長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-120.鬼界島(改訂決定稿)

 明国(みんこく)の海賊、リンジョンシェン(林正賢)から手に入れた鉄炮(大砲)を積んだ武装船に乗った湧川大主(わくがーうふぬし)は、意気揚々と鬼界島(ききゃじま)(喜界島)に向かっていた。
 去年、前与論按司(ゆんぬあじ)の父子を鬼界按司(ききゃあじ)として、鬼界島を攻めさせたが、失敗して帰って来た。若按司は戦死して、百人の兵を失い、おまけに進貢船(しんくんしん)まで壊された。何とか修理をしたが、外洋に出るのは無理だという。リンジョンシェンが毎年、来てくれるので、進貢船で明国まで行く必要はないが、大損害だった。
 前与論按司は過去に与論島(ゆんぬじま)を攻め落としたという自信を持っていた。あの時もかなりの抵抗があったが、見事に攻め落とした。鬼界島も必ず落としてみせると意気込んで出掛けて行ったのだが、倅まで失う負け戦になってしまった。今年こそは鬼界島を奪い取って、島の者たちに去年の損害の穴埋めをしてもらわなければならなかった。
 湧川大主は加計呂麻島(かきるま)の諸鈍(しゅどぅん)に寄って、小松殿(くまちどぅん)から鬼界島の事を詳しく聞いた。
「あの島は独特な島じゃよ」と小松殿は言った。
「古くからヤマトゥ(日本)の勢力が入って来ている。明の国が唐の国と呼ばれていた五、六百年前、ヤマトゥの国で、海外との交易を担当していた『太宰府(だざいふ)』という役所が博多の近くにあった。そこの役人が鬼界島にやって来て、交易の拠点にしたらしい。当時、ヤコウガイがヤマトゥに大量に運ばれていて、ヤコウガイの交易をその役人たちが仕切っていたようじゃ」
ヤコウガイというのはヤクゲーの事でしょう。ヤクゲーの交易とはどういう事です?」
 湧川大主にはヤコウガイがヤマトゥに大量に運ばれていたという意味がわからなかった。
ヤコウガイの貝殻が『螺鈿(らでん)細工』という飾り物に使われたんじゃよ。これがそうじゃ」
 そう言って、小松殿は硯箱(すずりばこ)を見せてくれた。綺麗な花の絵が描いてあり、花びらがキラキラと輝いていた。その輝いているのがヤコウガイの貝殻だった。
「当時、ヤマトゥの偉い人たちが、こういう物を欲しがって、そのためにヤコウガイがヤマトゥに大量に運ばれたんじゃ。硯箱だけではない。首飾りや腕輪、琴や琵琶(びわ)などの装飾にも使われて、刀の鞘(さや)にも使われた。神社やお寺の祭壇にも飾られたんじゃよ」
「今は使われていないのですか」
螺鈿の技術が進歩して、今ではアワビを使っているようじゃ。アワビはヤマトゥでも採れるからのう。わざわざ、南の島から運ぶ必要もなくなってしまったんじゃよ」
琉球ヤコウガイの交易をしていたのですか」
「勿論じゃ。山北王(さんほくおう)の御先祖様の小松の中将(平維盛)様が琉球に来られたのも、ヤコウガイの交易で琉球に来ていた熊野水軍の船に乗って来たんじゃよ」
「成程、そうだったのか」と湧川大主は納得して、「ヤコウガイと交換していたのは何だったのですか」と聞いた。
熊野水軍は様々な物を持って来たじゃろうが、太宰府の役人たちが鬼界島にやって来た頃は、甕(かーみ)や鉢(はち)などの陶器じゃよ。役人たちは徳之島(とぅくぬしま)に窯(かま)を造って、そこで焼いた陶器をヤコウガイと交換していたんじゃ。時は下って二百年余り前になると、宋(そう)の国との交易が盛んになって、平家がその拠点を鬼界島に置いたんじゃ。すでに太宰府の力は弱くなっていて、島の役人たちも平家に従わなければならなくなっていた。やがて、平清盛(たいらのきよもり)が太宰大弐(だざいたいに)という太宰府を仕切る役人になると、清盛の配下の者たちが島に入って来て、島を支配するようになる。その頃、薩摩(さつま)に勢力を持っていた阿多平四郎(あたへいしろう)という男がいた。この男は、九州にやって来た源為朝(みなもとのためとも)と手を組んで、さらに勢力を広げたんじゃ」
源為朝というのは何者です?」
「為朝は鎌倉に幕府を開いた頼朝(よりとも)の叔父さんじゃ。背丈が七尺(約二メートル)もあった大男で、弓矢の名人じゃった。かなりの乱暴者だったらしくて、若い頃、九州に流されたようじゃ。九州に行っても大暴れをして、九州を平定してしまったんじゃよ。阿多平四郎はそんな為朝と手を結んで、自分の娘を為朝の嫁にやったんじゃよ」
「そんな凄い男がいたのですか」
 湧川大主は背丈が七尺もある大男が弓を構えている姿を想像して、そんな武将がいたら今帰仁(なきじん)にも欲しいものだと思った。
「阿多平四郎は宋の国との交易もやっていてな、為朝と組んだお陰でかなり稼いだようじゃ。しかし、京都で起こった『保元(ほうげん)の乱』に敗れた為朝は、伊豆の大島に流されてしまうんじゃよ。平四郎も追われる身となって、薩摩を離れて鬼界島に行くんじゃ。平四郎は清盛の家来たちを倒して、島を支配したようじゃ。鬼界島を拠点にヤマトゥと宋との交易をしていたんじゃ。何年かして、清盛は鬼界島を攻めた。平四郎は降参して清盛の配下になったようじゃ。それからまた何年か経って、『壇ノ浦の合戦』があって平家は滅び、安徳天皇の偽者が鬼界島にやって来るんじゃよ。平四郎は偽者とは知らずに、安徳天皇を迎えたようじゃ。壇ノ浦の合戦から二年後、源氏の兵が残党狩りにやって来た。その頃、平四郎は亡くなっていて、孫が跡を継いでいた。その孫というのは、為朝の妻になった平四郎の娘が産んだんじゃよ。為朝の息子なら鎌倉の将軍、頼朝とは従兄弟(いとこ)同士じゃ。為朝の武勇は頼朝も知っていて、為朝の息子を島の領主として認めたようじゃ。そこまでは、わしの御先祖様が書き残した記録に残っているが、その後の事はわからん。今、『御所殿(ぐすどぅん)』と呼ばれている島の領主は、為朝の息子の子孫なのじゃろう。名前は『阿多源八』というらしい」
「偽者の安徳天皇はどうなったのですか」と湧川大主は聞いた。
「若くして亡くなったようじゃ。誰を妻に迎えたのかはわからんが、娘が産まれたようじゃな。多分、その娘は為朝の孫と一緒になったのかもしれんな。宋の国との交易も終わって、ヤコウガイの交易も終わると、鬼界島も寂れたようじゃ。かつての繁栄を取り戻すために、倭寇(わこう)になって高麗(こーれー)を攻めていた時期もあったようじゃ。今は倭寇はやめて、琉球に行って明国の物を仕入れて、薩摩に行って、それを売り、刀を手に入れては琉球に行っているようじゃ」
「中山王(ちゅうさんおう)と取り引きしているのですか」
「そのようじゃな。鬼界島の『キ』じゃが、昔は貴いという字だったようじゃ。そして、薩摩の近くにあって煙を上げている硫黄島(いおうじま)が鬼が棲んでいる島として、鬼という字を使った鬼界島だったんじゃよ。京都に住んでいる者たちには硫黄島も貴界島も区別がつかん。やがて、貴界島も鬼が棲んでいる島だと思われて、鬼という字が使われるようになったようじゃ。鬼が棲んでいる島だと思われていたお陰で、倭寇たちの拠点にもならず、為朝の子孫たちが支配を続ける事ができたのじゃろう。昔は鬼が出るとの噂は確かにあったようじゃ。島の者たちがよそ者を追い返すために、鬼に扮していたのかもしれんな。為朝は大男だったから、子孫たちにも大男がいたのじゃろう。今も赤鬼(あかうに)、青鬼(あおうに)と呼ばれる大男のサムレーがいるようじゃ」
 前与論按司も大男の武将がいたと言っていた。大薙刀(おおなぎなた)を振り回して、そいつのために大勢の兵が殺されたと言っていた。どんなに強い大男だろうが、湧川大主には倒す自信はあった。でも、できれば降参させて、配下に加えたいとも思った。
 中山王と取り引きをしている鬼界島は、何としてでも倒さなければならないと湧川大主は決心を新たにして、奄美大島(あまみうふしま)を北上して戸口(とぅぐち)に向かった。
 戸口の左馬頭(さまのかみ)に、去年、前与論按司がお世話になったお礼を言って、ウミンチュ(漁師)に扮した配下の者を鬼界島に送って敵の様子を探らせた。
 翌日、湧川大主は北上して笠利崎(かさんざき)を回って赤木名(はっきな)に向かった。奄美按司の娘にヌルの修行をさせるために、先代の浦添(うらしい)ヌルが一緒に乗っていたのだった。
 浦添ヌルだったマジニが今帰仁に来て、すでに七年が過ぎていた。義兄の山北王(攀安知)は、中山王(思紹)と同盟を結んでしまい、父親(武寧)の敵(かたき)を討ってくれそうもなかった。兄のンマムイ(兼グスク按司)も島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)(サハチ)と仲よくしていて、敵討ちなんかすっかり忘れている。
 山北王が中山王と同盟を結んだあと、首里(すい)から『まるずや』という商人がやって来て、色々な物が安く手に入ると評判になった。侍女たちは『まるずや』に通って、姉のマアサ(山北王妃)や側室たちは女商人を御内原(うーちばる)に呼んで小間物類を買っていた。今帰仁ヌルも欲しかった鷲(わし)の羽根が手に入ったと喜んでいた。マジニも欲しかったけど、敵から手に入れた物を髪に飾るわけにはいかないと諦めた。
 首里から旅芸人もやって来て、城下の人たちは皆、お芝居に夢中になった。お芝居の中で舞姫たちが歌った歌が流行って、三弦(サンシェン)を欲しがる者も現れた。山北王は明国の海賊に三弦を持って来るように頼んだという。子供たちは『瓜太郎(ういたるー)』の真似をして遊んでいる。敵の芸人なんか見られないと意地を張っていたマジニは、何だか、自分だけが取り残されてしまったような気分だった。それでも、敵討ちを諦めずに、クボーヌムイ(クボー御嶽)でお祈りを捧げていた。
 今月の初め、志慶真(しじま)ヌルが馬天(ばてぃん)ヌルたちと一緒に安須森(あしむい)に行ったらしいと今帰仁ヌルがマジニに言った。マジニは十五歳の時に、ウタキ(御嶽)巡りをしていた馬天ヌルと会っていた。若ヌルだったマジニは、伯母の浦添ヌルと一緒に馬天ヌルを案内してウタキを巡った。馬天ヌルは伯母が知らない事まで知っていて、凄いヌルだと感心した。その時は知らなかったが、今帰仁に来て、馬天ヌルが中山王の妹だと知って、馬天ヌルも父の敵(かたき)の一味だと憎んだ。
 去年、馬天ヌルがまたウタキ巡りの旅をして、今帰仁に来た。マジニは父の敵の馬天ヌルを捕まえてくれと山北王に頼んだが、山北王は笑っているだけで、馬天ヌルを捕まえようとはしなかった。
 山北王と中山王が同盟してからというもの、今帰仁ヌルの態度も変わっていった。今帰仁に来た当初は可哀想だと同情してくれた今帰仁ヌルも、世の中が変わって行くにつれて、昔の事はもう忘れなさいと言うようになった。
 山北王にとって、マジニの父、武寧(ぶねい)は義父であるが、今帰仁ヌルにとって武寧は祖父と伯父を殺した敵であった。その敵を討ってくれた中山王を恨む理由はなかった。
 去年、馬天ヌルが訪ねて来なかったのは、マジニがいるせいだと今帰仁ヌルは思って、口に出しては言わないが、もうそろそろ出て行ってくれという態度を示すようになった。マジニも居心地の悪い雰囲気は察していたが、なかなか出て行く事はできなかった。そして、今回、馬天ヌルは大勢のヌルたちを連れて安須森に行き、そこに志慶真ヌルも加わっているという。
 今帰仁ヌルが調べたら、勢理客(じっちゃく)ヌルも羽地(はにじ)ヌルも名護(なぐ)ヌルも一緒に行った事がわかった。今帰仁ヌルは悔しがった。わたしが仲間はずれにされたのは、マジニのせいだと怒った。マジニは今帰仁ヌルと喧嘩をして、今帰仁ヌルの屋敷を飛び出した。
 姉のマアサを頼ろうかと思ったが、ふと奄美大島の若ヌルの指導のために、奄美大島に行かないかと山北王から声を掛けられた事を思い出した。その時は断ったが、しばらく今帰仁を離れて、様子を見るのもいいだろうと考え直した。マジニは運天泊(うんてぃんどぅまい)に行き、鬼界島攻めの準備をしている湧川大主に頼んで、奄美大島に行く事に決まった。すでに、奄美大島に行くヌルは決まっていたが、マジニが代わると言うと喜んで今帰仁に帰って行った。
 今帰仁ヌルと喧嘩した勢いで、奄美大島行きを決めてしまったが、行ったら、そう簡単には帰って来られない事に気づいて、マジニは悲嘆に暮れた。そんなマジニを慰めているうちに、湧川大主はマジニを哀れに思い、つい抱きしめてしまった。湧川大主に抱かれたマジニは覚悟を決めて、奄美大島に向かったのだった。
 マジニと別れて、戸口に戻ろうとした時、台風がやって来た。笠利湾内にいてよかったと湧川大主は神様に感謝した。もし戸口で台風に遭ったら、船が座礁したかもしれなかった。もしかしたら、マジニのお陰かもしれないと思うと余計に愛しくなって、台風が通り過ぎるまでの時を湧川大主はマジニと二人きりで過ごしていた。
 台風も去り、うねりもなくなって、湧川大主は戸口に戻った。マジニも一緒だった。マジニにしても、湧川大主にしても、もう別れる事は不可能だった。ヌルに惚れた男はそう簡単には別れる事はできなかった。
 鬼界島を偵察していた配下の者たちは戸口に帰っていた。
「あの島は噂通り、簡単には上陸できません。海岸は岩場だらけで、あの島がまるで、一つのグスクのようです。上陸できる地点は四カ所しかありません。湾泊(わんどぅまい)、小野津(うぬつ)、沖名泊(うきなーどぅまい)(志戸桶)、瀬玉泊(したまどぅまい)(早町)です。湾泊とその反対側にある瀬玉泊に敵の船が泊まっています。まずは鉄炮で敵の船を沈めたらよろしいかと思います」
「いや」と湧川大主は首を振った。
「沈めるのは勿体ない。奪い取った方がいい」
 湧川大主は前与論按司が作った絵地図を眺めながら、どこから攻めるか考えた。鬼界島はわりと平坦な島で、高い山はなかった。西側は崖がずっと続いているので、御所殿の屋敷に近い東側の湾泊から攻めるのが無難だろう。
「御所殿の屋敷は小高い丘の上にあって、特に高い石垣に囲まれているわけではないと聞いているが、本当なのか」と湧川大主は偵察してきた者たちに聞いた。
「民家にある石垣と大して変わりません。攻め取るのは簡単です」
 湧川大主はうなづいて、前与論按司の攻撃を思い出していた。
 前与論按司は最初に湾泊を攻めた。船の上から弓矢を放ちながら敵の反応を見て、小舟(さぶに)で上陸を試みたが、敵の反撃に遭って上陸する事はできず、十人の戦死者を出している。一旦、戸口に引き上げ、負傷者の手当てをして、二度目は小野津を攻めている。
 湾泊で懲りたので、充分に注意を払いながら上陸して、敵兵を何人か倒している。小高い丘の上に陣地を築いて、翌日の総攻撃に備えたが、その夜、敵の夜襲を受け、五十人近くが戦死した。三度目は沖名泊から上陸して、小野津と同じように陣地を築くが、夜は船に撤収した。翌日の早朝、御所殿の屋敷を目掛けて総攻撃を掛ける。距離にして二里(約八キロ)余りなのに、あちこちに罠(わな)が仕掛けてあって、その罠にはまって五十人余りも戦死した。若按司が戦死したのも、進貢船が丸太を積んだ敵の船に体当たりされたのも、その時だった。若按司と半数以上の兵を失った前与論按司は戦意を失い、壊れた進貢船を何とか戸口まで運び、修理をして、冬に帰って来たのだった。
 奄美按司の話によると敵の兵力は百人くらいで、今の時期はヤマトゥに行っている者もいるので、奴らが帰ってくれば、百五十人になるだろうという。
 湧川大主はマジニと相談して、吉日を選んで鬼界島を攻めた。
 天気がよく、波も穏やかな七月二十六日の早朝、鬼界島攻めが、鉄炮の爆音の響きで始まった。初めて聞く、雷のような轟音と次々に落ちて来る鉄の玉に、敵兵は腰を抜かすほどに驚き、戦意を失って逃げ散って行った。湾泊を守っていた敵兵が逃げると、湧川大主は御所殿の屋敷を鉄炮で狙わせた。郡島(くーいじま)(屋我地島)で稽古を積んだお陰で、命中率も確実に上がっていた。小高い丘の上にある御所殿の屋敷の周りには家々が密集していて、鉄炮の玉はそれらの家の上に落ちていた。驚いて逃げ惑う人たちの姿が小さく見えた。竈(かまど)の上に玉が落ちたのか、煙を上げている家もあった。
 百二十発の玉を撃ったあと、湧川大主は上陸を命じた。兵たちか小舟に乗って上陸した。敵の反撃はなかった。途中、敵の罠に気をつけながら御所殿の屋敷を目指した。いくつかの落とし穴があったが回避して、隠れている伏兵(ふくへい)も倒した。屋敷の近くで激戦となったが、諸喜田大主(しくーじゃうふぬし)が率いる今帰仁の兵たちは、鉄炮にひるんだ敵兵を次々に倒して行った。
 湧川大主がマジニと一緒に御所殿の屋敷に着いた時には、すでに味方の兵によって占領されていた。
「残念ながら、御所殿の姿は見当たりません。逃げられたようです」と諸喜田大主が報告した。
「赤鬼と青鬼は倒したのか」
「大男が一人いたのは確かです。かなりの使い手で、何人もの兵が奴にやられています。大男のわりには素早い奴で、逃がしてしまいました」
「もう一人の大男はヤマトゥに行っているようだな。御所殿とそいつは必ず探し出して殺せ。できれば生け捕りにしたいが、無理はしなくてもいい」と湧川大主は命じた。
 諸喜田大主はうなづいて、兵を率いて出て行った。
 屋敷の中に入るとヤマトゥの刀や明国の壺や水墨画などが飾ってあり、贅沢な暮らし振りが窺われた。
「凄い」とマジニは思わず言った。
 こんな田舎の小さな島の領主が持っている物とはとても思えなかった。
「源氏の末裔(まつえい)らしいからな、気高いのだろう」
 御所殿の屋敷を按司の屋敷と決めて、新たに任命された鬼界按司(ききゃあじ)を入れた。新たな鬼界按司は国頭按司(くんじゃんあじ)の弟の一名代大主(てぃんなすうふぬし)だった。一名代大主は先代の山北王(珉)からのサムレー大将で、口数が少なく、命令には忠実な男だった。今の山北王にとっては不気味な存在で、鬼界按司に昇進させて、今帰仁から遠ざけたのだった。
 御所殿の屋敷の隣りに、小さいが立派な屋敷があった。文机のそばに難しい書物が積んであって、調度類も立派だった。もしかしたら、隠居した先代の御所殿の屋敷かもしれなかった。湧川大主はマジニと一緒にその屋敷で暮らす事に決めた。
 小さな島なのに、御所殿も大男の武将も見つからなかった。島の者たちの噂では、船に乗って逃げて行ったという。倒した敵の数は五十人に上るので、逃げて行った者は五十人足らずの兵と家族たちだろう。ヤマトゥに行っている兵と合わせれば百人近くの兵が生き残っているという事になる。ヤマトゥに行った船が帰って来るのと合流して、この島を取り戻すつもりなのかもしれなかった。ヤマトゥの船と合流するとなれば、奄美大島の笠利崎の辺りに隠れているのかもしれない。トカラの島々まで逃げて行ったとすれば、探すのは不可能だった。あんな所まで行ったら冬になるまで帰って来られなくなる。奄美按司に命じて、笠利崎周辺を探させた。
 湧川大主は今帰仁の事も運天泊の事もすっかり忘れて、マジニと一緒に暮らしていた。誰にも邪魔されずに、二人だけの楽しい日々を満喫していた。
 ある日、湧川大主とマジニが仲よく馬に乗って島内を散策していた時、島のヌルと出会った。丁度、マジニと同じくらいの年頃のヌルで、出会った時、マジニは何かを感じた。
「古いウタキがあるのならお祈りさせてください」とマジニは島のヌルにお願いした。
 島のヌルはうなづいて、マジニを連れて山の中に入って行った。ウタキに男は入れない。湧川大主は近くの集落に行って待っている事にした。花良治(ひらじ)という集落で、ギン爺と呼ばれる年寄りの家で待っていてくれと島のヌルは言った。大きなガジュマルの木があるので、すぐにわかるという。ギン爺の家はすぐにわかった。湧川大主はギン爺にわけを話して休ませてもらった。
 ギン爺は体格のいい、腰の曲がった年寄りだった。ギン爺に出会った時、湧川大主は殺気を感じた。落ち武者が隠れているのかと辺りを見回したが人の気配はなかった。殺気も消えて、気のせいだったかと湧川大主は思い、ギン爺が出してくれたお茶を飲んだ。驚いた事に、明国のお茶だった。
「どうして、こんなお茶を持っているんだ?」と湧川大主は不思議に思って聞いた。
「わしは代々、ヌル様にお仕えしております。御所殿はヌル様をとても信頼なさっております。ヌル様が御所殿からいただいたお茶でございます」
「ほう、そなたはヌル様に仕えておったのか。あのヌル様は偉いヌルなのか」
「偉いかどうかは存じませんが、ヌルとしては凄いお人だと思っております」
「ほう。山の中にウタキがあるそうだが古いウタキなのか」
「この島の守り神、『キキャ姫』様を祀っております」
「キキャ姫様?」
「遙か昔、南の方からやって来て、この島に住み着いた御先祖様でございます」
「成程。あのヌル様はキキャ姫様の子孫というわけじゃな」
「さようでございます」
「南の方からやって来たと言ったが、琉球から来たのか」
与論島(ゆんぬじま)のようでございます」
「なに、与論島から来たのか」
 そう言えば、この島と与論島は似ているような気がした。どちらも高い山はなかった。与論島に住んでいた者たちが、似ているこの島を選んで住み始めたのかもしれなかった。
「ところで、御所殿だが、どこに逃げたと思う? 今の時期、与論島までは逃げられまい」
「御所殿の御先祖様はヤマトゥンチュ(日本人)です。与論島には行きません。薩摩まで逃げたのかもしれません」
 確かにそれもありえた。薩摩まで行って、仲間と合流して攻めて来るのかもしれない。もしかしたら、薩摩に同族がいて、援軍を率いて来るかもしれなかった。そうなると今いる二百の兵で守るのは難しくなる。今のうちに、守りを固めて、あちこちに罠を仕掛けておいた方がいいかもしれなかった。
 湧川大主が待ちくたびれた日暮れ近くになって、島のヌルが一人で帰って来て、マジニはウタキに籠もっていると言った。
「お籠もりは明日に終わるか、さらに続くかわかりません、すべて、神様のお導きです。山を下りて参りましたら、お送りいたします」
 湧川大主はマジニを心配したが、ウタキの中に行くわけにも行かず、あとの事を島のヌルに頼んで、屋敷に引き上げた。
 マジニが帰って来たのは三日後だった。無事の姿を見て、湧川大主はほっとした。マジニは疲れ切った顔をしていたが、目がキラキラと輝いていて、何かを見つけたような感じがした。
「わたし、生まれ変わったみたい」とマジニは嬉しそうな顔をして言った。
「ようやく一人前のヌルになったような気がするわ。古いウタキで、ずっと神様のお話を聞いていたの。まるで、夢でも見ているような心境だったわ。わたし、この島に来て本当によかった」
「神様というのはキキャ姫様の事か」と湧川大主は聞いた。
「そうなの。この島の御先祖様で、わたしの御先祖様でもあるみたい」
「何だって! 浦添で生まれたお前の御先祖様が、どうしてこの島にいるんだ?」
「それを延々と聞いていたの。遙か昔にキキャ姫様がこの島に来てから、島の人たちがどんな暮らしをして、今に至ったのかを聞いていたの。簡単に言うと、神様の世界では父親よりも母親の方が重要で、わたしのお母さんの先祖をたどって行くと、この島の女子(いなぐ)につながるみたい。ヤコウガイの交易が終わって、この島から琉球に移って行ったウミンチュの家族がいるの。その家族の娘が琉球の男と結ばれて娘が生まれ、その娘の何代かあとの娘が前田大親(めーだうふや)と一緒になって、わたしのお母さんが生まれたみたい。そして、お母さんが先代の中山王の側室になって、わたしが生まれたの」
「ほう。御先祖様の故郷に、お前は知らないうちに来ていたという事だな」
「きっと、神様に呼ばれたんだわ。わたし、生まれ変わったつもりで、奄美大島で自分を見つめてみるわ。たった一人で知らない土地で暮らすのは寂しかったけど、もう大丈夫よ。わたしには神様が付いているわ」
 湧川大主はマジニにうなづいて、マジニを送ってくれた島のヌルにお礼を言った。
 島のヌルは頭を下げると帰って行った。
「ミキさん、ありがとう」とマジニが島のヌルに言って手を振った。
 島のヌルも手を振り返した。ミキと呼ばれたヌルを見送りながら、湧川大主は妻を思い出していた。妻の名前もミキだった。妻は今帰仁で暮らしているが体が弱く、今回、旅立つ時も具合が悪そうだった。マジニの笑顔を見ながら、湧川大主は妻に対して後ろめたさを感じていた。

 

 

 

 

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2-119.桜井宮(改訂決定稿)

 手登根(てぃりくん)グスクのお祭り(うまちー)で、佐敷ヌルの新作のお芝居『小松の中将様(くまちぬちゅうじょうさま)』が上演された。
 手登根の女子(いなぐ)サムレーも旅芸人も『小松の中将様』を上演したが、台本が違っていた。
 最初に演じられた女子サムレーのお芝居は、なるべく歴史を忠実に再現した物語で、小松の中将(平維盛(たいらのこれもり))の家来の与三兵衛(よそうひょうえ)が語り手となって、お芝居が進行して行った。
 後白河法皇(ごしらかわほうおう)の五十歳を祝う宴(うたげ)で、小松の中将が華麗な舞を披露して、みんなから喝采を浴びる場面から始まった。小松の中将の衣装を始めとして、法皇の妃(きさき)や官女(かんじょ)たちの衣装が豪華絢爛(ごうかけんらん)で、平家の全盛期はこんなにも華やかだったのかと観客たちはうっとりしながら眺めていた。その後、小松の中将の父親の病死があって、安徳天皇の即位の式典が行なわれるが、喪(も)に服している小松の中将は呼ばれず、平家の中心は叔父の内府(だいふ)(平宗盛)に移ってしまう。やがて、源氏が蜂起して、小松の中将は源氏討伐(とうばつ)の総大将に任命される。
 戦勝祈願のために訪れた厳島(いつくしま)神社で、小松の中将は内侍(ないし)(巫女)のアキシノと出会う。小松の中将は関東と北陸に出陣したが、関東の出陣は省略されて、北陸の倶利伽羅(くりから)峠で木曽次郎(きすぬじるー)(源義仲)と戦う。小松の中将と木曽次郎の一騎打ちもあって観客を喜ばせた。一騎打ちは引き分けに終わるが、木曽次郎の夜襲に遭って平家軍は敗れてしまう。
 負け戦の大将になってしまった小松の中将は、厳島神社に行ってアキシノに慰められる。平家は京都を追われて、船に乗ってあちこちさまよい、讃岐(さぬき)の屋島に落ち着く。叔父や従兄弟(いとこ)たちが戦の仕度をしている中、小松の中将はアキシノを連れて、屋島を離れて熊野に向かう。熊野別当湛増(たんぞう)の助けで、小松の中将は琉球に渡って今帰仁按司(なきじんあじ)となり、めでたしめでたしで終わった。色々な出来事を説明する会話の場面が多くて、ちょっと難しいお芝居だった。
 一方、旅芸人たちのお芝居は難しい場面は省いて、子供たちにもわかるようになっていた。
 最初の場面は女子サムレーのお芝居と同じ、祝宴で華麗に舞う小松の中将で、次の場面では、早くも厳島神社での小松の中将とアキシノの出会いが描かれた。二人は会った途端にお互いに惹かれ合って、再会を約束して別れる。その後、アキシノが語り手となって話が進んで行った。
 小松の中将が総大将になって出陣して、木曽次郎と戦う場面は同じだが、アキシノも一緒に出陣していて、木曽次郎の側室の巴御前(とぅむいぬうめー)と一騎打ちをして、観客を喜ばせた。
 敵の夜襲に遭って平家軍は敗れ、小松の中将とアキシノはお互いに助け合って京都に逃げる。その後、都を落ちた平家は屋島に落ち着くが、平家の時代はもう終わったので、新天地を求めて、アキシノと一緒に琉球に行くという話になっていた。
 アキシノが勇ましい女子サムレーのように描かれていて、アキシノが観たら驚くだろうが、旅芸人のお芝居の方が今帰仁の人たちに喜ばれるような気がした。どちらのお芝居も小松の中将が安須森(あしむい)を滅ぼした事は語られていなかった。
 小松の中将を演じたのは女子サムレーがヌジュミ、旅芸人がフクだった。ヌジュミは手登根の娘で、手登根大親の妻、ウミトゥクに鍛えられて女子サムレーになった。さらにウミトゥクの期待に応えて、主役の座を勝ち取っていた。どちらの小松の中将も美男子で、平家の御曹司(おんぞうし)という役を見事に演じていた。アキシノを演じたのは女子サムレーがアキ、旅芸人がカリーだった。アキシノは旅芸人のお芝居の方が出番も多くて重要な役どころだった。カリーは可愛くて芯の強いアキシノをうまく演じていた。
 観客の反応を見ていた佐敷ヌルは、お祭りのあと、二つの台本を手直ししてから、二つの台本の写しを旅芸人の座頭(ざがしら)に渡した。旅芸人たちは五日間、稽古を積んだあと、今帰仁へと旅立って行った。
 手登根グスクのお祭りから十日後の七月四日、ヌルたちによる『安須森参詣』が行なわれた。浮島(那覇)の『那覇館(なーふぁかん)』に集まったヌルたちは、ヒューガ(日向大親)の船に乗って安須森を目指した。
 馬天(ぱてぃん)ヌルの呼び掛けで、各地のヌルたちが集まって来た。集まったヌルたちを見ようと見物人も大勢、押し掛けて来て、浮島はお祭りのような賑やかさだった。
 安須森ヌルを継ぐ佐敷ヌルも当然、娘のマユを連れて参加した。マユは十二歳になって、ヌルになるための修行を始めていた。島添大里(しましいうふざとぅ)ヌルのサスカサ、運玉森(うんたまむい)ヌル(先代サスカサ)、麦屋(いんじゃ)ヌル(先代与論ヌル)とカミー、佐敷の若ヌルのマチ、平田のフカマヌルと若ヌルのサチ、久高島のフカマヌルとヌルの修行を始めた娘のウニチルが参加した。中部からは中グスクヌル、仲順(ちゅんじゅん)ヌル、喜舎場(きさば)ヌル、越来(ぐいく)ヌル、勝連(かちりん)ヌル、北谷(ちゃたん)ヌルが参加した。久場(くば)ヌル(先代中グスクヌル)も行きたいようだったが、赤ん坊がいるので、次の機会に行くと言って諦めた。
 東方(あがりかた)からは大(うふ)グスクヌル、玉グスクヌル、知念(ちにん)ヌル、垣花(かきぬはな)ヌル、糸数(いちかじ)ヌル、志喜屋(しちゃ)ヌル、久手堅(くでぃきん)ヌルと佐宇次(さうす)の若ヌル、八重瀬(えーじ)ヌル、米須(くみし)ヌル、玻名(はな)グスクヌル、具志頭(ぐしちゃん)ヌルが参加して、山南王の領内からは豊見(とぅゆみ)グスクヌル、島尻大里(しまじりうふざとぅ)ヌル、大村渠(うふんだかり)ヌル、小禄(うるく)ヌル、李仲(りーぢょん)ヌル、座波(ざーわ)ヌル、照屋(てぃら)ヌル、糸満(いちまん)ヌル、真壁(まかび)ヌル、伊敷(いしき)ヌル、真栄平(めーでーら)ヌル、新垣(あらかき)ヌル、与座(ゆざ)ヌル、慶留(ぎる)ヌルが参加した。これだけのヌルたちが一堂に会するのは初めての事で、『那覇館』は不思議な霊気に包まれていた。
 ヌルたちの護衛役としてヂャンサンフォン(張三豊)、飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)、二階堂右馬助(にかいどううまのすけ)が付いて行った。修理亮はカナから一緒にヤマトゥ(日本)に行こうと誘われたが断って、ヂャンサンフォンのもとで改めて修行を積んでいた。右馬助は相変わらず修行三昧(ざんまい)で、また大きな壁にぶつかっていた。気分転換じゃとヂャンサンフォンに言われて、ぼさぼさの髪の毛も伸び放題の髭も切って、やって来たのだった。
 浮島を出帆したヒューガの船は長浜に寄って東松田(あがりまちだ)ヌルと若ヌル、瀬名波(しなふぁ)ヌルを乗せて、仲泊(なかどぅまい)に寄って山田ヌル、伊波(いーふぁ)ヌル、安慶名(あぎなー)ヌルを乗せて、恩納(うんな)で恩納ヌル、名護(なぐ)で名護ヌルと屋部(やぶ)ヌルを乗せて、名護の『御崎の御宮(うさきぬうみや)』でお祈りをして、昼食を取った。本部(むとぅぶ)に寄って本部ヌルを乗せて、親泊(うやどぅまい)に寄って志慶真(しじま)ヌルを乗せた。騒ぎが起きそうなので、今帰仁にいる今帰仁ヌルと先代の浦添(うらしい)ヌルには声を掛けていなかった。運天泊(うんてぃんどぅまい)で勢理客(じっちゃく)ヌルを乗せて、仲尾泊(なこーどぅまい)で羽地(はにじ)ヌルを乗せて、屋嘉比(やはび)に寄って国頭(くんじゃん)ヌルと屋嘉比ヌル、屋嘉比のお婆も乗せて、奥間(うくま)に寄って奥間ヌルと娘のミワを乗せた。ミワはまだ十歳で、ヌルの修行を始めていないが、佐敷ヌルに言われて連れて来た。ミワはカミー、マユ、ウニチルとすぐに仲よくなった。
 宜名真(ぎなま)に着いたのは日が暮れる一時(いっとき)(二時間)ほど前だった。宜名真のウミンチュ(漁師)たちは大きな船が来たので何事だと驚き、小舟(さぶに)に乗ってヌルたちを迎えに行った。
 安須森の麓(ふもと)の辺戸(ふぃる)の村(しま)に着くと、辺戸ヌルが驚いた顔をして一行を迎えた。
「ヌルたちがこんなにも大勢、やって来るなんて、まるで、夢のようです」と辺戸ヌルは涙を流しながら喜んだ。


 その頃、ヤマトゥ(日本)に行ったササたちは京都に着いていた。京都では梅雨になっても雨が降らず、日照りが続いていて、あちこちの寺院で雨乞いの祈祷(きとう)が行なわれていた。
 ササたちはいつものように高橋殿の屋敷に入ったが、高橋殿は留守だった。五月九日に高橋殿の父親、道阿弥(どうあみ)が亡くなって、法要のために近江(おうみ)(滋賀県)に行っていた。使者たちが京都に着いて、ササたちも行列に加わり、その後、将軍様の御所に移ったが、御台所様(みだいどころさま)(将軍義持の妻、日野栄子)のお腹が大きかった。
「ごめんなさいね。今年はどこにも行けそうもないわ」と御台所様は残念そうな顔をしてササに言った。
「何を言っているのですか。おめでたい事じゃないですか。立派なお子さんを産んでください」とササはお祝いを言った。
 船岡山に挨拶に行ったら、スサノオの神様もいなかった。何だか、今年はついていないようだとササは思った。
 それでも、京都に着く前に、児島(こじま)の新熊野三山(いまくまのさんざん)に寄って、英祖(えいそ)様のお父様、グルーの事はちゃんと調べていた。カナ(浦添ヌル)がついていて、グルーのお墓を見つける事ができ、カナは神様から詳しい事情を聞いていた。
 五月の末に坊津(ぼうのつ)に着いて、珍しく雨が降っていなかったので、梅雨はもう明けたのかと喜んでいたら、今年の梅雨は雨が降らないと皆が困っていた。坊津で『一文字屋』の船に乗り換えて、交易船と一緒に博多に向かった。
 博多で豊玉姫(とよたまひめ)のお墓参りをしたが、残念ながら玉依姫(たまよりひめ)の神様はいなかった。一緒に来たユンヌ姫は探しに行ってくると言って、どこかに行った。
 交易船より先に博多を発って、上関(かみのせき)で村上水軍のあやと再会して、児島に向かった。児島に着いたのは六月の二十日で、福寿坊(ふくじゅぼう)の案内で、熊野権現(くまのごんげん)に向かった。熊野の本宮(ほんぐう)とそっくりな新熊野(いまくまの)本宮があって、その周りには大きな寺院や宿坊(しゅくぼう)が建ち並んでいて、多くの山伏たちがいた。
 福寿坊が所属している中之坊(なかのぼう)に行って、その宿坊にお世話になった。その日は今熊野本宮に参拝して、その近くにある桜井宮(さくらいのみや)のお墓にお祈りを捧げた。桜井宮のお墓は大きな池の中にある島にあって、その島には立派な橋が架かっていた。
 桜井宮覚仁法親王(かくにんほうしんのう)は後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の皇子で、後鳥羽天皇安徳天皇の弟だった。後鳥羽天皇安徳天皇が平家と一緒に都落ちしたあと、祖父の後白河法皇(ごしらかわほうおう)によって三歳で天皇になった。十九歳の時に、三歳の息子(土御門(つちみかど)天皇)に天皇の座を譲って上皇となった。その年に、桜井宮は生まれている。
 後鳥羽上皇は祖父を真似して、上皇になるとすぐに熊野御幸(ごこう)を行なって、建春門院(けんしゅんもんいん)の孫の後鳥羽上皇鳥居禅尼(とりいぜんに)に歓迎された。その後、後鳥羽上皇は毎年、熊野御幸を行なっている。
 桜井宮は幼い頃に出家して、十二歳になった時、父と一緒に熊野に行って熊野別当(くまのべっとう)に預けられた。当時の別当湛増(たんぞう)の弟の湛政(たんせい)で、湛政は鳥居禅尼と相談して、先々代の別当を務めた行快(ぎょうかい)の息子の尋快(じんかい)を桜井宮の師匠に選んだ。尋快は鳥居禅尼の孫で、弓矢の名人だった父親に劣らず武芸に秀でていて、山伏としても厳しい修行を積んだ先達(せんだつ)山伏だった。
 尋快を師匠として、熊野の山々で厳しい修行を積んで先達山伏になった桜井宮は、二十歳になった年に師匠と一緒に京都に帰った。翌年の春、親王宣下(しんのうせんげ)によって法親王になり、師匠と共に東国へ旅に出た。鎌倉幕府の様子を探るためだった。
 鎌倉に滞在していた翌年の正月、将軍様が殺されるという大事件が起こった。三代目の将軍、実朝(さねとも)には跡継ぎがいなかった。幕府は後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしたが、後鳥羽上皇は断った。将軍のいない今こそ、幕府を倒そうと後鳥羽上皇は考えていた。
 幕府の混乱状態を見た桜井宮は師匠と共に京都に帰って、後鳥羽上皇と倒幕の計画を練った。師匠の尋快は熊野の山伏や水軍を味方に付けるために熊野に帰り、桜井宮は父親の倒幕に反対して備前(びぜん)の児島に下った。倒幕に反対したというのは偽装で、隠密裏に児島の山伏と水軍を味方に付けるためだった。
 承久三年(一二二一年)、後鳥羽上皇鎌倉幕府の執権(しっけん)、北条義時(ほうじょうよしとき)の追討の院宣(いんぜん)を発して、兵を挙げた(承久の乱)。各地の武士たちが上皇のために立ち上がるに違いないと思われたが、幕府の動きは素早く、一月後には京都は幕府の大軍に囲まれて、上皇は敗北した。熊野の山伏たちを率いて参戦した田辺の快実(かいじつ)(湛増の孫)は捕まって首を斬られ、師匠の尋快は行方不明になってしまった。桜井宮は水軍を率いて京都に向かったが、すでに間に合わず、途中から引き返した。
 戦のあと、父の後鳥羽上皇隠岐(おき)の島に流され、長兄の土御門上皇(つちみかどじょうこう)は土佐に流され、三兄の順徳上皇(じゅんとくじょうこう)は佐渡に流され、弟の六条宮雅成親王(ろくじょうのみやまさなりしんのう)は但馬(たじま)に流され、弟の冷泉宮頼仁親王(れいぜいのみやよりひとしんのう)は児島に流された。順徳上皇の子の仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は廃されて、叔父の行助入道親王(ぎょうじょにゅうどうしんのう)(後鳥羽上皇の兄)の息子が後堀河天皇(ごほりかわてんのう)として即位した。
 弟の冷泉宮が児島に流されて来たが、今まで、ろくに話をした事もなかった。桜井宮の母親は白拍子(しらびょうし)(遊女)だったため、幼い頃に出家して、山伏としての活躍が認められて、親王宣下を受けたのは二十一歳になってからだった。反面、冷泉宮の母親は内大臣の娘で、十歳の時に親王宣下を受けて、鎌倉の将軍になるという話も持ち上がっていた。三代将軍実朝が甥に殺されたあと、後鳥羽上皇の気が変わって、鎌倉からの要望を蹴ったのだった。
 冷泉宮は児島に兄がいた事に驚き、見知らぬ兄と一緒に児島で生きて行く事になる。
 承久の乱のあと、鎌倉幕府の勢力が拡大して、西国にも大勢の御家人(ごけにん)が入り込んで来た。新熊野三山の荘園も次々に幕府に奪われて、見る見るうちに寂れて行った。何とかしなければならないと桜井宮は弟の冷泉宮と一緒に考えた。
 その頃、幕府が公式に宋銭(そうせん)の使用を認めた。桜井宮は宋の国に行って、大量の宋銭を手に入れようと決めた。博多に行って、宋に行く船の事を色々と調べ、外洋にも耐えられるように児島の船を強化して、準備を進めた。熊野にも協力してもらうために、別当にも相談に行った。その時の別当は尋快の弟の琳快(りんかい)だった。桜井宮は琳快から、尋快が琉球にいる事を聞いて驚いた。戦死したと思っていた師匠の尋快が琉球で生きている事を知った桜井宮は、どうしても師匠に会いたいと思った。琉球からも宋の国に行けると知った桜井宮は、承久の乱から六年後の冬、琉球へと向かった。
 尋快は浦添(うらしい)の城下で暮らし、舜天(しゅんてぃん)(初代浦添按司)の孫たちに読み書きを教えていた。桜井宮は舜天に歓迎されて、浮島の波之上に熊野権現を創建した。グルーは尋快の弟子になっていて、尋快から武芸や読み書きを習っていた。桜井宮は尋快とグルーを連れて宋の国に渡り、宋銭を手に入れて無事に帰国した。
 大量の宋銭のお陰で、児島の新熊野三山は再建されて、以前のごとく、山伏たちも集まって来て栄えるようになった。桜井宮と冷泉宮の兄弟は、新熊野の中興の祖として、今でも大切に祀られていた。
 児島に着いた二日目、ササたちは福寿坊の案内で、新熊野の新宮(しんぐう)といわれる木見(きみ)の諸興寺(しょこうじ)に行って、冷泉宮のお墓でお祈りを捧げ、新熊野の那智といわれる瑜伽山(ゆがさん)にある瑜伽寺もお参りした。諸興寺も瑜伽寺も周辺にいくつも僧坊や宿坊があって、修行している山伏たちで賑わっていたが、グルーに関する事は何も見つからなかった。やはり、本宮の周辺に何かが残っているに違いないと次の日、探し回ってみたが、何も見つからなかった。
 桜井宮が琉球に行ったという伝説も残っていないし、本当にグルーはここに来たのだろうかと不安がよぎった。
 四日目の朝、今日はどこを探そうかと相談していた時、宿坊の縁側から外を眺めていたカナが、「あの山は何?」と福寿坊に聞いた。
「あれは福南山(ふくなんざん)という山だ。山頂に明現宮(みょうげんぐう)という神社があって、勿論、修験(しゅげん)の山だ。山伏たちが修行している。そう言えば、山頂近くに大先達(だいせんだつ)を祀る五輪の塔があったな」
「大先達?」
「詳しい事は知らんが、昔、活躍した山伏なんだろう」
「それだわ」とカナは手を打った。
「それに違いないわ」とカナは自信たっぷりの顔でササを見た。
 ササも山を見ながらうなづいた。カナが言う通り、何かがあるような気がした。
 福寿坊の案内で、ササたちは福南山に登った。山頂の明現宮から少し離れた見晴らしのいい所に古い五輪の塔が立っていて、その前で巫女(みこ)がお祈りをしていた。
 巫女に聞いたら、大先達の龍玉坊(りゅうぎょくぼう)様のお墓だと言った。
「龍玉坊様は紀州の熊野からいらして、桜井宮様を助けて、新熊野の中興に貢献なされた大先達です。龍玉坊様の奥方様は明現宮の巫女で、三人の娘さんも巫女として、明現宮を再興されました。このお墓は三人の娘さんたちが建てたものです」
「熊野の山伏なんですね」とササが聞くと、
「そう伝わっております」と巫女は言って、ササたちに頭を下げると明現宮の方に去って行った。
「違ったみたい」とササはカナに言った。
 カナもがっかりしたような顔でうなづいたが、ひざまづいてお祈りを捧げた。
 ササたちもカナと一緒にお祈りをした。
 神様の声は聞こえなかった。
 カナはふと、グルーが伊祖(いーじゅ)ヌルに残した西行法師(さいぎょうほうし)の歌を思い出した。
「うむかぎぬ わすらるまじき わかりかな なぐりをひとぅぬ つきにとぅどぅみてぃ」
 カナが歌を詠むと、同じ歌が聞こえてきた。
 カナとササとシンシン(杏杏)が、その歌を聴いていた。
「伊祖ヌル‥‥‥」と神様は言った。
「神様は琉球から来られた、グルー様ですね?」とカナが聞いた。
「グルー‥‥‥懐かしい響きじゃ。確かに、わしは琉球から来たが、そなたたちは伊祖ヌルを知っているのか」
「伊祖ヌル様に頼まれて、グルー様を探しに参りました。伊祖ヌル様はグルー様の息子さんをお産みになられて、その息子さんは浦添按司(うらしいあじ)になりました」
「なに、伊祖ヌルがわしの子を産んだのか。そして、その子が浦添按司に‥‥‥伊祖ヌルは浦添按司だった舜天殿の孫だが、その息子が浦添按司になったなんて信じられん」
「その子は英祖という名前で、舜天様の孫の義本(ぎふん)を滅ぼして、浦添按司になったのです」
「なに、義本を滅ぼした‥‥‥そうじゃったのか。わしが琉球を離れる時、舜天殿は隠居して、倅の舜馬(しゅんば)殿が浦添按司だった。わしの師匠のクマヌという山伏が、義本に読み書きや武芸を教えていたが、どうしようもない奴だった。甘やかされて育ってしまったのだろう。舜天殿もそれを心配して、クマヌ殿を付けたのだろうが、クマヌ殿も手を焼いていた。奴はわしより一つ年下なのに、すでに正妻の他に四人も側室を持っていた。あんな奴が按司になったら大変だと誰もが思っていたんだ。そうか。わしの倅が、奴を倒して、按司になったのか」
 神様は嬉しそうに笑ってから、「わしの倅の評判はどうなんじゃ?」と聞いた。
「英祖様は立派な按司だったようです。今でも尊敬されております」
「そうか。伊祖ヌルの息子がのう。よくやってくれた」
「グルー様。クマヌという山伏が、グルー様の師匠だったのですか」
「そうじゃよ。クマヌ殿はヤマトゥの戦に敗れて琉球に逃げて来られたんじゃ。桜井宮様の師匠でもあって、桜井宮様はクマヌ殿が琉球にいる事を知って、琉球に来られたんじゃよ」
「そうだったのですか。伊祖ヌル様はあなたがヤマトゥに行ってからどうなったのか、とても心配しております。伊祖ヌル様にお伝えしたいので、わたしたちにお話していただけないでしょうか」
「わしも伊祖ヌルの事は気になっていたんじゃ。しかし、琉球に帰る事はできなかった。わしがヤマトゥで何をしていたのか、伊祖ヌルに伝えてくれ」
 そう言って、グルーは話し始めた。
 琉球からヤマトゥに行くと思っていたのに、長い船旅の末に着いた所は宋(そう)の国の明州(めいしゅう)(寧波)だった。グルーにとって見る物すべてが驚きだった。ヤマトゥから持って来た大量の刀が大量の宋銭と交換されて船に積み込まれ、半年近く滞在した明州をあとにしてヤマトゥに向かった。ヤマトゥの国は思っていたよりもずっと広く、九州の浦々に寄って博多に着き、瀬戸内海に入って、いくつもの島々に寄って、ようやく着いた所が備前の児島だった。
 グルーは桜井宮に連れられて熊野に行き、桜井宮の弟子、五郎坊として熊野で山伏の修行に励んだ。七年間、厳しい修行を積んで先達山伏となったグルーは児島に帰った。
 桜井宮から『龍玉坊』という新しい名前をもらって、修行の旅に出た。全国を回って修験の山々に登り、厳しい修行を積んだ。三年間、旅を続けたグルーは児島に帰り、その後は桜井宮を助けて、児島の新熊野権現を発展させるために尽くして来たのだった。
「三人の娘さんが、ここの巫女になったのですか」とカナは聞いた。
「そうじゃ。わしのかみさんはここの巫女じゃった。その頃、ここのお宮も荒れ果てておった。三人の娘たちがここのお宮を再建したんじゃよ」
「息子さんはいるのですか」
「残念ながら、息子はできなかったんじゃ。だが、冷泉宮様の御子息、道乗(どうじょう)殿が息子みたいなものじゃな。わしの弟子として厳しい修行に耐えてくれた。今、新熊野三山を守っているのは道乗殿の子孫たちなんじゃよ」
「宋の国から銭をいっぱい持って来たのでしょう。その銭で、ここのお宮を再建すればよかったんじゃないですか」とササが聞いた。
「ここはそれほど重要なお宮ではないからのう。後回しにされて、結局、その銭も回って来なかったんじゃよ。それでも、銭の力というのは凄いものじゃった。主要な建物はあの時の銭によって建て替えられたんじゃ」
「あなたの師匠だったクマヌ殿という山伏は、桜井宮様の師匠でもあったという事は、熊野でも偉い山伏だったのですか」
「わしは知らなかったんじゃが、師匠は熊野別当という熊野で一番偉いお人の息子さんだったんじゃよ。ヤマトゥに帰って来て、しばらく児島に隠れていたんじゃが、もう大丈夫だろうと熊野に戻って、晩年には熊野別当を務めたんじゃ。わしもお祝いに駆け付けたが、その立派な姿を見て驚いたもんじゃよ」
「グルー様、あなたは志喜屋大主(しちゃうふぬし)の次男ですよね。どうして、伊祖ヌルに玉グスク生まれと言ったのです?」とカナが聞いた。
「驚いたのう。そんな事まで知っておるのか。確かにわしは志喜屋生まれじゃ。しかし、志喜屋と言ってもわからんじゃろうと思って、玉グスクと言ったんじゃよ。それに、わしは七歳の時に玉グスクに呼ばれて、若按司と一緒に読み書きやら武芸やらを習ったんじゃよ。若按司と同い年だったので、遊び相手に選ばれたんじゃ。わしは十七まで玉グスクにいた。志喜屋よりも玉グスクの方が生まれ故郷(うまりじま)のような気がするのも確かなんじゃ。十年間、玉グスクに縛られていた反動で、わしは旅に出たんじゃ。旅の途中で師匠のクマヌ殿と出会った。クマヌ殿から武芸を習って、ヤマトゥの話なども聞いた。わしもヤマトゥに行ってみたいと思ったもんじゃ。その後、師匠は浦添に落ち着いて、浦添按司の孫たちの師匠になった。そして、桜井宮様がやって来て、わしも一緒にヤマトゥに行ったんじゃよ」
「ヤマトゥに行く前に伊祖ヌル様と出会ったのですね?」
「そうじゃ。運命の出会いかと思った。一目、見た途端、わしはこの娘と結ばれると思ったよ。伊祖ヌルと別れるのは辛かった。しかし、ヤマトゥに行くという夢の方が勝ったんじゃよ。だがな、ヤマトゥに来てからも、伊祖ヌルの事は忘れた事はなかった。別れの時、伊祖ヌルからもらった手拭い(てぃーさーじ)は、ずっと大切に持っていたと伝えてくれ」
「お伝えいたします」とカナは言った。
「ちょっと待って」とササが言った。
「グルー様、グルー様は琉球に帰れるはずですよ」
「えっ!」とカナは言ってから、「そうだわ。生まれ故郷(うまりじま)には帰れるはずだわ」とササにうなづいた。
「わしはのう。伊祖ヌルに会うのが怖かったんじゃよ」と神様は言った。
「わしが言うのもなんじゃが、伊祖ヌルは美人(ちゅらー)じゃった。あのあと、誰かと結ばれて、幸せに暮らしていたかもしれんと思うと、会いに行けなかったんじゃ。そなたたちのお陰で、会いに行く勇気が出た。さっそく、会いに行って来る。ありがとう」
 神様は本当に琉球に帰って行ったようだった。
「あたしが案内するわ」とユンヌ姫の声がした。
「お願いよ。ありがとう」とササはユンヌ姫にお礼を言った。
「ユンヌ姫様もいいとこあるじゃない」とカナが笑った。

 

 

 

修験道と児島五流―その背景と研究   修験道史研究 (東洋文庫 211)

2-118.マグルーの恋(改訂決定稿)

 キラマ(慶良間)の島から帰って来たら梅雨に入ったようだった。
 サハチ(中山王世子、島添大里按司)はヤマトゥ(日本)に行く交易船と朝鮮(チョソン)に行く勝連船(かちりんぶに)の準備で忙しくなっていた。早いもので、今年で五度目だった。最初の年は朝鮮とは交易をしたが、ヤマトゥとはしていない。それでも、将軍様足利義持)と会う事ができて、交易をする事に決まった。将軍様との交易で、琉球に来る商人たちからは手に入らない高級品も手に入る事になって、それらを永楽帝(えいらくてい)に贈って喜ばれていた。朝鮮との交易で手に入る綿布(めんぷ)も、ヤマトゥの商人やメイユー(美玉)たちに喜ばれていた。
 将軍様は明国(みんこく)の使者を追い返して、明国との交易をやめてしまった。琉球を頼りにしている将軍様のためにも毎年、明国の商品と南蛮(なんばん)(東南アジア)の商品をヤマトゥに送らなければならなかった。
 帰る準備でシンゴ(早田新五郎)も忙しく、マツ(中島松太郎)とトラ(大石寅次郎)は毎日、海に潜ってカマンタ(エイ)捕りをしていた。旅芸人たちが早く帰って来ないかと首を長くして待ちながら、馬天浜(ばてぃんはま)でウミンチュ(漁師)たちを相手に酒盛りを楽しんでいるようだった。
 四月二十一日、雨降りの中、佐敷グスクのお祭りが行なわれた。毎年、雨に降られるので、舞台に屋根を付けたが、お客の集まりは悪かった。
 ササとシンシン(杏杏)とナナは頭を抱えて、鍋をたたきながら『ナンマイダー』と叫び、念仏踊りをしながら城下を巡った。何事だと城下の人たちは驚いて、子供たちが面白がって、真似して付いて来た。
 『ナンマイダー』の声が佐敷中に響き渡って、空も驚いたのか雨もやみ、大勢の人たちがササたちのあとに従って佐敷グスクに集まって来た。お祭りの準備をしていたユリ、ハル、シビーは大喜びをして、一緒に念仏踊りを踊って、佐敷グスクのお祭りは念仏踊りで始まった。
 お芝居は『酒呑童子(しゅてんどうじ)』だった。二年前に島添大里(しましいうふざとぅ)グスクで初演され、去年は平田グスクで演じられた。鬼退治の話で、佐敷ヌルはユリ、ハル、シビーの三人に任せて、『小松の中将(くまちぬちゅうじょう)様』の台本造りに専念していた。旅芸人たちが戻って来るに違いないとマツとトラは期待していたが、旅芸人たちは帰って来なかった。
 佐敷グスクのお祭りの七日後、去年の十月に行った進貢船(しんくんしん)と十一月に行った進貢船が一緒に帰って来た。浮島(那覇)はお祭り騒ぎで、二隻の進貢船を迎えて、首里(すい)の会同館(かいどうかん)で帰国祝いの宴(うたげ)が盛大に行なわれた。二隻の船が同時に帰って来ると会同館も賑やかだった。『宇久真(うくま)』の遊女(じゅり)だけでなく、『喜羅摩(きらま)』の遊女も呼んで、無事に帰国した者たちの相手をさせた。
 二人の正使、タブチ(八重瀬按司)とタキ(島尻大親)は応天府(おうてんふ)(南京)で出会ったという。先に行ったタキが役目を済ませて応天府を去ろうとした時、タブチたちが応天府の会同館に来た。タブチに誘われて富楽院(フーレユェン)の『桃香楼(タオシャンロウ)』に行って、一緒に飲んだらしい。
「驚きましたよ」とタキはタブチを見ながらサハチに言った。
「噂には聞いていましたが、その変わりようには本当に驚きました。今帰仁合戦(なきじんがっせん)の時の猛勇の面影はすっかり消えて、立派な使者になっていました。わたしも色々と勉強させていただきました」
 今帰仁合戦の時、タキは伯父の小禄按司(うるくあじ)に従って今帰仁まで行き、タブチの活躍を実際に見ていた。父の宇座按司(うーじゃあじ)が山南王(さんなんおう)の正使になって、タキも父と一緒に島尻大里(しまじりうふざとぅ)の城下に移った。先代の山南王(汪英紫)が亡くなった時、タブチは島尻大里グスクにやって来て、父親の跡を継ぐと言った。重臣たちも賛成して、タキもそれが当然だろうと思った。しかし、弟のシタルーが攻めて来て、結局、タブチはシタルーに負けて八重瀬(えーじ)に帰って行った。その後、タキはタブチと会ってはいない。
「八重瀬殿のお陰で、偉い役人も紹介してもらいました。本来なら、決して会う事もできない偉い役人と親しくしているので驚きました。山南王(シタルー)は若い頃、『国子監(こくしかん)』に留学していたのですが、知っていた役人は誰もいなくなってしまったと嘆いていました。海船(かいしん)を下賜(かし)してもらうのにも苦労しておりました。やはり、中山王(ちゅうざんおう)(思紹)の使者は違うと改めて思いました」
「これからも中山王の使者として、よろしくお願いします」とサハチはタキに言った。
「応天府では、永楽帝がヤマトゥを攻めるに違いないとの噂が流れていたぞ」とタブチがサハチに言った。
「えっ!」とサハチは驚いた。
「ヤマトゥが明国の使者を追い返したからですか」
「そのようじゃな」
「しかし、あれは一昨年(おととし)の事だろう。どうして、今頃になって、ヤマトゥを攻めるんだ?」
 タブチは首を傾げた。
永楽帝は二月の半ばに順天府(じゅんてんふ)(北京)に行ってしまったので、その後、ヤマトゥ攻めがどうなったのかはわからん。もし、ヤマトゥを攻める事に決まれば、百年余り前に蒙古(もうこ)が攻めた時(元寇)のような大戦(うふいくさ)になるだろうと噂されておった」
「朝鮮も加わるのか」
朝鮮軍は先鋒を務める事になろう」
「そんな大戦が起こったら、対馬(つしま)は全滅してしまう」
 シンゴたちに知らせなければならないとサハチは思った。
「今、鄭和(ジェンフォ)の船団は帰って来ている。その船団をそっくりヤマトゥ攻めに向けるという事も考えられる。鄭和は今年の冬にまた西の方に旅に出るとの噂もあるので、鄭和が西に行けば、ヤマトゥ攻めは中止されるかもしれない」
「是非、中止してほしいものだ」とサハチは本心からそう思った。
 次の日、馬天浜に行って、シンゴ、マツ、トラと会い、永楽帝のヤマトゥ攻めの噂を話した。
「冗談じゃないぜ」とトラが怒った顔をして言った。
「どうして、将軍様は明国の使者を追い返したんだ?」とマツが聞いた。
将軍様永楽帝から日本国王に任命されるわけにはいかないからだよ」とサハチは説明した。
「北山殿(きたやまどの)(足利義満)は隠居していて、出家までしていた。永楽帝から日本国王に任命されて、明国と交易をしていたけど、将軍様日本国王に任命されるのはうまくないらしい。ヤマトゥの国は神国(しんこく)で、明国の臣下になるわけにはいかないと言っていた」
「誰がそんな事を言ったんだ?」とトラが聞いた。
「もう亡くなってしまったけど、勘解由小路殿(かでのこうじどの)(斯波道将)という将軍様の側近のお方だよ」
「お前、そんなお方と会ったのか」
 シンゴが笑って、
「サハチは将軍様とも会っているんだよ」と言った。
「ええっ?」とマツとトラは驚いて、サハチを見た。
将軍様と会った?」
「正式に会ったんじゃない。お忍びの将軍様と会ったんだ」
「それだけじゃないぞ」とシンゴは言った。
「ササは将軍様の奥方様と仲良しで、毎年、将軍様の御所にお世話になって、一緒に伊勢参詣や熊野参詣に行っているんだよ」
「なに、あの若ヌルのササがか‥‥‥」
 マツとトラは口をポカンと開けたままサハチを見ていた。
「運がよかっただけだよ。そんな事より、対馬に帰ったら、永楽帝のヤマトゥ攻めをちゃんと調べた方がいいぞ。実際に攻めて来る事がわかったら、その前に琉球に逃げて来いよ。戦って勝てる相手じゃないぞ」
「わかった」とマツとトラは真面目な顔付きでうなづいた。
「イトたちを頼むぞ」とサハチはシンゴに言った。
「わかっている。女たちは真っ先に逃がすよ」
 五月九日に梅雨が明けた。翌日、マツとトラの送別の宴を遊女屋(じゅりぬやー)『宇久真』で行ない、その翌日、シンゴ、マグサ、マツとトラの三隻の船は馬天浜から伊平屋島(いひゃじま)に向かった。サハチの五男のマグルーとヤグルー(平田大親)の長男のサングルーがヤマトゥ旅に出た。二人とも十六歳で、誰か一緒に行く者がいないかと探した所、シビーの兄のクレーが行ってくれる事になった。クレーは佐敷のサムレーで、美里之子(んざとぅぬしぃ)の武術道場で師範代を務めていた。
 うまい具合に旅芸人たちが馬天浜に来て、ほんのつかの間、マツとトラは舞姫たちとの再会を喜び、別れを惜しんで小舟(さぶに)に乗り込んだ。
「また来るからな。待っていろよ」と二人は舞姫たちに言っていたが、今度会えるのは、いつになるのかわからなかった。
 同じ日、浮島からヤマトゥに行く交易船も船出した。今回の総責任者はクルー(手登根大親(てぃりくんうふや))で、サムレー大将は首里七番組の宜野湾親方(ぎぬわんうやかた)と島添大里一番組の小谷之子(うくくぬしぃ)だった。苗代大親(なーしるうふや)はさっそく、首里以外のサムレーたちを船に乗せていた。島添大里の一番組のサムレーの半数がヤマトゥ旅に出掛けて行った。小谷之子は島添大里一番組の副隊長だったが、隊長の苗代之子(なーしるぬしぃ)(マガーチ)が首里の十番組の隊長になったので、隊長に昇格していた。正使はジクー(慈空)禅師、副使はクルシ(黒瀬大親)、ヌルはいつもの顔ぶれに浦添(うらしい)ヌルのカナが加わって、女子(いなぐ)サムレーの隊長は島添大里のカナビーだった。
 その船は四月の末に明国から帰って来た船だったので、荷物の入れ替えと船の整備で大忙しだった。それに、初めてヤマトゥに行くので、クルシの活躍が必要だった。サハチは無事の帰国を祈って、交易船の船出を見送った。
 勝連からも朝鮮に行く交易船が旅立って行った。それらの船は伊平屋島で落ち合い、薩摩の坊津(ぼうのつ)を目指した。
 ヤマトゥから来ていた商人たちも交易船のあとを追うように、次々に帰って行き、浮島も静かになった。
 五月の半ばに『小松の中将様』の台本が完成して、佐敷ヌルはユリ、ハル、シビーを連れて手登根(てぃりくん)グスクに行った。六月二十四日に手登根グスクでお祭りを行なう事に決まって、そのお祭りで『小松の中将様』を演じようと皆が張り切っていた。旅芸人たちも一緒にお芝居の稽古に励むために手登根に行った。手登根グスクは主人のクルーがヤマトゥに行っていて留守だが、急に賑やかになっていた。
 クルーの妻のウミトゥクは佐敷グスクの東曲輪(あがりくるわ)に住んでいた時、ずっと剣術の修行を続けていて、クルーやササたちから武当拳(ウーダンけん)も習っていた。手登根グスクに移ったウミトゥクは、近隣の娘たちを集めて剣術を教え始めた。
 佐敷グスクの女子サムレーのイリと、剣術の修行を積んでいた佐敷の娘のアキとユンとハニの三人が手登根に来てくれて、ウミトゥクを手伝った。アキとユンとハニの三人は女子サムレーになりたくて修行を続けていたが、誰かが辞めない限り補充はないので、なかなか女子サムレーになれなかった。マチルギの許しがあって、手登根の女子サムレーになる事ができたのだった。ほかの者たちはキラマ(慶良間)の島から送るとマチルギは言ったが、ウミトゥクは断って、自分で育てると言った。
「キラマの島にも女子サムレーになりたくて待っている娘がいるのよ。四人を島から呼んで、あとの四人はあなたが育てなさい」とマチルギは言った。
 ウミトゥクはそれで納得して、うなづいた。
 ウミトゥクが娘たちを鍛え始めてから一年半近くが経ち、四人の娘が選ばれて女子サムレーになった。イリを隊長とした女子サムレー十二人がお芝居の稽古に励んでいた。
 サハチは子供たちを連れて、手登根グスクに行って、お芝居の稽古を見学した。クルーが造ったというセーファウタキ(斎場御嶽)へと向かう道も見て、感心した。人が歩けるだけの簡単な道だろうと思っていたのに、荷車も通れる立派な道だった。南部に新しい道は必要ないだろうと思っていたサハチは、もう一度よく確認して、必要な道は拡張した方がいいと思った。
 子供たちと一緒に歌を歌いながら島添大里グスクに帰ると、珍しく、ンマムイ(兼グスク按司)が来ていた。
 ナツと一緒にお茶を飲んでいたンマムイは、
「マグルーの事をナツさんから聞いていたんです」とサハチに言った。
「マグルー? マグルーはヤマトゥ旅に行ったぞ。マグルーに何か用なのか」とサハチは二人の間に座り込むと聞いた。
「マグルーのお嫁さんだけど、もう決めてあるのですか」とお茶の用意をしながらナツがサハチに聞いた。
「いや。まだ決めていないよ。誰かいい娘でもいるのか」
 ナツが笑って、ンマムイを見た。子供たちの所に行くと言ってナツは出て行った。
「師兄(シージォン)、マグルーが弓矢の稽古に夢中だったのを知っていますか」とンマムイは聞いた。
「イハチの嫁のチミーから弓矢を習っているというのは聞いていたが、夢中になっていたかどうかは知らんな。マグルーがどうかしたのか」
「うちのマウミとマグルーが、どうも恋仲になっているようなのです」
「えっ、何だって!」とサハチは驚いて、ンマムイを見た。
 ンマムイの長女、マウミは美人(ちゅらー)で有名だった。南部の按司たちが、マウミを嫁に迎えようと狙っているとも聞いていた。
「マグルーはマウミに会っていたのか」とサハチは聞いた。
 マウミは母親と一緒に、首里グスクや島添大里グスクのお祭りに来ているので、マグルーと会っていても不思議ではないが、二人が恋仲になっているなんて、サハチはまったく知らなかった。
「マグルーが初めて兼(かに)グスクに来たのは、兼グスクが完成して、しばらくしてからでした。グスクを見学したあと、マグルーはマウミと弓矢の試合をして負けたようです。その後、マグルーは弓矢の稽古に励んで、一年後にも試合をしますがマウミに負けます。そして、今年の四月、マグルーはマウミに勝ったようです。マウミは自分よりも強い男でないとお嫁には行かないと言っていました。そのマウミがマグルーに負けたのです。マグルーはヤマトゥ旅に出る前に、帰って来るまで待っていてくれとマウミに言ったようです。マウミはうなづいて、今は毎日、マグルーの無事の帰国を祈っています。俺も二人の事は知らなかったのです。マハニに言われて、マウミから話を聞きました」
「マグルーがマウミと試合をして勝ったのか‥‥‥」
 信じられないという顔でサハチは首を振った。
「二人を結ばせてやりたいのですが、師兄はどう思われますか」とンマムイは聞いた。
「お前の娘なら文句などあるわけがない。こっちから頼みたいくらいだ」とサハチは言った。
「師兄、ありがとうございます」
「マグルーがマウミを落としたか‥‥‥マグルーもいつの間にか、恋をする年頃になっていたんだな。それにしても、いい相手を選んでくれた。めでたいのう」
 マウミは十二歳の時に家族と一緒に母親の故郷の今帰仁に行った。その帰り道、マウミの人生を変える事件が起こった。刺客(しかく)の襲撃だった。恐ろしい経験だったが、マウミは逃げなかった。家族を守るために強くなろうと決心をして、武芸を習った。今帰仁には師と仰ぐ、従姉(いとこ)のマナビーがいた。マウミは今帰仁に滞在していた三か月余り、マナビーに師事して、馬術と弓矢の基本を徹底的に仕込まれた。
 今帰仁から阿波根(あーぐん)グスクに帰ったが、阿波根グスクでも刺客の襲撃を受け、新(あら)グスクに移った。新グスクに来たヂャンサンフォン(張三豊)のもとで一か月の修行も積んだ。その時、一緒に修行を積んだ仲間に、サスカサ(島添大里ヌル)とシビー、八重瀬の若ヌルとチヌムイがいた。
 父は大勢の武芸者を家臣にしていたので、マウミが師と仰ぐべき人は何人もいて、マウミは武芸の修行に熱中した。首里グスクのお祭りで、女子サムレーを見て憧れ、やがては女子サムレーを作って、自分が率いようと思った。
 新グスクにいた時、具志頭(ぐしちゃん)グスクの奥方様(うなじゃら)(ナカー)が弓矢の名人だと聞いて、具志頭まで通って指導をお願いした。マウミは兼グスクに移るまで、四か月間、ナカーの娘のチミーと一緒に稽古に励んだ。チミーはまだ十七歳なのに、神業とも思える凄い腕を持っていた。
 南風原(ふぇーばる)に兼グスクが完成して、新グスクから移って、馬場で馬術の稽古をしていた時、マグルーがやって来た。マグルーとは首里グスクのお祭りや島添大里グスクのお祭りで何度か会って、話をした事があるが、マウミは別に興味もなかった。
 お嫁に行くなんて考えた事もなく、ひたすら武芸の稽古に励んでいた。それでも、持って生まれた美貌に惹かれて、縁談話はいくつもあった。マウミは自分よりも弱い男にはお嫁に行かないと宣言して、言い寄って来る男たちと弓矢の試合をして、打ち負かして来た。
 マウミはマグルーも簡単に打ち負かし、マグルーはうなだれて帰って行った。その後、マウミはマグルーの事は忘れた。去年の二月、従姉のマナビーが今帰仁から島添大里に嫁いで来て、ミーグスクに入った。マウミはマナビーとの再会を喜んだ。
 五月にマグルーが兼グスクにやって来て、試合を申し込んだ。マウミはマグルーと試合をした。マウミは勝ったが、マグルーの上達振りに驚いた。いつかはマグルーに負けてしまうかもしれないとマウミは焦り、久し振りに本気になって修行に励んだ。
 ある時、マウミがマナビーに会いにミーグスクに行ったら、マグルーがミーグスクの的場で弓矢の稽古をしていた。
「マナビー姉さんが、マグルーさんに教えていたの?」とマウミが聞いたら、
「あたしが教えたのは馬術よ。弓矢はチミー姉さんが教えているのよ」とマナビーは言った。
 チミーが島添大里に嫁いだのは、兼グスクが完成する半月ほど前の事だった。マウミが師と仰いでいるマナビーとチミーの二人が島添大里に嫁いで行くなんて不思議な事だった。
「マグルーはあなたに勝つために必死だわ。寝ても覚めても、あなたの事しか考えていないわよ。本気であなたが好きなのよ。恋っていうものね。あたしには経験がないけど、人を好きになるって素晴らしい事だと思うわ。あなたはどう思っているの、マグルーの事を?」
 弓を構えているマグルーを見ながら、「何とも思っていないわ」とマウミは言ったが、胸の中に何か熱い物を感じていた。
「あたし、マグルーを応援しているのよ」とマナビーは言った。
「えっ?」とマウミは驚いてマナビーを見た。
「だって、マグルーとあなたが一緒になれば、あたしたち、姉妹になるのよ。あなたも島添大里に来て、一緒に暮らす事になるのよ。考えただけでも楽しいわ」
 今まで考えた事もなかったけど、マナビーの言う通りだった。島添大里にはマナビーとチミーだけでなく、佐敷ヌルもサスカサもいる。こんな凄い所にお嫁に来られたら素晴らしい事に違いなかった。
 マナビーに言われたからではないが、マウミは少しづつ、マグルーの事を意識し始めるようになっていった。マウミは馬に乗って、度々、ミーグスクを訪ねた。マグルーがいる時は一緒に稽古をしたり、稽古のあとに話をしたりして楽しい時を過ごした。マグルーがいない時は、マナビーが呼んでくれた。マグルーは汗びっしょりになって飛んできた。そんなマグルーを見ながら笑って、お互いの事を話し合うのが楽しかった。
 今年の四月、マウミはマグルーと弓矢の試合をして負けた。悔しかったが、自分よりも強い男がマグルーだったのは嬉しかった。マグルーは来月、ヤマトゥ旅に出るけど、帰って来るまで待っていてくれと言った。マウミは、待っていると答えた。会えなくなって、マウミはマグルーの面影を思い出しながら、マグルーを好きになっていた自分に気づいていた。
 ンマムイが帰ったあと、サハチは東曲輪(あがりくるわ)に行って、チミーと会った。
「マグルーが弓矢を教えてくれと行って来たのは、わたしがここに嫁いで来て、すぐの頃です。わたしには弟がいないので、姉さんと呼ばれて頼りにされると嬉しくなって教える事にしたのです。武術道場の的場は昼間はサムレーたちが使うので、早朝、そこでお稽古をして、あとは馬天浜の的場でお稽古させました」
「馬天浜の的場?」
「昔、按司様(あじぬめー)がお稽古していたと聞いています」
「あの的場がまだあったのか」
「サミガー大主(うふぬし)様(ウミンター)の息子さんが時々、お稽古をなさっているようです」
「そうか。シタルーだな」
 チミーは首を傾げて、話を続けた。
「小舟(さぶに)の上から的を狙わせたりもしました。マグルーは指を血だらけにしながらも頑張っていました。サムレー大将になるためだと言っていましたが、あとになって、好きな女子(いなぐ)に勝つためだとわかりました。その娘が兼グスク按司の娘のマウミだと知って驚きました。マウミはわたしの弟子のような娘なんです」
「なに、チミーはマウミを知っていたのか」
「マウミが新グスクにいた頃、マウミは具志頭グスクに通って、母とわたしの指導を受けていたのです」
「そうだったのか」
「マウミは美人ですからね。マグルーが必死になるのもよくわかりましたよ」
「それじゃあ。マウミもマグルーもお前の弟子という事になるな」
「ミーグスクのマナビーもマウミとマグルーの師匠です。マウミとマグルーはミーグスクでよく会っていました」
「二人がミーグスクで会っていたのか」
「マウミとマナビーは従姉妹(いとこ)同士ですからね。マウミは馬に乗ってよく遊びに来ていました。そして、マグルーはあそこの的場でお稽古をしていたのです」
「成程な。ミーグスクで会っていたとは知らなかった」
 サハチがミーグスクに行くと言ったら、チミーも付いて来た。ミーグスクにマウミが来ていて、的場の近くにある東屋(あずまや)でマナビーと話をしていた。サハチの顔を見ると二人は驚いて立ち上がって頭を下げた。
「お前の親父が、お前の事で話に来たぞ」とサハチはマウミに言った。
 マナビーが屋敷の方に案内しようとしたが、サハチは断って、東屋の縁台に腰を下ろした。
「父が何を言って来たのですか」とマウミは聞いた。
「大事な娘に虫が付いたようだとな。でも、娘もその虫が好きなようだから、何とかしてやりたいと言ってきたんだよ」
「そんな、虫だなんて‥‥‥」とマウミは言って俯いた。
「二人の話を聞いて、俺は昔の事を思い出したよ」とサハチは笑った。
「俺もマチルギに負けた時、悔しかった。一月後に試合をやる約束をしたんだが、急にヤマトゥ旅に出る事になってしまって、試合はできなかった。ヤマトゥに行く前、俺はマチルギに待っていてくれと頼んで旅に出たんだ」
「えっ、マグルーさんと同じです」とマウミが驚いた顔をして言った。
「俺もマチルギも、そんな昔の事を子供たちには話していない。偶然、同じ事が起こったのだろう」
「奥方様は待っていたのですね」とマナビーが聞いた。
 サハチはうなづいて、
「マチルギは佐敷に来ていて、娘たちに剣術を教えていたんだよ。本当に驚いた」と笑った。
 もっと詳しく聞かせてくださいと三人にせがまれて、サハチはマチルギとの出会いから話して聞かせた。
 首里に行ってマチルギに相談すると、マナビーとチミーからマグルーとマウミの仲は聞いていて、この先どうなるか、二人に任せてみようと見守っていたという。
「マグルーがうまくやったのね」とマチルギは驚いて、
「マグルーはあなたに一番似ているのかしら」とサハチを見ながら笑って、
「マウミは素晴らしい娘さんだわ。マグルーはいいお嫁さんを見つけてくれたわね」と大喜びをした。

 

 

 

新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)   弓具の雑学事典

2-117.スサノオ(改訂決定稿)

 佐敷ヌルたちがヤンバル(琉球北部)の旅から帰って来たのは、島添大里(しましいうふざとぅ)グスクのお祭り(うまちー)の四日前だった。
「いい旅だった。琉球は本当にいい所だ」とマツ(中島松太郎)は満足そうな顔をして言った。
「こんな所で暮らしているなんて、お前が羨ましいよ」とトラ(大石寅次郎)は言った。
「早いうちに倅に跡を継いでもらって、俺たちは隠居して琉球に住もうとマツと相談していたんだよ」
「お前たちが隠居したら、サイムンタルー(早田左衛門太郎)殿が困るだろう。対馬(つしま)を統一してから琉球に来ればいい」とサハチ(中山王世子、島添大里按司)は言った。
対馬を統一するのは難しい。あとの事は倅に任せるさ」
 マツとトラは顔を見合わせて笑っていた。
「お兄さん、安須森(あしむい)にスサノオの神様が現れたのよ」と佐敷ヌルが驚いた顔をしてサハチに言った。
豊玉姫(とよたまひめ)様と御一緒に現れて、お礼を言われたの。本当に驚いたわ。スサノオの神様は琉球に来た時、安須森には登れなかったので、こんないい所だったのかと喜んでおられたわ。それにね、今帰仁(なきじん)のクボーヌムイ(クボー御嶽)では、小松の中将(ちゅうじょう)様とアキシノ様とも再会したのよ」
「小松の中将様は今帰仁におられるのか」
「初代の今帰仁按司なんだから当然なんだけど、ヤマトゥ(日本)で出会わなければ、きっと会えなかったでしょう」
「そうかもしれんな」とサハチはうなづいた。
「奥間(うくま)ヌルも一緒に安須森に行ったんだけど、奥間ヌルのガーラダマ(勾玉)が、安須森ヌル様の妹さんの物だってわかったのよ。安須森ヌル様の妹さんは安須森が襲われた時に行方知れずになってしまったらしいの。安須森ヌル様は、妹さんは殺されてしまったものと思っていたんだけど、奥間に逃げて子孫を残したみたい。奥間ヌルもその妹さんの子孫らしいわ。そのガーラダマなんだけど、アマン姫様がスサノオの神様から贈られた物だったのよ」
「ほう。奥間ヌルのガーラダマもスサノオの神様の物だったのか。やはり、奥間とはつながりがあったんだな。ところで、旅の途中、危険な目には遭わなかったんだろうな」
「大丈夫よ。何も起こらなかったわ」
「そうか。よかった」
 サハチは無事の帰郷を祝って、一階の大広間に酒の用意をさせた。福寿坊(ふくじゅぼう)と辰阿弥(しんあみ)の二人は、首里(すい)で思紹(ししょう)(中山王)に挨拶をしたあと与那原(ゆなばる)に帰ったらしい。二人は行く先々で『念仏踊り』を披露して、人々に喜ばれたという。
「そのうち、あちこちのお祭りで念仏踊り(にんぶちうどぅい)が踊られるかもしれないわね」とササは面白そうに笑った。
「サタルーも安須森まで行ったのか」とサハチはササに聞いた。
「来なくもいいと言ったのに、結局、付いて来たのよ」
「余程、ナナに惚れたようだな」とサハチはナナを見た。
 ナナは浮かない顔をして、「奥間に行かなければよかった」と言った。
「サタルーの奥さんに会ってしまったのよ。子供たちにもね」とササが言った。
「前に奥間に行った時は会わなかったのか」
「会ったけど、あの時と今は違うもの」
「そうか‥‥‥」
 宴(うたげ)の準備が整ったので、サハチたちは一階に降りて、サグルー(島添大里若按司)夫婦、サスカサ(島添大里ヌル)、イハチの妻のチミー、チューマチ(ミーグスク大親)夫婦を呼びにやり、お祭りの準備をしているユリたちと女子(いなぐ)サムレーたちも呼んだ。
 うまそうに酒を飲みながら、「カナ(浦添ヌル)も一緒に行ったのよ」とササが言った。
「なに、カナも安須森まで行ったのか」
「お母さんから話を聞いて、行ってみたいと思っていたんですって。安須森とは関係ないんだけど、カナも神様からお願い事を頼まれたのよ。それで、来年、ヤマトゥに行くって言っているわ」
「その話はササのお母さんから聞いたよ。英祖(えいそ)様のお父さんの事だろう」
「そうなのよ。英祖様のお父さん、ヤマトゥに行ったきり帰って来ないんですって。それを探しに行くって言っていたわ。一緒に行った熊野の山伏を探すって言っていたけど、『サクライノミヤ』という名前しかわからないのよ。カナは絶対に探し出すって張り切っているけど、熊野は広いのよ。山伏だっていっぱいいるし。あたしは無理だと思ったわ。でもね、救いの神様が現れたのよ」
「救いの神様?」
「舜天(しゅんてぃん)様よ。舜天様は波之上(なみのえ)の熊野権現(くまぬごんげん)様を建てた『サクライノミヤ』という山伏を知っていたのよ。熊野の山伏だけど、備前(びぜん)の国の児島(こじま)という所から来た事を覚えていたの。児島と言えば福寿坊よ。福寿坊に聞いたら、桜井宮(さくらいのみや)様というのは法親王(ほうしんのう)様で、児島の熊野権現様を再興した偉い人だって言ったのよ」
「なに、ササが連れて来た福寿坊が、カナが探していた『サクライノミヤ』を知っていたのか」
「そうなのよ。あたしだって驚いたわ。まるで、カナのために連れて来たような気がしたわ」
「そうか‥‥‥スサノオの神様のお陰かもしれんな」とサハチは言った。
「そうね。きっと、そうに違いないわ」
「児島は博多から京都に向かう途中だ。福寿坊に案内してもらったら、英祖様の父親の事もわかるだろう。お前も一緒に行くのか」
「カナが行くのなら、行かないわけには行かないわ」
 サハチはうなづいて、「来年も頼むぞ」と言った。
 ササを見ながら、シンシン(杏杏)とナナが嬉しそうに笑った。
スサノオの神様はまだ琉球におられるのか」とサハチが聞くとササは首を傾げた。
「安須森で会ったあと、声は聞いていないわ」
スサノオというのは日本の神様じゃないのか。どうして、琉球にいるんだ?」とトラがサハチに聞いた。
スサノオ様を祀った神社が対馬にもあるだろう。スサノオ様は昔、対馬を拠点に琉球と交易をしていたんだよ。琉球タカラガイを元手に、朝鮮(チョソン)の鉄を手に入れていたんだ。その鉄で武器を作って、ヤマトゥの国を造ったんだよ。当時は朝鮮ではなくて、カヤの国といったらしい」
「なに、そんな昔から対馬琉球と朝鮮と交易していたのか」
「そうさ。その事を調べたのがササなんだ。対馬豊玉姫様を祀った神社があるだろう」
「仁位(にい)のワタツミ神社だろう」とマツが言った。
「そうだ。ササはワタツミ神社の豊玉姫様のお墓を見て、南の島から来た人に違いないと思ったんだ。それで、色々と調べて、豊玉姫様が琉球の人で、スサノオ様の奥さんになった人だと突き止めたんだよ」
「なに、豊玉姫琉球の人?」
「そうさ。俺たちの御先祖様はスサノオ様と豊玉姫様なんだよ。そして、スサノオ様と豊玉姫様の娘の玉依姫(たまよりひめ)様はヤマトゥの国の女王になった卑弥呼(ひみこ)で、のちに、アマテラスとして伊勢の神宮に祀られているんだよ」
「へえ、そうなのか。神様の事はあまりよく知らないんだ」とトラがマツの顔を見ながら言った。
 マツもわからんと言った顔で首を振って、
「船越にアマテル神社があるけど、あれはアマテラスを祀っているのか」と聞いた。
「アマテラスじゃなくて、父親のスサノオ様だよ。本当は太陽の神様はスサノオ様だったんだ。ある時、女の天皇が太陽の神様をスサノオ様の娘の玉依姫様に変えてしまったらしい。そして、伊勢に立派な神社を建てたようだ」
「へえ、琉球にいるお前の方が、日本の歴史に詳しいとは驚いた」
「ササのお陰さ。ササのお陰で、源氏や平家の歴史も詳しくなったんだぞ」とサハチは自慢気に言った。
対馬にも平家の伝説はあるぞ。平知盛(たいらのとももり)が安徳天皇を連れて対馬に逃げて来て、守護の宗氏は知盛の子孫だという」
 話を聞いていたササが、「平知盛安徳天皇を連れて対馬に逃げたの?」と聞いた。
「そういう伝説があるというだけで、真実なのかは誰も知らないよ」とマツが答えた。
安徳天皇の子孫はいないのですか」
「さあ、聞いた事ないな」とマツは言って、トラを見た。
「子孫はいないと思うよ」とトラは言った。
「きっと、若死にしたんじゃないのか」
 ササは、朝盛法師(とももりほうし)がヤマトゥに行って、安徳天皇の御陵(ごりょう)を封印した事をサハチに教えた。
「やり残した事というのは、本物の三種の神器(じんぎ)を隠す事だったのか」
「そうみたい。それが見つかったら大変な事になるらしいわ」
 佐敷ヌルはユリ、ハル、シビーとお祭りの事を話し合っていた。
「マシュー(佐敷ヌル)、小松の中将様のお芝居は書けそうか」とサハチは佐敷ヌルに聞いた。
 佐敷ヌルはサハチを見て笑うと、「うまく書けそうだわ」と言った。
「旅芸人に教えて、今帰仁で上演するのか」
「そのつもりよ」
「楽しみだな」とサハチは笑った。
 翌日から、佐敷ヌルはサスカサの屋敷に籠もって、『小松の中将様』の台本作りを再開した。
 二月二十八日、島添大里グスクのお祭りは小雨の降る中、行なわれた。それでも、正午(ひる)には雨もやんで、お芝居を観るために人々が集まって来た。
 お芝居は『瓜太郎(ういたるー)』だった。不思議な事に、島添大里で『瓜太郎』をやるのは初めてで、城下の人たちも楽しみにしているようだ。
 『瓜太郎』の初演は三年前の佐敷グスクのお祭りで、ササ、シンシン、ナナが素晴らしい演技を見せて好評だった。二度目は平田グスクのお祭りで、ササたちに負けるものかと平田の女子サムレーたちが頑張った。三度目は首里グスク、四度目は与那原グスクで、今回が五度目だった。旅芸人たちも馬天浜(ばてぃんはま)、浦添(うらしい)グスク、佐敷グスクで『瓜太郎』を演じていた。
 島添大里グスクのお祭りで『瓜太郎』をやる事は、佐敷ヌルがヤマトゥに旅立つ前から決まっていたので、女子サムレーたちも気合いを入れて稽古に励んでいた。主役の瓜太郎はアミーで、サシバはカルー、犬(いん)はシジマ。亀(かーみー)はユーナだったが、キラマ(慶良間)の島に行ったので、クトゥに代わる事になった。クトゥはユーナの分まで頑張ろうと張り切っていた。
 話の筋は変わらないが、台詞(せりふ)や演技は少しづつ変わっていった。子供たちにもわかるように難しい言葉はやめて、遠くで見ている観客にもわかるように身振り手振りが大きくなっていた。笑わせる場面も多くなって、観客は腹を抱えて笑っていた。格闘場面では、ササたちの演技をさらに拡張して、見応えのある場面となり、観客たちは固唾(かたず)を呑んで見守った。サハチもマツとトラと一緒に酒を飲みながら観ていたが、酒を飲む手が止まってしまうほど面白かった。
 旅芸人たちは『浦島之子(うらしまぬしぃ)』を演じた。『浦島之子』は佐敷ヌルが初めて作ったお芝居だった。四年前に平田グスクのお祭りで演じられてから、以後、女子サムレーたちは演じていない。旅芸人たちのお芝居になっていた。『舜天』と『瓜太郎』を演じるまで、旅芸人たちは『浦島之子』を何度も演じてきていた。文句なく、一流の芸になっていた。
 お芝居のあと、佐敷ヌルとササとユリが笛を吹いた。心に染みる幽玄な調べだった。佐敷ヌルの笛に合わせて、ササが高音を吹き、ユリが低音を吹いていた。
 まるで、神様が現れて来るような神秘的な曲だと思っていたら、スサノオの神様の声が聞こえてきた。
「佐敷ヌルとササは知っているが、もう一人の女子(おなご)は誰じゃ?」とスサノオは言った。
 自分が答えていいものか迷ったが、
「もう一人はユリです」とサハチは答えた。
「ユリか。いい女子じゃ」とスサノオは言った。
 サハチの言葉がスサノオに通じたようだった。
「ササとは腹違いの姉妹です」
「なに、ササの姉か。成程のう」
 スサノオの神様に聞きたい事があったはずなのに、突然の事だったので思いつかなかった。その後、スサノオの神様の声は聞こえず、佐敷ヌルたちの曲も終わった。
 ウニタキ(三星大親)がヤンバルに行っていて留守なので、ミヨンとウニタルが三弦(サンシェン)を披露した。ヤマトゥ旅のお陰か、ウニタルの歌は以前よりもずっとうまくなっていた。その後、辰阿弥と福寿坊の鉦(かね)と太鼓に合わせて、「ナンマイダー」と叫びながら念仏踊りをみんなで踊って、お祭りは終わった。
 三月三日、恒例の久高島参詣(くだかじまさんけい)が行なわれ、慈恩寺(じおんじ)の普請(ふしん)も始まった。十日には久場(くば)ヌル(先代中グスクヌル)が、首里の御内原(うーちばる)でサイムンタルーの娘を産んで、跡継ぎができたと喜んだ。十九日はクマヌ(先代中グスク按司)の一周忌で、中グスクでお祭りが行なわれ、旅芸人の『舜天(しゅんてぃん)』が演じられた。その翌日は、丸太引きのお祭りで、シズが率いる若狭町(わかさまち)が優勝した。シズが倭寇(わこう)の荒くれ者たちに気合いを入れたようだった。
 四月の三日、ファイチ(懐機)の娘のファイリン(懐玲)がマサンルー(佐敷大親)の長男、シングルーに嫁いだ。思紹は首里で婚礼を挙げようと言ったが、世子(せいし)(跡継ぎ)の息子ではないので、そんな大げさにやる必要はないとマサンルーが主張して、佐敷グスクで行なわれる事となった。
 ファイリンが琉球に来たのは四歳の時だった。五歳の時に久米村(くみむら)から佐敷に移って、六歳の時には島添大里に移った。首里に城下が完成したあと、一時、首里で暮らしたが、やはり、島添大里の方がいいと言って戻って来た。十二歳の時に母と兄と一緒に明国(みんこく)に帰って、祖父母と再会して、翌年、戻って来た。十五歳になると島添大里グスクに通って剣術を習い初め、佐敷から島添大里のソウゲン(宗玄)寺に通っていたシングルーと親しくなったのもその頃らしい。シングルーがヤマトゥ旅に行った時は、ずっと、無事の帰国を祈っていた。そして、無事に帰って来たシングルーから、お嫁に来てくれと言われて、ファイリンは迷う事なくうなづいた。
 マサンルーから相談を受けたサハチは、ファイチと会って話をまとめた。ファイチも妻のヂャンウェイ(張唯)からシングルーの事は聞いていたので、二人の婚礼を認めた。
「速いものです」とファイチは言った。
「ファイリンがお嫁に行く年齢(とし)になるなんて‥‥‥ファイリンが選んだ男ですから大丈夫でしょう。サハチさんの甥ですから、文句はありませんよ」
 ファイチが吉日を選んで、四月三日と決まったのだった。
 花嫁のファイリンは島添大里の城下の者たちに祝福されて、佐敷へと嫁いで行った。王様も王妃もサハチもマチルギも来るなとマサンルーは言った。王様や世子が来ると、佐敷グスクは厳重に警固されて、城下の人たちが自由に出入りできなくなってしまう。若い二人を、これからお世話になる城下の人たちに祝福してもらいたいとマサンルーは言った。
 マサンルーの言う事は正しいが、甥の婚礼に出席できないのは残念だった。婚礼の儀式を手伝ったササたちの話によると、サハチとマチルギの婚礼によく似ていて、城下の人たちに祝福された二人は、とても幸せそうだったという。ファイチと親戚になったウニタキは出席していて、サハチだけのけ者にされたような気分だった。
 新郎新婦は東曲輪(あがりくるわ)の屋敷に入って、新しい生活が始まった。明人(とーんちゅ)の妻を娶(めと)ったシングルーは、妻の国を見てみたいので、進貢船(しんくんしん)の使者になるとマサンルーに言ったという。サハチはシングルーを『報恩寺(ほうおんじ)』に入れて、明国の言葉を習わせようと思った。
 四月十日、浦添グスクのお祭りが行なわれて、『鎮西八郎為朝(ちんじーはちるーたみとぅむ)』のお芝居が演じられた。サハチもマツとトラと一緒にお祭りに行った。
 中グスクのお祭りのあと、旅芸人たちが旅に出て行ってしまい、マツとトラは退屈していた。サハチは二人を海に連れて行って、カマンタ(エイ)捕りをさせた。こいつは面白いと二人は熱中して、最近は毎日、海に潜っていた。
 浦添グスクのお祭りの次の日、サハチはシンゴ(早田新五郎)、マツ、トラをヒューガ(日向大親)の船に乗せて、キラマ(慶良間)の島に行った。
 サイムンタルーが感動したように、その美しい景色にマツとトラも、「凄えなあ」と言って感動していた。小舟(さぶに)に乗って島に上陸すると、大勢の若者たちがいるのに驚き、「この島は何だ?」とトラが聞いた。
「若い者たちを鍛えている武術道場だよ」とサハチは説明した。
「親父が密かにここで、一千人の兵を育てて、先代の中山王(ちゅうざんおう)(武寧)を倒したんだ。今は首里から食糧を送っているけど、当時は食糧を集めるために、ヒューガ殿が海賊になって、敵の食糧を奪っていたんだよ。シンゴにも食糧を運んでもらったんだ」
「ほう。内緒で兵を育てていたのか」
「そうさ。親父は隠居して、十年掛けて、一千人の兵を育てたんだ。その兵たちの活躍のお陰で、今があるんだよ。今は隠れて、兵を育てる必要はないんだけど、ここで一緒に修行した者たちは団結力が強いので、ここで修行を積んでから、首里や島添大里に送っているんだ」
「そう言えば、旅芸人たちもキラマの島の事を言っていたけど、ここの事だったんだな」
「旅芸人だけじゃない。女子サムレーもサムレーもみんな、ここで修行を積んでいるんだよ」
「当時はここで修行している者たちは、倭寇になって南蛮(なんばん)(東南アジア)に行く事を信じて修行を積んでいたんじゃ」とヒューガが言った。
 サハチは笑って、「ヒューガ殿にも倭寇に扮してもらいましたね」と言った。
「どうして、倭寇なんだ?」とマツが聞いた。
「中山王や島添大里按司汪英紫)に怪しまれないためだよ。佐敷按司が密かに兵を鍛えているとわかったら、本拠地の佐敷グスクが潰されてしまうからな」
「確かにな。当時の状況を聞いて驚いたよ。島添大里グスクに敵がいて、あんな小さな佐敷グスクがよく潰されなかったものだと不思議に思った」
「今思えば、十年間も、よく持ちこたえたと思うよ」
 サハチたちは若い者たちを鍛えて、一汗かいたあと、海に潜って魚を捕って、浜辺で酒盛りを始めた。
「俺が初めて対馬に行った時、一緒に遊んだ仲間なんだ」とサハチは総師範のマニウシに言って、マツとトラを紹介した。
 六人の師範と島ヌルのタミーが来て加わった。
「今回は佐敷ヌル様は来なかったのですね」とタミーはサハチに聞いた。
「佐敷ヌルは新しいお芝居の台本作りに忙しいんだよ」
「そうですか。ここの人たちにもお芝居を見せてあげたいわ」
「それはいい考えだな。旅芸人たちをここに連れて来よう」とサハチは言ってヒューガを見た。
「そうじゃな。ここの者たちにも、いい気分転換になるじゃろう」とヒューガは笑った。
「本当ですか」とタミーは喜んだ。
「旅芸人の舞姫になったフクは、ずっと一緒に修行を積んだ仲なんです。久し振りに会いたいわ」
「なに、フクと一緒に修行したのか」とトラが言ってタミーを見た。
「あたしたち佐敷の生まれなんです。佐敷ヌル様に憧れて、島添大里グスクに通って、剣術を習いました。十七の時にこの島に来て、さらに修行を積んで、あたしは島添大里の女子サムレーになって、フクは『三星党(みちぶしとー)』に入ったのです。その後、わたしはヌルになってこの島に来て、フクは旅芸人になりました」
 三人の女師範がアミーとユーナを連れて来た。
按司様(あじぬめー)、お久し振りでございます」と言ったアミーは日に焼けて真っ黒な顔をしていて、明るい表情になっていた。妹のユーナも元気そうだった。
「島での暮らしはどうだ?」とサハチはアミーに聞いた。
「ここに来て、まもなく五か月になります。若い娘たちに囲まれて、毎日、楽しくやっております」
「二人のお陰で、随分と助かっております」と女師範のレイが言った。
按司様、お話があります」とアミーが言ったので、サハチはうなづいて、アミーとユーナを連れてその場から離れた。
 この島の者たちは二人が山南王(さんなんおう)(汪応祖)の間者(かんじゃ)だった事は知らなかった。アミーは三星党の者で、ユーナは島添大里の女子サムレー、二人は事件に巻き込まれてしまい、山南王から命を狙われているので、しばらく、島に隠れているという事になっていた。
「山南王はわたしたちが死んだものと思っていますか」とアミーが聞いた。
 サハチはうなづいた。
「噂を信じて、二人とも殺されたと思っている。お前たちの遺体を探していたが見つからず、探すのも諦めたようだな」
 アミーとユーナは顔を見合わせて、ほっとしていた。
「いつになったら戻れるかわからんが、それまで、島の娘たちを鍛えてやってくれ」
 二人はうなづいた。
「島添大里の女子サムレーたちは、あたしの事を恨んでいるでしょうね」とユーナが言った。
「そんな事はないよ。死ぬ覚悟で、本当の事を言ってくれたのだから、今でも仲間だと思っている。お祭りのお芝居で、お前がやるはずだった亀の役はクトゥが代わりに演じた。お前のためにも、いいお芝居にしようと、みんな、頑張っていたよ」
「クトゥが‥‥‥」と言って、ユーナは涙ぐんでいた。
「いつの日か、必ず、お前が戻って来るとみんな信じて待っているよ」
「きっと、戻れるわよ」とアミーは言って、妹の肩をたたいた。
「わたしはずっとここにいるわ」とアミーは言った。
「ここはいい所です。みんな、優しくしてくれるし、娘たちは素直で可愛いし」
 サハチはうなづいて、二人を連れて戻り、酒盛りに加わった。サハチが席をはずしている隙に、マツとトラは女師範たちを口説いていた。
 レイは首里の女子サムレーのクムと同期で、チニンマチーとアカーはイーカチの妻になったチニンチルーと同期だった。三人とも女子サムレーになる事なく、若い娘たちを鍛えるために、この島に残ってくれたのだった。三人の女師範と六人の男の師範を眺めながら、慈恩寺にも立派な師範を集めなければならないとサハチは思っていた。
 ヒューガは次の日に帰ったが、サハチたちは五日間、島に滞在して、のんびりと過ごした。マツとトラは女師範たちを口説いていたが、女師範たちが自分たちよりも強い事を知ると、女に負けられるかと修行者たちと一緒に修行に励んだ。さらに、サハチの強さにも驚いていた。
 タミーは初めて神様の声を聞いたと騒いでいた。サハチが不思議に思って、
「今まで神様の声を聞いた事がなかったのか」と聞くと、タミーは真面目な顔でうなづいた。
「あたし、ヌルの修行を始めたのが遅かったから、ヌルになるのは難しいって馬天ヌル様から言われたのです。でも、どうしてもヌルになりたくて、そしたら、馬天ヌル様が、この島で一心にお祈りを続けていれば、いつか、神様の声が聞こえるようになるって言われました。ようやく、あたし、神様の声が聞こえるようになったのです」
「そうか。それはよかったな」とサハチはタミーと一緒に喜んだ。
「それで、神様は何と言ったんだ?」
「『気に入ったわ。しばらく、ここにいるからよろしくね』っておっしゃいました」
「なに? すると、その神様はこの島の神様じゃなくて、どこか、よそから来たのか」
 タミーは首を傾げた。
「ここの神様はヤカビムイのウタキ(御嶽)にいらっしゃるはずなんですけど、あたし、一度も声を聞いた事はありません。以前、この島にいらした運玉森(うんたまむい)ヌル(先代サスカサ)様の話だと、遠い昔、南の方からやって来た人たちの御先祖様で、この島に住んでいたんだけど、大きな台風にやられて、生き残った人たちはヤンバルの方に移って行ったとおっしゃいました。あたしが聞いた声はその神様ではないような気がします。それに、その神様と御一緒に男の神様もいらして、『いい所じゃのう』とおっしゃいました」
 サハチは話を聞いて、何となく、スサノオの神様のような気がして、ヤカビムイの山を見上げた。山の山頂にウタキがあって、男は入る事ができなかった。
「サハチよ。わしはそろそろ、ヤマトゥに帰る。ユンヌ姫はここに残ると言っておる。気まぐれな娘じゃがよろしく頼むぞ」
 サハチは驚いて、空を見上げた。
「色々とありがとうございました」とサハチは言って、両手を合わせた。
「さらばじゃ」とスサノオは言って帰って行った。
「サハチ、よろしくね」とユンヌ姫が言った。
「もうすぐ、ササとカナがヤマトゥに行きます。一緒に行って、みんなを守ってください」とサハチが言うと、
「任せてちょうだい」とユンヌ姫は答えた。
 サハチと神様のやり取りを聞いていたタミーは腰を抜かしたように、その場に座り込んで、両手を合わせてサハチを見つめていた。
 サハチはタミーを見ると、
「今の神様の声、聞こえたか」と聞いた。
 タミーはうなづいた。
スサノオの神様とその孫娘のユンヌ姫様だよ。スサノオの神様の声が聞こえれば、きっと、ほかの神様の声も聞こえるに違いない。馬天ヌルにお前の事を知らせる。きっと、お前が活躍する時が来るだろう」
按司様は神人(かみんちゅ)だったのですか」とタミーが驚いた顔のまま聞いた。
「最近、神人になったようだ」とサハチは笑った。
「凄いわ」とタミーは言って、サハチに両手を合わせた。
 その頃、山南王が今年二度目の進貢船を明国に送っていた。正使は李仲按司(りーぢょんあじ)だった。キラマの島から帰って、その事を聞いてサハチは驚いたが、息子が『国子監(こくしかん)』に留学しているので会いに行ったのだろうとウニタキは言った。

 

 

 

スサノヲの真実   消された覇王 (河出文庫)   荒ぶるスサノヲ、七変化―“中世神話”の世界 (歴史文化ライブラリー)

2-116.念仏踊り(改訂決定稿)

 二月四日、今年最初の進貢船(しんくんしん)が二隻の旧港(ジゥガン)(パレンバン)の船を連れて出帆して行った。
 正使はサングルミー(与座大親)で、従者としてクグルーと馬天浜(ばてぃんはま)のシタルー、イハチも行き、垣花(かきぬはな)からはシタルーの義弟のクーチと若按司の長男のマグサンルーが行った。サムレー大将は六番組の又吉親方(またゆしうやかた)で、『国子監(こくしかん)』に入る三人の官生(かんしょう)、北谷(ちゃたん)ジルー、城間(ぐすくま)ジルムイ、前田(めーだ)チナシーも乗っていた。
 五日後には首里(すい)グスクのお祭り(うまちー)が華やかに行なわれた。北曲輪(にしくるわ)の石垣が完成して、以前よりも立派になったグスクを見ようと、大勢の人たちが集まって来て賑わった。
 毎年の事だが、ササ、シンシン(杏杏)、ナナの三人は曲者(くせもの)が潜り込んではいないか見回りをしていた。ウニタルとシングルーを連れて、サタルーも一緒にいた。
 ヂャンサンフォン(張三豊)が運玉森(うんたまむい)ヌル(先代サスカサ)を連れてやって来た。福寿坊(ふくじゅぼう)と辰阿弥(しんあみ)も一緒にいた。二人は慈恩禅師(じおんぜんじ)からヂャンサンフォンを紹介されて、ずっと与那原(ゆなばる)にいたらしい。慈恩禅師も越来(ぐいく)ヌルと一緒にやって来た。
 ンマムイ(兼グスク按司)夫婦も子供たちを連れてやって来た。一緒にテーラー(瀬底之子)と八重瀬(えーじ)の若ヌルとチヌムイもいた。テーラーは山伏姿になって旅をしていたようだが、帰って来たようだ。テーラーは山南王(さんなんおう)(シタルー)が用意した屋敷を保栄茂(ぶいむ)グスクの城下に持ち、中山王(ちゅうさんおう)(思紹)が用意した屋敷を島添大里(しましいうふざとぅ)のミーグスクの城下に持っていた。その時の気分で行ったり来たりしていて、ンマムイの兼(かに)グスクの城下にも屋敷をもらったようだった。八重瀬の若ヌルと弟のチヌムイは相変わらず、八重瀬から兼グスクに通って武芸を習っているようだ。
 豊見(とぅゆみ)グスク按司(タルムイ)夫婦も子供を連れて、豊見グスクヌルと一緒に来た。
 マツ(中島松太郎)とトラ(大石寅次郎)は旅芸人たちの小屋が気に入ったようで、そこに入り浸っていた。マツは舞姫のカリーを、トラはフクを贔屓(ひいき)にしていた。二人は必死に口説いているが、適当にあしらわれているようだ。それでも、座頭(ざがしら)のクンジに、ヤマトゥ(日本)や朝鮮(チョソン)の芸人たちの話を聞かせて喜ばれているようだった。二人は旅芸人たちと一緒にやって来て、お芝居の準備を手伝っていた。
 舞台では、ヤマトゥの着物を着たハルとシビーが進行役を務めていた。ハルは娘の格好だが、シビーは直垂(ひたたれ)に烏帽子(えぼし)をかぶった男装だった。すらっとしたシビーは男装姿がよく似合っていた。
 地区対抗の娘たちの踊りから始まって、女子(いなぐ)サムレーたちの剣術、サムレーたちの棒術、シンシンとシラーの武当拳(ウーダンけん)と続いた。二人の動きは見事に呼吸が合い、相手の攻撃を受けるとすぐに次の攻撃を仕掛け、目にも止まらぬ速さで拳や蹴りがくり出された。身の軽いシンシンは舞台上で飛び跳ねて、シラーの鋭い拳をかわし、皆、凄いと言った顔をして見入っていた。
 喝采(かっさい)が鳴り止まぬ中、静かに音楽が鳴り響いて、お芝居『かぐや姫』が始まった。主役のかぐや姫は前回に引き続いてハルだった。舞台の脇には、このお芝居のために高い櫓(やぐら)が建っていた。
 ハルの演技は一段と進歩して、すっかり、かぐや姫になりきっていた。決められた台詞(せりふ)をしゃべっているはずなのに、その時その時の感情を素直に言葉として表現しているように見えた。ハルの演技に刺激されて、女子サムレーたちの演技もうまくなっていて、ちょっとした仕草で、観ている者たちを笑わせた。
 音楽も以前よりずっと深みのあるものに変わっていた。三つの笛が違う調べを吹いて、それがうまく重なって心地よく響いていた。かぐや姫が月に帰る場面に流れた音楽は、幻想的で美しい調べだった。増阿弥(ぞうあみ)の舞台を観た佐敷ヌルがさっそく、名人芸を取り入れたのだろう。
 櫓に吊り上げられたハルが月に帰って、皆に手を振ったあと、一瞬のうちに消えるとお芝居は終わった。指笛と喝采がいつまでも鳴り響いた。
 少し休憩があって、旅芸人たちのお芝居『舜天(しゅんてぃん)』が演じられた。馬天ヌルの話だと、このお芝居によって、中グスクの北に住んでいる舜天の子孫たちが、長い間の誤解が解けて大喜びしているという。お芝居という娯楽が、人々の人生にまで影響を与えている事にサハチ(中山王世子、島添大里按司)は驚いて、たとえ、お芝居といえども、嘘はつけないなと思った。
 旅芸人たちのお芝居も見事なものだった。何度も上演して、お客の反応を見て、少しづつ修正しているのだろう。三年前のぶざまな有様を思い出すと、みんな、別人のように思えた。
 お芝居が終わったあと、サハチは舞台に上がって一節切(ひとよぎり)を吹いた。首里グスクを奪い取ってから今日までの出来事を思い出しながらサハチは一節切を吹いていた。皆、シーンとなって聴いていた。
 明国(みんこく)に行って、メイユー(美玉)と出会った。応天府(おうてんふ)の妓楼(ぎろう)で永楽帝(えいらくてい)とも会った。おかしな娘のシンシンと出会い、ヂャンサンフォンと会って武当山(ウーダンシャン)に行き、武当拳の修行を積んだ。
 ヤマトゥに行って、高橋殿と出会い、将軍様とも会った。増阿弥の素晴らしい一節切も聴いた。今、振り返れば、奇跡の連続のようだった。豊玉姫(とよたまひめ)様、そして、スサノオの神様にずっと見守られていたに違いなかった。サハチは神様に感謝の気持ちを込めて一節切を吹いていた。
 いつの間にか、ササが舞台で舞っていた。素晴らしい舞だった。高橋殿から教えを受けたのだろうか。『天女の舞』によく似ていた。
「見事じゃ」と誰かの声が聞こえた。
 サハチはさらに吹き続けた。
 朝鮮に行ってサイムンタルー(早田左衛門太郎)と再会して、サイムンタルーがイト、ユキ、ミナミを連れて琉球にやって来た。今年はマツとトラがやって来た。
 サハチは神様に感謝の気持ちを捧げて、一節切を口から離した。ササがサハチに合わせるように舞台から消えた。
 喝采と指笛が響き渡る中、サハチはまた、「見事じゃった」という声を聞いた。
 舞台を下りて、サハチはササに聞いた。
「『見事じゃ』と誰かが言ったんだけど、誰だろう?」
 ササは驚いた顔をしてサハチを見ると、「聞いたの?」と聞いた。
「一節切を吹いている途中で、『見事じゃ』と誰かが言って、曲が終わった時、『見事じゃった』と言ったんだ」
 ササは笑って、「スサノオの神様よ」と言った。
スサノオの神様?」
「ユンヌ姫様と一緒に琉球まで来たみたい。あたしも今、初めて知ったの」
「俺が神様の声を聞いたのか」
 サハチは信じられないという顔をしてササを見た。
按司様(あじぬめー)も一節切のお陰で、神人(かみんちゅ)になったんだわ」
「俺が神人か」
「だって、スサノオの神様の声を聞いたんだから神人だわ」
「俺が神人か」とサハチはもう一度言った。
 舞台ではウニタキ(三星大親)とミヨンが三弦(さんしぇん)を弾きながら歌を歌っていた。心に染みる恋歌を歌ったあと、調子のいい陽気な歌を歌って、観客たちが踊り出した。いつもならこれで終わるはずだが、今年は違った。
 辰阿弥と福寿坊が舞台に上がって、辰阿弥が鉦(かね)を叩きながら、「ナンマイダー(南無阿弥陀仏)」と念仏を唱え始めた。福寿坊は太鼓を叩きながら念仏を唱えた。
 見ている者たちは唖然(あぜん)とした顔で二人を見ていたが、やがて、辰阿弥が鉦を叩きながら踊り始めると、ササ、シンシン、ナナが辰阿弥と一緒に踊り始めた。見ていた観客たちも踊り始めた。鉦と太鼓の響きに合わせて、みんなで「ナンマイダー」と唱えながら踊っていた。
 サハチも体が自然と動き出して、一緒になって踊った。ウニタキとミヨンも踊っていた。佐敷ヌルとユリ、ハルとシビーも踊っていた。誰もが意味もわからず、「ナンマイダー」と叫びながら楽しそうに踊っていた。
 お祭りの翌日、佐敷ヌルはササたちと一緒にヤンバル(琉球北部)に旅立って行った。神様たちにヤマトゥ旅の報告とお礼を言うためだった。マツとトラ、福寿坊と辰阿弥も同行した。サハチも一緒に行こうとしたら、ウニタキに止められた。
「ヌルたちとヤマトゥから来た旅の者たちがヤンバルをうろうろしていても、山北王(さんほくおう)は気にも止めないが、そこにお前が加わると話が違ってくる。お前のためにみんなが危険な目に遭う事になるんだ」
「山北王が俺を狙っているというのか」
「山北王は気分屋だ。機嫌が悪いと何をするかわからない。お前が今帰仁(なきじん)に来たと知った時、機嫌が悪ければ、お前を捕まえろと命じるだろう。敵地で捕まったお前を救い出すのは容易な事ではない。大勢の者が犠牲になるだろう」
「俺を捕まえれば、戦(いくさ)になるぞ。そんな事はするまい」
「お前を人質に取れば、山北王は有利になる。殺せば戦になるが、大切に預かっていると言えば、中山王も手が出せない。そんな状況になれば、シタルー(山南王)が大喜びをするだろう。シタルーを喜ばすような、軽はずみな事はやめるべきだ」
 サハチは一緒に行くのを諦めて、一行を見送った。
 奥間(うくま)に帰るサタルーに、「ちゃんと、みんなを守れよ」と言うと、
「わかっています」と力強くうなづいて、サハチの耳元で、「『赤丸党(あかまるとー)』の者が陰ながら守っています」と言った。
 『赤丸党』の事は以前、ウニタキから聞いていた。奥間の者がウニタキの所に来て、二年間の修行のあと、奥間に帰って裏の組織『赤丸党』を作ったと言っていた。奥間の鍛冶屋(かんじゃー)や木地屋(きじやー)は各地にいて、様々な情報を手に入れている。その情報をいち早く、サタルーの耳に入れるためにできた組織だった。身が軽く、素早い奴ばかりで、剣術、棒術、弓術、それに、武当拳も身に付けているという。その『赤丸党』のお頭が、クマヌ(先代中グスク按司)の息子のサンルーだというのは、亡くなる前にクマヌから聞いて、サハチは初めて知ったのだった。
「ウニタキも知っているのか」と聞くと、
「勿論ですよ」とサタルーは笑った。
 羨ましそうな顔をして一行を見送ったサハチは、武術道場に行って苗代大親(なーしるうふや)と会った。
「どうした、珍しいな。何かあったのか」と苗代大親はサハチの顔を見ると言った。
 苗代大親は書類を見ながら何かをやっていた。
「何をしているんですか」とサハチは聞いた。
首里以外のサムレーたちが明国に行きたいと騒いでいるんじゃよ。わしとしても、みんなを行かせてやりたいと思っているんじゃ。それで、明国に行っている時期だけ、持ち場を入れ替えようかと考えているんじゃよ」
「島添大里のサムレーが、首里の補充をしているようにですか」
「そうじゃ。島添大里のサムレーが明国に行ったら、首里のサムレーが島添大里に行くというわけじゃ。ただ、何も知らないサムレーばかり連れて行っても仕事にならんから、以前にやっていたように、半分づつ連れて行く事になるがのう」
「叔父さんも大変ですね」
「なに、戦がないだけでも、楽なもんじゃよ。今の所、進貢船が遭難する事故もないしな」
「叔父さんは明国には行かないのですか」
「兄貴から話を聞いて、わしも行きたくなったんじゃがのう。半年も留守にはできまい。隠居してから、のんびりと行って来るよ」
 サハチは笑って、「ヒューガ(日向大親)殿も同じ事を言っていました。隠居したら、ヒューガ殿と一緒に行って来たらいいですよ」と言った。
「ヒューガ殿とか。楽しい旅になりそうじゃな。ヒューガ殿と一緒に武当山(ウーダンシャン)に行って来よう」
「今、永楽帝武当山の再建を行なっているそうです。叔父さんたちが行く頃には、きっと立派な道教のお寺(うてぃら)がいくつも建っている事でしょう」
「兄貴から聞いたが、ヂャンサンフォン殿が武当山に現れたという噂を聞いて、大勢の弟子たちが集まって来たそうじゃのう。武芸を志す者として、一度は行ってみたいものじゃ」
 サハチはうなづきながら、もう一度、行ってみたいと思っていた。
「ところで、わざわざ、ここまで来るなんて何かあったのか」と苗代大親が聞いた。
「叔父さんに相談したい事があるのです。ナンセン(南泉)禅師殿の『報恩寺(ほうおんじ)』が完成して、次に、慈恩禅師殿の『慈恩寺(じおんじ)』を建てるのですが、慈恩寺を武術道場にしようと思っているのです」
「お寺が武術道場なのか」と苗代大親は首を傾げた。
「慈恩禅師殿はヤマトゥにお寺を持っていて、そのお寺は武術道場として栄えているそうです。僧侶だけでなく、サムレーたちも遠くからやって来て修行を積んでいるようです。そんなお寺を首里に作りたいのです。ここは今、首里のサムレーたちが修行を積む道場ですが、慈恩寺はキラマ(慶良間)の修行者の中から選ばれた者たちを鍛えて、やがてはサムレー大将になる者を育てるのです。ソウゲン(宗玄)禅師の『大聖寺(だいしょうじ)』は子供たちに読み書きを教えます。ナンセン禅師の『報恩寺』は、さらに勉学に励みたい者たちに様々な事を教えます。明国にある『国子監』のようなものを目指しています。やがて、『報恩寺』から使者や通事、重臣になる者たちが育つ事を願っています。『慈恩寺』は武術の国子監です。兵たちを率いる大将を育てるのです」
「成程のう。サムレー大将を育てる武術道場か。武術だけでなく、兵法(ひょうほう)も教えるのだな」
「そうです」とサハチはうなづいて、「その『慈恩寺』をこの道場の隣りに建てようと思っていますが、どうでしょうか」と苗代大親に聞いた。
「そうすると、この道場も慈恩寺の一部になるという事か」
「その辺の事はまだ考えてはいません。ここは今まで通りに、首里のサムレーたちの道場でいいと思いますが、武術関係の施設は近くにあった方がいいような気がしたので、隣りに建てようと思ったのです」
「そうか」と言って、苗代大親は少し考えてから、「首里のサムレーたちも修行次第で、慈恩寺に入れるとなれば、修行の励みになる。隣りにそういう道場があった方がいいかもしれんのう」と言った。
「才能がある者は、どこのサムレーでも『慈恩寺』で修行できるようにするつもりです」
 苗代大親はうなづくと、「慈恩禅師殿を手放すなよ」と言った。
「凄いお人じゃ。とてつもなく強い。ヂャンサンフォン殿は別格として、わしは久し振りに、師と仰ぐべき人と出会った。慈恩禅師殿が琉球の若者たちを鍛えてくれるのなら、わしは喜んで協力するぞ」
「叔父さん」とサハチは言って、満足そうにうなづいた。
 サハチは苗代大親と一緒に、樹木(きぎ)が生い茂っている森の中を歩いて、お寺を建てる場所を探した。
 苗代大親と別れて、島添大里に帰ったサハチは慈恩禅師とお寺の事を相談した。慈恩禅師は武術道場となる『慈恩寺』を建てる事には賛成したが、島添大里の子供たちの事を心配した。サハチは慈恩寺が完成する前に、このお寺の師匠は必ず探すと約束した。
 島添大里グスクに帰ると一の曲輪(くるわ)内のウタキ(御嶽)から出て来たサスカサ(島添大里ヌル)と出会った。
「今頃、何をしているんだ?」とサハチはサスカサに聞いた。
 サスカサがここのウタキにお祈りをするのは、十五夜(じゅうぐや)の時以外は、いつも朝だった。
「大変なのよ。どうしよう?」とサスカサは慌てていた。
「ねえ、叔母さん(佐敷ヌル)とササ姉(ねえ)は旅に出たの?」
「ああ、今朝、ヤンバルに向かったよ。一体、何が起こったんだ?」
スサノオの神様が琉球にいらしたのよ」とサスカサは目を丸くして言った。
「お前、スサノオの神様の声を聞いたのか」
「そうなのよ。初め、おうちにいた時に聞いたんだけど、空耳かなって思って、でも、何か気になったので、ここに来たの。そしたら、やっぱり、スサノオの神様だったのよ」
スサノオの神様は何て言ったんだ?」
「最初は『元気そうだな』と言ったの。ここに来たら、『豊玉姫に会いに来たんだが、行きづらいから一緒に来てくれ』って言ったのよ。どうしよう?」
 サハチは笑った。
スサノオの神様も豊玉姫様が怖いんだな。一緒に行ってやればいいじゃないか」
「でも、どうして、スサノオの神様が琉球にいるの?」
「ユンヌ姫様と一緒に琉球に来たようだ」
「えっ!」とサスカサは驚いてから、「どうして、お父さんがそんな事を知っているの?」と聞いた。
「昨日、首里のお祭りでスサノオの神様の声を聞いたんだよ。それで、ササに聞いたら、そう言ったんだ。ササも昨日、初めて、スサノオの神様が来た事を知ったようだ」
「お父さんがスサノオの神様の声を聞いたの?」
「ああ、一節切を吹いていたら、『見事じゃ』と言ったんだよ」
「えっ、お父さんがスサノオの神様の声を聞いた‥‥‥」
 サスカサは信じられないと言った顔で、サハチを見ていた。
「ササが言うには、俺も神人になったそうだ」
「お父さんが‥‥‥」と言って、サスカサはサハチを見つめていたが、納得したようにうなづくと、「これからセーファウタキ(斎場御嶽)に行って来るわ」と言った。
「今からか」
「大丈夫よ。クルー叔父さんが道を作ってくれたお陰で、セーファウタキは近くなったのよ」
「一人で行くなよ。女子サムレーかチミー(イハチの妻)を連れて行け」
 サスカサはうなづいて、「チミーとマナビー(チューマチの妻)を連れて行くわ」と言って、東曲輪(あがりくるわ)の方に行った。
 スサノオの神様はまだここにいるのかなとサハチは空を見上げて、両手を合わせた。
 スサノオと一緒にセーファウタキに向かったサスカサは、クルー(手登根大親)が造った道を通って、一時(いっとき)(二時間)余りで久手堅(くでぃきん)ヌルの屋敷に着いた。
 スサノオの神様を連れて来た事を告げると久手堅ヌルは腰を抜かさんばかりに驚いて、身を清め、衣服を改めて、スサノオの神様を迎えるお祈りを捧げてから、サスカサと一緒にセーファウタキに入って行った。
 セーファウタキに向かう道中、突然、帰って来て豊玉姫が怒らないかと心配していたスサノオだったが、すでに、豊玉姫スサノオが来ている事を知っていて、やって来るのを待っていた。
「あなた、自分が誰なのか忘れたのですか?」と豊玉姫スサノオに言った。
「あなたを知らない神様はいないのですよ。あなたが与論島(ゆんぬじま)でユンヌ姫と遊んでいた事は与論島の神様が教えてくれたわ。すぐにここに来ると思って待っていたのに、一体、何をぐずぐずしていたのですか」
「久し振りじゃったもんでのう、何となく、来づらかったんじゃよ。沖長島(うきなーじま)(琉球)は相変わらず美しい島じゃのう。それに、お前も相変わらず美しい」
「何を言っているのですか」と豊玉姫は笑った。
「わたしが会いに行くべきなのに、わざわざ、いらしてくれてありがとうございます」
 スサノオ豊玉姫が懐かしそうに昔の事を話し始めたので、サスカサと久手堅ヌルは引き上げて来た。スサノオを歓迎しているのか、セーファウタキには綺麗な蝶々がたくさん集まって来て、優雅に飛び回っていた。


 スサノオ豊玉姫が久し振りの再会を喜んでいた頃、佐敷ヌルとササたちは仲順大主(ちゅんじゅんうふぬし)の屋敷で、長老たちに歓迎されていた。
 浦添(うらしい)に行った佐敷ヌルとササたちは、浦添ヌルのカナの案内で『トゥムイダキ』に行って、朝盛法師(とももりほうし)にお礼を言った。
 やり残した事があると言って、朝盛法師が亡くなる前年にヤマトゥに行ったのは、壇ノ浦から逃げて隠れていた安徳天皇の御霊(みたま)と三種の神器(じんぎ)を封印するためだった。朝盛法師が行った時、すでに、安徳天皇は亡くなっていた。安徳天皇を守っていた平知盛(たいらのとももり)も亡くなっていたが、安徳天皇の御陵(ごりょう)を守っている武士が何人もいた。朝盛法師は結界(けっかい)を張って御陵を隠し、御陵を守っている武士たちは外に出られないようにしたという。
 佐敷ヌルがその場所を聞いたが、朝盛法師は忘れてしまったと言って教えてくれなかった。
 カナの案内で『喜舎場森(きさばむい)』に行って、舜天の妹の浦添ヌルにお礼を言って、仲順の『ナシムイ』に行って、舜天にもお礼を言った。喜舎場と仲順の長老たちに歓迎されて、山田グスクまで行く予定だったのに、引き留められてしまった。
 ササはナシムイで舜天に感謝されて、佐敷ヌルは喜舎場と仲順の人たちから、『舜天』のお芝居を作ってくれた事に感謝された。
 去年の九月、旅芸人たちが来て、喜舎場と仲順で『舜天』を演じていた。座頭(ざがしら)のクンジから『舜天』のお芝居を作ったのは佐敷ヌルだと聞いていて、その佐敷ヌルが来たというので村は大騒ぎになった。長老たちが出て来て、仲順大主の屋敷で歓迎の宴(うたげ)が開かれる事に決まったのだった。
 ササは舜天の父親の事を色々と聞かれ、佐敷ヌルはお芝居の事を色々と聞かれた。辰阿弥と福寿坊は『念仏踊り』を踊って皆に喜ばれ、マツとトラも滑稽(こっけい)なヤマトゥの踊りを披露して喜ばれた。

 

 

 

踊り念仏 (平凡社ライブラリー (241))