうまい具合に罠にはまって、目黒盛、野崎按司、北宗根按司(にすずにあず)、狩俣按司(かずまたーず)、上比屋按司(ういぴやーず)の連合軍によって、佐田大人の軍は全滅したんじゃよ」
「うまく行ってよかったわね」とウパルズは皮肉っぽく言った。
「あなたの思い通りにするために何人の犠牲が出たと思っているの? 一千人以上の人が亡くなっているのよ。しかも、女や子供までが無残に殺されているわ。按司たちが戦をしても、女や子供たちまでは殺さないでしょう」
「わかっている。戦のあと、わしも反省したんじゃ。ウパルズ様に合わす顔がなかったんじゃよ」
「あれから三十年間、あなたはわたしから逃げていたわ。でも、わたしは知っているのよ。あなたが亡くなった人たちを一人づつ弔ってやっていたのをね。そして、野城按司(ぬすくあず)と高腰按司を再興したわ。亡くなった人たちのためにも、ミャークを平和で住みよい島にしなさいよ」
 クマラパは何も言わず、両手を合わせて感謝していた。
「クマラパの件はこれで終わりよ」とウパルズは言った。以前の優しい声に戻っていた。
「さっきの話の続きだけどね、ヤマトゥに行った時、出雲(いづも)の熊野山に行って、スサノオの神様に会って来たのよ。スサノオの神様は喜んでくださったわ。琉球のさらに南にそんな島があるとは知らなかった。是非、行ってみたいものじゃとおっしゃったわ。わたしは一緒に行きましょうって誘ったんだけど、その頃のヤマトゥは国が大きくなってしまったお陰で、内部争いがあちこちで起こっていて、スサノオの神様も留守にする事はできなかったの。争いが治まったら来て下さいって言ったんだけど、未だにミャークには来ていないわ」
「ミャークに『熊野権現(くまぬごんげん)様』はありませんか」とササは聞いた。
「大嶽山頂と高腰グスクにあるわよ」
「えっ、二つもあるのですか」
熊野水軍は保良(ぶら)に住んでいる人たちを連れて来たから、あちこちを歩いて、高い所に熊野権現を祀ったのでしょう」
熊野権現様があれば、スサノオの神様を呼ぶ事ができるかもしれません」
「まさか。ヤマトゥからミャークまで、いくら、スサノオの神様が万能でも無理だと思うわ」
「無理かもしれませんが試してみます」
「わたしも会いたいから、スサノオの神様がやって来たら教えてね」
「勿論です。一緒にお酒を飲みましょう」
 ウパルズは楽しそうに笑った。
 ササたちはウパルズと別れて、池間のウプンマに従って、広場の周りにある六つのウタキにお祈りを捧げた。一番奥の崖下にあるウタキは母親のウムトゥ姫のウタキだった。勿論、ウムトゥ姫は留守だった。あとの四つはウパルズの娘のウタキで、残る一つは、三百年前の大津波のあとに『ナナムイウタキ』を再興したウプンマのウタキだった。四人の娘は、長女のイキャマ姫がウパルズの跡を継いで、次女は赤崎に行ってアカサキ姫になり、三女は百名(ぴゃんな)に行ってピャンナ姫になり、四女は漲水に行ってピャルミズ姫になって、ミャークを守っていると池間のウプンマは言った。
 ナナムイウタキを出ると、
「ようやく許してもらえたようじゃ」とクマラパは力なく笑った。
「お父様がウパルズ様とお話ができるなんて知らなかったわ」とタマミガが目を丸くして言った。
「あれ以来、怒られてばかりいたからのう、耳を塞いでいたんじゃよ」
「あたし、お父様を見直したわ」とタマミガが言うと、クマラパは嬉しそうな顔をして娘を見ていた。
「さっき、クマラパ様の事をクマラパーズって言ったけど、どういう事?」と安須森ヌルが漲水のウプンマに聞いた。
「クマラパ様は按司じゃないんだけど、三十年前の戦の活躍で、クマラパ按司(あず)と呼ぶ人が多いのです」
「成程、クマラパ按司か」と安須森ヌルは納得した。
 池間のウプンマに見送られて、ササたちは狩俣へと帰った。

 

2-158.漲水のウプンマ(改訂決定稿)

 昨夜(ゆうべ)、目黒盛豊見親(みぐらむいとぅゆみゃー)が開いてくれた歓迎の宴(うたげ)で遅くまでお酒を飲んでいたのに、ミャーク(宮古島)に来て心が弾んでいるのか、翌朝、ササ(運玉森ヌル)は早くに目が覚めた。まだ夜が明ける前で、外は薄暗かった。
 空を見上げて、ユンヌ姫とアキシノを呼んだが返事はなかった。無事にミャークに着けたお礼を言おうと思ったのに、どこに行ったのだろう。ササは首を傾げると、縁側に座り込んでヂャンサンフォン(張三豊)の呼吸法を始めた。
 静かに座りながら、改めて神様たちに感謝をした。祖父のサミガー大主(うふぬし)を知っている人がミャークにいるなんて思ってもいなかった。亡くなってからも助けてくれる祖父に大いに感謝した。
 シンシン(杏杏)とナナが起きてきて、ササの隣りに座って静座を始めた。ササは二人に気づくと笑った。
「漲水(ぴゃるみず)のウプンマが来たわ」とナナが言った。
 ササが目を開くと、娘を連れたウプンマの姿が見えた。頭の上に水桶を乗せていた。ウプンマは水桶を下ろすと、挨拶をして近づいて来た。
「昨日はごめんなさいね。琉球の王様(うしゅがなしめー)の娘さんだって聞いたので、きっと名前だけのヌルだと思ったの。昨夜の宴であなたたちのお話を聞いて、神様の事を調べるためにヤマトゥまで行ったと知って驚いたわ。わたしもミャークの神様の事は色々と調べたのよ。でも、わからない事が多くて、あなたたちから教えてもらおうと思ってやって来たの。今は水汲みの途中なんだけど、また、お伺いしてもよろしいかしら」
「わたしたちこそ、教えてもらいたいですよ」とササは言って、ウプンマを縁側に迎えた。
琉球の神様のアマミキヨ様は南の国(ふぇーぬくに)から琉球に来ました。それで、ミャークにもアマミキヨ様の痕跡が残っていないか調べに来たのです」
アマミキヨ様のお名前は狩俣(かずまた)の神様から聞きました。アマミキヨ様の一族が『赤崎』に上陸して、その近くで暮らしていたようです」
「赤崎ってどこですか」とササは目の色を変えて聞いた。
「南の方(ふぇーぬかた)です。わたしも赤崎のウタキ(御嶽)に行って神様の声を聞きましたが、その神様はアマミキヨ様の一族ではありませんでした。その神様がおっしゃるには一千年以上も前に、大きな津波がやって来て、アマミキヨ様の一族は全滅したそうです」
「何ですって‥‥‥」
 ササは驚いてウプンマの顔をじっと見つめていた。シンシンとナナも驚いていた。
「多分、その時の大津波で漲水のウタキもやられたのだと思います。あそこに祀られているコイツヌ様とコイタマ様もどこか南の国からやって来たのだと思いますが、子孫たちは全滅してしまったのです。名前だけは伝えられていますが、詳しい事を知っている人は皆、亡くなってしまったのです」
「という事は、今、ミャークに住んでいる人たちの御先祖様は、その大津波のあとにやって来た人たちなのですね?」とナナが聞いた。
「そうだと思います」
「赤崎にいらっしゃる神様は、どこから来られた神様なのですか」とササは聞いた。
池間島(いきゃま)です。池間島には『ウパルズ様』という神様がいらっしゃいます。その娘さんが赤崎と漲水と百名(ぴゃんな)(東平安名)を守っています」
「ウパルズ様というのは、『ネノハ姫様』と関係あるのですか」とササが聞いたら、ウプンマは驚いた顔をして、
「どうして、ネノハ姫様を御存じなのですか」と聞いた。
大神島(うがんじま)の神様からネノハ姫様の事は聞きました。ネノハ姫様は琉球から来た神様です」
「そうなのですか」とウプンマは首を傾げてから、「ウパルズ様はネノハ姫様の娘さんです」と言った。
「えっ!」とササは驚いて、大きく息を吐いた。
 ウムトゥ姫(ネノハ姫)がイシャナギ島(石垣島)に行く前に娘を産んで、その娘が池間島の神様になって、孫娘たちがミャークの神様になっていたなんて驚きだった。ウムトゥ姫の娘のウパルズに会いに行かなければならないとササは思った。
「ネノハ姫様が琉球から来た事は知らなかったけど、狩俣の神様は琉球から来た神様ですよ」とウプンマは言った。
「えっ?」とササはウプンマを見た。
「狩俣の神様は琉球から久米島(くみじま)に行く途中で嵐に遭って、ミャークまで流されてしまったようです。一千年前の大津波のあとで、ミャークには人がほとんど住んでいなかったらしいわ。大浦(うぷら)の浜辺に着いたらしいけど、水を求めて狩俣まで行って、そこに落ち着いて、狩俣の御先祖様になったみたいです」
 狩俣には行ったのに、神様に挨拶はしていなかった。失敗だったとササは悔やんだ。そして、久米島からミャークに来た兄弟の事を思い出した。せっかくだから会ってみようと思った。
「狩俣に戻るわ」とササはシンシンとナナに言った。
「わたしも一緒に行ってもいいかしら」とウプンマが言った。
「一緒に行きましょう」とササはうなづいた。
 朝食を済ませたあと、ササ、シンシン、ナナ、安須森(あしむい)ヌル、漲水のウプンマ、クマラパと娘のタマミガは馬に乗って狩俣に向かった。ウプンマは知り合いに預けたと言って、娘は連れて来なかった。
 出発してすぐに、寄って行く所があると言ってウプンマが『船立(ふなだてぃ)ウタキ』に案内した。こんもりとした森の中にある小さなウタキだった。クマラパに待っていてもらって、ササたちはウプンマと一緒にお祈りをした。
琉球からいらしたお客様です」とウプンマが神様に告げると、神様の声は聞こえたが、ミャークの言葉で理解できなかった。
「ごめんなさい。こちらの言葉に慣れてしまって、久米島にいた頃の言葉をうまく話せないの」と神様はたどたどしく言った。
 ササはウプンマの通訳で神様と話した。
 神様は久米按司の娘で、兄嫁と喧嘩して小舟(さぶに)に乗って久米島を飛び出した。心配した兄が追って来て、小舟に飛び乗って説得したが、娘はずっと泣いていた。兄は久米島に帰ろうとしたのに、どんどん沖に流されてしまった。二日間、海の上をさまよった末にミャークに着いた。兄は自分で刀を作ろうと思って、鍛冶屋(かんじゃー)のもとで修行していたので、ミャークに来てからは鉄の農具を作って皆に喜ばれた。妹は住屋里世の主(すみやだてぃゆぬぬし)と夫婦になって多くの子孫を残した。亡くなったあと、兄は鍛冶屋の神様、妹は豊穣の神様として祀られたという。いつ、ミャークに来たのかと聞いたら、百年以上も前だと思うとウプンマは言った。
 その頃、久米島按司がいたのかしらと不思議に思ったが、ササたちは、「ミャークの人たちを守ってあげて下さい」と言って神様と別れた。
「あの神様のお兄さんのお陰で、鉄の農具がみんなに行き渡って、この辺りは豊かになったのです」とウプンマは言った。
 久米島からミャークに来る人が多いような気がした。もしかしたら、久米島からミャークに向かう潮の流れがあるのかしらとササは思った。
 船立ウタキから少し行った高台の上に、『糸数(いとぅかず)グスク』の跡地があった。
「ここに妹の敵(かたき)だった糸数按司のグスクがあったんじゃ。この辺りには城下の家々が建ち並んでいたんじゃが、糸数按司が亡くなると皆、他所(よそ)に移ってしまって、この有様じゃ。一時は大按司(うぷあず)と呼ばれて、この辺りで一番の勢力だったんじゃが哀れなもんじゃのう」
 そう言って、クマラパは樹木が生い茂った高台を見上げた。ササたちも見上げると崩れかけた石垣が見えた。
「糸数按司が滅んだのは佐田大人(さーたうふんど)が来る前の事なのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「そうじゃ。確か、糸数按司が六月頃に亡くなって、その年の十月頃に佐田大人がやって来たんじゃよ。糸数按司が生きていたら佐田大人ももっと早くにやられたかもしれんな。しかし、戦のあと、目黒盛と糸数按司は対立したじゃろう。目黒盛から見れば、糸数按司はいい時期に亡くなったと言えるのう」
「糸数按司は病で亡くなったのですか」
「噂では、簪(かんざし)で耳の掃除をしていたら肘にアブベエ(虻蝿)が止まって、アブベエを殺そうと肘をたたいたら簪が耳の奥まで刺さって死んだという」
「まあ、やだ」とササたちは想像して身震いした。
 そこから一気に大浦(うぷら)まで行って、『ウプラタスグスク』の跡地を見た。ウプラタスグスク跡は小高い丘の上にあった。あちこちに石垣が残っていて、割れた陶器の破片も落ちていた。眺めがよくて、右側の海も左側の海も見渡せた。丘の下に家々が建ち並ぶ城下があったらしいが、荒れ地になっていた。
「ウプラタス按司は福州の商人だったんじゃよ。鉄を持ってミャークに何度も来ていたんじゃ。元(げん)の国が騒乱状態になって商売ができなくなり、家族や使用人たちを連れて、ミャークにやって来たんじゃよ。ここはまるで、桃源郷(とうげんきょう)のようじゃと幸せに暮らしていたんじゃが‥‥‥」
 クマラパは苦笑してから海を眺めた。ウプラタス按司の事を思い出しているようだった。しばらくして、
「奴らはウプラタス按司の船を奪い取ったんじゃよ」とクマラパは言った。
「ウプラタス按司様はミャークに来てからも交易をしていたのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「一度、明国の様子を見に行ったんじゃが、ターカウ(台湾の高雄)まで行って引き上げて来たんじゃ。明国は建国したが、倭寇(わこう)や海賊がいるので、危険だというので諦めたんじゃよ。その頃のターカウはキクチ殿はまだいなくて、明国の海賊がいた。その海賊と取り引きをして帰って来たんじゃ。その後は明国には行っていない。ウプラタス按司はウミンチュ(漁師)たちのために、イシャナギ島から太い丸太を運んでいたんじゃ。舟(ふに)を造るための丸太じゃよ」
「ウプラタス按司を助けられなかったのですか」とササは聞いた。
 クマラパはササを見てから海を見つめた。
「奴らはあの頃、南部を攻撃していたんじゃよ。大嶽按司(うぷたきあず)を倒して、大量の食糧も手に入れた。北部に攻めて来るなんて思ってもいなかった。わしは知らなかったんじゃが、奴らは高腰按司(たかうすあず)を倒して、馬を手に入れたんじゃ。その馬に乗って北部にやって来て、あっという間にウプラタスを攻撃した。知らせを聞いて駆け付けた時には、グスクも城下も焼かれていた。狩俣に来るかもしれないと思って、引き返して守りを固めたんじゃよ」
「高腰按司は馬を飼っていたのですか」とナナが聞いた。
「かなりの馬を飼育していたんじゃ。昔、百名崎(ぴゃんなざき)(東平安名崎)の近くの保良(ぶら)という村(しま)に女按司(みどぅんあず)がいて、ヤマトゥ(日本)と交易をして栄えていたんじゃ。女按司が亡くなったあと、保良は野城按司(ぬすくあず)に滅ぼされてしまった。高腰按司は保良で馬の飼育を任されていたサムレーだったらしい。保良が攻められた時、馬を連れて逃げて、その馬を飼育して栄え、グスクを築いて按司になったんじゃ」
「今でも、そこで馬の飼育をしているのですか」
「高腰按司は佐田大人に滅ぼされたんじゃが、上比屋(ういぴやー)に嫁いでいた娘がいたんじゃ。その娘が牧場を再開して、今でも育てておるよ。わしらが乗って来た馬も高腰の牧場で育てられた馬じゃろう」
 狩俣に着いたのは正午(ひる)前だった。ササたちは女按司のマズマラーと一緒に、石垣で囲まれた集落の北にある『ニシヌムイ』と呼ばれるウタキに入った。ササたちが最初に狩俣に来た時、浜辺に上陸して通り抜けた森だった。
 細い坂道を登って行くと古いウタキがあった。ササたちはお祈りをした。
「戻って来たわね」と神様の声が聞こえた。
「挨拶が遅れて申しわけありませんでした」とササは謝った。
大神島の娘からあなたたちの事は聞いているわ。ユンヌ姫様からもね」
「ユンヌ姫様を御存じなのですか」
「アマン姫様の娘さんでしょ。わたしはアマン姫様にお仕えしていたヌルだったのです。ユンヌ姫様と最後にお会いしたのは、ユンヌ姫様が十歳の時でした。まさか、ユンヌ姫様がミャークに来られるなんて夢にも思っていませんでした。再会できて本当に嬉しかったです。わたしはシビグァー(タカラガイ)を求めて久米島に行く途中、嵐に遭ってミャークまで流されてしまいました。わたしが来る数年前にミャークは大津波にやられて、住んでいた人たちは全滅したそうです。わたしは狩俣にたどり着いて、この森で暮らし始めました。翌年、生き残っていた男の人と巡り会いました。言葉は通じませんでしたが、一緒に暮らして子供も生まれました。その人はミャークを巡って、生き残った人たちを集めました。生き残った人たちによって、狩俣の村はできたのです」
大神島の神様は娘さんだったのですね?」
「長女の『マパルマー』です。ヤマトゥの刀を持った女子(いなぐ)のサムレーがやって来たって騒いでいたわよ」と神様は笑った。
「わたしは時々、琉球に帰るので、アマン姫様からあなたたちの事は聞いております。アマン姫様のお姉さんの玉依姫(たまよりひめ)様をヤマトゥから琉球に連れていらした事も聞いています。わたしもあなたたちをお迎えできて嬉しく思っております」
 ササはお礼を言って、アマミキヨ様の事を聞いた。
「一千年前の大津波で、古いウタキは皆、流されてしまいました。ウタキを守っていたヌルたちも亡くなってしまって、ウタキの場所もわからず、再建する事もできなかったのです。わたしがミャークに来て七十年後、琉球の百名(ひゃくな)からヌルたちがやって来て、南部に百名という村を造ります。百名崎の近くに『パナリ干瀬(びし)』があって、そこでも大量にシビグァーが採れたのです。百名のヌルたちによって赤崎のウタキが見つけられました。その時、わたしはすでに亡くなっていましたが、赤崎の神様とお話ししました。アマンの言葉なのでさっぱりわかりませんでしたが、アマミキヨ様の一族が赤崎にいた事は確かです。三百年ほど前にも大津波が来て、南部の村々はやられてしまいます。百名もやられて、住んでいた人たちのほとんどは流されてしまいました。生き残った人たちによって村は再建されました。ミャークにいたアマミキヨ様の一族は一千年前の大津波で滅びてしまいましたが、アマミキヨ様の子孫たちは名前を変えて、度々、ミャークにやって来ています。唐人(とーんちゅ)たちは彼らを『倭人(わじん)』と呼んで、ヤマトゥンチュ(日本人)は彼らを『隼人(はやと)』と呼びました。倭人や隼人と呼ばれる海に生きる人たちは唐の大陸から八重山(やいま)、ミャーク、琉球奄美の島々、ヤマトゥの九州を股に掛けて活躍していたのです」
倭人というのはヤマトゥンチュの事ではなかったのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「のちに隼人はヤマトゥに吸収されてしまったので、唐人たちはヤマトゥンチュと倭人を同じ者と見ていますが、倭人というのは海で活躍していた勇敢なアマミキヨ様の子孫なのです。ヤマトゥだけでなく、朝鮮(チョソン)や大陸に住み着いた者たちも多いはずです」
「どうして隼人と呼ばれたのですか」とササは聞いた。
 ジルーの父親の名前は愛洲(あいす)隼人だった。何かつながりがあるのだろうかと思った。
「南風(はえ)に乗って来た人だから『ハエヒト』と呼ばれて、それがなまって『ハヤト』になったようね」
「ヤマトゥの水軍たちや明国の海賊たちは隼人なんでしょうか」
「すべてがそうとは限らないけど、隼人の子孫たちも多いはずです」
 ジルーもアマミキヨ様の子孫なのかしらとササは何だか嬉しくなっていた。
「わたしたちの御先祖様も隼人なのですか」と漲水のウプンマが聞いた。
「一千年前の大津波のあとに南の国から来た人たちは少ないので、きっと、隼人だと思うわ」
「保良という村の女按司がヤマトゥと交易をしていたとクマラパ様から聞きましたが、その村と百名は関係あるのですか」とササは聞いた。
「保良の人たちは三百年前の大津波のあとにヤマトゥからやって来た人たちです。ヤマトゥの平泉(ひらいずみ)という所のサムレーが熊野水軍の船に乗って逃げて来たようです」
「平泉の藤原氏ですか」とササが聞いた。
 舜天(しゅんてぃん)(初代浦添按司)の父親の新宮(しんぐう)の十郎が平泉に行って、京都のように賑やかな都だったと言っていた。その頃、熊野水軍によって、大量のヤコウガイ琉球から平泉に運ばれていた。平泉は源氏に滅ぼされたと聞いている。
「そうです。戦に敗れて逃げて来たのです。藤原氏のお姫様が按司になって保良の村を造って、熊野水軍によって、ブラゲー(法螺貝)の交易が行なわれました。あの辺りで大量のブラゲーが採れたようです。ブラゲーの産地なので、ブラと呼ばれるようになったようです。保良村はヤマトゥと交易をして栄えていたのですが、野城按司(ぬすくあず)に滅ぼされてしまいます。野城按司の跡を継いだ若按司は保良按司(ぶらーず)の末娘のマムヤに夢中になって、按司としての務めも果たさず、大嶽按司(うぷたきあず)に滅ぼされます。そして、大嶽按司は佐田大人に滅ぼされたのです」
「ウムトゥ姫様の事を教えて下さい」とナナが言った。
 ササはナナを見て笑った。
「ウムトゥ姫様がいらっしゃったのは、わたしがミャークに来てから五十年が経った頃でした。わたしが亡くなってから十数年が経っていました。あなたたちと同じように、大神島に寄ってから狩俣に来ました。アマン姫様の曽孫(ひまご)だと聞いて驚きましたよ。ウムトゥ姫様は池間島に行ってシビグァーを採って琉球に送りました。勿論、わたしの子供たちも手伝いました。琉球との交易で池間島も狩俣も栄えたのです。池間島にいた頃はネノハ姫様と呼ばれていて、池間島には二十年間いらっしゃいました。長女に池間島の事を任せて、次女を連れてイシャナギ島に行ったのです。イシャナギ島に行ってからは、舟を造る材木を送ってくれました。ウムトゥ姫様がミャークに来たのは二十二歳の時で、美しいお姫様でした。琉球の御殿(うどぅん)で育ったお姫様なので、わたしの子供たちは立派な御殿を建てて、そこで暮らしてもらおうと思っていたようです。でも、ウムトゥ姫様はヤピシ(八重干瀬)に行ったまま帰って来ませんでした。心配になって様子を見に行ったら、池間島の人たちを指図してシビグァーを採らせていました。島人(しまんちゅ)たちと一緒に掘っ立て小屋で暮らして、一緒にシビグァーを採っていたのです。そして、島の男たちを引き連れて琉球に行って、交易をして帰って来ました。大したお姫様でしたよ」
 ササは神様にお礼を言ってお祈りを終えた。
「神様のお名前は何というのですか」とシンシンがマズマラーに聞いた。
「『マヤヌマツミガ様』です。マツミガ様は狩俣の祖神(うやがん)ですが、中興の神様もいらっしゃいます」
 そう言って、マズマラーは別のウタキに案内してくれた。森の中を尾根づたいに南に行くとそのウタキはあった。ちょっとした広場になっていて、隅の方に石の祠(ほこら)があった。
「昔、ここにお寺(うてぃら)があったそうです」とマズマラーは言った。
「お寺ですか」とササたちは驚いて辺りを見回した。
「三百年前にヤマトゥから平家のサムレーが狩俣に流れ着きました。宋(そう)という国に行く途中、嵐に遭って船は沈んでしまい、そのサムレーは板きれにすがってミャークまで流れ着いたのです。雁股(かりまた)の矢を板きれに突き刺して、それに捕まって生き延びたそうです。ここから北に行くと二本の飛び出た岬があって、丁度、雁股の矢に似ています。それで、村の名前をカリマタに決めたようです。そのサムレーは海で亡くなった仲間たちを弔うために、ここにお寺を建てました。『ティラヌブース(寺の武士)様』と呼ばれて、亡くなったあと、神様になりました」
「平家の落ち武者だったのですね」と安須森ヌルが聞いた。
 マズマラーは首を振って、「そうではないようです」と言った。
「わたしはヤマトゥの歴史をよく知りませんが、上比屋に平家の落ち武者たちがやって来て、グスクを築きました。それよりも五十年も前に、ティラヌブース様はやって来ています」
 ササたちはマズマラーと一緒にお祈りを捧げた。
 ティラヌブース様は平忠盛(たいらのただもり)の家来(けらい)だった。安須森ヌルは忠盛が平清盛(たいらのきよもり)の父親だった事を知っていた。ティラヌブース様は忠盛の命令で宋と交易をするために博多から船出して、帰りに遭難したのだった。ティラヌブース様は狩俣の人たちに読み書きを教え、剣術も教えた。今でも子供たちに読み書きを教える風習が残っているのは嬉しい事だとティラヌブース様は言った。
 ウタキから出て、マズマラーの屋敷に戻って、一休みした。
「ミャークには色々な人たちが来ていたのね」と安須森ヌルが言った。
「平家の落ち武者だけでなく、平泉の落ち武者もいたなんて驚いたわ」
熊野水軍はやっぱりミャークにも来ていたのね」とナナが言うと、
「どこかに『熊野権現(くまぬごんげん)様』が祀ってあるはずだわ」とササが言った。
熊野権現様って何ですか」と漲水のウプンマが聞いた。
「ヤマトゥの熊野の神様です。わたしたちの御先祖様でもあるスサノオの神様の事です」
スサノオ‥‥‥聞いた事があるわ」と言って漲水のウプンマは思い出そうとしていた。
「ターカウだわ。市場の近くに熊野権現の神社があったわ。わたしが聞いたら、航海の神様で、ヤマトゥで一番偉いスサノオの神様を祀っていると教えてくれました」
「ターカウに行ったのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「十年くらい前にマズマラーさんと一緒に行って来たのよ。賑やかな所で驚いたわ」
「あたしたちもターカウに行くんでしょ?」とシンシンがササに聞いた。
「勿論、行くわよ」とうなづいてから、「あっ!」とササは言って、
「神様に聞くのを忘れちゃったけど、三十年前に来たという久米島の兄弟の事を知っていますか」とクマラパに聞いた。
「知っておるよ」とクマラパは笑った。
「その頃、琉球の言葉がしゃべれるのは、わししかいなかったからのう。わしを訪ねて来たんじゃよ」
「そうか。与那覇勢頭(ゆなぱしず)様が琉球に行く前だったのですね」
 クマラパはうなづいて、「その兄弟はミャークに流されて来た進貢船(しんくんしん)に乗っていた船乗りだったんじゃよ」と言った。
「進貢船が来た時、わしは呼ばれて通訳をしたんじゃ。使者はアランポー(亜蘭匏)という明国の男じゃった。その時、久米島の兄弟とは会わなかったが、わしが琉球の言葉がしゃべれて、狩俣に住んでいる事も知ったんじゃろう。二年後にミャークにやって来て、わしを訪ねて来たんじゃよ」
「船乗りの兄弟が何のためにミャークに来たのですか」とシンシンが聞いた。
 クマラパは楽しそうに笑った。
「奴らは女子(いなぐ)に会うためにやって来たんじゃ。進貢船は船の修理と風待ちで、一月近くミャークにいたんじゃよ。その時、仲よくなった娘がいたようじゃ。お土産をたっぷりと小舟に積んでやって来た。しかし、遅かった。二人とも、すでに決まった男がいて、一人はお腹が大きかったそうじゃ」
「情けないわね」とナナが言った。
「それで二人はどうしたのですか」とササが興味深そうに聞いた。
「しばらく、ここにいて、ミャークの言葉を覚えていたんじゃが、佐田大人の戦が始まって、池間島に行ったんじゃよ。池間按司(いきゃまーず)の娘が美人(ちゅらー)だという噂を聞いて、飛んで行ったんじゃ。その後、弟が一人で伊良部島(いらうじま)にやって来た。兄はその美人と仲よくなって、一緒にイシャナギ島に行ったと言った。その頃、わしは伊良部島で兵たちを鍛えていたんじゃ。佐田大人を倒すためにな。弟は兵たちと一緒に武芸を習って、戦にも参加した。戦のあと、伊良部島に帰って、可愛い娘と巡り会ったようじゃ。弟の方はその後も家族を連れて何度かやって来た。今も伊良部島で楽しく暮らしているようじゃ」
「お兄さんはどうしてイシャナギ島に行ったのですか」
「池間按司の娘がシジ(霊力)の高いヌルで、イシャナギ島の神様に呼ばれたと言って、兄が連れて行ったそうじゃ」
 兄弟の名前を聞いたら阿嘉(あーか)のグラーとトゥムだという。久米島の堂村からアーラタキに行く途中に阿嘉という村があったのをササたちは思い出していた。
池間島に行きましょう」とササは立ち上がった。

  

  

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2-157.ミャーク(改訂決定稿)

 ササ(運玉森ヌル)たちを石垣に囲まれた狩俣(かずまた)の集落に入れてくれた白髪白髭の老人は、女按司(うなじゃら)の『マズマラー』の夫の『クマラパ』という明国(みんこく)の人だった。正確に言えば、クマラパが琉球に行った時、まだ明国は建国されていなかったので、元(げん)の国の人だった。
 クマラパは元の国が滅びる時の騒乱に巻き込まれて命を狙われ、十歳違いの妹、フォーヤオを連れて琉球に逃げて行った。全真道(ぜんしんどう)の道士で、険しい山の中で厳しい修行を積んで、様々な霊力を身に付けていた。
 泉州(せんしゅう)の商人の船に乗って琉球に行ったクマラパとフォーヤオは、船の中で出会ったカルーと一緒に津堅島(ちきんじま)に渡った。船乗りとして乗っていたカルーは片言(かたこと)だが元の国の言葉がしゃべれ、年齢が同じ位だったので仲よくなっていた。
 津堅島に来たクマラパとフォーヤオは琉球の言葉を学びながら平和な時を過ごしていた。フォーヤオはみんなから可愛がられて、チルカマという名前で呼ばれた。津堅島に来た時、十三歳だったチルカマも年頃になって、島の男たちに騒がれるようになった。すると仲のよかった娘たちがチルカマを嫉妬するようになって、チルカマは家に閉じこもるようになってしまった。
 そろそろ津堅島を離れた方がいいかもしれないとクマラパは思って、カルーに相談した。カルーがミャーク(宮古島)という南の島に行くと聞いて、一緒に行く事に決め、ミャークにやって来たのだった。
 カルーはクマラパ兄妹をミャークに連れて行った五年後、泉州からの帰りに倭寇(わこう)の襲撃を受けて殺されてしまう。カルーはサハチの側室、ナツの祖父だった。
 ミャークに来た翌年、チルカマは『石原按司(いさらーず)』の若按司に見初められて嫁いだ。異国から来た娘でも城下の人たちに歓迎されて嫁いだので、クマラパも安心した。
 その年、明国の福州から家族を連れて逃げて来た商人が大浦(うぷら)に落ち着いた。クマラパは彼らを助けてグスク造りを手伝った。その商人は『ウプラタス(大浦多志)按司(あず)』を名乗って土地を開墾して、井戸を見つけたりしたので人々が集まって来て、城下は栄えて行った。
 十年間、大浦にいたクマラパは旅に出て、各地の有力者たちを訪ねた。不思議な術を使う男としてクマラパの名は有名になっていて、有力者たちも歓迎してくれた。
 ミャークに来て十七年が経った時、クマラパは狩俣で女按司のマズマラーと出会った。ヌルでもあるマズマラーは霊力も高く、クマラパと気が合った。居心地がいいので、狩俣に落ち着いて三十年余りが経ったという。
 マズマラーは女按司だけあって、威厳のある人だった。美しい顔をしているが、目付きは鋭く、男たちにも恐れられているようだった。年の頃はササの母親、馬天(ばてぃん)ヌルと同じ位で、雰囲気も母に似ているとササは思った。
 マズマラーも琉球の言葉がしゃべれた。クマラパから教わり、神様からも教わったという。
「大きな戦(いくさ)があったと聞きましたが、それで村を石垣で囲んでいるのですか」とササは聞いた。
「三十年前にひどい戦があったのよ」とマズマラーは顔をしかめた。
倭寇じゃった」とクマラパが言った。
「わしが元の国にいた頃、倭寇が元の国の沿岸を荒らし回っていたんじゃ。反乱を起こした方国珍(ファングォジェン)や張士誠(ヂャンシーチォン)も倭寇を味方に付けていたという。元の国が滅んだのも倭寇が関わっていたんじゃよ。三十年前にミャークに来た倭寇は船団を率いてやって来たんじゃ。その頃、ヤマトゥ(日本)は南北朝(なんぼくちょう)の争いをしていて、敗れた南朝の水軍が逃げて来たようじゃ。大将は『佐田大人(さーたうふんど)』と呼ばれていた。大勢の配下を引き連れてミャークにやって来たのは佐田大人だけではない。明国から大浦に来たウプラタス按司もそうだし、南部の上比屋(ういぴやー)に住み着いた平家の残党たちもいる。この島に住み着いて、交易に励んでくれれば何の問題もなかった。ところが悲劇が起こったんじゃ」
「平家がミャークにも来ていたのですか」と安須森(あしむい)ヌルが驚いた顔をしてクマラパに聞いた。
「平家も来ておるし、藤原氏も来ておるよ。なぜか、源氏の話は聞かんのう。佐田大人の奴らは南部の与那覇(ゆなぱ)の入り江に船を泊めたんじゃが、あそこは浅いんじゃよ。たまたま、満潮の時に入ってしまったようじゃ。潮が引いたら皆、座礁してしまった。おまけに台風が来て船は壊れてしまったんじゃ。船がなくなって、奴らは交易ができなくなってしまった。一千人もいたら食うにも困って、奴らは盗賊となってしまったんじゃよ。鋭いヤマトゥの刀を振りかざして、あちこちを荒らし回った。奴らが最初に狙ったのは、この島で一番栄えている野崎(ぬざき)(久松)じゃった。しかし、野崎には知将と言われる『野崎按司』がいたので諦めたようじゃ。野崎の東方(あがりかた)にあった美野(みぬ)という村(しま)は襲われて、娘たちは連れ去られて、他の者たちは皆殺しにされた。家々は焼かれ、食糧は奪われたんじゃ。知らせを聞いてわしも見に行ったが、言葉に表せないほど悲惨なものじゃった。幼い子供たちも皆、無残に殺されていた。その後、村が再建される事もなく、今も荒れ地になったままじゃよ。ウプラタス按司も奴らにやられてしまった。明国から平和を求めてやって来たのに、皆殺しにされてしまったんじゃ。まったく、許せん奴らじゃ。狩俣にも奴らは攻めて来たが、石垣のお陰で追い返す事ができた。大嶽按司(うぷたきあず)、高腰按司(たかうすあず)、内里按司(うちだてぃあず)、久場嘉按司(くばかーず)、みんな、奴らにやられてしまった。その時、立ち上がったのが根間(にーま)の『目黒盛(みぐらむい)』だったんじゃ。目黒盛の誘いに、野崎按司、荷川取(んきゃどぅら)の北宗根按司(にすずにあず)、南部の上比屋按司(ういぴやーず)、そして、わしらも加わって、奴らを倒したんじゃ。今までバラバラだったミャークの者たちが、奴らを倒して一つにまとまったんじゃよ」
「すると、その目黒盛という人がミャークの王様なのですか」と安須森ヌルが聞いた。
 クマラパは笑った。
「王様ではないのう。だが、『豊見親(とぅゆみゃー)』と呼ばれている。琉球で言う『世の主(ゆぬぬし)』と同じようなものじゃろう。根間豊見親とか、目黒盛豊見親と呼ばれている」
琉球に来た『与那覇勢頭(ゆなぱしず)』様も健在なのですね?」とササが聞いた。
「ああ、健在じゃ。与那覇勢頭は目黒盛豊見親の重臣で、目黒盛の命令で琉球に行ったんじゃよ。佐田大人との戦で大怪我をしたんじゃが、見事に役目を果たして琉球に行って来たんじゃ」
 与那覇勢頭に会いたいと言ったら、クマラパは会わせてやると約束してくれた。
 ササたちはクマラパとマズマラーにお礼を言って別れ、小舟(さぶに)に乗って、夕日を背にしながら愛洲(あいす)ジルーの船に戻った。帰りが遅いので、皆、心配していた。
 ササたちは順調よと言って、ミャークに無事に着いたお祝いの宴(うたげ)を開いた。お酒を飲みながら、狩俣で出会ったクマラパの事を皆に話した。津堅島にいた人がミャークにいたと聞いて、皆、驚いていた。さらに、クマラパがササと安須森ヌルの祖父、サミガー大主(うふぬし)を知っていたと聞いて、皆、信じられないといった顔をした。きっと、神様のお導きに違いないと皆で神様に感謝した。
 翌日、珊瑚礁(さんごしょう)に気をつけながら船を南下させて、『白浜(すすぅばま)』という砂浜の近くまで行った。白浜は少し窪んだ所にあって、二隻の船が浮かんでいた。ヤマトゥ船ではなく、進貢船(しんくんしん)を小さくしたような明国の船だった。
 ササたちが小舟に乗って白浜に上陸すると、クマラパが娘のタマミガを連れて待っていた。クマラパがウミンチュ(漁師)たちに頼んで小舟を出してくれたので、最低限の船乗りたちを残して、皆がミャークに上陸した。
 タマミガはササより二つ年上で、琉球の言葉が話せた。ササがお母さんの跡を継ぐのねと聞いたら、ヌルの跡は継ぐけど、按司は兄が継ぐだろうと言った。昔は女の按司が多かったけど、だんだんと男の按司が多くなってきたと言ってタマミガは笑った。
 ササはクマラパとタマミガにみんなを紹介した。若ヌルたちは砂浜で武当拳(ウーダンけん)の套路(タオルー)(形の稽古)をやっていた。それを見たクマラパは驚いて、
「明国の拳術ではないのか」とササに聞いた。
武当拳です」
武当拳といえばヂャンサンフォン(張三豊)殿が編み出した拳術ではないか。どうして、武当拳を身に付けているんじゃ」
「わたしたちは皆、ヂャンサンフォン様の弟子なのです」
「なに、どういう事じゃ? ヂャンサンフォン殿が琉球にいるというのか」
 ササはうなづいた。
 クマラパは驚いたあと、「そうじゃったのか」と一人で納得したようにうなづいた。
「わしは若い頃、少林拳(シャオリンけん)をやっていて、師匠からヂャンサンフォン殿の噂を聞いて、武当山(ウーダンシャン)に行ったんじゃ。武当山はひどい有様じゃった。寺院は破壊されて、誰もいなかったんじゃよ。まさか、ヂャンサンフォン殿が琉球に行ったとは知らなかった」
 琉球に行ったのは、その時ではないと言おうとしたが、説明が長くなるので、ササはやめた。
「刀を差しているので、剣術はできそうだと思っていたが、武当拳までやるとは恐れ入ったのう」
 若ヌルたちは玻名(はな)グスクヌルに任せて、安須森ヌル、ササ、シンシン(杏杏)、ナナ、愛洲ジルーとゲンザ(寺田源三郎)が与那覇勢頭に会いに向かった。
 タマミガはシンシンが明国から来た事を知ると、しきりに明国の事を聞いていた。父親の故郷に興味があるようだった。
 ほとんど平らな島だが、左の方に山らしいのが見えたのでササはクマラパに聞いた。
「あの山は大嶽(うぷたき)(野原岳)じゃよ。ミャークで一番高い山じゃ。あそこにグスクがあったんじゃが、佐田大人の奴らに滅ぼされてしまったんじゃよ」
「あとで連れて行って下さい」とササは言った。
 クマラパは笑ってうなづいた。
「大嶽按司の長男は戦を嫌って農民(はるさー)になったお陰で助かった。戦が終わったあと、大嶽の裾野を開墾して新しい村を造って、その村の長老になっている。長老になっても毎日、野良仕事に励んでいる面白い男じゃよ」
「この辺りにもグスクはあったのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「この辺りは北銘(にしみ)(西銘)と呼ばれていて、北銘按司がいたんじゃよ。だが、石原按司に滅ぼされてしまった。わしの妹は石原按司の倅に嫁いだんじゃよ。幸せに暮らしていたんじゃが、北銘按司の従兄(いとこ)の糸数按司(いとぅかずあず)に滅ぼされてしまったんじゃ」
「妹さんは無事だったのですか」
「無事じゃった。わしに夫と息子の敵(かたき)を討ってくれと言ってきたが、わしが手を出すまでもなく、バチが当たって、突然、亡くなってしまったんじゃよ」
 そう言ってクマラパは楽しそうに笑った。
 しばらく行くと小高い丘の上に集落があって、その先に石垣で囲まれたグスクが見えた。それほど大きなグスクではなかった。
「与那覇(ゆなぱ)スクじゃ」とクマラパが言った。
「ミャークではグスクの事を『スク』と呼んでいるんじゃよ。按司の事は『アズ』じゃ。昔はティダとか大殿(うぷどぅぬ)と呼ばれていたらしい。女子(いなぐ)の按司は『ミドゥンアズ』と言う。ヌルの事は『チカサ』と呼んでいるが、村を代表するヌルは『ウプンマ』と呼ばれている。ここは『イナピギムイ』といって、目黒盛が両親から譲られた土地なんじゃ。しかし、両親は目黒盛が三歳の時に亡くなってしまって、この土地は七兄弟という悪い奴らに奪われてしまった。目黒盛はここで七兄弟と決闘をして勝って、土地を取り戻したんじゃよ。そして、グスクを築いて、与那覇勢頭に守らせたんじゃ」
「三十年前の戦の時も、与那覇勢頭様はここを守っていたのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「守っていた。佐田大人が来る二年前に琉球の進貢船がミャークに来たんじゃよ。嵐に遭って流されて来たらしい。進貢船の大きさにミャークの者たちは皆、驚いた。目黒盛は琉球が明国と交易をしている事を知って、琉球に行かなければならないと思ったんじゃ。そして、与那覇勢頭、当時はマサクと呼ばれていたが、マサクをこのグスクに入れて、白浜で船を造らせたんじゃよ。船造りは八重山(やいま)まで行って材木を手に入れる事から始まった。ウプラタス按司の船を真似して、琉球まで行く船を造ったんじゃ。その時、わしも手伝ったんじゃよ。その船もようやく完成して、琉球に行こうとした年、目黒盛と佐田大人の戦が起こったんじゃ。マサクは大怪我を負ってしまったが無事に回復して、翌年、琉球に行ったんじゃよ」
 グスクの御門番(うじょうばん)は不思議そうな目付きでササたちを見ていたが、クマラパが何かを言うと驚いた顔をしてからグスク内に入れてくれた。石垣の中は仕切られていないで、曲輪(くるわ)は一つだけだった。奥の方に垣根に囲まれた屋敷があって、入り口の所に背の高い男が立っていた。
 男はクマラパを笑顔で迎えた。クマラパが与那覇勢頭だとササたちに教えた。
 与那覇勢頭は五十代半ばくらいで、鎧(よろい)姿が似合いそうな貫禄のある男だった。日に焼けた顔をしていて、今でも船頭(船長)として船に乗っている事を物語っていた。琉球中山王(ちゅうさんおう)の娘が使者としてミャークに来たと聞いて驚き、クマラパから詳しい事情を聞いていた。
「中山王の武寧(ぶねい)が滅ぼされたとは驚いた」と与那覇勢頭はササたちに言った。
「与那覇勢頭様が琉球に行った頃は、中山王は浦添(うらしい)グスクにいましたが、今は首里(すい)が琉球の都です。あの頃の浦添よりも首里の城下は栄えています」とササは言った。
首里?」と与那覇勢頭は首を傾げたが、「首里天閣(すいてぃんかく)が建っていた小高い丘の事ですか」と聞いた。
「そうです。首里天閣はもうありませんが、あそこに首里グスクができて、その城下が都になったのです」
「ほう、そうだったのですか。察度(さとぅ)殿に招待されて首里天閣に登って、素晴らしい眺めを楽しみました。あれから、もう二十年余りが経ったんじゃのう」
 与那覇勢頭は当時を思い出していたようだが、ササたちを歓迎して屋敷に入れてくれた。通された会所(かいしょ)らしい部屋に、ヤマトゥの屏風(びょうぶ)と南蛮(なんばん)(東南アジア)の大きな壺(つぼ)が飾ってあった。
大神島(うがんじま)のガーラさんから、与那覇勢頭様は『ターカウ(台湾の高雄)』に行っていると聞きましたが、そこで倭寇と交易をしているのですか」とササは聞いた。
琉球との取り引きをやめてから、ヤマトゥの商品を手に入れるためにターカウまで行ったのです。倭寇の拠点だと聞いていたので、捕まってしまう恐れもあったのですが思い切って行ってみたのです。クマラパ殿も一緒に行ってくれました。野崎按司(ぬざきあず)はターカウと交易をしていたので、野崎按司の配下のヤマトゥンチュ(日本人)も連れて行きました。行ってみて驚きましたよ。港には様々な船がいくつも泊まっていて、まるで、都のような賑わいだったのです。倭寇に連れ去られて来たのか、朝鮮(チョソン)や明国の女たちもいました。倭寇の首領は『キクチ殿』と言って、豪華な屋敷で王様のように暮らしています。一緒に行ったヤマトゥンチュが話を付けてくれたので、わしらは歓迎されて、その後、ずっと交易を続けているのです。今は二代目がキクチ殿を継いでいます」
「ミャークから何を持って行くのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「シビグァー(タカラガイ)、ヤクゲー(ヤコウガイ)、ブラゲー(法螺貝)、ガラサーガーミー(タイマイ)の甲羅、ザン(ジュゴン)の干し肉と塩漬け(すーちかー)、干しシチラー(ナマコ)、ミャークで取れるのはこんな物です。あとは南蛮の商品を持って行きます」
「南蛮の商品もあるのですか」と安須森ヌルは驚いてササたちを見た。
「野崎按司が南蛮と取り引きをしています。ターカウの南に『トンド(マニラ)』という国があります。野崎の『アコーダティ勢頭(しず)』が若い頃、トンドまで行って取り引きを始めたのです。もう四十年も前の事で、今でもトンドとの取り引きは続いています」
 トンドの国というのはシーハイイェン(施海燕)から聞いたような気もするが、ササはよく覚えていなかった。
「すると、琉球に行っていた時も南蛮の商品を持って行ったのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「勿論です。中山王の察度殿は喜んでくれました」
「それなのに、どうして琉球に行かなくなったのですか」
「詳しい事は知りませんが、察度殿は若い頃にヤマトゥに行った事があるらしくて、船乗りの気持ちをよくわかってくれました。遠くからよく来てくれたと歓迎してくれたのです。しかし、察度殿が亡くなって、跡を継いだ武寧はわしらを見下したような目で見て、わしらの事は家臣たちに任せっきりで、わしらに会おうともしなかったのです。船乗りたちがあんな男のために危険を冒してまで琉球に行く必要はないと言い出して、行くのをやめてしまったのですよ」
「そうだったのですか。察度様で思い出しましたが、察度様から刀をいただきませんでしたか」
「見事な刀をいただきました。目黒盛殿が大切にしているはずです」
 英祖(えいそ)の宝刀を目黒盛が持っていると聞いて、安須森ヌルはササと顔を見合わせて喜んだ。
「話は変わりますが、古いウタキ(御嶽)はどこにありますか。ミャークに来た事を神様に挨拶しなければなりません」とササが言った。
「古いウタキと言えば『漲水(ぴゃるみず)ウタキ』でしょう。目黒盛殿の根間グスクの近くにあります。御案内しますよ」
 与那覇勢頭が馬を用意してくれたので、馬に乗って漲水ウタキに向かった。景色を眺めながらゆっくりと行ったが半時(はんとき)(一時間)もしないうちに根間の城下に着いた。石垣で囲まれたグスクの周りには家々が建ち並んでいて、ここがミャークの都のようだった。その城下を通り越して、海岸の近くにクバの木が生い茂った森があった。森の隣りにヌルの屋敷があって、『漲水のウプンマ』と呼ばれているヌルがいた。
 漲水のウプンマは三十代半ばくらいのヌルで、七歳くらいの娘と庭で遊んでいた。ササたちを見ても驚くわけでもなく、歓迎してくれた。
 漲水のウプンマは琉球の言葉がしゃべれた。琉球に行ったのですかと聞いたら、神様から教わったのよと言って笑った。
 男たちはヌルの屋敷で待っていてもらった。ササたちは刀を預けて、森の裏にある海辺で禊(みそ)ぎをして、ウプンマと一緒に漲水ウタキに入った。森の中に広場があって、神様が降りて来る石が置いてあった。久高島(くだかじま)のフボーヌムイ(フボー御嶽)とよく似ていた。
 ササたちはウプンマと一緒にお祈りを捧げた。神様の声は聞こえたが、ミャークの言葉で理解できなかった。お祈りを終えたあと、ヌルの屋敷に戻って、ウプンマから神様の事を聞いた。
 南の国からやって来た『コイツヌ』と『コイタマ』という夫婦の神様を祀っている。二人はこの辺りに住んでいる人たちの御先祖様だけど、詳しい事はわからないという。アマミキヨ様の事を聞いたが、ウプンマは知らなかった。
 漲水のウプンマと別れて、ササたちは根間グスクに行って目黒盛豊見親と会った。
 目黒盛豊見親は与那覇勢頭より三つくらい年上で、大将という貫禄があった。目の上に目立つ黒いアザがあったが、決して醜くなく、なにか特別な人という感じがした。
 言葉が通じないので、与那覇勢頭の通訳で話をした。目黒盛豊見親はササたちが滞在する屋敷を用意してくれ、昼食も用意してくれた。今晩、歓迎の宴を開くので、それまでゆっくりしていてくれと言った。
 日が暮れるまで、まだたっぷりと時間があるので、ササたちはクマラパの案内で野崎に向かった。トンドの国と取り引きをしているというのが気になっていた。
「今は根間が都のように栄えているが、以前は野崎が一番栄えていたんじゃよ」とクマラパが馬に揺られながら言った。
「トンドの国に行ったというアコーダティ勢頭様を御存じですか」と安須森ヌルが聞いた。
「よく知っておるよ。奴は若い頃、ウプラタス按司のグスクに出入りしていたんじゃ。その頃、わしもウプラタスにいたんで、奴に明国の話をしてやった。奴は興味を持って、いつか必ず、明国に行くと言って、明国の言葉を学び始めたんじゃ。十八歳の時、奴は小舟に乗って明国を目指したんじゃよ」
「小舟で明国に行ったのですか」と安須森ヌルは驚いた。
「残念ながら明国には行けなかったんじゃ。ドゥナン(与那国島)まで行って引き返して来たんじゃよ。ドゥナンの者に小舟では黒潮(くるす)を乗り越える事はできないと言われたようじゃ。しかし、奴は諦めなかった。小舟でドゥナンまで行って来た事が認められて、野崎按司の援助で船を造る事になったんじゃ。その船を造ったのがわしなんじゃよ。その時、わしは初めて船を造ったんじゃが、それが後に与那覇勢頭の船を造るのに役立ったというわけじゃ。奴はその船に乗って、黒潮を乗り越えてターカウまで行った。わしも一緒に行ったんじゃよ。明国に行くつもりだったんじゃが、明国は海禁政策をやっていて、下手に近づけば捕まってしまうぞと倭寇たちに脅されたんじゃ。わしもやめた方がいいと言って、トンドに向かう事にしたんじゃよ。トンドは元の国に滅ぼされた宋(そう)の国の商人たちが作った国じゃった。言葉も通じて交易もうまく行った。南蛮の商品をたっぷりと積んで帰って来て、野崎按司を喜ばせたんじゃよ」
 野崎は港の周りに発達した集落で、家々も多く建ち並んでいて賑やかな所だった。アコーダティ勢頭の屋敷は海の近くにあった。屋敷の周りには田んぼが広がっていて、稲穂が伸びていた。
「赤米(あかぐみ)じゃ」とクマラパが言った。
「アコーダティ勢頭がトンドから持って来て植えたんじゃよ。もう少ししたら稲穂が赤くなる。アコーは赤い穂の事で、ダティは里の事じゃ。いつしか、この辺りはアコーダティと呼ばれるようになったんじゃよ」
 アコーダティ勢頭は白髪頭の老人だったが、体格のいい海の男だった。琉球から来たというと、遠くからよく来てくれたと歓迎してくれた。アコーダティ勢頭は明国の言葉はしゃべれるが、琉球の言葉もヤマトゥ言葉もしゃべれなかった。シンシンが通訳をして、トンドの国の事を聞いた。
 トンドには広州の海賊が来て、明国の商品を持って来る。旧港(ジゥガン)(パレンバン)やジャワの船も来て、南蛮の商品を持って来る。ターカウの倭寇も来て、ヤマトゥの商品を持って来るという。シーハイイェンとスヒターの事を聞くと、アコーダティ勢頭は名前は聞いた事があるという。その二人は王様の娘なのに、ヤマトゥまで行って来たと一時、商人たちの間で話題になっていたらしい。
「今は二人とも琉球にいます」とササが言うと、アコーダティ勢頭は知っているというようにうなづいた。
 ササたちの歓迎の宴にアコーダティ勢頭と野崎按司も招待されたようで、一緒に根間に向かった。
 城下の屋敷に帰ると、玻名グスクヌルと若ヌルたち、マグジ(河合孫次郎)、女子サムレーのミーカナとアヤーが待っていた。目黒盛の家臣が白浜まで迎えに来たという。船乗りたちは白浜に残っているが、近所の女たちが炊き出しをしているので心配ないと言った。

 

 

 

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