尚巴志伝 第二部
三の曲輪(くるわ)の本陣の仮小屋で、サハチ(中山王世子、尚巴志)とファイチ(懐機)と苗代大親(なーしるうふや)が今後の作戦を練っていた時、突然、不気味な音が鳴り響いたかと思うと大雨が降って来て、稲光と共に雷が鳴り響いた。 今帰仁(なきじん)グスク…
『アキシノ様』を助けるために、ササ(運玉森ヌル)がいる島添大里(しましいうふざとぅ)グスクに向かったタマ(東松田若ヌル)、シンシン(杏杏)、ナナは、サグルー(山グスク大親)たちが志慶真曲輪(しじまくるわ)を攻め落とした四月八日の夜、名護(なぐ)…
お祭り(うまちー)をクーイの若ヌルのマナビダルと楽しんだ山北王(さんほくおう)の攀安知(はんあんち)は、武芸試合もうまく行って、強い若者たちを集められた事に満足した。さらに鍛えて、中山王(ちゅうざんおう)(思紹)を攻めるために瀬長島(しながじま)に…
外曲輪(ふかくるわ)を奪い取った翌日の朝、サハチ(中山王世子、尚巴志)はサグルー(山グスク大親)たちが志慶真曲輪(しじまくるわ)を攻め落としたとの知らせを受け、順調に行っていると満足そうにうなづいた。 しかし、サハチにとってサム(勝連按司)の戦…
外曲輪(ふかくるわ)を攻め落とした日の朝、サグルー(山グスク大親)、ジルムイ(島添大里之子)、マウシ(山田之子)、シラー(久良波之子)とキラマ(慶良間)の島で師範だったタク(小渡之子)が率いる兵たちは、搦(から)め手の志慶真御門(しじまうじょう…
四月六日の正午(ひる)頃、一千五百人の兵を率いて今帰仁(なきじん)に着いたサハチ(中山王世子、尚巴志)は城下を見て驚いた。すべてが焼け落ちた悲惨な焼け跡に驚いたが、それ以上に焼け跡に造られた陣地を見て驚いていた。 焼け跡の中に高い物見櫓(ものみ…
首里(すい)グスクの石垣の上に『三つ巴』の旗がいくつも風になびいていた。 法螺貝(ほらがい)の音が鳴り響いて、西曲輪(いりくるわ)に武装した一千二百人の兵が整列した。胸に『三つ巴』が描かれた揃いの鎧(よろい)を着て、頭にも『三つ巴』が描かれた白い鉢…
運天泊(うんてぃんどぅまい)に帰った湧川大主(わくがーうふぬし)は武装船に積んである鉄炮(てっぽう)(大砲)の半分、六つをはずして、今帰仁(なきじん)グスクに運ぶようにサムレー大将のナグマサに命じると、そのまま馬にまたがって、玉グスク村に向かった。…
今帰仁(なきじん)でお祭り(うまちー)が最高潮の頃、島尻大里(しまじりうふざとぅ)グスクではトゥイ(先代山南王妃)の母親ウニョン(先々代中山王妃)を偲ぶと称して、家族たちが集まっていた。トゥイの夢枕に母が出て来て、急遽、家族を呼び集めたのだった…
ササ(運玉森ヌル)たちが乙羽山(うっぱやま)で『マジムン(悪霊)退治』をしていた頃、島添大里(しましいうふざとぅ)グスクに珍しい客がサハチ(中山王世子、島添大里按司)を訪ねて来た。瀬長按司(しながあじ)だった。 わざわざ訪ねて来るなんて、瀬長按司…
庶民の格好に戻ったササ(運玉森ヌル)たちは、朝早く勢理客(じっちゃく)村を発って、充分に気を付けながら今帰仁(なきじん)に向かった。 何事もなく、一時(いっとき)(二時間)足らずで今帰仁城下に着いた。城下の賑やかさにササたちは驚いた。交易に来てい…
昨日は雨降りだったが、今日は朝からいい天気で、島添大里(しましいうふざとぅ)グスクのお祭り(うまちー)に大勢の人たちが集まって来た。 ミーグスクに滞在しているヤンバル(琉球北部)の長老たちとクチャ(名護按司の妹)とスミ(松堂の孫娘)も、マナビー…
ウニタキ(三星大親)はヤンバル(琉球北部)の按司たちの書状を持って、真喜屋之子(まぎゃーぬしぃ)とキンタ(奥間大親)を連れて首里(すい)に向かった。今後の作戦を思紹(ししょう)(中山王)と練るために、サハチ(中山王世子、島添大里按司)も一緒に行…
ミーグスクでヤンバル(琉球北部)の長老たちの歓迎の宴(うたげ)をしていた頃、島添大里(しましいうふざとぅ)グスクの一の曲輪(くるわ)の屋敷の二階で、サハチ(中山王世子、島添大里按司)とウニタキ(三星大親)が、キンタ(奥間大親)と真喜屋之子(まぎゃ…
首里(すい)グスクの北、会同館(かいどうかん)の西側には赤木が生い茂った森があった。赤木を伐り倒して整地をして、そこに大きな穴を掘って大池を造り、庭園として整備する事に決まった。 キラマ(慶良間)の島から次々に来る若者たちが、掘っ立て小屋を建て…
二月一日、ジクー寺の落慶供養(らっけいくよう)が行なわれ、ジクー(慈空)禅師によって、『大禅寺(だいぜんじ)』と名付けられた。 龍の彫刻がいくつもある立派な山門に、ジクー禅師が書いた『大禅寺』という扁額(へんがく)が掲げられ、本堂には新助が彫った…
美浜島(んばまじま)(浜比嘉島)に一泊して勝連(かちりん)に戻ったササ(運玉森ヌル)たちは、勝連若ヌルを連れて、『東松田(あがりまちだ)の若ヌル』に会うために読谷山(ゆんたんじゃ)の喜名(きなー)に向かった。 美浜島でササの弟子の若ヌルたちが神様の声…
中山王(ちゅうざんおう)(思紹)と山南王(さんなんおう)(他魯毎)の進貢船(しんくんしん)が船出した日、ササ(運玉森ヌル)たちは沢岻(たくし)に向かっていた。 母の馬天(ばてぃん)ヌルは沢岻ヌルを知らなかった。浦添(うらしい)ヌルのカナも知らなかったし…
ササ(運玉森ヌル)と安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)が須久名森(すくなむい)の山頂で『鎮魂の曲』を吹いた翌日の夕方、首里(すい)の『まるずや』で四度目の戦評定(いくさひょうじょう)が開かれた。安須森ヌルと一緒にササも加わっていた。奥間(うくま…
首里(すい)から呼んだサムレー大将の田名親方(だなうやかた)と楽隊に先導されて、李芸(イイエ)と早田(そうだ)五郎左衛門は連れて来た役人や護衛兵と一緒に首里へと行進した。マチルギが連れて来た女子(いなぐ)サムレーたちが、沿道の家々に朝鮮(チョソン)か…
浮島(那覇)にヤマトゥ(日本)から帰って来た交易船、『李芸(イイエ)』を乗せた朝鮮船(チョソンぶに)、ササ(運玉森ヌル)たちを乗せた愛洲(あいす)ジルーの船が着いて、馬天浜(ばてぃんはま)にシンゴ(早田新五郎)、マグサ(孫三郎)、ルクルジルー(早…
仲宗根泊(なかずにどぅまい)から三隻の船に乗って奥間(うくま)沖に来た諸喜田大主(しくーじゃうふぬし)が率いる兵たちは、小舟(さぶに)に乗って砂浜に上陸した。 諸喜田大主は配下の仲尾之子(なこーぬしぃ)に奥間村を偵察するように命じて、全員が上陸するの…
正月気分も治まってきた正月の十日、ファイテ(懐機の長男)とミヨン(ウニタキの長女)、ジルーク(浦添按司の三男)と女子(いなぐ)サムレーのミカ、ウニタル(ウニタキの長男)とマチルー(サハチの次女)が旅に出て行った。南部を一回りしてから北に向か…
ファイテ(懐徳)とジルーク(浦添按司の三男)は島添大里(しましいうふざとぅ)に帰って来た。年が明けたら旅に出て、旅から帰って来たら首里(すい)に移り、とりあえずは『報恩寺(ほうおんじ)』の師匠として修行者たちを指導するという事に決まった。 ジルー…
十二月七日に奥間(うくま)のサタルーと一緒にヤンバル(琉球北部)に行ったハルたちは、十四日に無事に帰って来た。知らせを受けて、サハチ(中山王世子、島添大里按司)が安須森(あしむい)ヌルの屋敷に行くと、シジマを囲んで、みんなが騒いでいた。「按司…
ハルたちが屋嘉比(やはび)のお婆と別れて、奥間(うくま)に着いた頃、運天泊(うんてぃんどぅまい)に鬼界島(ききゃじま)(喜界島)から帰って来た湧川大主(わくがーうふぬし)の武装船と三隻の船が着いた。 台風で座礁(ざしょう)した四隻の船のうち、一隻は修理…
十二月になって、そろそろ湧川大主(わくがーうふぬし)が鬼界島(ききゃじま)(喜界島)から帰って来るだろうとウニタキ(三星大親)は今帰仁(なきじん)に向かった。 鬼界島に何人の兵がいるのか知らないが、四百の兵と鉄炮(てっぽう)(大砲)で攻めれば、今年…
十一月の初め、島尻大里(しまじりうふざとぅ)ヌル(前豊見グスクヌル)が無事に女の子を産んだ。跡継ぎができたと島尻大里ヌルは涙を流して喜んだ。三十歳を過ぎて、跡継ぎの事はもう諦めていた。それなのに突然マレビト神が現れて、娘を授かった。島尻大里…
シタルー(先代山南王)の命日に豊見(とぅゆみ)グスクのシタルーのお寺(うてぃら)で、護国寺(ぐくくじ)の僧たちと山南王(さんなんおう)(他魯毎)のヌルたちによって法要が行なわれた。トゥイ様(先代山南王妃)とマアサはいないが、子供たちや孫たちは皆集…
十月二日、リーポー姫(永楽帝の娘)たちは『油屋』の船に乗って無事に浮島(那覇)に帰って来た。今帰仁(なきじん)に帰ったテーラー(瀬底大主)がリュウイン(劉瑛)の家族を連れて一緒に乗っていた。 テーラーは明国(みんこく)に連れて行った二十人の兵を…