長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-171.ドゥナン島(改訂決定稿)

 ササ(運玉森ヌル)たちは十日間、クン(古見按司と対抗するために、ユーツン(高那)の若者たちと娘たちを鍛えていた。
 若ツカサのリンとユマは思っていたよりも強く、若者たちもその強さに驚いていた。二人はミッチェのもとで修行を積んで、ユーツンに帰って来てからも稽古は続けていたが、その実力を披露する事はなかったので、誰もその強さを知らなかった。二人の強さを知った若者たちは、女に負けてはいられないと真剣に剣術の稽古に励んだ。
 あとの事はリンとユマに任せておけば大丈夫だろうと、五十本のヤマトゥ(日本)の刀を贈って、十月の末、ササたちはドゥナン島(与那国島)に向かった。
 ドゥナン島は思っていたよりも遠かった。天気がよくて波も穏やかだったが、風に恵まれなかった。ササは焦る事はないわと言ったが、愛洲(あいす)ジルーは船乗りたちに艪(ろ)を漕がせた。
 太鼓の音に合わせて掛け声が響き渡って、船は気持ちよく進んで行った。一時(いっとき)(二時間)ほど漕ぐと風が出て来た。漕ぐのをやめて、帆を上げて、あとは風の力で進んで行った。
 正午(ひる)前に丁度中間地点に来たのか、前方にドゥナン島が見え、後方にクン島(西表島)が見えた。
「このまま順調に行けば、日が暮れる前にナンタ浜に着くでしょう」とムカラーが言った。
「ただ、ドゥナン島の手前に難所があって、船がかなり揺れますので覚悟していてください」
 ササはうなづいて、クマラパからドゥナン島の事を聞いた。
 クマラパは楽しそうに笑って、
「ドゥナン島は、男にとって夢の島じゃよ」と言った。
「どういう意味ですか」と安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)が聞いた。
「あの島には夫婦という決まりがないんじゃ。男は女のもとに通って、女が承諾すれば結ばれるんじゃよ。生まれた子供は女が育てる。夫婦という決まりがないから、男は別の女の所にも通うし、女は別の男でも気に入れば迎えるんじゃ。それは島人(しまんちゅ)だけでなく、よそ者にも言える事なんじゃよ。島の女が受け入れてくれれば、いい思いができるというわけじゃ」
「クマラパ様もいい思いをしたのですね?」と安須森ヌルが横目で睨んだ。
「ドゥナン島にわしの子供が二人おるんじゃよ。まだ、マズマラーに出会う前の事じゃ。息子はすでに四十を過ぎ、娘も三十の後半じゃ。前回、行ったのは五年前じゃった。タマミガと多良間島(たらま)のトンドをターカウ(台湾の高雄)に連れて行った時じゃよ。五年振りの再会じゃな」
「ターカウに行く船は必ず、ドゥナン島に寄るのでしょう?」とササが聞いた。
「ああ、そうじゃ。ターカウに行くには黒潮(くるす)を越えなくてはならんからな、いい風を待たなくてはならん」
「すると、与那覇勢頭(ゆなぱしず)様やアコーダティ勢頭様の子供もいるのではありませんか」
「ハハハハ」とクマラパは楽しそうに笑って、「その通りじゃ」と言った。
「アコーダティ勢頭が小舟(さぶに)に乗って、ドゥナン島に行ったのは十八の時じゃった。島の娘たちにもてて、ミャーク(宮古島)に帰るのはやめようかと悩んだそうじゃ。アコーダティ勢頭の娘もいるし、野崎按司(ぬざきあず)の娘も、与那覇勢頭の娘もいるよ。そういえば、平久保按司(ぺーくばーず)の娘もいたな」
「娘ばかりで、息子はいないのですか」
「息子もおるよ。与那覇勢頭の息子とウプラタス按司の息子もおったのう」
「まったく、男っていやねえ」と安須森ヌルが冷たい目をしてクマラパを見た。
琉球に行ったドゥナン島の女按司(みどぅんあず)が、帰って来てから子供を産みませんでしたか」とササは聞いた。
「サンアイ村のユミじゃろう。ユミは琉球から帰って来てから娘を産んでいる。ナーシルという可愛い娘じゃ」
「ナーシル?」と安須森ヌルとササが同時に言って、顔を見合わせて溜め息をついた。
「サジルー叔父さんだわ」とササが言った。
 武芸ばかりに熱中していて、女なんて眼中にないといった叔父の苗代大親(なーしるうふや)が、ドゥナン島の女按司と結ばれて、娘が生まれたなんて信じられなかった。叔父はきっと知らないのに違いない。苗代大親の娘のマカマドゥには絶対に内緒にしなければならないとササは思った。
「なに、ナーシルの父親は、そなたたちの叔父なのか」とクマラパが驚いた。
「タキドゥン様がドゥナン島に行ったら驚く事があると言って笑っていたのです。叔父は苗代大親といって中山王(ちゅうさんおう)の弟で、サムレーたちの総大将を務めています」とササが説明した。
「ユミもいい相手を見つけたようじゃのう。わしがウプラタス按司と一緒に、初めてドゥナン島に行った時、ユミは九歳じゃった。サンアイ村のツカサの娘で、父親は倭寇(わこう)だったという。倭寇といっても、ドゥナン島を襲ったわけではなく、船を修理するために、しばらく滞在していたらしい。その時、ツカサと仲よくなって、ユミが生まれたんじゃよ」
「その倭寇はターカウの倭寇ですか」
「いや。その時はまだ、キクチ殿は来ておらん。ムラカミとかいう倭寇らしい。その倭寇からツカサは弓をもらったんじゃ。その弓は家宝として大事に飾ってある。そして、生まれてきた娘にユミという名をつけたんじゃよ」
「村上という倭寇だったのですか」とササが聞いた。
「ムラカミという倭寇を知っているのかね」
「ヤマトゥの瀬戸内海に村上水軍という海賊がいます。村上水軍南北朝(なんぼくちょう)の戦(いくさ)の時、九州で南朝のために活躍したと聞いています」
 もしかしたら、あやのお祖父(じい)さんがドゥナン島に行ったのかしらとササは思った。
「ほう。子孫は海賊をやっているのか」と言ってクマラパは笑った。
「ユミはわしの弟子なんじゃよ。ムラカミという父親も武芸が達者だったようじゃ。ユミも武芸の才能があった。スタタンのボウより一つ年下で、わしがボウをドゥナン島に連れて行った時には、お互いに負けるものかと稽古に励んでおった。二人は仲よくなって、その時、ユミも一緒にターカウまで行ったんじゃよ。ドゥナン島しか知らなかったユミは、ターカウの賑わいに驚いておったわ。大勢のヤマトゥンチュ(日本人)を見て、父親の面影を探しているようじゃった。キクチ殿もムラカミという倭寇を知っていた。ムラカミナガト(村上義弘)という凄い大将がいたと言っていた。将軍宮(しょうぐんのみや)様(懐良親王(かねよししんのう))を九州にお連れしたのも、ムラカミナガトだったと言っておったのう。丁度、キクチ殿が九州からターカウに行った頃、ムラカミナガトは行方知れずになってしまったらしい。嵐に遭って遭難したのか、明国(みんこく)の官軍にやられたのかわからんと言っていた。年齢からいって、ムラカミナガトの息子がユミの父親かもしれんとキクチ殿は言っていた。ユミは美人(ちゅらー)なんだが、男運に恵まれなかったんじゃ。ツカサの娘であるユミに言い寄る度胸のある男がいなかったんじゃよ。平久保按司は言い寄ったようだが、ユミに嫌われたようじゃ。ユミは三十歳になってしまい、琉球への旅に出た。心の中で、いい相手に巡り会える事を祈っていたんじゃろう。そして、苗代大親に出会えたんじゃ。たった一度の出会いだったが、琉球から帰って来たユミは幸せそうじゃった。念願の跡継ぎの娘、ナーシルも生まれた。ナーシルは母親から武芸を習って強くなった。五年前、わしがタマミガを連れてターカウに行った時、ナーシルも一緒に行ったんじゃよ。トンドも一緒じゃった。ナーシルが一番年下なんじゃが、一番、体格がよかったのう」
「ユミさんの娘のナーシルは、あたしたちの従妹(いとこ)になるわけね」と安須森ヌルが言った。
「もしかしたら、ササと同い年じゃないかしら」
「えっ、本当なの?」
「だって、ドゥナンの女按司が来たのはササが生まれる前の年だったのよ」
 ササは突然、旅立つ前に母が言った事を思い出した。
「昔、ササが生まれる前、馬天浜(ばてぃんはま)に南の島(ふぇーぬしま)からやって来た人たちが来たのよ。ミャークじゃなくて、別の島の人だったわ。何という島だったのか忘れたけど、ユミという名のヌルと親しくなったの。縁が会ったら会えるわね。もし、会ったらよろしく伝えてね」と母は言った。
 どこの島の人かもわからないヌルに会えるなんて思わなかったので、ササは聞き流していたが、もしかしたら、ユミと苗代大親を会わせたのは母ではないのかと疑った。
「サジルー叔父さんの娘って、どんな人かしら? 会うのが楽しみだわね」とササは言った。
 自分と同い年なら、マカマドゥのお姉さんになる。もし、マカマドゥよりも弱かったら、従妹として認めないとササは密かに思った。
「まさか、南の島に従妹がいるなんて‥‥‥」と言って安須森ヌルは首を振った。
「もう一つ、驚く事があるぞ」とクマラパは言った。
「えっ、何です?」とササは聞いたが、クマラパは笑っているだけで教えてくれなかった。
「行ってからのお楽しみじゃ」
 ササと安須森ヌルは顔を見合わせて、何だろうと考えた。二人はもしかして、サハチの娘がいるのかもしれないと疑った。ドゥナンの女按司琉球に行ったのは、サハチの長男のサグルーが生まれた年だった。ドゥナンの女按司は娘を産んだので、その後は行けなかっただろうが、代わりに誰かが行ったはずだ。その女とサハチが結ばれたのかもしれないと二人は疑って、舌を鳴らした。
 船は東風(くち)を受けて順調に進んでいるのに、前方に見えるドゥナン島はなかなか近づいて来なかった。
 若ヌルたちが笛の稽古を始めた。玻名(はな)グスクヌルも笛を吹いていたので、不思議に思って安須森ヌルが聞くと、クマラパから作り方を教わって自分で作ったと言った。
「安須森ヌル様とササ様の笛に感動して、わたしもやってみたくなったのです」
「そう、頑張ってね。あなたならできるわよ」
「頑張ります」と玻名グスクヌルは嬉しそうに笑った。
 クマラパに、笛も作れるのかと聞いたら、
「わしは見よう見真似で、船を造ったんじゃよ。笛などわけない事じゃ」と笑った。
「実はわしも笛が吹きたくなってな」と言って、懐(ふところ)から笛を出して吹き始めた。
 音程が少し狂っているような気がしたが、明国風な曲をクマラパは吹いた。
「まだまだ稽古中じゃよ」と途中でやめて、照れ臭そうに笑った。
 クマラパの吹く曲を聴いて、安須森ヌルもササもヂャンサンフォン(張三豊)が吹いていた曲を思い出した。琉球に帰っても、あの曲はもう聴けないと思うと、急に悲しくなってきた。
 タマミガも女子(いなぐ)サムレーのミーカナとアヤーも、自分で作った笛を出して吹き始めた。みんながそれぞれ勝手に吹いているので、ピーピーとやかましいが、安須森ヌルもササも笑いながら眺めていた。
 ドゥナン島が近くに見えて来た時、突然、船が揺れだした。若ヌルたちは慌てて船室に逃げ込んだ。
 大きな揺れは半時(はんとき)(一時間)ほど続いて、穏やかな波になったが、風は強かった。
 目の前に見えるドゥナン島は険しい崖に囲まれていた。東側に飛び出た東崎(あんあいさてぃ)の北側を進んだ。崖の下に小さな砂浜も所々にあるが、上陸するのは難しそうだった。崖の上に見張り台のような物があって人影が見えた。
 延々と崖が続いていて、崖が途切れたと思ったら岩場が続いた。小さな島があって、その先が少し窪んでいて、白い砂浜が見えた。
「あそこがナンタ浜じゃよ」とクマラパが言った。
 先程の崖の上にいた見張りの者が知らせたのか、ナンタ浜に数人の人影が見えた。ムカラーの指示で、珊瑚礁に気をつけながら、小島の裏側に回って、そこに船を泊め、いつものようにササたちが小舟に乗ってナンタ浜を目指した。
 ナンタ浜の右側には川があるようだった。ナンタ浜の向こうは鬱蒼(うっそう)とした森があり、その後ろに大きな崖があった。この島は崖に囲まれた大きなグスクのようだとササは感じていた。
 小舟が砂浜に近づくと、「お師匠!」と叫びながら女が近づいて来た。ヌルでもなく、女子サムレーでもなく、普通の着物を着た女だが、なぜか、五尺(約一五〇センチ)ほどの槍(やり)を持っていた。
「イヤ(お父様)」と叫びながら近づいて来る女もいた。
「クンダギのツカサさんが、お師匠が琉球のお姫様を連れて、この島に来ると知らせてくれました」と女が琉球の言葉で言った。
 身なりは質素だが、女按司という貫禄があった。そして、クマラパが言ったように美人だった。
スサノオの神様からも、あなたたちの事は聞いています。ようこそ、ドゥナン島(ちま)へ」
スサノオの神様はこの島にもいらっしゃったのですね?」とササは聞いた。
「はい。驚きました。『ユウナ姫様』も驚いて、島のツカサたちを集めて、『ウラブダギ(宇良部岳)』の山頂で歓迎の宴(うたげ)を開いたのです。スサノオの神様はとても感激してくれました」
 ユウナ姫はイリウムトゥ姫の娘で、この島に来たのだった。ユウナ(オオハマボウ)の花が一面に咲いていたこの島は、当時、ユウナ島と呼ばれていたという。
 小舟から下りて上陸すると、ユミの隣りにいる娘を見て、「ナーシルじゃよ」とクマラパがササたちに教えた。
「お久し振りです」とナーシルはクマラパに頭を下げた。
 母親と同じように槍を持っているナーシルは、背が高くて体格もよくて、顔付きは何となく、苗代大親の面影があるような気がした。
「この二人は苗代大親の姪なんじゃよ」とクマラパがユミに言ったら、ユミは驚いた顔をして、ササと安須森ヌルを見た。
「ササは馬天ヌルの娘で、安須森ヌルはサグルーの娘なんじゃ。今は苗代大親の兄のサグルーが琉球の中山王になっている」
「何ですって!」
 ユミは驚きのあまり、ポカンとしてササと安須森ヌルを見ていた。
「ちょっと待って下さい」と言って、ユミは頭の中を整理していた。
「馬天ヌル様にはとてもお世話になりました。あなたが馬天ヌル様の娘さんなのですね。すると、お父様はヒューガ様ですね」
「えっ、父を知っているのですか」
「馬天ヌル様に連れられて会った事があります」
「そうだったのですか」
 ユミは安須森ヌルを見て、
「あなたは佐敷按司様の娘さんなのですね」と聞いた。
 安須森ヌルはうなづいて、「当時は佐敷ヌルでした」と言った。
 ユミは納得したようにうなづいて、
「そして、今は佐敷按司様が中山王になったのですね?」と聞いた。
 ササと安須森ヌルはうなづいた。
スサノオの神様は、琉球から凄いヌルがやって来るとおっしゃいました。わしがこの島に来られたのも、そのヌルのお陰じゃと言いました。わたしはそんな偉いヌル様をどうお迎えしたらいいのだろうと悩みました。そして、クンダギのツカサから琉球のお姫様が行くと知らされて、わたしは混乱しました。お姫様とその凄いヌル様は別行動を取っているのかもしれないと思いましたが、お姫様と凄いヌル様というのは同じ人だったのですね」
 ユミは改めて、ササと安須森ヌルを見つめ、
スサノオの神様を連れて来ていただき、ありがとうございました」とお礼を言った。
 そばで話を聞いていたナーシルは、
「わたしの従姉なのですか」とササと安須森ヌルに聞いた。
 二人がうなづくと、ナーシルは嬉しそうに笑った。その笑顔を見た時、ササも安須森ヌルも従妹に間違いないと思った。滅多に笑わない叔父の苗代大親が笑った時の笑顔にそっくりだった。
 クマラパは娘と息子との再会を喜んでいた。娘はラッパといい、ドゥナンバラ村の若ツカサで、その兄のクマンはドゥナンバラ村のサムレー大将だった。
 ダティグ村の若ツカサのアックも来ていて、アックはアコーダティ勢頭の娘だった。崖の上の見張り台でササたちの船を見ていたのは、ダティグ村のサムレーで、すぐにユミに知らせたのだった。
 ササは不思議に思って、どうして、みんな、槍を持っているのかナーシルに聞いた。
「敵が来たら、これを投げて敵を倒します」とナーシルは言った。
「えっ、槍を投げるの?」
「敵は一発で死にます」
「そうなの」と言って、ササは槍の穂先を見た。
 鋭い鉄の刃が付いていた。
 ナーシルが海と反対側の森を見て、大きな木を指差した。そして、槍を構えて素早く投げると、槍は真っ直ぐに飛んで行って、ナーシルが示した木に刺さった。あれが人だったら間違いなく死ぬだろうとササたちは思った。
「この島の者たちは皆、身に付けています」とナーシルは言った。
「ナーシル、武当拳(ウーダンけん)は身に付けたかね?」とクマラパが聞いた。
 ナーシルはうなづいて、
「祖父からみっちり仕込まれました」と言った。
 ササたちは驚いた。どうして、この島に武当拳があるのか、さっぱりわからなかった。
「驚く事とは、この事じゃよ」とクマラパは笑った。
「ユミの母親は倭寇のムラカミと結ばれてユミを産んだあと、ウプラタス按司が連れて来た武当山(ウーダンシャン)の道士、ウーニン(呉寧)と結ばれたんじゃ。ウーニンはこの島に住み着いて、島の者たちに武当拳を教えたんじゃよ。さっきの槍投げの指導をしたのも、ウーニンなんじゃ」
「その道士はヂャンサンフォン(張三豊)様の弟子だったのですか」
「直接の弟子ではないようじゃ。その道士の師匠はヂャンサンフォン殿の弟子のフーシュ(胡旭)という道士だったそうじゃ」
 フーシュという名前は、ササも安須森ヌルもヂャンサンフォンから聞いていた。
 ササはナーシルを見ると、
「行くわよ」と言って、武当拳で掛かって行った。驚いたナーシルは武当拳でササの技を受け止めた。
 突然、武当拳の試合が始まったので、皆が二人を囲んだ。ササの実力がわかったのか、ナーシルは本気になって戦った。打っては受け、受けては打ち、蹴りが飛んで、それをよけるように飛び跳ねた。見事な技の掛け合いが続いて、皆が固唾(かたず)を呑んで見守っていた。ナーシルがササの右拳を払って、右足で蹴りを入れようとした時、ササの左掌がナーシルの胸を突いた。しかし、その掌は胸に当たる一寸前で止まった。
「参りました」とナーシルが言って、ササに頭を下げた。
「素晴らしいわ」とユミが言った。
「この娘(こ)、今まで誰にも負けた事がなかったの。このまま行ったら進歩しなくなるって心配していたのよ。まさか、この娘より強い人がいたなんて、信じられないわ」
 ササは笑って、
「わたしよりも、シンシン(杏杏)はもっと強いわ」と言った。
「わたしはササ、よろしくね」とササはナーシルに手を差し出した。
「ナーシルです」と言ってナーシルはササの手を握りしめた。
琉球の人がどうして、武当拳を身に付けているのですか」とユミが聞いた。
「ヂャンサンフォン様は今、琉球にいるのです。琉球にはヂャンサンフォン様の弟子が大勢います。中山王もヂャンサンフォン様の弟子なのです。ところで、あなたのお祖父(じい)様は健在なの?」
 ナーシルは首を振って、「六年前に亡くなりました」と言った。
「祖父からもっと教わりたい事があったのですが、残念です。祖父が亡くなってから、疑問を正してくれる人がいなくなってしまいました。わたしに御指導お願いします」
「それはシンシンに頼んで。シンシンは幼い頃からヂャンサンフォン様の弟子だったから、あなたの疑問に答えられると思うわ」
「日が暮れないうちに帰りましょう」とユミが言った。
 ササたちが話をしているうちに、ユミが出してくれた小舟に乗って、愛洲ジルーたち、玻名グスクヌルと若ヌルたち、ミッチェとサユイも上陸していた。
 ナンタ浜の西側にあるタバル川に沿って上流に向かった。この辺りは湿地帯だった。川が狭くなった所に丸太の橋が架かっていて、それを渡って対岸に行き、密林の中の細い坂道を登って行った。途中から崖に沿った細い道を登った。
 大きな岩が庇(ひさし)のようにせり出した窪みに出て、突然、視界が開けた。ナンタ浜が見下ろせて、島の近くに浮かぶジルーの船も見えた。
「いい眺めね」とナナが言って笑った。
 若ヌルたちが来てキャーキャー騒いだ。
 青い海があって、真っ白なナンタ浜があって、その奥は緑の密林が広がっていた。密林の中に沼があった。密林の向こうには船の上から見た東崎が見えた。
「ここは『ティンダハナタ』というの。ここに見張りをおいて、あなたたちが来るのを待っていたのよ」とナーシルが言った。
「そうだったの。見張りの人に迷惑をかけたわね」とササが言うとナーシルは笑った。
「見張りをしていたのは子供たちよ。ここで遊びながら見張りをしていたの。気にする事はないわ」
 ティンダハナタにはおいしい水が湧き出ている岩場があった。こんな高い所にどうして水が湧き出しているのか不思議だった。その水は日照りの時も枯れた事がないという。
 来た道を戻って、途中から山道を登って行くと『サンアイ村』に着いた。
 大きなガジュマルの木がある広場から形のいい山が見えた。
「あれがウラブダギよ」とナーシルが言った。
「ユウナ姫様はあの山にいらっしゃるわ。あの山の東の方(あがりかた)に『ドゥナンバラ村』があるの。この島で一番古い村なのよ。そして、このサンアイ村は一番新しい村なの。ガジュマルの事をこの島ではサンアイって呼ぶの。この辺りにはサンアイの木がいっぱいあったらしいわ」
 広場を囲んで、奇妙な形をした家がいくつも建っていた。その家の古さからいって、新しい村と言っても、それは最近の事ではないようだった。
「いつ、この村はできたの?」とササは聞いた。
「五十年近く前よ。母が八歳の時、西の方(いりかた)にあったダンア村からここに移って来て、村造りをしたの。この村の隣りにブシキ村という古い村があって、祖母の父親はブシキ村のツカサの息子だったらしいわ。ブシキ村のツカサは跡継ぎに恵まれなくて、ブシキ村とダンア村は一つになって、サンアイ村が生まれたの。祖母がサンアイ村の初代のツカサになったのよ」
 広場の南側に新しい家が何軒も建っていた。
「あなたたちのために建てたのよ」とナーシルは言った。
 ササたちは新しい家に入って一休みした。屋根の後方が地面につきそうなくらい長くて、壁と床は竹でできていた。
 新しい家は四軒あったので、ササ、安須森ヌル、シンシン、ナナが一軒に入って、玻名グスクヌルと五人の若ヌルたちが一緒に入り、タマミガ、ミッチェ、サユイと女子サムレーのミーカナとアヤーが一緒に入り、クマラパとガンジュー(願成坊)、愛洲ジルーたちが一軒に入った。
「今晩、広場で歓迎の宴があるわ。用意ができたら呼びに来るから、それまで待っていてね」と言って、ナーシルは広場の方に帰って行った。
「楽しそうな島ね」とナナが背負ってきた荷物を下ろしながら言った。
「明日、ウラブダギに登って、ユウナ姫様に御挨拶して、そのあと、島を巡ってみましょう」
 ササが言うとみんながうなづいて、
「ナーシルはいい娘だったわね」と安須森ヌルが笑った。
「ナーシルの事はマカマドゥには内緒にしようと思ったけど、教えた方がいいかしら?」とササがみんなの顔を見た。
「教えたら会いたくなるわよ」と安須森ヌルが言った。
「マウシと一緒に来ればいいわ」とササは言ったが、
「マカマドゥは二人も子供がいるのよ。無理だわ」とシンシンが言った。
「そうか。幼い子供を連れては来られないわね。やっぱり、内緒にしておいた方がいいわね」
「ねえ、サジルー叔父さんには教えるの?」と安須森ヌルがササに聞いた。
「どうしよう?」
「サジルー叔父さんの唯一の弱みだから、何か叔父さんに頼みがある時に使いましょうよ」
「それがいいわね」とササは笑った。
「お兄さんにも言っちゃだめよ」
「そうね。若ヌルたちにも口止めしなくちゃね」
 ナーシルが呼びに来て、広場に行くと、村の人たちが大勢、集まっていた。ツカサたちが琉球の言葉をしゃべったので、この島は言葉が通じると思っていたが、村人(しまんちゅ)たちがしゃべっている言葉は、まったくわからなかった。
 ササたちは拍手で迎えられて、上座にいる長老たちに紹介された。挨拶が済むと、指定された所に座って酒盛りが始まった。出されたお酒はヤマトゥのお酒だった。ターカウから仕入れたようだ。料理も贅沢なものだった。新鮮な魚介類は勿論の事、猪(やましし)の肉や海亀の肉、ザン(ジュゴン)の肉もあった。
 篝火(かがりび)が焚かれて明るい広場の中央では、娘たちの歌と踊りが披露された。若者たちの武当拳套路(タオルー)(形の稽古)も披露された。ササたちが武当拳の名人だという事はすでに村人たちの間に広まっていて、武当拳を披露してくれと頼まれた。シンシンとナナが模範試合をして、皆から喝采を浴びた。安須森ヌルの笛に合わせて、ミーカナとアヤーが琉球の踊りを披露して、皆に喜ばれた。まるで、お祭りのようで楽しかった。
 宴は一時ほどでお開きになって、村人たちは散って行った。ササたちも引き上げようとしたら、ユミに引き留められた。
 安須森ヌルとササはユミの家に呼ばれた。ツカサの家もみんなと同じ小さな家だった。
「この島は変わったわ」とユミは言った。
「外の事なんて何も知らなかった島人が、スーファン(蘇歓)が来てから、色々な事を知るようになったの」
「スーファンて明国の人ですか」とササは聞いた。
「そうよ、唐人(とーんちゅ)よ。ミャークと交易をしていて、ミャークの行き帰りに、この島に寄ったのよ。初めて来たのは、わたしが生まれる前だったわ。わたしが六歳の時、その人はミャークに住み着いて、按司になったのよ」
「もしかして、その人、ウプラタス按司の事ですか」
「そうよ。ミャークに住み着いてからは一度、クマラパ様と一緒に来たけど、そのあとは来なくなってしまったわ。スーファンはダンヌ村のツカサと仲よくなって、今のダンヌ村のツカサの父親はスーファンなのよ。ダンヌ村はスーファンから色々な物を贈られて豊かになったわ。スーファンは一年おきにやって来たけど、みんながスーファンが来るのを首を長くして待っていたのよ。スーファンが来なくなって、島は昔のように静かになったわ。そして、わたしが十三歳の時、ナックが来たのよ。今はアコーダティ勢頭って呼ばれているわね。当時は若かったわ。ナックは丸木舟(くいふに)でミャークからやって来たのよ。それは衝撃だったわ。スーファンのような大きなお船でなければ、ミャークに行けないと思っていたのに、ナックは丸木舟でやって来た。島のウミンチュ(漁師)たちがナックを真似して、クン島やイシャナギ島(石垣島)に行くようになったのよ。そして、三年後、ナックはクマラパ様と一緒に大きなお船でやって来て、ターカウに行ったわ。ミャークとターカウの交易が始まって、ミャークのお船が立ち寄るようになって、今の状況になったのよ。今まで食べる分だけを捕っていたウミンチュたちは、欲しい物と交換できるザンや海亀を捕るのに夢中になったわ。牛の肉は食べないけど、牛の肉が取り引きに使える事がわかると牛を殺して、肉を塩漬けにする人も現れたのよ。鉄の斧(おの)や鉄の鍋も手に入って、ヤマトゥのおいしいお酒も手に入って、生活は豊かになったけど、島の人たちに落ち着きがなくなってきたような気がするわ。男だけじゃなくて、女たちもそうなのよ。ミャークから来た船乗りたちと仲よくなれば、欲しい物が手に入るって、みんな、着飾って、よそ者の男たちを待っているのよ。それはツカサたちにも言えるわ。この島のツカサたちの娘はみんな、船頭(しんどぅー)(船長)たちの娘なのよ」
「ユミさんはこの島の按司なのですよね?」と安須森ヌルは聞いた。
 ユミは笑って、「この島には按司はいないわ」と言った。
琉球に行った時、この島の代表として按司を名乗ったけど、按司を名乗ったのはその時だけよ。この島には六つの村があるけど、どの村のツカサが一番偉いという事はないの。島全体に関わる事は六人のツカサが集まって決めるのよ。わたしが最初に琉球に行ったのは、切羽詰まった理由があったからなの。その念願はかなって、二度目の時はドゥナンバル村のツカサ、三度目はダティグ村のツカサ、四度目はダンヌ村のツカサが行って、次はクブラ村のツカサの番だったんだけど、琉球行きは中止になってしまって、クブラ村とナウンニ村のツカサは琉球に行けなかったのよ」
「切羽詰まった理由というのは跡継ぎの事ですね?」とササは聞いた。
 ユミはうなづいた。
「跡継ぎを産まなければ、ツカサを継げないわ。妹のムーに譲らなくてはならなくなるの。わたしは最後の頼みを琉球旅に託したのよ」
「叔父とはどこで出会ったのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「佐敷の武術道場よ。馬天ヌル様と一緒にヒューガ様のおうちを訪ねる途中、武術道場を覗いたら、物凄く強い人がいて、馬天ヌル様に、あの人を紹介してって頼んだら、あれはわたしの弟で、妻も子供もいるからだめよって言われたの。でも、わたしは諦めなかったわ。あの人しかいないって心に決めて、わたしの事情を説明したの。馬天ヌル様もわたしの気持ちはよくわかるって言ったわ。馬天ヌル様も三十を過ぎてもマレビト神に出会えない事に悩んでいたって言ったわ。そして、わたしを苗代大親様と会わせてくれたのよ」
 あの頃、叔父が美里之子(んざとぅぬしぃ)の武術道場で師範を務めていたのを安須森ヌルは思い出していた。美里之子が大(うふ)グスクの戦で戦死してしまって、まだ若かった跡継ぎの長男を助けて、若い者たちを鍛えていたのだった。
「やっぱり、母だったんですね」とササが言った。
「叔父とは武術道場で会ったのですか」と安須森ヌルは聞いた。
 ユミは首を振った。
「その日はヒューガ様のおうちに泊めてもらって、次の朝、山の中のお稽古場で会ったのよ」
「ヒューガさんのおうちの隣りが叔父のおうちだって知っていました?」
「えっ、そうだったの。それは知らなかったわ」
「山の中のお稽古場で出会って、どうなったのですか」
「あの時の事は今でも夢のようだわ」とユミはうっとりとした顔をした。
「苗代大親様はわたしをじっと見つめたわ。わたしも苗代大親様をじっと見つめたの。何も話さなくても目を見ただけで、すべてがわかったような気がしたわ。わたしたちはお稽古場にあった小屋の中で結ばれて、その後、苗代大親様は色々な所へ連れて行ってくれたのよ」
「色々な所ってどこですか」
「景色の綺麗な所だったわ。素敵な人に巡り会えたかと思うと、一緒にいるだけで、もうとても幸せだったわ」
「わかります」と安須森ヌルが言った。
「今回、娘も一緒に来ているんですけど、わたしも運命の人に出会った時は夢のような気分で、とても幸せでした」
「そう。あなたもそうだったのね」とユミは嬉しそうな顔をして笑った。
「わたしは馬天ヌル様の妹のマチルー様のおうちにお世話になっていたの。三人のお子さんがいたわ。みんな、大きくなったでしょうね」
 マチルー叔母さんまで関わっていたなんて、安須森ヌルもササも驚いていた。
「わたしたちは毎朝、山の中のお稽古場で会って、わたしは剣術を教わって、あの人に武当拳を教えたのよ」
「えっ、叔父さんはヂャンサンフォン様に会う前から武当拳を知っていたのですか?」
素手で戦う武芸があるなんて知らなかったって言って、真剣にお稽古をしていたわ」
「サジルー叔父さんはずっと隠していたのよ。武当拳の事を話すとユミさんの事も言わなければならなくなるので、知らない振りをしていたんだわ」とササが言った。
「サジルー叔父さんも役者だわねえ」と安須森ヌルは笑った。
「でも、わたしはサジルー叔父さんがユミさんと出会えてよかったと思っているわ。こんな遠く離れた島に従妹がいるなんて、本当に夢でも見ているような気分だわ。あたしたち、もしかしたら、ナーシルに会うために今回の旅を計画したのかもしれないわ。ナーシルを立派に育ててくれてありがとうございます」
 安須森ヌルは本心からユミにお礼を言った。

 

 

 

崎元 与那国クバ 60度 1.8L  [沖縄県]

2-170.ユーツンの滝(改訂決定稿)

 タキドゥン島(竹富島)から帰ったササ(運玉森ヌル)たちは、名蔵(のーら)に四日間滞在して、十月十五日、マッサビやブナシルに見送られて、クン島(西表島)を目指して船出した。ミッチェとサユイが一緒に行くと言って付いて来た。熊野山伏のガンジュー(願成坊)も付いてきた。
 ガンジューのお目当てはナナだと思っていたが、どうやらミッチェがお目当てらしい。サユイに聞いたら、ガンジューはミッチェに何度も振られていて、それでも諦めないという。
「お師匠(ミッチェ)がガンジューさんと会ったのはターカウ(台湾の高雄)なのです」
「えっ、ミッチェさんはターカウに行ったの?」とササは少し驚いて聞いた。
「何度も行っています。わたしもお師匠と一緒に行っています」
「そうだったの。ターカウには交易に行ったの?」
「そうです。母(マッサビ)は池間島(いきゃま)に材木を送って、大量のシビグァー(タカラガイ)を手に入れています。そのシビグァーを持ってターカウに行って、必要な物と交換するのです」
「シビグァーが取り引きに使えるの?」
「明国(みんこく)の海賊がシビグァーを欲しがっているようです。シャム(タイ)という国に持って行くと聞いています」
「成程ね」とササはうなづいて、ミッチェとガンジューの事を聞いた。
「ガンジューさんはお師匠に一目惚れしたんです。ターカウにいる間、ずっとお師匠に付きまとっていました。最初の頃、お師匠はガンジューさんの事を全然相手にしていなかったんですけど、何度も好きだと言われて、最近は少し意識しているみたいです。もしかしたら、うまくいくかもしれません」とサユイは笑った。
 ミッチェの性格から、自分よりも弱い男には興味がないようだが、たった一人でイシャナギ島(石垣島)までやって来たガンジューの行動力と勇気は、ミッチェの心を動かすかもしれないとササは思った。
 クマラパの話によるとクン(古見按司倭寇(わこう)で、ターカウにいるキクチ殿よりも早くにやって来た松浦党(まつらとう)だという。クン島に住み着いてからも倭寇として明国まで行って、海岸の村々を荒らし回っているらしい。この船の積み荷を狙って来るかもしれないので、充分に警戒した方がいいとクマラパは言った。
「クン按司琉球には行ったんでしょう?」とササはクマラパに聞いた。
「一度だけじゃよ。クン按司松浦党だから琉球の事は仲間から聞いて知っていて、どんな所だか見に行ったようじゃ。平久保按司(ぺーくばーず)と同じように、ヤマトゥ(日本)の都を知っているので、琉球に行っても驚く事もなく、明国の商品やヤマトゥの商品を手に入れるために、わざわざ琉球まで行く必要もないと一度だけでやめてしまったんじゃよ」
「今も倭寇をしているのですか」
「ターカウやトンド(マニラ)に行っているアコーダティ勢頭(しず)は、クン島に寄っても北部の上原(ういばる)に寄るので、クン(古見)の事はよくわからないらしい。しかし、上原の者たちの話だと、夏になるとヤマトゥ船が北に向かうのを見ているので、クン按司の船がヤマトゥか明国に行っているのだろうと言っていたそうじゃ」
「クン按司はターカウのキクチ殿とはつながりがあるのですか」と安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)が聞いた。
「わしは若い頃のクン按司に会った事があるんじゃよ。アコーダティ勢頭のために船を造って、明国に行こうとしていた時じゃ。ターカウでクン按司と会ったんじゃよ。その頃のわしはまだヤマトゥ言葉がよくわからず、ターカウにいた明国の海賊を通して話を聞いたんじゃが、クン按司もクン島に落ち着く前にターカウにいたらしい。クン按司が最初に来た頃のターカウは明国の海賊の拠点になっていたんじゃ。その時より七年前、わしはウプラタス按司と一緒にターカウに行ったんじゃが、その時にいたのがヂャンルーホー(張汝厚)とリンフー(林福)という海賊じゃった。多分、その海賊がいたんじゃろう。ヂャンルーホーとリンフーはクン按司がクン島に落ち着いた頃、チャンパ(ベトナム中部)まで攻めて行って、チャンパの水軍にやられたらしい。ターカウに残っていた一味も逃げて行って、そのあとにキクチ殿がやって来たというわけじゃ」
 安須森ヌルは、三姉妹の伯父がチャンパで戦死したとメイユー(美玉)から聞いた話を思い出した。伯父の名前までは覚えていないが、ヂャンという姓が同じなので、メイユーの伯父はターカウにいたのかもしれなかった。
「ヂャンという海賊ですが、ヂャンシーチォン(張士誠)の息子ではありませんか」と安須森ヌルはクマラパに聞いた。
 クマラパは驚いた顔をして安須森ヌルを見た。
「ヂャンシーチォンを知っているのかね?」
「ヂャンシーチォンの孫娘たちが今、琉球に来て交易をしています」
「そうじゃったのか。確かに、ヂャンルーホーはヂャンシーチォンの息子だと言っておった。わしは偽者じゃろうと思っていたんじゃが、本物だったのか」
「三姉妹の伯父さんがターカウにいたなんて驚きだわね」とササが言って、シンシン(杏杏)とナナも驚いた顔をして、うなづいていた。
「そう言えば、弟が舟山島で海賊をやっていると言っておった。その弟が三姉妹の父親というわけじゃな」
「そうです。三姉妹は舟山島で生まれています」と安須森ヌルは言って、「それで、クン按司は今もターカウに出入りしているのですか」と聞いた。
「今はどうだかわからんが、ヤマトゥで南北朝(なんぼくちょう)の戦(いくさ)をしていた頃は、キクチ殿と一緒に南朝のために働いていたようじゃ。明国で奪った食糧や財宝をヤマトゥまで持って行ったらしい」
松浦党南朝の水軍として活躍していたのですか」
「そうらしい。だが、将軍宮(しょうぐんのみや)様(懐良親王(かねよししんのう))が太宰府(だざいふ)を追い出されたあと、松浦党北朝に寝返ったようじゃ。クン按司は寝返る事を潔(いさぎよ)しとせず、仲間と別れて南の島にやって来たらしいのう」
「キクチ殿とも面識があったのですね?」
「詳しい事は知らんが、松浦党は独自の動きをしていて、キクチ殿は一緒に戦った事はなかったと言っていた。お互いに顔を見た事があるというほどの関係だったようじゃが、二人は語り合って、南朝のために共に戦おうと誓い合ったそうじゃ。当時は二人とも若かったから、北朝の奴らを九州から追い出して、再び、南朝の国を建てようと本気で思っていたとキクチ殿は言っていた。しかし、現実はそう甘くはなかったんじゃ。将軍宮様が亡くなってしまって、寝返る者たちも続出して、やがて、戦も終わってしまう。キクチ殿は明国の海賊たちと取り引きを始めて、ターカウは栄えて行った。クン按司も明国の海賊と取り引きをしているのかもしれんのう」
 安須森ヌルが、そうだったのかという顔をしてササを見た。
「クマラパ様はクンダギ(古見岳)に登った事がありますか」とササは聞いた。
 クマラパは首を振った。
「登ってみたいとは思っていたんじゃが、縁がなかったようじゃ」とクマラパは笑った。
 船は快適に走って、一時(いっとき)(二時間)余りでクン島が目の前に迫ってきた。クンママ島(小浜島)の北側を通って、青島(あうじま)(ウ離島)の近くまで来た時、ユンヌ姫の声が聞こえた。
「クン(古見)には行かない方がいいわ。クン按司が待ち構えているわよ」
「えっ、どういう事なの?」とササは驚いて聞いた。
「みんなを殺して、船を奪うつもりでいるわ」
「まさか?」とササが言うと、
「本当ですよ」とアキシノが言った。
「クンには『イリウムトゥ姫様』の子孫たちが暮らしていたんだけど、四十年前にクン按司がやって来て、みんなを追い出してしまったの。村(しま)の人たちはクンダギを越えて、ユーツン(高那)に逃げたのですよ」
 その事は名蔵按司(のーらあず)のブナシルから聞いていた。クン按司に会ってからユーツンに行くつもりだったが、危険な場所は避けた方がよさそうだ。
「ユーツンてどこなの?」とササはユンヌ姫に聞いた。
「島の北方(にしかた)よ。このまま真っ直ぐに行けばいいわ。ユーツン川の河口がユーツンよ。そこにもイリウムトゥ姫の子孫たちの村があるので、合流して一緒に暮らしているのよ」
「ユーツンからもクンダギに登れるのね?」
「登れるわ」
「クン按司が追って来ないかしら?」と安須森ヌルが心配した。
「大丈夫よ。大きな船はないわ。きっと、倭寇働きに行っているのよ。小舟(さぶに)しかないから追っては来ないわ」
 ササたちはユンヌ姫とアキシノにお礼を言ってユーツンに向かった。
 ユーツン川の河口まで半時(はんとき)(一時間)ほどで着いた。珊瑚礁に気をつけながら河口の近くまで行って、ササたちは小舟に乗って砂浜から上陸した。
 クンダギのツカサとユーツンのツカサが歓迎してくれた。二人とも若ツカサが一緒にいた。海に近い手前の村がクンから来た人たちの新しい村で、奥の方が古い村だった。ササたちはクンダギのツカサの屋敷で一休みして、ツカサからクンを追い出された時の事を聞いた。
 クンダギのツカサが八歳の年の夏、突然、ヤマトゥ船がやって来た。サムレーたちが上陸して来たが言葉が通じなかった。サムレーたちが続々やって来て刀を振り回し、文句を言った者は殺されてしまい、仕方なくクンダギを越えて、この村に逃げて来たという。
「母はお山を越えて、何度も様子を見に行ったけど、ヤマトゥンチュ(日本人)たちは腰を落ち着けてしまって、出て行く気配はなかったのです。今ではもう戻る事も諦めています」とツカサは力なく笑った。
「ひどい事をするわね」とササたちは怒っていた。
「クン按司のサムレーは何人いるのですか」とササは聞いた。
「来た当事は五十人くらいでした。サムレーたちの家族も一緒に来たので百人以上の人たちがいました。あれから四十年が経って、子供たちも大きくなったので、百人以上のサムレーがいると思います」
倭寇をしていたのなら戦死した者たちもいたのではありませんか」
「十年ほど前に按司の息子が戦死したという噂は聞きましたが、按司には三人の息子がいるそうですから、二人は今もいるでしょう」
 クン按司を追い出して、ツカサたちをクンに戻してやりたいが、ササたちの力で、クン按司と戦(いくさ)をするのは無理だった。
「今にきっと、バチが当たりますよ」とツカサは言った。
 ツカサが小舟を出してくれたので、愛洲(あいす)ジルーたち、玻名(はな)グスクヌルと若ヌルたち、ミーカナとアヤー、ミッチェとサユイ、ガンジューも上陸して来た。
 ツカサにクンダギに登りたいと言ったら、今から行ったら帰って来られなくなると言うので、明日、登る事にした。クンダギには二代目のウムトゥ姫の娘のイリウムトゥ姫がいるはずだった。挨拶に行かなければならなかった。
「ここには古いウタキ(御嶽)はありますか」とササは聞いた。
「イリウムトゥ姫様の孫娘のユーツン姫様のウタキがあります」
 ササたちは二人の若ツカサの案内で、若ヌルたちも連れてウタキに向かった。クンダギの若ツカサのリンも、ユーツンの若ツカサのユマもミッチェの武芸の弟子だった。二人とも十六歳の時に、イシャナギ島の名蔵に行って、二年間、ミッチェの指導を受けていた。リンはササと同い年で、ユマは四歳年下だった。二人は久し振りに師匠と会えたので喜び、ササたちが武芸の名人だと知ると御指導お願いしますと頭を下げた。
 リンがミッチェの弟子になったのは母親のミーパがブナシルの弟子だったからだった。生まれ故郷を奪われたミーパは、ヤマトゥンチュを倒すために強くならなければならないと思い、父と一緒にイシャナギ島に渡った。父はイシャナギ島のウミンチュ(漁師)で、父も仲間を助けられなかった事を悔やんで、武芸を身に付けたいと思っていた。富崎按司(ふさぎぃあず)が武芸の名人だと聞いた二人は富崎按司と会い、父は富崎按司から弓矢を習って、ミーパはブナシルから剣術を習ったという。
 古いウタキはユーツンの村の奥にあった。森というよりも密林の中にあって、日の光も差さず薄暗かった。大きな岩が中央にある広場の周りには太い木が何本も立っていて、それらに太いツルが巻き付いていた。一体、神様はどの木に降りて来るのか見当もつかなかった。
 ササたちは大岩の前にひざまづいてお祈りを捧げた。
 『ユーツン姫』の声が聞こえて、スサノオを連れて来てくれた事へのお礼を言った。
「クンダギにスサノオの神様がいらしたのですね?」とササが聞いた。
「そうなのよ。祖母(イリウムトゥ姫)が驚いて、娘や孫たちを集めて、歓迎の宴(うたげ)を開いたのよ。異国の神様もいらっしゃって、楽しい一時を過ごせたわ」
「この島にも異国の神様がいらっしゃるのですか」
「祖母がこの島に来る前は、南の国(ふぇーぬくに)から来た人たちが住んでいたのよ。クンに住んでいた人たちの神様は『クルマタ姫』という神様で、その神様も姿を現したのよ。肌の色が黒くて、裸同然の格好だったけど、美しい女神様だったわ。お酒を飲みながら、スサノオ様と楽しそうにお話をしていたわ。祖母と母はクルマタ姫様の言葉がわかるようだけど、わたしには何を言っているのかさっぱりわからなかったわ」
「今でもクルマタ姫様をお祀りしているのですか」
「クルマタ姫様のウタキはクンにあるユブ島(由布島)にあるわ。ツカサたちは行く事ができないので、お祈りをする事もできず、申しわけありませんと謝ったら、別に気にしている様子もなかったので安心したわ。スサノオ様と相談したら、ユーツンにクルマタ姫様のウタキを造ればいいとおっしゃったので、祖母と相談して、どこかに造ろうと思っているの」
 突然、若ヌルがキャーと悲鳴を上げた。ササが振り向くとマサキが騒いでいて、続いて、チチーも騒ぎ出した。
「大丈夫よ」と言って、リンが若ヌルたちを連れ出した。
 明日、クンダギに登る事を告げて、ササたちはユーツン姫と別れた。
「また新しい神様が現れたわね」と安須森ヌルがササに言った。
「クルマタ姫の神様はどこからいらしたのかしら?」
スサノオの神様なら知っているかもね」とシンシンが言った。
「明日、クンダギの頂上で笛を吹いたらいらっしゃるんじゃない」とナナが言った。
「駄目よ」と安須森ヌルは首を振った。
「そうよ。そう軽々しく呼ぶべきじゃないわ」とササも言った。
「そうよね。瀕死の重症だったものね。琉球に帰ってから聞いた方がいいわね」
 若ヌルたちがいたので、何を騒いでいたのか聞いたら、ヤマピス(山蛭)に血を吸われたと言った。
「薄暗い湿った所ならどこでもいるのよ」とリンは言った。
「クンダギにもいるから気をつけた方がいいわ」とリンが言ったら、若ヌルたちは、「やだあ」と騒いだ。
「それじゃあ、あんたたちは留守番よ」とササが言うと、また、「やだあ」と首を振った。
 ユーツンの村と新しい村の間に広場があって、そこで、ササたちの歓迎の宴をやるという。クマラパとジルーたちは早くも一杯やっていた。ガンジューも一緒にいて、何やらみんなに話していて、それを聞いたみんなが笑っていた。
 ササたちは女たちと一緒に宴の準備を手伝った。
 その夜、新鮮なアジケー(シャコガイ)の刺身を御馳走になって、ササたちはユーツンの人たちと楽しい一時を過ごした。南の国から来た人たちからずっと伝わっているのか、独特な太鼓の音に合わせて踊る踊りは見事だった。安須森ヌルはお芝居に使えるかもしれないと真剣な顔をして見入っていた。ミーカナとアヤーがササの笛に合わせて、琉球の舞を披露して、みんなに喜ばれた。
 翌日、朝早くから、ササたちはクンダギに登った。ユーツン川に沿った細い道を進んで、川幅が少し狭くなった所で、踏み石を渡って向こう側に行き、山の中へと入って行った。樹木(きぎ)が生い茂って薄暗い山の中は湿度が高く、十月の半ばだというのに蒸し暑かった。
 若ヌルたちはヤマピスを恐れて、辺りをキョロキョロ見ながら歩いていた。ヤマピス対策には海水を煮詰めた濃い塩水を持って来ていた。吸い付かれるとなかなか離れないヤマピスも濃い塩水を掛けるとポロリと落ちた。
 見た事もない奇妙な樹木が多く生い茂り、大きな岩に塞がれて、迂回しながら険しい山道を登って行った。沢に出て急に視界が開けたと思ったら、目の前に素晴らしい滝が現れた。
 ササたちはその美しい景色を前にして、言葉も出ないほどに感動した。
 滝は三段になっていて、水しぶきを上げながら落ちていた。
「いつもよりも水量が多くて見事だわね」とクンダギのツカサが言った。
 滝を眺めながら一休みした。若ヌルたちは大きなエビがいると言って騒いでいた。玻名グスクヌルが川の中に入って捕ろうとしたが失敗して、若ヌルたちに笑われていた。そんな玻名グスクヌルを見ながら、安須森ヌルは連れて来てよかったと思っていた。琉球に帰ったら、安須森を守るために一緒に働いてくれそうだった。
 また山の中に入って険しい岩をいくつもよじ登って滝の上に出た。そこからの眺めも最高だった。海に浮かんでいる愛洲ジルーの船が見えた。イシャナギ島のウムトゥダギ(於茂登岳)も見えた。空を見上げるとカンムリワシが気持ちよさそうに飛んでいた。
 ユーツン川に沿って半時ほど登り、左に曲がって、さらに半時ほど登るとクンダギの山頂に着いた。
 山頂には『熊野権現』の石の祠(ほこら)があったが、山竹(やまだき)(リュウキュウチク)に被われていた。ガンジューが腰に差していた鉈(なた)で山竹を刈り始めた。
 若ヌルたちは景色を眺めながら騒いでいた。
 イリウムトゥ姫のウタキは熊野権現から少し離れた所にあった。男たちは熊野権現でお祈りをして、女たちはイリウムトゥ姫のウタキでお祈りをした。
 『イリウムトゥ姫』はスサノオに会えたお礼を言ってから、クン島にようこそとササたちを歓迎した。
「イリウムトゥ姫様がこの島にいらした時、南の国から来た人たちが暮らしていたのですか」とササは聞いた。
「そうなのよ。わたしはこの島に来る前、メートゥリ、クバントゥ、アーカサの言葉を学んで来たんだけど、何の役にも立たなかったわ。この島にいた人たちはまったく別の言葉をしゃべっていたのよ」
「イシャナギ島に来た人たちとは別の国から来た人たちだったのですね」
「そうなのよ。言葉を覚えるのに苦労したわ。スサノオ様がいらした時、南の国から来た人たちの神様、クルマタ姫様も現れたのよ。わたしが通訳したんだけど、スサノオ様はクルマタ姫様の言っている事がわかるようだったわ。そして、クルマタ姫様もスサノオ様の言っている事がわかるような気がしたの。何だかよくわからないけど、二人は楽しそうにお話していたわ。それから何日かして、クルマタ姫様がこのお山に登って来たの。今まで、わたしがクルマタ姫様のウタキに御挨拶に行く事はあっても、クルマタ姫様が来る事はなかったわ。スサノオ様に会って、クルマタ姫様の気持ちが変わったみたい。不思議な事に、クルマタ姫様は琉球の言葉をしゃべったのよ。わたしたちはお酒を飲みながら語り合って、仲よくなったわ。近くにいながら、今まで語り合った事はなかったの。お互いに異国の人だと思って敬遠していたのかもしれないわ。スサノオ様のお陰で、その壁がなくなって、本当に仲よくなれたのよ。スサノオ様に二人して感謝したわ」
「クルマタ姫様がどこからいらしたのか知っているのですか」
「わたしにはよくわからないんだけど、トンドの国の南にカリマンタンボルネオ島)という島があって、その南にジャワという島があって、その東にクルマタ姫様の島があったらしいわ。でも、島が沈んでしまったので逃げて来たと言っていたわ」
「アマンの島もその辺にあって、沈んだようですけど、クルマタ姫様の島も沈んだのですか」
「そういえば、アマンの島の事も言っていたわ。アマンの島は交易が盛んで、クルマタの人たちもアマンの島に通っていたみたい。火山の島が噴火して、アマンの島が沈んでしまって、そのあと、クルマタの島も沈んでしまったみたいだわ。クルマタ姫様は島が沈む前に来た津波で、夫と娘を亡くしているの。夫と娘に会いたいって泣いていたから、帰って会ってくればって言ったら、帰り方がわからないって言ったの。今はもう島はないけど、故郷を念じれば帰る事ができるって教えてやったわ」
「クルマタ姫様は帰ったのですか」
「夫と娘に会えるかどうかわからないけど、帰って行ったわ」
「クルマタ姫様は南の国から来た人たちの御先祖様だったのですね」
「そうよ。クルマタの島の首長だったのよ。生き残った人たちを率いて、この島にやって来て、亡くなってからは神様になって、子孫たちを見守って来たのよ」
「子孫たちは多いのですか」
「わたしがこの島に来た時、大きな川の河口には必ず、クルマタ姫様の子孫たちが暮らしていたわ。わたしはその子孫と結ばれたのよ。そして、わたしたちの子供たちもクルマタ姫様の子孫たちと結ばれたわ。他の国から来た人たちもいたけど、今、この島にいるのはほとんどが、わたしとクルマタ姫様の子孫たちなのよ」
「クンにはヤマトゥンチュがいますが、ヤマトゥンチュと結ばれた子孫もいるのですか」
「クン按司は島の人と一緒になる事は許さないわ。でも、島の男と仲よくなって、クンから追い出された娘はいるし、島の女に子供を孕ませた男もいるわ。生まれた子供は女が育てて、クンに迎えられる事はないわ」
「女は追い出されて、男は追い出されないのですか」
「男は倭寇の戦力として必要なんでしょう。わたしは知らなかったんだけど、スサノオ様がお帰りになる前、豊玉姫(とよたまひめ)様を連れてクンに来たらしいわよ」
「えっ、どうして、スサノオ様と豊玉姫様がクンに来たのですか」
「クルマタ姫様が二人をお迎えして、クンにある神社に御案内したの。その神社には『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)』と『與止姫(よとひめ)様』が祀ってあるの。二人の神様はクン按司の御先祖様らしいわ。『八幡大菩薩』はスサノオ様の事で、『與止姫様』というのは豊玉姫様の事らしいのよ」
「えっ、クン按司の御先祖様がスサノオ様と豊玉姫様なのですか」
「ヤマトゥにも二人の子孫はいっぱいいるみたいね」
「でも、どうして、豊玉姫様が與止姫様なのですか」
スサノオの神様から直接聞いたのではなくて、クルマタ姫様から聞いた話なので、よくわからないんだけど、ある時、豊玉姫様の存在が消されてしまったらしいの。天皇の御先祖様のアマテラスのお母さんが、南の国から来た人だと具合が悪いので消されてしまったらしいのよ。豊玉姫様を祀っていた神社は、強制的にアマテラスを祀るように命じられたんだけど、松浦の人たちはトヨの字を逆さに読んで、ヨト姫にして、密かに豊玉姫様を祀っていたらしいわ」
豊玉姫様が消されたのは、きっと、伊勢の神宮ができた時だわ」とササは言って、安須森ヌルを見た。
 そうねというように安須森ヌルはうなづいて、
豊玉姫様はクン按司に何かを言ったのですか」と聞いた。
「クン按司の娘が巫女(みこ)として神社を守っていたので、その娘に告げたのよ。ここに住んでいた人たちは琉球から来たわたしたちの子孫なのよ。あなたたちもわたしたちの子孫なら、同族の者たちを追い出す事はやめて、仲よく暮らしなさいってね」
「それで、クン按司はどうなったのですか」
「その話をクルマタ姫様から聞いて、わたしも気になって様子を見に行ったの。何となく村の様子がおかしかったわ。みんな沈んだ顔付きで、長老たちが集まって何かを話していたけど、わたしもクルマタ姫様もヤマトゥの言葉はわからないので、何を話しているのかわからないけど、何かよくない事が起こった事は確かだと思うわ」
「よくない事って、倭寇に行った人たちがやられたのかしら?」とササが聞いた。
「そうかもしれないわね。クルマタ姫様の話だと、クン按司の息子たちが二隻の船に乗って出て行ったのが一昨年(おととし)の夏だったらしいわ。普通ならその年の暮れには帰って来るのに、まだ帰って来ていないらしいのよ」
「クン按司の船は二隻なのですか」
「三隻よ。もう一隻は毎年、ターカウに行っているらしいわ。倭寇で奪ってきた商品をターカウに持って行って取り引きしているみたい。その船は今年も十月の初めにターカウに行ったようだわ」
「奪ってきた商品もないのにですか」
「よくわからないけど、ターカウじゃなくて、トンドに行ったのかもしれないわね。ターカウで仕入れた商品を持って。とにかく、今は一隻の船しかないから、倭寇はできないわ」
「それで、あたしたちのお船を奪おうとしたのですね」とシンシンが言った。
「積み荷は勿論だけど、きっとお船が欲しかったのよ」
「そうね、きっと」とササはシンシンにうなづいた。
「クン村の長老たちの話を聞いてきたわ」とアキシノの声が聞こえた。
「クン按司の二人の息子は戦死したらしいわ。二隻の船は沈んで、全滅だったみたい。二人だけが生き残って、何とかターカウまで行って、ターカウにいたクン按司の船に乗って帰って来たようだわ。息子たちを失ったクン按司は打ちのめされて、もう倭寇の時代ではない。倭寇はやめて、同族の者たちを呼んで、一緒に暮らそうと言っているけど、反対している者もいるわ。残った一隻の船で、明国を攻めて船を奪い取ってくればいいと言っていたわ」
「今、クンにはサムレーは何人いるの?」
「今、村にいるのは二十人くらいかしら。トンドに行っているのが二十人くらいいるらしいわ。あとは女子供と年寄りたちよ」
「四十人なら何とかなりそうね」
「攻めるつもりなの?」と安須森ヌルがササに聞いた。
「そうじゃないわ。ユーツンにいるクンの男たちを鍛えるのよ。対等に付き合えるようにね」
「それはいい考えね。剣術を教えて、みんなに刀を持たせたらいいわ」
 クンに住んでいた人たちが、クンに戻れるように見守ってくださいとササたちはイリウムトゥ姫に頼んでお祈りを終えた。
 熊野権現の所に戻ると、男たちは機嫌よく酒盛りをやっていた。ササたちも持って来たお握りを広げて昼食にした。
「クン按司スサノオ様と豊玉姫様の子孫だったなんて驚いたわね」とナナがササに言った。
「あたしも驚いたけど、よく考えたら、二人の子孫はいっぱいいるはずだわ。天皇が二人の子孫だったら、天皇から分かれた源氏も平家も子孫だわ。将軍様も子孫だし、ジルーも源氏だから子孫なのよ」
「えっ、そうだったの?」とシンシンとナナがジルーを見た。
 ジルーは首を傾げた。
「熊野で生まれたガンジューも子孫かもしれないわね」とナナが言って、「早田(そうだ)氏はどうなのかしら?」とササに聞いた。
「早田氏が二人の子孫かどうかはわからないけど、水軍なんだから、アマンの人たちの子孫じゃないかしら。倭人(わじん)とか隼人(はやと)とか呼ばれていた人たちよ」
「あたしもそうかしら?」とシンシンが言った。
「アマンの人たちは唐にも行ったかもしれないわね」
「でも、あたしが生まれたのは海から離れた山に囲まれた村なのよ」
「そういえば、あたしたち明国に行っていなかったわね」とササが言った。
「旧港(ジゥガン)(パレンバン)やジャワに行く前に、明国に行った方がいいんじゃないの?」
武当山(ウーダンシャン)に行きたいわ」とナナが言うと、
「案内するわよ」とシンシンが言った。
「明国に行くのですか」とミッチェが驚いた顔をして聞いた。
「ミッチェさんとサユイも一緒に行きましょうよ」とササが誘った。
「わたしも行きたいわ」とタマミガが言った。
「ミッチェが行くなら俺も行かなくちゃならんな」とガンジューが言うと、
「あんたはいいのよ」とミッチェが冷たく言って、皆がガンジューを見て笑った。

 

 

 

泡盛 請福酒造 いりおもて(世界自然遺産応援ラベル) 30度 1800ml

2-169.タキドゥン島(改訂決定稿)

 スサノオは五日間も目覚める事なく寝込んでいたが、見事に快復して、豊玉姫(とよたまひめ)と一緒に琉球に帰って行った。
 ササ(運玉森ヌル)たちは『メートゥリオン(宮鳥御嶽)』と『クバントゥオン(小波本御嶽)』に行きたかったが、マッサビは許さなかった。スサノオが『ヤキー(マラリア)』を退治したといっても、まだ安全とは言えない。ヤキーを琉球に持って行くのは絶対に避けなければならなかった。
 ササたちも諦めて、クマラパと一緒にミッチェの父親の富崎按司(ふさぎぃあず)のガバネーと会っただけで、それより南へは行かなかった。クマラパがウムトゥダギ(於茂登岳)に登った四十四年前に、お世話になった先代の富崎按司は二十年前に亡くなっていた。その時、十二歳だったガバネーはクマラパの事を覚えていて歓迎してくれた。
 小舟(さぶに)に乗って『タキドゥン島(竹富島)』に行こうとしたら季節外れの台風がやって来て、海が荒れて行けなくなった。直撃ではなかったので被害もなく、愛洲(あいす)ジルーの船も無事だった。
 ササたちは名蔵(のーら)の娘たちに剣術や武当拳(ウーダンけん)を教えたりして過ごして、波が静まってからタキドゥン島に渡った。
 タキドゥン島は昔、マイヌシマ(前の島)と呼ばれていて、メートゥリ姫の娘がマイヌシマに渡って『マイヌ姫』を名乗ったという。マイヌ姫の子孫たちが静かに暮らしていた島に、三十年ほど前、琉球からサムレーがやって来た。島に上陸したサムレーたちは、島人(しまんちゅ)たちと会ったが言葉が通じなかった。身振り手振りで話をして、井戸が涸れてしまって困っている事を知ったサムレーは、島人のために井戸を掘った。島人たちに喜ばれて、島に住み着いて按司になったという。そのサムレーが琉球のどこから来たのか、名蔵按司(のーらあず)のブナシルも知らなかった。
 三十年前はササは生まれていないし、安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)は十歳前後だった。どうせ知らない人だろうが、近くまで来たのだから挨拶をしていこうと思っていた。
 いい天気で気持ちよかった。若ヌルたちはキャーキャー言いながら舟を漕いでいた。
 島の北側にある美崎浜(みしゃしはま)から上陸すると、タキドゥン按司のグスクはすぐ近くにあった。ミッチェはタキドゥン按司に会った事があるというので案内を頼んだ。
 タキドゥン按司が掘ったというウリカー(降り井戸)を挟んで、東側と西側に集落があった。東側が古いニシバル(北原)の集落で、西側がタキドゥン按司が造った新里(しんざとぅ)の集落だった。ニシバルは中央に道があって、道の両側に家々が並んでいる普通の集落だが、新里はミャーク(宮古島)の狩俣(かずまた)のように石垣で囲まれていた。
 御門(うじょう)には御門番はいなかった。ミッチェとサユイを先頭にササたちはグスクの中に入って行った。石垣の中は庭になっていて、奥の方に家が三軒建っていた。まるで、他人の屋敷に入ってしまったようだった。家の中から老人が出て来て、何事か言ったが意味がわからなかった。ミッチェが老人と話して、老人はササたちを見ると笑ってうなづいた。
「通ってもいいけど、多すぎるって言っているわ」とミッチェが言った。
 ササはクマラパと相談した。クマラパもこの島に来たのは初めてだったが、タキドゥン按司とは会った事があり、人柄も知っていて、大丈夫じゃろうと言った。
「何かあったら笛を吹け。神様が助けに来るじゃろう」と笑った。
 ササ、安須森ヌル、シンシン(杏杏)、ナナ、ミッチェの五人だけが先に行く事にして、あとの者たちはここで待っていてもらう事にした。
 屋敷の裏門から外に出ると、また石垣で囲まれた別の屋敷に入り、その屋敷の裏門を抜けるとまた別の屋敷に入った。この集落には道というものがなく、他人の屋敷を抜けて、目的の屋敷まで行かなければならなかった。裏門が二つある屋敷もあって、その家の人に聞かなければ、按司に会う事はできない。まるで、迷路の中を歩いているようだ。いくつもの屋敷を抜けて、ようやく、奥の方にある按司の屋敷にたどり着いた。
 按司は二代目だったが、琉球の言葉がしゃべれた。ミャークの与那覇勢頭(ゆなぱしず)の船に乗って、三回、琉球に行ったという。
「父が話がしたいと待っています」と按司は言った。
「異国に行けば、同郷の者に会いたくなるもんじゃよと父は笑って言いました。隠居した父の屋敷は隣りです。案内しますよ」
 按司の案内で石垣の向こう側にある屋敷に行くと、老人が庭の木の手入れをしていた。按司が老人に話し掛けると、老人は笑って、「ようやく、来てくれたか。歓迎するぞ」と琉球の言葉で言った。
 ササたちは屋敷に上がって、奥さんが出してくれたお茶を飲みながら老人の話を聞いた。部屋に水墨画の掛け軸が飾ってあって、その景色が何となく見た事があるような気がすると安須森ヌルは思っていた。
「そなたたちが琉球から来て、名蔵の女按司(みどぅんあず)の屋敷に滞在しているというのはウミンチュ(漁師)たちから聞いていたんじゃよ。噂では琉球の王様の娘たちだと言っておったが、本当に琉球の王様の娘なのかね」
「はい。わたしが娘で、ササは姪です」と安須森ヌルが答えた。
「察度(さとぅ)(先々代中山王)が亡くなって、倅が跡を継いだと聞いておるが、その倅の娘なのか」
 ササと安須森ヌルは今の琉球の状況を簡単に説明した。
「佐敷按司が中山王(ちゅうさんおう)を倒したじゃと?」
 信じられないと言った顔で、老人は二人を見ていた。
「あっ!」と安須森ヌルが叫んで、水墨画を指差した。
「馬天浜(ばてぃんはま)だわ」
 ササ、シンシン、ナナも驚いた顔をして水墨画を見て、「本当だわ」と言って老人を見た。
「どうして、馬天浜の絵が飾ってあるのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「わしの生まれ故郷(うまりじま)なんじゃよ」と老人は言って水墨画を見た。
「えっ!」とササたちはポカンとした顔で老人を見ていた。
 安須森ヌルは、もしかしたら会った事があるのかしらと思っていた。
「正確に言えば、馬天浜ではなくて、山の上にあるグスクがわしの故郷じゃった」
「えっ!」とササたちはまた驚いて、老人を見つめた。
「島添大里(しましいうふざとぅ)グスクが生まれ故郷なのですか」とササが聞いた。
 老人はうなづいた。
「それでは、佐敷按司も御存じなのですね?」
「わしが琉球を離れる時、佐敷按司なんていなかったんじゃよ。馬天浜には大(うふ)グスク按司の娘婿のサミガー大主(うふぬし)がヤマトゥ(日本)と交易をしていたんじゃ。この島に来てから十年後、ミャークの目黒盛(みぐらむい)が琉球に船を出すと聞いて、与那覇勢頭の船に乗って琉球に行ったんじゃ。そして、サミガー大主の倅が佐敷按司になって、島添大里按司になった八重瀬按司(えーじあじ)と敵対している事を知ったんじゃよ。大グスク按司も八重瀬按司に滅ぼされてしまったが、サミガー大主が無事だったんで、わしはよかったと喜んだんじゃ」
「佐敷按司の娘がわたしで、馬天ヌルの娘がササです」と安須森ヌルが言った。
「なに!」と今度は老人が驚いた顔をして、佐敷ヌルとササを見た。
「そうじゃったのか‥‥‥そなたたちはサミガー大主の孫じゃったのか」
 そう言って老人はうなづいて、「そういえば、そなたは若い頃の母親に似ておるのう」とササを見て言った。
「母を知っているのですか」とササは聞いた。
琉球にいた頃も会ったし、この島から琉球に行った時も会った。相変わらず、美人(ちゅらー)じゃったよ。台風で屋敷が壊れてしまったと言って、馬天ヌルはサミガー大主の屋敷にいたんじゃ。そういえば、サミガー大主は隠居して、次男に跡を譲ったと言っておったのう。帰る時に挨拶に行ったら、新居ができたと言って、引っ越しをしている最中じゃった」
 あの時に来ていたのかと安須森ヌルは、当時を思い出した。その年の前年、安須森ヌルは佐敷ヌルになって、佐敷グスクの東曲輪(あがりくるわ)の屋敷で暮らしていた。その頃の馬天ヌルはヒューガ(三好日向)の屋敷に出入りしていて、翌年、ササが生まれたのだった。祖父の屋敷の離れには、いつも他所(よそ)の国から来た旅人たちがいたので、特に気にも止めなかったのかもしれなかった。
「あなたは島添大里のサムレーだったのですか」と安須森ヌルは聞いた。
「サムレーかと聞かれれば、サムレーかもしれん。わしは水軍の大将じゃったからのう」
 そう言って老人は楽しそうに笑った。
「水軍の大将と言えば勇ましい武将を思い浮かべるじゃろうが、わしは海で戦(いくさ)などした事はない。わしは毎年、ヤンバル(沖縄本島北部)まで行って、木を伐り出しておったんじゃよ」
「船頭(しんどぅー)(船長)だったのですね?」とササが聞いた。
 老人はうなづいてから、
「だがのう、わしは島添大里按司の長男だったんじゃよ」と言った。
「えっ!」とササと安須森ヌルはまた驚いた。
 いつの頃の話なのか、二人にはよくわからなかった。
「わしの父親は察度に攻められて戦死したんじゃ。祖父も浦添(うらしい)の極楽寺で察度に殺されたんじゃよ。父が戦死した時、わしは二歳じゃった。十三歳だった姉が玉グスクから婿(むこ)を迎えて、その婿が島添大里按司を継いだんじゃ。側室だった母とわしはグスクを出で、城下で暮らすようになった。父親の事など何も知らないわしは、城下の子供たちと一緒に遊んで、馬天浜にもよく行ったんじゃよ。馬天浜にはヤマトゥンチュ(日本人)の船が来ている時もあって、船乗りたちは夏まで滞在していた。言葉はよくわからなかったが、わしは船乗りに憧れたんじゃ。いつの日か、ヤマトゥの国に行ってみたいと思っていたんじゃよ。十二歳になった時、母から父親の事を聞いて、按司の奥方が姉だと知らされたんじゃ。そして、グスクに入って、義兄の按司と対面したんじゃよ。その日から何もかもが変わってしまった。仲間と一緒に馬天浜に遊びに行く事もできなくなって、重臣たちの倅たちと一緒に、ヤマトゥンチュの禅僧から読み書きを習い始めたんじゃ。今まで『タキ(竹)』と呼び捨てだったのに、『タキドゥン(竹殿)』と呼ばれるようになったんじゃよ」
「タキドゥン島の『タキドゥン』はあなたの名前だったのですか」
「そうじゃよ。誰が呼び始めたのかは知らんが、この島は『タキドゥンの島』と呼ばれるようになったんじゃ。わしは『タキドゥン』と呼ばれるようになって、何となく窮屈な思いをしていたんじゃ。ただ一つの楽しみは絵を描く事じゃった。読み書きを教えてくれた禅僧から教わったんじゃよ。十六歳になった時、わしは子供の頃の夢を思い出して、船乗りになりたいと按司に言ったんじゃ。そしたら按司は、昔、馬天浜にミャークという南の島(ふぇーぬしま)の者たちが交易に来ていたと言ったんじゃ。お前は船乗りになって、いつの日か、ミャークという島に行って来いと言ったんじゃよ。わしは船乗りになって、ヤンバルに行く船に乗り込んだんじゃ。ミャークに行く事を夢見て、わしは毎年、ヤンバルまで行った。夏に行って冬に帰って来る生活を毎年、繰り返していたんじゃよ。三十歳になった時、船頭になれたんじゃ。いよいよ、ミャークに行こうと思ったんじゃが、ミャークがどこにあるのか、どうやったら行けるのか知っている者は誰もいなかったんじゃ。わしはミャークに行きたいと思いながらも、毎年、ヤンバルに行っていた。ヤンバルからの材木運びは、島添大里按司の財源になっていて、やめるわけにはいかなかったんじゃよ」
「ヤンバルの木を勝手に伐ったりして、今帰仁按司(なきじんあじ)は大丈夫だったのですか」と安須森ヌルが聞いた。
 タキドゥンは笑った。
今帰仁とは反対側じゃ。陸路はないし、今帰仁にはわかるまい。それに、わしらがヤンバルの木を伐っていたのは遙か昔からの事なんじゃよ」
「夢をかなえて、南の島に来たのは、何かきっかけがあったのですか」とササが聞いた。
「きっかけは按司の急死じゃよ。わしが船頭になってから三年目の春、義兄が急に亡くなってしまったんじゃ。そして、側室が産んだ長男と姉が産んだ次男が家督争いを始めたんじゃ。家臣たちも二つに分かれて争いを始めたんじゃよ。側室の実家の糸数按司(いちかじあじ)と、義兄の実家の玉グスク按司も争いに加わって来た。よくわからんが、八重瀬按司も首を突っ込んできた。もう、島添大里按司も終わりじゃとわしは思った。そして、わしの居場所はここにはないと思ったんじゃ。わしは家族と配下の者たちの家族を連れて、南の島を探すために船出をしたんじゃよ。まず、キラマ(慶良間)の島に行った。ウミンチュにミャークの事を聞いたら、昔、久米島(くみじま)からミャークに行った者がいたらしいという話を聞いたんじゃ。久米島に行って、ウミンチュに聞いたら、五十年も前に真謝(まーじゃ)の三兄弟がミャークに行ったが、今は行き方を知っている者はいないと言われた。ただ、南に行くサシバを追っていけば、どこか、南の島に着くだろうと言ったんじゃ。わしらはサシバが来るまで久米島で待っていたんじゃよ。七月頃、琉球から明国(みんこく)に帰る大きな船が久米島にやって来た。乗っていた島尻大里(しまじりうふざとぅ)のサムレーから、島添大里グスクが八重瀬按司に奪われて、跡継ぎの二人の兄弟も姉も、家臣たちも皆、殺されたと聞いたんじゃ」
「サスカサさんは生き残りました」とササが言った。
「サスカサ‥‥‥おう、姉の長女じゃな。幼い頃からシジ(霊力)の高い娘じゃった。そうか、生き延びたのか」
「今はわたしの兄が島添大里按司で、兄の娘がサスカサさんの指導で、サスカサを継ぎました」と安須森ヌルが言った。
「そうか。今も無事なんじゃな?」
「今は山グスクヌルを務めています」
 タキドゥンはよかったというようにうなづいた。
「そして、サシバのあとを追って来たのですね?」とササが聞いた。
「そうじゃ。ミャークではなくて、イシャナギ島(石垣島)に来てしまったが、この島に落ち着いたんじゃよ」
「井戸(かー)を掘ったと聞きましたが、井戸を掘る事もできるのですか」
「わしらは毎年、半年以上もヤンバルの山の中で暮らしていたんじゃよ。近くに川があればいいが、川がない場合もある。そんな時は地下の水脈を探して井戸を掘るんじゃ。長年の感で、土地の様子を見れば、どこに水脈があるのかわかるようになったんじゃよ。お陰で、島人たちに神様扱いされて参ったがのう。この島の人たちはいい人たちばかりだったんで、この島に落ち着く事に決めたんじゃ」
「この石垣で囲まれたグスクは、どうして造ったのですか」
「ミャークを襲った倭寇(わこう)から守るためじゃよ。それぞれの屋敷を石垣で囲ったら、こうなってしまったんじゃ」
「ウリカー(降り井戸)の向こう側の村(しま)はどうして石垣がないのですか」
「こっちが終わったら、向こうもやるつもりじゃった。しかし、ミャークの倭寇も全滅したと聞いて、やるのはやめたんじゃよ。この石垣は敵から守るのにはいいんじゃが、生活するにはまったく不便じゃ」
「確かに」とササたちは笑った。
「もし、敵が攻めて来たら、ニシバルの者たちはこっちに避難してくればいいんじゃよ。それにしても、サミガー大主の孫たちが、この島にやって来るとは驚いた。しかも、サミガー大主の倅と孫が、わしらの敵(かたき)の中山王を倒して、島添大里グスクも奪い返してくれたとはのう。まるで、夢でも見ているような気分じゃ。琉球を離れる時、サミガー大主に挨拶して行こうと思ったんじゃが、ウミンチュたちが武器を持って、サミガー大主の屋敷を守っていたんじゃよ。わしは船の上から別れを告げて、琉球を去ったんじゃ。十年後に再会した時はサミガー大主も驚いていた。わしは死んだものと思っていたらしい。南の島で生きていると知って喜んでくれた。わしは配下の若い者をサミガー大主のもとで修行させたんじゃ。そして、この島で、鮫皮(さみがー)作りを始めたんじゃよ」
登野城(とぅぬすく)の女按司も始めたと聞きましたが」
「わしが馬天浜まで連れて行ったんじゃよ」
 タキドゥンは急に思い出し笑いをして、
「苗代大親(なーしるうふや)という強い男がいたが、そなたたちの叔父さんか」と聞いた。
「はい。父の弟で、サムレーたちの総大将を務めています」
「そうか。ドゥナン島(与那国島)には行くのかね?」
「行くつもりですが」
 タキドゥンはまた笑って、
「ドゥナン島で驚く事が待っているじゃろう」と言った。
 苗代大親とドゥナン島に何の関係があるのか、さっぱりわからなかった。タキドゥンは笑ってばかりいて教えてくれなかった。
「この村にもツカサはいますか」とササは聞いた。
「わしの娘がツカサになったんじゃよ。ツカサの屋敷は按司の屋敷の向こう側じゃ」
 お礼を言って別れようとしたら、
「今晩、泊まっていかんかね。もう少し話を聞きたいんじゃ」とタキドゥンは言った。
 ササと安須森ヌルももっと話を聞きたいと思っていた。二人がミッチェを見ると、大丈夫よというようにうなづいた。
「喜んで、お世話になります」とササは言った。
 タキドゥンは嬉しそうな顔をして、奥さんを見た。奥さんも嬉しそうな顔をしていた。
 ツカサの屋敷に行くと、若ツカサのキリがいて、母はちょっと出掛けていると言った。ササたちはキリの案内で、この島で一番古いウタキ(御嶽)、『マイヌオン(清明御嶽)』に向かった。
 グスクから外に出るのも一苦労だった。他所の家の庭を通って行かなければならず、その度に、若ツカサは声を掛けられて、ササたちの事を説明していた。
 ようやく、若ヌルたちが待っている屋敷に着いて、一緒に外に出た。
 細い道を島の中央に向かって歩いた。所々に畑があって、野良仕事をしている島人たちが、ササたちがぞろぞろ行くのを何事かと驚いた顔をして見送っていた。
 集落もない荒れ地の中に、こんもりとした森があって、その中に古いウタキがあった。黒く光っている石の周りに白い石が囲ってあった。
 ササたちはお祈りをした。
「ウムトゥダギに、わたしを呼んでくれなかったのね」と神様は怒った口調だった。
 そんな事を言われても、あの時、ササも安須森ヌルも『マイヌ姫』の事は知らなかった。
「フフフ」と笑って、「冗談よ」と神様は言った。
スサノオの神様はこの島にも来てくれたのよ。ほんとに驚いたわ。一緒にお酒を飲んで、色々なお話を聞いたのよ。連れて来てくれて、ありがとう」
「いいえ」とササは言って、「マイヌ姫様ですね?」と聞いた。
「そうよ。わたしはメートゥリ姫の娘なの。母に言われて、この島にやって来たのよ。この島にはメートゥリの人たちが住んでいるから琉球の言葉を教えなさいって言われて来たんだけど、実際に来てみたらメートゥリの人たちが北の方(にしぬかた)に住んでいて、クバントゥの人たちが東の方(あがりぬかた)に住んでいたのよ。わたしはこの黒い岩を見つけて、この岩がこの島の中心だってわかったわ。神様は必ず、この岩に降りて来るに違いないと思ってウタキを造って、その隣りに小屋を建てて暮らし始めたのよ」
「神様は降りていらしたのですか」とササは聞いた。
「なかなか降りて来なかったのよ。百日目になって、ようやく神様はいらっしゃったわ。でも、クバントゥの神様だったの。クバントゥの神様は、東の村で女の子が木の実を喉に詰まらせて死にそうだから助けてあげなさいって言ったのよ。そんな事を言われても、わたしには助ける自信なんて全然なかったわ。神様の言う通りにすれば助かるって言うので、わたしはクバントゥの人たちが住む村に行ったの。言葉が通じなくて参ったわ。それでも、神様の言う通りにしたら、娘は助かったのよ。その娘のお兄さんが素敵な人だったの。運命の出会いね。わたしはその人と結ばれて、クバントゥの言葉を覚えて、琉球の言葉を教えたの。わたしが亡くなる頃には、メートゥリの人たちもクバントゥの人たちも琉球の言葉を話すようになって交流も始まって、このウタキの周りに人々も集まって来て、大きな村ができたのよ」
「今はないという事は津波にやられたのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「そうなのよ。およそ三百年前に大きな津波が来て、村は全滅してしまったのよ。見ればわかる通り、この島には高い所なんてないわ。逃げる場所は海しかないのよ」
「海に逃げるのですか」とササは不思議に思って聞いた。
「その時、たまたま美崎(みしゃし)の浜にいたツカサが舟に乗って逃げて助かったのよ。舟に乗って逃げた人たちが全員、助かったわけじゃないけど、助かる事もあるので、今は海辺の近くに村があるのよ」
「その津波のあと、このウタキは大丈夫だったのですか」
「その黒い石はこの島の中心なのよ。大きな岩の上の部分が顔を出しているの。何があっても動く事はないのよ」
「それで、再建する事ができたのですね」
「あら、ユンヌ姫様がいらっしゃったわ」とマイヌ姫が言った。
「ただいま」とユンヌ姫の声がした。
「どこにいたの?」とササがユンヌ姫に聞いた。
「お祖父(じい)様(スサノオ)を送って行ったのよ」
琉球まで?」
「そうよ。お祖父様のお陰で、迷う事なく戻って来られたわ」
スサノオの神様は大丈夫なの?」
「大丈夫よ。久米島に寄って、ウムトゥ姫の事をクミ姫に話してやっていたわ」
「そう。よかったわ。ねえ、琉球は異常ないわね?」
「特に変わった事はないわ。ヂャンサンフォン(張三豊)と山グスクヌルが三姉妹の船に乗って、ムラカ(マラッカ)に行くらしいわ」
「えっ、ヂャン師匠がムラカに? どうして、ムラカに行くの?」
「海賊の取り締まりが厳しくなってきたので、三姉妹は本拠地をムラカに移すらしいわ。来年、冊封使(さっぷーし)が来るから、ヂャンサンフォンが琉球にいると無理やり永楽帝(えいらくてい)のもとへ送られてしまうので、一緒にムラカに行くらしいわよ」
 ササは安須森ヌル、シンシン、ナナと顔を見合わせて、溜め息をついた。帰った時にヂャンサンフォンがいないなんて、あまりにも寂しすぎた。
「あたしたちが会いに行けばいいのよ」とシンシンは言った。
「そうね」とササは力なく笑った。
 マイヌ姫がユンヌ姫から、神様の道の事を聞いていたので、ササたちはお祈りを終えて新里村に帰った。
 ウリカーの周りに女たちが集まっていて賑やかだった。ミッチェが何かあるのかと聞くと、ササたちの歓迎の宴(うたげ)が始まるという。ササたちはグスク内にある広い広場に案内された。女たちがお酒や料理を運んでいて、タキドゥンが嬉しそうな顔をして、ササたちを迎えた。

 

2-168.ヤキー退治(改訂決定稿)

 ササ(運玉森ヌル)、安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)、シンシン(杏杏)、ナナ、クマラパとタマミガ、愛洲(あいす)ジルーと山伏のガンジュー(願成坊)、玻名(はな)グスクヌルと若ヌルたち、ミッチェとサユイ、ヤラブダギのツカサと崎枝(さきだ)のツカサ、総勢十八人がぞろぞろと『ヤラブダギ(屋良部岳)』に向かっていた。
 ガンジューはしきりにナナに話し掛けていた。ナナに会いたくて琉球に行こうと思ったのかしらとササは思った。
 ササはミッチェと話をしながら歩いていた。
 ミッチェはブナシルの一人娘で、将来、名蔵按司(のーらあず)を継がなければならなかった。父親は富崎按司(ふさぎぃあず)のガバネーだった。ガバネーは唐人(とーんちゅ)で、四歳の時に両親と一緒にイシャナギ島(石垣島)に来た。父は元(げん)の国(明の前の王朝)のサムレー大将だったという。
 ガバネーは一人息子で父の跡を継がなければならず、ブナシルも母親の跡を継がなければならなかったので、二人は一緒になる事はできなかった。ミッチェが生まれて、次に男の子が生まれたらガバネーの跡継ぎにしようと二人は考えていたが、二人の思うようにはならず、ガバネーは両親の強い要望で妻を迎える事になってしまった。
 登野城(とぅぬすく)の女按司(みどぅんあず)の姪(めい)を妻に迎えたガバネーは跡継ぎにも恵まれた。しかし、妻は四人目の出産に失敗して亡くなってしまう。ガバネーの妻が亡くなったあと、ミッチェは父親の事を母から知らされた。十二歳だったミッチェは父親に会いに行って、弓矢の名人だった父から弓矢を習ったという。
「わたしもそろそろ跡継ぎを産まなければならないんだけど、まだ、いい人に巡り会えないのよ」と少し寂しそうな顔をしてミッチェは言った。
「大丈夫ですよ。神様がきっと、いい人を見つけてくれますよ」とササは言った。
「そうね。焦っても仕方ないものね」
 海辺に沿った道を通って、半時(はんとき)(一時間)たらずで『赤崎』に着いた。赤崎の集落は家が数軒あるだけで寂れていた。
「昔、ここに住んでいた人たちは崎枝に移ったのです」と崎枝のツカサが言った。
「もしかして、赤崎は津波にやられたのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「そうなのです」と崎枝のツカサはうなづいた。
「三百年くらい前に大きな津波がやって来て、赤崎の人たちはほとんど亡くなってしまったそうです。生き残った人たちが海辺からヤラブダギの裾野に移って、崎枝の村(しま)ができたようです」
 五十年前にウプラタス按司が来ていたという浜辺に行った。ウプラタス按司の船が来た時、あちこちから小舟(さぶに)がやって来て、浜辺で取り引きをして賑わっていたのだろう。赤崎に住んでいた人たちも南の国から来て、ここから上陸したのかもしれなかった。
 名蔵湾に飛び出した赤崎を眺めて、その先端まで行こうとしたら、道はないと崎枝のツカサに言われた。
「昔は道があったようですが、今は誰も行かないので道はなくなってしまいました」
「古いウタキ(御嶽)はないのですか」
「あったようですが、津波にやられてしまって、どこだかわからなくなってしまったようです」
 ガンジューが道を探すと言ったが、ヤラブダギの山頂で待っているサラスワティの神様を待たせるわけにはいかないので、先にヤラブダギに登る事にした。
 崎枝の集落を抜けて山道に入った。途中から急な坂道になって、大きな岩がいくつも現れて来た。
 頂上の近くに眺めのいい岩場があったので、クマラパ、ジルー、ガンジュー、若ヌルたちは崎枝のツカサと一緒に、そこで待っていてもらい、ササ、安須森ヌル、シンシン、ナナ、玻名グスクヌル、タマミガ、ミッチェ、サユイの八人が、ヤラブダギのツカサと一緒に山頂に向かった。
 急な坂を登って行くと綺麗な音楽が聞こえてきた。『サラスワティ』が弾いているヴィーナという弦楽器の調べだった。小鳥たちが喜んで、その曲に合わせてさえずっていた。
 山頂に平らな大きな岩があって、姿は見えないが、その上でサラスワティがヴィーナを弾いているようだった。
 ササたちはひざまづいて両手を合わせた。
「待っていたわよ」とサラスワティの美しい声が聞こえた。
 一昨日(おととい)の夜は異国の言葉をしゃべっていたが、今は琉球の言葉だった。
「あなたたちが知りたいのは、赤崎に来た人たちと琉球に行ったアマミキヨの一族が同じかどうかって事でしょう?」
「そうなのです。アマミキヨ様がどこからいらしたのか調べるために、この島までやって参りました」とササは言った。
「同じ国の人たちよ」とサラスワティは言った。
 やっぱり、そうだったんだわとササたちは心の中で喜んだ。
「今から二千年くらい前、『アマンの国』の近くの島で、火山の噴火が起こったの。大きな地震が何度も起こって、アマンの国は沈んでしまったのよ。島の人たちは舟に乗ってあちこちに逃げて行ったわ。その中の一つがこの島に来て、別の人たちがミャーク(宮古島)に行って、さらに琉球まで行ったのよ」
「アマンの国は沈んでしまったのですか」とササは驚いた顔をして、隣りにいる安須森ヌルを見た。
 安須森ヌルも驚いた顔をして、声のする辺りを見つめていた。
「ひどかったわ。大地震のあと、大津波もやって来たのよ。山の上に逃げて助かった人たちが安心する間もなく、島が少しづつ沈みだしたのよ。舟は津波で流されてしまったので、慌てて木を伐りだして、舟を作って逃げてきたのよ。わたしはアマンの国の守護神として国を守ってきたけど、あの時の大地震はどうする事もできなかったわ。この島よりも大きかった、あの島が沈んでしまうなんて予想もできなかったのよ。大勢の人々が亡くなってしまったわ。それでも、生き残った人たちはわたしを頼りにして、各地に散って行って、その地で、わたしを神様として祀ってくれたのよ」
「この島に来た人たちとミャークに行った人たちは言葉が違っていたようですけど、同じ国の人だったのですね?」とササが聞いた。
「古くから住んでいた人たちと後から来て住んだ人たちの違いよ。アマンの島は交易が盛んだったから、あちこちから人々が集まって来ていたのよ」
「その島はどこにあったのですか」
「どこって聞かれてもね‥‥‥」
「ジャワの近くですか」
「そうね。だいたいその辺りよ。アマンからジャワまで舟で十日くらいの距離だったわ」
 琉球からジャワまで二か月掛かるとスヒター(ジャワの王女)から聞いている。アマミキヨ様たちはそんな長い舟旅をして来たのか。しかも、丸木舟に乗ってやって来たなんて信じられない事だった。
「サラスワティ様はアマンの国の神様なのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「いいえ、違うわよ。わたしが生まれた国は遙か昔になくなってしまったけど、『サラスヴァティ』という国なのよ。サラスヴァティというのは川の名前で、大きな川だったのよ。わたしはサラスヴァティ川の神様なの。サラスヴァティ川の周辺に人々が集まって来て、豊かな国ができたのよ。今から三千年以上も前の事だわ。でもね、五百年くらいして、サラスヴァティ川はなくなってしまうの。青銅を作るために木を伐りすぎて川の周辺は砂漠になってしまって、サラスヴァティ川は地下を流れる川になってしまったのよ。サラスヴァティの人たちはガンガー(ガンジス川)の流域に移って行って、いくつもの新しい国を造ったわ。サラスヴァティ川はなくなってしまったけど、わたしは水の神様として残ったのよ」
「そして、交易によって、サラスワティ様はアマンの国の人たちにも知られて、アマンの国の神様になったのですね」とササは言った。
「そうなのよ。アマンの国に行ってからはサラスワティと呼ばれるようになったわ」
琉球に行ったアマミキヨ様もサラスワティ様を守護神として祀っていたのですか」
「勿論、祀っていたわよ。今も垣花樋川(かきぬはなひーじゃー)に祀られているはずよ。でも、わたしは最近、琉球まで行かないから、わたしの声は聞こえないわ。琉球には『豊玉姫(とよたまひめ)』がいるから、わたしが行く必要はないものね。ここもそうよ。ここにも『ウムトゥ姫』がいるから、わたしがここに来たのも久し振りなのよ。あなたたちの笛が聞こえてやって来たの。あんな素晴らしい笛を聞いたのは久し振りだわ。笛の名手のヴィシュヌも感心していたわよ」
「ありがとうございます。ヴィシュヌ様とは知り合いなのですか」
「『ヴィシュヌ』はサラスヴァティの国が滅んだあとにできた新しい国で生まれた神様なのよ。元々は太陽の神様だったんだけど、今では万能の神様になってしまったわね。『シヴァ』も新しい国で生まれたのよ。暴風雨の神様だったルドラが進化してシヴァになったの。シヴァは破壊の神様なんだけど、慈悲深さも持っていて、頼りにしている人たちも多いわ」
「ヴィシュヌ様とラクシュミ様はジャワに住んでいると言っていましたが、サラスワティ様もジャワに住んでいるのですか」
「いいえ。わたしは『クメール王国』に住んでいるのよ」
「えっ、クバントゥの人たちの国ですか」
「そうなのよ。そこには大きなお寺(うてぃら)がいっぱいあるのよ。わたしたちはヒンドゥー教という教えの中の神様になっていて、クメール王国はヒンドゥー教を信じていたの。それで、わたしたちを祀るお寺がいくつも建てられたのよ。その頃はヴィシュヌとラクシュミもクメール王国にいたのよ。でも、二百年位前に、ヒンドゥー教から仏教に変わってしまって、わたしたちを祀っていたお寺は仏教のお寺になってしまったの。幸いに、わたしは仏教では弁才天(べんざいてん)、夫のブラフマー梵天(ぼんてん)として祀られているので、そのまま残っているの。ヴィシュヌは化身(けしん)として、仏教を開いたブッダになったし、ラクシュミは吉祥天(きっしょうてん)として祀られているんだけど、吉祥天の夫がブッダではなくて、毘沙門天(びしゃもんてん)なのが気に入らないって言って、ジャワに行っちゃったのよ」
「シヴァ様はどこに住んでるのですか」
「サラスヴァティ川やガンガーの上流にはヒマラーヤと呼ばれる高い山々が連なっているの。その中に聖なる山と呼ばれる『カイラーサ』という山があるのよ。シヴァの妻の『パールヴァティ』はその山で生まれたの。パールヴァティがカイラーサに住んでいるので、シヴァもそこにいる事が多いわね。シヴァを祀る大寺院はあちこちにあって、妻もあちこちにいるんだけど、パールヴァティが怖いのね。今回は珍しく一人でやって来たわ。きっと、ジャワ辺りにいたのかもしれないわね。シヴァはヒンドゥー教の英雄にされて、各地の女神たちを妻に迎える事になってしまったの。ヒンドゥー教を広めるために、ヒンドゥー教の偉い人たちが勝手に決めた事なんだけど、シヴァは優しいからみんなを受け入れているのよ。ガンガーの下流『カーリー』という凶暴な女神がいて、その女神もシヴァの妻になったんだけど、シヴァは受け入れて、仲よくやっているみたい。メートゥリオン(宮鳥御嶽)の『ミナクシ』はガンガーの南方にあるマドゥライの女神なんだけど、彼女もシヴァの妻にされたのよ。でも、ミナクシには『スンダレ』という夫がいるから、シヴァも手を出してはいないわ」
 ササはスサノオの神様がシヴァの神様と意気投合して、どこかに行ったのを思いだした。
「シヴァ様とスサノオ様がどこに行ったのか御存じですか」
「あの二人はどこか似ているわね」とサラスワティは楽しそうに笑った。
「二人して、よからぬ事を考えているんじゃないの」
 突然、大きな雷が鳴り響いて、ササたちは悲鳴を上げた。空を見上げると南の方の空が真っ暗になっていて、稲光が光った。そして、物凄い音が響いた。
「シヴァが悪さをしているようね」とサラスワティは言って、どこかに消えたようだった。
 山頂にいたら危険なので、ササたちは山を下りた。若ヌルたちの所に行くと、みんながしゃがみ込んで耳を塞いでいた。
「近くにガマ(洞窟)があるわ」とヤラブダギのツカサが言って、ササたちはガマの中に避難した。ガマの中は霊気が漂っていた。
「ここは古いウタキだわ」とササが言った。
「アマンの人たちのお墓だったようです」とヤラブダギのツカサが答えた。
 ササたちはお祈りを捧げた。神様の声が聞こえた。アマンの言葉で何を言っているのかわからなかったが、何となく、みんなが喜んでいるように思えた。
「久し振りにサラスワティの神様がいらっしゃったので、喜んでいるのよ、きっと」と安須森ヌルが言った。
「シヴァ様が悪さをしているって、サラスワティ様が言っていたけど、この雷はシヴァ様のせいなのかしら?」とシンシンが言った。
「お祖父(じい)様(スサノオ)とシヴァの神様が『ヤキー(マラリア)』を退治しているのよ」とユンヌ姫の声が聞こえた。
「えっ、スサノオの神様がヤキー退治をしているの?」とササは驚いて聞き返した。
「ウムトゥ姫がヤキーの事をお祖父様に相談したら、任せておけって引き受けたの。マッサビから詳しい事情を聞いて、大雨と雷で南蛮(なんばん)の蚊(がじゃん)を退治しているのよ。マッサビとブナシルたちは大雨が降る所の人たちを避難させているわ」
「どうして、わたしたちに内緒にしていたの?」
「ウムトゥ姫がササたちを巻き込んではならないって言ったのよ。ヤキーを琉球に持って行ったら大変な事になるわ。絶対にこの島からヤキーを出してはいけないって言ったのよ」
「わたしたちも手伝いたかったわ」とササが小声で言った。
「そう言うだろうと思っていたからマッサビも内緒にしていたのよ。お祖父様もね」
「ユンヌ姫様は手伝わないの?」
「そのつもりで付いて行ったんだけど、危険だから逃げろって言われたのよ」
 ガマに逃げ込んだあと、大雨が降ってきた。雷は南部に集中していたが、物凄い音は鳴り響いていた。
「今のうちに、お握りを食べましょう」とサユイがのんきな顔をして、風呂敷包みを広げた。
 不安な面持ちで外を眺めていた若ヌルたちも、お腹が減ったわと言って集まって来た。
 みんなでお握りを食べながら、ササたちは若ヌルたちにサラスワティの神様が言った事を話した。
 アマミキヨ様の一族が、この山に来たと聞いて、若ヌルたちも喜んだ。
「アマンの国から来た人たちが琉球の御先祖様だったのか」とガンジューがお握りをほおばりながらササに聞いた。
「そうなのよ。アマンの国から琉球に来た人たちの子孫に豊玉姫様が生まれるの。ヤマトゥ(日本)からタカラガイを求めて琉球に来たスサノオ様と豊玉姫様が結ばれるのよ。二人は一緒に対馬(つしま)に行って、そこで玉依姫(たまよりひめ)様が生まれるの。玉依姫様はヤマトゥの国の女王になって、ヒミコって呼ばれるようになるわ。玉依姫様の妹のアマン姫様は琉球に帰って、玉グスクの女按司になるのよ。わたしたちはアマン姫様の子孫なの。そして、アマン姫様の曽孫(ひまご)のウムトゥ姫様がこの島に来て、子孫を増やしたのよ」
「ここに来たアマンの人たちはどうなったんだ?」
「ウムトゥ姫様の孫のヤラブ姫様が赤崎にやって来て、ここにいたアマンの人たちの子孫と結ばれるのよ」
琉球のアマンの子孫と、この島のアマンの子孫が、また一つになったんだな」
「そうなのよ。そういう事なのよ」とササは満足そうな顔をしてうなづいた。
「すると、スサノオ様と豊玉姫様の子孫はヤマトゥにもいるという事だな?」
「ヤマトゥの天皇はアマテラスの子孫だって聞いたわ。アマテラスは玉依姫様の事だから、天皇スサノオ様と豊玉姫様の子孫じゃないの」
「何だって? アマテラス大御神(おおみかみ)が玉依姫だって? アマテラス大御神がヒミコだっていうのか」
「そうじゃないの? わたしはヤマトゥの古い歴史は知らないけど、そうだと思うわ。本来、太陽の神様はスサノオ様だったはずよ。伊勢の神宮を造った天皇が、スサノオ様の娘の玉依姫様をアマテラスにしてしまったのよ。元々、内宮(ないくう)の地に祀られていた玉依姫様の息子のホアカリ様は外宮(げくう)に移されて、外宮に祀られていた玉依姫様の娘のトヨウケ姫様は小俣(おまた)神社に移されてしまったのよ」
「どうして、そんな事をしたんだ?」
「きっと、伊勢の神宮を造ったのは女の天皇に違いないわ。天皇の事はよくわからないけど、昔は天皇になるために争いを繰り返してきたんでしょ。その女の天皇は争いを繰り返さないために、アマテラスを太陽の神様にして、天皇の御先祖様にしたのよ。そして、天皇は自分の子孫たちがなるべきだって決めたんだわ」
「うーん」とガンジューは唸った。
「俺には難しい事はわからないけど、熊野の山中で修行していて、朝日が昇ってくると、それはまさしく神様に思えるんだよ。そして、その時、わしが両手を合わせる神様はスサノオ様だった。スサノオ様以外は考えられなかったんだ。そうか、やはり、スサノオ様は太陽の神様だったんだな」
 ガンジューは一人で納得して、うなづいていた。
 雷は一時(いっとき)(二時間)近く続いた。
 雨もやんで、青空も顔を出した。
 ササたちはガマから出ると山頂へ向かった。山頂から南の方を見ると晴れ渡った空に大きな虹が出ていた。
 登って来た道とは反対側に下りて行って『御神崎(うがんざき)』に向かった。
 海に飛び出た御神崎は険しい崖に囲まれていて、奇妙な形をした岩がいくつもあった。神様が降りて来るのにふさわしい神々しさがあって、眺めも素晴らしかった。
 樹木(きぎ)に被われた山道から出て来たササたちは、その景色の美しさに思わず声を漏らしていた。
 御神崎と海を隔てて大きな岩があって、その岩の上に落ちそうで落ちない小さな岩が乗っていた。
「あの岩は『ブナリヌツブルイス(妹の頭石)』って呼ばれています」とヤラブダギのツカサが言った。
 話を聞いていた若ヌルたちがキャーキャー騒いだ。
「いつの頃から、そう呼ばれているのかはわかりませんが、ハツガニに斬られたミズシの首が、ここまで飛んできて、あそこにあるというのです」
「えっ!」とササは驚いて、「どうして、そんな話になったの?」と聞いた。
「何代目かのヤラブダギのツカサが、ツカサたちをここに呼ぶために、そんな伝説を作ったようです。その頃、ヤラブダギに登るツカサたちはいても、ここまで来るツカサがいなかったのかもしれません」
「今はここまで来るのですか」とササが聞くと、
「ツブルイスのお陰で、ヤラブダギに登ったツカサたちはここまで下りてきて、お祈りを捧げてくれます」とヤラブダギのツカサは笑った。
 突然、サラスワティのヴィーナが聞こえてきた。
スサノオとシヴァのヤキーの退治はうまく行ったみたいよ」とサラスワティの声が聞こえた。
「わたしは帰るわ。楽しかったわ」
「色々とありがとうございました。いつか、琉球にいらしてください」とササは言った。
「そうね。あなたたちの笛が聞こえたら、行くかもしれないわ。琉球の言葉も覚えたしね」
 ササたちは両手を合わせて、サラスワティを見送った。
 御神崎の近くにあるヤラブダギのツカサの家で一休みして、ササたちはヤラブダギの北側を回って崎枝に戻り、名蔵へと帰った。
 名蔵のブナシルの屋敷に着いたのは夕方になっていた。
「何だか、疲れたわね」とササが言った。
「異国の神様とお話ししたからじゃないかしら」とシンシンが言った。
「一晩で言葉を覚えちゃうなんて、さすが、神様ね」とナナが言った。
 ササが笑ってうなづこうとした時、ササの脳裏に、ナルンガーラのガマの中で苦しんでいるスサノオの姿が見えた。
「大変だわ!」とササは叫んだ。
「どうしたの?」とシンシンとナナが同時に言って、ササを見た。
「ナルンガーラに行かなくちゃ」とササは安須森ヌルに言った。
 ササの顔を見て、ただ事ではないと気づいた安須森ヌルはうなづいて、ブナシルから馬を借りて、ナルンガーラに向かった。ミッチェとサユイがついてきた。
 ナルンガーラに着くと、シンシンとナナにマッサビの屋敷で待ってもらい、ササ、安須森ヌル、ミッチェ、サユイはマッサビと一緒に『ナルンガーラのウタキ』に向かった。
 すでに日が暮れかかっていて、薄暗くなっていた。ウタキに着いた頃には星空が広がっていたが、不思議と足もとはよく見えた。
 滝の裏側にあるガマに行くと、中は明るくなっていて、その中心にスサノオが横たわっていた。そして、驚いた事に、スサノオを看病していたのは『豊玉姫』と池間島(いきゃま)の『ウパルズ』だった。
 ササは豊玉姫の姿を見た事はなかったが、一目で豊玉姫だとわかった。目の前にいる女神様は、心に描いていた姿と少しも違っていなかった。
豊玉姫様、スサノオの神様は大丈夫でしょうか」とササは聞いた。
「さっきまで苦しんでいたけど、眠りについたわ。ゆっくり休めば大丈夫よ。必ず、もとに戻るわ」
「ヤキーを退治するために無理をしたのですか」
「そうみたいね。昔からそうなのよ。やらなければならない事は、自分を犠牲にしてでもやるのよ。だから、スサノオなのよ」
 ササたちはスサノオの無事を祈った。
 ウムトゥ姫がユンヌ姫、アキシノ、アカナ姫と一緒に帰って来て、スサノオが倒れているのを見て驚き、さらに、豊玉姫とウパルズがいるのに驚いた。
「お祖母(ばあ)様、どうして、ここにいるの?」とユンヌ姫が豊玉姫に聞いた。
「最近、スサノオがやたらと琉球に来るので、何をしているのかと、密かにあとを追って来たのよ。そしたら、ミャークに来てしまったの。ウパルズと会って、色々と話を聞いていたのよ。スサノオがイシャナギ島に行ったというので、来て見たら、このありさまだったというわけよ」
 ウムトゥ姫は、豊玉姫と娘のウパルズと思わぬ再会ができて喜んでいた。
 スサノオを心配して神様たちが次々に現れた。狭いガマの中は神様だらけになった。
「お酒を持ってくればよかったわね」とササが安須森ヌルに言った。
「はい」と言って、ミッチェが瓢箪(ちぶる)を差し出した。
「シンシンさんから頼まれたのよ」
 ササは嬉しそうな顔をして瓢箪を受け取ると安須森ヌルに渡した。
 安須森ヌルは一口飲むと「おいしい」と笑ってササに返した。
 ササも飲んで、幸せそうな顔をした。
 ユンヌ姫がやってきて手を差し出した。ササは瓢箪を渡した。ユンヌ姫は瓢箪を持って行くと豊玉姫に渡した。豊玉姫はササたちを見て笑うと、おいしそうにお酒を飲んだ。
 その飲みっぷりから、豊玉姫もお酒が好きだったのかと驚いたが、ササたちがお酒が好きなのも、豊玉姫に似たのに違いないと納得した。

 

 

 

トレース・オブ・ユー   ライズ

 

2-167.化身(改訂決定稿)

 神様たちとの饗宴(きょうえん)の翌朝、疲れ切ってウムトゥダギ(於茂登岳)の山頂から下りて来たササ(運玉森ヌル)たちは、ナルンガーラの屋敷に着くと倒れるように眠りに就いた。
 目を覚ましたササが縁側に出ると、すでに夕方になっていた。ササは縁側に座り込んで、静かに呼吸を整えた。
 昨夜(ゆうべ)、スサノオの神様に頼まれて笛を吹いたら、『サラスワティ』の神様が演奏に加わってきた。演奏が終わったら、サラスワティの神様が現れて、異国の神様が次々に現れた。
 サラスワティの神様はきらびやかな異国の着物を着ていて、手が四本もあった。二本の手で三弦(サンシェン)を大きくしたような不思議な楽器を持っていて、残りの二本の手には数珠(じゅず)とお経のような物を持っていた。サラスワティの神様は常に楽器をつま弾いていて、心地よい曲が流れていた。
 踊り好きな肌の色が黒い神様もいた。鳥のような羽根を持って、鷲(わし)のような顔をした神様もいた。笛の名人の神様も来て、ササたちは一緒に笛を吹いた。スサノオの神様は異国の神様とお互いに違う言葉で話し合っていたが、お互いに意味が通じているようで、楽しそうに笑っていた。
 二度目に笛を吹くまでの事ははっきりと覚えているのに、それ以後の事は、まるで夢の中の出来事のようで、ぼんやりとしていた。
 安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)が起きてきたので、その事を聞いたら安須森ヌルもはっきりと覚えていなかった。
「あたしたち、夜が明けるまで飲んでいたの?」とササは聞いた。
「飲んでいたと思うわ。夜が明ける頃、スサノオの神様が『シヴァ』の神様と意気投合してどこかに行ったので、宴(うたげ)はお開きになったのよ」
「シヴァの神様?」
「踊り好きな神様がいたでしょ」
 ササは思い出した。ササたちの笛に合わせて、奇妙な踊りを踊っていた神様だった。
「シヴァの神様ってどこの神様なの?」
 安須森ヌルは首を傾げた。
「あたしたちの笛を聴いて、どこかから来たんじゃないの」
「その神様と一緒に踊っていた女神様もいたわ」とササが言った。
「シヴァの神様の奥さんよ。名前は覚えていないわ」
「ねえ、マッサビ様のお屋敷にあるサラスワティ様の絵を見に行きましょう」
 ササがそう言って、二人は隣りの屋敷に向かった。縁側に愛洲(あいす)ジルーたちがいて、
「ようやく、お目覚めか」と笑った。
「マッサビ様はまだ眠っているようだ。俺たちも山頂まで行って来たんだ。風が強くて、あんな所によく一晩もいられたもんだと感心したよ」
「神様のお陰で、風はやんだのよ」とササは言って、マッサビの夫のグラーに頼んで、サラスワティの絵を見せてもらった。
 掛け軸になって壁に飾ってある絵は思っていたよりも小さくて、縦が一尺(約三〇センチ)ほどだった。細い墨の線に淡い色が施されていた。サラスワティは蓮(はす)の花の上に乗って楽器を弾いていて、足下に白鳥が控えていた。それを見て、サラスワティが白鳥に乗ってやって来たのをササは思い出した。それと同時に、クバントゥの神様のビシュヌとラクシュミが、大きな鳥の神様に乗って来たのも思い出した。
「やはり、手が四本もあるわね」と安須森ヌルが言って、「四本もあったら便利でしょうね」と笑った。
「四つの刀が持てるわ」とササは言ったが、「四つの刀を腰に差したら重すぎるわね」と笑った。
「この神様は『弁才天(べんざいてん)様』の元の姿じゃないかな」と二人の後ろでジルーが言った。
弁才天様は熊野から吉野に行く奥駈道(おくがけみち)にある弥山(みせん)という行場(ぎょうば)に祀ってあるんだ。弥山の裾野の天川(てんかわ)に弁才天社があって、古くから水の神様として信仰されている。きっと、南の国の神様が仏教に取り入れられて、弁才天様になったんだよ」
 弁才天というのは聞いた事があった。ササたちが奥間(うくま)のサタルーと一緒に京都から尾張(おわり)の瀬戸に行った時、琵琶湖にある竹生島(ちくぶしま)に弁才天が祀ってあると案内してくれた斯波(しば)家のサムレーが言っていた。
「この島の赤崎の神様がサラスワティ様なら、アマミキヨ様の神様もサラスワティ様なのかしら?」と安須森ヌルが言った。
「明日、赤崎まで行って調べましょ」とササと安須森ヌルがうなづき合うと、
「俺たちはまた留守番か」とジルーがつまらなそうな顔をして聞いた。
 ササは笑って、「みんなでぞろぞろと行きましょう」と言った。
「そいつは楽しみだ」とジルーは喜んで指を鳴らした。
「この絵を描いたのはテルヒコ様の子孫の石城按司(いしすかーず)でしょ。絵がうまいのね」と安須森ヌルが言った。
「イシャナギ島(石垣島)のイーカチ(絵画き)ね」とササが笑った。
「石城按司琉球に行っているから、琉球の絵も描いているかもしれないわ。あとで行って、見せてもらいましょ」
 シンシン(杏杏)とナナがやって来た。
「みんなはまだ眠っているわ」とナナが言った。
「神様たちとつき合ったから、身も心も疲れ切ってしまったのよ。マッサビ様でさえ、まだ眠っているもの」
「若ヌルたちはずっと眠っていたのに、よく眠れるわね」とシンシンが言った。
「眠っていても大勢の神様が近くにいたから疲れたんでしょう」と安須森ヌルが言った。
 ササたちはジルーたちと一緒に鍛冶屋(かんじゃー)のフーキチに会いに行った。
「ミーカナとアヤーはどうしたの?」とササが聞いたら、
「村の娘たちに剣術を教えているんだ」とゲンザ(寺田源三郎)が言った。
 フーキチの作業場は沢の下流にあった。作業場では若い者たちが大勢、仕事に励んでいた。なぜか、クマラパの姿もあった。フーキチはササたちに気づくと手を上げて、隣りの家で待っていてくれと言った。
 フーキチの奥さんは昨日、マッサビの屋敷で料理を作っていて、ササたちを隣りの屋敷に案内してくれた人だった。先代のフーツカサの姪(めい)で、先代が亡くなった時、十歳だった。フーツカサの跡を継げという話もあったが、池間島(いきゃま)からマッサビが来てくれたので助かった。わたしにはシジ(霊力)がないし、とても、フーツカサなんて務められないと言って笑った。フーキチと出会ったのは十五歳の時で、出会った時に、この人のお嫁さんになるってわかったらしい。今は四人の子供に恵まれて、フーキチもみんなから尊敬されているので幸せだという。
 縁側で奥さんと話をしていたら、フーキチが帰って来た。
「奥間の鍛冶屋がイシャナギ島にいたなんて驚きましたよ」とササが言うと、
「わしの方こそ驚きました。琉球から女子(いなぐ)がこの島にやって来るとはのう。しかも、琉球の王様の娘だというではありませんか。王様の娘が腰に刀を差してやって来るなんて、まったく腰が抜けるほど驚きましたよ」とフーキチは笑った。
「父が王様になれたのも奥間の人たちのお陰なんですよ」と安須森ヌルが言うと、フーキチは何の事だかわからないという顔をした。
「フーキチさんが琉球を離れた時、中山王(ちゅうさんおう)は誰でした?」とササが聞いた。
「察度(さとぅ)殿でした。そなたたちは察度殿の跡継ぎのフニムイ(武寧)殿の娘さんなのでしょう」
 ササは首を振って、「フニムイを倒して、わたしの伯父が中山王になったのです」と言った。
「フニムイを倒した? 一体、誰がフニムイを倒して中山王になったのです? 中山王を倒すほどの兵力を持っていたのは山北王(さんほくおう)しかいないでしょう。まさか、山北王が中山王を倒したのですか」
「違います。フーキチさんは奥間から南部の佐敷に行ったヤキチさんを知っていますか」と安須森ヌルが聞いた。
「ヤキチさんか‥‥‥懐かしいな。勿論、知っていますよ。ヤキチさんはわしの師匠でした。わしの親父はわしが幼い頃に亡くなってしまって、わしと兄貴はヤキチさんから鍛冶屋の技を習ったのです」
「そのヤキチさんは今、玻名(はな)グスク按司になりました。玻名グスクは奥間の人たちの南部の拠点になったのです」
「ヤキチさんが玻名グスク按司?」
 フーキチはわけがわからないといった顔で安須森ヌルを見て、ササを見た。
「ヤキチさんはずっと佐敷按司を守っていました。佐敷按司は隠居していた父親と一緒に中山王のフニムイを倒して、隠居していた父親が中山王になったのです」
「ちょっと待ってくれ」とフーキチは昔を思い出していた。
「わしがこの島に来る三年前、奥間に佐敷から若按司が来ました。そして、若按司の息子が生まれると、神様のお告げがあったと奥間ヌル様が言って、その息子は長老が育てる事になったのです。そして、佐敷の若按司を守るためにヤキチさんは佐敷に行きました。あの若按司が中山王を倒したというのですか」
「そうです。その若按司はわたしの兄で、中山王の跡継ぎであり、島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)でもあります」
「信じられん」とフーキチは首を振ってから、
「やはり、奥間ヌル様の言った事は正しかったんだな」と納得したようにうなづいた。
「わしはこの島に来る前、ヤキチさんにお別れの挨拶をするために佐敷に行ったんです。佐敷グスクは小さなグスクで、どうして、ヤキチさんが佐敷の若按司を守らなければならないのか、わしにはさっぱりわかりませんでした。ヤキチさんに聞いたら、笑いながら、あいつは面白い奴だ。何か大きな事をやるかもしれないと言ったんです。そうでしたか、あの若按司が中山王を倒したのですか。そして、ヤキチさんが玻名グスク按司か‥‥‥」
 フーキチは楽しそうに笑っていた。
「それで、奥間にいる佐敷の若按司の息子さんはどうしているのですか」
「長老様の娘さんと一緒になって、長老様の跡継ぎになっています」
「今の長老様はヤザイム様ですか」
「そうです」
「ヤザイム様には、わしと同い年の息子で、ヤタルーというのがいましたが、どうなりました?」
「ヤタルーさんは鍛冶屋の親方を務めています」
「奥間のために身を引いたのですね。奴らしいな」とフーキチは笑った。
 この島に来て二十四年の月日が過ぎ、フーキチは百人以上の弟子を育てて、各地に送り出していた。この事を知ったら奥間の長老様は喜ぶでしょうと言ったら、「急に故郷に帰りたくなってしまいました。琉球に帰る時、わしを乗せて行ってください」とフーキチは言った。
「ミャーク(宮古島)の目黒盛豊見親(みぐらむいとぅゆみゃー)様が琉球に船を出すって約束してくれました。毎年は無理でも一年おきに琉球に行く船が出るようになるでしょう。すっかり変わった琉球を見に行ってください」
「楽しみができた」とフーキチは笑って、妻を見ると、「お前も一緒に行こう」と言った。
 奥さんは嬉しそうに笑っていた。
 日が暮れてきたので、ササたちはフーキチ夫婦と別れて屋敷に戻った。
 マッサビもツカサたちも起きていた。
「昨夜は疲れたから栄養を付けなくちゃあね」とマッサビが言って、猪(やましし)の肉を御馳走になった。
 翌朝、ササたちはマッサビと別れて、ツカサたちと一緒に名蔵(のーら)に向かった。女子サムレーのミーカナとアヤーは村の娘たちに剣術を教えていたので、ナルンガーラに残り、ゲンザとマグジ(河合孫次郎)も残った。マッサビの娘のサユイは一緒に赤崎に行くと言ってついて来た。
 名蔵の女按司(みどぅんあず)、ブナシルの屋敷は集落から少し離れた高台の上にあった。それほど高くない石垣に囲まれたグスクで、中は広く、お客様用の大きな屋敷があった。ウムトゥダギのお祭りの時、各地のツカサが集まって来るので、そのための宿泊施設だった。
 ブナシルは留守番をしていた娘の『ミッチェ』をササたちに紹介した。母親と同じように女子サムレーの格好をしていて、ナナと同じ位の年齢に見えた。
「わたしのお師匠です」とサユイが言った。
「お師匠は弓矢の名人なのです」
 玻名グスクヌルに若ヌルたちの稽古を頼んで、ササ、安須森ヌル、シンシン、ナナはミッチェとサユイの案内で、シィサスオン(白石御嶽)とミズシオン(水瀬御嶽)に向かった。
 『シィサスオン』はブナシルの屋敷と集落の中程にあった。こんもりとした森の中に、白く細長い石が祀ってあった。
「昔、ハツガニという神様を信じない人がいて、ウムトゥダギの神様に石にされてしまったようです。石になってからは強いシジ(霊力)を持つ神様になられて、重い病に罹った時やマジムン(悪霊)に取り憑かれた時、ここでお祈りをすると治ると言われています」とミッチェは説明した。
 ハツという名前に、いつしかカニ(金)という尊称がついたらしい。七尺(約二メートル)近くもありそうな石で、ハツガニは大男だったようだ。
 ササたちはお祈りをした。
琉球から来たそうじゃのう」と神様の声が聞こえた。
 クバントゥの言葉ではなく琉球の言葉だった。
琉球の言葉がわかるのですか」とササは聞いた。
「一昨日(おととい)の夜、覚えたんじゃよ」と神様は言った。
 ササたちには神様の言っている事が理解できなかった。
「一昨日の夜、一緒に笛を吹いたじゃろう。わしは『ビシュヌ』じゃ」
 ササたちは思い出して驚いた。色黒の目鼻立ちのくっきりしたいい男で、初めのうちは異国の言葉をしゃべっていて何を言っているのかさっぱりわからなかった。スサノオと話をしているうちに、片言の琉球の言葉をしゃべるようになって、その後、すっかり言葉を覚えたようだが、クバントゥの神様のビシュヌがどうして、ここにいるのかわからなかった。
「わしの特技は化身(けしん)となって、人間界に現れる事なんじゃよ」
「もしかしたら、ビシュヌ様がハツになって、この島に現れたのですか」とササは聞いた。
「そうじゃ。弟のサラは『ガルーダ』の化身で、妹のミズシは『ラクシュミ』の化身じゃ」
ラクシュミ様はお会いしましたが、ガルーダ様は知りません」
「何を言っておる。わしらが乗って来た鳥がガルーダじゃよ」
 鷲の顔をした鳥の神様だったのかとササは納得した。
「どうしてビシュヌ様が、神様を信じない者に化身したのですか」
「ウムトゥ姫は素晴らしい人間じゃった。バラバラだったこの島を見事に一つにまとめた。この島の神様として、ずっと、人間たちから敬われなければならないと思ったんじゃ。人間というのは愚かな生き物だから、昔の事など、すぐに忘れてしまう。ウムトゥ姫の神様としての力を何か形として残さなくてはならないと思ったんじゃ。そこで、ウムトゥ姫の命が残りわずかだと知ったわしは、ハツになって、この島に現れたんじゃよ。そして、ウムトゥ姫の孫のテルヒコと出会って、一緒に名蔵に来たというわけじゃ。ウムトゥダギの神様を信じないと石になってしまうぞと人間たちにわからせるために、石になったままのハツをここに祀っているんじゃよ」
「どうして、妹のミズシさんを殺したのですか」
「それは、テルヒコがミズシに惚れちまったからじゃ。ラクシュミはわしの妻じゃ。いつまでも人間界に置いておくわけにはいかんのじゃよ」
「サラさんはクバントゥ姫様と一緒になりましたけど、それでよかったのですか」
「ガルーダに聞いたら、ガルーダもクバントゥ姫に惚れたという。わしらにずっと仕えてきたから、ちょっと息抜きをさせてやったんじゃよ。お陰で、ガルーダの子孫がこの島で増える事になった。奴は時々、この島にやって来て、子孫たちの様子を見るようになったんじゃ。今回も、ガルーダがウムトゥダギの神様たちの饗宴に気づいて、わしらを連れて来てくれたんじゃよ。いつもなら、わしはここにはおらんが、お前たちが来ると思って待っていたんじゃ。ミズシオンにも行くんじゃろう。ラクシュミが待っているよ」
「ガルーダ様のウタキ(御嶽)はあるのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「サラとクバントゥ姫のウタキはクバントゥオン(小波本御嶽)の近くにあったんじゃが、いつしか忘れ去られてしまったようじゃ。それがあるから、わしはここに石を残したんじゃよ」
 クバントゥ姫が生きていたのは一千年も前の事だった。忘れ去られたウタキが、他にもいくつもあるような気がした。
 ビシュヌと別れて、ウタキを出たあと、
「シィサスオンの神様はいつもはいらっしゃらないのですか」とササはミッチェに聞いた。
「いらっしゃいません。時々、いらっしゃいますが、古い言葉を使うので理解できませんでした。神様が琉球の言葉を話すのを初めて聞きました。シィサスオンの神様も一昨日の夜、お山に行ったなんて驚きです。わたしも行けばよかったわ。ツカサたちも一緒に行くって聞いたので、わたしは遠慮したのです。ツカサたちはわたしの顔を見ると文句ばかり言うのです。武芸ばかりやっていて、ツカサとしてのお勤めをおろそかにしているってね。決して、おろそかにしているわけではないのですが、ツカサたちにはそう見えるようです」
琉球ではヌルは武芸を身に付けなければならないと思われています。わたしは若ヌルの頃、武芸とヌルとしてのお勤めを同時に母から教わりました。それが当然の事だと思っていたのです。でも、武芸をやる母が特別なヌルだったのです。母は最高のヌルとして、ヌルたちに慕われています。皆、母を見倣って武芸を身に付けています。当然、わたしの弟子の若ヌルたちは武芸に夢中になっています。ミッチェさんが新しいツカサの姿を作ればいいのです。そうすれば、皆、ミッチェさんを見倣って武芸を始めるでしょう」
「ありがとう。自信が湧いてきたわ」とミッチェは嬉しそうに笑った。
 名蔵の集落を抜けて、ノーラオン(名蔵御嶽)の森の左側にある森が『ミズシオン』だった。こんなに近くなら、ノーラオンにお祈りした時に寄ればよかったと思ったが、きっと、あの時は神様はいらっしゃらなかったに違いなかった。
 ミズシオンには黒っぽい石が置いてあった。人がうずくまっているような形の石だった。ミズシさんも石になったのかしらとササが思っていると、
「違うわよ」と神様の声が聞こえた。
「この石はわたしとテルヒコが、いつも腰掛けてお話をしていた思い出の石なのよ」
「どうして、テルヒコ様と一緒に残らなかったのですか」とササは聞いた。
「残ってもよかったんだけど、テルヒコはあのあと、石城山(いしすくやま)のチャコと出会う事になっていたの。わたしが邪魔をしてはいけないと思って、去る事にしたのよ。それでよかったと思っているわ」
 ササは神様の声を聞いて、一昨日の夜の『ラクシュミ』を思い出した。真っ赤な着物を着ていて、物凄い美人だった。テルヒコが驚いて、ポカンと口を開けたままラクシュミを見つめていた。二人は再会を喜んで、親しそうに昔話に花を咲かせていた。
「クバントゥの人たちは、どこからこの島に来たのですか」と安須森ヌルが聞いた。
「クバントゥの御先祖は『タルファイ』と『マルファイ』という兄妹で、大陸の南の方(ふぇーぬかた)、今、チャンパ(ベトナム中部)という国がある辺りから来たのよ」
 チャンパという国はシーハイイェン(パレンバンの王女)から聞いた事があるが詳しい事はわからなかった。
「もしかしたら、『クメー』という国ではありませんか」とササは聞いた。
 何となく、久米島(くみじま)にお米を持って来たクメーの国の人とクバントゥの人がつながりがあるような気がした。
「そう、『クメール』という国よ。そんな昔の事をよく知っているわね」
「クメールですか」とササは呟いた。
 久米島にお米を持って行った人たちもクメールの人に違いないと思った。
「クメールは滅ぼされて、人々はあちこちに逃げて行ったの。タルファイとマルファイは一族を引き連れて、お米を持って、この島にやって来たのよ。でも、逃げないでじっと我慢をしている人たちもいたのよ。その人たちはやがて、新しいクメール王国を築くのよ。今もクメール王国はあるわ。わたしたちを祀った立派なお寺(うてぃら)がいくつもあったんだけど、今は仏教のお寺になってしまったわ」
琉球の近くに久米島という島がありますが御存じですか」
「さあ、知らないわ」
久米島はクメールの国の人たちが来て、クメール島と名付けたのではないかと思ったのですが知りませんか。久米島で一番高い山にあるガマ(洞窟)に古い神様がいらっしゃって、言葉はわからないのですが、『クメー、クメー』と何度も言っていたのです」
「わたしにはわからないわ」とラクシュミは言ったが、
「『シヴァ』から聞いた事があるぞ」とビシュヌの声が聞こえた。
久米島に行ったのはシヴァを祀っていたクメールの国の人たちじゃ。久米島には『リンガ』と『ヨーニ』があるはずじゃ」
「リンガとヨーニって何ですか」
「リンガは男のアレで、ヨーニは女のアレじゃよ」
 確かに久米島には男子岩(いきがいわ)と女子岩(いなぐいわ)があった。
「同じ国なのに、違う神様を祀っていたのですか」
「どの神様を信じるかは人それぞれじゃからのう」
「ビシュヌ様とラクシュミ様は滅ぼされたクメールの国の神様だったのですか」
「わたしたちはもっと遠い南の国(ふぇーぬくに)の神なのよ。その国も争いが絶えなくて、いくつもの国が建国されては滅んで行ったわ。今はヴィジャヤナガル王国(インド南部)というのが栄えているわ。タルファイとマルファイの頃はアーンドラ王国というのがあって、盛んに交易をしていたのよ。お陰で、わたしたちも各地に広まっていったの。シヴァもサラスワティもアーンドラ王国から各地に広まって行ったのよ。アーンドラ王国はクメールとも交易していて、タルファイ兄妹はわたしたちを守護神として祀っていたの。この島に来てからもわたしたちを頼りにしてくれていたのよ」
「今はどこに住んでいらっしゃるのですか」
マジャパイト王国にいる事が多いわね。あそこには大きなお寺がいっぱいあるし、わたしたちを頼りにしている人たちも多いのよ」
マジャパイト王国ってジャワの事ですよね。王女のスヒターを御存じですか」
「勿論、知っているわ。スヒターのお友達のラーマはわたしとお話ができるのよ。実はね、あなたの事はラーマから聞いていたの。一度、会ってみたいと思っていたのよ」
「ありがとうございます。ジャワにお帰りになったら、ラーマによろしくお伝えください」
 ラクシュミ、ビシュヌと別れたササたちは、ノーラ姫に一昨日の夜のお礼を言うためにノーラオンに向かった。
ラクシュミ様とビシュヌ様がジャワにいらっしゃるなんて驚いたわね」とシンシンが言った。
 ササはうなづき、目を輝かせて、「ジャワに行かなくちゃね」と言った。
久米島にお米を持って来た人たちもクメールの国の人だったのね」と安須森ヌルがササに言った。
「クバントゥの人たちと同じ国の人たちだったんだわ」とササはうなづいた。
 ミッチェとサユイは神様の言った事が衝撃だったらしく、この事をマッサビやブナシルに話した方がいいのか悩んでいた。
「あの二人には話した方がいいわ」と安須森ヌルが言った。
「ツカサたちに話すかどうかは、あの二人が決めるでしょう」
 ミッチェもサユイも安須森ヌルを見て、うなづいた。
 『ノーラオン』で『ノーラ姫』にお礼を言うと、「わたしたちの方がお礼を言うべきだわ」と言った。
「あなたたちのお陰で異国の神様たちとお話ができたわ。母が亡くなったあと、テルヒコの友達が名蔵にやって来て、神様を信じなかったハツが石になってしまった事が、ずっと謎だったのよ。わたしは母がやったんだと思っていたけど、母は違うって言っていたの。ビシュヌ様のお話を聞いて、やっと、長年の謎が解けたのよ。母もビシュヌ様にお礼を言っていたわ。ありがとう。サラスワティ様がヤラブダギで待っているわ。サラスワティ様からお話を聞けば、赤崎の謎も解けるはずよ」
 ササたちはノーラ姫と別れて、ブナシルの屋敷に戻った。
 熊野の山伏、『ガンジュー』が待っていて、「話があったのに、さっさと帰ってしまうなんてひどいですよ」と言った。
「話って何ですか」とササが聞いたら、
「俺の事、覚えていないのですか」とガンジューは言った。
 ササも安須森ヌルも首を傾げたが、ナナが思い出して、「あの時の山伏ですね」と言った。
「えっ、誰なの?」とササがナナに聞いた。
「熊野の本宮(ほんぐう)の宿坊(しゅくぼう)にいた人よ。あたしたちから琉球の話を聞いて、琉球に行ってみたいって言っていたわ」
 ガンジューは嬉しそうな顔をしてうなづいていた。
 ササも安須森ヌルもシンシンも思い出して、ガンジューを見て、「あの時の‥‥‥」と言って笑った。
「でも、どうして、この島にいるの?」とササは聞いた。
 ササたちが二度目に熊野に来て、帰って行く時、福寿坊(ふくじゅぼう)という山伏を琉球に連れて行くと言った。ガンジューも一緒に行きたかったが、まだ修行中の身で勝手な事はできなかった。それでも、日が経つにつれて、琉球に行きたいという気持ちを抑える事はできず、奧駈行(おくがけぎょう)をすると嘘をついて熊野を抜け出して博多に向かった。博多に琉球の船はまだ泊まっていた。しかし、近づく事はできず、ササたちとも会えなかった。琉球の船は帰ってしまったが、ガンジューは諦めず、琉球に行く船を見つけて乗り込んだ。ところが、その船は琉球ではなくターカウ(台湾の高雄)に着いた。ターカウからミャークの船に乗って、この島に着いたのが今年の夏で、それ以来、この島にいるという。
「ミャークまで行っても琉球には行けないと聞いたので、この島にいる事にしたのです。ウムトゥダギに熊野権現もありますし。ところで、熊野の神様のスサノオ様がこの島に来たと聞きましたが本当なのですか」
「本当よ。でも、話をすると長くなるから後にしてね。これからヤラブダギに登らなければならないの」
「ヤラブダギなら登った事があるので、案内しますよ」
「それじゃあ、頼もうかしら」
「ねえ、どうして、ガンジュー(頑丈)って呼ばれているの」とナナが聞いた。
「俺の名前は願成坊(がんじょうぼう)なんですよ」
「成程」とササたちは笑った。

 

 

 

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