2016-03-01から1ヶ月間の記事一覧
消えたマジムン屋敷の跡地に、サハチ(島添大里按司)は与那原(ゆなばる)グスクを築く事に決めた。運玉森(うんたまむい)ヌル(先代サスカサ)が守ると誓ったウタキ(御嶽)をグスクの中に取り込んで、グスク内に運玉森ヌルの屋敷も建てるつもりだった。それ…
マチルギたちが博多に着いた頃、サハチ(島添大里按司)は島添大里(しましいうふざとぅ)グスクで、ウニタキ(三星大親)と一緒に明国(みんこく)のお茶を飲んでいた。 サハチがお土産に持って来たお茶は、初めの頃は誰もが変な味と言っていたが、今ではみんな…
マチルギたちを乗せたマグサ(孫三郎)の船とシンゴ(早田新五郎)の船は順風を受けて北上し、勝連(かちりん)半島と津堅島(ちきんじま)の間を抜け、美浜島(んばまじま)(浜比嘉島)、平安座島(へんざじま)、宮城島(たかはなり)、伊計島(いちはなり)を左に見…
五月十日、マチルギ、馬天(ばてぃん)ヌル、馬天若ヌルのササ、佐敷ヌル、久高島(くだかじま)のフカマヌル、ウニタキ(三星大親)の妻のチルー、そして、ヒューガ(日向大親)、ジクー(慈空)禅師、ヂャンサンフォン(張三豊)とシンシン(杏杏)、三星党(み…
思紹(ししょう)(中山王)は久高島参詣(くだかじまさんけい)で、十五人もの戦死者が出た事で落ち込んでいた。亡くなった十五人はキラマ(慶良間)の島で鍛えた教え子たちだった。久高島に行った女たちは喜んでくれたが、余りにも犠牲が多すぎた。 ウニタキ(…
ヤマトゥ(日本)旅が決まって以来、マチルギは忙しい身ながら、ジクー(慈空)禅師からヤマトゥ言葉を習っていた。クマヌ(中グスク按司)やヒューガ(日向大親)と付き合ってきたので、しゃべる事は何とかでき、ひらがなも読めるが、漢字はまったく駄目だ…