長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-226.見果てぬ夢(改訂決定稿)

 ウニタキ(三星大親)はヤンバル(琉球北部)の按司たちの書状を持って、真喜屋之子(まぎゃーぬしぃ)とキンタ(奥間大親)を連れて首里(すい)に向かった。今後の作戦を思紹(ししょう)(中山王)と練るために、サハチ(中山王世子、島添大里按司)も一緒に行った。
 首里グスクの『龍天閣(りゅうてぃんかく)』に行くと、思紹と一緒に早田(そうだ)五郎左衛門も彫り物に熱中していた。何気なく『役行者(えんのぎょうじゃ)像』の顔を見たサハチは呆然となって立ち尽くした。
「親父、これはクマヌ(先代中グスク按司)なんですか」とサハチは聞いた。
「自然にこうなってしまったんじゃよ」と思紹は笑った。
 山伏姿のクマヌと一緒に旅をした若い頃が鮮明に思い出されて、知らずにサハチの目は潤んでいた。クマヌと一緒に旅をしなかったら、『琉球の統一』なんて考えなかったかもしれなかった。
「うまく行きましたよ」とウニタキが思紹に言った。
 思紹はうなづいて、上の階を指差した。
 サハチたちは三階に上がって景色を眺めた。家々が建ち並んでいる城下が見えた。十年前はグスクしかなかったのに、すっかり都に変わっていた。大通りの両側には樹木(きぎ)が生い茂っていたが、樹木はなくなって、所狭しと家々が建っていた。
「二年半、ヤマトゥ(日本)にいて、琉球沖縄本島)に帰って来た時、浮島(那覇)に着いたんです」と真喜屋之子が浮島の方を見ながら言った。
「明国(みんこく)(中国)から帰国して、すぐに事件を起こしてヤマトゥに逃げたので、俺は中山王(ちゅうざんおう)が変わった事を知らなかったのです。首里に来て驚きました。立派なグスクがあって、あちこちで家を建てていました。そして、山北王(さんほくおう)(攀安知)の義父だった中山王(武寧)が殺されて、島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)の父親が中山王になったと知ったのです。失礼ながら、俺はその時、島添大里按司を知りませんでした。あとで、俺が馬天浜(ばてぃんはま)にいた頃の佐敷按司が中山王だと聞いて、腰を抜かさんばかりに驚きましたよ。俺は若狭町(わかさまち)の宿屋に滞在して、何度も首里に来て、お祭り(うまちー)も見ました。新しい中山王がみんなから慕われている事を知って、俺も首里で暮らそうかとも思ったんですよ」
「でも、首里では暮らさなかった」とウニタキが言った。
「ええ。若狭町のヤマトゥンチュ(日本人)から『阿波根(あーぐん)グスク』で、腕の立つ武芸者を探しているという噂を聞いて、行ってみたのです。居心地がよかったので、そこに居着いてしまいました。でも、兼(かに)グスク按司(ンマムイ)の奥方が山北王の妹だと知って驚きました。マハニさんが先代の中山王の息子に嫁いだ事は知っていましたが、中山王が滅んだので、その息子も殺されたのだろうと思っていました。マハニさんは弟の『サンルータ』は病死したと言っていましたが、危険を感じて逃げたのです」
「ヤマトゥでは何をしていたんだ?」とサハチが聞いた。
「明国の言葉ができたので、博多で唐人(とーんちゅ)の商人の護衛をしていました」
「明国の言葉もヤマトゥの言葉もしゃべれるなんて羨ましいよ」とウニタキが言った。
「ヤマトゥの言葉は遊女(じゅり)に教わったのです」
「なに。馴染みの遊女がいたのか」
 真喜屋之子は照れくさそうに笑った。
「『三春(みはる)』という可愛い女子(いなぐ)でしたが、勢力のある武将に身請けされました。それで、俺は琉球に帰って来たのです」
「遊女に振られて帰って来たのか」とウニタキは笑った。
 女子(いなぐ)サムレーのクニがお茶を持って上がって来た。
「侍女はどうした?」とサハチはクニに聞いた。
「今年から、ここには侍女はいなくなりました。ここにいても食事の用意をするくらいしか仕事がないのです。食事は侍女が運びますが、食事が終わると引き上げます。お客様が来た時に、お茶を入れて出すのは、わたしたちの仕事になったのです」
「ほう、そうだったのか」
「わたしたちもただ立っているだけでは退屈するので、丁度いいのです」
「そうか」とうなづいて、サハチたちは部屋に入ってお茶を受け取った。
 クニが出て行くのと入れ違いに思紹が入って来た。
「よくやった」と言って、思紹は『真喜屋之子』を見た。
 佐敷の美里之子(んざとぅぬしぃ)の道場にいたというが、思紹には思い出せなかった。
 ウニタキから渡された五つの書状を読んだ思紹は、改めて真喜屋之子を見ると、「御苦労じゃった」と満足そうに笑った。
「ヤンバルの按司たちが寝返ったという事は、今回の戦(いくさ)の半分は成功したと言える。大手柄じゃ。『サムレー大将』として戦に参加するか」
 真喜屋之子なら『サムレー大将』も務まるだろうとサハチもウニタキも思った。
 意外にも真喜屋之子は首を振った。
「山北王と湧川大主(わくがーうふぬし)(攀安知の弟)は倒したいのですが、今帰仁(なきじん)のサムレーの中には一緒に明国に行った奴もいます。奴らとは戦いたくはありません。久し振りにヤンバルに行ってわかったのですが、伊波(いーふぁ)あるいは山田から北(にし)へ行く道は険しくて、誰もが気楽に通れる道ではありません。できれば、戦のあと、道を整備したいのです。『普請奉行(ふしんぶぎょう)』に任命して下さい」
 真喜屋之子が進貢船(しんくんしん)のサムレーを辞めたあと、ヤンバルの道を整備したいと言っていたのをサハチは思い出した。
「面白い奴じゃのう。戦よりも道普請か。いいじゃろう。戦が終われば、ヤンバルとの行き来をする人も多くなる。道を整備するのは必要じゃ。お前に頼む事にしよう」
 サハチとウニタキ、キンタも書状を読んだ。按司たちは皆が中山王に忠誠を誓っていた。
「みんなを呼んで、『戦評定(いくさひょうじょう)』を開きますか」とサハチは思紹に聞いた。
「いや。二、三日待とう。『御内原(うーちばる)』には山北王が送った侍女がいるからな。ここでやると怪しまれると思って、『まるずや』でやっていたが、マチルギと馬天ヌルがいなくなったので怪しまれたようじゃ。戦の相談をしていた事までは知らんようだが、気を付けなくてはならん。毎年、二十日頃、『久高島参詣(くだかじまさんけい)』のための評定を開いている。久高島参詣のための評定という事で、ここに集まろう」
「俺たちが今、ここにいる事も怪しまれていますかね?」
「『真喜屋之子』を連れて来たから何者だと疑っているじゃろう。戦のあとと言わず、今、『道普請奉行』に任命しよう。とりあえずは、首里と島添大里を結ぶ道の整備を頼む。どうじゃ?」
「ありがとうございます。見果てぬ夢だと諦めていました。まさか、実現するなんて夢を見ているようです。本当にありがとうございます」
 真喜屋之子は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。
「親父、『道普請奉行』になるのはいいが、『真喜屋之子』の名前ではまずい」とサハチが言った。
「そうじゃのう。名前を変えなければならんな」
 真喜屋之子は涙を拭うと、「『与和之子(ゆわぬしぃ)』にして下さい」と言った。
「『与和』は俺が殺した妻が生まれた永良部島(いらぶじま)(沖永良部島)の地名です。妻は『与和の浜(ゆわぬはま)』から船に乗って今帰仁に来たそうです。妻に詫びるつもりで、命懸けで頑張ります」
「よし。『与和大親(ゆわうふや)』にしよう」と思紹が言った。
「『三春大親』ではないのか」とウニタキがからかった。
 真喜屋之子はやめてくれと言うように手を振った。
「永良部島で思い出したが、永良部按司の母親はまだ今帰仁にいるのか」とサハチはウニタキに聞いた。
「まだいるよ。もう帰らないんじゃないのか。越来按司(ぐいくあじ)の妻だった義理の妹と一緒に暮らしている。トゥイ様(先代山南王妃)の姉さんだから助け出さなくてはならんな」
「マナビーの母親が今帰仁にいるのですか」と真喜屋之子が聞いた。
「先代の按司が亡くなったあと今帰仁に来て、そのまま今帰仁で暮らしているんだよ。察度(さとぅ)(先々代中山王)の娘で浦添(うらしい)グスクで育ったから島暮らしより都暮らしの方がいいのだろう」
「そうでしたか。俺は会った事はありませんが、島の人たちに読み書きを教えていたようです。それをマナビーも見倣って近所の子供たちに読み書きを教えていたのです。謝って済む問題ではありませんが、母親に謝らなければなりません」
「お前のためにも必ず、救い出すよ」とウニタキは言った。
「具体的な作戦はこれから練る事になるが、ウニタキには『救出作戦』を担当してもらう事になるだろう。救出すべき者たちを選んで助け出してくれ」
「かしこまりました」とウニタキはうなづいた。
 サハチは『道普請奉行』に任命された真喜屋之子を連れて北の御殿(にしぬうどぅん)に行き、安謝大親(あじゃうふや)と会わせると、あとの事は安謝大親に任せて、ウニタキと一緒に島添大里に帰った。キンタは玻名(はな)グスクに行った。


 その日、ササ(運玉森ヌル)たちは東松田(あがりまちだ)若ヌルのタマと屋賀(やが)ヌルと恩納(うんな)ヌルを連れて、『ミントゥングスク』に向かった。二人の娘はナツが預かっていた。
 ミントゥングスクより先に『アマミキヨ様』が上陸した『浜川(はまがー)ウタキ』に行った。『ユンヌ姫』に連れられて浜川ウタキに来たのは三年前の年の暮れ、南部の戦が始まった頃だった。浜川ウタキで『アマミキヨ様』の存在を知って、南の島(ふぇーぬしま)を探す旅に出た。南の島で『瀬織津姫(せおりつひめ)様』を知って、『瀬織津姫様』を探すために『富士山』まで行ってきた。ここに来なかったら何も始まらなかっただろう。ササは改めて『ユンヌ姫』に感謝した。
 玉グスクヌルが管理しているので、ウタキ(御嶽)は綺麗になっていた。『ヤファラチカサ』でお祈りをして、『スーバナチカサ』でお祈りをすると『百名姫(ひゃくなひめ)』の声が聞こえた。
「『瀬織津姫様』にお会いしたわ。ありがとう」
「百名姫様が色々と教えてくださったお陰です」とササは言って、「『ピャンナ(百名)』というのは、『アマミキヨ様』のお名前ですか」と聞いた。
「何ですって? 『瀬織津姫様』がそうおっしゃったの?」
 そう言われて、『瀬織津姫様』なら知っているかもしれないと思った。
「そうではありませんが、そんなような気がしたのです」
「『ピャンナ』がアマミキヨ様のお名前だったら素敵ね。もっと、この地を大切にしなければならないわ」
「『コモキナ』って御存じですか」
「『コモキナ』はヤンバルにあるウタキでしょ」
「『ミントゥングスク』のウタキで、シネリキヨ様が『コモキナ』って言ったそうです」
「えっ、『シネリキヨ様』の声が聞こえたの?」と百名姫は驚いた。
「安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)が聞いたのです」
「安須森ヌルはここにも来たわよ。『アマミキヨ様』の事を調べているって言っていたわ。『シネリキヨ様』がどうして、『コモキナ』って言ったのかしらね。アマミキヨ様はシネリキヨ様と出会って、ここから『ミントゥングスク』に移ったのよ。シネリキヨ様は『コモキナ』から来られた人だったのかしら」
 ササたちは百名姫にお礼を言って別れた。百名姫の声はタマと屋賀ヌルには聞こえなかったが、マサキ(兼グスク若ヌル)には聞こえた。
 浜川ウタキから『ヤファサチムイ(藪薩御嶽)』に行って、お祈りをした。ここの神様たちはアマンの言葉をしゃべっていて意味はわからなかった。
 『ミントゥングスク』も綺麗になっていた。石段を登って上に着くと、いい眺めなので若ヌルたちが騒いだ。ササたちも眺めを楽しんでから、順番にウタキを巡った。
 最後のウタキで、神様の声が聞こえた。『アマミキヨ様』の声は何を言っているのかわからなかった。『シネリキヨ様』の声は安須森ヌルが言っていたように、『コモキナ』『ネノパ』『ピャンナ』『ムマノパ』という四つの言葉が聞き取れたが、それ以上はわからなかった。
 ササたちはお礼を言ってお祈りを終えた。
「何か聞こえた?」とササはタマと屋賀ヌルとマサキに聞いた。
 タマとマサキは何も聞こえないと言ったが、屋賀ヌルはシネリキヨの声が聞こえたと言った。
「四つの言葉以外に何か聞こえましたか」
「古い言葉なのでよくわかりませんが、シネリキヨ様は『コモキナ』からここに来て、アマミキヨ様と出会ったような気がします」
「『コモキナ』は地名という事ね」
「『コモキナ』はシネリキヨ様のお名前で、亡くなってから生まれ故郷に祀られて、ウタキの名前があの辺りの地名になったのではないでしょうか」
「誰が祀ったの?」とナナが聞いた。
「それはお二人の娘さんだと思います」
「娘さんがお父さんを生まれ故郷(うまりじま)に祀ったのね。充分に考えられる事だわ」とササがうなづいた。
「すると、その娘さんが初代の『スムチナムイヌル』かしら」とナナが言った。
「二人の娘なら『アマミキヨ』じゃないの?」とシンシン(杏杏)が言った。
「そうよね。アマミキヨ様が産んだ娘なら『アマミキヨ』だわ。アマミキヨの娘が『シネリキヨ』のお父さんを生まれ故郷に祀ったのかしら」
 みんなして首を傾げた。
「真玉添(まだんすい)(首里にあったヌルたちの都)ができて『安須森参詣』が盛んになった頃、『コモキナ』がシネリキヨの聖地になったんだと思うわ」という『ユンヌ姫』の声が聞こえた。
 ヤマトゥから帰って来て、ユンヌ姫の声を聞くのは初めてだった。
スサノオ様と一緒にいたの?」とササは聞いた。
「アカナ姫をミャーク(宮古島)まで送って行って、瀬織津姫様をトンド(マニラ)やターカウ(台湾の高雄)まで連れて行ったのよ。帰って来たら、『与論島(ゆんぬじま)』で戦の騒ぎをしていたので驚いたわ」
与論島で戦があったの?」
「そうじゃないわ。国頭按司(くんじゃんあじ)が兵を率いて来いって与論按司(ゆんぬあじ)に言ったみたい。島の若い者たちを集めて武芸の稽古に励んでいたわ。でも、国頭按司からまだ来なくてもいいって知らせが入って、若い者たちも引き上げて行ったわ」
「国頭按司は山北王を攻めるつもりだったのかしら」
「そうみたいね。兵力が足りないんで若い者たちを鍛えたけど、中山王が動く事を知って、与論按司は二十人を率いてくればいいって言ったみたい」
「他の島々はどうなの?」
「永良部島も徳之島(とぅくぬしま)も動きはないわ。今度は『シネリキヨ様』を調べているの?」
「近いうちに『コモキナ』に行こうと思っているんだけど、見守っていてね」
「わかったわ」
アマミキヨ様とシネリキヨ様がここで暮らしていたのね」とタマが海を眺めながら言った。
「あなた、『ユンヌ姫様』の声が聞こえた?」とササが聞くとタマは首を振った。
 屋賀ヌルも聞こえないと言った。
「どうして、マサキには聞こえるんだろう」とササは不思議に思った。
「ササの弟子だから聞こえるのよ」とシンシンが言った。
 ミントゥングスクを下りて、垣花(かきぬはな)の都の跡地にある『垣花森(かきぬはなむい)』のウタキに行くと、ここも玉グスクヌルによって綺麗になっていた。以前に聞こえた極楽寺(ごくらくじ)で戦死した玉グスクヌルの声は聞こえず、別の神様の声が聞こえた。
 『知念姫(ちにんひめ)』の跡を継いで『垣花姫』になった、知念姫の娘だった。
 『垣花姫』は伯母の『瀬織津姫』に会えた事のお礼をササに言った。ササは神様たちが見守ってくれたお陰ですと言って、『コモキナ』の事を聞いた。
「昔、仲宗根泊(なかずにどぅまい)の辺りは大きな沼になっていて、その沼のほとりに貝殻の工房があったわ。そこから川を遡(さかのぼ)った山の上に『コモキナ』のウタキがあったの。『アマミキヨ様』の夫になった『シネリキヨ様』を祀っていたのよ」
「『コモキナ』というのは『シネリキヨ様』のお名前ですか」
「さあ、それはわからないわ。『シネリキヨ様』がお亡くなりになってから二百年は過ぎていたと思うわ。当時は文字もないし、お名前は伝わっていないわ」
「誰がそのウタキを造ったか伝わっていましたか」
「『シネリキヨ様』の娘さんよ。当時は通い婚だったから故郷にも娘がいたのよ。娘が『ミントゥングスク』まで行って、遺骨を分けてもらって祀ったらしいわ」
「その娘さんがコモキナのヌルになったのですか」
「そうよ。娘さんの子孫が『コモキナムイヌル』を継いでウタキを守っていたわ」
「当時は『アマミキヨ』のヌルたちも、『コモキナ』のウタキに入れたのですか」
「入れたわよ。御先祖様ですからね。『コモキナ』がどうかしたの?」
「古いウタキだと聞いたので行ってみたいと思ったのです。当時、『安須森』のウタキもあったのですか」
「伯母によってヤマトゥとの交易が盛んになって、わたしの娘が『安須森姫』として『安須森』に行ってからウタキができたのよ。辺戸岬(ふぃるみさき)の近くの『宇佐浜(うざはま)』に貝殻の工房があって、『安須森姫』の屋敷もそこにあったわ。当時の船は丸木舟(くいふに)だったから海が荒れたら、静まるまで待っていなければならなかったの。あちこちの砂浜が拠点になっていて、『宇佐浜』は最後の拠点だったのよ」
「『コモキナ』のウタキが荒らされて、お宝が盗まれたと聞きましたが、何が盗まれたのですか」
「当時のお宝といえば、『翡翠(ひすい)のガーラダマ(勾玉)』と『黒石(くるいし)(黒曜石)』で作った刀や斧だったから、そういう物が盗まれたんじゃないかしら。もしかしたら、大陸から手に入れた『青銅の刀や鏡』もあったかもしれないわね」
 ササたちはお礼を言って、垣花姫と別れた。垣花姫の声はタマと屋賀ヌルには聞こえなかったが、マサキには聞こえた。
 マサキは『瀬織津姫様』の声も聞いている。瀬織津姫様にササの弟子と認められて、瀬織津姫様の子孫の声は聞こえるのかもしれないとササは思った。


 二日後、首里グスクの『龍天閣』で六度目の『戦評定』が開かれた。まずは『久高島参詣』の事を話し合ってから、『今帰仁攻め』の話に移った。
 琉球の絵図を眺めながら、大まかな作戦を練った。陸路は二手に分かれて、東側は金武按司(きんあじ)の先導で、宜野座(ぎぬざ)まで行って名護(なぐ)に向かい、西側は恩納按司(うんなあじ)の先導で、海岸沿いに北上して名護に行く。名護から羽地(はにじ)に行き、『仲尾泊(なこーどぅまい)』で国頭(くんじゃん)の兵と水軍の船を待つ。全軍が揃ったら『運天泊(うんてぃんどぅまい)』を制圧して、『今帰仁』を目指して進軍するという作戦だった。
 中部の按司たちには三月一日に『今帰仁攻め』を内密に知らせて戦の準備をさせる。山南王(さんなんおう)(他魯毎)と南部の按司たちに知らせるのは、『今帰仁のお祭り』が終わった三月二十五日で、チューマチ(ミーグスク大親)の妻の『マナビー(攀安知の娘)』とンマムイ(兼グスク按司)の妻の『マハニ(攀安知の妹)』に知らせるのも、その日に決まった。
 『今帰仁のお祭り』に参加する旅芸人たちによって、油屋の『ユラ』と喜如嘉(きざは)の長老の孫娘の『サラ』を今帰仁から連れ出す。奥間(うくま)の側室と中山王が送った側室、トゥイ様(先代山南王妃)の姉の『マティルマ(永良部按司の母)』とンマムイの妹の『山北王妃』は、戦が始まってからウニタキが助け出す。そして、『神様』の事はササたちが解決する事に決まった。
 二月二十九日の『島添大里グスクのお祭り』、三月三日の『久高島参詣』、三月十九日の『中グスクのお祭り』、三月二十二日の『丸太引きのお祭り』は通常通りに行なう。丸太引きのお祭りは二十日だったが、ユリたちが中グスクのお祭りを手伝いに行くので、二日ずらす事に決まっていた。
 その日、恩納岳(うんなだき)の山中で『李芸(イイエ)』はナコータルーの下で働いている五人の朝鮮人(こーれーんちゅ)と会っていた。高麗(こーれー)から朝鮮(チョソン)に変わる頃、倭寇(わこう)に連れられて親泊(うやどぅまい)(今泊)に来た若者たちで、当時の『材木屋』の親方だった謝花大主(じゃふぁなうふぬし)に買われてヤマンチュ(杣人)になっていた。五人とも四十歳前後で、琉球人(りゅうきゅうんちゅ)の娘を妻に迎えて子供もいるが、李芸の話を聞いて故郷が懐かしくなっていた。ナコータルーに相談すると、五人がいなくなるのは残念だが、今まで充分に働いてくれたので、本人の意思に任せると言った。五月頃に帰るので、帰りたくなったら浮島の『那覇館(なーふぁかん)』に来てくれと李芸は言った。
 翌日、ウニタキとキンタは中山王の書状を持ってヤンバルに向かった。
 書状は『まるずや』によって、それぞれの按司に渡された。出陣日は四月一日で、喜如嘉の長老の孫娘がお芝居をやる『今帰仁のお祭り』が済むまで、山北王には絶対に気づかれてはならないと書いてあるが、余計な動きをしないように按司たちを監視しなければならなかった。


 李芸は恩納岳の山中で五人の被慮人(ひりょにん)を見つけて、北部にはまだいるに違いないと期待した。その後、名護、羽地、運天泊と探したが見つからず、今帰仁に着いたのは二月の二十七日だった。
 今帰仁グスクに行くと重臣の『平敷大主(ぴしーちうふぬし)』が出て来て、李芸一行を『天使館』に案内してくれた。一休みしたら、山北王に会うためにグスクに連れて行くと言って平敷大主は帰って行った。平敷大主はヤマトゥとの交易を担当していて、ヤマトゥ言葉がしゃべれた。
 荷物を整理していたら、『まるずや』の主人のマイチがやって来て、ウニタキが待っていると知らせた。李芸は『まるずや』に行って、ウニタキと再会した。
「ウニタキさん、どうして、今帰仁にいるのですか」と李芸は驚いた。
「山北王との取り引きで今、こっちにいる事が多いんだ」とウニタキは言った。
朝鮮人を探しているんだろう。山北王の側室に『パク』という朝鮮人がいる。『パク』は朝鮮人を探しては中山王が朝鮮に送っている船に乗せて返している。去年は三人を送り返したが、新たに見つけたかもしれない。会ってみろ」
「側室の『パク』も倭寇にさらわれて来た女ですか」
「そのようだが、『パク』は帰らんだろうな。今晩は山北王が『歓迎の宴(うたげ)』を開いてくれるだろう。明日の晩、一緒に飲もうぜ」
 ウニタキと別れて『天使館』に帰ると、しばらくして、平敷大主が迎えに来て、李芸は『山北王』と会った。前日に沖の郡島(うーちぬくーいじま)(古宇利島)から帰って来たばかりの山北王は、機嫌よく李芸を迎えた。李芸は領内で被慮人を探して、朝鮮に連れて帰る許可を山北王から得た。
 側室の『パク』とも会え、パクに連れられて、『天使館』の近くにある『高麗館(こーれーかん)』という屋敷に行った。十一人の老人たちがいた。五組の夫婦と一人の男だった。名護の屋部(やぶ)にある『瓦焼き場』で働いていて、去年、名護按司から相談があって、朝鮮に帰すために引き取ったという。
「五月に中山王が朝鮮に送る船に乗せるつもりでしたが、早い方がいいので連れて行って下さい」とパクは朝鮮の言葉で言った。
「あなたは帰らないのか」と李芸が聞くと、
「わたしの知らない所に、まだいるかもしれません。探し出して故郷に送ります。わたしは帰っても身内はいないので、ここに残ります」とパクは言った。
 李芸は十一人を連れて行くと約束して、ヤンバルを去るまで預かっていてくれと頼んだ。
 その夜、山北王はヤマトゥ町にある遊女屋(じゅりぬやー)で、『歓迎の宴』を開いてくれた。唐人町(とーんちゅまち)にも遊女屋はあるが、李芸がヤマトゥ言葉がわかるというので、ヤマトゥ町の遊女屋が選ばれた。山北王は来なかったが、『平敷大主』が接待役として世話をした。
 遊女たちはヤマトゥの着物を着ているがヤマトゥの娘ではなく、琉球の娘たちだった。その中に朝鮮の言葉を話す娘がいた。話を聞くと倭寇にさらわれて来た娘だった。その遊女屋には三人の朝鮮の娘がいるという。その場では騒がずに宴を楽しんで、翌日、李芸は平敷大主と相談した。
 山北王が許可したと言っても、遊女屋が商売道具の遊女を簡単に手放すはずがない。平敷大主の交渉によって、朝鮮の『綿布(めんぷ)』と交換する事に決まった。朝鮮の綿布は高価な商品で、ヤマトゥの商人たちとの取り引きにも使えるので、遊女屋も満足してくれた。
 他の遊女屋も探して、李芸は十三人の娘を確保した。武寧(先代中山王)によって浮島での被慮人の売買は禁止されたが、今帰仁では行なわれていたようだ。十三人の娘たちは三、四年前に連れて来られた者たちで、その後は今帰仁にも被慮人は来ていないようだった。

 

 

 

役行者―修験道と海人と黄金伝説