長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

3-10.トゥクカーミー(第二稿)

 シンシンとナナが予想したように、島ヌルのカリーと親方の息子のサクラーは消えてしまった。どこに行ったのかわからないが、無事に帰ってくるまで、サスカサたちは待っている事にした。
 ヒューガは先に帰ったが、サンダラたちは一緒に残った。トカラの宝島まで行けば冬にならなければ帰れないので、急ぐ必要もないと言って浜辺に店を開いていた。サスカサたちは硫黄(いおう)の採掘を手伝ったり、島の娘たちに武当拳(ウーダンけん)を教えたり、カリーの代わりに子供たちに読み書きを教えたりして過ごした。
 四日目の夕方、カリーとサクラーは無事に鳥島(とぅいしま)に帰ってきた。気がついたら豪華な御殿(うどぅん)にいたので二人は驚いた。永良部(いらぶ)ヌル(瀬利覚ヌル)が現れて話を聞いたら、カリーたちは神様(初代永良部ヌル)に呼ばれて永良部島に来ていて、永良部ヌルは神様に言われて、二人の面倒を見ていたと言った。二人は永良部ヌルと一緒に越山(くしやま)に登って、神様に感謝して帰ってきたという。
 サスカサたちはカリーとサクラーを祝福して、翌日、永良部島に帰ってきた。
 後蘭孫八(ぐらるまぐはち)は按司のグスクの南東にある丘の上に若按司(先代按司の次男マジルー)のためのグスクを築き始めていた。サグルーたちは永良部按司(サミガー親方)と重臣たちと一緒に、今後の対策を練っていた。サスカサは永良部按司鳥島の必要物資の補給を頼んだ。
 ジルムイと百人の兵を玉グスクに残して、サグルーたちが永良部島を離れ、徳之島(とぅくぬしま)に向かったのは六月十二日になっていた。徳之島按司を説得するために、母親のマティルマと妹のマハマドゥ、永良部ヌルも一緒に行った。
 サスカサたちはサンダラの船に乗っていた。畦布(あじふ)若ヌルのマチルー(先代永良部按司の次女)が一緒に乗っていた。マチルーは人質として来たわけではなく、サスカサたちが武芸の名人だと知って、弟の若按司を守るために強くなりたいと言ってサスカサの弟子になっていた。瀬底(しーく)若ヌル、与論(ゆんぬ)若ヌルに続いて三人目の弟子で、島に行く度に弟子が増えるので、まるで、ササみたいとシンシンとナナが笑った。
 風に恵まれて船は気持ちよく進み、正午(ひる)頃に徳之島に着いた。徳之島按司のグスクは島の南部にあるので、ウンノー泊(どぅまい)(面縄港)に向かっていたら、
「母間浜(ぶまはま)に行って」と神様の声が聞こえた。
 聞いた事のない声だった。
「あたしの娘のキキャ姫よ」とユンヌ姫の声が聞こえた。
「母間浜で母間ヌルが待っているわ」とキキャ姫が言った。
「母間ヌルはトゥクヌ姫の子孫なの。トゥクヌ姫はキキャ姫の娘なのよ」とユンヌ姫が言った。
按司に会う前にトゥクヌ姫様に会った方がいいのですね」とサスカサが聞いた。
按司の事はサグルーたちに任せて大丈夫よ。徳之島は鬼界島(ききゃじま)(喜界島)と同じように早いうちからヤマトゥンチュ(日本人)が入ってきた特別な島だから、過去に何が起こったのかちゃんと知っておくべきよ」
「わかりました。母間浜に向かいます」
 ウンノー泊に着くと、サスカサは母間浜に行く事をサグルーに告げて、サンダラの船を島の東側を北上させた。一時(いっとき)(二時間)ほどで母間浜(母間港)に着いた。
 浜辺で待っていた母間ヌルは八歳くらいの娘を連れていて、サスカサたちが『まるずや』の船に乗ってきたので驚いた。母間ヌルが送ってくれた小舟(さぶに)に乗って上陸すると浜辺には大勢の人が集まってきた。『まるずや』目当ての客たちで、サスカサたちは人混みを抜けて母間ヌルと会った。
「勇ましい姿ですね」と母間ヌルはサスカサたちが腰に差している刀を見て笑った。
 サスカサは名乗って、ヌルたちを紹介した。
 母間ヌルは南側に見える山を指さして、「あのお山はブマウディー(井之川岳)と言って、この島で一番高いお山です。あのお山の頂上にトゥクヌ姫様のウタキ(御嶽)があります。トゥクヌ姫様がお待ちしておりますので、ご案内いたします」
 サスカサを守らなければならないと言ってサンダラが付いてきた。断っても無駄だと思い、サスカサは一緒に来てと言った。
 母間ヌルの娘のイサは元気な娘で、先頭に立って歩き、若ヌルたちに島の事を色々と教えていた。
 サスカサは母間ヌルから徳之島按司の事を聞いた。
 母間ヌルがイサを産んだ前年に、山北王(さんほくおう)が攻めてきて、先代の按司は殺され、先代に仕えていた大城按司(ふーぐすくあじ)と花徳按司(けぃどぅあじ)も殺された。城下は焼かれて、戦(いくさ)に巻き込まれて亡くなった島人(しまんちゅ)も多かったという。
「今度も戦(いくさ)になるのですか」と母間ヌルは心配そうに聞いた。
「ならない事を願っています。今の按司の奥さんは山北王の妹だと聞いています。奥さんにそそのかされて、按司が抵抗しなければいいのですが」とサスカサは答えた。
按司様(あじぬめー)は山北王を恐れていて、わがままな奥方様(うなぢゃら)の言いなりでしたが、山北王が亡くなって、内心、ホッとしているのではないでしょうか。中山王(ちゅうざんおう)がこの島の按司として認めてくれれば、中山王に従うと思います」
按司は奥さんを押さえられますか」
「後ろ盾を失った奥方様を恐れる事はないでしょう。実はあの子の父親は按司様なのです」
「えっ!」とサスカサたちは驚いて立ち止まり、母間ヌルを見た。
「奥方様を恐れて、この事はずっと内緒にしてあります。按司様が中山王に従えば、イサも堂々と父親に会う事ができるようになるでしょう」
按司がマレビト神だったのですか」とナナが聞いた。
「出会った時はまだ按司ではありません。畦部大主(あじふうふぬし)と名乗っていました。わたしと出会った畦布大主様は、戦で活躍して按司になって、この島に住むと約束してくれました。約束通りに、花徳按司と大城按司を倒して按司になったのです。戦が終わって、冬に山北王は帰りましたが、畦布大主様は残りました。翌年の夏に家族がやって来るまで、畦布大主様は母間までよくやって来ましたが、奥方様がいらっしゃると警戒して、あまり来なくなってしまったのです」
「あの子は父親の事を知っているの?」
按司様だとは知りません。永良部島のサムレーだと言ってあります」
「近くにいるのに会えないなんて可哀想ね」
 集落を抜けて細い山道に入って行った。
「山北王が攻めて来る数日前に、わたしはこの島に来たのですよ」とシンシンが行った。
「覚えています」と母間ヌルは言って笑った。
「わたしは会っていませんが、女子(いなぐ)のサムレーがやって来たと島中で噂になりました。それから十日くらい経って山北王が大きなお船に乗って攻めてきたのです」
「その時、按司の妹の徳之島ヌルがあちこちのウタキを案内してくれましたが、徳之島ヌルも殺されてしまったのですね」
「徳之島ヌルは生きています。按司だった兄と甥の若按司は殺されましたが、母親と若ヌルだった姪は助けられて、母親と若ヌルを連れて犬田布(いんたぶ)に隠棲しました。今は犬田布ヌルを名乗っていて、按司様の娘を徳之島ヌルにするための指導をしています」
「敵(かたき)の娘を指導しているなんて、麦屋(いんじゃ)ヌルと同じだわ」とナナが言った。
「中山王が山北王を滅ぼしたと聞いた時、犬田布ヌルは泣いていました。中山王が敵を討ってくれたと感謝していました。犬田布ヌルは中山王が按司様も倒してくれる事を願っているようだけど、その願いはかなわないわね。犬田布ヌルの父親は三代目の按司で、母親は山北王に滅ぼされた与論按司(ゆんぬあじ)の娘で、中山王だった察度(さとぅ)の姪でした。察度が亡くなり、跡を継いだ武寧(ぶねい)も滅ぼされて、後ろ盾を失った先代は山北王に滅ぼされたのです」
「武寧は山北王の義父だったわ。義父が亡くなって、義父の従姉(いとこ)が嫁いだ島を奪い取るなんて、ひどい事をするわね」
「初代の按司はミナデウンノーと呼ばれた英雄だったのです。ミナデウンノーは各地にいた按司たちを倒して、島を統一して徳之島按司になりました。わたしの曽祖母はミナデウンノーと結ばれて祖母を産みました」
「英雄のミナデウンノーはこの島の人なのですね」とサスカサが聞いた。
浦添按司(うらしいあじ)だった玉城(たまぐすく)の弟のようです。当時、与論島と永良部島を支配していた今帰仁按司(なきじんあじ)の義弟でもあったようです」
「その頃の今帰仁按司って千代松(ちゅーまち)様じゃないの?」とナナが言った。
「そうです。千代松様です。二代目の按司様の奥方様は千代松様の娘さんでした」
「すると、徳之島は今帰仁按司支配下だったのですね」
「そのようです。千代松様が亡くなった後、永良部島は按司が入れ替わりましたが、徳之島按司は無事でした。初代の按司様は琉球のウンノーから来たので、ミナデウンノーって呼ばれて、グスクもウンノーグスクになりました。港もウンノー泊になって、あの辺りはウンノーと呼ばれるようになったのです」
琉球のウンノーってどこなの?」とサスカサが聞いた。
 母間ヌルは首を傾げてから、「ミナデウンノー様はウンノーウディーで武芸の修行に励んで、ウンノーヌルと出会って妻に迎えて、この島に連れてきたと伝えられています」と言った。
「ウンノーヌル? 聞いた事もないわね。ウンノーウディーという地名も知らないわ」とナナが言った。
「ウディーというのはお山の事です。ウンノー山か、ウンノー岳だと思います」
「恩納岳(うんなだき)かしら?」とシンシンが言って、「ウンノーは恩納の事よ」と手を打った。
「恩納がウンノーか。そうかもしれないわね」とナナもうなづいた。
 険しい場所もなく、半時(はんとき)(一時間)ほどで山頂に着いた。山頂は思っていたよりも広く、大きな岩がいくつもあった。眺めもよくて、海の向こうに奄美大島の島々が見えた。
 古いウタキは樹木(きぎ)が生い茂っている中にあり、巨岩の前に祭壇らしき平らな岩もあった。サスカサたちはお祈りを捧げた。
「祖母からあなたたちの事は聞いたわ」と神様の声が聞こえた。
「トゥクヌ姫様ですね」とサスカサが聞いた。
「キキャ姫の娘のトゥクヌ姫よ。よろしくね」
「ここに来る途中で母間ヌルから『ミナデウンノー』の話を聞きましたが、琉球の恩納から来たのですか」
「そうよ。恩納ヌルを連れてやって来て、この島を統一して徳之島按司になったのよ。来た当初は『恩納ぬミナデ』って呼ばれていたんだけど、いつしか『ミナデウンノー』って呼ばれるようになったのよ」
「その頃、この島には按司が何人もいたのですか」
「いたわ。トゥクカーミーが終わって、関わっていた人たちが引き上げてから四十年が経っていたけど、昔の夢が忘れられずに、この島にしがみついて小競り合いをしていたのよ」
「トゥクカーミーって何ですか」
「トゥクカーミーはこの島で焼かれた甕(かーみー)の事よ。この島から奄美の島々、琉球やミャーク(宮古島)、八重山(やいま)にも運ばれて、ヤクゲー(ヤコウガイ)やブラゲー(法螺貝)と交換されたのよ」
「ここで作られた甕がミャークや八重山にも行ったのですか」とナナが驚いた。
「そうよ。最盛期は凄かったわ。トゥクカーミーを積んだお船が次々に出掛けて行って、貝殻を満載にしたお船が鬼界島に向かって行ったのよ」
「どうして鬼界島に行くのですか」とサスカサが聞いた。
「鬼界島にヤマトゥの役所があったのよ。最初から話さないと、この島の事はわからないわ」とキキャ姫の声がして、キキャ姫は七百年余り前に鬼界島に大宰府(だざいふ)の役人がやって来て、遣唐使(けんとうし)のために建てた『唐路館(とうろかん)』の事から話し始めた。
 突然、ヤマトゥ(日本)から大きな船が何隻もやって来て、女官(にょかん)を連れた役人たちが百人余りも鬼界島に住み着いた。当時、キキャ姫の子孫のヌルが島を統治していて、ヌルは島の発展のためにヤマトゥンチュたちを歓迎した。
 翌年、鬼界島に初めて遣唐使が来た。四隻の大きな船に五百人も乗っていて、鬼界島は人で溢れた。遣唐使たちは風待ちのために十日余り滞在して、奄美大島に向かって行った。十五年後に二度目の遣唐使が四隻の船で来た。その一行にいた留学生は若ヌルのマレビト神だった。若ヌルは翌年、娘を産むが、仲麻呂(なかまろ)と名乗った留学生と二度と会う事はなかった。その十六年後に三度目の遣唐使が来て、その十九年後に四度目の遣唐使が来て、その九年後にヤマトゥに帰る遣唐使が来たのが最後で、その後、遣唐使の航路は変わってしまう。
 遣唐使の船が来る事はなくなるが、鬼界島はヤコウガイの交易拠点となった。大宰府からヤマトゥの商品を積んだ大きな船がやって来て、ヤマトゥの商品を積んだ船が奄美の島々や琉球に行ってヤコウガイを集め、集められたヤコウガイ大宰府の船に乗せられてヤマトゥへと行った。やがて、鬼界島に行けばヤマトゥの商品が手に入る事を知った奄美の島の人たちや琉球の人たちもやって来て、鬼界島は賑わった。
 百年くらいは順調だったが、九州の商人たちが大宰府の許可なく、商品を積んで島々を巡るようになってくる。彼らは鬼界島では手に入らない刀や槍などの武器の取り引きもしたので島の人たちに喜ばれた。琉球でも九州の商人たちは歓迎され、武器を手にした首長たちは兵力を蓄えて、按司が誕生していく事になる。
 やがて、ウミンチュ(海士)を連れてやって来て、勝手にヤコウガイを捕っていく悪賢い奴らが現れてくる。奄美の島々や琉球は『唐路館』の役人に、やめさせるように頼むが、大した兵力もない役人の手には負えなかった。そんな頃、ヤマトゥの商品を積んで鬼界島に向かっていた船が嵐に遭って沈没してしまう。ヤコウガイを先に渡していた人々がヤマトゥの商品を渡せと怒り、勝手にヤコウガイを捕っている奴らに怒っていた各島々の首長たちも怒りを爆発させてしまう。
 島々の首長たちは立ち上がり、武装した人々を引き連れて九州に向かい、西沿岸の港を襲撃して略奪を繰り返し、ウミンチュたちを捕まえて凱旋した。当時、琉球の首長はヌルたちだったが、補佐役の按司たちを出陣させた。凱旋した按司たちは人々から歓迎され、ヤマトゥンチュの報復に備えて守りを固め、ヌルたちから主導権を奪い、按司の時代に入っていく。九州の商人たちから武器を手に入れた事で、ヌルの時代から按司の時代へと変化していったのだった。
「それはいつの事なのですか」とサスカサが聞いた。
「四百年くらい前かしら」とキキャ姫が言って、
「平家が栄える前の話よ」とユンヌ姫が言った。
「ヤマトゥンチュの仕返しはあったのですか」とナナが聞いた。
「同じ頃、高麗(こーれー)の海賊が九州の各地を攻めていたようなの。そっちの方の対応が忙しくて、奄美の事は大宰府に任されたのよ。鬼界島の役人に暴れている奄美人(あまみんちゅ)を捕まえろって命じたけど、鬼界島にとっても無断でヤクゲーを捕っている奴らは憎いから、そいつらを捕まえて処刑して、退治したと報告したのよ。その事件から七、八十年が経って、博多の商人たちが高麗人(こーれーんちゅ)の職人を連れて鬼界島に来て、熊野水軍の山伏たちも大勢やって来たわ。役人たちと相談して、徳之島で甕を焼く事に決まってトゥクカーミーが始まったのよ」
「どうして、徳之島で甕を焼く事になったのですか」
「焼いた甕とヤクゲーを交換すれば、ヤマトゥの商品が届かなくても騒ぎが起きないでしょ。でも、あれだけ大規模な甕作りが始まるなんて、当時のあたしにもよくわからなかったのよ。つい最近、母と一緒にヤマトゥに行って玉依姫(たまよりひめ)様から当時の事を聞いて、やっとわかったわ。その頃、ヤマトゥでは白河天皇という力を持った人がいて、立派なお寺を建てるために大量のヤクゲーを必要としていたみたい。白河天皇がその事を熊野別当に頼んで熊野水軍が動いたらしいわ。熊野別当もブラゲーが欲しくて天皇の力を利用したのよ。一応、海外交易を担当していた大宰府の役人も加わっているけど、博多にいた宋(そう)の国の商人たちも加わったのよ。宋の商人たちは精密な螺鈿細工(らでんさいく)が欲しかったの。宋の偉い人たちに高く売れたようだわ。宋の商人たちは高麗とも取り引きしていたので、高麗人の焼き物職人たちを連れて来たのよ。天皇が後ろ盾になっているから大規模な窯(かま)を作って、ヤクゲーやブラゲーと交換する甕作りが始まったのよ。熊野水軍は甕をお船に積んで、ミャークや八重山にも行ったわ。ミャークや八重山にも熊野権現があったって母から聞いたわ。トゥクカーミーを積んだお船に乗って行った山伏たちが、あちこちの島に熊野権現を祀ったのよ。それからの事はトゥクヌ姫に任せるわ」
「島の南部に大きなお船が何隻も来て、大勢の人たちが上陸して来たのよ。まさに、大事件だったわ」とトゥクヌ姫が言って話を引き継いだ。
「ヤマトゥンチュの大宰府の役人や熊野の山伏、唐人(とーんちゅ)の博多の商人、高麗人の焼き物職人と色んな言葉をしゃべる人たちが大勢やって来たのよ。炊き出しをするための女たちも大勢いて、お祭り騒ぎたったわ。この島のためになるから歓迎しなさいって、あたしは母間ヌルに言ったのよ。職人たちはあちこちの土を調べて、インタブウディー(犬田布岳)の南麓の樹木を切り倒して、いくつもの窯を作ったわ。窯場の近くに役人たちのお屋敷や職人たちのお家(うち)が建ち並んで、何もなかった所に賑やかな都が出現したのよ。甕ができると熊野水軍お船に積んで、南へと旅立ったわ。そして、貝殻を満載にして戻って来て、博多の商人たちを乗せて帰って行ったの。島に残った熊野水軍もいて、季節に関係なく甕を積んで島々を巡って貝殻を集めたのよ。当時、島尻泊(しまじりどぅまい)と呼んでいたウンノー泊には、貝殻の蔵と甕の蔵がずらりと並んでいたわ。船乗りたちのお家も建ち並んで、遠くから来た人たちのための宿屋もあったのよ。やがて、ヤマトゥの国が平家の世の中になると、大宰府も平家の言いなりになって、この島にも平家のサムレーがやって来たわ。薩摩に阿多平四郎という勢力を持ったサムレーがいて、平家に追われて鬼界島に逃げて来たんだけど、鬼界島にいた大宰府の役人や平家のサムレーたちを追い出して、鬼界島を支配したのよ。今の御所殿(ぐすどぅん)の先祖よ。平四郎はこの島にも攻めてきて、役人や平家を追い出して、トゥクカーミーの交易を支配したわ。平四郎は薩摩にいた頃からトゥクカーミーの交易に関わっていて、博多の商人たちとも知り合いだし、熊野水軍とも親しくて、自分の水軍も持っていて貝殻を運んだりもしていたらしいわ。平家が滅んで源氏の世の中になっても、阿多平四郎の子孫たちは鬼界島を支配していて、この島も支配していたのよ」
「そこの所はあたしに任せて」とキキャ姫が話に割り込んだ。
「阿多平四郎の娘は源為朝(みなもとのためとも)と結ばれたのよ。手に負えない暴れ者だった為朝は京の都から九州に追放されたけど、九州でも暴れて、九州を平定してしまうの。平四郎は為朝を娘の婿に迎えるんだけど、京の都に帰った為朝は戦に敗れて伊豆の大島に流されてしまうのよ。為朝は伊豆の大島で亡くなったけど、娘は平太という息子を産んだわ。平太が平四郎の跡を継いで、源氏が鬼界島に攻めて来た時、御所殿だった平太は為朝の遺品を見せて、息子だと証明して、鬼界島の事を任されたのよ。その時、平太から源八に名前を変えて、源八の次男が徳之島に来て徳之島を支配したのよ。トゥクヌ姫、話を続けて」
 為朝の事はサスカサも知っていた。ヤマトゥに行った時に話を聞いて、帰国した後、安須森(あしむい)ヌルに話して、安須森ヌルは『鎮西八郎為朝(ちんじーはちるーたみとぅむ)』というお芝居を作っていた。弓矢の名人で大男の為朝の子孫が鬼界島にいたなんて信じられないとサスカサたちは驚いた。
「源八の次男の源次郎は御所殿と呼ばれて豪華なお屋敷で暮らしていたわ。今、按司のグスクがある所にお屋敷があったのよ。島の人たちにとっては、上の人が大宰府の役人だろうが平家だろうが、阿多氏だろうと関係ないわ。甕を焼いて、貝殻と交換する交易は変わりなく続いていたのよ。でも、この島にも按司が現れたわ。熊野の山伏が住み着いて阿布木名(あぶきなー)(天城町)の山にグスクを築いたのが始まりで、勢力のある島人たちも山の上にグスクを築いて按司を名乗って武力を誇るようになるわ。御所殿もお屋敷の周りに石垣を築いて守りを固めて、窯場の警護も厳重になったわ。そんな頃、浦添按司になる前の若い英祖(えいそ)もこの島に来たのよ。島の賑わいを見て驚いていたわ。当時、この島では銭(じに)が流通していたのよ。島人たちは銭でお米や着物を買っていたの。琉球で銭が流通するのは百年後の事なのよ。英祖が来てから十年余りが経って、英祖の弟が徳之島に来たわ。英祖は浦添按司になっていて、徳之島を支配下に組み入れようとしていたの。御所殿は英祖に従ったのよ。当時、鎌倉の幕府に仕えるサムレーで千竃(ちかま)氏というのがいて、徳之島も鬼界島も自分の領地だと主張していたらしいわ。それを牽制するために、徳之島と鬼界島は琉球の領土だと思わせるために表向きだけ英祖の支配下に入ったのよ。それから十年くらい経って宋の国が滅んで、ヤマトゥと宋の国の交易は終わったわ。さらに、蒙古(もうこ)の大軍が博多に攻めて来て博多は全焼してしまい、二百年も続いたトゥクカーミーと貝殻の交易も終わってしまったのよ。御所殿も鬼界島に引き上げて行って廃墟のようになってしまったわ。二百年の間にお山の樹木(きぎ)も切り払われて、すっかりハゲ山になってしまったのよ。大勢の人たちが忙しそうに働いていた時は気にならなかったけど、人がいなくなったら惨めな姿をさらしていたわ。何人かの職人たちは残って甕を焼き続けたけど、貝殻と交換しても引き取り手はいないし、生きるために食糧と交換するしかなくて、細々と生きていくしかなかったのよ」
「この島が賑わっていた頃、職人たちの食糧はどうしていたのですか」とナナが聞いた。
「貝殻を積んで行ったお船がヤマトゥの商品や食糧、必要雑貨を運んで来たのよ。ヤマトゥの商品は鬼界島で下ろされて、鬼界島の役人たちが独自に取り引きをしていたわ。若い頃の英祖も徳之島から鬼界島に行って、武器を手に入れて勢力を広げたのよ。この島に来た食糧や雑貨類は、トゥクカーミーの取り引きに関わっている人たちに配られたのよ。やがて、銭が流通するようになると手間賃を銭で払うようになって、食糧や雑貨を銭で買うようになるの。毎年、余剰の食糧や雑貨があって、それらを目当てにやって来る者たちもいたわ。余剰の食糧や雑貨で稼いで按司になった者もいたのよ。あっ、石鍋(いしなーび)を忘れていたわ」
「石鍋って何ですか」とサスカサが聞いた。
「石でできた鍋よ。まだ鉄の鍋がない頃、料理をするのに重宝したのよ。石鍋は九州で作られて、トゥクカーミーが始まる時に大量に運ばれてきて、トゥクカーミーと一緒に貝殻交易に使われたのよ。その後も食糧と一緒に運ばれてきて、石鍋はトゥクカーミーと一緒に各地に広まっていったの。話を戻すけど、御所殿が引き上げた後、島内の按司たちが勢力争いを始めたわ。御所殿から命じられて窯場の警護をしていたアザマ按司とウービラ按司が争って、アザマ按司が勝って御所殿のグスクに入って島尻按司を名乗ったの。北部でも大城按司と花徳按司が争いを始めたわ。熊野水軍の大和城按司(やまとぅぐすくあじ)も三代目になっていて、熊野水軍が来なくなってしまったけど倭寇(わこう)が来るようになって、真瀬名川(ませなごー)の河口は倭寇の中継地として機能するのよ」
「その頃の倭寇は何を求めてやって来たのですか」
「英祖は宋の商人と貝殻の交易をしていたのよ。貝殻と言ってもヤクゲーやブラゲーじゃなくてシビグァー(タカラガイ)よ。トゥクカーミーに関わっていた宋の商人が琉球でシビグァーが取れる事を知って、博多を通さずに直接、取り引きを始めたようだわ。宋の国の山奥の方ではシビグァーが銭の代わりとして使われているらしいわね。それで、琉球に行けば宋の商品が手に入るので倭寇たちは琉球に行ったのよ。英祖は宋の商品を持たせた使者を鎌倉にも送って、お礼として名刀をもらってきたわ」
「英祖の宝刀だわ」とシンシンが言った。
「いよいよ、ミナデウンノーの登場よ。ミナデは英祖の曽孫(ひまご)なの。父親は英祖の孫の英慈(えいじ)で、長兄の浦添按司、次兄の八重瀬按司(えーじあじ)、三兄の北原按司(にしばるあじ)は四兄の玉城に滅ぼされたわ」
「北原按司はミャークに逃げたのね」とナナが言った。
「祖母から聞いて驚いたわ」
「どうして、玉城は三人の兄を倒したのですか」とシンシンが聞いた。
「それは玉城の意志じゃないのよ」とユンヌ姫が答えた。
「義父の玉グスク按司が昔の栄光を取り戻したくて、娘婿の玉城を浦添按司にしたのよ。お祖母様(豊玉姫)の頃からずっと玉グスクは琉球の都だったけど、島添大里(しましいうふざとぅ)按司の婿だった舜天(しゅんてぃん)が浦添按司になってから浦添が栄えて行って、英祖が浦添按司になると海外との交易を盛んにして、港のない玉グスクは寂れてしまったのよ。玉グスク按司は娘婿の玉城を浦添按司にして、玉グスクを以前のように栄えさせたかったの。交易で手に入れた商品は玉グスクへと運ばれて、玉グスクは以前の繁栄を取り戻したかに見えたんだけど、察度に滅ぼされて、また寂れちゃったのよ」
「さっきの話の続きだけど、三兄の北原按司と四兄の玉城の間に千代松の奥さんがいるのよ。五兄は中グスク按司の婿になって、六兄は越来(ぐいく)にグスクを築いて初代の越来按司になったわ。自分もどこかにグスクを築いて按司になろうと思っていた七男のミナデは、強くなるために武芸に打ち込んで、修行の旅に出たわ。恩納岳の山中で修行していた時、弓矢の名手の恩納ヌルと出会ったのよ。お互いに相手の腕を認めて、一緒に修行に励んで、二人は結ばれたわ。兄の玉城が上の兄たちを倒して浦添按司になった時はまだ十一歳だったので戦には出ていないけど、義兄の千代松が今帰仁グスクを取り戻して按司になった時は二十歳になっていて、ミナデも恩納ヌルと一緒に活躍したのよ。今帰仁に残れって千代松に引き留められたけど、武芸の修行を続けたいと言って二人は恩納に帰ったわ。恩納岳で厳しい修行を積んで自信を持ったミナデと恩納ヌルは今帰仁に挨拶に行ったの。逞しくなった二人を見て、千代松は徳之島を平定して来いって言ったのよ。ミナデと恩納ヌルは今帰仁の兵を率いて徳之島を攻めたわ。最初に島尻按司を倒してグスクを奪い取って、次にウービラ按司を倒したの。島尻按司の妹にマルという勇敢なヌルがいたけど、恩納ヌルと戦って敗れたわ。南部を平定した後、北に向かったけど、大和城按司も大城按司も花徳按司も戦わずに降参したので配下にしたのよ。ミナデはトゥクカーミーも再開して、浦添今帰仁に持って行って、必要な雑貨類と交換して来たのよ。やがて、兄の玉城が亡くなると若按司の西威(せいい)がまだ十歳だったので母親が後見したんだけど、その母親がどうしようもない女で、庶民の事なんて顧みないで贅沢のし放題だったの。千代松が怒ってね、元(げん)の商人との取り引きを奪い取っちゃったのよ。英祖の頃からやっていたシビグァーの取り引きよ。千代松は運天泊(うんてぃんどぅまい)で取り引きを始めて、ミナデもシビグァーを集めて運天泊に送ったわ。シビグァーのお陰で島も活気づいて来たのよ。千代松が亡くなって、帕尼芝(はにじ)が若按司を殺して今帰仁按司になってもシビグァーの取り引きは続いたわ。帕尼芝の奥さんは千代松の娘で、ミナデの長男の若按司の奥さんも千代松の娘で、若按司の奥さんの方が姉さんだったのよ。帕尼芝も奥さんには頭が上がらないみたいで、奥さんに言われて、今まで通りに取り引きに参加させたのよ。帕尼芝が永良部島を攻め取ったけど、徳之島を攻めなかったのは奥さんに言われたからに違いないわ。シビグァーの取り引きは西威を倒して浦添按司になった察度も始めたのよ。千代松から察度の事を聞いたミナデは察度に会いに行って取り引きをまとめて、浮島にもシビグァーを送ったわ」
「ミナデウンノーは察度から鳥島に水や食糧を運ぶ事を頼まれたのですか」とサスカサが聞いた。
「そうなのよ。察度はお礼として元の商品やヤマトゥの刀を贈ってくれたわ。毎年、夏になると察度の知り合いの倭寇が届けてくれたのよ。でも、察度が亡くなったら、それもなくなってしまって、それでも鳥島の人たちが可哀想だと送っていたんだけど、シビグァーの取り引きも終わってしまって、鳥島の面倒まで見られなくなったのよ」
「どうして、シビグァーの取り引きは終わったのですか」
「元の商人が来なくなったらしいわ。代わりに海賊が来るようになったんだけど、海賊はヤマトゥの商品を欲しがって、シビグァーは必要なくなってしまったのよ」
「でも、察度が明国(みんこく)との交易を始めたら、また必要になったんでしょう」
「そうなのよ。その頃はミナデは亡くなっていて二代目の時代だったけど、二代目は喜んでシビグァーを送ったわ。でも、武寧の代になったら、貝殻なんかわざわざ持ってくるなって言われたのよ。武寧は海外交易を唐人のアランポーに任せっきりだったから貝殻の価値を知らないのよ。シビグァーを銭の代わりに使っている国があるなんて、まったく知らなかったのよ」
「ミャークの人たちも同じ事を言われて、怒って琉球に来なくなったわ」とナナが言った。
「その頃は三代目だったけど、同じように怒って、鳥島の補給もやめてしまったのよ。武寧が滅ぼされて、今の中山王になってから、シビグァーの取り引きも再開されて、お茶を飲むためのお椀作りも始まったのよ。でも、山北王に攻められて、ミナデの子孫は四代目で滅ぼされてしまったのよ」
「今でもお茶碗作りは続いているのですか」とサスカサが聞いた。
「続いているわ。山北王の支配下になった後は今帰仁の城下にお店を出して売っていたのよ。戦の時に焼けてしまったけど、また、お店が出せるといいわね」
今帰仁だけでなく、首里にもお店を出せば、お茶碗は売れると思います」
「この島の事がわかったかしら。二百年続いたトゥクカーミーの時代は今思えば夢のような時代だったけど、あの時、島に来た人たちの子孫で、この島に残っている人たちも大勢いるわ。ヤマトゥンチュの子孫や唐人の子孫や高麗人の子孫も、今ではわからなくなってしまって、みんな仲良く暮らしているわ。八年前の時のような悲惨な戦は起こさないでね」
 戦にならないように努力しますと言って、サスカサたちはトゥクヌ姫と別れた。

 

 

 

ヤコウガイの考古学 (ものが語る歴史シリーズ)