長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部はその後の尚巴志の活躍です。お楽しみください。

2-167.化身(第一稿)

 神様たちとの饗宴(きょうえん)の翌朝、疲れ切ってウムトゥダギ(於茂登岳)の山頂から下りて来たササたちは、ナルンガーラの屋敷に着くと倒れるように眠りに就いた。
 目を覚ましたササが縁側に出ると、すでに夕方になっていた。ササは縁側に座り込んで、静かに呼吸を整えた。
 昨夜(ゆうべ)、スサノオの神様に頼まれて笛を吹いたら、サラスワティの神様が演奏に加わってきた。演奏が終わったら、サラスワティの神様が現れて、異国の神様が次々に現れた。
 サラスワティの神様はきらびやかな異国の着物を着ていて、手が四本もあった。二本の手で三弦(サンシェン)を大きくしたような不思議な楽器を持っていて、残りの二本の手には数珠(じゅず)とお経のような物を持っていた。サラスワティの神様は常に楽器をつま弾いていて、心地よい曲が流れていた。
 踊り好きな肌の色が黒い神様もいた。鳥のような羽根を持って、鷲(わし)のような顔をした神様もいた。笛の名人の神様も来て、ササたちは一緒に笛を吹いた。スサノオの神様は異国の神様とお互いに違う言葉で話し合っていたが、お互いに意味が通じているようで、楽しそうに笑っていた。
 二度目に笛を吹くまでの事ははっきりと覚えているのに、それ以後の事は、まるで夢の中の出来事のようで、ぼんやりとしていた。
 安須森(あしむい)ヌルが起きてきたので、その事を聞いたら安須森ヌルもはっきりと覚えていなかった。
「あたしたち、夜が明けるまで飲んでいたの?」とササは聞いた。
「飲んでいたと思うわ。夜が明ける頃、スサノオの神様がシヴァの神様と意気投合してどこかに行ったので、宴(うたげ)はお開きになったのよ」
「シヴァの神様?」
「踊り好きな神様がいたでしょ」
 ササは思い出した。ササたちの笛に合わせて、奇妙な踊りを踊っていた神様だった。
「シヴァの神様ってどこの神様なの?」
 安須森ヌルは首を傾げた。
「あたしたちの笛を聴いて、どこかから来たんじゃないの」
「その神様と一緒に踊っていた女神様もいたわ」とササが言った。
「シヴァの神様の奥さんよ。名前は覚えていないわ」
「ねえ、マッサビ様のお屋敷にあるサラスワティ様の絵を見に行きましょう」
 ササがそう言って、二人は隣りの屋敷に向かった。縁側に愛洲次郎(あいすじるー)たちがいて、
「ようやく、お目覚めか」と笑った。
「マッサビ様はまだ眠っているようだ。俺たちも山頂まで行って来たんだ。風が強くて、あんな所によく一晩もいられたもんだと感心したよ」
「神様のお陰で、風はやんだのよ」とササは言って、マッサビの夫のグラーに頼んで、サラスワティの絵を見せてもらった。
 掛け軸になって壁に飾ってある絵は思っていたよりも小さくて、縦が一尺(約三〇センチ)ほどだった。細い墨の線に淡い色が施されていた。サラスワティは蓮(はす)の花の上に乗って楽器を弾いていて、足下に白鳥が控えていた。それを見て、サラスワティが白鳥に乗ってやって来たのをササは思い出した。それと同時に、クバントゥの神様のビシュヌとラクシュミが、大きな鳥の神様に乗って来たのも思い出した。
「やはり、手が四本もあるわね」と安須森ヌルが言って、「四本もあったら便利でしょうね」と笑った。
「四つの刀が持てるわ」とササは言ったが、「四つの刀を腰に差したら重すぎるわね」と笑った。
「この神様は弁財天(べんざいてん)様の元の姿じゃないかな」と二人の後ろでジルーが言った。
「弁財天様は熊野から吉野に行く奥駈道(おくがけみち)にある弥山(みせん)という行場(ぎょうば)に祀ってあるんだ。弥山の裾野の天川(てんかわ)に弁財天社があって、古くから水の神様として信仰されている。きっと、南の国の神様が仏教に取り入れられて、弁財天様になったんだよ」
 弁財天というのは聞いた事があった。アキシノがお仕えしていた厳島(いつくしま)神社の神様だった。それと、ササたちが奥間(うくま)のサタルーと一緒に京都から尾張(おわり)の瀬戸に行った時、琵琶湖にある竹生島(ちくぶしま)にも、弁財天が祀ってあると案内してくれた斯波(しば)家のサムレーが言っていた。
「この島の赤崎の神様がサラスワティ様なら、アマミキヨ様の神様もサラスワティ様なのかしら?」と安須森ヌルが言った。
「明日、赤崎まで行って調べましょ」とササと安須森ヌルがうなづき合うと、
「俺たちはまた留守番か」とジルーがつまらなそうな顔をして聞いた。
 ササは笑って、「みんなでぞろぞろと行きましょう」と言った。
「そいつは楽しみだ」とジルーは喜んで指を鳴らした。
「この絵を描いたのはテルヒコ様の子孫の石城按司(いしすかーず)でしょ。絵がうまいのね」と安須森ヌルが言った。
「イシャナギ島(石垣島)のイーカチ(絵画き)ね」とササが笑った。
「石城按司琉球に行っているから、琉球の絵も描いているかもしれないわ。あとで行って、見せてもらいましょ」
 シンシンとナナがやって来た。
「みんなはまだ眠っているわ」とナナが言った。
「神様たちとつき合ったから、身も心も疲れ切ってしまったのよ。マッサビ様でさえ、まだ眠っているもの」
「若ヌルたちはずっと眠っていたのに、よく眠れるわね」とシンシンが言った。
「眠っていても大勢の神様が近くにいたから疲れたんでしょう」と安須森ヌルが言った。
 ササたちはジルーたちと一緒に鍛冶屋(かんじゃー)のフーキチに会いに行った。
「ミーカナとアヤーはどうしたの?」とササが聞いたら、
「村の娘たちに剣術を教えているんだ」とゲンザが言った。
 フーキチの作業場は沢の下流にあった。作業場では若い者たちが大勢、仕事に励んでいた。なぜか、クマラパの姿もあった。フーキチはササたちに気づくと手を上げて、隣りの家で待っていてくれと言った。
 フーキチの奥さんは昨日、マッサビの屋敷で料理を作っていて、ササたちを隣りの屋敷に案内してくれた人だった。先代のフーツカサの姪(めい)で、先代が亡くなった時、十歳だった。フーツカサの跡を継げという話もあったが、池間島(いきゃまじま)からマッサビが来てくれたので助かった。わたしにはシジ(霊力)がないし、とても、フーツカサなんて務められないと言って笑った。フーキチと出会ったのは十五歳の時で、出会った時に、この人のお嫁さんになるってわかったらしい。今は四人の子供に恵まれて、フーキチもみんなから尊敬されているので幸せだという。
 縁側で奥さんと話をしていたら、フーキチが帰って来た。
「奥間の鍛冶屋がイシャナギ島にいたなんて驚きましたよ」とササが言うと、
「わしの方こそ、驚きました。琉球から女子(いなぐ)がこの島にやって来るとはのう。しかも、琉球の王様の娘だというではありませんか。王様の娘が腰に刀を差してやって来るなんて、まったく腰が抜けるほど驚きましたよ」とフーキチは笑った。
「父が王様になれたのも奥間の人たちのお陰なんですよ」と安須森ヌルが言うと、フーキチは何の事だかわからないという顔をした。
「フーキチさんが琉球を離れた時、中山王(ちゅうさんおう)は誰でした?」とササが聞いた。
「察度(さとぅ)殿でした。そなたたちは察度殿の跡継ぎのフニムイ(武寧)殿の娘さんなのでしょう」
 ササは首を振って、「フニムイを倒して、わたしの伯父が中山王になったのです」と言った。
「フニムイを倒した? 一体、誰がフニムイを倒して中山王になったのです? 中山王を倒すほどの兵力を持っていたのは山北王(さんほくおう)しかいないでしょう。まさか、山北王が中山王を倒したのですか」
「違います。フーキチさんは奥間から南部の佐敷に行ったヤキチさんを知っていますか」と安須森ヌルが聞いた。
「ヤキチさんか‥‥‥懐かしいな。勿論、知っていますよ。ヤキチさんはわしの師匠でした。わしの親父はわしが幼い頃に亡くなってしまって、わしと兄貴はヤキチさんから鍛冶屋の技を習ったのです」
「そのヤキチさんは今、玻名(はな)グスク按司になりました。玻名グスクは奥間の人たちの南部の拠点になったのです」
「ヤキチさんが玻名グスク按司?」
 フーキチはわけがわからないといった顔で安須森ヌルを見て、ササを見た。
「ヤキチさんはずっと佐敷按司を守っていました。佐敷按司は隠居していた父親と一緒に中山王のフニムイを倒して、隠居していた父親が中山王になったのです」
「ちょっと待ってくれ」とフーキチは昔を思い出していた。
「わしがこの島に来る三年前、奥間に佐敷から若按司が来ました。そして、若按司の息子が生まれると、神様のお告げがあったと奥間ヌル様が言って、その息子は長老が育てる事になったのです。そして、佐敷の若按司を守るためにヤキチさんは佐敷に行きました。あの若按司が中山王を倒したというのですか」
「そうです。その若按司はわたしの兄で、中山王の跡継ぎであり、島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)でもあります」
「信じられん」とフーキチは首を振ってから、
「やはり、奥間ヌル様の言った事は正しかったんだな」と納得したようにうなづいた。
「わしはこの島に来る前、ヤキチさんにお別れの挨拶をするために佐敷に行ったんです。佐敷グスクは小さなグスクで、どうして、ヤキチさんが佐敷の若按司を守らなければならないのか、わしにはさっぱりわかりませんでした。ヤキチさんに聞いたら、笑いながら、あいつは面白い奴だ。何か大きな事をやるかもしれないと言ったんです。そうでしたか、あの若按司が中山王を倒したのですか。そして、ヤキチさんが玻名グスク按司か‥‥‥」
 フーキチは楽しそうに笑っていた。
「それで、佐敷の若按司の息子さんはどうしているのですか」
「長老殿の娘さんと一緒になって、長老殿の跡継ぎになっています」
「今の長老殿はヤザイム殿ですか」
「そうです」
「ヤザイム殿には、わしと同い年の息子で、ヤタルーというのがいましたが、どうなりました?」
「ヤタルーさんは鍛冶屋の親方を務めています」
「奥間のために身を引いたのですね。奴らしいな」とフーキチは笑った。
 この島に来て二十四年の月日が過ぎ、フーキチは百人以上の弟子を育てて、各地に送り出していた。この事を知ったら、奥間の長老殿は喜ぶでしょうと言ったら、「急に故郷に帰りたくなってしまいました。琉球に帰る時、わしを乗せて行ってください」と言った。
「ミャーク(宮古島)の目黒盛(みぐらむい)様が琉球に船を出すって約束してくれました。毎年は無理でも一年おきに琉球に行く船が出るようになるでしょう。すっかり変わった琉球を見に行ってください」
「楽しみができた」とフーキチは笑って、妻を見ると、「お前も一緒に行こう」と言った。
 奥さんは嬉しそうに笑っていた。
 日が暮れてきたので、ササたちはフーキチ夫婦と別れて屋敷に戻った。
 マッサビもツカサたちも起きていた。
「昨夜は疲れたから栄養を付けなくちゃあね」とマッサビが言って、猪(やましし)の肉を御馳走になった。
 翌朝、ササたちは名蔵(のーら)に向かった。女子サムレーのミーカナとアヤーは村の娘たちに剣術を教えていたので、ナルンガーラに残り、ゲンザとマグジも残った。
 ササたちはマッサビと別れて、ツカサたちと一緒に名蔵の女按司(みどぅんあず)、ブナシルの屋敷に向かった。マッサビの娘のサユイは一緒に赤崎に行くと行ってついて来た。
 ブナシルの屋敷は集落から少し離れた高台の上にあった。それほど高くない石垣に囲まれたグスクで、中は広く、お客様用の大きな屋敷があった。ウムトゥダギのお祭りの時、各地のツカサが集まって来るので、そのための宿泊施設だった。
 ブナシルは留守番をしていた娘のミッチェをササたちに紹介した。母親と同じように女子サムレーの格好をしていて、ナナと同じ位の年齢に見えた。
「わたしのお師匠です」とサユイが言った。
「お師匠は弓矢の名人なのです」
 玻名グスクヌルに若ヌルたちの稽古を頼んで、ササ、シンシン、ナナはミッチェとサユイの案内で、シィサスオン(白石御嶽)とミズシオン(水瀬御嶽)に向かった。
 シィサスオンはグスクと集落の中程にあった。こんもりとした森の中に、白く細長い石が祀ってあった。
「昔、ハツガニという神様を信じない人がいて、ウムトゥダギの神様に石にされてしまったようです。石になってからは強いシジ(霊力)を持つ神様になられて、重い病に罹った時やマジムン(悪霊)に取り憑かれた時、ここでお祈りをすると治ると言われています」とミッチェは説明した。
 ハツという名前に、いつしかカニ(金)という尊称がついたらしい。七尺(約二メートル)近くもありそうな石で、ハツガニは大男だったようだ。
 ササたちはお祈りをした。
琉球から来たそうじゃのう」と神様の声が聞こえた。
 クバントゥの言葉ではなく琉球の言葉だった。
琉球の言葉がわかるのですか」とササは聞いた。
「一昨日(おととい)の夜、覚えたんじゃよ」と神様は言った。
 ササたちには神様の言っている事が理解できなかった。
「一昨日の夜、一緒に笛を吹いたじゃろう。わしはビシュヌじゃ」
 ササたちは思い出して驚いた。色黒の目鼻立ちのくっきりしたいい男で、初めのうちは異国の言葉をしゃべっていて何を言っているのかさっぱりわからなかった。やがて、片言の琉球の言葉をしゃべるようになって、その後、すっかり言葉を覚えたようだが、クバントゥの神様のビシュヌがどうして、ここにいるのかわからなかった。
「わしの特技は化身(けしん)となって、人間界に現れる事なんじゃよ」
「もしかしたら、ビシュヌ様がハツになって、この島に現れたのですか」とササは聞いた。
「そうじゃ。弟のサラはガルーダの化身で、妹のミズシはラクシュミの化身じゃ」
「ラクシュミ様はお会いしましたが、ガルーダ様は知りません」
「何を言っておる。わしらが乗って来た鳥がガルーダじゃよ」
 鷲の顔をした鳥の神様だったのかとササは納得した。
「どうしてビシュヌ様が、神様を信じない者に化身したのですか」
「ウムトゥ姫は素晴らしい人間じゃった。バラバラだったこの島を見事に一つにまとめた。この島の神様として、ずっと、人間たちから敬われなければならないと思ったんじゃ。人間というのは愚かな生き物だから、昔の事など、すぐに忘れてしまう。ウムトゥ姫の神様としての力を何か形として残さなくてはならないと思ったんじゃ。そこで、ウムトゥ姫の命が残りわずかだと知ったわしは、ハツになって、この島に現れたんじゃよ。そして、ウムトゥ姫の孫のテルヒコと出会い、一緒に名蔵に来たというわけじゃ。ウムトゥダギの神様を信じないと石になってしまうぞと人間たちにわからせるために、石になったままのハツをここに祀っているんじゃよ」
「どうして、妹のミズシさんを殺したのですか」
「それは、テルヒコがミズシに惚れちまったからじゃ。ラクシュミはわしの妻じゃ。いつまでも人間界に置いておくわけにはいかんのじゃよ」
「サラさんはクバントゥ姫様と一緒になりましたけど、それでよかったのですか」
「ガルーダに聞いたら、ガルーダもクバントゥ姫に惚れたという。わしらにずっと仕えてきたから、ちょっと息抜きさせてやったんじゃよ。お陰で、ガルーダの子孫がこの島で増える事になった。奴は時々、この島にやって来て、子孫たちの様子を見るようになったんじゃ。今回も、ガルーダがウムトゥダギの神様たちの饗宴に気づいて、わしらを連れて来てくれたんじゃよ。いつもなら、わしはここにはおらんが、お前たちが来ると思って待っていたんじゃ。ミズシオンにも行くんじゃろう。ラクシュミが待っているよ」
「ガルーダ様のウタキはあるのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「サラとクバントゥ姫のウタキはクバントゥオン(小波本御嶽)の近くにあったんじゃが、いつしか忘れ去られてしまったようじゃ。それがあるから、わしはここに石を残したんじゃよ」
 クバントゥ姫が生きていたのは一千年も前の事だった。忘れ去られたウタキが、他にもいくつもあるような気がした。
 ビシュヌ様と別れて、ウタキを出たあと、
「シィサスオンの神様はいつもはいらっしゃらないのですか」とササはミッチェに聞いた。
「いらっしゃいません。時々、いらっしゃいますが、古い言葉を使うので理解できませんでした。神様が琉球の言葉を話すのを初めて聞きました。シィサスオンの神様も一昨日の夜、お山に行ったなんて驚きです。わたしも行けばよかったわ。ツカサたちも一緒に行くって聞いたので、わたしは遠慮したのです。ツカサたちはわたしの顔を見ると文句ばかり言うのです。武芸ばかりやっていて、ツカサとしてのお勤めをおろそかにしているってね。決して、おろそかにしているわけではないのですが、ツカサたちにはそう見えるようです」
琉球ではヌルは武芸を身に付けなければならないと思われています。わたしは若ヌルの頃、武芸とヌルとしてのお勤めを同時に母から教わりました。それが当然の事だと思っていたのです。でも、武芸をやる母が特別なヌルだったのです。母は最高のヌルとして、ヌルたちに慕われています。皆、母を見倣って武芸を身に付けています。当然、わたしの弟子の若ヌルたちは武芸に夢中になっています。ミッチェさんが新しいツカサの姿を作ればいいのです。そうすれば、皆、ミッチェさんを見倣って武芸を始めるでしょう」
「ありがとう。自信が湧いてきたわ」とミッチェは嬉しそうに笑った。
 名蔵の集落を抜けて、ノーラオン(名蔵御嶽)の森の左側にある森がミズシオンだった。こんなに近くなら、ノーラオンにお祈りした時に寄ればよかったと思ったが、きっと、あの時は神様はいらっしゃらなかったに違いなかった。
 ミズシオンには黒っぽい石が置いてあった。人がうずくまっているような形の石だった。ミズシさんも石になったのかしらとササが思っていると、
「違うわよ」と神様の声が聞こえた。
「この石はわたしとテルヒコさんが、いつも腰掛けてお話をしていた思い出の石なのよ」
「どうして、テルヒコ様と一緒に残らなかったのですか」とササは聞いた。
「残ってもよかったんだけど、テルヒコさんはあのあと、石城山(いしすくやま)のチャコと出会う事になっていたの。わたしが邪魔をしてはいけないと思って、去る事にしたのよ。それでよかったと思っているわ」
 ササは神様の声を聞いて、一昨日の夜のラクシュミ様を思い出した。真っ赤な着物を着ていて、物凄い美人だった。テルヒコが驚いて、ポカンと口を開けたままラクシュミを見つめていた。二人は再会を喜んで、親しそうに昔話に花を咲かせていた。
「クバントゥの人たちは、どこからこの島に来たのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「クバントゥの御先祖はタルファイとマルファイという兄妹で、大陸の南の方、今、チャンパ(ベトナム中部)という国がある辺りから来たのよ」
 チャンパという国はシーハイイェンから聞いた事があるが詳しい事はわからなかった。
「もしかしたら、クメーという国ではありませんか」とササは聞いた。
 何となく、久米島(くみじま)にお米を持って来たクメーの国の人とクバントゥの人がつながりがあるような気がした。
「そう、クメールという国よ。そんな昔の事をよく知っているわね」
「クメールですか」とササは呟いた。
 久米島にお米を持って行った人たちもクメールの人に違いないと思った。
「クメールは滅ぼされて、人々はあちこちに逃げて行ったの。タルファイとマルファイは一族を引き連れて、お米を持って、この島にやって来たのよ。でも、逃げないでじっと我慢をしている人たちもいたのよ。その人たちはやがて、新しいクメール王国を築くのよ。今もクメール王国はあるわ。わたしたちを祀った立派なお寺がいくつもあったんだけど、今は仏教のお寺になってしまったわ」
琉球の近くに久米島という島がありますが御存じですか」
「さあ、知らないわ」
久米島はクメールの国の人たちが来て、クメール島と名付けたのではないかと思ったのですが知りませんか。久米島で一番高い山にあるガマ(洞窟)に古い神様がいらっしゃって、言葉はわからないのですが、『クメー、クメー』と何度も言っていたのです」
「わたしにはわからないわ」とラクシュミは言ったが、
「シヴァから聞いた事があるぞ」とビシュヌの声が聞こえた。
久米島に行ったのはシヴァを祀っていたクメールの国の人たちじゃ。久米島にはリンガとヨーニがあるはずじゃ」
「リンガとヨーニって何ですか」
「リンガは男のアレで、ヨーニは女のアレじゃよ」
 確かに久米島には男子岩(いきがいわ)と女子岩(いなぐいわ)があった。
「同じ国なのに、違う神様を祀っていたのですか」
「どの神様を信じるかは人それぞれじゃからのう」
「ビシュヌ様とラクシュミ様は滅ぼされたクメールの国の神様だったのですか」
「わたしたちはもっと遠い南の国の神なのよ。その国も争いが絶えなくて、いくつもの国が建国されては滅んで行ったわ。今はヴィジャヤナガル王国(インド南部)というのが栄えているわ。タルファイとマルファイの頃はアーンドラ王国というのがあって、盛んに交易をしていたのよ。お陰で、わたしたちも各地に広まっていったの。シヴァもサラスワティもアーンドラ王国から各地に広まって行ったのよ。アーンドラ王国はクメールとも交易していて、タルファイ兄妹はわたしたちを守護神として祀っていたの。この島に来てからもわたしたちを頼りにしてくれていたのよ」
「今はどこに住んでいらっしゃるのですか」
マジャパイト王国にいる事が多いわね。あそこには大きなお寺がいっぱいあるし、わたしたちを頼りにしている人たちも多いのよ」
マジャパイト王国ってジャワの事ですよね。王女のスヒターを御存じですか」
「勿論、知っているわ。スヒターのお友達のラーマはわたしとお話ができるのよ。実はね、あなたの事はラーマから聞いていたの。一度、会ってみたいと思っていたのよ」
「ありがとうございます。ジャワにお帰りになったら、ラーマによろしくお伝えください」
 ラクシュミ様、ビシュヌ様と別れたササたちは、ノーラ姫に一昨日の夜のお礼を言うためにノーラオンに向かった。
「ラクシュミ様とビシュヌ様がジャワにいらっしゃるなんて驚いたわね」とシンシンが言った。
 ササはうなづき、目を輝かせて、「ジャワに行かなくちゃね」と言った。
久米島にお米を持って来た人たちもクメールの国の人だったのね」と安須森ヌルがササに言った。
「クバントゥの人たちと同じ国の人たちだったんだわ」とササはうなづいた。
 ミッチェとサユイは神様の言った事が衝撃だったらしく、この事をマッサビやブナシルに話した方がいいのか悩んでいた。
「あの二人には話した方がいいわ」と安須森ヌルが言った。
「ツカサたちに話すかどうかは、あの二人が決めるでしょう」
 ミッチェもサユイも佐敷ヌルを見て、うなづいた。
 ノーラオンでノーラ姫にお礼を言うと、
「わたしたちの方がお礼を言うべきだわ」と言った。
「あなたたちのお陰で異国の神様たちとお話ができたわ。母が亡くなったあと、テルヒコの友達が名蔵にやって来て、神様を信じなかったハツが石になってしまった事が、ずっと謎だったのよ。わたしは母がやったんだと思っていたけど、母は違うって言っていたの。ビシュヌ様のお話を聞いて、やっと、長年の謎が解けたのよ。母もビシュヌ様にお礼を言っていたわ。ありがとう。サラスワティ様がヤラブダギで待っているわ。サラスワティ様からお話を聞けば、赤崎の謎も解けるはずよ」
 ササたちはノーラ姫と別れて、グスクに戻った。熊野の山伏、ガンジューが待っていて、
「話があったのに、さっさと帰ってしまうなんてひどいですよ」とガンジューは言った。
「話って何ですか」とササが聞いたら、
「俺の事、覚えていないのですか」とガンジューは言った。
 ササも安須森ヌルも首を傾げたが、ナナが思い出して、
「あの時の山伏ですね」と言った。
「えっ、誰なの?」とササがナナに聞いた。
「熊野の本宮(ほんぐう)の宿坊(しゅくぼう)にいた人よ。あたしたちから琉球の話を聞いて、琉球に行ってみたいって言っていたわ」
 ガンジューは嬉しそうな顔をしてうなづいていた。
 ササも安須森ヌルもシンシンも思い出して、ガンジューを見て、「あの時の‥‥‥」と言って笑った。
「でも、どうして、この島にいるの?」とササは聞いた。
 ササたちが二度目に熊野に来て、帰って行く時、福寿坊(ふくじゅぼう)という山伏を琉球に連れて行くと言った。ガンジューも一緒に行きたかったが、まだ修行中の身で勝手な事はできなかった。それでも、日が経つにつれて、琉球に行きたいという気持ちを抑える事はできず、奧駈行(おくがけぎょう)をすると嘘をついて熊野を抜け出して博多に向かった。博多に琉球の船はまだ泊まっていた。しかし、近づく事はできず、ササたちとも出会えなかった。琉球の船は帰ってしまったが、ガンジューは諦めず、琉球に行く船を見つけて乗り込んだ。ところが、その船は琉球ではなくターカウ(台湾の高雄)に着いた。ターカウからミャークの船に乗って、この島に着いたのが、去年の夏で、それ以来、ずっとこの島にいるという。
「ミャークまで行っても琉球には行けないと聞いたので、この島にいる事にしたのです。ウムトゥダギに熊野権現もありますし。ところで、熊野の神様のスサノオがこの島に来たと聞きましたが本当なのですか」
「本当よ。でも、話をすると長くなるから後にしてね。これからヤラブダギに登らなければならないの」
「ヤラブダギなら登った事があるので、案内しますよ」
「それじゃあ、頼もうかしら」
「ねえ、どうして、ガンジュー(頑丈)って呼ばれているの」とナナが聞いた。
「俺の名前は願成坊(がんじょうぼう)なんですよ」
「成程」とササたちは笑った。

 

 

 

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