長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-98.ジャワの船(改訂決定稿)

 十二月の末、ヤマトゥ(日本)に行った交易船が無事に帰国した。交易船はジャワ(インドネシア)の船を連れて来た。
 突然のジャワの船の来訪で、浮島(那覇)も首里(すい)も大忙しとなった。
 サハチ(中山王世子、島添大里按司)を始め、首里の者たちは『ジャワ』という国を知らなかった。久米村(くみむら)に行って、ファイチ(懐機)に聞くと、旧港(ジゥガン)の近くにある国らしいとわかったが、ファイチも詳しい事は知らなかった。
 ジャワの船に、ジャワの国の女王の娘が乗っていて、ササ(馬天若ヌル)たちと仲よくなっていた。サハチとファイチは、女王の娘をササたちと一緒にメイファン(美帆)の屋敷に呼んで、詳しい事情を聞いた。船に乗って来た者たちは『天使館』に案内して、久米村で用意した料理と明国(みんこく)の酒で持て成した。
 女王の娘の名前は『スヒター』といい、二十歳前後で、同じ年頃の娘、シャニーとラーマを連れていた。ヤマトゥ言葉はしゃべれないが、明国の言葉はしゃべれるので、シンシン(杏杏)を通訳としてササたちは会話をしていた。
 ササたちが京都に滞在していた九月、ジャワの使者たちが京都にやって来た。ササたちは高橋殿と一緒に、ジャワの使者たちの宿舎となっているお寺に行って、スヒターたちと出会った。スヒターと一緒にいるラーマは『サドゥク』と呼ばれる神人(かみんちゅ)で、ヌルのササたちと同類だった。しかも、三人とも『プンチャック』と呼ばれる武芸の達人で、同じ年頃だった事もあり、すぐに仲よくなった。ササたちはスヒターたちを連れて京都見物を楽しんだ。ササたちが先に京都を去ったが、博多で落ち合って、一緒に琉球まで来たのだった。
 ファイチはスヒターからジャワの国の事を聞いた。
 ジャワの国の正式名は『マジャパイト王国』といい、元(げん)の国の侵攻によって滅ぼされた『シンガサリ王国』の娘婿、ウィジャヤによって建国された。百年余り前の事だという。二代目のジャヤナガラ王の時、ジャワ島を統一して、三代目のラージャパトニ女王の時、宰相(さいしょう)のガジャ・マダの活躍によって、バリ島を支配下に置き、マラッカ海峡を支配していた『シュリーヴィジャヤ王国』を滅ぼして勢力を広げた。四代目のハヤムウルク王の時、『スンダ王国』を滅ぼして、今は四代目の娘のクスマワルダニが女王として国を治めている。跡継ぎだったスヒターの兄が亡くなると家督争いの内乱が始まった。五年も続いた内乱もようやく治まったので、兵力を強化するために、日本の刀を求めて、日本まで行って来たとスヒターは言った。
「旧港(パレンバン)の近くにあると聞いたが、どの辺なんだ?」とファイチが絵地図を広げて聞いた。
 スヒターは軽く笑って、
パレンバンマジャパイト王国の国内にある港です」と言って、パレンバンとマジャパイトの位置を示した。
 パレンバンスマトラ島の南の方にあり、マジャパイトはジャワ島の東にあって、スマトラ島もジャワ島も、ほとんどがマジャパイト王国だという。
パレンバンは、かつてはシュリーヴィジャヤ王国の首都でしたが、マジャパイト王国に滅ぼされました。滅ぼしたあとに放って置いたら、海賊たちの巣窟(そうくつ)になってしまいました。その後、明国から鄭和(ジェンフォ)が大船団を率いてやって来て、海賊の一人をあの港の代表と決めてしまったのです」
「成程。パレンバンマジャパイト王国の港だったのか。それで、パレンバンを放って置くのか」
「残念ながら、今のマジャパイト王国にはパレンバンを攻める力はありません。身内同士の争いが続いたせいで、今はジャワ島をまとめるのが精一杯です」
 ファイチはうなづいて、「マジャパイト王国も明国に朝貢(ちょうこう)しているのか」と聞いた。
「しています。鄭和がマジャパイトに来た時、内乱の最中でした。争いを止めようとした鄭和の兵が、二百人も戦死してしまいました。戦に勝利したわたしどもは明国に使者を送って謝罪しました。多額な罰金を請求されましたが、朝貢する事によって、罰金を減らしてもらう事ができたのです。その負い目もあって、明国からパレンバンには手を出すなと言われ、承諾するよりほかはありませんでした」
「ムラカ(マラッカ)という国も近くにあるのか」
「近いとは言えません。ここです」とスヒターは絵地図の位置を示した。
 ムラカはシャム(タイ)の国から細長く伸びた半島の先の方にあった。
「ジャワのスラバヤから船で二十日近く掛かります。スラバヤからパレンバンまで十日から十二日、パレンバンからムラカまでは七日か八日掛かります。ムラカはムラカ海峡の中程にあって、鄭和が大船団の中継基地にしたお陰で、栄えたのです」
「成程、鄭和のお陰で、新しい国になったのだな」
「そうです。パレンバンから逃げたシュリーヴィジャヤ王国の王子が、ムラカの国を造ったと言われています。場所がいいので、立ち寄る船も増えてきて、少しづつ栄えて行きましたが、シャムの国から金(きん)を上納しろと言われました。断れば、攻め滅ぼされてしまいます。仕方なく金を納めて、シャムの属国のような立場でしたが、鄭和が来たお陰で、シャムとの悪縁も切れたようです。明国の皇帝が、ムラカに手を出すなとシャムの王様に言ったのです。シャムも明国に朝貢していますので、皇帝には逆らえません」
「成程、そういう事情があったのか。ところで、明国の言葉が堪能だが、ジャワにも明国の者たちが住んでいるのか」
「広州や泉州から来た商人がトゥバン、グレシック、スラバヤの港には大勢、住んでおります。今回、使者として来た者も広州の人です」
「日本に行ったのは今回が初めてなのか」
「いいえ」とスヒターは首を振って目を閉じた。
 しばらくして目を開けると、
「五年前にも参りました」と言った。
「しかし、帰って来る事はありませんでした。日本で聞いたら、ジャワから使者が来たのは初めてだという事なので、日本に着く前にどこかで遭難してしまったようです」
「そうでしたか‥‥‥」
「日本は遠いです」と言ってスヒターは軽く笑った。
「日本の刀でしたら、日本まで行かなくても、琉球に来れば手に入りますよ」とファイチは言った。
「本当ですか」とスヒターは目を輝かせた。
 ファイチはサハチに説明した。
「不要緊(ブーヤオジン)(大丈夫)」と言って、サハチはうなづいた。
 マチルギが顔を出した。
「終わったのか」とサハチはマチルギに聞いた。
「何とか終わったわ」とマチルギは笑った。
 マチルギは女子(いなぐ)サムレーたちを連れて、久米村から天使館に料理を運ぶのを手伝っていたのだった。
 サハチは席を立った。『会同館(かいどうかん)』での帰国祝いの宴(うたげ)に参加しなければならなかった。ササが誘うとスヒターたちも付いて来る事になり、ファイチにジャワの使者たちの応対を頼んで、あとの者は首里へと向かった。
 会同館では宴が始まっていた。サハチはジャワの事を思紹(ししょう)(中山王)に報告してから宴に加わった。
 ヂャンサンフォン(張三豊)と運玉森(うんたまむい)ヌル(先代サスカサ)、慈恩禅師(じおんぜんじ)と越来(ぐいく)ヌル、ヒューガ(日向大親)と馬天(ばてぃん)ヌルも来ていた。修理亮(しゅりのすけ)と浦添(うらしい)ヌルもいた。ンマムイ(兼グスク按司)もヤタルー師匠(阿蘇弥太郎)と一緒に来ていた。
 サハチは責任者を務めたヤグルー(平田大親)、正使を務めたジクー(慈空)禅師、副使を務めたクルシ(黒瀬大親)、サムレー大将の宜野湾親方(ぎぬわんうやかた)にお礼を言って、旅の話を聞いた。
 旅は順調に行き、京都での行列も評判がよかったという。三弦(サンシェン)が欲しいという者が大勢現れて、来年は三弦を持って行かなければならないとヤグルーは言った。
「そうか」とサハチは満足そうにうなづいた。
 そんな事もあるかもしれないと思って、明国に行った使者たちに三弦を買って来いと頼んであった。
「朝鮮(チョソン)に行かなくてもいいので、京都でもゆっくりできました。ササたちは将軍様足利義持)の奥方様と一緒に熊野まで行って来ています」
「そうか。奥方様と一緒にか」
 サハチは将軍様の奥方様に会った事はないが、ササと奥方様の仲がよければ、琉球とヤマトゥとの交易もうまく行くに違いない。来年もササがヤマトゥに行ってくれる事を願った。
将軍様は明国の使者を追い返したようです」とヤグルーが言った。
「明国の使者が来ていたのか」とサハチは聞いた。
「俺たちが兵庫に着いた時、明国の船がいて、上陸許可を待っていたんだけど、結局、許可は下りずに追い返されたらしい。詳しい事はわからないけど、どうも冊封使(さっぷーし)だったんじゃないかと思います」
「なに、冊封使を追い返したのか‥‥‥琉球が来るから明国にはもう用はないというわけだな。琉球にとっては好都合だが、永楽帝(えいらくてい)が怒らなければいいがな」
「明国がヤマトゥを攻めるとでも?」
 サハチは首を振った。
「そうならん事を祈るしかない。対馬(つしま)はどうだった?」
「男たちが朝鮮から帰って来て、賑やかでした。活気に満ちていましたよ」
「サイムンタルー(早田左衛門太郎)殿は戦(いくさ)をしているのか」
 ヤグルーは首を振った。
「戦をしなくても、浅海湾(あそうわん)内の者たちは皆、サイムンタルー殿に従ったようです。朝鮮で宣略(せんりゃく)将軍という地位にいましたからね。俺も久し振りに会いましたが、凄い貫禄でした。対馬の者たちは皆、従うんじゃないですか」
「そうなればいいが、守護の宗讃岐守(そうさぬきのかみ)がいるからな、難しいだろう。守護に刃向かえば、将軍様を敵に回す事になる。そう言えば、お前、船越の後家と仲よくなったんじゃなかったのか」
「えっ、どうして知っているのです?」
「船越で噂になっていたぞ」
「よしてくださいよ。兄貴じゃあるまいし、俺の事なんて噂になんかなりませんよ。そんな事より、浅海湾内が一段落したので、サイムンタルー殿が久し振りに琉球に行くと言っていましたよ」
「なに、サイムンタルー殿が来られるのか」
「サイムンタルー殿だけでなく、イトさんもユキさんとミナミちゃんを連れて琉球に行くと行っていました」
「なに、イトが来るのか。ユキとミナミもか。そいつは楽しみだ」
「大丈夫なんですか。奥方様(うなじゃら)が怒るんじゃないですか」
「マチルギはイトと仲良しになったんだよ。マチルギも喜ぶだろう」
「そうなんですか」とヤグルーは首を傾げた。
 サハチはさっそく、イトたちが来る事をマチルギに知らせに行った。
 マチルギはサスカサ(島添大里ヌル)から旅の話を聞いていた。遊女(じゅり)のマユミも一緒にいた。ササは馬天ヌルとヒューガ、佐敷ヌルに旅の話をしていて、シンシンがササの話をスヒターたちに訳していた。
 マユミが席を空けてくれたので、サハチはマチルギとマユミの間に座り込んで、サスカサの話を聞いた。
「ミチ(サスカサ)が熊野で舜天(しゅんてぃん)(初代浦添按司)のお父さんとお話したんですって」とマチルギが興奮した顔付きで言った。
「なに、ササじゃなくて、お前が話をしたのか」とサハチも驚いて、サスカサを見た。
「舜天のお母さんがこのガーラダマ(勾玉)を持っていて、舜天のお父さんはその事を覚えていたのよ。あたしが舜天のお母さんに似ているって言っていたわ」
「そうか。舜天のお母さんもサスカサだったんだな」
 サスカサはうなづいて、話を続けた。
 サハチもマチルギもマユミも、真剣にサスカサの話を聞いていた。舜天の父親は平家を滅ぼした源氏の大将だった。戦死してしまったが、凄い人だったんだなとサハチは感心した。でも、こんなにも早くわかるなんて思ってもいなかった。神様から頼まれた課題が解決してしまって、来年はもうヤマトゥには行かないとササが言い出さなければいいがとサハチは心配した。
「熊野から帰って来て、あたしたち舜天のお父さんの事を調べ直したんだけど、舜天のお父さんのお兄さんで、鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)っていう人がいる事がわかったの」とサスカサは言った。
「その人、とても面白いのよ。弓矢の名人で、背丈が七尺(約二メートル)もある大男で、手の付けられない暴れん坊で、十三歳の時に父親から勘当されて九州に追放されるの。でも、九州に行っても大暴れして、十六歳の時には九州を平定して、自分で鎮西八郎って名乗るのよ。八郎が暴れるので、お父さんは責任を取って、御所の警護のお仕事を辞めさせられてしまうわ。八郎は京都に行って謝るんだけど、その翌年、京都で大戦(うふいくさ)が始まるの。八郎はその戦で大活躍するんだけど、負けてしまって、伊豆の大島っていう所に流されてしまうの。でも、島流しにあってもおとなしくしていないで、周辺の島々を平定して、王様気取りの生活をしていたんだけど、とうとう大軍に攻められて、自害して果てたらしいわ。叔母(佐敷ヌル)さんがお芝居にしたら、きっと面白いだろうと思うわ」
「ほう、そんな凄い兄貴がいたのか。確かに面白いお芝居になりそうだな。ササから色々と聞いているが、お前から見て、将軍様の奥方様はどんな人なんだ?」
「ササ姉(ねえ)とはとても仲良しよ。ササ姉が来るのを首を長くして待っていたって言っていたわ。心を許せるお友達っていう感じね。将軍様の奥方様だから回りの人たちは気を使って、対等に付き合える人は一人もいないわ。ササ姉だけは対等に付き合える相手なんじゃないかしら。高橋殿から聞いたけど、ササ姉に会ってから奥方様は変わったって言っていたわ。今までは回りから言われた通りにやっていたけど、今では何でも自分で決めて行動するようになったって。話は変わるけど、高橋殿は凄いお酒飲みなのよ。熊野に行く旅の間、毎日、お酒を飲んでいて、ササ姉も参っていたわ。お陰で、あたしもお酒が強くなったのよ」
「なに、お前もお酒を飲むようになったのか」
「最初はひどい目に遭ったわ。でも、お酒のおいしさがわかって、今では好きになったのよ」
「参ったなあ。俺も高橋殿と一緒にお酒を飲んで酔い潰れたんだよ。高橋殿は底なしだよ。いくら飲んでも酔っ払わない。お前もササも呑兵衛(のんべえ)になったとはなあ。ヤマトゥ旅に出すんじゃなかったな」
「楽しかったわ。また行きたいわ」
「来年は佐敷ヌルが行くって張り切っているよ。お前は留守番だ」
「高橋殿って面白そうな人ね。あたしも会ってみたいわ」とマチルギが言った。
「きっと、お母さんと気が合うわよ」とサスカサは笑った。
「でも、お母さんも酔い潰されるわ」
 次の日、サハチは首里グスクの北の御殿(にしぬうどぅん)で、来年に送る進貢船(しんくんしん)の事で頭を悩ましていた。今、琉球にいるのはヤマトゥから帰って来た船だけで、二隻は明国に行っていた。今年、四回も送ったのはいいが、来年の正月に送る船がなかった。ヤマトゥから帰って来た船は毎年、ヤマトゥに行っているので航海に慣れている。ほかの二隻はヤマトゥに行った事はない。できれば来年もその船をヤマトゥに送りたかった。九月に明国に行った船が、正月のうちに帰ってくれればいいと願った。琉球の船だけだったら多少遅れても構わないが、ジャワの船を連れて行かなければならない。夏になってしまえば、ジャワまで帰れなくなってしまう。遅くても二月中には船出しなければならなかった。
 突然、奥間(うくま)のサタルーが顔を出した。
「お前、どうしたんだ?」とサハチは驚いた。
「国頭按司(くんじゃんあじ)の材木を運んで来ました」とサタルーは言った。
「お前が運んで来たのか」
「国頭按司が困っていたんで、運んでやったんですよ」
「何を困っていたんだ?」
「材木を運ぶのはいいけど、夏まで帰って来られない。人出にそんな余裕はないと言うのでね」
「お前の所は大丈夫なのか」
「何とかなりますよ。俺は陸路で帰ります。船乗りたちは木地屋(きじやー)の店を手伝ってもらいます。浦添と与那原(ゆなばる)に新しい店を出したので、人出が足らないんですよ」
「そうか。お前も色々とやっているようだな。マチルギには会ったか」
「ええ、会いました。赤ん坊がいたので驚きましたよ」
「お前の弟だ」
「名前を聞いて笑ってしまいましたよ」
 サハチは怪訝(けげん)な顔をしてサタルーを見た。
「だって、『剣(ちるぎ)』の子が『太刀(たち)』だなんて、できすぎですよ」
「そうか。言われてみればそうだな。気がつかなかったよ」
 サハチがサタルーを連れて島添大里(しましいうふざとぅ)に帰ろうとしたら、勝連(かちりん)から朝鮮に行った新川大親(あらかーうふや)と南風原大親(ふぇーばるうふや)、通事(つうじ)のチョルとカンスケたちが首里に帰って来た。
 サタルーはサグルーに会って来ると言って、一人で島添大里に向かった。サハチは新川大親から報告を聞いて、その夜、思紹と一緒に遊女屋(じゅりぬやー)『宇久真(うくま)』で帰国祝いの宴を行ない、旅の話を聞いた。
 船は進貢船ではなかったが、対馬守護の宗讃岐守が一緒だったので、何の問題もなく富山浦(プサンポ)(釜山)に上陸できた。漢城府(ハンソンブ)(ソウル)に行く許可もすんなりと下りて、漢城府ではかなり待たされたが王様にも会えた。お経と仏像、大量の綿布(めんぷ)を積んで来たという。
「世子(せいし)のヤンニョンデグン(譲寧大君)殿が尋ねて参りまして、一緒に妓楼(ぎろう)に行きました。十八の若者ですが遊び慣れていて、琉球の事を色々と聞かれましたよ」と新川大親が言った。
「世子はまだ十八なのか」
 サハチは二年前、漢城府の『津島屋』で会った朝鮮王とその娘を思い出した。世子というのは、あの娘の弟なのだろう。
「噂ではヤンニョンデグン殿の素行(そこう)の悪さは有名で、王様は次男のヒョリョンテグン(孝寧大君)殿を可愛がっているので、そのうち世子が交替するだろうと言っておりました」
「王様の息子はその二人だけなのか」
「いえ、十数人いるようです。王様は正妻のほかに二十人近くの側室を持っているそうですから、子供の数も相当なものになるでしょう」
「どこの王様も大勢の側室を持っているようだな」とサハチが言うと、
「どこの国も同じじゃ」と思紹が言った。
「王様に自分の娘を献上して、その娘が王様の子を産めば、自分の地位が上がるからな。琉球は今の所、娘を利用して偉くなろうと思う奴はいない。しかし、やがて、そんな輩(やから)が現れて来るだろう。そんな奴を近づけてはならんぞ」
 思紹はサハチに注意した。
「ええ、気を付けます」とサハチは答えた。
 次の日、島添大里に帰ったサハチはグスクに行く前に、城下のソウゲン寺(でぃら)を訪ねた。今は『ジウン寺』と呼ばれていた。宗玄禅師が首里大聖寺(だいしょうじ)に移ったあと、慈恩禅師が越来ヌルと一緒に暮らして、午前中は子供たちに読み書きを教え、午後は島添大里のサムレーたちを鍛えていた。サハチはクルシに頼んでいたのだったが、慈恩禅師がやってくれるというので、慈恩禅師に任せて、クルシには事情を説明した。クルシはヂャンサンフォンから教わった呼吸法のお陰で若返ったような気がして、陸に上がるのは早い。まだまだ海に出ると言って笑った。
 慈恩禅師は武術道場から帰っていなかった。洗濯物を取り入れていた越来ヌルが、サハチを見ると驚いて迎えに来た。
按司様(あじぬめー)、どうなさったのです?」
「忙しくて、お礼もできなかったので、改めてお礼を言いに来たのですよ」
「わざわざありがとうございます。慈恩様もまもなく帰って参るでしょう。ゆっくりしていって下さい」
 サハチは縁側に腰を下ろした。越来ヌルがお茶を持って来た。
琉球のお茶はおいしいと慈恩様が申しておりました」
「いただきます」と言って、サハチはお茶を御馳走になった。
「わたしがここにいるのはおかしいと思っていらっしゃるのでしょう?」と越来ヌルは言った。
「いいえ。あなたのお陰で、慈恩殿が琉球に落ち着いてくれればいいと思っています」
 越来ヌルは軽く笑って、「自分でも、どうしてここにいるのかわからないのです。成り行きで、こうなってしまいました」と言った。
「慈恩殿と初めて会ったのは、慈恩殿が琉球を旅した時ですか」とサハチは聞いた。
「そうです。イハチさんとチューマチさんが連れて参りました。越来按司様と武芸の話で盛り上がって、三日、滞在なさいました。その時、わたし、慈恩様に失礼な事を言ってしまいました」
 サハチは越来ヌルを見たが何も言わなかった。越来ヌルは軽く笑って、話を続けた。
「わたし、ヤマトゥのお坊さんの事をよく知りませんので、奥さんの事とかお子さんの事とか聞いたのです。お坊さんには奥さんはいないし、子供もいないと言われました」
 サハチも子供の頃、ソウゲンにどうしてお坊さんは奥さんをもらわないのと質問した事があった。俗世間と縁を切って出家したお坊さんは、奥さんをもらわず、一生、修行を続けると言っていた。俗世間と縁を切ったといっても、山奥に籠もっているわけではないし、俗世間で生きているのだから、奥さんをもらうべきだとサハチが言うと、仏教には戒めがあって、奥さんはもらえないと言った。サハチには未だに理解できない事だった。
「慈恩様が旅に出て行ったあと、なぜか、慈恩様の事が思い出されて、胸が熱くなりました。こんな経験は初めてです。五十を過ぎたわたしが誰かを好きになるなんて、考えてもいない事でした。十年余り前、馬天ヌル様がウタキ(御嶽)巡りの旅をして、越来にいらっしゃいました。マレビト神のお話を聞いて、わたしにもそんな人が現れるかしらと期待をしましたが、縁はありませんでした。それが、慈恩様と出会って、マレビト神かもしれないと思いましたが諦めました。五十を過ぎたお婆さんに、偉いお坊さんが見向くはずもないと思いました。ところが、四月になって、慈恩様は越来に来ました。わたしは娘に戻ったかのように嬉しくて、慈恩様を迎えました。慈恩様はずっと、どうして、お坊さんは妻を持ってはいけないのかと考えていたそうです。そして、自然の成り行きで一緒に暮らすようになって、わたしはハマに越来ヌルを譲って、ここに参りました。今、とても幸せです。子供たちの面倒を見るのも楽しいし、こんな生活ができるなんて、一年前は考えてもいませんでした」
「うちの倅のマグルーとウリーが通っているんだが、今度のお師匠は奥さんがいるからいいと言っていましたよ。奥さんが色々と細かい事に気を使ってくれるので、みんなが助かっていると言っていました」
「ありがとうございます。わたしは子供がいませんから、みんな、自分の子供だと思って可愛がっております」
 慈恩禅師が帰って来た。越来ヌルと一緒にいるせいか、高僧という威厳が消えて、親しみやすい和尚さんという感じがした。慈恩禅師はニコニコしながら、「いらっしゃい」と言った。
「お邪魔しております」とサハチは答えて頭を下げた。
 着替えてきた慈恩禅師と縁側に座って、お茶を飲みながら話をした。
琉球はいい所じゃ」と慈恩禅師は言った。
「原点に戻れるような気がする。わしは幼い頃に出家して、ずっと旅を続けて来た。一度、還俗(げんぞく)して、親の敵(かたき)を討ち、再び、出家して禅僧になった。今まで、僧が妻帯してはならないという事に疑問を持った事はなかった。出家した僧なのだから当然の事だと考えてもみなかった。ミフー(越来ヌル)から、どうして僧は妻帯しないのかと聞かれて、初めて疑問に思ったんじゃよ。多分、日本にいたら、そんな疑問は持たなかったじゃろう。琉球に来て、あちこちにあるウタキを見て、これが本来の神様の姿に違いないと思った。日本にある立派な神社は見せかけに過ぎない。神社だけでなく、立派なお寺も見せかけに過ぎないと思ったんじゃ。僧としての修行は立派な僧坊でやるのではなく、山伏のように山々を駈け回ってするべきじゃと思った。そして、僧とは一体、何なのかと考えたんじゃよ。禅僧は悟りを開くために厳しい修行をする。しかし、悟りを開く事が目的ではないんじゃ。肝心なのは悟りを開いたあと、何をするかじゃ。わしは今まで、わしが考えた武芸を若い者たちに教えてきた。これからは武芸だけでなく、わしが経験した様々の事や知識を若い者たちに教えようと決めた。わしが教えた事が、琉球にためになってくれればいいと思っている。わしがやろうとしている事に、ミフーはどうしても必要なんじゃよ」
 サハチは慈恩禅師に感謝した。
琉球の若者たちに、色々な事を教えてやって下さい」
 慈恩禅師は夕暮れの空を見つめながら、晴れ晴れとした顔付きでうなづいた。

 

 

 

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