長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-94.熊野へ(改訂決定稿)

 三姉妹の船が浮島(那覇)に着いた頃、ヤマトゥ(日本)に行ったササ(馬天若ヌル)たちは、京都から熊野に向かっていた。
 五月十四日に与論島(ゆんぬじま)から交易船に乗り込んだササたちが、薩摩の坊津(ぼうのつ)に着いたのは五月三十日だった。坊津で交易船を降りたササたちは、『一文字屋』の船に乗って博多に向かった。去年、自由に行動ができなかったので、交易船から降りたのだった。一文字屋の船に乗ったのは、ササ、シンシン(杏杏)、ナナ、シズ、サスカサ(島添大里ヌル)の五人で、シンゴ(早田新五郎)の船に乗っていたチューマチ(サハチの四男)と越来若按司(ぐいくわかあじ)のサンルーは京都に行くために交易船に移った。
 一文字屋の船は交易船のあとを追って博多に向かい、六月八日に博多に着いた。朝鮮(チョソン)に行く勝連(かちりん)の二隻の船も一緒だった。交易船に乗っていた者たちと勝連の船に乗っていた者たちは『妙楽寺』に入り、ササたちは『一文字屋』に向かった。
 一文字屋に中条兵庫助(ちゅうじょうひょうごのすけ)の娘の奈美が訪ねて来た。去年よりかなり遅いので心配していたという。高橋殿と御台所様(みだいどころさま)に早く知らせなければならないと言って、奈美は京都に向かった。
 玉依姫(たまよりひめ)に挨拶をしようと、ササたちは豊玉姫(とよたまひめ)のお墓に行ったが、玉依姫はいなかった。去年、ササたちが掃除をしたあと、誰かが草刈りをしてくれたのか、綺麗になっていた。
 玉依姫はどこに行ったのだろう、伊勢に行ったのかしらと考えながらお祈りをしていると、
「京都にいるわ」と神様が言った。
 何となく、どこかで聞いた声のような気がした。
「あなたはどなたですか」とササは聞いた。
「ユンヌ姫よ」と言って神様は楽しそうに笑った。
 ササは首から下げたガーラダマ(勾玉)を見た。
「あなた、憑(つ)いて来たの?」とササは聞いた。
「だって、お祖父(じい)様に会いたかったんですもの」
 一言言ってくれればいいのにと思いながらも、「玉依姫様が京都にいるって本当なの?」とササはユンヌ姫に聞いた。
「出雲(いづも)の奥さんがいるから京都には行かなかったんだけど、そろそろ仲よくしなけりゃねって言っていたわ。お祖父様に会いに行ったのよ」
「そう。京都で会えるわね」
「楽しみだわ」とユンヌ姫は嬉しそうに言った。
 交易船よりも先に博多を発ったササたちは上関(かみのせき)で、あやとの再会を喜び、村上又太郎に歓迎された。
 あやの船に先導されて、兵庫に着いたのは六月二十七日で、兵庫の港には明国の船が泊まっていた。噂では上陸の許可が下りなくて、もう半月余りもいるという。
 あやと別れて、ササたちは陸路で京都に向かい、高橋殿の屋敷に入った。
 高橋殿にサスカサを紹介すると、高橋殿は驚いた顔をしてサスカサを見た。
「サハチ殿とマチルギ殿の娘さんなのね?」
「そうです。長女で島添大里(しましいうふざとぅ)のヌルを務めています」
「そう。こんなにも大きな娘さんがいらしたのですね。あなたのお父様が京都まで来てくれたお陰で、将軍様足利義持)はとても助かっているのよ。これからもよろしくね」
 サスカサは綺麗な人だと思いながら高橋殿を見ていた。父から踊りの名人だと聞いていた。踊りだけでなく、武芸の腕も一流のようだとサスカサは思った。
 ササたちは船岡山に行って、スサノオの神様に挨拶をした。玉依姫も一緒にいた。
「待っておったぞ。玉依姫琉球まで連れて行ってくれたそうじゃのう。わしからもお礼を言うぞ」
 ササが『新宮(しんぐう)の十郎』の事を聞こうとしたら、ユンヌ姫が邪魔をした。スサノオは孫娘との出会いを喜んで、ササの事など忘れて、ユンヌ姫を連れてどこかに行ってしまった。
「あなた、ユンヌ姫を連れて来たの?」と玉依姫が聞いた。
「勝手に憑いて来たのです」
「そう。でも、どうして、あなたがユンヌ姫を知っているの?」
「ヤマトゥに来る前に与論島に寄って来たのです」
「ユンヌ姫があなたを呼んだのかしら?」
 今、思えばそうかもしれないとササは思った。与論島を攻め取ったという話を聞いた時、今のうちに与論島に行かなければならないと思った。どうしてそう思ったのかはわからなかったが、ユンヌ姫に呼ばれたのかもしれなかった。
玉依姫様は、新宮の十郎っていう人を知っていますか」とササは聞いた。
「新宮の十郎? 何者なの?」
「源氏の武将のようです」
「知らないわね。新宮って熊野の新宮かしら?」
「そうです。その人は熊野水軍お船に乗って琉球に行ったようです」
「熊野なら稲田姫(いなだひめ)様の子供たちが作った国よ」
「えっ、熊野もスサノオの神様と関係があったのですか」
「熊野に祀られているのは父なのよ。わたしの義弟(おとうと)のイタケルと義妹(いもうと)のオオヤツヒメツマツヒメの三人が熊野に木の種を蒔いて木(きい)の国(紀伊国)を造ったのよ」
「そうだったのですか」
「出雲に熊野という山があって、山の上に父が祀られているらしいわ。熊野という名前は出雲の熊野山から取ったのよ。義弟たちは熊野の山の上に父を祀って、その地を新宮って名付けたらしいわ」
スサノオの神様が祀られている山は、新宮にあるのですか」
「最初に祀られた山は新宮にあるわ。今は本宮(ほんぐう)にも祀られているわよ。義弟たちは新宮を拠点にして、船の材料になる楠木(くすのき)を熊野の山々に植えたのよ」
「船になる木を植えたのですか」
「そうよ。その木が増えて、船をどんどん造って、熊野は水軍として活躍するようになったのよ」
「そうでしたか。スサノオの神様をお祀りしているのなら、是非とも、熊野まで行かなければなりませんね」
「あそこには古い神様がいっぱいいるわ。あなたが探している人を知っている神様もいるかもしれないわね」
玉依姫様、あなたが琉球に行った時、サスカサヌルはいたのでしょうか」とサスカサが聞いた。
 ササは驚いてサスカサを見た。
 サスカサはスサノオの声も玉依姫の声も聞いていた。サスカサが身に付けている勾玉(まがたま)は、豊玉姫スサノオからもらった勾玉の一つなので、声が聞こえたようだった。勾玉を身に付ければ、誰でも神様の声が聞こえるというものでもない。サスカサもヂャンサンフォン(張三豊)のもとで一か月の修行をしたお陰で、潜在能力が目覚めて、シジ(霊力)が高まったのだった。
「わたしが琉球に行ったのは十五の時だったけど、サスカサは大里(うふざとぅ)にいたわよ。母の従妹(いとこ)が初代のサスカサだったわ」
「その時の大里グスクは、『月の神様』を祀っているウタキ(御嶽)のある所でしたか」
「いいえ。あのウタキには按司と言えども男の人は入れないわ。グスクはあのウタキの手前にあったのよ」
「ありがとうございます。これで謎が解けました」
「あなたがサスカサを継いだのね。月の神様をお願いね」
「はい」とサスカサは言って両手を合わせた。
 ササも両手を合わせて、玉依姫を見送ったあと、「あんた、凄いじゃない」とサスカサの肩をたたいた。
 サスカサは嬉しそうな顔をして、「ササ姉(ねえ)のお陰ですよ」と言った。
 高橋殿の屋敷に帰ると、ササは高橋殿に新宮の十郎の事を聞いた。高橋殿も知らなかったが、新宮の孫十なら知っていると言った。
「新宮の孫十は熊野の水軍の大将よ」
「新宮の十郎は二百年も前の人なんです。もしかしたら、孫十という人は十郎の子孫かもしれないですね」
 新宮の十郎の事を調べるために熊野に行きたいとササが言うと、高橋殿は少し考えてから、「熊野に行きましょう。御台所様(みだいどころさま)と一緒にね」と楽しそうに言った。
 高橋殿は北山殿(きたやまどの)(足利義満)が健在だった頃、熊野に六回も行っていた。表向きは熊野信仰による参詣だったが、裏では熊野の山伏や比丘尼(びくに)(尼僧)、熊野水軍を味方に付けるための熊野行きだった。北山殿が亡くなってからは行っていない。山伏たちの動向を確認するためにも、行った方がいいかもしれないと高橋殿は思った。
「先達(せんだつ)に頼んでみるわ」と高橋殿は言った。
「先達って何ですか」とササは聞いた。
「熊野の山伏よ。熊野に行くには先達に従わなければならないの。色々と決まりがあってね、行く前にも精進屋(しょうじんや)という所に籠もって、身を清めなければならないのよ」
「そうなんですか」
 軽い気持ちで熊野まで行って来ようと思っていたササは、面倒くさそうだと思いながらも、ヤマトゥに来たのだからヤマトゥの作法に従わなければならないと思い、高橋殿に任せる事に決めた。
「熊野まで何日くらい掛かりますか」
「十日くらいね。行って帰って来て二十日余りってところよ」
「二十日ですか‥‥‥」
 思っていたよりも熊野は遠いようだった。
 熊野には本宮、新宮、那智(なち)と三つの聖域があって、その三つをお参りする事を『熊野詣で』と言った。熊野は古くから山伏たちの修行の山だった。京都から遙かに遠い異国の地ともいえる熊野まで、苦しい思いをしてまでもお参りに行くというのを流行(はや)らせたのは、藤原氏から政権を取り戻した白河上皇(じょうこう)だった。
 白河上皇は御先祖様の『スサノオ』を祀っている熊野に十二回も行っている。白河上皇の孫の鳥羽上皇(とばじょうこう)は二十二回、鳥羽上皇の息子の後白河上皇は三十四回、後白河上皇の孫の後鳥羽上皇は二十九回と、実権を握った上皇たちは驚くほど何回も熊野御幸(ごこう)をしていた。上皇に従って熊野に行った大勢の貴族たちは、京都に帰って熊野の素晴らしさを伝え、貴族たちがこぞって熊野参詣に赴く事になる。
 承久(じょうきゅう)の乱(一二二一年)で、鎌倉幕府の北条氏に敗れた後鳥羽上皇は、権力の基盤だった荘園を奪われて、以後、上皇の熊野参詣はなくなってしまう。しかし、熊野の山伏や比丘尼たちの活躍と、時衆(じしゅう)の聖(ひじり)たちの宣伝によって、熊野信仰は広まり、貴族たちに代わって、武士や庶民たちが参詣するようになる。南北朝の争いの時は、熊野の山伏や水軍たちも争いに巻き込まれて戦っていたが、南北朝の争いも終わって、熊野参詣は再び活気を帯び、先達に連れられて参詣する人たちが増えていた。
 ササたちより三日遅れて、琉球の交易船が兵庫に着き、ササたちは奈美から知らせを受けて、行列に参加した。三弦(サンシェン)と笛と太鼓の音楽は琉球らしいと評判になって、三弦が欲しいという者が大勢現れた。平田大親(ひらたうふや)(ヤグルー)は来年、必ず持って来ると約束した。新助と相談しながら描いた栄泉坊の龍の旗も評判はよかった。琉球というのは龍宮(りゅうぐう)の事ではないのかと噂になっていた。
 ヤグルーの話だと、兵庫港にいた明国の船は結局、上陸の許可は下りずに追い返されたという。その船に冊封使(さっぽうし)が乗っていて、将軍様冊封を受けるわけにはいかないので追い返したようだった。
 等持寺(とうじじ)に着くと高橋殿が迎えに来て、ササたちは将軍様の御所に入り、御台所様と再会した。
 御台所様の日野栄子は、「来るのが遅いから心配していたのよ」と言って嬉しそうに笑った。
「高橋殿から聞いたわよ。今年は熊野参詣に行くんですってね。楽しみだわ」
 御台所様はササのために、歴史に詳しいお公家(くげ)さんを呼んでくれた。
 新宮の十郎は鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の叔父で、父親は保元(ほうげん)の乱(一一五六年)で敗れて、船岡山で首を斬られた源為義(みなもとのためよし)だという。
 船岡山で首を斬られたと聞いてササは驚いた。しかも、首を斬ったのは息子の義朝(よしとも)だという。
 まだ幼かった十郎はその戦(いくさ)には参加していない。熊野別当(べっとう)の行範(ぎょうはん)に嫁いだ姉の丹鶴姫(たんかくひめ)と一緒に新宮で暮らしていた。父の死から三年後、平治の乱が起こって、十郎は長兄の義朝と一緒に戦うが敗れてしまう。勝利した平清盛(たいらのきよもり)は実権を握って、以後、平家の全盛時代となる。義朝は戦死して、十郎は熊野に逃げて、二十年間にも及ぶ潜伏生活を送る。
 二十年後、京都に呼ばれた十郎は三条宮(さんじょうのみや)(以仁王(もちひとおう))と会い、平家打倒の令旨(りょうじ)を各地にいる源氏の武将たちに伝える。
 甥の頼朝(よりとも)(長兄義朝の三男)が伊豆で挙兵して、十郎も美濃(みの)(岐阜県)、三河(みかわ)(愛知県)で平家軍と戦うが大敗を喫し、鎌倉にいる頼朝を頼る。しばらく鎌倉に滞在するも、頼朝と対立して信濃(しなの)(長野県)の木曽に行き、甥の義仲(次兄義賢の次男)と行動を共にする。北陸で平家軍を破って、義仲と共に入京を果たすが、義仲と対立して京都を離れる。播磨(はりま)(兵庫県)で平家軍と戦うが敗れて、河内(かわち)(大阪府)に逃げる。義仲が義経(頼朝の弟)率いる頼朝軍に討たれ、壇ノ浦で平家が滅ぼされたあと、十郎は京都に戻って義経に接近する。義経と共に頼朝に対抗するがかなわず、義経と別れて半年間の逃亡の末、和泉(いずみ)(大阪府)で敵兵に囲まれて戦死した。
 新宮の十郎は平家を倒すために、妻と子を置いて琉球から去って行ったのだろう。平家を滅ぼす事には成功したが、甥の頼朝との戦に負けて戦死してしまった。戦はあまりうまくはなく、協調性もあまりないようだが、源氏の武将として、それなりの一生を送ったようだとササは思った。
 二日後、先達の住心院(じゅうしんいん)殿が迎えに来て、ササたちは京都の外れの山の中にある住心院内の精進屋に入った。
 ササ、サスカサ、シンシン、シズ、ナナの五人と高橋殿、御台所様、対御方(たいのおんかた)、平方蓉(ひらかたよう)、奈美の五人が一緒に精進屋に入って身を清めた。肉や魚を断った質素な食事を食べて、大声を出したり騒いだりする事もできず、お経を読んだり、真言(しんごん)と言われる不思議な言葉を唱えたり、水垢離(みずごり)をしたりと退屈な時を過ごし、ササはうんざりしていたが、なぜか毎晩、酒盛りがあって、騒がず静かにお酒を楽しんだ。高橋殿はお酒が好きで、いくら飲んでも酔う事はなかった。
 精進屋に入って四日目、お輿(こし)に乗って、御霊社(ごりょうしゃ)、今宮神社、北野天満宮、佐女牛八幡宮(さめうしはちまんぐう)、新(いま)熊野神社祇園社(ぎおんしゃ)をお参りした。久し振りに外に出たので楽しかったが、お参りのあとには必ず酒盛りがあって、ササたち五人は皆、途中で酔い潰れ、気がついた時には精進屋に戻っていた。
 次の日、ササたちは二日酔いで頭ががんがんしていたのに、高橋殿は平気な顔をして、夕方になると、うまそうにお酒を飲んでいた。
 夜中の旅立ちだった。ササたちは皆、山伏の格好になり、杖(つえ)を突いて暗い夜道を進んだ。精進屋を出て苦行の参詣が始まり、身分の高い者でもお輿(こし)に乗ったり、馬に乗ったりして参詣する事は許されなかった。
 本来、女性は垂れ絹を付けた市女笠(いちめがさ)をかぶって行くのだが、そんなのをかぶっていたら景色もろくに見えないし邪魔なので、山伏姿で行く事を高橋殿が主張して、先達としても逆らえなかったのだった。
 将軍様も見送りに来て、「無理はするなよ」と妻の栄子をいたわり、「わしも一緒に行きたいのう」と羨ましそうな顔をした。
 住心院の山伏たちが松明(たいまつ)を持って先導し、中条兵庫助(ちゅうじょうひょうごのすけ)が弟子を二人連れ、将軍様の側近の赤松越後守(えちごのかみ)が警護の兵を率いて従っていた。他に御台所様の侍女が二人、高橋殿の侍女が二人、対御方の侍女が二人従い、荷物持ちの男が十人、重い荷物を背負って従っていた。
 夜が明ける頃、淀川のほとりにある船津に着いて船に乗り込んだ。景色を眺めながらの楽しい船旅だったが、船の中でも酒盛りが始まった。高橋殿のお酒好きにはササは閉口していた。去年、伊勢に一緒に行った時もお酒を飲んではいたが、こんなにも強いとは知らなかった。お酒を飲んだら眠くなってしまい、目が覚めたら夕方近くになっていた。日暮れ前に渡辺津に着いて、迎えに来てくれた摂津(せっつ)の守護代、奈良弾正(だんじょう)の案内で大きなお寺に行って、そこに宿泊した。
 二日目は天王寺(てんのうじ)と住吉大社にお参りして、和泉(いずみ)の国府まで行って、また大きなお寺に泊まった。和泉の守護代、宇高安芸入道(うだかあきにゅうどう)が途中で出迎えて、案内してくれた。立派なお寺に泊まるのはいいが、厳重に警護されて、何となく窮屈だった。
「仕方ないのよ」と高橋殿が言った。
「御台所様にもしもの事があったら責任を取らなくてはならないわ。あの人たちも必死なのよ。気にしないで、楽しい旅にしましょう」
 三日目は樫井(かしい)の王子という神社で、お神楽(かぐら)を奉納した。ササが笛を吹いて、高橋殿が華麗な舞を披露した。川辺川(かわなべがわ)(紀ノ川)という大きな川で水垢離をした。熊野への参詣道には、王子と呼ばれる熊野権現御子神(みこがみ)を祀った神社がいくつもあって、道中の安全を祈願した。
 渡し舟に乗って川を渡り、和佐峠(わさとうげ)でひと休みして、例のごとく、お酒を飲んでいると、熊野水軍の大将、藤代(ふじしろ)の鈴木庄司が兵を引きつれて迎えに来た。高橋殿は鈴木庄司を呼んでお酒を勧めた。鈴木庄司は恐縮してひざまずき、高橋殿のお酒を頂くと、
「お久し振りでございます。相変わらずなので、安心いたしました」と言った。
 鈴木庄司の案内で大きなお寺に行き、その夜はささやかな宴(うたげ)が開かれた。参詣の途中なので、贅沢な料理は食べられない。それでも珍しい木の実や果物があって、おいしかった。鈴木庄司はササたちが琉球から来たと聞くと驚いて、色々と聞いて来た。ナナが朝鮮(チョソン)から来たと聞くとさらに驚き、シンシンが明の国から来たと聞くと目を丸くして高橋殿を見た。
「恐れ入りました」と鈴木庄司は頭を下げた。
「御台所様の周りには色々な御方がおりますのう。天下無敵の高橋殿だけでなく、琉球、朝鮮、明国などと、わしら田舎者にはとても考えられん御方たちじゃ。大したもんじゃのう」
「何をおっしゃいます。天下無敵などと。それは昔の事でございますよ」と高橋殿は謙遜したが、鈴木庄司は手を振って、
「今でも熊野の山伏、比丘尼、そして、わしら水軍の者たちは高橋殿を慕っております。高橋殿が一声掛ければ、熊野の者たちは皆、喜んで馳せ参じましょう」と言った。
「嬉しい事を。将軍様もさぞ喜ぶ事でございましょう」
 ササは鈴木庄司に、新宮の十郎の事を聞いた。
琉球の御方が新宮の十郎殿を御存じなのですか」と鈴木庄司は驚いて、「新宮の十郎殿は熊野の英雄でございます」と自慢した。
「今から二百年余り前、平家の全盛期でございました。新宮の十郎殿は平家打倒の三条宮様の令旨を持って各地の源氏の大将を訪ねて、決起を促しました。十郎殿の活躍のお陰で平家は滅んで、十郎殿の甥の頼朝殿が鎌倉に幕府を開いたのでございます。十郎殿は戦死されてしまいましたが、今も子孫たちが新宮を拠点に水軍として活躍しております」
「孫十殿ですね」
「ほう、よく御存じで。孫十はわしらと一緒に南朝方として戦っておりましたが、今では高橋殿に口説かれて将軍様に従っております。奴に聞けば、十郎殿の事も詳しい事がわかるに違いありません」
 次の日、鈴木庄司の案内で、藤代の王子を参拝した。藤代峠は眺めがよく、美しい眺めを堪能しながらお酒を飲んだ。山をいくつか越えて、川を渡ると玉置左衛門尉(たまきさえもんのじょう)が待っていた。鈴木庄司は玉置左衛門尉にあとの事を頼むと、挨拶をして引き上げて行った。
 玉置左衛門尉は御台所様と高橋殿に慇懃(いんぎん)に挨拶をすると、引き連れて来た兵たちを配置に付けて案内に立った。翌日は湯川宮内少輔(ゆかわくないしょうゆう)、その翌日は山本中務丞(やまもとなかつかさじょう)と地元の武将たちが代わる代わる現れて、警護と案内役を務めた。覚悟はしていたが、御台所様と一緒では気楽な旅はできなかった。
 京都を発ってから六日目、切目王子(きりめおうじ)では面白い習わしがあった。ここを通る者は皆、顔にきな粉を塗って、「稲荷(いなり)の氏子、こう、こう」と言わなければならなかった。ササたちは勿論の事、高橋殿や御台所様まで、顔にきな粉を塗って、お互いの顔を見て、笑い合いながら通過した。馬鹿げた事をと言いながらも、中条兵庫助も顔にきな粉を塗って、狐の真似をしたのはおかしかった。
 切目王子から田辺までは海辺近くの道をのんびりと歩いて、時々、海に入って潮垢離(しおこり)をした。勿論、潮垢離のあとはお清めの酒盛りだった。
 七日目に稲葉根王子(いなばねおうじ)にお参りして、中辺路(なかへち)と呼ばれる熊野参詣道に入った。岩田川(富田川)で水垢離をして、山本中務丞が用意してくれたお昼を食べながらお酒を飲んだ。
「岩田川は三途(さんず)の川でございます」と住心院殿が言った。
「熊野は浄土(じょうど)でございます。本宮は阿弥陀如来(あみだにょらい)様の極楽浄土、新宮は薬師如来(やくしにょらい)様の浄瑠璃浄土(じょうるりじょうど)、那智は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)様の補陀落浄土(ふだらくじょうど)でございます。浄土に行くには、まず、死ななければなりません。三途の川を渡って一旦、死んで、浄土に行って成仏(じょうぶつ)して、生まれ変わって現世に戻って来るのでございます」
 川の中を腰まで水に浸かって歩いて渡り、岩田川に沿って山の中へと入って行った。山本中務丞は川を渡らず、兵たちを連れて帰って行った。高橋殿もうっとうしいと思って、追い返したようだ。
 何度も川の中を歩いて滝尻王子(たきじりおうじ)に着き、お神楽を奉納して、お酒を飲んだ。滝尻王子には宿坊(しゅくぼう)がいくつも建っていて、大勢の山伏たちがいた。
 大きな鳥居をくぐって山道に入って行った。その日は、山の中の高原谷(たかはらだに)にある石王兵衛(いしおうびょうえ)の屋敷にお世話になった。山奥に来たという感じがして、ササたちはようやく熊野に来たという事を実感していた。
 石王兵衛は一流の面(おもて)打ち師だという。高橋殿の突然の来訪を大歓迎してくれた。
 石王兵衛が打った翁(おきな)の面を掛けて高橋殿が舞った。幽玄な舞で、まるで、高橋殿は神様のように見えた。ササたちは思わず両手を合わせていた。
 ササは凄いと感激していたが、石王兵衛は満足していなかった。
「そなたが来てくれてよかった。最高の面ができたと自惚れていたが、そなたの舞に完全に負けておる。やり直しじゃ」
 そう言って、面を鉈(なた)で割ってしまった。
 ササたちは驚いて石王兵衛を見たが、石王兵衛は面の事などすっかり忘れたような顔をして、高橋殿に京都の様子などを聞いていた。
 夜遅くまで飲んでいて、翌朝、目を覚ますと石王兵衛は面を打っていた。
「面を打ち始めたら、もう何を言っても耳に入らないわ」と高橋殿は首を振った。
 ササたちは一心不乱に面を打っている石王兵衛と別れて、険しい山道を熊野へと向かった。御台所様も武当拳(ウーダンけん)の稽古を怠りなくやっているとみえて、弱音は吐かなかった。
 急な下り坂を下りると宿坊がいくつも建っている近露(ちかつゆ)という所に出て、そこでお昼を食べてお酒を飲んだ。ササたちもお酒のうまさがわかるようになって、楽しい一時を過ごして、また山道を進んだ。曲がりくねった道を登ったり下りたりして、着いた所は湯川と呼ばれる山の中の村だった。湯川宮内少輔の本家があって、村に住んでいるのは湯川一族で、参詣者のための宿坊をやっていた。ササたちは湯川の長老の宿坊のお世話になった。長老は高橋殿との再会を喜び、歓迎してくれた。
 次の日、『発心門(ほっしんもん)』という大きな鳥居をくぐった。ここから熊野本宮の神域に入るという。今まで突いていた杖を発心門王子に奉納して、金剛杖(こんごうづえ)という四角に削られた杖に変えられた。金剛杖を突きながら山道を進んで行くと、山の上から川の中洲にある本宮大社が小さく見えた。山々がずっと連なっている中に見えるその姿は神々しく、まさしく神様の社(やしろ)に見えた。ササたちは知らずに両手を合わせていた。
 山道を下って行くと宿坊が建ち並ぶ門前町に出て、音無川(おとなしがわ)を杖を突いて渡り、中洲に建つ『本宮大社』の門前にひざまづいて両手を合わせた。
 本宮大社の中には入らず、また川を渡って門前町に戻った。宿坊に入って恒例の酒盛りが始まるのかなと思っていたら、また山道に入った。『湯の峰』という所で湯垢離(ゆごり)をするという。
 ササたちは初めて温泉に入って感激した。温泉から出るとちょっと一杯やって、山を下りた。宿坊に入ってまた一杯やって、夜になって本宮大社に行き、月明かりの下で、いくつもある社殿にお参りした。
 古い神様がいっぱいいるようだったが、ササに話し掛けて来る神様はいなかった。サスカサもシンシンもシズもナナも神様の声は聞かなかった。

 

 

 

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