長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

3-04.今帰仁再建(第三稿)

 今帰仁(なきじん)グスクの外曲輪(ふかくるわ)に朝鮮(チョソン)の綿布(めんぷ)で作った仮小屋がずらりと並んで建っていた。戦(いくさ)の被害が少なく、広い外曲輪が今帰仁再建の拠点として機能していた。
 三の曲輪と中曲輪を囲む高い石垣は所々に鉄炮(てっぽう)(大砲)に破壊された跡が残り、中御門(なかうじょう)の上にあった櫓(やぐら)は焼け落ちていた。さらにその先を見上げれば、一の曲輪の御殿(うどぅん)が半ば崩れた惨めな姿をさらしていた。
 開け放たれたままの大御門(うふうじょう)(正門)の脇にある『芝居小屋』は戦の時に本陣として使われ、今は今帰仁再建の指揮所として使われていた。外曲輪の西側には四つの立派な屋敷があり、どれも被害を受けていなかった。
 二十四年前に外曲輪ができた時、今帰仁ヌルの屋敷と山北王(さんほくおう)(攀安知)の祖母の屋敷と戦死した若按司の妻の屋敷が新築された。その三年後、先代の山北王(珉)が亡くなり、御内原(うーちばる)にいた山北王の母が外曲輪に移り、屋敷が新築された。攀安知(はんあんち)の祖母は元国(げんこく)(明の前の王朝)の生まれだったので『大元(うふげん)屋敷』と呼ばれ、若按司の妻は国頭按司(くんじゃんあじ)の娘だったので、『国頭屋敷』と呼ばれ、攀安知の母は名護按司(なぐあじ)の娘だったので『名護屋敷』と呼ばれた。
 祖母が亡くなった後、『大元屋敷』はしばらく空き家だったが、今帰仁に帰ってきた山北王の叔母のマアミ(先々代越来按司の妻)が入る事になって改築し、『越来(ぐいく)屋敷』と呼ばれるようになった。夫だった永良部按司(いらぶあじ)が亡くなって今帰仁に来たマティルマは、マアミが暮らしている事を知って一緒に暮らす事になる。若按司の妻は二人の息子が恩納按司(うんなあじ)、金武按司(きんあじ)になると実家の国頭に帰って行った。山北王の母は三年前に亡くなり、『国頭屋敷』と『名護屋敷』は客殿として使用されていた。
 マアミとマティルマは今帰仁城下が全焼して大勢の避難民が外曲輪に逃げて来た時、屋我大主(やがうふぬし)(マアミの弟)と一緒に名護に避難した。屋我大主の次女が松堂(まちどー)(名護按司の大叔父)の孫に嫁いでいたので、松堂を頼って行ったのだった。
 今帰仁ヌルの屋敷は今帰仁に残っているヌルたちが利用した。残っているのは島添大里(しましいうふざとぅ)ヌル(サスカサ)、今帰仁ヌル(シンシン)、クーイヌル(ナナ)、東松田(あがりまちだ)の若ヌル(タマ)、屋嘉比(やはび)ヌル、マチルギの姉の伊波(いーふぁ)ヌル、マチルギの姪の山田ヌルと安慶名(あぎなー)ヌルだった。サスカサたちと行動を共にしている志慶真(しじま)ヌルもここにいる事が多かった。奥間(うくま)村の再建に忙しい奥間ヌルも材木を運ぶ国頭按司の船に乗って、時々、顔を出していた。
 越来屋敷はマチルギ(サハチの正妻)と安須森(あしむい)ヌル(サハチの妹)がキラマ(慶良間)の島から来た娘たちと暮らしていた。キラマの娘たちは五十人いて、戦(いくさ)の時は負傷兵の治療に当たっていて、今は炊き出しをやっていた。屋敷にいるのは十数人で、残りは仮小屋にいた。今帰仁グスクの女子(いなぐ)サムレーか侍女(じじょ)になる予定だが、城下とグスクが再建されるまでは雑用に従事しなければならなかった。
 国頭屋敷は苗代大親(なーしるうふや)(思紹の弟)、久高親方(くだかうやかた)、慶良間之子(きらまぬしぃ)(苗代大親の次男)、兼(かに)グスク按司(ンマムイ)、水軍大将のヒューガ(日向大親)が使用し、名護屋敷は奄美攻めに行くサグルー(サハチの長男)たちが使用していた。
 城下を再建するには焼け跡の残骸を片付けなければならなかった。陣地を造るために残骸は片付けられたが、陣地以外の所に積み上げられていて、それらを皆、城下の外に出さなくてはならない。苗代大親が兵たちを指揮して、残骸の片付けに精を出していた。マチルギも手の空いているキラマの娘たちを率いて手伝い、安須森ヌルもヌルたちを率いて手伝っていた。
 二の曲輪にある御内原の屋敷はそれ程の被害はなく、山北王の三人の側室(そくしつ)が侍女たちと暮らしていた。朝鮮人(こーれーんちゅ)のパクは怪我をしたが大分よくなっていて、娘のカリンが若ヌルではなくなったので、娘を連れて李芸(イイエ)の船に乗って朝鮮(チョソン)に帰る事になっていた。息子のフニムイと父の平敷大主(ぴしーちうふぬし)はどこに行ったのだろうととぼけているシジは行く所がないので城下に住む事になり、唐人(とーんちゅ)のタンタンは九歳の娘と一緒にメイユー姉妹に任せる事になった。パクとタンタンの侍女は二人がいなくなれば解放され、シジの侍女はシジに従って城下で暮らすという。
 湧川大主(わくがーうふぬし)(攀安知の弟)の娘で勢理客(じっちゃく)若ヌルだったランもここにいて、中山王(ちゅうざんおう)のヌルたちが武当拳(ウーダンけん)の名人だと聞いて、カリンと一緒にクボーヌムイ(クボー御嶽)の朝のお祈りに集まって来るヌルたちから武当拳の指導を受けていた。ある朝、志慶真村で妹ユリの夫のジルーと出会い、父が与論島(ゆんぬじま)で待っていると聞いたランは喜び、カリンと別れ、ジルーと一緒に逃げたのだった。
 中山王の兵が引き上げ、中山王の総大将だった島添大里按司(サハチ)の奥方様(うなぢゃら)が中心になって、城下の再建をしているとの噂が広まり、城下に住んでいた人たちが様子を見にやって来た。彼らは炊き出しの食事を勧められ、残っている兵や女たちが煤(すす)で真っ黒になりながら働いている姿を見て、家族を連れて来て再建を手伝おうと決心して帰って行った。
 ヤンバル(琉球北部)の按司たちは兵を連れて一旦は引き上げたが、今帰仁の神様である『アキシノ様』を助けたマチルギの活躍をヌルから聞くと驚き、マチルギを助けなければならないとヌルと一緒に人足(にんそく)を送ってきた。
 噂を聞いて伊平屋島(いひゃじま)の我喜屋(がんじゃ)ヌルと田名(だな)ヌル、伊是名島(いぢぃなじま)の仲田ヌルも島の人(しまんちゅ)たちを引き連れてやって来た。
 伊江島(いーじま)に避難していたヤマトゥンチュ(日本人)たちは、今度の今帰仁按司は女で、しかも美人らしいとの噂を聞いてやって来た。炊き出しの雑炊(じゅーしー)だけでなく、新鮮な海の幸も食べられるし、酒も飲み放題だった。海の幸はサミガー大主(うふぬし)に世話になったウミンチュ(漁師)たちが、新しい今帰仁按司はサミガー大主の孫の嫁だと聞いて、大量に差し入れてくれた物だった。
 うまい海産物をつまみながら酒を飲み、働く人たちを眺めていたヤマトゥンチュたちは、ただ酒を飲んで、手伝わないわけにもいくまいと言って、一緒になって働いた。倭寇(わこう)と呼ばれた荒くれ男たちには義侠心があった。強い者には反抗するが、困っている人たちを見て、見ぬ振りはできなかった。
 日を追って集まって来る人たちが多くなり、仮小屋の数も増え、日が沈むとあちこちで焚き火を囲んで酒盛りが始まった。
 城下を再建するには以前の城下を知らなければならないが、幸いに羽地(はにじ)に避難した『まるずや』のマイチが城下の地図を持っていた。ウニタキ(三星大親)が配下に調べさせて詳細な地図を作ったのだった。その地図をもとに以前のごとくに再建すればいいとマチルギは思っていた。ただ、唐人(とーんちゅ)町やヤマトゥンチュ町は必要があれば再建し、まずは庶民たちの家が先決だった。
 材木屋のナコータルーは弟の与和大親(ゆわうふや)(真喜屋之子)と一緒に今帰仁に来てマチルギと会い、中山王に従うと誓って、奥間の杣人(やまんちゅ)の親方のトゥクジと一緒に材木集めに従事した。
 今帰仁の『石屋』も中山王に従うと誓い、鉄炮で破壊された石垣の修繕をしていた。
 百五十年前、高麗(こうらい)(朝鮮半島)から来た『石屋』の親方は浦添按司(うらしいあじ)の英祖(えいそ)に仕えて浦添グスクの石垣を築き、英祖の次男の湧川按司(わくが-あじ)が今帰仁按司になると、親方の次男が今帰仁に行って今帰仁グスクの石垣を築いた。次男はそのまま今帰仁に落ち着いて親方となり、代々、今帰仁グスクの石垣を改築したり修繕してきた。今は六代目で、城下が全焼した時、職人たちを連れて山の中の石切場に避難した。そこにウニタキが現れ、ウニタキに説得されて今帰仁に行き、マチルギと会って石屋の親方は中山王に仕える事に決まった。
 今帰仁に来たウニタキは配下の者から勢理客若ヌルが志慶真のジルーと一緒に与論島に行ったと報告を受けた。湧川大主が娘の勢理客若ヌルを迎えに来るに違いないと思い、勢理客若ヌルを密かに見張っていたのだった。すでに、与論島、永良部島(いらぶじま)(沖永良部島)、徳之島(とぅくぬしま)、奄美大島(あまみうふしま)、鬼界島(ききゃじま)(喜界島)に配下の者を送ってあり、湧川大主の動きはわかる手筈になっていた。湧川大主が奄美の島に拠点を持って、兄の敵(かたき)を討つために中山王がヤマトゥ(日本)に送る交易船を狙う可能性があった。湧川大主の武装船には半分の鉄炮がないが、まだ六つの鉄炮がある。湧川大主がどこにいるのかを把握しなければ、交易船を無事に送る事ができなかった。
 今帰仁グスクから消えた山北王の次男のフニムイと平敷大主と愛宕之子(あたぐぬしぃ)(攀安知の義弟)の行方はわからなかった。中山王の兵に囲まれていたグスクからどうやって逃げたのかわからなかったが、御内原の石垣から志慶真川へと落ちている綱が見つかり、それを使って志慶真川に逃げた事がわかった。マウシ(山田之子)の兵と奥間のサタルーの兵が志慶真川から御内原に侵入したあと、志慶真川には誰もいなくなり、三人は志慶真川から逃げて行ったと思われるが、上流と下流を調べても手掛かりは何も見つからなかった。ウニタキは奥間の山人(やまんちゅ)たちにも頼んで三人の捜索をしていた。
 沖の郡島(うーちぬくーいじま)(古宇利島)から来たクーイヌルはマチルギと会って話をして、今帰仁の再建が終わったらマチルギと一緒に従兄弟(いとこ)たちと会い、その後、首里(すい)に行く事になった。娘の若ヌルが亡くなり、ナナがクーイヌルを継いだので沖の郡島に戻る必要もなく、首里のヌルとして新しい人生を送ろうと考えていた。今までずっとヌルとして生きて来たので他の生き方はわからない。馬天(ばてぃん)ヌルの下で働こうと思っていた。
 沖の郡島でクーイヌルを継いだナナは『マーハグチぬウタキ』で厳かな儀式をして、今帰仁に帰って来るとサタルーと一緒にどこかに行ってしまい、シンシン(杏杏)もシラー(久良波之子)と一緒にどこかに行ってしまった。
 四日後に戻って来たナナたちは、気が付いたら嘉津宇岳(かちゅーだき)の山頂にいたと言い、シンシンたちは八重岳(えーだき)の山頂にいたと言った。
 ナナとシンシンもようやく『マレビト神』と結ばれたのねと安須森ヌルから祝福された。
 四月十八日に梅雨に入ってしまったが、ほとんどの残骸は片付けられた。梅雨が明けるまでは屋内で、家の壁や床に使う竹を切ったり、莚(むしろ)を作ったり、やるべき事は色々とあった。
 シンシンは安須森ヌル、志慶真ヌル、サスカサ、ナナ、タマと一緒にクボーヌムイに籠もって儀式をして、『今帰仁ヌル』に就任した。
「わたしは明国(みんこく)(中国)に生まれて琉球のヌルになるなんて思ってもいませんでしたが、ササ(運玉森ヌル)と一緒に神様の事を調べる旅に出て、『伊予津姫(いよつひめ)様』から、わたしは『吉備津姫(きびつひめ)様(伊予津姫の娘)』の子孫に違いないと言われました。その事を調べなければなりません。ササと一緒に明国に行って調べてこようと思っています」
 シンシンがそう言うと、「その時はわたしも一緒に行くわよ」と『アキシノ』は言ってくれた。
「あたしも行くわよ」と『ユンヌ姫』の声が聞こえ、
「あたしも行くわ」と『クボーヌムイ姫』の声も聞こえた。
 『クボーヌムイ姫』はユンヌ姫の姪で、ユンヌ姫の姉の『安須森姫』の娘だった。先代のクボーヌムイ姫が跡継ぎに恵まれなくて、クボーヌムイ姫を継いでいた。
「ササが子供を生んで、四、五年後になると思いますけど、よろしくお願いします」とシンシンは神様たちにお礼を言った。
 クボーヌムイヌルを継いだアキシノが、クボーヌムイヌルを『今帰仁ヌル』と名を改めたので、今帰仁ヌルはクボーヌムイヌルだった。アキシノの長女、サクラが二代目今帰仁ヌルを継ぎ、三代目は二代目今帰仁按司(マチルギの長男)の娘が継いだ。三代目今帰仁ヌルの母親はシネリキヨの子孫だったので、クボーヌムイ姫の声が聞こえず、サクラの娘がクボーヌムイヌルを継いで志慶真村のヌルになった。以後、『志慶真ヌル』がクボーヌムイヌルを継いでいたが、三十三年前にアキシノの血を引く志慶真ヌルは絶えてしまった。今年の三月、島添大里グスクの女子サムレーだった『シジマ』がアキシノの子孫だとわかり、志慶真ヌルを継いだのと同時にクボーヌムイヌルも継いでいた。
 アキシノの血を引いてはいないが、アキシノと同じ『伊予津姫』の子孫であるシンシンが今帰仁ヌルを継ぐ事になり、クボーヌムイヌルも継いだ。沖の郡島にクーイ姫が二人いたように、クボーヌムイにも二人のクボーヌムイ姫がいて、一人はアマン姫の孫で、もう一人は知念姫(ちにんひめ)の曽孫(ひまご)だった。志慶真ヌルがアマン姫の孫のクボーヌムイ姫に仕え、シンシンが知念姫の曽孫のクボーヌムイ姫に仕える事になった。今回、シンシンは二人のクボーヌムイ姫に祝福されて、今帰仁ヌルを継いでいた。
 アキシノもつい最近まで、知念姫の曽孫のクボーヌムイ姫の事は知らなかった。ササと一緒にヤマトゥに行き、『瀬織津姫(せおりつひめ)』と会い、『伊予津姫』と会って琉球に帰り、クボーヌムイに戻ると知念姫の曽孫のクボーヌムイ姫がアマン姫の孫のクボーヌムイ姫と一緒に迎えてくれて、瀬織津姫琉球に連れて来てくれたお礼を言われたのだった。
 梅雨に入って四日後の小雨の降る中、首里から女子サムレーたちがやって来た。首里の隊長のマナミーが各地から数人づつ集めて五十人を連れてきた。驚いた事に思紹(ししょう)(中山王)の側室たちも女子サムレーの格好をして一緒に来ていた。
「王様(うしゅがなしめー)から、奥方様を手伝ってこいと言われました。今帰仁が再建されたら、その後はお前たちの好きにしていいとも言われました」とユイがマチルギに言った。
「まあ、王様がそんな事を言ったの」とマチルギは驚いた。
今帰仁が再建されたら、首里按司を島添大里按司様に譲って隠居するから側室はいらないそうです」
首里按司を隠居するですって。まったく、王様にも困ったものね。でも、あんたたちが来てくれたのは助かるわ。一緒に城下を再建しましょう」
 山グスクにいたジルムイ(サハチの次男)の妻のユミとマウシの妻のマカマドゥも子供たちを連れてきた。サグルーの妻のマカトゥダルは妊娠中なので首里グスクの御内原に入ったという。子供たちは父親との再会を喜んだ。
 与論島(ゆんぬじま)に帰る麦屋(いんじゃ)ヌル(先代与論ヌル)も一緒に来て、「ヤンバルの長老たちも名護まで一緒でした」とマチルギに知らせた。
「長老たちも解放されたのね」と言ってから、マチルギはマナビー(チューマチの妻で攀安知の次女)の事を心配した。父親は亡くなったけど母親と会って心の傷が癒えればいいと願った。
「トゥイ様(先代山南王妃)とナーサ(宇久真の女将)様も一緒に来て、長老たちと一緒に名護で降りました」
「トゥイ様も来たの?」とマチルギは驚いてから、トゥイの姉のマティルマ(先代永良部按司の妻)が名護にいる事を思い出し、心配して来たのかと納得した。
 島添大里の女子サムレーの隊長、リナーも来たので、サスカサたちはササの様子を聞いた。
「ササは昨日、首里の御内原に移りました。本人はまだ大丈夫だと言って断っていたのですが、王様がお輿(こし)を送って来たので、しぶしぶお輿に乗って首里に行きました」
「御内原に入ったのなら安心だわね」とシンシンとナナも一安心した。
「若ヌルたちも首里に行ったのですか」とタマが聞いた。
「玻名(はな)グスクヌルと一緒にササのお輿に従って首里に行ったわ」
「島添大里にはヌルがいなくなっちゃったわね」とサスカサが言うと、
須久名森(すくなむい)ヌルが来たので大丈夫よ」とリナーは言った。
「タミーが来てくれたの?」とナナが聞いた。
「ササの代わりに島添大里を守るって言っていたわ。呼んだわけじゃないんだけど、神様からササが首里に行くって聞いてやって来たみたい」
「そう。タミーがいれば大丈夫よ」とシンシンがサスカサに言った。
 一徹平郎(いってつへいろう)たちも来たので、「グスクの再建を頼むわ」とマチルギは言って、慶良間之子に案内させた。
 同じ日に屋部(やぶ)ヌル(先代名護ヌル)が伊江(いー)ヌルを連れて来た。マチルギは安須森ヌルと一緒に伊江ヌルと会った。
「この娘(こ)、わたしの姪なのよ。父親が戦死して、この娘の弟が按司を継いだんだけど、中山王の兵が伊江島に攻めて来ないかと心配してやって来たのよ」と屋部ヌルが説明した。
 奄美の島々の事は前もって計画したが、伊江島(いーじま)の事は計画していなかった。マチルギは苗代大親とヒューガと相談して、伊江按司が中山王に従うと誓えば、そのまま按司に任命しようと決めた。そして、奄美に行く前にサグルーを伊江島に送る事に決まった。
 翌日には、娘の若ヌルを連れた本部(むとぅぶ)ヌルが瀬底(しーく)の若ヌルと一緒にやって来た。瀬底の若ヌルはまだ十五、六歳なのに腰に刀を差した勇ましい姿だった。その姿を見たシンシン、ナナ、タマ、サスカサは興味を持って、マチルギの屋敷に入って行く二人を追って行った。
 屋敷からマチルギと安須森ヌルが出て来て、本部ヌルと瀬底の若ヌルと会った。
「この娘(こ)の父親は兄のテーラー(瀬底大主)なのです」と本部ヌルが言ったので、マチルギたちは驚いた。
「父を殺したのは誰ですか」と瀬底の若ヌルは聞いた。
「本部のテーラーを殺したのは兼次大主(かにしうふぬし)よ」とマチルギが答えた。
「嘘よ。兼次大主は父の味方だわ」
テーラーは味方に斬られたのよ」
「そんなの信じられないわ。本当は誰が殺(や)ったの?」
 ウタキ(御嶽)でお祈りしていた勢理客(じっちゃく)ヌルを山北王が斬り、それを見ていたテーラーと山北王が斬り合いを始め、テーラーが転んだ隙に、山北王が『霊石』を斬って雷に打たれて死んだ。山北王の死体を呆然と見ていたテーラーを、兼次大主が誤解して斬り合いになって、テーラーは斬られたとサスカサが説明したが、瀬底の若ヌルは信じなかった。
「あなた、それを見ていたの?」
「見ていた人から聞いたのよ。その人は残念ながら首里に帰ってしまったわ」
「父は兼次大主より強いわ。兼次大主に斬られるはずなんかないわ」
「その時、中山王の兵が崖をよじ登って攻め込んできたのよ。テーラーがそっちを見た時、兼次大主に斬られてしまったのよ」と『クボーヌムイ姫』の声が聞こえた。
「誰なの?」と瀬底の若ヌルがサスカサに聞いた。
 サスカサが答える前に、「クボーヌムイ姫よ」と『ユンヌ姫』の声がした。
「あなた、今の声も聞こえた?」とサスカサが瀬底の若ヌルに聞いた。
 瀬底の若ヌルはうなづいた。
「ユンヌ姫様は見ていなかったの?」とシンシンが聞いた。
「あたしは霊石が斬られた後、お祖母様(ばあさま)(豊玉姫)を迎えに行ったから見ていないのよ」
「ユンヌ姫様って誰なの?」と瀬底の若ヌルがサスカサに聞いた。
与論島の神様よ。『アマン姫様』の娘さんなのよ。そして、クボーヌムイ姫様はクボーヌムイの神様で、アマン姫様のお孫さんよ」
「アマン姫様‥‥‥確か、『シーク姫様』はアマン姫様の曽孫だって、母から聞いた事があるわ」
「シーク姫はあたしの姉の『真玉添姫(まだんすいひめ)』の孫なのよ」とユンヌ姫が説明した。
「あなたはシーク姫様の子孫なの?」とナナが聞いた。
 瀬底の若ヌルはうなづいた。
「四月十一日、突然、神様の声が聞こえるようになって、シーク姫様から、父が戦死した事を知らされたのよ。すぐに敵(かたき)を討ちに行かなければならないって思ったけど、神様に止められたわ。まだ今帰仁は混乱しているから落ち着くまで待てって言われたの。その二日後、本部ヌルから父の遺体が本部に来たって知らせが入って、母と一緒に本部に行って、亡くなった父と会ったのよ」
 瀬底の若ヌルは涙をこぼしたが、涙を拭うと強気になって、「あたしは父の敵を討ちに来たのよ」と言った。
テーラーを斬った兼次大主は中山王のサムレー大将の山田之子(やまだぬしぃ)(マウシ)に斬られて亡くなったわ」とクボーヌムイ姫が言った。
「敵だった兄の遺体をどうして、本部まで運んでくれたのですか」と本部ヌルが聞いた。
「中山王はテーラーを殺す気はなかったのよ。何とかして寝返らせたかったの。でも、寝返らせる前に、山北王が騒ぎを起こして、助ける事はできなかったのよ」とマチルギが言った。
「どうして、兄を助けようとしたのですか」
テーラーはわたしたちと同じヂャンサンフォン(張三豊)様の弟子だからです。弟子同士で争う事をヂャンサンフォン様は禁止しています」
「ヂャンサンフォン様って、武当拳の?」と瀬底の若ヌルが聞いた。
「そうよ。お父さんから聞いているでしょ」
「お父さんは武当拳を教えてくれたわ。お父さんは南部に行った時、新(あら)グスクのガマ(洞窟)でヂャンサンフォン様の指導を受けたって言っていたわ」
「その時、わたしも一緒だったのよ」とサスカサが言った。
「えっ!」と驚いた瀬底の若ヌルはサスカサを見て、「もしかしたら、サスカサさんですか」と聞いた。
 サスカサはうなづいた。
「サスカサさんは島添大里のヌルなんだけど、とても強いって、お父さんが言っていたわ」
「あたしなんかまだまだよ。ここにいる人たちはみんな、あたしよりも強いわ」
「えっ、みんな、武当拳を身に付けているのですか」
「中山王がヂャンサンフォン様のお弟子だから、中山王の兵たちは勿論、ヌルたちや女子サムレーたちも皆、武当拳を身に付けているのよ」とマチルギが言った。
「中山王も‥‥‥戦が始まる前に父が瀬底島(しーくじま)に来て、『俺にもしもの事があったら、武当拳を身に付けている者を頼れ。みんな仲間だからお前を助けてくれるだろう』って言ったの。武当拳を身に付けている人を探すなんて大変な事だって思っていたけど、父は中山王を頼れって言いたかったのですね」
「そうよ。あなたはわたしたちの仲間よ」と安須森ヌルが言った。
 瀬底の若ヌルはサスカサと武当拳の試合をして、サスカサの強さを知り、サスカサに連れられてヌルの屋敷に入ると、安心したのか急に大声で泣き始めた。

 

 

 

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3-03.逃避行(第三稿)

 今帰仁(なきじん)の戦(いくさ)が始まる半月ほど前の三月二十八日、武装船に乗って逃亡した湧川大主(わくがーうふぬし)(攀安知の弟)は与論島(ゆんぬじま)に着いた。前日の夕方、運天泊(うんてぃんどぅまい)を出帆し、奥間(うくま)沖で一泊してから与論島に向かっていた。
 武装船が与論島に近づいて来た時、与論按司(ゆんぬあじ)は驚いた。今頃、どうして湧川大主が与論島に来るのか理解できなかった。
 与論按司のヘーザは国頭按司(くんじゃんあじ)の次男で、与論按司になる前は湧川大主の配下として運天泊で活躍していた。按司になれたのは湧川大主のお陰だと感謝して、鬼界島(ききゃじま)(喜界島)攻めに行く湧川大主のために滞在する屋敷まで建てていた。
 一月の半ば、山北王(さんほくおう)(攀安知)が奥間を焼き払うと、父の国頭按司は怒り、山北王を攻めるから若い者たちを鍛えて戦の準備をしろと言ってきた。二月になると、怪しまれるからまだ来なくもいいと言ってきて、三日前には、中山王(ちゅうざんおう)(思紹)が山北王を攻める事に決まったので、お前は二十人を率いて来いと言ってきた。国頭按司だけでなく、羽地按司(はにじあじ)も名護按司(なぐあじ)も恩納按司(うんなあじ)も金武按司(きんあじ)も中山王と一緒に今帰仁を攻めるという。ヘーザは驚き、真相を確かめるために配下の者を今帰仁に送ったが、まだ戻って来てはいなかった。
 二十五年前の今帰仁合戦の時、山北王(帕尼芝)の娘婿だった父は兵を率いて出陣し、今帰仁グスクを守り中山王の大軍を追い返していた。今帰仁グスクは簡単に落とせるグスクではないと言っていた父が、中山王と一緒に今帰仁グスクを攻めるなんて信じられなかった。前回と同じように、中山王の大軍が攻めたとしても、攻め落とす事はできないだろう。もし、中山王が攻め落とすのを諦めて引き上げた場合、父と一緒に今帰仁グスクを攻めたら、戦が終わった後、与論按司ではいられなくなるだろう。下手をしたら裏切り者として殺されるかもしれない。ヘーザは父からの援軍要請には応えないつもりだった。
 武装船に迎えの小舟(さぶに)を出しながら、湧川大主は自分が裏切ったかどうかを見に来たのだろうか。それとも、与論島の兵を連れて行くつもりなのだろうかとヘーザは心配した。
 ヘーザが不安な面持ちで湧川大主を迎えると、
「遊びに来たぞ」と湧川大主は陽気に笑った。
 湧川大主と一緒にいるのはサムレーではなく、側室と子供たちだった。
 側室たちを避難させに来たのかとヘーザは思った。
「俺は逃げて来た。しばらく世話になるぞ」と湧川大主は言って、ヘーザを誘って砂浜を歩いた。
「お前も知っていると思うが、大戦(うふいくさ)が始まる。山北王はお前の親父、羽地按司、名護按司、恩納按司、金武按司に裏切られた。ヤンバル(琉球北部)の按司たちが中山王と一緒に今帰仁に攻めて来る。山北王は運天泊を守らずに水軍の者たちも皆、今帰仁グスクに入れと言ったんだ。戦わずに運天泊を敵に明け渡すなんてできるか。俺は馬鹿らしくなって、戦から抜ける事にしたんだ」
「冗談でしょ」とヘーザは言って笑った。
「本当の話さ。山北王と別れて、今は清々した気分だ。今帰仁や運天泊に縛られる事なく、どこにでも行けるんだ。あの船に乗ってヤマトゥ(日本)まで行って来ようと思っている」
 ヘーザは唖然とした顔で湧川大主を見ていた。山北王の弟として、兄を補佐してきた湧川大主が山北王を裏切るなんて信じられなかった。
「戦が終わるまでここにいさせてくれ。今帰仁グスクが落ちる事はないと思うが、前回の時のように山北王が戦死するかもしれん。山北王が戦死すれば俺も安全だが、生きていれば俺を執拗に追ってくるだろう。山北王の生死によって、今後の行動も変わってくるからな、その事だけは確認しなければならん」
 武装船には百人以上も乗っていた。かつての仲間だったナグマサがいて、再会を喜び、ヘーザは詳しい事情を聞いた。
「俺のせいなんだ」とナグマサは言って、武装船から外した鉄炮(てっぽう)(大砲)を今帰仁に運ぶ途中、敵に奪われた事を話した。
「何て事を‥‥‥」
 謝って済む問題ではなかった。湧川大主が弟だとしても山北王は許さないだろう。湧川大主が家族を連れて逃げて来たわけをヘーザは納得して、戦の状況を調べるために配下の者を再び、今帰仁に送った。
 翌日、国頭按司からの使者が書状を持ってきた。書状には早く来いという催促と、湧川大主が与論島に行くかもしれないから、うまく騙して捕まえろと書いてあった。ヘーザは迷わず、父の書状を湧川大主に見せた。
 湧川大主は書状を読むと笑って、「俺を捕まえるか」とヘーザに聞いた。
「恩人を売ったりしませんよ」とヘーザは言った。
「今回の戦で山北王が勝った場合、俺を捕まえて山北王のもとに連れて行けば大手柄になるぞ。こんな島にいないで、今帰仁に行って重役に就けるかもしれん」
「俺はこの島が気に入っています。ここの按司で充分です」
「そうか」と言って湧川大主は笑った。
 湧川大主がこの島に来て、まだ一日しか経っていないが、以前の湧川大主ではないという事にヘーザは気づいていた。以前はいつも難しい顔をしていたのに、笑っている事が多く、昨夜は島の人たちと一緒に酒を飲んで騒いでいた。昔の湧川大主だったら、そんな事は絶対にしなかった。
 四月になって、中山軍が攻めてきて、戦が始まったと知らせが届いた。敵は鉄炮を撃って今帰仁グスクを攻撃しているらしいが、落ちる事はないだろうと湧川大主もヘーザも思っていた。ところが、四月十一日に今帰仁グスクが攻め落とされたという知らせが二日後に届いた。大雨の降る中、グスクが攻め落とされ、その後に雪が降ってきて、辺り一面真っ白になったという。夢でも見ているのかと湧川大主もヘーザも本気にしなかった。
 その二日後、湧川大主の娘婿の志慶真(しじま)のジルーが湧川大主の長女の勢理客(じっちゃく)若ヌルを連れて与論島に来た。勢理客若ヌルから詳しい話を聞いて、山北王も本部(むとぅぶ)のテーラー(瀬底大主)もサムレー大将たちもみんな戦死した事を知った。
「兄貴が死んだか‥‥‥」と湧川大主は言った。
 兄貴が死んで追っ手が来ない事にホッとしたが、こんなにもあっけなく死んでしまうなんて思ってもいなかった。きっと、俺の事を恨みながら死んだに違いない。
 少し黙っていた湧川大主は顔を上げてヘーザを見ると、「戦に勝った中山王は奄美の島々を手に入れるために攻めて来るぞ」と言った。
「中山王の兵と戦って、見事に討ち死にします」とヘーザは厳しい顔付きで言った。
「馬鹿な事を言うな。お前の親父は中山王に味方した国頭按司だ。抵抗せずに降参すれば、今まで通りにこの島の按司でいられるかもしれん。もう山北王はいないんだ。山北王に忠義立てする必要はない。島の人たちのためにも戦はするなよ」
 翌日の四月十六日、湧川大主は勢理客若ヌルを乗せて与論島を去った。山北王がいなくなって状況が変わったので逃げる必要もなくなった。ほとぼりが冷めるのを待てば今帰仁や故郷にも帰れるかもしれないと、幼い子供を連れて来た家臣たちは与論島に残る事になり、子供連れの船乗りたちも下りる事になった。
 湧川大主は運天泊から持って来た財宝を彼らに分け与えて、無駄死にはするなよと別れを告げた。志慶真のジルーは中山王の兵がいつ奄美攻めに来るのか調べるために再び、今帰仁に戻った。
 永良部島(いらぶじま)(沖永良部島)の与和の浜(ゆわぬはま)に着くと永良部按司が驚いた顔をして湧川大主を迎えた。
 名護(なぐ)にいる永良部按司の母親のマティルマから、今帰仁城下の全焼と中山王が今帰仁に攻めて来るという知らせが永良部島にも届いていた。戦が始まるというのに、鬼界島を攻めに行くのだろうかと永良部按司は不思議に思いながら迎えの小舟を送ったのだった。
 湧川大主から事情を聞いて永良部按司は驚き、山北王が中山王に負けて戦死したと聞いて目を見開き、中山王の兵がこの島にも攻めて来るだろうと聞いて腰を抜かした。
 永良部按司は湧川大主の一つ年下の従弟(いとこ)で、永良部島で生まれたので、初めて会ったのは二人の祖父(帕尼芝)が戦死した年の暮れだった。夏まで今帰仁に滞在して一緒に武芸の修行に励んだが、いつも、当時、若按司だった兄に怒鳴られていて、何となく頼りない奴だと湧川大主は思った。十七年後、湧川大主が本部のテーラーと一緒に奄美大島(あまみうふしま)を攻める時に再会して、若い頃の話を肴に酒を酌み交わした。当時、永良部按司は若按司だったが、この島の事は任せられると湧川大主は認めた。その後も鬼界島攻めの行き帰りに永良部島に寄って共に酒を飲み、戦の疲れを癒やしていた。
 側室と子供たちが上陸すると、永良部按司の案内で稲戸(にゃーとう)にある玉グスクに入って湧川大主たちはくつろいだ。
 玉グスクは古いグスクで、湧川大主の祖父の帕尼芝(はにじ)が永良部島を攻めた時も按司のグスクだったという。越山(くしやま)の中腹に、奄美大島の浦上(うらがん)から来た孫八(まぐはち)が新しいグスクを築いて、今はそこが按司のグスクになっていた。
 湧川大主がヤマトゥ(日本)の絵地図を眺めながら、どこに行こうかと考えていたら孫八が血相を変えてやって来た。
「山北王が中山王にやられたって本当なのですか」
「本当だ。俺の娘は今帰仁グスクにいて、中山王の兵が攻めて来てから攻め落とされるまで、すべてを見ている」
「娘さんは無事だったのですか」
「若ヌルだったので殺されなかったようだ。俺の配下が与論島まで連れて来てくれた。娘の話だと今帰仁グスクは敵の鉄炮にやられて山北王の御殿(うどぅん)も崩れ落ちたそうだ」
「中山王は鉄炮を持っているのですか」
「俺が乗っているのと同じ武装船を中山王は持っているんだ。船から鉄炮を外してグスク攻めに使ったんだよ」
鉄炮を持った中山王の水軍がこの島に攻めて来るのですね」
按司にも言ったが降参した方がいいぞ。勝てる相手ではない。按司は山北王の一族なので殺されるかもしれんが、他の者たちは助かるだろう」
 孫八が永良部島に来てから五年半が過ぎていた。
 孫八は『平維盛(たいらのこれもり)』の弟の『有盛(ありもり)』の子孫で、奄美大島の浦上の領主、孫六の弟だった。永良部島に来る前年、湧川大主と本部のテーラー奄美大島の浦上に来て、山北王に従う事に決まった。その年の暮れ、孫八は兄の代理として山北王に挨拶をするために今帰仁に行った。今帰仁グスクの高い石垣を見た孫八は驚いた。若い頃に浦添(うらしい)に行って、浦添グスクを見た時も驚き、自分もあんなグスクを造ってみたいと思った。その時、中グスクや勝連(かちりん)グスクも見た。グスクには入れなかったが、奄美大島にあんなグスクを造ったら、誰もが驚いて、皆が従うに違いないと思った。浦上に帰って兄に話すと、夢を見ているんじゃないと言われ、その後、その事は忘れた。
 今帰仁グスクを見て、若い頃の夢が蘇った。外から見るだけでなく、グスク内に入る事もでき、石垣の修復をしていた石屋からためになる話も色々と聞いた。テーラーと一緒に羽地グスク、国頭グスク、名護グスクも見て回り、グスクを築くべき地形や縄張りも学んだ。
 夏になって浦上に帰る途中、永良部島に寄った孫八は当時、若按司だった永良部按司と仲良くなった。若按司と一緒に島内を散策して、『後蘭(ぐらる)』と呼ばれる地にグスクを建てる許可を得た。一旦、浦上に帰り、家族を連れて永良部島に来たのが五年半前の事だった。
 後蘭にグスクを築き、そのグスクを気に入った按司が、今のグスクは古いので是非とも新しいグスクを築いてくれと言ってきた。孫八は越山の周辺を歩き回ってグスクを築く場所を決めて、グスクを築き始めた。グスクが完成する前に按司は亡くなってしまったが、按司となった若按司も新しいグスクが気に入って、孫八を重臣として迎えてくれた。戦のために築いたグスクだが、中山王の兵が攻めて来るなんて想定外の事だった。按司が戦をすると言えばしなければならないが、島の人たちを巻き込みたくはないと孫八は思った。
 永良部島に滞在中、湧川大主は永良部按司の妹で真喜屋之子(まぎゃーぬしぃ)に嫁いだマナビーは病死ではないと言って真相を話した。永良部按司は驚き、真喜屋之子は未だに逃げているのかと聞いた。
「縁があったらヤマトゥで奴と会えるかもしれん。会ったら、敵(かたき)は必ず討ってやるよ」と湧川大主は言った。
 永良部按司は中山王が攻めて来るまでこの島にいて、武装船の鉄炮で中山王の船を追い払ってくれと湧川大主に頼んだ。
「中山王は五、六百の兵で攻めて来るだろう。鉄炮で敵の船に命中させるのは難しい。一隻や二隻を沈めても、半数以上の兵は上陸する。上陸してから鉄炮でグスクを攻めるに違いない。孫八が造ったグスクは立派だが鉄炮で攻められたら二、三日で攻め落とされるだろう」と湧川大主は言ってから笑うと、「今帰仁合戦から逃げて来た俺が、ここで中山王と戦う理由はない」と言った。
 長男のミンジを連れて浜辺を散歩していた湧川大主は、五、六歳の娘を連れた女と出会った。ミンジと娘が仲良く遊び始めたので、湧川大主は女に声を掛けて話をした。女は湧川大主を知っていて、『瀬利覚(じっきょ)ヌル』だと名乗った。湧川大主はヌルだと聞いて驚いた。ウミンチュ(漁師)のおかみさんだと思っていた。
「祖母は『永良部ヌル』でしたが、あなたの祖父(帕尼芝)に夫だった按司を殺されて、『瀬利覚ヌル』になったのです」
 祖父が永良部島を攻め取ったのは湧川大主が生まれる前の話で、父(珉)が山北王になるまでは本部で暮らしていたので、永良部島の事なんて何も知らなかった。
「俺は敵(かたき)というわけか」と湧川大主は笑った。
 瀬利覚ヌルは湧川大主を見て笑うと、「お互いに孫ですからね。わたしが生まれる前の事で、今さら恨んでも仕方のない事です」と言って、海辺で遊んでいる子供たちを見た。
「あの娘(こ)の父親は『マレビト神様』というわけか」
 瀬利覚ヌルは驚いた顔をして湧川大主を見ると、「ヌルの事をよく御存じですね」と言った。
「先代の中山王(武寧)の娘に浦添ヌルがいた。父親が戦死して今帰仁に逃げて来たんだ。今は奄美大島にいるんだが、そのヌルからヌルの事を色々と聞いたんだよ」
「どうして、奄美大島に行ったのですか」
奄美按司の娘を奄美ヌルにするために指導しているんだ。本人も知らなかったんだが、そのヌルの御先祖様は鬼界島生まれだったらしい。鬼界島には『キキャ姫様』という神様がいて、そのヌルはキキャ姫様の声が聞こえるんだよ。この島にも神様がいるのか」
「大山(うふやま)に『イラフ姫様』がいらっしゃいます。イラフ姫様の子孫たちがこの島で暮らしていましたが、初代今帰仁按司の次男が永良部按司としてこの島に来ました。そして、初代今帰仁ヌル(アキシノ)様の孫娘が永良部ヌルとしてこの島に来ました。初代の永良部ヌル様はとてもシジ(霊力)が高くて、この島を統治していたヌルの跡を継いで、イラフ姫様にお仕えしました。永良部ヌルは代々、母から娘へと受け継がれて、わたしが生まれて、あの娘が生まれたのです」
「ほう、凄いな。すると、そなたは初代の今帰仁ヌルの子孫というわけだな」
「そうです。わたしは『イラフ姫様』にお仕えしなければならないのです」
「『イラフ姫様』の声が聞こえるのだな」
 瀬利覚ヌルはうなづいた。
「今の永良部ヌルには聞こえないのか」
按司様(あじぬめー)の妹ですから聞こえません」
「神様の声が聞こえなくて、ヌルが務まるのか」
「今のヌルはほとんどが神様の声が聞こえないのです。按司を守るのが仕事ですから、決められた儀式を決められた通りにやればそれでいいのです」
「神様の声が聞こえるヌルは特別のヌルという事か」
「そうです。わたしはこの島から出た事がないので知りませんが、今帰仁に行った事のある永良部ヌルの話だと琉球の南部にいる『馬天(ばてぃん)ヌル様』はウタキ(御嶽)巡りをして様々な神様の声を聞いたようだと言っていました」
「馬天ヌルか‥‥‥」と言って湧川大主は海を見た。
 永良部島のヌルが馬天ヌルを知っているのが不思議だった。馬天ヌルはウタキ巡りと称してヤンバルを巡っていた。ヌルの事など一々気にも留めなかったが、馬天ヌルはヤンバルのヌルたちの心を奪い、ヤンバルの按司たちの裏切りに一役買っていたのかもしれないと今更ながら思った。
「御存じですか」と瀬利覚ヌルが聞いた。
 湧川大主は微かに笑って瀬利覚ヌルを見るとうなづいた。
「運天泊に来た時に会った事がある。俺の叔母の勢理客(じっちゃく)ヌルも、馬天ヌルは凄いヌルだと言っていた。馬天ヌルは最初にヤンバルに来た時は佐敷按司の妹に過ぎなかったんだが、二度目にヤンバルに来たときは中山王の妹になっていたんだ。ヌルの力を使って佐敷按司が中山王になるのを助けたのだろう」
「馬天ヌル様は中山王の妹だったのですか。世の主(ゆぬぬし)様(按司)の母親は先代の中山王の妹でした。先代の世の主様が亡くなった後、今帰仁に行きましたが御無事でしょうか」
「中山王が今帰仁を攻める前に今帰仁の城下は全焼してしまったんだ。グスク内に避難民が溢れて、グスク内の屋敷で暮らしていた永良部様(マティルマ)は越来(ぐいく)様(マアミ)と一緒に屋敷を避難民に明け渡して名護に避難したそうだ。きっと無事だろう」
「そうですか。安心しました。奥方様(うなぢゃら)には大変お世話になりました」
 湧川大主は瀬利覚ヌルと別れ、玉グスクに帰りながら奄美大島にいるマジニ(前浦添ヌル)を思い出していた。早く、マジニに会いたかった。
 四月二十日に梅雨に入り、その翌日に志慶真のジルーが永良部島に来て、中山王の兵は梅雨明けに攻めて来ると知らせた。湧川大主はジルーを乗せて永良部島を去って徳之島(とぅくぬしま)に向かった。
 徳之島に着くと徳之島按司に迎えられ、中山王の兵が梅雨明けに攻めて来る事を知らせた。
 徳之島按司は永良部按司の弟で、湧川大主の義弟だった。湧川大主の妹のマキクが徳之島按司に嫁いでいた。マキクが嫁いだ時は畦布大主(あじふうふぬし)を名乗って永良部島にいて、倭寇(わこう)の拠点だったヤマトゥグスクを守っていた。山北王(攀安知)が徳之島を攻める時に永良部島に寄った時、畦布大主を徳之島按司に任命してとマキクからせがまれて、それもいいかなと思って決めた。急遽、畦布大主も徳之島攻めに参加する事になり、戦で活躍して徳之島按司になったのだった。
 永良部按司からの知らせで、山北王が中山王に滅ぼされた事は徳之島按司は知っていた。マキクは湧川大主から詳しい話を聞いて、姉の今帰仁ヌルと兄の山北王が戦死したなんて信じられないと言って悲しんだ。
 徳之島には一泊だけして、その二日後に奄美大島万屋(まにや)に着いた。ウミンチュたちが迎えに来て、湧川大主は上陸した。マジニの喜ぶ顔を思い浮かべながら万屋グスクに入ったが、ヌル屋敷にマジニはいなかった。
 湧川大主が来た事を知って慌ててやって来た奄美按司は驚いた顔をして、「生きていらっしゃったのですか」と言った。
「戦の事を知っているのか」
「兄(志慶真大主)から知らせが届いて、山北王が中山王に敗れたと書いてありました。山北王が戦死したと書いてあったので、湧川大主殿も戦死したものと思っておりました」
 湧川大主は逃げて来た事を簡単に説明して、マジニの事を聞いた。
「マジニ様は鬼界島に行きました」
「何だって?」
「危険だからやめなさいと止めたのですが、鬼界島は母の御先祖様の故郷だから大丈夫だと言って行ってしまいました」
「いつ、行ったんだ?」
「三月の半ば頃です。帰りが遅いので心配になってウミンチュを迎えに行かせたら、心配いらないと言って、まだ向こうにいます」
 湧川大主は万屋のウミンチュに頼んでマジニを迎えに行かせた。
 グスク内の庭で、去年、武当拳(ウーダンけん)を教えた若者たちと一緒に酒を飲んでいたら、マジニが驚いた顔をしてやって来た。
「生きていたのですね?」
今帰仁の戦を知っているのか」と湧川大主は不思議そうな顔をした。
「浮島(那覇)にいた鬼界島のお船が帰って来て、中山王の兵が凱旋(がいせん)して来た事を知らせたのです。山北王もサムレー大将たちもみんな戦死したと聞いて、湧川大主様も戦死したと思っていました。まさか、生きていて万屋に来るなんて‥‥‥」
 マジニは目に涙を溜めて湧川大主を見ていた。
「そうか。鬼界島の船が浮島にいたのか」と言って湧川大主は笑い、マジニを誘ってヌルの屋敷に入った。
 マジニはこぼれた涙を拭くと、「今帰仁グスクに入らずに、運天泊を守っていて助かったのですか」と聞いた。
 湧川大主は軽く笑うと、「戦が始まる前に逃げて来たのさ」と言った。
「えっ?」とマジニはポカンとした顔をした。
「山北王はヤンバルの按司たちに裏切られたんだ。ヤンバルの按司たちは皆、中山王と一緒に今帰仁に攻めて来た。ヤンバルの按司たちに裏切られるような奴は山北王の資格はない。俺も兄貴を見捨てて逃げて来たというわけさ」
「そうだったのですか‥‥‥」
 湧川大主が去年の夏、『俺は山北王の弟をやめる』と言った意味がマジニにもようやくわかったような気がした。
 側室や子供たちも一緒に連れて来たと湧川大主は説明して、一緒にヤマトゥに行こうと誘った。
 中山王の兵が攻めて来るのなら鬼界島を守らなければならないと言ってマジニは断った。
「そうか」とうなづいて、湧川大主も無理に勧めなかった。三人の側室と一緒に船旅を続けたら、マジニがいやな思いをするのは目に見えていた。落ち着き場所が決まったら、改めて迎えに来ようと思い、「二人だけで会える場所がどこかにないか。ここにいると側室や娘たちがうるさいからな」と言った。
「赤木名(はっきな)に行けば、按司様がお屋敷を用意してくれるでしょう」
 湧川大主は首を振った。
「奴は危険だ。俺を捕まえるかもしれん」
「まさか?」
「奴の兄貴の志慶真大主(しじまうふぬし)は中山王に降伏している。山北王が中山王に敗れた事を知らせ、俺が来たら捕まえろと言ったに違いない。奴に俺と戦う度胸はあるまいが、お前と二人だけで赤木名に行けば捕まるだろう」
「このお屋敷ができる前に使っていた小屋がアマンディー(奄美岳)にあります」
「よし、そこに行こう」
 湧川大主は配下の者たちに奄美按司が攻めて来るかもしれんから気を付けろと注意をして、若者たちには酒盛りを続けさせ、マジニと一緒にアマンディーに行き、二人だけの時を過ごして別れを惜しんだ。
 翌日、小雨の降る中、マジニは鬼界島に帰っていき、湧川大主は万屋を去って、トカラ列島の宝島を目指した。

 

 

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3-02.凱旋(第三稿)

 山北王(さんほくおう)(攀安知)を倒した六日後の四月十七日、サハチ(尚巴志、島添大里按司)は中山(ちゅうざん)軍を率いて首里(すい)に凱旋(がいせん)した。
 今帰仁(なきじん)を発ったのは十四日で、その日は名護(なぐ)まで行き、二日目は恩納(うんな)まで、三日目は喜名(きなー)に泊まって、四日目に首里に到着した。
 首里に近づくに連れて沿道に集まる人々の数が増え、首里の大通りに入ると小旗を振った人々が溢れていた。
 先頭を行くのは苗代之子(なーしるぬしぃ)(マガーチ)で、苗代之子が率いる兵の後ろに、総大将のサハチと軍師のファイチ(懐機)がいて、フカマヌルと久高(くだか)ヌル、玉グスクヌルと知念(ちにん)ヌル、愛洲(あいす)ジルーとゲンザ(寺田源三郎)とマグジ(河合孫次郎)が従っていた。
 愛洲ジルーは船を親泊(うやどぅまい)(今泊)に置いたまま、妊娠しているササ(運玉森ヌル)の事を心配してサハチと一緒に戻ってきていた。
 サハチが率いる兵の後ろに、山北王妃のマアサと山北王の側室(そくしつ)のクン、ミサ、クリ、フミがお輿(こし)に乗り、お輿の脇には侍女たちが従っていた。
 マアサは島添大里(しましいうふざとぅ)に嫁いだ娘のマナビーに会うために、娘のウトゥタルを連れて首里に来た。マアサが浦添(うらしい)から今帰仁に嫁いだのは二十二年も前だった。その頃の首里は祖父の察度(さとぅ)(先々代中山王)が暮らしていた『首里天閣(すいてぃんかく)』があるだけで、あとは深い森が続いていた。マアサの記憶にある浦添の城下のように中山王の都となっている首里の賑わいを見て驚き、今帰仁グスクのような高い石垣に囲まれた首里グスクを見て驚き、まるで夢でも見ているようだと感じていた。
 クンは島尻大里(しまじりうふざとぅ)に嫁いだ娘のマサキと山南王(さんなんおう)(他魯毎)の世子(せいし)(跡継ぎ)になった息子のミンに会うために来た。マサキは山南王との同盟のために嫁いだので仕方がないが、若按司のミンが南部に行ってしまうなんて思ってもいなかった。ミンを山南王にして、中山王を倒すためだと山北王は言ったが、逆に中山王に倒されてしまった。戦(いくさ)が始まる前に国頭(くんじゃん)に帰っていたので、中山王の兵に捕まらずに済んだが、中山王のサムレー大将が迎えに来たので驚いた。捕まるのかと心配したら、マサキとミンに会わせるために南部に連れて行くと言った。国頭按司の父も会って来いと言うので今帰仁に行ったら、山北王妃、ミサ、クリ、フミも一緒に行くという。クンはみんなの無事にホッとして、首里に向かったのだった。
 ミサは父親の思紹(ししょう)に会うために、クリは故郷の糸満(いちまん)に帰るために娘のマタキを連れ、フミは故郷の佐敷に帰るためにウムチルとウムトゥクの二人の息子を連れていた。
 山北王の側室たちの後ろに小荷駄隊(こにだたい)の外間親方(ふかまうやかた)の兵が続き、波平大主(はんじゃうふぬし)が率いる山南王の兵、殿(しんがり)は与那原大親(ゆなばるうふや)が率いる兵だった。
 出陣する時は一千人余りもいたが、今帰仁の再建のために苗代大親(なーしるうふや)、久高親方(くだかうやかた)、慶良間之子(きらまぬしぃ)、兼(かに)グスク按司が率いる兵たちが今帰仁に残り、サグルー(山グスク大親)、ジルムイ(島添大里之子)、マウシ(山田之子)、シラー(久良波之子)が率いる兵たちは奄美の島々を平定するために今帰仁で待機していた。
 『アキシノ様』を助けるために今帰仁に行ったマチルギ(サハチの正妻)は今帰仁再建の総責任者として今帰仁に残り、補佐役として安須森(あしむい)ヌル(サハチの妹)も残っていた。
 ウニタキ(三星大親)は逃亡した山北王の次男のフニムイ、山北王の重臣だった平敷大主(ぴしーちうふぬし)、山北王の義弟の愛宕之子(あたぐぬしぃ)の行方を追っていた。
 城下の人たちの歓声を聞きながら首里グスクに入ったサハチは、山北王妃と側室たちを馬天(ばてぃん)ヌル(思紹の妹)に預けると、ファイチを連れて『龍天閣(りゅうてぃんかく)』に向かった。
 龍天閣の二階で早田(そうだ)五郎左衛門が木屑の中で彫り物に熱中していて、思紹が三階で待っていると教えてくれた。
 中山王(ちゅうざんおう)の思紹は三階の回廊から大通りの方を眺めていた。サハチとファイチの顔を見ると、「御苦労じゃった」と言ったが、その顔は笑ってはいなかった。
「戦(いくさ)には勝ちましたが、大勢の兵が戦死してしまいました」とサハチは言った。
 思紹は厳しい顔付きのまま、うなづいた。
「戦には犠牲は付き物じゃ。今帰仁グスクを攻め落とすのは容易な事ではないとわかってはいたが、あまりにも多くの兵を戦死させてしまった。戦死した者たちのためにも、二度と戦のない平和な世の中を作らなければならんのじゃ」
 女子(いなぐ)サムレーがお茶を持って来たので、サハチたちは部屋の中に入った。女子サムレーが去ると、
「ウニタキの配下が持って来たお前の書状を読んで、戦の経緯はよくわかった。勝連按司(かちりんあじ)(マチルギの兄)と越来按司(ぐいくあじ)(サハチの叔父)が戦死してしまうとはのう。思ってもいない事じゃった」と思紹は言った。
「敵の罠(わな)にはまってしまったのです。リュウイン(劉瑛)の弟子が十人いました。リュウインが作らせたと思われる投石機もありました。リュウインが明国(みんこく)(中国)に帰った後、弟子たちを山北王から切り離しておくべきでした」
「そうか。リュウインの弟子がいたか。その弟子たちはどうした?」
「皆、壮絶な討ち死にをしましたが、味方の被害もかなり出ました」
「そうか‥‥‥マチルギがササの代わりに今帰仁に行ったとは驚いたな。戦の後の事まで考えていなかったが、千代松(ちゅーまち)(七代目今帰仁按司)の曽孫(ひまご)のマチルギが今帰仁を再建するのが一番いいかもしれんな。ヤンバル(琉球北部)の按司たちもマチルギに従うじゃろう」
「チューマチ(サハチの四男)夫婦はいつ送ります?」
「グスクもボロボロなのに早く行っても仕方がない。按司の屋敷が再建されてからでいいじゃろう」
「チューマチの補佐役はマサンルー(佐敷大親)ですか」
「その予定じゃったが、勝連按司と越来按司が戦死してしまったので、考え直さんとならんな。勝連も越来も若按司が幼すぎる。後見役を付けなくてはなるまい」
「越来は按司も若按司も美里之子(んざとぅぬしぃ)も戦死しました」とファイチが言った。
 思紹はうなづいて、「若按司の倅が五歳なんじゃよ」と言った。
「美里之子の武術道場は誰かを探さなくてはならん。わしらが修行したあの道場をつぶすわけにはいかんからな」
「勝連はジルムイ(サハチの次男)夫婦に任せたらどうですか」とサハチは思紹に聞いた。
 思紹は驚いた顔してサハチを見て首を振った。
「ジルムイはサム(勝連按司)の娘婿じゃが、それだけで勝連按司を継ぐ事はできんのじゃよ。サムが勝連按司になれたのは、サムが勝連の者たちから信用されたのと、亡くなった若按司の嫁にマーシを迎えたからじゃ。マーシが産んだ今の若按司のサムには勝連の血が流れている。勝連の者たちはサムが按司になる事を願っているんじゃ。サムが成長するまで、誰かに後見させるしかあるまいな」
 サハチは成程と納得した。後見役となると勝連の者たちに疑いが生まれぬように、サムと関係ない者の方がいいかもしれないと思った。
奄美平定が終わった後も、ジルムイはサグルー(サハチの長男)と一緒に今帰仁に置いておくのがいいじゃろう。明日、四つのお寺(うてぃら)で戦死した者たちの供養(くよう)が行なわれる。その後、みんなで集まって今後の事を相談しよう」
 サハチとファイチが引き上げようとした時、馬天ヌルがミサを連れてきた。
「奥間(うくま)のミサです」とサハチが思紹に紹介した。
「なに、ミサか」と思紹はミサをじっと見つめて、「母親によく似ておる」と言ってから、「母親は元気か」と聞いた。
 ミサは首を振った。
「二年前に亡くなりました」
「そうじゃったのか」
「母は亡くなる時も、父は旅のお坊さんだと言って、本当の事は教えてくれませんでした。戦が終わった後、奥間ヌル様から本当の事を聞いて驚きました。わたしの父が中山王だったなんて信じられませんでした。わたしが中山王の娘だと知りながら、奥間ヌル様は山北王の側室にわたしを送り込んだのです。中山王と山北王が争いを始めた時、わたしを利用しようと思ったそうですが、結局、わたしは何も命じられませんでした」
「今まで奥間のために働いてくれて御苦労じゃった。わしの娘として歓迎する」
 ミサは父親を見つめてうなづいた。目の前にいる父親はミサが想像していた姿とはまったく違っていた。坊主頭で職人のような格好をしていて、どう見ても中山王には見えなかった。父親に会ったらすぐに奥間に帰ろうと思っていたミサは、もう少しここにいてみようと考えを変えていた。
「兄のサハチだ。よろしく」とサハチはミサに言った。
「初めて会った時、妹だとわかっていたんだが、奥間ヌルが知らせていないのに教えるわけにはいかなかったんだ」
「えっ、知っていたのですか。もしかして、奥間ヌル様から聞いたのですか」
「そうじゃない。亡くなってしまったが先代の中グスク按司はクマヌ(熊野)という山伏だったんだ。山伏の頃、奥間によく行っていて、俺を奥間に連れて行ってくれたのもクマヌなんだ。クマヌは按司を引退した後、久し振りに奥間に行って聞いてきたんだよ」
「そうだったのですか。今年の一月、油屋のユラが今帰仁に来て、南部の噂を教えてくれました。奥間ヌル様の娘の父親が島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)様だと言っておりましたが、あれは本当だったのですか」
「本当じゃよ」と思紹が笑いながら答えた。
「怒ったマチルギが刀を振り回してサハチを追いかけたと首里まで噂が流れてきたんじゃ」
「奥間ヌル様の『マレビト神様』は島添大里按司様だったのですね」
「その噂は山北王の耳にも入ったのか」とサハチがミサに聞いた。
「ユラの話を聞いていたクン様が山北王に話したら急に機嫌が悪くなったと言っていました」
「そうか。油屋のユラだったのか」
 今になって思えば、ユラのお陰で山北王を滅ぼす事ができたと言えた。お芝居好きなユラは安須森ヌルを慕って島添大里グスクに来て、しばらく滞在して、ハルとシビーと一緒にヤンバルにも行っている。女子サムレーたちから当時の様子を聞いたのかもしれない。ユラが島添大里グスクに来なかったら、首里の油屋でその噂を聞いていたとしても聞き流してしまって、今帰仁に行った時に話さなかったかもしれなかった。
「歓迎の宴(うたげ)を開かなくてはならんのう」と思紹が言って、「山北王妃も来たのか」とサハチに聞いた。
「マナビーに会うためにやって来ました」
「山北王妃はンマムイ(兼グスク按司)の妹だったな。島添大里に行けば、マウミ(ンマムイの娘)もいるし、心の傷も癒えるじゃろう」
「あの、マウミちゃんは島添大里にいるのですか」とミサが聞いた。
「マウミは俺の倅と一緒になったんだよ」とサハチが言った。
「そうだったのですか」
 その夜、御内原(うーちばる)で、ミサ、山北王妃、クン、クリ、フミの歓迎の宴が催された。
 山北王妃も側室たちも、和気藹々(わきあいあい)とした御内原の雰囲気に驚いていた。中山王妃も側室たちも侍女たちと一緒に針仕事をしていて、側室といっても着飾っているわけではないので、侍女との区別もつかなかった。夕方になるとみんなで一緒に武芸の稽古に励み、稽古に参加しない王妃は城女(ぐすくんちゅ)たちと一緒に食事の用意をしていた。子供はマカトゥダル(サハチの四女)という娘がいるだけで、みんなから可愛がられていた。
 敵の王妃と側室だというのに歓迎されて、マアサとクンは戸惑い、ミサは思紹の側室になっていたユイとの再会を喜んだ。

 


 翌日、首里大聖寺(だいしょうじ)、報恩寺(ほうおんじ)、慈恩寺(じおんじ)、大禅寺で戦死した兵たちの供養が行なわれ、夜には『会同館』で戦勝祝いの宴が開かれた。供養の最中、雨が降り始めて、梅雨に入ったようだった。
 その翌日、思紹と馬天ヌル、ファイチと三人の大役(うふやく)、サハチとその兄弟たちが『百浦添御殿(むむうらしいうどぅん)(正殿)』に集まって、今後の事を相談した。ササ(馬天ヌルの娘)は呼ばなかったのに愛洲ジルーと一緒に、大きなお腹で馬に乗って島添大里からやって来た。
「無理をするな」とみんなから言われて、「まだ大丈夫よ」とササは笑った。
 龍天閣でやる予定だったが階段が危険なので、百浦添御殿の一階の広間に変更された。愛洲ジルーは早田五郎左衛門と一緒に龍天閣で待ってもらった。
 集まった者たちの顔を見回して思紹が口を開いた。
「山北王を倒して、長年の夢だった『琉球統一』は実現した。ようやく、戦のない平和な世の中がやって来たわけじゃ。まず、やらなければならない事は今帰仁の再建じゃ。わしも行ってみるつもりじゃが、マチルギに任せようと思っている。初代今帰仁ヌルの『アキシノ様』を救ったマチルギは、ヤンバルのヌルたちに尊敬されているはずじゃ。ヌルたちがマチルギに従えば、按司たちも従うじゃろう。みんなで力を合わせれば一年で再建されるじゃろう。グスクの方は城下の再建が終わってから、最低限の建物を建てればいい。次に、勝連と越来の後見役と今帰仁の補佐役を決めなければならん。戦(いくさ)の前、チューマチの補佐役をマサンルーにやってもらおうと思って、本人にも伝えてあったんじゃが、マサンルーはどう思っているんじゃ」
「妻の生まれが奥間なので、今帰仁に行くのもいいだろうと思っていたのですが」と佐敷大親は言って、少し間をおいてから意を決したように、
「戦が終わって事情が変わりました。母の実家を守るために越来の後見役を務めたいと思います」と言った。
「お前が越来の後見役か」と思紹が言って、皆の顔を見回した。
「マサンルーが越来に行けば、ハマ(越来按司の娘)も力強いでしょう」と馬天ヌルが言った。
「ハマのためにもそれがいいわ」とササも言った。
 思紹がうなづいて、「マサンルーが越来に行くとなると今帰仁には誰を送ったらいい」と聞いた。
「兄貴が越来に行くなら、俺が行くしかないですね」と平田大親(ヤグルー)が言った。
「お前が行ってくれるか」と思紹が聞くと、平田大親はうなづいた。
「ヤグルーなら大丈夫よ」と馬天ヌルが言って、ササもうなづいた。
「次は勝連だが、勝連は朝鮮(チョソン)との交易があるからちょっと大変じゃ。誰を送ったらいい?」
 誰も何も言わなかった。
「今、今帰仁には苗代大親(思紹の弟)殿がいます」とファイチが言った。
「勝連按司後見役を苗代大親殿に頼んで、苗代大親殿が今帰仁から帰って来るまで、平田大親殿に代行させたらどうでしょう」
「苗代大親が勝連按司後見役か」と思紹は言って考えた。
首里のサムレー総大将はどうなるの?」とササが聞いた。
「そろそろ世代交代じゃ。苗代大親今帰仁の戦が終わったらサムレー総大将を引退して山グスク按司になる予定だったんじゃよ。山グスクに引退するのはもう少し待ってもらって勝連に行ってもらおう。若按司はまだ四歳だから十年余り勤めなければならんが、先の事は何とかなるじゃろう。後見役が決まった所で、ヤマトゥ(日本)に行く交易船だが、今年もクルーに頼む事になるがやってくれるか」
「妻や子のために一度くらいは休もうと思っていたのですが、兄貴たちが後見役を務める事になったので、今年も行って来ますよ。妻には内緒ですが、実は船に乗るのが楽しいのです。梅雨が明けると、船に乗ってヤマトゥ旅に出るのが習慣になってしまったようです」と手登根大親(てぃりくんうふや)(クルー)は笑った。
「すまんな。頼むぞ。そこでじゃ、今回のヤマトゥ旅にわしも行こうと思っているんじゃよ」
「親父、何を言ってるんです」とサハチが言って、皆が驚いた顔をして思紹を見ていた。
「五郎左衛門殿に誘われたんじゃよ。五郎左衛門殿は七十に近い。もう二度と会えなくなるかもしれんのじゃ」
今帰仁の再建がこれからだと言うのに、親父が年末まで留守にするなんて無理ですよ」
「わしがいたからって今帰仁の再建が早くなるというわけでもあるまい。安謝大親(あじゃうふや)(大役)から聞いたんじゃが、察度は今帰仁合戦の後、浦添按司(うらしいあじ)を武寧(ぶねい)(先代中山王)に譲って隠居して『首里天閣』に移ったという。わしも『首里按司(すいあじ)』をお前に譲って隠居する事にする」
首里按司?」
「わしも意識した事はなかったが、中山王は首里按司を兼ねていたんじゃよ。お前がここに来て首里按司を継げ」
「親父はどこに行くんです?」
「山グスクにでも行くかのう」
「王妃と側室たちを連れて、あんな辺鄙(へんぴ)な所にいくのですか」
「側室たちはいらん。シタルー(先代山南王)も山北王もいなくなったんじゃ。側室たちは返してもいいんじゃないのか」
「返してもいいかもしれないけど‥‥‥それはマチルギが帰って来たら相談して下さい。首里按司を隠居するのも、今帰仁の再建が終わってからです」
「そうじゃな」と思紹は渋々うなづいた。
「山北王の若按司のミンはどうするの?」とササが聞いた。
「ミンは他魯毎(たるむい)(山南王)の妹婿じゃからな。他魯毎に任せるしかあるまい。こっちが口を出せる事じゃない」
「保栄茂(ぶいむ)グスクもテーラーグスク(平良グスク)も他魯毎に任せるの?」
他魯毎には李仲按司(りーぢょんあじ)と照屋大親(てぃらうふや)が付いている。トゥイ様(先代山南王妃)もいるし、うまくやってくれるじゃろう」
「マチルギを助けるために女子サムレーや城女たちを今帰仁に送りますか」と馬天ヌルが思紹に聞いた。
「そうじゃな。炊き出しもあるし、向こうに残してきた重傷兵たちの面倒も見なければならん。手の空いている者たちを送ろう」
「一徹平郎(いってつへいろう)たちも送りますか」とサハチが聞いた。
「そうじゃな。グスク内の屋敷は一徹平郎たちに任せるか」
 評定(ひょうじょう)が終わるとサハチはササと愛洲ジルーと一緒に、山北王妃、ミサ、フミを連れて島添大里グスクに帰った。山北王妃をミーグスクのマナビーのもとに送り、ミサとフミは女子サムレーたちに預けた。ミサは首里グスクを守っていた女子サムレーたちを見て驚き、島添大里グスクにも大勢の女子サムレーがいる事に驚いていた。
 フミは佐敷生まれだが幼い頃に両親を亡くして、東行法師(とうぎょうほうし)のタムンに連れられてキラマ(慶良間)の島に行っていた。一緒に修行を積んだ女子サムレーが島添大里グスクにもいて再会を喜んでいた。

 


 翌日、小雨の降る中、サハチは平田大親と一緒に勝連に向かった。『瀬織津姫(せおりつひめ)のガーラダマ(勾玉)』なら勝連の呪いも退治できると言ってササが弟子の若ヌルたちと玻名(はな)グスクヌルと愛洲ジルーを連れて付いて来た。駄目だと言っても無駄なので、サハチはササのためにゆっくりと行く事にした。
 越来に寄って、ササはハマ(越来ヌル)を慰めた。家臣たちの手前、悲しみをじっと堪えていたハマは、ササの顔を見ると急に泣き崩れた。サハチは重臣たちと会い、佐敷大親が後見役として越来に来る事を知らせ、戦死した按司と若按司の死を無駄にしないように、幼い若按司の息子を立派な按司に育ててくれと言った。船に乗せて北谷(ちゃたん)に送った按司と若按司、美里之子、戦死した兵たちの遺体はすでに届き、ハマによって葬儀も無事に済んでいた。慈恩禅師(じおんぜんじ)とギリムイヌル(先代越来ヌル)が来て、ハマを手伝っていたという、
 越来から勝連に向かう頃には雨もやんで日が差して来た。
「勝連の呪いはまだ解けていないのか」と馬に揺られながら、サハチはササに聞いた。
按司が戦死してしまうなんて、そうとしか考えられないわ」
「越来はどうなんだ? 呪いはないのか」
「えっ?」とササはサハチを見て、「越来もあるかもね。調べた方がいいわね」と言った。
「先代の越来按司南風原(ふぇーばる)で戦死しているし、先々代は『望月党(もちづきとう)』に殺されているわ。先々代は察度の息子で、久高ヌル(小渡ヌル)の父親よ。その前の按司は察度の武将で、その前は察度に滅ぼされたわ。その前は浦添按司の玉城(たまぐすく)の弟で、察度に攻められて極楽寺(ごくらくじ)で戦死しているわ」
「ほう。お前、随分と詳しいな」
「古いウタキ(御嶽)を探す旅に出た時、越来にも行ってウタキを巡って神様から色々とお話を聞いたのよ。多分、極楽寺で戦死した英慈(英祖の孫)の息子が初代の越来按司だと思うわ。法要に出ていて突然の襲撃に遭って殺され、マジムン(悪霊)になったのかしら? それと望月党に殺された按司もマジムンになったのかもしれないわね」
「越来グスクを攻め落とした時、馬天ヌルがお清めはしたけど『マジムン退治』はしていない。やった方がいいんじゃないのか」
「そうね。按司と若按司、美里之子まで亡くなっているものね。佐敷大親まで亡くなったら大変だわ。シンシンとナナが帰って来たらハマと一緒に『マジムン退治』をやるわ」
「頼むよ」
 勝連グスクに着いて、四の曲輪(くるわ)にある勝連ヌルの屋敷に行くと若ヌルは寝込んでいた。ササの弟子になった若ヌルはササたちと一緒に島添大里グスクにいたが、父親の戦死の知らせを聞いて今帰仁に行くマチルギたちに送られて帰っていた。若ヌルの事はササたちに任せて、サハチと平田大親は勝連ヌルと一緒に評定所(ひょうじょうしょ)に行き、重臣の平安名大親(へんなうふや)を訪ねた。サハチは一の曲輪を見上げながら、サムがもうここにいないなんて、未だに信じられなかった。
 会所(かいしょ)に通されて平安名大親と会い、若按司の後見役として苗代大親に決まったが、苗代大親今帰仁再建のために今帰仁にいるので、それまで平田大親に代行させると言ったら、平安名大親は喜んでくれた。四歳の若按司では無理だと言って、誰かが按司として来るのではないかと重臣たちは皆、心配していたという。
「中山王の弟で、首里のサムレー総大将を勤めていた苗代大親殿が若按司の後見役として来てくれれば大歓迎じゃ。よろしくお願い致します」
「叔父と比べたら頼りないかもしれませんが、わたしの弟が代行しますのでよろしくお願いします」とサハチは言った。
 平安名大親は平田大親を見て笑うと、「平田大親殿は明国にもヤマトゥにも行っておられると聞いている。勝連の者たちに色々と教えてくだされ」と言った。
 その夜、ささやかな歓迎の宴が二の曲輪の屋敷で開かれ、平田大親は勝連の重臣たちと酒を酌み交わして親交を深めた。
 ササは勝連ヌルと一緒にグスク内のウタキを巡り、グスクの周辺もくまなく調べ、若ヌルたちが何枚もの『霊符(れいふ)』を見つけた。六年前に若按司が病死した時に見つけた霊符と同じ物だった。
 あの時は知らなかったが、あの後、ウニタキが調べて、奄美大島(あまみうふしま)にいる『望月党』の長老が『明月道士(めいげつどうし)』だという事がわかっていた。明月道士は二代目党首の弟で、若い頃に明国に渡り、四十年間も道士としての厳しい修行を積んできたという。明月道士が時々、琉球に来ている事もわかっているが、どこに隠れているのかは不明だった。
 ササは霊符を見つめながら、「必ず、明月道士を探し出すわ」とつぶやいた。
 四月二十一日、佐敷グスクのお祭り(うまちー)が行なわれ、マサンルーの兄弟たちが集まって、越来に行くマサンルー夫婦の送別の宴が催された。勝連から帰ったサハチと平田大親、ササたちも参加した。
 マサンルーの長男、シングルーが『佐敷大親』を継いで佐敷グスクを守り、次男のヤキチは強くなって『美里之子』を継ぐと張り切っていた。マサンルーは『美里大親(んざとぅうふや)』を名乗って、越来按司後見役を務める事になった。

 

 

 

報道写真集 首里城   沖縄世界遺産写真集シリーズ01 勝連城跡

3-01.沖の郡島(第三稿)

 永楽(えいらく)十四年(一四一六年)の四月十一日、総大将を務める島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)のサハチ(尚巴志)が率いた中山(ちゅうざん)軍は、今帰仁(なきじん)グスクを攻め落として山北王(さんほくおう)を滅ぼした。
 山北王の攀安知(はんあんち)は今帰仁グスクの守護神だった霊石を斬ったバチが当たって雷に打たれて亡くなった。本部(むとぅぶ)のテーラー(瀬底大主)は兼次大主(かにしうふぬし)に裏切り者と勘違いされて殺され、兼次大主はマウシ(後の護佐丸)に斬られた。浦崎大主(うらさきうふぬし)を初めとした今帰仁のサムレー大将は皆、壮絶な戦死を遂げ、五百人余りの敵兵が戦死した。味方の損害も大きく、勝連按司(かちりんあじ)(尚巴志の義兄)と越来按司(ぐいくあじ)(尚巴志の叔父)が戦死して、二百六十人もの兵が亡くなり、負傷兵は四百人近くにも達した。
 今帰仁の城下は戦(いくさ)が始まる前に全焼して焼け野原となり、グスク内の建物は鉄炮(てっぽう)(大砲)にやられて、ほとんどが崩れ落ちていた。大勢の人たちが暮らし、山北王の都として栄えていた今帰仁の面影は、今やどこにも残っていなかった。

 

 

 戦が終わった翌日、志慶真(しじま)ヌル(ミナ)、シンシン(范杏杏)、ナナ、東松田(あがりまちだ)の若ヌル(タマ)、サスカサ(島添大里ヌル)は、山北王の側室だったクーイの若ヌル(マナビダル)の死を伝えるために沖の郡島(うーちぬくーいじま)(古宇利島)に向かった。水軍大将ヒューガ(日向大親)の配下、ウムンの船に乗り、奥間(うくま)のサタルーとシラー(久良波之子)が二十人づつの兵を引き連れて従った。
 サスカサはクーイの若ヌルの事はよく知らないが、沖の郡島は久高島(くだかじま)と同じように『聖なる島』と呼ばれていると聞いていたので行かなくてはならないと思った。それに、父(サハチ)が『マレビト神』だというタマの事が気になっていた。自分よりも五つも年下のタマが、どうして父と関係を持ったのか、成り行きが知りたかった。ササ(運玉森ヌル)から、タマは琉球を統一するために必要な娘だから邪魔をするなと言われた。タマが『アキシノ様』の危険を悟って島添大里(しましいうふざとぅ)に帰り、母(マチルギ)を連れて来たお陰で『アキシノ様』が助かったので、ササが言った事は正しかった。タマは必要だと頭ではわかっていても、心の中では許せなかった。
 タマは船の中でキャーキャーはしゃいでいた。こんな大きな船に乗った事がないという。楽しそうに笑っているタマの顔を見るだけで腹が立ったが、顔には出さず、サスカサはタマに声を掛けた。
「ササ姉(ねえ)から聞いたわ。あなた、先に起こる事が見えるのね?」
 タマは驚いた顔をしてサスカサを見てから、うなづいた。サスカサから声を掛けられるなんて思ってもいなかった。四年前、馬天(ばてぃん)ヌル(サハチの叔母)と一緒にウタキ(御嶽)巡りの旅をして島添大里グスクに行った時、初めてサスカサと会った。若いのにヌルとしての貫禄があって、何となく近寄りがたかった。今年の三月、ササたちと一緒に島添大里グスクに行って、サスカサと再会したが、四年前よりも神々しくなったような気がして、さらに近寄りがたくなり、挨拶をするだけで気楽に話をする事はできなかった。
「でも、見たい時に見られるわけじゃないんです」とタマは言った。
「突然、ある場面が見えて、それがどこなのか、わからない事もあります」
「最近は何かを見たの?」
 タマは首を振った。
「山北王が霊石(れいせき)を斬る場面を見てからは何も見ていません」
「そう」と言ってからサスカサは、「いつ、父と出会ったの?」と聞いた。
 タマは『父』と聞いて、サスカサがサハチの娘だった事に改めて気づいた。あたしが『父』に近づいた事に怒っているのかもしれないと思った。
「馬天ヌル様と一緒にウタキ巡りの旅をして、首里(すい)グスクに行った時です」
「その時、父が『マレビト神』だってわかったの?」
 タマは首を振った。
按司様(あじぬめー)と出会った時、胸が苦しくなりましたけど、その時はわかりませんでした。ヂャンサンフォン様(張三豊)のもとで一か月の修行をした後です。按司様が『マレビト神様』だってわかったのは」
「どうして、わかったの?」
「修行が終わった後、島添大里グスクに行って、按司様と会ったら胸が熱くなって、それでわかったのです」
「そう」と言ってからサスカサは軽く笑って、「わたしにはまだ経験がないわ」と言った。
「わたしもよ」と声がしたので、サスカサが振り返ると志慶真ヌルがいた。
「わたしは女子(いなぐ)サムレーだったからお嫁に行くなんて考えてもいなかったわ。でも、志慶真ヌルを継ぐ事になって、跡継ぎを産まなければならなくなったの。わたしも早く『マレビト神様』に出会いたいわ」
 サスカサも今まで『マレビト神』の事なんて考えてもいなかった。島添大里ヌルの跡継ぎは、今後、島添大里按司になった兄弟の娘でいいと思っていた。でも、お腹の大きくなったササを見て、自分も跡継ぎを産みたいと気持ちは変化していた。叔母の安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)もフカマヌル(久高島のヌル)も、娘を産んで跡継ぎにしていた。
「志慶真ヌル様も今まで胸が熱くなった事はないのですか」とタマが聞いた。
 志慶真ヌルは笑うと、「女子サムレーになる前の若い頃に一度あったわ」と言った。
「キラマ(慶良間)の島で?」とサスカサが聞いた。
「もう十年以上も前の事よ」
「その人はサムレーになったんでしょ。その後、会ってないのですか」
「会ってないわ。どこのサムレーになったのかわからないし、島を出てから今まで会えないのは、きっと縁がなかったのよ」
 サタルーと一緒にいるナナを見ながら、「サタルーさんはナナさんの『マレビト神様』なのですか」とタマがサスカサと志慶真ヌルに聞いた。
「多分、そうだと思うわ」と志慶真ヌルが答えた。
 サスカサが腹違いの兄のサタルーに初めて会ったのはヤマトゥ(日本)旅から帰って来た時だった。その時、サタルーはナナに会うために島添大里グスクにやって来て、一緒に久高島にも行った。もう五年も前の事で、その後も二人は会っているようだが、ナナの『マレビト神』がサタルーなのか、サスカサにはよくわからなかった。
「あの二人もそうですか」とタマはシラーと一緒にいるシンシンを見ながら聞いた。
「あの二人もそうよ」と志慶真ヌルはうなづいた。
 昨日まで今帰仁で大戦(うふいくさ)をしていたのが嘘のように、穏やかな海を渡って沖の郡島に着いた。
 沖の郡島は平たい島で、島の南側に集落があって港もそこにあった。船が港に近づくと何艘もの小舟(さぶに)が近づいて来た。
「天底(あみすく)のお婆の出迎えよ」と『ユンヌ姫』の声が聞こえた。
「一緒に来てくれたのね。ありがとう」とシンシンがユンヌ姫にお礼を言った。
「この島にはあたしのお義姉(ねえ)さんがいるのよ」
「はい。『アマン姫様』から『クーイ姫様』の事をお聞きしました。会うのが楽しみです」とナナが言った。
「『クーイ姫』がナナが来る事を天底のお婆に知らせたのよ。歓迎されるはずよ」
「あたしにも『ユンヌ姫様』の声が聞こえたわ」とタマが言った。
「えっ!」とシンシンとナナが驚いた顔をしてタマを見た。
 ササと一緒に『ミントゥングスク』に行った時、タマは『ユンヌ姫』の声が聞こえなかった。あれは二月の事だった。どうして急に聞こえるようになったのか不思議だった。
「タマはマチルギと一緒に『アキシノの霊石』を助けたわ。その時、『瀬織津姫(せおりつひめ)様のガーラダマ(勾玉)』の霊力によって、あたしの声が聞こえるようになったんだと思うわ。きっと、瀬織津姫様の声もお祖母様(ばあさま)(豊玉姫)の声も聞こえるはずよ」
 タマは嬉しそうな顔をして、ユンヌ姫にお礼を言った。
「それと、タマがサハチと結ばれたので、『アマミキヨの一族』として認められたのよ、きっと」
 喜んでいるタマを見ながらサスカサは不快な表情をしたが何も言わなかった。
 迎えに来た小舟に乗って島に上陸すると、天底のお婆と天底ヌル、天底若ヌル、クーイヌルと島の長老が出迎えて歓迎してくれた。
 天底のお婆はナナが首から下げている『桜色のガーラダマ』を見つめてからナナの顔を見ると、「そなたがクーイヌルを継ぐお人じゃな」と聞いた。
 ナナはうなづいて、「ナナと申します」と名乗った。
「ナナか。いい名じゃ」とお婆は笑って、娘の天底ヌルと孫娘の若ヌルとクーイヌルを紹介した。
 ナナは志慶真ヌル、島添大里ヌル、東松田の若ヌルを紹介して、シンシンを新しい今帰仁ヌルと紹介した。
 志慶真ヌルがクーイヌルに若ヌルの死を伝えた。
 クーイヌルは志慶真ヌルの話を聞きながら涙を堪(こら)えていた。
「やはり、今帰仁に行かせるべきではなかったのね」と言いながらクーイヌルは涙を拭いた。
「マナビダル姉(ねえ)‥‥‥」と言って天底若ヌルが泣いていた。
 若ヌルの肩を優しく叩いてからお婆はナナを見て、
「神様がお待ちになっておられる」と言った。
「あなたの従妹(いとこ)の奥方様(うなぢゃら)(マチルギ)が今、今帰仁にいます。連れて来るように頼まれました」と志慶真ヌルがクーイヌルに言った。
「従妹のウナヂャラ?」
「あなたのお母様の事も、後で詳しく教えます」
 お婆に従ってナナたちはウタキに向かった。悲しみを堪えてクーイヌルも天底若ヌルも一緒に来た。
 港の近くにあるこんもりとした森の中にウタキはあった。『中森(なかむい)』と呼ばれる古いウタキで、小さなガマ(洞窟)の入口に石が積んであり、その前には祭壇らしい平たい石もあった。
 ナナを中心にして、シンシン、サスカサ、志慶真ヌル、タマが並んでお祈りを捧げた。
「待っていたのよ。ようやく来てくれたのね」と神様の声が聞こえた。
「『クーイ姫様』ですか」とナナが聞いた。
「そうよ。あなたたちと一緒に旅をしていたユンヌ姫の義姉(あね)のクーイ姫よ。クーイヌルが絶えてしまって、今年で六十年になるわ。あなたがクーイヌルを継いで、島の人たちを守ってね」
「神様も御存じでしょうけど、わたしはヤマトゥンチュ(日本人)です。ヤマトゥンチュのわたしがクーイヌルを継いでもいいのでしょうか」
「あなたが身に付けているガーラダマは、わたしがこの島に来た時に身に付けていた物なのよ。二百年余り前に真玉添(まだんすい)(首里の古名)が滅ぼされた時、真玉添にいたクーイヌルがそのガーラダマを読谷山(ゆんたんじゃ)に埋めてしまったの。もう二度とお目にかかれないと思っていたわ。それを身に付けて、この島に来ただけで、クーイヌルを継ぐ資格があるわ。わたしの子孫でなければ、それを身に付ける事はできないのよ」
 シンシンが驚いて、「ナナは『クーイ姫様』の子孫なのですか」と聞いた。
「『豊玉姫(とよたまひめ)』の二代目を継いだ『アイラ姫様(八倉姫)』を知っているわね。アイラ姫様の娘が三代目豊玉姫になって対馬(つしま)に行ったのよ。三代目豊玉姫は『ツシマ姫』とも呼ばれていて、そのツシマ姫の娘が四代目豊玉姫を継いだんだけど跡継ぎに恵まれなくて、わたしの孫娘が『ツシマ姫』を継ぐ事になって対馬に行ったのよ。ナナはわたしの孫娘の子孫なのよ」
 ナナもシンシンも話を聞いて驚いていた。ナナたちの後ろで話を聞いていたお婆と天底ヌルも驚いていた。
対馬の『ワタツミ神社』にある『豊玉姫様』のお墓はクーイ姫様の孫娘さんのお墓だったのですか」とナナは聞いた。
「あのお墓は孫娘の先代の四代目豊玉姫のお墓よ。四代目豊玉姫は『豊姫(神功皇后)』を助けて、三韓征伐(さんかんせいばつ)で活躍したの。その時の活躍でワタツミ神社に祀られたのよ。わたしの孫娘はあなたの事をずっと見守っていたのよ。父親の敵討(かたきう)ちに取り憑かれていたけど、ササと出会って琉球に来たわ。この島に来るまで時間が掛かったけど、あなたはササと一緒にヤマトゥに行って『瀬織津姫様』を琉球に連れて来たわ。この島には、わたしよりもずっと古い神様がいるの。でも、その神様の声は聞こえなかったわ。あなたたちが『瀬織津姫様』を琉球に連れて来てくれたお陰で、古い神様の事もわかったのよ。声を聞く事もできるようになったわ。わたしからもお礼を言うわね。ありがとう」
「『瀬織津姫様』に出会えたのはササのお陰なんです。わたしはササと一緒にいて色々と教わりました。わたしが神人(かみんちゅ)になれたのもササのお陰です。神様の事なんて何も知らなかったわたしが琉球に来て、ヌルになるなんて考えてもいませんでした。わたしがクーイ姫様の子孫だったなんて本当に驚きです。わたしがやらなければならないのでしたら、わたしに『クーイヌル』を務めさせて下さい。この島をお守りいたします」
「頼んだわよ。あなたならできるわ」
 ナナたちはクーイ姫にお礼を言って別れた。
「ナナが『クーイ姫様』の子孫だったなんて、ササが聞いたら驚くわ」とシンシンがナナに言った。
「『クーイ姫様』の孫娘が対馬に行ったなんて‥‥‥」とナナは呆然としていた。
対馬琉球は昔からつながりがあったのよ」
「あたしも対馬に行ってみたいわ」とタマが言った。
「わたしは対馬に行ったけど、『ワタツミ神社』には行ってないわ」と志慶真ヌルが言った。
 志慶真ヌルは『シジマ』と呼ばれていた女子サムレーだった頃、サスカサがヤマトゥに行った時に一緒に行っていた。サスカサはササたちと一緒にワタツミ神社に行ったが、ヌルではなかったので、船越で娘たちに剣術の指導をしていたのだった。
「タマもシジマも交易船に乗ってヤマトゥに行ってきたらいいわ。『スサノオ様』が歓迎してくれるわよ」とシンシンが言った。
「タマにも『クーイ姫様』の声が聞こえたのね?」とナナが聞いた。
 タマは驚いた顔をしてから、「聞こえたわ」と言って喜んだ。
「よかったわね。ササが聞いたら喜ぶわ」
「皆さん、凄いヌルなのですね。わたしには何も聞こえませんでした」とクーイヌルは悲しそうな顔で言った。
「わたしもまだ修行が足りないわ」と若ヌルが言った。
「そなたはクーイヌルとして、この島のために尽くしてくれた。感謝しておるよ。だが、跡を継ぐべき人が来た今、身を引いてくれ」とお婆がクーイヌルに言った。
「わかっております」とクーイヌルはうなづいた。
 港に戻ると長老の息子が待っていて、サタルーとシラーは長老の案内で、兵を率いてクーイの若ヌルの御殿(うどぅん)に向かったと教えてくれた。
「山北王の兵たちは誰もいないと思います」と長老の息子は言った。
「みんな、逃げたのですか」と志慶真ヌルが聞いた。
「中山王(ちゅうざんおう)の兵が攻めて来ると言いながら、今朝早くに逃げて行きました」
「どこに逃げたのかしら?」とシンシンが言った。
「みんな、家族の心配をしていましたから生まれ故郷(うまりじま)に帰ったと思いますよ」
「去る者は追わずよ」とナナが言って、お婆の案内で島で一番古いウタキに向かった。
 港の近くにある集落を抜けて坂道を登って行くと深い森が見えた。森の中の細い道を行くと途中で道はなくなり、お婆は草をかき分けて進んで行った。しばらく行くと霊気がみなぎっている岩場に出た。クバ(ビロウ)の木に囲まれた大きな岩の中に小さなガマがあって石が積んであり、祭壇らしい石はないが、ウタキの前は綺麗に草が刈られてあった。
「先代のクーイヌルが亡くなってから、ここのウタキに来る者はいない」とお婆は言った後、笑って、
「馬天ヌルを知っているかね」と聞いた。
「馬天ヌルはわたしの大叔母です」とサスカサが言った。
「ほう。そうじゃったのか」とお婆は改めてサスカサを見て、成程というようにうなづいた。
「十五、六年前、馬天ヌルはここに来たんじゃよ。ウタキ巡りの旅をしていると言っていた。神様の声は聞こえなかったようじゃが、神様に導かれてここに来たようじゃ。ここが重要なウタキだという事を知っていて、守り通してくれとわしに言った。南部にも凄いヌルがいるものじゃと感心したんじゃ。去年の七月、馬天ヌルがヌルたちを連れて安須森参詣をする事を知って、天底ヌルと若ヌル、クーイの若ヌルも一緒に行かせたんじゃよ。安須森参詣から帰って来た娘も孫も、行って来てよかったと感激しておった。それから二月(ふたつき)ほどして、見慣れないヌルがここに来たので驚いた。もしかしたら、クーイヌルを継ぐべきヌルかと思ったが違ったんじゃよ」
 シズ(ウニタキの配下)だわとシンシンとナナは顔を見合わせたが口には出さなかった。
「お婆がここを守っているのですか」とナナが聞いた。
「先代のクーイヌルからわしの母の天底ヌルが頼まれたんじゃよ。ここは『マーハグチぬウタキ』と呼ばれている」
 先ほどと同じようにナナを中心に並んでお祈りを捧げた。ガマの中に三つの頭蓋骨が並んでいるのが見えた。
「曽(ひい)お祖母様(ばあさま)からあなたたちの活躍は聞いたわ。ササは来なかったの?」と神様の声が聞こえた。
「ササはお腹に赤ちゃんがいるので来ませんでした」とナナが答えた。
「あら、そうなの。跡継ぎが産まれるのね。おめでとう」
「ササに代わってお礼を申します。曽お祖母様ってどなたですか」
瀬織津姫様の妹の『知念姫(ちにんひめ)』よ」
「えっ、神様は知念姫様の曽孫(ひまご)さんだったのですか」
「そうよ。知念姫の長女は『垣花姫(かきぬはなひめ)』を継いだわ。垣花姫の次女が安須森に来て『安須森姫』になったの。安須森姫の三女のわたしがこの島に来て『クーイ姫』になったのよ。わたしがこの島に来た時、この島は無人島だったわ。わたしの不注意で、乗って来た丸木舟(くいふに)を流されてしまって、とても困ったのよ。でも、素敵な男子(いきが)がやって来て、わたしたちは結ばれて、この島に貝殻の工房を作ったわ。ウミンチュ(漁師)たちが集まって来て、この島も栄えたんだけど百年も続かなくて、わたしの孫の代で絶えてしまったのよ」
「どうして、百年で絶えてしまったのですか」とシンシンが聞いた。
「筑紫(つくし)の島(九州)で戦が始まったようだわ。貝殻を積んで行った人たちが帰って来なくなってしまったのよ。筑紫の島との交易が終わって、貝殻の工房も不要になって、この島も寂れてしまうんだけど、三百年余りが経って、『スサノオ』がやって来て、貝殻の交易が再開するのよ。わたしの子孫は絶えてしまったけど、『垣花姫』の子孫がこの島に来て、『クーイ姫』を継いでくれたわ」
「神様は中森のクーイ姫様と親戚だったのですか」とナナが聞いた。
「そうだったのよ。驚いたわ」
「親戚だったらお互いに声が聞こえるんじゃないのですか」
「あの娘(こ)もわたしも曽お祖母様の子孫なんだけど、三百年の間にいくつも枝分かれしたのでわからなくなってしまったのよ。中森のクーイ姫がこの島に来た時、親戚だったなんて、わたしは知らなかったわ。わたしはあの娘の声が聞こえたけど、あの娘にはわたしの声は聞こえなかったの。あの娘の話から『クボーヌムイ姫』の娘だってわかったわ。クボーヌムイ姫はわたしの姉だったから、わたしの声は聞こえるはずなのにおかしいって、ずっと不思議に思っていたの。『瀬織津姫様』が帰っていらして、大勢の子孫たちが集まったわ。その人たちの話から色々な事がわかって、姉の子孫に跡継ぎに恵まれなかった姫がいて、垣花姫の娘を養子に迎えたってわかったのよ。垣花姫は曽お祖母様の長女の血筋なのよ。あの娘には垣花姫の子孫の声は聞こえるけど、曽お祖母様の次女の安須森姫、安須森姫の三女のわたしの声は聞こえなかったのよ」
「今はお話ができるのですね」
「あなたたちが『瀬織津姫様』を琉球にお連れしたお陰ね。曽お祖母様がとても喜んでいたわ。今帰仁の戦も終わったわね。サハチが山北王を倒して琉球は統一されたわ。これからは戦のない平和な世の中にしてね」
「父の事を御存じなのですか」とサスカサが聞いた。
「『豊玉姫』から聞いたわ。『スサノオ』がサハチと一緒にお酒を飲んできたと言ったので、何者だろうって豊玉姫がサハチの母親をたどって調べたら、『アマン姫』の子孫だってわかったらしいわ。アマン姫は豊玉姫スサノオの娘で、豊玉姫は曽お祖母様の子孫よ。サハチの妻のマチルギは『アキシノ』の子孫で、アキシノは『安芸津姫(あきつひめ)様』の子孫で、安芸津姫様は瀬織津姫様の曽孫よ。あなたは曽お祖母様の子孫と瀬織津姫様の子孫が結ばれて生まれたのよ」
「ええっ!」とサスカサは驚いた。
 シンシンとナナも志慶真ヌルもタマもポカンとした顔をしてサスカサを見ていた。
「ガマの中のお骨(こつ)はクーイ姫様と娘さんとお孫さんですか」とナナが聞いた。
「そうよ。わたしたちのお骨を洗う儀式があるのよ。クーイヌルが絶えた後、天底ヌルが代わりにやってくれたけど、次はあなたがやってくれるわね」
「勿論、わたしがやります。次はいつなのですか」
「四月の十五日。三日後だわね」
「わかりました。三日後に儀式を行ないます」
 ナナたちはクーイ姫にお礼を言って別れた。
「あなた、ササと一緒じゃない」とシンシンがサスカサに言った。
「ササのお母さんは『知念姫様』の子孫で、お父さんは『瀬織津姫様』の子孫だったわ。知念姫様の子孫と瀬織津姫様の子孫が結ばれてササが生まれたわ。あなたも同じだったのよ。凄い事だわ」
「あたしはササ姉みたいに凄いヌルじゃないわ」
「いいえ。あなたも凄いヌルになるに違いないわ」とナナが言って、シンシンもうなづいた。
「お父さんが『スサノオ様』とお酒を飲んだって本当なの?」とサスカサが二人に聞いた。
久米島(くみじま)に行った時よ。一番高い山の頂上で、『スサノオ様』と『クミ姫様』と一緒に飲んだらしいわ」とナナが言った。
「お酒を飲んだって、『スサノオ様』がお姿を現したの?」
「そうなのよ。その時はあたしたちも『スサノオ様』のお姿を見ていなかったので、ササが悔しがっていたわ。その後、南の島(ふぇーぬしま)で、あたしたちも『スサノオ様』と一緒にお酒を飲んだのよ」
「一緒に行った若ヌルたちも『スサノオ様』のお姿を見たのですか」
「若ヌルたちは眠っていたわ。でも、南の島から帰って、ヤマトゥに行って『瀬織津姫様』に会った後、大三島で若ヌルたちも『スサノオ様』と『瀬織津姫様』のお姿を見て、一緒にお酒を飲んだのよ」
「羨ましいわ」
「ササの赤ちゃんが生まれたら、『スサノオ様』を呼んで、一緒にお祝いのお酒を飲みましょう」とシンシンが言った。
 ウタキから出て、クーイヌルの案内で集落の北側にある道を通って、クーイの若ヌルの御殿(うどぅん)に向かった。
 島の西側の海に面した小高い丘の上に建てられた御殿は高い石垣に囲まれていて、まるで小さなグスクだった。
「凄いわ」とタマが目を丸くした。
 入口の所でシラーが待っていて、「侍女(じじょ)たちはいるが、兵たちは逃げてしまったようだ」と言った。
 シラーと一緒に石段を登って行くと海が見える眺めのいい庭に出た。庭には所々に縁台が置いてあって、兵たちが休んでいたが、サスカサたちが来たので、立ち上がって整列した。
 海と反対側を見ると二階建ての豪華な御殿が建っていた。今帰仁グスクの一の曲輪(くるわ)にあった御殿を真似て作ったのかもしれないとサスカサたちは思った。御殿の前に八人の侍女たちが並んでいて、サスカサたちに頭を下げた。
「初めて入ったが、凄い御殿じゃのう」とお婆が御殿を見上げながら言った。
 御殿の中に入ると広い部屋があって、明国(みんこく)風の円卓や長卓が置いてあり、ヤマトゥの屏風(びょうぶ)や南蛮(なんばん)(東南アジア)の大きな壺(つぼ)などが飾ってあった。サスカサたちは円卓を囲んで一休みした。
 志慶真ヌルがクーイヌルに、クーイヌルの母親が今帰仁若ヌルだった事を教え、山北王は母親の敵(かたき)だった事を告げた。羽地按司(はにじあじ)(帕尼芝)が反乱を起こして、今帰仁按司だった父と若按司だった兄は戦死して、若ヌルはこの島に流された。二人の弟は生き延びて、伊波按司(いーふぁあじ)と山田按司になり、それぞれの息子が今回の戦に参加して活躍した事を知らせるとクーイヌルは驚き、「そんな事は何も知りませんでした」と言った。
「伊波按司の娘が、今回の戦で総大将を務めた島添大里按司に嫁ぎました。島添大里按司は中山王の長男で、中山王の跡継ぎなのです」
「えっ、わたしの従妹(いとこ)は中山王の跡継ぎの奥様なのですか」
 志慶真ヌルはうなづいて、「伊波按司、山田按司、安慶名按司(あぎなーあじ)、勝連按司(かちりんあじ)、中グスク按司、皆、あなたの従兄弟(いとこ)です」
 クーイヌルは信じられないと言った顔で志慶真ヌルを見ていた。今まで身内なんて誰もいないと思っていた。娘を失い、たった独りになってしまったと悲しんでいたのに、そんなにも従兄弟がいたなんて思いもよらない事だった。しかも皆、按司だという。豪華な御殿の中で夢でも見ているような心境だった。
 ナナは天底のお婆が先代のクーイヌルから預かっていたガーラダマを贈られた。ナナはそのガーラダマも身に着ける事ができたので、お婆は喜んだ。
「生きているうちにそなたと会えてよかった。先代との約束を果たせる事ができた」
 お婆はホッとした顔付きで、ナナを見てうなづき、「今宵はお祝いをしなくてはならんのう」と嬉しそうに言った。
 どこにいたのかサタルーが顔を出して、「地下蔵が荒らされている」と言った。
「何が置いてあったのかわからんが、金目の物は皆、兵たちが盗んでいったようだ」
 ナナとシンシンがサタルーと一緒に地下蔵を見に行った。
 サスカサはぼんやりと海を眺めていた。『瀬織津姫様』の子孫と『知念姫様』の子孫が結ばれて自分が生まれたのなら、その血筋を絶やすわけにはいかない。『マレビト神』を見つけて、何としても跡継ぎを産まなければならないと思っていた。
 タマは天底若ヌルと一緒に、侍女に案内させて御殿の中を見て歩いてはキャーキャー騒いでいた。
 島の長老たちを御殿に呼んで、ナナのクーイヌル就任の祝いの宴(うたげ)が開かれた。ナナが島の人たちはみんな、いらっしゃいと言ったので、大勢の人たちが酒や御馳走を持ってやって来て、御殿は人で埋まり、飲めや、歌えと夜遅くまで、楽しい宴が続いた。

 

 

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琉球国派遣船一覧(1372-1416)

 西暦  明歴  派遣王 行き先 出帆   入貢   帰帆  使者
1372年 洪武5年 察度1  明国  10月  12月29日 翌年5月 泰期
         ※明国の使者、楊載。

1374年 洪武7年 察度2  明国  8月   10月26日 翌年5月 泰期
         ※琉球に帰る船で、李浩が来る。

1376年 洪武9年 察度3  明国  2月   4月1日  7月   泰期
         ※李浩、帰る。

1377年 洪武10年 察度4  明国 前年10月  1月1日  5月  泰期

1378年 洪武11年 察度5  明国  3月   5月5日   8月  泰期

1380年 洪武13年 察度6  明国  1月  3月19日   6月  泰期
         承察度1 明国  7月  10月20日 翌年5月 シラー
         ※山南王、最初の進貢。

1382年 洪武15年 察度7  明国 前年11月 2月15日 5月 泰期、アランポー

1383年 洪武16年 察度8  明国 前年10月 1月1日  5月 アランポー
         承察度2                  シラー
         帕尼芝1                  模結習
         ※山北王、最初の進貢。
         ※アランポーが乗った船が宮古島に漂着。

1384年 洪武17年 察度9  明国 前年10月 1月1日  5月 アランポー
         承察度3                  シラー
         帕尼芝2                  模結習
         察度10  明国  4月  6月1日  9月   阿不耶

1385年 洪武18年 察度11 明国  前年10月 1月1日  5月 アランポー 
         承察度4                  シラー
         帕尼芝3                  模結習
         ※中山と山南が海船1隻を賜わり、山南と山北が王印を賜わる。

1386年 洪武19年 察度12 明国  前年10月 1月4日  5月 アランポー
         承察度5 明国  9月   12月1日  5月  耶師姑

1387年 洪武20年 察度13 明国  前年11月 2月10日 5月 アランポー

1388年 洪武21年 承察度6 明国 前年10月 1月1日 5月 汪英紫1、函寧寿
         察度14 明国  前年10月 1月13日 5月  アランポー
         帕尼芝4  ※中山王の船に便乗。
         察度15 明国  7月   9月16日 翌年4月 アランポー
         帕尼芝5  ※中山王の船に便乗。

1389年 洪武22年 察度① 高麗  5月        12月
         ※倭寇に捕らわれた高麗人を送り返す。朝鮮の使者を連れて帰る。

1390年 洪武23年 察度16 明国 前年10月 1月26日  5月 アランポー
         帕尼芝6  ※中山王の船に便乗。      李仲
         察度② 高麗  5月        12月
         ※朝鮮の使者を送り返す。

1391年 洪武24年 察度17 明国 前年10月 2月22日 5月 アランポー、越来按司
         ※中山、2隻めの海船を賜る。

         王叔汪英紫2 明国  7月 9月1日 翌年5月 耶師姑
         ※島添大里按司汪英紫が山南王の船を借りて進貢。

1392年 洪武25年 察度18 明国  3月  5月3日  8月  宇座按司
         ※国子監に3人の官生を送る。

         察度③ 高麗  5月        12月
         ※倭寇による被慮人8人を送還。

         察度19 明国  9月  11月17日 翌年2月
         承察度7 明国 10月  12月14日 翌年3月 南都妹
         ※シタルーとサングルミーが国子監に留学。

1393年 洪武26年 察度20 明国 前年10月 1月18日 5月  麻州
         察度21 明国  2月  4月17日  8月 寿礼給智
         王叔汪英紫3 明国 3月 5月26日  9月 不里結致

1394年 洪武27年 察度22 明国 前年10月 1月25日 5月 アランポー
         ※アランポーが国相になる。

         承察度8  ※中山王の船に便乗。    甚模結致
         察度④ 朝鮮  5月        12月
       ※被慮人12人を送還し、朝鮮に亡命している承察度の帰還を要請する。

1395年 洪武28年 察度23 明国 前年10月 1月1日 5月 アランポー
         珉1    ※中山王の船に便乗。    善佳古耶
         王叔汪英紫4 明国 前年10月 1月1日 5月 耶師姑
         ※シタルーとサングルミーが帰国。

         察度24 明国  2月  4月7日  8月  亜撤都

1396年 洪武29年 察度25 明国 前年10月 1月10日 5月 程復
         攀安知1  ※中山王の船に便乗。    善佳古耶
         察度26 明国  2月  4月20日  8月 越来按司
         承察度9  ※中山王の船に便乗。
       ※この時、察度は亡くなり、承察度は朝鮮に亡命していて共にいない。
         王叔汪英紫5 明国 2月 4月20日 8月 呉宣塔弥結致
         世子武寧1 明国 9月 12月15日 翌年3月 蔡奇阿勃耶
         ※サングルミーが国子監に復監。

         攀安知2  ※中山王の船に便乗。     善佳古耶

1397年 洪武30年 察度27 明国 前年11月 2月3日 5月  友賛結致
         攀安知3  ※中山王の船に便乗。     恰宣斯耶
         王叔汪英紫6 明国 前年11月 2月3日 5月 宇座按司
         武寧① 朝鮮  5月        12月
         ※倭寇の捕虜9人を送還。

         察度28 明国  9月 12月15日 翌年3月 友賛結致
         攀安知4  ※中山王の船に便乗。     恰宣斯耶
         ※中山と山北、海船を1隻づつ賜る。

1398年 洪武31年 察度29 明国  1月 3月1日  6月  アランポー 
         察度30 明国  2月 4月1日  7月  程復、新垣大親
         察度31 明国  3月 4月13日  8月  阿不耶
         察度  明国 10月   翌年3月 戦乱のため応天府に行けず。
         王叔汪英紫 明国 10月 翌年3月 戦乱のため応天府に行けず。 
         攀安知 明国  10月  翌年3月 戦乱のため応天府に行けず。

1399年 洪武32年 武寧② 朝鮮  5月        12月

1400年 洪武33年 武寧③ 朝鮮  5月        12月

1403年 永楽1年 察度32 明国 前年11月 2月22日 5月 サングルミー
         攀安知5 明国 前年12月 3月9日 6月 善佳古耶
         ※冠服を請い、下賜される。

         察度33 明国 前年12月 3月14日 6月 王茂
         ※冠服を下賜される。

         汪応祖1  ※中山王の船に便乗。    宇座按司
         武寧④ 朝鮮  5月        12月
         ※武蔵国六浦に漂着。 

1404年 永楽2年 世子武寧2 明国 前年12月 2月21日 5月 サングルミー
         ※海船を賜る。

         攀安知6 明国  1月  3月16日  6月 亜都結致
         汪応祖2 明国  2月  4月12日  8月 隗谷結致
         ※海船を賜る。

         世子武寧3 明国 2月  4月15日  8月
         世子武寧4 明国 8月  10月27日 翌年1月
         汪応祖3  ※中山王の船に便乗。

1405年 永楽3年 武寧5  明国  1月  3月9日  6月 サングルミー
         攀安知7 明国  2月  4月1日  7月 赤佳結致
         武寧6  明国  2月  4月12日  7月 養埠結致
         汪応祖4 明国  2月  4月18日  7月  タキ
         ※李傑が国子監に留学。
         武寧  シャム  8月      翌年6月 新川大親
         ※浮島に来たシャム船に従ってシャムに行く。
         武寧7  明国  10月 12月26日 翌年5月 新垣大親
         汪応祖5 明国  10月 12月26日 翌年5月  タキ
         攀安知8 明国  10月 12月26日 翌年5月 亜都結致
         ※以後10年、進貢なし。
         ※この年、泉州に来遠駅が設置される。

1406年 永楽4年 武寧8  明国  1月  3月2日  7月  サングルミー
         汪応祖6 明国  ※中山王の船に便乗。

1407年 永楽5年 汪応祖7 明国  1月  3月1日  6月  タキ
         世子思紹1 明国 1月  4月11日 7月  サングルミー
         ※武寧王の訃を告げ、「武寧の世子」と称して冊封を請う。

1408年 永楽6年 思紹2  明国  1月  3月26日  6月  大グスク大親
         汪応祖8 明国  1月  3月26日  6月  曵達姑耶
         ※李傑が帰国する。

1409年 永楽7年 思紹3  明国  1月  4月11日  7月  サングルミー
         ※永楽帝がいる北京まで行く。海船を賜る。
         汪応祖9 明国  2月  5月28日  9月  大グスク大親
         ※永楽帝がいる北京まで行く。李傑が再び国士監に入る。
         思紹  朝鮮①  5月       12月  新川大親
         ※武寧の側室だった朝鮮人を送還。

1410年 永楽8年 思紹4  明国  1月  3月5日  6月  中グスク大親
         思紹5  明国  3月  6月30日  9月  新川大親
         ※永楽帝がいる北京まで行く。
         思紹  日本①  5月       12月  ジクー禅師
             朝鮮②               本部大親
         思紹6  明国  10月 12月24日 翌年3月  サングルミー
         ※ファイテとジルークが国子監に留学。

1411年 永楽9年 思紹7  明国  1月  4月3日  6月  程復、具志頭大親
         ※程復が故郷に帰る。王茂が国相になる。
         思紹8  明国  3月  6月26日 9月  本部大親
         思紹  日本②  5月       12月  ジクー禅師
         思紹  朝鮮③  5月       12月  新川大親
         ※勝連の船で行く。
         思紹9  明国  9月  11月24日 翌年1月 サングルミー
         思紹10 明国  11月 閏12月17日 翌年3月 タブチ

1412年 永楽10年 汪応祖10 明国 前年閏12月 2月20日 5月 大グスク大親
         ※海船を賜る。
         思紹11  明国  2月  4月16日  7月  具志頭大親
         思紹  日本③  5月        12月  ジクー禅師
         思紹  朝鮮④  5月        12月  本部大親
         ※勝連の船で行く。

1413年 永楽11年 思紹12  明国 前年10月 1月16日  4月  島尻大親
         思紹13  明国 前年11月 2月2日  4月  タブチ
         ※3人の官生を国子監に送る。
         汪応祖11 明国  1月  4月21日  7月  呉是佳結制
         ※北京まで行く。永楽銭を賜る。
         思紹14  明国  2月  4月21日  7月  サングルミー
         ※北京まで行く。永楽銭を賜る。
         汪応祖12 明国  4月  8月17日  11月  李仲
         ※北京まで行く。李仲が煩い、李傑が福州まで送る。
         思紹  日本④  5月        11月  ジクー禅師
         思紹  朝鮮⑤  5月        11月  本部大親
         ※勝連の船で行く。
         思紹15  明国  9月  12月29日 翌年5月 南風原大親
         ※北京まで行く。

1414年 永楽12年 思紹  日本⑤  5月       翌年1月  ジクー禅師
         ※足利義持の11月25日付けの書状あり。
         思紹  朝鮮⑥  5月        翌年1月  本部大親
         ※勝連の船で行く。
         思紹16 明国   6月  9月5日  12月   サングルミー
         ※北京まで行く。

1415年 永楽13年 世子他魯毎1 明国 前年12月 3月19日 6月 郭是佳結制
         ※北京まで行く。汪応祖の訃を告げ、冊封を請う。
         思紹17 明国  1月  4月19日  9月   南風原大親
         ※北京まで行く。
         攀安知9  ※中山王の船に便乗。      リュウイン
         ※北京まで行く。海船を賜る。
         思紹  日本⑥  5月       翌年1月  ジクー禅師
         思紹  朝鮮⑦  5月       翌年1月  本部大親
         ※勝連の船で行く。
         世子尚巴志1 明国 5月 8月25日  12月  末吉大親
         ※北京まで行く。

1416年 永楽14年 思紹18 明国 前年10月 1月27日  5月  サングルミー
         ※冊封使の船を送って行く。北京まで行く。海船を賜る。
         思紹19 明国  1月  4月9日  9月   韓完義
         他魯毎2 明国  1月  4月9日  9月   郭義才
         ※冊封謝恩。