長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部はその後の尚巴志の活躍です。お楽しみください。

2-16.真武神の奇跡(第二稿)

 富楽院(フーレユェン)の『桃香楼(タオシャンロウ)』で、ヂュヤンジン(朱洋敬)とリィェンファ(蓮華)の婚約のお祝いだとサハチたちは一晩中騒いでいた。
 前回に一緒だった可愛い三人の妓女(ジーニュ)、リーファ(梨華)、ランファ(蘭華)、ジュファ(菊華)に、チュンファ(椿華)、インファ(桜華)、メイファ(梅華)と三人の美女も加わり、さらに別の妓楼からも二人のお祝いにやって来た妓女も加わった。天女のような美女たちに囲まれ、まるで、ニライカナイ(理想郷)にでも来たようだとサハチとウニタキは夢の続きに酔っていた。
 ヂュヤンジンの屋敷に帰って来たのは夜が明けた頃で、ヂュヤンジンは着替えるとすぐに出仕して行った。ようやく念願がかなったので、不眠の疲れなど感じないのだろう。幸せそうな顔をして出掛けて行った。
 サハチとウニタキは家婢(ジャビー)が入れてくれた熱いお茶を飲みながら、ファイチが永楽帝と話した事を聞いた。
「今思えば、あの大戦(うふいくさ)に勝って、皇帝になれたのは奇跡のようだと永楽帝は言っていました」
「官軍を相手に戦ったんだから大変だっただろう」とウニタキが言うと、ファイチはうなづいた。
「六十万の官軍に対して、永楽帝は八百の兵しかいなかったそうです」
「六十万!」とサハチとウニタキは同時に叫んだ。
 六十万の兵なんて想像する事さえできなかった。サハチたちが中山王を倒した時の兵力は一千人余りだった。一千人の兵たちに感激していたサハチにとって、六十万という数字は見当さえつかない。琉球にいる人たち全員を集めても六十万にはならないだろう。六十万の兵が展開する戦とはどんなものなのか、サハチたちにはまったくわからなかった。
 しばらく、ぽかんとした顔でファイチを見つめていた二人だったが、「八百の兵で六十万の兵を倒したのか」とウニタキが聞いた。
「八百の兵で北平(ベイピン)(北京)の周辺を攻略していって、兵を集めたようです」
永楽帝は蒙古(もうこ)(北に追いやられた元(げん))と戦っていたんだろう。八百の兵しかいなかったのか」とサハチは聞いた。
永楽帝が蒙古と戦っていた時の兵のほとんどは応天府から派遣された援軍です。それらの援軍は建文帝によって応天府に戻され、直属の兵は八百しかいなかったようです。さらに、皇帝に叛旗(はんき)をひるがえした永楽帝は賊軍(ぞくぐん)にされてしまい、南から運ばれて来る食糧も止められてしまったそうです」
「兵もなし、食糧もなしで、よくも六十万を相手に勝てたものだ。まさしく、奇跡としか言いようがないな」とウニタキがうなった。
「お世辞かもしれませんが、わたしの父から教わった兵法(ひょうほう)が役に立ったと言っていました。燕王(イェンワン)となって、北に行く永楽帝に、あなたは真武神(ジェンウーシェン)の生まれ変わりだと言ったのもわたしの父なのです。真武神は北を守る武神で、永楽帝はその言葉を信じて戦い続けたそうです。時には大軍に敗れて、死にそうな目にも遭ったそうです。頼りにしていた武将も戦死してしまい、くじけそうな事もありましたが、それを乗り越えられたのも、自分は真武神だ。絶対に負けるはずはないと自分に言い聞かせて、苦難を乗り越えて来たそうです」
 燕王だった永楽帝が挙兵を決意したのは洪武帝が亡くなった翌年(建文元年、一三九九年)の七月の事だった。
 燕王は洪武帝の四男で、洪武帝が亡くなる以前に三人の兄は亡くなっていた。皆、四十歳前後で病死している。
 建文帝が即位して二か月後、燕王のすぐ下の弟、周王(ジョウワン)が謀叛(むほん)の疑いありとして、身分を剥奪され雲南(ユンナン)に流刑となった。翌年の正月、洪武帝の十三男の代王(ダイワン)が謀叛の疑いありとして捕まり、応天府に監禁された。三月には七男の斉王(チーワン)も捕まって監禁された。五月には十二男の湘王(ジィァンワン)が謀叛を疑われて、赴任地の荊州(ジンジョウ)で宮殿に火を掛けて焼死を遂げている。六月には十八男の雲南王(ユンナンワン)が身分を剥奪されて漳州(ジャンジョウ)に流刑となった。そして、七月、燕王の我慢も限度を過ぎ、立ち上がったのだった。
 燕王はまず地盤を固めるために北平周辺を平定し、居庸関(ジュヨングァン)を占拠して背後の憂いを除き、攻めて来る大軍に対して守りを固めた。
 耿炳文(ゲンビンウェン)を総大将とした三十万の討伐軍が攻めて来たのは八月の半ばだった。万全の準備をして待ち構えていた燕王は、北平の南方百キロほどの雄県(ジィォンシェン)に陣を敷いていた敵に夜襲を仕掛け、見事に大軍を撃破した。二人の副将、李堅(リージェン)と寧忠(ニンジョン)を捕まえ、食糧も奪い取って北平に引き上げた。
 建文帝は三十万の大軍が負けるなんて夢にも思わず、叔父殺しの汚名を恐れて、燕王を生け捕りにするように命じている。ところが、信じられない事に負け戦となった。建文帝は総大将だった耿炳文を更迭(こうてつ)して、李景隆(リージンロン)を総大将に任命した。李景隆の父親、李文忠(リーウェンジョン)は名将として名高かったが、倅の李景隆は凡将だった。李景隆が官軍の総大将になった事は燕王にとって最大の幸運と言えた。
 十一月に李景隆は五十万の大軍を率いて北平を攻めるが燕王に敗れ、燕王は大量の武器と食糧を手に入れる。この時の戦いでは、燕王の正妻も鎧を身に付け、兵士たちの妻を指揮して戦ったという。
 燕王の正妻は建国の功労者、徐達(シュダー)の娘で、十五歳の時に十七歳の燕王に嫁いでいる。この時、燕王には三人の男子と五人の女子がいたが、末っ子の女子を除いて、他の子供たちは皆、正妻が産んでいた。
 年が明けて建文二年、建文帝は六十万の大軍を北上させ、四月に白溝河(バイゴウフェ)の戦いが起こる。この時、燕王は敵将の瞿能(チュノン)と一騎打ちをして、危うく命を落としそうになったが、燕王軍の名将である張玉(ヂャンユー)に救われた。瞿能は張玉に倒され、瞿能の死によって敵は総崩れとなって退却した。
 燕王は十月にも出撃して勝利したが、十二月の東昌(ドンチャン)の戦いでは大敗北を喫してしまう。敵将の盛庸(シェンヨン)の策にはまり、燕王は敵の大軍に包囲されて絶体絶命の危機にあった。それを打開したのは朱能(ヂュノン)の活躍だった。朱能は蒙古軍を率いて包囲網を突破して、燕王を救ったのだった。燕王は無事に脱出できたが、最も頼りにしていた張玉は戦死し、数多くの味方の兵を失ってしまった。ファイチの兄が戦死したのもこの時だった。
 この敗北には燕王もかなり参っていた。もう駄目かと諦めかけるが、朱能の励ましによって見事に立ち直る。朱能は燕王より十歳も年下だったが、張玉亡き後の燕王を支え、勝利に導いた武将だった。
 建文三年も燕王は大軍を相手に何度も戦った。それでも、決定的な勝利は得られなかった。いくら敵兵を倒しても、すぐに補充されて攻めて来る。敵の拠点を奪い取っても、すぐに奪い返される。その繰り返しだった。こんな事をやっていたのでは切りがない。燕王は敵の本拠地を一気に攻める作戦を立て、その年の十二月、全軍を率いて応天府を目指した。
 建文四年の正月、待ち構えていた敵軍を撃破して南下し、三月には宿州(スージョウ)(安徽省)で敵の大軍を追い散らした。四月には蒙城(モンチョン)(亳州市)で敵の大軍と激突して苦戦を強いられる。撤退を進言する者も多かったが、燕王はじっと堪(こら)えて反撃に出た。燕王の次男、朱高煦(ヂュガオシュ)の活躍によって勝利を納め、敵の兵糧を奪い取る事にも成功した。続いて、霊壁(リンビー)の戦いでも燕王は大勝利を納め、この勝利によって大勢(たいせい)は決した。状況を見守っていた各地の武将たちが、次々に燕王に寝返ったのだった。
 五月には揚州(ヤンジョウ)城(江蘇省)に入り、六月には迎え撃つ敵を破って長江(チャンジャン)(揚子江)を渡り、鎮江(ヂェンジャン)城に入る。揚州も鎮江も戦う事なく、城将は燕王に降伏して城を明け渡した。その頃、応天府では、場外に住む者たちを城内に入れて守りを固め、場外にある建物をすべて破壊していた。燕王軍が攻めて来ても寄るべきものをなくすためだった。
 六月十三日、燕王は応天府を攻撃した。北側にある金川門を守っていた李景隆は降伏して門を開いた。燕王軍は城内に突撃し、建文帝は宮殿に火を放って自害して果てた。
 ファイチの話を聞いたあと、「凄え戦だな」とウニタキが首を振りながらうなった。
「よくも無事に応天府まで攻めて来られたものだ。確かに、永楽帝は真武神の生まれ変わりに違いない」
「まさしくな」とサハチも同意した。
「初めて会った時、凄い威厳を感じたのは、凄い戦を勝ち抜いて来たからに違いない。皇帝というよりも百戦錬磨の武将という感じだった」
「わたしも戦の内容を聞いて、本当に驚きました」とファイチは言った。
「六十万もの大軍を相手に戦うなんて、並の者にはできる事ではありません。凄い人だと改めて感じました。永楽帝が北平(ベイピン)で叛旗をひるがえしたと聞いた時、永楽帝ならやりかねないと思いました。しかし、官軍相手に勝てるとは思ってもいませんでした。その時、兄の戦死も覚悟しました。そして、永楽帝の戦死も仕方ないと諦めました。征伐軍の総大将が耿炳文(ゲンビンウェン)に決まったと聞いて、永楽帝の生命(いのち)もあとわずかだと嘆きました。耿炳文は洪武帝と共に明を建国した名だたる名将なのです。六十を過ぎた老将ですが、永楽帝にとって手強い相手です。誰もが官軍の勝利を疑わず、今年中にはけりが付いて凱旋(がいせん)して来るだろうと思っていました。ところが、八月の末、官軍の敗戦の知らせが入って来ます。誰もが驚き、今にも永楽帝が攻めて来るのではないかと宮廷内は騒然となります。その騒ぎの中、両親は殺され、わたしにも身の危険が迫って来たのです。わたしは琉球に行き、琉球で、永楽帝が皇帝になった事を知ります。信じられませんでした。永楽帝が挙兵してから、すでに三年が経っていました。三年間も官軍を相手に戦っていたなんて、とても信じられませんでした。その長い戦いに勝利して皇帝になったなんて、奇跡としか思えませんでした」
永楽帝が皇帝になったと聞いて、どうして明に帰らなかったんだ」とウニタキが聞いた。
琉球が好きになったのです。宮廷という所は権力争いばかりしています。自分の権力を守るために派閥を作って、邪魔になる者を蹴落とす事ばかり考えているのです。そんな宮廷に戻るより、琉球を統一する方が自分の生き方に合っていると思ったのです。サハチさんやウニタキさんと出会えて、わたしの生き方は変わったのです」
「これからもよろしく頼むぜ」とウニタキはファイチの肩をたたいて笑った。
 ファイチはサハチとウニタキを見ながらうなづいた。
永楽帝は戦に勝って皇帝になれましたが、甥である建文帝を倒して皇帝になった代償は、思っていた以上に大きいと言っていました。役人たちもなかなか言う事を聞かず、都を応天府から北平に移すつもりなんだが反対する者が多すぎると言っていました。でも、わたしが贈った真武神の像を見て、若い頃の事を思い出したら勇気が湧いてきた。皆に反対されようとも必ず、都を北平に移すと言っていました」
「北平というのは応天府からどれくらい離れた所にあるんだ」とサハチは聞いた。
泉州から応天府までの距離より遠いと思います。ただ、あんな山道はないので、馬なら二十日もあれば行けると思います」
「二十日か‥‥‥遠いな」
「都が北平に移れば、進貢船(しんくんしん)の使者も北平まで行かなくてはなりません」
「そいつは大変だ。泉州よりもっと北の港に入れるように頼んだ方がいいな」
「そうですね。そこまでは気づきませんでした。それでも、永楽帝に頼んだ事が二つあります」
「なに、皇帝に何かを頼んだのか」とウニタキは驚いた。
 ファイチはうなづいた。
「一つは進貢船の下賜(かし)を頼みました。これから南蛮(東南アジア)やヤマトゥ、朝鮮(チョソン)と交易するためには二隻だけでは足りません。永楽帝にあと二隻をお願いしたんですが、今は無理なので、もう少し待ってくれと言われました。鄭和(ジェンフォ)の大航海のために新しい船を何隻も造り、それでも足らなくて衛所(ウェイスォ)の軍船も回したので、琉球に下賜する船はないようです。それに今、安南(アンナン)(ベトナム)で戦をやっているそうです。八十万の大軍を送っていて、その戦費も莫大なので、琉球のために新しい船を造る余裕はないそうです。安南の戦が終わったら何とかすると約束してくれました。それと、琉球が明国の欲しい物を用意するので、朝貢の回数を制限しないように頼みました。普通、朝貢は二年に一回とか、三年に一回とかに決められますが、琉球にはその制限はなしという事にしてくれました。琉球は察度や武寧の時も制限はありませんでした。多分、アランポーがうまい事やったのでしょう」
 進貢船の下賜の事はサハチもサングルミーに頼んでいた。ファイチが直接、永楽帝に頼んでくれたのはありがたかった。
 サハチはファイチにお礼を言って、「もう一つは?」と聞いた。
「二つめは冊封(さっぷー)の事です。冊封使を送る時期を少し延ばしてほしいと頼みました。冊封使たちが滞在する天使館を建て直さなければなりません。それに、冊封の儀式に按司たちを参加させるとなると首里按司たちの宿所も建てなければなりません。準備が整うまで待ってほしいと頼んだら、永楽帝は今回は冊封使の派遣はやめようと言いました。進貢船の下賜と同じ理由で、当分の間、新しい船は作れないから冊封のための船も作れない。今回は使者に詔書(しょうしょ)を渡すので、それで済ませてほしいと言われました」
「すると冊封使は来ないのか」とサハチは聞き返した。
「そういう事になります」
 サハチは少し考えてから、「それでいいんじゃないのか」と言った。
「親父は堅苦しい事は苦手だからな。まだ、都もできたばかりだし、冊封使たちに半年も滞在されたら、こっちも困る。親父もそれで納得すると思う」
「久米村(くみむら)も大変になるので、今回は遠慮しておきましょう」とファイチが笑うと、
「俺たちも忙しくなりそうだから遠慮するよ」とウニタキも手を振った。
 ファイチの話が終わると、急に眠くなってきた。三人はその場で横になって眠った。
 サハチが目を覚ますとウニタキが荷物をまとめていた。それを見て、三姉妹に会いに行くつもりだったのを思い出した。
 サハチも起きて荷物をまとめた。
杭州(ハンジョウ)に行く前に行くべき所ができました」とファイチが言った。
「えっ」とサハチとウニタキはファイチを見た。
 ファイチは体を起こして座り込むと、「今、永楽帝は一人の道士を探しています」と言った。
「有名な道士で、永楽帝の父の洪武帝も会いたがっていましたが会う事はできませんでした。永楽帝も何としてでも会いたいと探しているのです」
「もしかして、その道士を探しに行くというのか」とウニタキが聞いた。
 ファイチはうなづいた。
「その道士というのは、わたしの武術の師匠なのです。永楽帝から話を聞いて驚きました。まだ、生きていたとは思ってもいませんでした。生きているのなら会いたいと思ったのです」
「その道士と永楽帝を会わせるのか」とサハチは聞いた。
 ファイチは笑って、「それは無理でしょう」と言った。「あの人は権力者には会いたがりません。今、武当山(ウーダンシャン)にいるようです」
「なに、武当山? 武術の盛んな山だな」とウニタキの目つきが変わった。
「そうです。師匠に会えるかどうかわかりませんが、武当山へは行ってみるべきです」
 サハチも武当山には行ってみたいと思っていた。本場の明の武術を見てみたかった。
 次の日、サハチたちは武当山へと向かった。

 

 

 

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