長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

16.博多(改訂決定稿)

 ようやく、念願の博多にやって来た。
 壱岐島(いきのしま)の『志佐壱岐守(しさいきのかみ)』の船に乗って、サハチ(佐敷若按司)はサイムンタルー(左衛門太郎)、ヒューガ(三好日向)と一緒に九州の都、博多の地に上陸した。
 志佐壱岐守とサンルーザ(早田三郎左衛門)は南朝の水軍として、高麗(こうらい)の国(朝鮮半島)や明(みん)の国(中国)まで行って共に戦った仲だという。志佐壱岐守は今、時勢に合わせて北朝に寝返っている。サンルーザは寝返ってはいないが、今は南朝のためには動いていない。
 海に生きる武士たちにとって、南朝だろうと北朝だろうと、どうでもいい事だった。海で自由に暮らせれば、それでよかった。自分たちの自由を阻む者が敵だった。南北朝の争いが始まって、陸では領地の奪い合いで戦が絶えなかったが、海の方に目を向ける者はいなかったので、海に出れば好き勝手な事ができた。高麗に渡っては食糧を略奪したり、労働力となる人をさらって来た。
 九州に南朝の征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)(懐良親王(かねよししんのう))がやって来ると海も変わって行った。征西将軍宮は海に生きる武士たちを理解して、水軍の力を頼りにしてくれた。海の武士たちは征西将軍宮のために戦おうと一つにまとまって、南朝の水軍として戦った。船団を組んで高麗を襲撃して食糧を奪ったのも、征西将軍宮のためだった。
 水軍の活躍のお陰もあって、征西将軍宮は北朝方の武将を次々に倒して太宰府(だざいふ)も攻め落とし、九州を南朝の国とした。九州を平定したからには、次は京都に攻め込まなければならない。水軍の者たちは益々励んで、高麗だけでなく大陸まで出掛けて行った。兵糧は高麗でも手に入るが、軍資金になる宋銭(そうせん)は大陸まで行って、向こうの商人と交易をしなければならなかった。宋銭と交換するのは日本刀だった。元(げん)から明(みん)への交代期で、戦乱の絶えない大陸でも、日本刀は需要の高い商品だった。
 南朝の天下は十年余り続いた。このまま放ってはおけないと、幕府は九州探題(たんだい)に今川了俊(りょうしゅん)を任命した。それ以前も幕府は二人の九州探題を送り込んだが、一人は上陸した後、敗れて逃げ帰り、一人は上陸すらできなかった。今川了俊は慎重だった。充分な作戦を練って九州に上陸すると、焦らずにじわりじわりと攻撃して、ついに太宰府を落城させた。征西将軍宮は高良山(こうらさん)に撤退して、太宰府の奪還を図るがかなわず、高良山も落とされて、菊池まで引き下がった。
 南朝の総大将だった菊池武光が亡くなり、さらに、征西将軍宮も亡くなってしまうと、南朝の水軍は自然消滅してしまう。今川了俊にうまく丸め込まれて、北朝に寝返る者も多くなった。しかし、海に出ればそんな事は関係なく、南朝の水軍だった頃のように、船団を組んで高麗や明国へと稼ぎに出かけて行った。去年はおとなしくしていたが、一昨年は百五十隻の船団を組んで、高麗を襲撃していた。勿論、サンルーザもサイムンタルーも志佐壱岐守も、その船団に加わっている。残念ながら、その時は高麗軍にやられて、何隻もの船が沈没してしまい、負け戦になっていた。
 高麗や明国を襲撃する海賊を『倭寇(わこう)』と呼んでいるが、高麗や明国の政府が言い始めた言葉で、倭寇自身が自分たちの事を『倭寇』と呼んではいない。『倭』は日本人の事で、『寇』は侵略する者を意味している。実際には日本人だけでなく、高麗や明国の海民たちも混ざっている。政府に虐(しいた)げられていた海民たちは、『倭寇』に共感して仲間に加わっていた。
 『倭寇』の始まりは、文永十一年(一二七四年)と弘安四年(一二八一年)の二度にわたる『元寇(げんこう)』に対する復讐だった。
 文永十一年の十月、九百艘、三万人余りの元と高麗の混成軍は、まず対馬に上陸した。たったの八十騎しかいない守備兵は簡単に倒され、逃げる島民は手当たり次第に殺された。家々は焼き払われ、捕まって捕虜となった者も多かった。
 次に壱岐島に上陸して、百騎ばかりの守備兵を倒し、島民を殺し回った。山の多い対馬では、山中に逃げて生き延びた人も多かったが、山の少ない壱岐では、ほとんどの人が見つけられて殺された。
 次に上陸したのは、肥前(ひぜん)の松浦(まつら)地方だった。松浦地方も守備兵は簡単に倒され、逃げ惑う人々は殺された。そして、船団は博多へと向かった。
 博多には一万人近くの守備兵が待ち構えていた。上陸した混成軍は火薬を使用した火器で攻め寄せた。火薬を知らない日本兵は驚いてひるむが、勇敢に立ち向かって行った。しかし、数には勝てず、博多は敵に占領されてしまう。ところが翌日になると、敵の船はどこにも見当たらなかった。どういう理由かわからないが敵は引き上げて行った。
 七年後の弘安四年の五月、二度目の『元寇』が起こった。四千四百艘、十四万人余りの大軍だった。前回の元と高麗の混成軍に、元に滅ぼされた南宋(なんそう)の兵十万人が加わっていた。混成軍は高麗の合浦(がっぽ)(馬山(マサン)市)から出撃して、南宋軍は江南の慶元(けいげん)(寧波(ニンポー)市)から出撃した。
 混成軍は以前と同じように対馬を攻め、壱岐を攻めて博多に向かった。南宋軍は総司令官の交代があって出撃が遅れ、六月の半ば過ぎにようやく出撃した。その頃、混成軍は日本軍と戦って、かなり痛い目に遭っていた。前回と違って、博多には二十キロにも及ぶ城壁が作られ、上陸する事ができず、志賀島(しかのしま)に上陸したが、日本兵の夜襲に悩まされた。さらに、疫病(えきびょう)のために三千人が亡くなった。混成軍はいたたまれずに壱岐島まで撤退した。
 六月の末に南宋軍が平戸島(ひらどしま)に到着して、松浦地方を囲むように三千五百艘の船が停泊した。南宋軍は一月近くもそこに停泊したままで、一部の兵が平戸島鷹島に上陸して、陣地を構築していた。
 七月下旬になって、壱岐島にいた混成軍が南宋軍と合流した。日本兵は小舟に乗って絶えず夜襲を繰り返していたが、余りにも多すぎる敵船を追い散らす事は不可能だった。ところが、七月三十日の夜から強風が吹き始め、翌日の閏(うるう)七月一日には大暴風となり、二日の朝になると、海を埋め尽くしていた船はどこにもなく、船の残骸が波に漂い、海辺には敵兵の死体が山のように打ち上げられていた。
 二度の『元寇』によって対馬壱岐、松浦地方は壊滅的な打撃を受けた。ほとんどの住民が殺され、家は焼かれ、田畑は荒らされ、再起不能の状態だった。元寇の先鋒になって、無抵抗な人々を殺したのは、高麗の兵だった。生き残った者たちは復讐の鬼となり、小舟に乗って高麗まで行った。生きて行くために食糧を奪い、失われた労働力を取り戻すために高麗人をさらって来た。その頃は各浦々で出掛けて行ったので、規模も小さく十艘程度で、沿岸の村々を襲撃していた。
 何度も高麗に行っているうちに、貧しい漁村を襲うよりも、税として各地から集められた穀物の倉庫がある港を襲撃した方がいいとわかってきた。役人が守っている倉庫を襲うとなると、それなりの計画も立てなければならず、兵力も増やさなければならない。同じ島の者たちが団結して大きな獲物を狙うようになり、武装した船団を組んで出掛けるようになった。
 そんな頃、征西将軍宮が薩摩(さつま)の国から船で北上して、肥後(ひご)の国の菊池に入った。菊池武光の隈府城(わいふじょう)に征西府を開いた征西将軍宮は、水軍の者たちを味方に募った。復讐のためだけでなく、南朝のためにという大義名分もでき、今まで反目して競い合っていた島々の水軍は一つにまとまった。
 征西将軍宮が菊池に入った正平三年(一三四八年)頃から高麗への襲撃は激しさを増し、『倭寇』と呼ばれて恐れられるようになる。一三五〇年に百艘、一三五一年に百三十艘、一三五五年に二百三十艘、一三六三年に二百十三艘、一三六四年に二百艘、一三七一年に三百五十艘、一三七二年に二百艘、一三七四年に三百五十艘、一三七七年に二百艘の倭寇が高麗や元を襲撃している。元の国は一三六八年に朱元璋(しゅげんしょう)(洪武帝)によって滅ぼされて、明の国となるが、元が滅んだのは倭寇による襲撃もかなり影響している。さらに、朱元璋に滅ぼされた張士誠(ちょうしせい)、陳友諒(ちんゆうりょう)、方国珍(ほうこくちん)の残党が倭寇に加わって、規模は拡大して行った。
 倭寇に悩まされていた高麗は、一三七七年に火薬の製造に成功した。中国では唐の時代に火薬を発明していたが、製造法は門外不出で国外に出る事はなかった。高麗の崔茂宣(チェムソン)という者が、明人から秘法を伝授されて、さらに研究を重ねて成功したという。崔茂宣は火砲(かほう)を発明して、一三八〇年には船上で使える火砲も開発した。崔茂宣が作った火砲を搭載した軍船が百隻作られ、倭寇を撲滅するための水軍が新設された。
 一三八〇年八月、五百艘の倭寇が高麗の鎮浦(チンポ)を襲撃したが、崔茂宣の火砲にやられて、船はすべて焼け沈んでいる。その後も、火砲にやられた倭寇の船はかなりの数に上り、倭寇たちを怯えさせていた。
 そんな事は勿論、サハチは知らない。それでも、あちこち崩れてはいるが、海岸沿いにずっと続いている城壁を見ると、百年前に、ここで大戦が行なわれたという事が充分に感じられた。博多の港には多くの船が泊まっていた。ヤマトゥの船ばかりで、明国の船はないようだった。
 サハチたちの船が港に入ると、武装したサムレーが乗った船が近づいて来た。志佐壱岐守が何かを見せると、サムレーは船の中を見渡してうなづいた。壱岐守は決められた銭を払ったようだった。手続きが終わると、その船は去って行った。博多に入るには何か証明書みたいな物が必要で、サンルーザはそれを持っていないので、博多に入れないようだった。
 船から降りて、祖父も父も来たという博多に足を踏み入れ、サハチはヤマトゥにやって来たという事を実感していた。
 博多の町は噂通りに賑やかだった。行き交う人々の顔も明るく、どこかで戦が行なわれているとは思えず、平和な町という感じだった。大きなお寺の前では市が開かれて大勢の人が集まっていた。サムレーの屋敷らしい所の門前には、武装したサムレーが怖い顔して立っていた。まだ物騒なのか、高い塀に囲まれた家が多く、大きな屋敷の屋根には見た事もない瓦(かわら)というものが一面に載っていた。サハチはキョロキョロしながら歩いていて、何度もヒューガに早く来いと注意された。
 サハチたちは大通りに面して建つ『一文字屋』の屋敷に行き、お世話になる事になった。坊津(ぼうのつ)の『一文字屋』よりも大きく、門の左右に鎧(よろい)を付けたサムレーが二人立っていた。
 志佐壱岐守は近くにある『長州屋』という商人の屋敷にいると言って帰って行った。
 博多の『一文字屋』は坊津にある『一文字屋』の本店で、坊津にいる一文字屋の倅、孫次郎が主人だった。北朝の大軍が攻めて来る前、一文字屋は焼かれる事を恐れて、坊津に引っ越した。財産はすべて坊津に移したが、屋敷は処分せずに信頼できる番頭、吉五郎(きちごろう)に任せた。一文字屋としても、できれば博多の拠点は失いたくはなかった。幸い、北朝軍は博多に攻めて来なかった。やがて太宰府が陥落して、征西府は菊池に去って行った。
 博多は北朝支配下になり、南朝と取り引きしていた商人が何人か、北朝の武士に捕まって屋敷は没収された。吉五郎も捕まる前に逃げだそうと準備をしていたが、捕まる事はなく、逆に取り引きの話が舞い込んで来た。今川了俊に従って安芸(あき)の国から来た武将で、武器が欲しいという。国元に頼んでいるがなかなか手に入らない。勿論、博多にも武器を扱う商人はいるが、大内氏の息のかかった商人ばかりで、やはり、手に入らないと言う。大内氏豊前(ぶぜん)、長門(ながと)、周防(すおう)、石見(いわみ)と四か国の守護職(しゅごしき)を持った有力な武将で、了俊に協力して南朝を追い込んでいた。大勢の兵を率いているので、彼らの武器を調達するのが精一杯で、他国の武将に回す余裕はないようだった。
 吉五郎は引き受けた。坊津にいる一文字屋と相談して、備前(びぜん)の国から武器を仕入れて安芸の武将の要望に応えた。それが縁で、北朝の武将たちとの取り引きが始まり、博多の店も軌道に乗って来た。十年前に孫次郎が坊津からやって来て、主人に納まっていた。
 サイムンタルーは孫次郎と取り引きの話をまとめて、壱岐島にある琉球からの商品を一文字屋の船で運び入れる事にしたらしい。一文字屋の船はそれほど大きくないので、二回か三回は往復しなければならない。取り引きが終わるまで、博多見物でもして過ごしてくれと言われた。
 サハチはヒューガを連れて、毎日、博多を散策した。梅雨時で雨の降る日が多かったが、雨が小降りになるとヒューガを誘って町へと飛び出した。
 博多の町は思っていた以上に大きかった。これがヤマトゥの都かとサハチは感激していた。町中には大きなお寺があちこちにあった。お寺には髪を剃ったお坊さんだけでなく、武器を持った僧兵や、山伏たちも大勢いた。お寺の建物も大きくて圧倒された。どうやって、こんな大きな建物を建てる事ができるのかサハチには理解できなかった。
 ある日、戦地に出陣して行く武将の隊列に出会った。弓を持った兵、槍を持った兵、騎馬武者と続き、騎馬武者の中に、大将らしき武将が立派な鎧に身を固めて、威厳のある顔つきで正面を見ていた。騎馬隊のあとにまた歩兵が続き、最後に兵糧などを積んだ小荷駄隊が続いた。兵たちは皆、揃いの甲冑を身に付けていて、手にした武器も皆、立派だった。琉球の兵と比べたら格段の差があった。琉球の兵は鎧も武器もバラバラで、刀を持っている者より棒を持っている者の方が多い。総勢一千人はいると思われ、この兵を琉球に連れて行けば、島添大里グスクを落とすのも夢ではないように思えた。
「どこに行くのですか」と軍勢を見送った後、サハチはヒューガに聞いた。
「多分、肥後(ひご)の国(熊本県)か薩摩の国(鹿児島県西部)だろう。今、南朝の拠点は肥後の宇土城(うとじょう)らしい。そこに行くか、幕府に逆らっている薩摩の島津を攻めに行くか、どちらかだろう」
「今のは幕府の兵なのですね」
「まあ、そうだが、幕府の兵というのは、あちこちから集めた寄せ集めの兵だからな。今の兵がどこの兵だか、残念ながらわしにはわからん。旗印に家紋が描いてあったがよくわからん」
「家紋て何です?」
「目印のような物じゃ。武士たちはそれぞれが家紋を持っていて、戦の時、家紋を描いた旗を掲げて戦うんじゃよ。周りの者たちに誰が活躍しているというのがわかるようにな」
「師匠も家紋を持っているのですか」
「持っているとも。わしの家紋は三階菱(さんがいびし)だよ」
「三階菱?」
「あとで絵に描いてやる。琉球には家紋などないだろうが、戦をするのにはあった方がいい。お前も家紋を持った方がいいかもしれんな」
「あとで教えて下さい」
 ヒューガはうなづいた。
 華やかな博多の町も、よく見ると戦の陰は残っていた。町外れには、戦で家を失った者たちが、粗末な小屋を建てて暮らしていた。具合の悪そうな人も何人かいたが、どうする事もできなかった。負け戦で浪人となって腹を空かせている情けないサムレーもいた。ぼろぼろの着物をまとっているくせに、長い刀だけは腰に差していた。ヤマトゥでは長い刀が流行(はや)っているのか、サムレーたちは皆、長くて頑丈そうな刀を腰に帯びている。サハチはそれを見ながら、自分もあんな刀が欲しいと思っていた。
 壱岐島の荷物も運び終わって、孫次郎がささやかな宴(うたげ)を開いてくれた。
「本当は遊女屋に繰り出して、綺麗所を呼んでパアッと派手にやりたいところだが、まだ危険らしい。すまんな」とサイムンタルーは謝った。
「なに、もう少しの辛抱ですよ」と孫次郎は言った。
南朝の水軍だった松浦党(まつらとう)の者たちも何のとがめもなく、北朝に寝返っています。探題殿(今川了俊)は高麗の国に興味を持っておられます。しきりに被虜人(ひりょにん)(倭寇にさらわれて来た人)を高麗に返して歓心を買い、高麗から大蔵経(だいぞうきょう)を手に入れようとしている。高麗と取り引きするには、対馬の力を借りなければならない。早田殿も近いうちに博多に入れるようになるでしょう」
「そうなればいいのですが、対馬倭寇の巣窟(そうくつ)だと思っている輩(やから)が多いですからね。まあ、実際そうなんだが」と言ってサイムンタルーは苦笑した。
「博多の町はいかがです?」と孫次郎は話題を変えて、サハチに聞いた。
「毎日、驚く事ばかりです。来てよかったと心から思っております」
「それはよかった。今夜はヤマトゥの舞を存分に楽しんで下さい」
 そう言って孫次郎が手をたたくと、男装した女たちが登場して、音楽に合わせて舞を始めた。サハチはポカンとした顔で華麗に舞う美しい女たちを眺めていた。琉球でも太鼓に合わせて女たちが舞うが、こんなにも美しくはない。サハチは天女でも見ているような心地だった。
 その夜更けだった。
 サハチは異様な物音で目を覚ました。危険を感じて体を起こすと、ヒューガはすでに起きていて外の様子を窺っていた。
「盗賊が入ったようだ」とヒューガが小声で言った。
 サハチはうなづいて、刀を手に取ると腰に差した。
 様子を見に行こうと部屋から出ようとした時、武器を手にした盗賊が三人入って来た。
「刀を捨てろ」と盗賊は言ったが、その盗賊は目にも止まらない速さで、ヒューガによって斬られた。
 残った二人は逆上して、ヒューガとサハチに迫ってきた。
 サハチは刀を抜いた。敵の刀が右側にひらめいたのを感じて、一歩踏み込むと敵の首を斬った。鎧に身を固めた敵を倒すには首を斬るか足を斬るしかなかった。
 ヒューガは何なく二人目を倒すと、「行くぞ!」とサハチに言った。
 サハチはうなづいて、ヒューガのあとに従った。
 それからあとは、もう無我夢中で戦い続けた。次から次へと襲って来る敵の刀をよけながら、敵の首を斬っていた。
「おい、大丈夫か」とサイムンタルーに声を掛けられて、サハチは我に返った。
 いつの間にか庭に出ていて、足下に三人の盗賊が倒れていた。
 血だらけの刀を持ったサイムンタルーが屋敷の方からサハチを見ていた。
「師匠は?」とサハチは聞いた。
 サイムンタルーは首を振った。
 月明かりを頼りに、土蔵の方に行ってみるとヒューガはいた。
 サハチの顔を見ると、「おう、無事だったか」と安心したようにうなづいた。
 土蔵の前に二人の盗賊が倒れていた。
 ヒューガと一緒に屋敷に戻ると灯りが付いていて、怪我をした警固兵の周りに、孫次郎とサイムンタルーと二人の警固兵がいた。
 灯りに照らされた屋敷の中は血だらけで、四人の盗賊が倒れていた。
「皆さん、無事でしたか」と孫次郎が言った。
「怪我人は一人だけですか」とヒューガが聞いた。
「そのようです。皆さんがいて、ほんとに助かりました」
 孫次郎の妻や子供も無事だった。使用人たちも無事で、亡くなったのは夜警をしていた二人だけだった。二人とも弓矢でやられ、その後、戦ったようだが、敵の数に負けてしまったらしい。
 あちこちに倒れている盗賊の数を数えたら十四人もいた。ほとんどの者が首を斬られていた。
「とんだ初陣(ういじん)だったな」とヒューガがサハチを見て笑った。
「初陣ですか」と言って、サハチは血だらけの手を見た。
 着物も返り血を浴びて血だらけだった。確かに、初めて人を斬ったのだから初陣かもしれなかった。
「お前に、もしもの事があったらどうしようと、わしは心配だったぞ。しかし、見事だった。薄暗い中で、よくやった。実戦を経験すると剣術は一段と上達する。ただし、自惚(うぬぼ)れてはいけない。上には上があるという事を決して忘れるな」
「はい」とサハチはうなづいた。