長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部はその後の尚巴志の活躍です。お楽しみください。

2-96.奄美大島のクユー一族(第二稿)

 中山王(ちゅうさんおう)と山北王(さんほくおう)の同盟を決めるために、今帰仁(なきじん)に来たンマムイ(兼グスク按司)を見送った本部(むとぅぶ)のテーラーは、その三日後、奄美大島(あまみうふしま)攻めの大将として二百人の兵を引き連れて、進貢船(しんくんしん)に乗って奄美大島に向かった。新たに奄美按司に任命された志慶真(しじま)のシルータも、五十人の兵を率いて別の船で従った。
 明国から賜わった進貢船は進貢には使われず、兵を送る船として使われていた。その大型の船は奄美大島の浦々に住む島人(しまんちゅ)たちを驚かせ、無駄な争いをする事なく、支配下に組み入れるのに役に立っていた。
 二年前にテーラーは湧川大主(わくがーうふぬし)と一緒に奄美大島を攻め、島の北部を支配下にした。去年は本部大主(むとぅぶうふぬし)と奄美按司奄美大島の南部を攻めたが、クユー一族にやられ、本部大主は戦死し、兵の半数余りを失って帰って来た。
 今年は三度目の奄美大島攻めだった。いつまでも奄美大島に関わってはいられない。今年こそは、奄美大島すべてを支配下にしなければならなかった。
 二年前に攻めた時、最初に上陸したのは北部にある浦上(うらがみ)(名瀬)だった。今帰仁に来るヤマトゥンチュから、浦上が一番栄えていると聞いていたからだった。
 浦上には、領主として平家の流れを汲む孫六(まごろく)という男がいた。今帰仁按司の先祖も平家だし、テーラーという名も平(たいら)がなまったものだった。同じ先祖だという事で孫六と話し合って、うまく話はまとまった。孫六今帰仁按司の家臣となり、以前のごとく、浦上の領主としてヤマトゥとの交易を助ける事に決まった。
 テーラーと湧川大主は浦上を拠点に、まず北へと向かった。秋名(あきな)、嘉渡(かどぅ)、円(いん)、龍郷(たじごう)、瀬花留部(しるべ)、浦(うら)、赤尾木(ほーげ)、喜瀬(きせ)、手花部(てぃぶ)と小さな浦々を巡り、支配下に組み入れた。皆、進貢船を見て驚き、小舟(さぶに)に乗って近づいて行っても、抵抗する者たちはいなかった。話がまとまると、明国の陶器やヤマトゥの刀などを贈って喜ばれた。
 夜になれば、ささやかな宴が開かれ、大した物はないが精一杯の御馳走を用意してくれた。手作りの酒を出してくれるが、はっきり言ってうまくはなく、今帰仁から持って来たヤマトゥの酒を浦の者たちにも配って、楽しい夜を過ごした。そして、その浦自慢の美女が大将のテーラーと湧川大主の夜伽(よとぎ)として提供された。二人とも遠慮したが、この島の風習だというので、遠慮なく、可愛い娘と一夜を共にした。どこの浦に行ってもそんな有様なので、戦(いくさ)に来たのか、遊びに来たのかわからない状況だった。
 赤木名(はっきな)で最初の抵抗を受けた。上陸したあと突然、武装した敵兵に囲まれた。浦上の孫六から赤木名は気を付けろと言われていた。ヤマトゥの南朝(なんちょう)の残党が住み着いて、海賊働きをしているという。
 テーラーたちも警戒して、二手に分かれて攻撃する事にした。湧川大主は海上から行き、テーラーは手前の手花部に上陸したまま陸路、山を越えて赤木名に向かった。途中に広い川があったが何とか渡り、敵を挟み撃ちにする事ができた。敵は混乱に陥って、山の上のグスクに逃げ込んだ。グスクといっても石垣はなく、堀と土塁に囲まれたグスクだった。攻め落とすのに一月余りも掛かり、負傷者も出て、戦後処理にも手間取った。
 村の長老の話では、ヤマトゥのサムレーたちがやって来たのは四十年前だという。九州の征西府(せいせいふ)のサムレーで、将軍宮(しょうぐんみや)様(懐良親王(かねよししんのう))が明国と交易するために、ここを中継基地にしたらしい。その頃はヤマトゥから明国に行く船が、ここで水の補給をして南に向かい、明国の使者を乗せた大きな船も来た事があった。
 将軍宮様が亡くなると明国に向かう南朝の船は来なくなったが、琉球に向かう倭寇(わこう)の船がやって来るようになった。ここにいたサムレーたちはヤマトゥに帰る事なく、ここに落ち着いて、琉球に向かう船の世話をしていた。
 二十年位前までは、港に入って来る船がかなりあって栄えていたが、だんだんとその船も減ってきた。倭寇たちがそれぞれ拠点を作って、そこで水の補給や風待ちをするようになったのだった。最近では港に入って来た船を襲って、荷物を奪い取るという海賊まがいの事までしていて、今回もいいカモが来たと襲ったのだという。
 首領の名和小五郎は二代目で、子供の頃から暴れ者で、父親が亡くなってからはもうやりたい放題で、浦の者たちも困っていた。退治してくれて本当に助かったと長老はお礼を言った。
 二か月余りも滞在した赤木名をあとにしたテーラーたちは屋仁(やん)に着いたが、雲行きが怪しくなって来た。赤尾木まで戻って、台風をやり過ごした。波が治まるのを待って、再び北上し、屋仁と佐仁(さん)を支配下に置き、最北端の笠利崎(かさんざき)を回って南下した。笠利の浦が倭寇の拠点になっていて、ここでも戦になった。ここにも小高い山にグスクがあって、それを落とすのに手間取った。
 倭寇を倒して、笠利を出たのは十一月の半ばになっていた。その後、万屋(まにや)、和野(わの)、用安(ようあん)を支配下にして、戸口(とぅぐち)に着いた。
 戸口にも平家の流れを汲む左馬頭(さまのかみ)というサムレーがいた。浦上の孫六から知らせがあって、テーラーたちが来るのを待っていたと歓迎してくれた。左馬頭から加計呂麻島(かけろまじま)の諸鈍(しゅどぅん)という所に、小松殿という同族がいる事を知らされた。きっと、歓迎してくれるだろうと言った。
 戸口をあとにして、勝(かち)、和瀬(わせ)、山間(やんま)を支配下に入れ、十二月になってしまったので、そこから南下して加計呂麻島の諸鈍に行った。
 諸鈍の小松殿はテーラーたちを歓迎してくれた。小松殿の屋敷には書物が山のようにあって、かなりの物知りだった。小松殿の博学はヤマトゥンチュたちにも有名で、琉球に行く倭寇たちも小松殿に会うために、諸鈍に寄って行く船も多いらしい。
 小松殿の先祖は、新三位(しんざんみ)の中将(ちゅうじょう)と呼ばれた平資盛(たいらのすけもり)で、浦上の孫六の先祖は資盛の弟で、小松の少将と呼ばれた有盛(ありもり)、戸口の左馬頭の先祖は資盛の従弟(いとこ)の左馬頭行盛(ゆきもり)で、三人は壇ノ浦の合戦で敗れて、奄美大島まで逃げて来た。そして、今帰仁按司の先祖は資盛の兄で、小松の中将と呼ばれた維盛(これもり)だという。
 テーラーも湧川大主も驚いた。志慶真(しじま)の長老も、今帰仁に来た平家の武将の名前は知らなかった。
「初代の今帰仁按司平維盛という御方だったのですか」と湧川大主は聞き返した。
「わしらの先祖の資盛殿は、筆まめな御方で多くの記録を残しておるんじゃよ。それを代々書き写して、わしの代まで伝えて来たんじゃ。資盛殿の記録によると、壇ノ浦の合戦のあと、生き残った平家の者たちは各地に散って行った。そして、源氏の追っ手から逃げるため、皆、名前を隠して隠れ住んでいた。琉球にも平家の者がいるとの噂は流れていて、壇ノ浦の合戦から二十年近く経った頃、資盛殿は琉球に行き、今帰仁按司と会ったらしい。そしたら、それが兄の維盛殿だったので、驚くと共に再会を喜んだようじゃ。二人が会ったのはその時が一度だけじゃった。資盛殿は兄と会った事は誰にも話さず、記録に残したが、その記録も百年間は極秘として、代々伝えられたようじゃ」
平維盛という御方は、どのようなお人なのですか」とテーラーは聞いた。
「平家と源氏が争っていた二百年余りも前の事じゃ。平家の大将は平清盛(たいらのきよもり)という御方じゃった。清盛殿の嫡男が重盛(しげもり)殿で、重盛殿の長男が維盛殿なんじゃよ。次男がわしの先祖の資盛殿じゃ。維盛殿は平家の総大将として源氏と戦ったが、時の勢いか、負け戦が続いて、とうとう平家は京都を追われてしまった。維盛殿は壇ノ浦の合戦の前、行方知れずになり、熊野に行って入水(じゅすい)自殺をはかったと噂されていたそうじゃ。熊野水軍の力を借りて琉球まで逃げて来たようじゃな。ついでに言うと、維盛殿は光源氏(ひかるげんじ)の再来と言われるほどの美男子だったそうじゃ」
 光源氏が誰だかテーラーも湧川大主も知らないが、御先祖様が美男子だったと聞いて、二人は顔を見合わせて喜んだ。
 小松殿と別れ、テーラーたちが今帰仁に帰ったのは十二月の半ばを過ぎていた。
 去年の奄美大島攻めは、山北王の叔父、本部大主を大将として、奄美按司に任命された羽地按司(はにじあじ)の次男が一緒に行った。湧川大主もテーラーも行くつもりだったが行けなかった。交易担当の湧川大主がいないと山北王が忙しくなるので、湧川大主は行ってはならんと命じられ、テーラーは山北王の側室に手を出して謹慎になってしまった。小松殿の話では山ばかりの南部には、山北王に抵抗する者はいないだろうと言っていた。本部大主は奄美大島を平定して帰って来るだろうとテーラーは思っていたのに、戦死してしまった。
 クユー一族にやられたという。クユー一族なんて聞いた事もなかった。
 去年、今帰仁を発った本部大主たちは、まず諸鈍(しゅどぅん)に行って小松殿に挨拶をして、二手に分かれた。奄美按司は本拠地を造るために赤木名(はっきな)に向かった。赤木名は深い入り江を持つ笠利湾に面していて、台風時の避難場所になり、川が流れているので水も豊富で、山の上にはグスクもある。戦の時にグスク内の屋敷は焼け落ちてしまったが、屋敷を再建して、堀と土塁も強化すれば、充分に使えた。それに、奄美大島の次に攻める鬼界島(ききゃじま)(喜界島)にも近いので、鬼界島攻めの拠点としても使えた。奄美按司の居場所として、最も適した場所だった。
 本部大主は、諸鈍から加計呂麻島奄美大島の間にある大島海峡に入って、奄美大島側の浦々を東から西へと寄って行った。抵抗を受ける事はなく、どこでも歓迎された。テーラーたちが北部の浦々を巡った時と同じように、どこでも精一杯のもてなしをしてくれ、夜伽の娘も提供された。初めのうちは戸惑っていた本部大主もだんだんと慣れていき、自分でも知らぬ間に横柄な態度を取るようになって行った。
 何の問題も起こらず、大島海峡を抜け、島の西側を北上して行った。各浦々を支配下に置いて、浦上に着いたのは八月の下旬で、孫六に歓迎されて、旅の疲れを取ったあと、赤木名に向かった。
 奄美大島で残っているのは東側の南部、山間(やんま)から大島海峡までのいくつかの浦だけとなり、あとは加計呂麻島だけだった。十二月に奄美按司と諸鈍で落ち合う約束をして、本部大主が赤木名を出たのは九月の初めだった。笠利崎(かさんざき)を回って南下し、笠利に寄り、戸口(とぅぐち)に寄り、山間の次にある嘉徳(かどぅ)、節子(すぃつこ)を支配下にして、次の勝浦(かっちゅら)で、クユー一族の攻撃に遭って本部大主は戦死した。半数以上の兵を失い、諸鈍に行き、赤木名に使者を送って、本部大主の死を知らせた。十一月の初めに諸鈍に来た奄美按司は、勝浦を攻める事なく今帰仁に帰ったのだった。
 テーラーは生き残った武将から当時の様子を聞いたが、詳しい事情はよくわからなかった。
 進貢船には百人の兵が乗っていて、どこの浦に行っても、そこに二泊する事になっていて、五十人づつ交替で船を降りて浦に泊まった。降りた兵たちは浦の人たちに歓迎されて、中には浦の娘と仲よくなる果報者(かほうもの)もいた。その日もいつもと変わった事は何もなかったのに、決まった時刻になっても、上陸した兵たちは戻って来なかった。おかしいと思って様子を見に行った者も戻っては来ない。これはただ事ではないと武装した兵を送ったが、その兵も帰って来る事はなく、これ以上、戦死者を増やすわけにはいかないと退却したのだという。
 諸鈍の小松殿に聞いたら、勝浦にはクユー一族と名乗る琉球から来た者が住んでいると言った。五、六年前にやって来て、あそこに住み着いたが、詳しい事はわからない。戦に敗れて逃げて来たようだ。諸鈍のウミンチュであそこに行った者がいて、歓迎してくれたらしい。その浦には、男よりも女がやけに多くいて、いい思いをして帰って来たと、そのウミンチュはニヤニヤしたという。
 本部大主と五十人の兵が上陸して、何かが起こって、皆殺しにされたようだった。クユー一族が何人いるのかわからないが、二百人の兵で攻め込めば、倒す事ができるだろうとテーラーは思った。
 今帰仁を船出したテーラーたちは与論島(ゆんぬじま)に寄って、新しい与論按司(ゆんぬあじ)の様子を見て、永良部島(いらぶじま)に行くと、奄美大島の浦上の孫六の弟の孫八がいた。
 どうして、ここにいるんだと聞いたら、永良部の若按司と気が合って、ここに住む事に決めたという。すでに家族も呼んであり、今、グスクを築いていた。
「謹慎は解けたようですね」と孫八は笑った。
 テーラーたちが奄美大島から帰った何日かして、孫八は兄の代理で今帰仁に来て、山北王と会い、臣下の礼を取っていた。孫八が今帰仁に滞在中、テーラーは謹慎となり、本部に帰ったのだった。
「まあな。ちょっとひと休みしただけさ」とテーラーは笑った。
 孫八と別れて、徳之島(とぅくぬしま)に寄って、徳之島按司と会い、加計呂麻島の諸鈍に寄って、小松殿と再会した。奄美按司と諸鈍で別れ、奄美按司は本拠地造りのために赤木名(はっきな)に向かい、テーラーは勝浦(かっちゅら)に向かった。
 勝浦は入り江の奥にあり、様子を見るため手前にある節子(すぃつこ)という浦に入った。勝浦と節子の間には岬が飛び出していて、船を隠す事ができた。節子に上陸して、山に登り、勝浦を見たが、武器を持って待ち構えている様子はなかった。
 テーラーは百人の兵を陸路で勝浦に向かわせ、山の中で待機するように命じた。時間を見計らって、テーラーは勝浦に向かった。沖に船を泊めると五十人の兵を率いて、小舟に乗って勝浦に向かった。砂浜に出て来る人影は見えたが、武器を持っている様子はなく、弓矢が飛んで来る事もなかった。
 テーラーたちは次々に上陸した。敵が攻撃を仕掛ければ、挟み撃ちにする手はずになっていた。
 五十人の兵を出迎えたのは、長老らしい年寄りと首領らしい男だった。二人とも武器は持っていなかった。数人のウミンチュらしい男たちが、遠くで成り行きを見守っていた。
「敵討(かたきう)ちに来られたのですかな」と長老が言った。
「なぜ、本部大主と五十人の兵を殺したんだ?」とテーラーは聞いた。
「本部大主様を殺したのは、無礼な態度を取ったからでございます。五十人の兵を殺したのは、わしらが生き残るためでございます」
「無礼な態度を取ったとは、どういう事だ?」
「酔っ払った本部大主様は、わしらの主人に言い寄り、強引に夜伽をさせようと迫ったのでございます」
「そなたの主人というのは女なのか」
琉球のさる按司の奥方様(うなじゃら)だったお人でございます。一緒にいた息子が堪(こら)えきれず、無礼者めと斬ってしまったのでございます」
「なに、倅の前で、母親に迫ったのか」
 そう言って、テーラーは首を振った。
 本部大主はテーラーの叔母の夫で、琉球にいた頃は堅物(かたぶつ)と言ってもいい程、女遊びなどしない真面目な男だった。浦々を巡って、ちやほやされて、人が変わってしまったようだった。
「本部大主を殺した理由はわかった。そなたの言う通りなら、本部大主が悪い。倅に斬られても仕方がないとも言える。五十人の兵はどうして殺したんだ?」
「その宴席には、本部大主様の供として五人のサムレーがおりました。本部大主が斬られるのを目の前で見て、皆、呆然としておりました。わしらも勿論、呆然としておりました。本部大主を殺した倅は仲間に合図をして、その五人も殺してしまったのでございます。さて、これからどうしたらいいのか考えました。五十人の兵たちは別の場所で酒盛りをしております。大将が殺された事を知れば、わしらは皆殺しにされると思ったのでございます。それで、眠っている所を襲って、全員を殺したのでございます」
「成程のう。話の筋は通っているが、兵士に飲ませた酒はどうしたのじゃ。そんな大量の酒を持っていたのか」
「わしらは酒など持っておりません。船から持って来て飲んでいたのでございます。この島を支配下にしたお祝いじゃと言っておりました」
 ここが最後の浦だったのかとテーラーは納得した。本部大主にヤマトゥの酒を大量に持って行けと言ったのはテーラーだった。奄美大島の者たちにうまい酒を飲ませてやれとも言った。あんな事を言わなければよかったと後悔した。それにしても、最後のお祝いで亡くなってしまうなんて、あまりにも哀れな事だった。
「どうなさる?」と長老が聞いた。
「わしらを討ち取るかね」
「難しいところじゃな。原因を作ったのは本部大主だが、殺された五十人の兵たちには殺される理由などないからのう」
 テーラーは女主人に会ってみる事にした。兵たちを浜辺に待機させ、二人の供を連れただけで、長老たちに従った。
 女主人は奥方様と呼ばれるにふさわしい上品な顔付きをした美人だった。酔っ払った本部大主が口説いたわけもわかる気がした。テーラーよりも年上のようだが、魅力的な女だった。息子らしい二十歳前後の男と娘なのか、若いヌルも一緒にいた。
「ウトゥミと申します」と女主人が言ったので、
「山北王の家臣、瀬底之子(しーくぬしぃ)と申します」とテーラーも名乗った。
「事の成り行きは聞いたと思いますが、叔父が言った通りでございます」
「話はわかったが、そうでござるかと帰るわけにはいかん。殺された兵たちには家族がいる。家族たちに敵(かたき)を討って来ると言って出て来たんだからな」
 ウトゥミが急に手を叩いた。
 女たちがぞろぞろと現れた。皆、大きなお腹をしていた。
「あの時、できた子供たちです」とウトゥミが言った。
「あの時?」
「五十人の兵たち全員に夜伽の女を付けたのです。そのうち十八人が子宝に恵まれました」
「なに、五十人の兵たち全員に、女をあてがったのか」
「わたくしどもは兵たちを大歓迎で迎え入れたのです。あの事件さえ起きなければ、皆、満足して帰って行ったのです」
「そうか」と言って、テーラーは女たちを見た。若い娘たちがほとんどだった。
「どうして、娘たちを兵たちに提供したのです?」
「一族を増やすために、子供が欲しいのでございます。戦でほとんどの男が戦死してしまいました。男手を増やさなければなりません」
「成程」と言って、テーラーは腕を組んだ。
 まったく、叔父の不始末で五十人の兵が殺されるなんて情けない事だった。しかし、何とか、けりをつけなければならなかった。
「ところで、クユーとはどういう意味ですか」とテーラーは聞いた。
「クユーとは九つの星の事でございます」と長老が答えた。
「クユー紋(九曜紋)という家紋があって、ヤマトゥから来たわしらの先祖がそれを使っていたそうです」
「あなた方の御先祖はヤマトゥから来られたのですか」
「もう昔の事ですよ」とウトゥミが言った。
琉球按司の奥方様だったと聞きましたが、どちらの按司だったのか教えていただけないでしょうか」
「それは‥‥‥」と言って、ウトゥミは口ごもった。
「もし、復帰を狙っているのであれば、山北王としても手助けができるかもしれません」
 ウトゥミは長老と顔を見合わせてから、「勝連(かちりん)です」と答えた。
 意外な答えだった。テーラーは先代の中山王の奥方ではないかと思っていた。勝連では立て続けに按司が代わったと聞いている。奇病に罹って亡くなった按司もいた。詳しい事情はわからないが、内部でもめ事があったのかもしれない。今の勝連は中山王の親戚が按司になっている。中山王を倒す時、勝連の残党なら利用できるに違いないとテーラーは思った。
 半時(はんとき)(一時間)ほど経って、テーラーは血の滴る生首を持って外に出て来た。
「本部大主を殺した奴の生首だ」とテーラーは待機していた兵たちに向かって生首をかかげた。
「これで、すべて解決じゃ。こいつが本部大主を斬ったこの刀を今帰仁に持って帰る。山北王も納得してくれるだろう」
 生首を持って帰っても腐ってしまうので、丁重に弔(とむら)ってやれと言って返した。
「引き上げるぞ」と言うと、テーラーは兵たちを引き連れて勝浦から去って行った。
 生首はウトゥミの倅の首ではなかった。掟(おきて)を破って、ここから逃げ出そうとした若者が数日前に捕まって、穴蔵に閉じ込められていた。そいつの首を斬って、本部大主を斬った下手人(げしゅにん)に仕立てたのだった。

 

 

 

復刻 大奄美史   奄美の歴史入門