長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-205.王女たちの旅の空(改訂決定稿)

 ヒューガ(日向大親)の船に乗ったリーポー姫(永楽帝の娘)たち一行は、夕方には無事に名護(なぐ)に到着した。
 リーポー姫(麗宝公主)はチウヨンフォン(丘永鋒)、チャイシャン(柴山)、ツイイー(崔毅)、リーシュン(李迅)、ヂュディ(朱笛)の六人。シーハイイェン(施海燕)はツァイシーヤオ(蔡希瑶)とシュミンジュン(徐鳴軍)の三人。スヒターはシャニーとラーマの三人。アンアン(安安)はスンユーチー(孫羽琦)、ウーシャオユン(呉小芸)、シュヨンカ(徐永可)の四人。ンマムイ(兼グスク按司)、ウニタル(ウニタキの長男)とマチルー(サハチの次女)、ウリー(サハチの六男)、通訳としてファイリン(懐玲)も一緒に行った。護衛のサムレーはマガーチ(苗代之子)が率いる精鋭二十人だった。
 陸路で先に来ていたウニタキ(三星大親)は『まるずや』の女主人、モーサに頼んで名護按司に王女たちが来る事を知らせた。名護按司は若按司の頃からヤマトゥ(日本)の刀を集めていて、『まるずや』によく出入りしているお得意さんだった。按司になった時には備前物(びぜんもの)の名刀を贈ったので大喜びしていた。
 浜辺に按司の弟の安和大主(あーうふぬし)と妹のクチャが待機していて、ヒューガの船が近づいて来ると、ウミンチュ(漁師)たちに命じて小舟(さぶに)を出させた。
 小舟に乗って上陸した王女たちは、ずっと続いている白く綺麗な砂浜を見て、キャーキャー騒いでいた。
 初めて名護に来たウリーは呆然とした顔で砂浜を見ていて、リーポー姫に何かを言われると、逃げて行くリーポー姫を追いかけた。二人は仲がよかった。ンマムイはそんな二人を見ながら、サハチ師兄(シージォン)はリーポー姫を嫁に迎えるつもりなのかと首を傾げた。
 王女たちを見ているクチャに近づくと、ンマムイは馴れ馴れしく挨拶をした。
「マナビー様はお元気ですか」とクチャはンマムイに聞いた。
「可愛い女の子を産んだけど、相変わらず武芸の稽古に励んでいるよ」
 ンマムイはクチャの馬乗り袴姿を見て、「お前も相変わらずのようだな」と笑った。
「王女様たちは皆、武芸の達人だ。お前と気が合うだろう」
「やっぱり、そうだったのね。皆、身のこなしがいいわ。あたし、弟子になろうかしら」
 クチャは楽しそうに笑うと一緒にいた娘を連れて王女たちの所に行った。
「知り合いですか」とマガーチがンマムイに聞いた。
「名護按司の妹だよ。チューマチ(ミーグスク大親)に嫁いだマナビー(攀安知の次女)の侍女として今帰仁(なきじん)にいたんだけど、マナビーが嫁いだので名護に帰って来たんだよ」
「ほう。名護にも女子(いなぐ)サムレーがいたのか」とマガーチは笑った。
 全員が上陸するとサムレーたちは用意された馬に乗り、王女たちはお輿(こし)に乗って、連れて来た楽隊が音楽を奏でながら、名護(なん)グスクまで行進した。聞き慣れない音楽を聴いて、何事かと人々が沿道に集まって来た。ウニタキの配下の者たちが噂を流して、異国の王女たちが名護にやって来た事はすぐに知れ渡った。皆が競って、明国(みんこく)のリーポー姫様、旧港(ジゥガン)のシーハイイェン姫様、ジャワのスヒター姫様、トンドのアンアン姫様と名前を覚えていた。
 一行は名護按司に歓迎されて、名護グスクの下にある客殿に案内された。その客殿は、先代の名護按司の妻が初代山北王(さんほくおう)の帕尼芝(はにじ)の娘だったので、帕尼芝を招待するために建てたものだった。海が見える眺めのいい所にあり、帕尼芝は一度、名護にやって来たが、その後、二代目の珉(みん)も今の攀安知(はんあんち)も来た事はなく、久し振りにお客様を迎えていた。
 名護按司は取れたての魚介類と猪(やましし)の肉の煮込み料理でもてなしてくれた。
 長老と呼ばれている名護按司の大叔父が出て来て、明国の言葉を流暢(りゅうちょう)に話した。ンマムイとマガーチは驚き、王女たちも驚いていた。
 ンマムイがクチャに聞くと、大叔父の『松堂(まちどー)』は進貢船(しんくんしん)の正使として何度も明国に行っていると自慢そうに言った。
「山北王が初めて明国に送った使者を務めたのが長老だったのよ」
「そうだったのか」とンマムイは改めて長老を見た。
 ンマムイが二度目に明国に行った時、中山王(ちゅうざんおう)の進貢船に山北王の使者も乗っていたが、長老ではなかった。見た所、六十の半ばはいってそうなので、もっと昔の話なのかもしれない。
 何を話しているのかわからないが、王女たちは楽しそうに笑っていた。長老の話が終わると、ンマムイは長老に挨拶に行った。
「アランポー(亜蘭匏)を御存じですか」とンマムイに聞かれて、松堂は驚いた顔をしてンマムイを見た。
「懐かしい名前じゃのう。そなたはアランポー殿を知っているのかね?」
「俺は二度、明国に行きましたが、あの頃、中山王の使者を務めていたのがアランポーでした」
「ほう。そなたは中山王の使者じゃったのか」
 ウニタキは笑って、「使者じゃありませんよ。俺はただ遊びに行っただけです」と言った。
「なに?」と松堂は細い目を見開いてンマムイを見た。
「俺は先代の中山王だった武寧(ぶねい)の倅(せがれ)なんです。見聞を広めるために、明国や朝鮮(チョソン)、ヤマトゥにも行っていたのです」
「なに、武寧の倅が、今の中山王に仕えているのか。今の中山王は武寧を殺したのではないのか」
「まあ、そうなんですけど、色々とありまして‥‥‥中山王の世子(せいし)の島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)(サハチ)と出会ってしまったのです。強い男でね、なぜか惹かれて、今では兄貴と慕っております」
「ほう」と言ってから、松堂は思い出したかのように、「そなたはマハニの婿(むこ)の兼(かに)グスク按司ではないのか」と聞いた。
「マハニを御存じでしたか」
「先代の山北王に嫁いだ姪のサキの娘じゃからな、勿論、知っておるよ。本部(むとぅぶ)にいた頃は兄貴たちと一緒に馬に乗って、よく名護まで遊びに来ていたんじゃよ。何年か前に、夫婦揃ってここに来たじゃろう。その頃、わしはすでに隠居していて、『轟(とどろき)の滝』の近くで暮らしていたんじゃよ」
「轟の滝?」
 松堂はうなづいて、「名護岳(なぐだき)の南方(ふぇーぬかた)の数久田川(しったがー)を遡(さかのぼ)った所にある滝じゃ。いい所じゃよ。遊びに来るがいい」と言って笑った。
 酒を飲みながら松堂は懐かしそうに昔の話をしてくれた。
 松堂は先々々代の名護按司の四男だった。母親は奥間(うくま)から来た側室で、グスク内には住まず、浜辺の近くに屋敷を建てて暮らしていた。母親は様々な芸を身に付けていて、松堂は母から読み書きは勿論の事、剣術と笛も教わった。
 十四歳の時、母と一緒に羽地(はにじ)に行って、羽地按司の妹、シヅに一目惚れをした。シヅの母親も奥間から来た側室で、城下で暮らしていた。松堂はシヅに会うために羽地通いを続けた。シヅを通して、羽地の若按司とも親しくなって、三人で運天泊(うんてぃんどぅまい)に行った。
 運天泊は賑やかだった。当時、今帰仁按司(帕尼芝)は元(げん)の国と交易をしていて、異国の商人たちが大勢いた。松堂は異国に興味を持って、シヅの屋敷に滞在しながら運天泊に通った。シヅの屋敷の近くに叔母が嫁いでいた振慶名大主(ぶりきなうふぬし)の屋敷があったので、両親も許してくれた。
 母親譲りの記憶力で松堂は異国の言葉をすぐに覚えて、船乗りたちから異国の事を色々と聞いた。
 やがて、元の国が滅んで明の国ができると異国の商人たちの数も減ってきた。明国の皇帝は商人たちが国外に出る事を禁止してしまい、法を犯す覚悟を決めた密貿易船だけがやって来た。
 松堂が明国の言葉がしゃべれる事を知った今帰仁按司は、シヅとの婚礼を認めて、松堂を通事(つうじ)に任命した。松堂は知らなかったが、今帰仁按司はシヅの長兄だった。
 運天泊に屋敷を与えられて、松堂はシヅと暮らしながら、密貿易船が入って来ると通事として、取り引きに携わった。三十歳になった年、今帰仁按司が明国に進貢船を送る事に決まって、松堂は正使に任命された。浮島(那覇)の久米村(くみむら)まで行って、唐人(とーんちゅ)たちから様々な約束事を聞いて、中山王の進貢船に乗って明国に渡ったのだった。
 今帰仁按司は山北王に冊封(さっぷー)されて、以後、松堂は六回、正使として明国に渡った。まだ山北王の進貢船はなく、いつも中山王の進貢船に便乗して行き、中山王の正使を務めていたのはアランポーだった。
 いつまで経っても進貢船が下賜(かし)されない事に腹を立てた山北王は、鳥島(とぅいしま)(硫黄鳥島)を奪い取ってしまい、それが原因で今帰仁合戦が起こり、初代山北王は戦死してしまう。
 二代目山北王の珉は中山王の察度(さとぅ)と同盟を結んで、明国への進貢を再開する。松堂が育てた甥の伊差川大主(いじゃしきゃうふぬし)が正使を務め、その後、長男の兼久大主(かにくうふぬし)も正使を務めている。
 明国の海賊が毎年やって来るようになって、三代目山北王の攀安知(はんあんち)は進貢をやめてしまう。伊差川大主と兼久大主は海賊の通事として残ったが、松堂は名護に帰って隠居したのだった。
「わしらが明国に行っていた頃、名護にもヤマトゥの船がやって来ていたんじゃよ。浜辺にはヤマトゥンチュ(日本人)の宿舎もあって賑やかじゃった。山北王が進貢船を送るのをやめてしまって、名護は寂れてしまったんじゃ。何度も明国に行っていた伊差川大主は去年の暮れ、若按司(ミン)の重臣として南部に行ってしまった。南部で活躍してくれる事を願っておるよ」
 ンマムイはふと、李仲按司(りーぢょんあじ)を思い出した。李仲按司今帰仁にいた事があって、山北王の使者を務めたと言っていた。
「南部に行った李仲按司を御存じですか」とンマムイは聞いた。
「李仲按司?」と言って松堂は首を傾げた。
「明国の人です。今は南部で按司になっていますが、山北王の使者として明国に行っているはずです」
 松堂は思い出したように、「リーヂョン」と言った。
「アランポーと喧嘩をしたと言って家族を連れてやって来たんじゃ。リーヂョンが来た時、わしは山北王に呼ばれて通事をして、その後の世話もしたんじゃよ。翌年、正使として明国に行ったが、今帰仁合戦のあと、進貢船のない山北王は進貢できないと言って今帰仁を去って行ったんじゃ。それから何年かして、伊差川大主が応天府(おうてんふ)(南京)で山南王(さんなんおう)の使者になったリーヂョンと会っているが、その後の事は知らない。明国に帰ってしまったのじゃろうと思っていたんじゃが、按司になっていたとは驚いた」
「前回の南部の戦では他魯毎(たるむい)(山南王)の軍師として活躍しました。息子の李傑(リージェ)は『国子監(こくしかん)』で勉学に励んでいるようです」
「そうじゃったのか。南部に行った伊差川大主はリーヂョンと会っているかもしれんのう」
「きっと、会っているでしょう。李仲按司他魯毎重臣ですからね。ところで、松堂殿の母上は奥間出身だったのですか」
「美人じゃったよ。妻のシヅも美人じゃった。なぜか、わしの娘たちは美人といえる娘はいなかったが、孫のスミはシヅによく似ておるよ」
 スミというのはクチャと一緒にいた娘だった。
「嫁入りの話はいくらでもあるのに、本人はまったく興味がないようじゃ。クチャの影響で、女子(いなぐ)のサムレーになると言っているんじゃ。困ったもんじゃよ。噂では首里(すい)には女子のサムレーがいると聞いているが本当なのかね」
「本当です。女子サムレーを作ったのが島添大里按司の奥方様(うなぢゃら)です。首里だけでなく、各地のグスクにもいます。総勢二百は超えるでしょう。その総大将が島添大里按司の奥方様なのです」
「ほう。女子のサムレーが二百もいるのか。島添大里按司の奥方というのは相当強いようじゃな」
「並のサムレーではとてもかないません」
「島添大里按司よりも強いのか」
「武芸の実力は按司の方が上かもしれませんが、按司も奥方様には頭が上がらないようです」
 松堂は楽しそうに笑った。
「島添大里按司と一緒に朝鮮やヤマトゥを旅しましたが、本当に楽しい旅でした」
「なに、島添大里按司はヤマトゥや朝鮮にも行っているのか」
「明国にも行っていますよ。武当山(ウーダンシャン)に行って、ヂャンサンフォン(張三豊)殿と出会って、琉球に連れて来たのです」
「ヂャンサンフォン殿の事はリュウイン(劉瑛)から聞いている。まさか、まだ生きていて、琉球にいたとは驚いた」
「ヂャンサンフォン殿を御存じでしたか」
「わしらが明国に行った頃、泉州の『来遠駅(らいえんえき)』はまだなかったんじゃよ。大きなお寺(うてぃら)に宿泊してな、ヂャンサンフォン殿の噂は、道士たちからよく聞いていたんじゃよ。洪武帝(こうぶてい)が武当山に使者を送って、ヂャンサンフォン殿に会いたいと言ったらしいが断られたと噂されておったよ」
「今回も冊封使(さっぷーし)が来るので、ムラカ(マラッカ)に逃げて行ったのです。ヂャン師匠は権力者が嫌いなんですよ。今回一緒に来たリーポー姫様、シーハイイェン姫様はヂャン師匠の孫弟子ですよ」
「そなたも弟子なのか」
「はい、そうです。ヂャン師匠は琉球に七年間もいましたからね、弟子は多いですよ。中山王も弟子なのです」
「なに、中山王もか」
「中山王はヂャン師匠と一緒に武当山にも行っています」
「なに、中山王が武当山? そいつはいつの事なんじゃ?」
「あれは確か‥‥‥俺が妻と子供たちを連れてヤンバル(琉球北部)に来た年ですよ。中山王は三月に進貢船に乗って船出して、十月に帰って来たのです」
「なんと、中山王が半年余りも留守にしていたとは知らなかった」
「島添大里按司夫婦がいるから安心して中山王も旅を楽しんできたのです」
「島添大里按司か‥‥‥会ってみたいもんじゃな」
「松堂殿は隠居の身です。首里に遊びに来て下さい。島添大里按司も歓迎するでしょう」
「そうじゃのう。妻のシヅも元気だし、今のうちに首里の都見物でも楽しもうかのう」
 ウニタキは笑って、「俺たちが帰る時に一緒に行きましょう」と誘った。
 翌朝、王女たちとンマムイ、マガーチは松堂、クチャ、スミの案内で『轟の滝』まで行った。水量も多く、見事な滝だった。王女たちは来てよかったと喜んでいた。滝の近くに『松堂』と呼ばれる隠居屋敷があって、朝食を御馳走になった。松堂の妻のシヅは元気のいいお婆で、松堂が首里の都見物に行くかと聞くと驚いたが、嬉しそうな顔をして、冥土(めいど)のお土産に行ってみたいものだと言って笑った。
 松堂夫婦と別れて、名護グスクに戻り、隊列を組んで羽地へと向かった。名護按司が護衛の兵を付けてくれたので、百人近くの一行になり、安和大主が先導した。クチャとスミの二人も腰に刀を差して、弓矢を背負って一緒に来た。
 音楽を奏でながらの行進なので、沿道には見物人たちが大勢現れて、名護の兵たちが先行して道を開きながら進んで行った。一時(いっとき)(二時間)近く掛かって羽地の城下に着くと、羽地按司の弟の饒平名大主(ゆぴなうふぬし)と妹の若ヌルが出迎えた。
 饒平名大主は湧川大主(わくがーうふぬし)の亡くなった妻の弟で、奄美按司に任命されたが、奄美大島(あまみうふしま)の攻略に失敗して按司の座を剥奪された。汚名を返上しようと伊平屋島(いひゃじま)を攻めて、ヤマトゥから帰って来る中山王の交易船を奪い取ろうとしたが失敗して、惨めな姿で今帰仁に帰った。山北王と湧川大主に怒鳴られ、二度と顔を見せるなと言われた。羽地に帰ってサムレー大将を務めているが、あれ以来、今帰仁には近づいていない。山北王と湧川大主が恐ろしい事もあるが、自分の失敗を棚に上げて、二人を恨んでいた。
 一行が案内されたのは羽地グスクではなく、仲尾泊(なこーどぅまい)にある大きな屋敷だった。南部に行った仲尾大主(なこーうふぬし)の息子で、材木屋になったナコータルーが建てた屋敷だという。
 今の羽地按司の祖父は帕尼芝(はにじ)の弟の仲尾大主だった。羽地按司だった帕尼芝が今帰仁按司になった時、仲尾大主だった祖父は羽地按司になって羽地グスクに移った。仲尾大主の屋敷は仲尾泊にやって来たヤマトゥの商人たちの宿舎として使われた。やがて、ヤマトゥの商人たちも来なくなって倉庫になったが、台風で潰れて、そのままになっていた。去年、それを片付けて、ナコータルーが立派な屋敷を建てて、羽地按司に自由に使ってくれと言って贈ったのだった。羽地按司は喜んで、米を買いに来る『まるずや』の船乗りたちの宿舎として使っていた。
 王女たち一行が二十一人、楽隊が九人、マガーチの兵が二十人、荷物運びとお輿を担ぐ人足が二十五人、それに安和大主、クチャとスミ、名護の兵二十人の昼食を用意するのは大変な事だが、羽地ヌルと羽地按司の母親が女たちを指図して、テキパキと働いていた。
 おいしい雑炊(じゅーしー)と魚の味噌汁を御馳走になって、一行は今帰仁を目指して出発した。羽地按司が付けてくれた護衛の兵も加わって、さらに大所帯になっていた。仲宗根泊(なかずにどぅまい)で一休みして、今帰仁の城下に着いたのは日暮れ少し前になっていた。
 城下の入り口で、勢理客(じっちゃく)ヌルと屋我大主(やがうふぬし)が出迎えて、天使館に案内した。屋我大主は前与論按司(ゆんぬあじ)で、昔の名前に戻っていた。
 大勢の見物人たちに囲まれて、一行は『天使館』に入った。天使館は唐人町(とーんちゅまち)の中にあって、見物人たちが明国の言葉を話しているので、王女たちは驚いた。あちこちからリーポー姫の名前が聞こえた。
 今帰仁の天使館は浮島の天使館を真似したものだが、実際に天使(皇帝の使者)が利用する事はなく、明国の海賊たちの宿舎として使われていた。浮島の天使館には及ばないが、広い庭もあって、二階建ての立派な屋敷が建っていた。
 一階の大広間には円卓がいくつも並び、すでに料理も用意されていた。料理の中には明国の料理もあって、王女たちは喜んだ。舞台もあって、山北王の側室のウクとミサが司会をして、城下の娘たちが歌や踊りを披露した。
 翌日、勢理客ヌルの案内で、四人の王女と使者のンマムイ、通事のツイイー、護衛のチウヨンフォンとシュミンジュンが今帰仁グスクに向かった。王女たちは女子サムレーの格好から、それぞれの国の王女様の格好に着替えて、お輿に乗っていた。
 グスクの大御門(うふうじょう)(正門)の前で、お輿から降りた王女たちは首里グスクよりも立派な高い石垣を見上げて驚いた。マガーチが率いて来た護衛の兵たちは大御門の前で待機して、王女たちは大御門の中に入って行った。
 そこは外曲輪(ふかくるわ)で広々としていた。立派な中御門(なかうじょう)があって、そこを抜けると中曲輪の坂道が続いた。二の曲輪に入ると御庭(うなー)があって、正面の石垣の上に立派な御殿(うどぅん)が建っていた。首里グスクに似ていると王女たちは感じていた。
 二の曲輪内の屋敷に案内されて、出されたお茶を飲んでいると、山北王の攀安知が現れた。
 攀安知はンマムイを見るとニヤッと笑って、上座に腰を下ろした。突然の出現に王女たちは驚いて姿勢を正した。ンマムイは攀安知に王女たちを紹介した。攀安知は王女たちを一人一人見たが何も言わなかった。
 攀安知はンマムイを見ると、「目的は何じゃ?」と聞いた。
 ンマムイは懐(ふところ)から中山王の書状を出して攀安知に渡した。攀安知は書状を読んだ。王女たちが山北王と誼(よしみ)を通じたいと言っているので、よろしくお願いしたいと書いてあるだけだった。
 攀安知は軽く笑ってから、「マハニは元気か」とンマムイに聞いた。
「今回、マハニも一緒に来たいと言ったのですが、去年、娘が生まれたので来られませんでした」
「なに、マハニが娘を産んだのか」
 攀安知は驚いて、ンマムイを見て笑うと、「仲のいい事だな」と言った。
「ところで、永楽帝(えいらくてい)の娘は冊封使と一緒に来たのか」
「そうです。旅が好きで、武芸も好きなようです」
「マナビーと会ったのか」
「はい。弓矢の試合をして、マナビー様に負けて悔しがったそうです」
「そうか。マナビーが勝ったか」
 攀安知は嬉しそうな顔をしてから、「旧港(パレンバン)とジャワは知っているが、トンド(マニラ)とはどこの国だ?」と聞いた。
「明国の近くに小琉球(台湾)という島があって、その南方にあるようです」
「その三つの国は毎年、浮島に来ているのか」
「トンドは初めてです。中山王の姪にササというヌルがいるんですが、ササが南の島(ふぇーぬしま)に行って連れて来たのです」
「南の島?」
「ミャーク(宮古島)という島です。その近くには島がいっぱいあるようです」
「ミャークか。先代の中山王(武寧)から聞いた事がある。だが、貝殻くらいしか持って来ないそうじゃないのか」
「その貝殻が貴重なのです。ミャークではブラ(法螺貝)が大量に捕れるのです。ブラはヤマトゥの商人たちが欲しがっています。戦(いくさ)で使われるし、山伏たちも使います。ヤマトゥには大勢の山伏がいますから、いい商品ですよ。それにシビグァー(タカラガイ)は明国の取り引きで使えます。未だにシビグァーを銭(じに)代わりに使っている所があるようで、永楽帝も欲しがっているようです」
「ほう、そうだったのか」
 明国の海賊たちは貝殻など欲しがらないが、貝殻にも使い道があるようだと攀安知は感心した。
「ジャワに旧港、トンドは南蛮の品々をたっぷりと持って来てくれます。南蛮の商品は明国でもヤマトゥでも喜ばれます」
 攀安知は侍女を呼んで、絵地図を持って来させて、それぞれの国の位置を確認した。ツイイーを通して、王女たちからそれぞれの国の事を聞いた。半時(はんとき)(一時間)ほど話を聞いて、城下を案内させると言って去って行った。
 攀安知がいなくなると王女たちはあれこれ話し始めた。何を言っているのかわからないが、シーハイイェンが言うには、山北王が思っていたよりも若くて、いい男だった事に驚いているようだった。
 山北王の側室で唐人のタンタンの案内で、王女たちは城下を散策した。明国の娘が山北王の側室になっていた事に王女たちは驚いた。マガーチだけが残って、兵たちは帰し、山北王の側近の兼次大主(かにしうふぬし)が兵を率いて護衛についた。
 一の曲輪の屋敷に戻った攀安知琉球の絵地図を見つめながら、そろそろ、首里を攻め取る時期が来たのかもしれないと思っていた。
 南蛮の国々から船が来て、お寺も三つ建って、首里は都として完成しつつある。今年の冬は無理だが、来年の冬、ヤマトゥの商人たちが来る前に、武装船の鉄炮で浮島を占領して、首里に攻め込もう。南部にはテーラー(瀬底大主)が築いた平良(てーらー)グスクがある。そこに密かに兵を送って、東の与那原(ゆなばる)からも上陸して、三方から首里を攻める。
 平良グスクと首里グスクの間にある長嶺(ながんみ)グスクは何としてでも味方に付けなければならない。長嶺按司は山南王の妹婿だが、武寧の側室を奪って朝鮮に逃げた山南王の弟だと聞いている。山南王にしてやると言えば寝返るかもしれない。テーラーがうまくやってくれるだろう。
 攀安知首里攻めの作戦を練るのに熱中した。
「そうだ。来年の十月にミンとママチーの婚礼を挙げさせよう。山南王の世子であり、山北王の若按司でもあるミンの婚礼を盛大に執り行なおう。それを口実に兵を南部に送って、浮島を攻め取ろう」
 攀安知はニヤニヤしながら自分の考えに酔っていた。
 その日の夕方、突然、黒い雲がやって来たと思ったら大雨が降ってきた。風も強くなってきて、台風が来たようだった。ンマムイたちは王女たちを守って、天使館に逃げ込んだ。

 

 

 

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2-204.重陽の宴(改訂決定稿)

 九月九日、ササ(運玉森ヌル)たちが生駒山(いこまやま)で菊酒を飲みながら重陽(ちょうよう)の節句を祝っていた頃、琉球首里(すい)グスクでは冊封使(さっぷーし)たちを呼んで、『重陽の宴(うたげ)』が行なわれていた。
 重陽とは陽の数字(奇数)が重なる事で、縁起のいい陽数(ようすう)も重なってしまうと陰数(いんすう)になってしまうので、邪気を払うための儀式が行なわれた。唐(とう)の時代に日本に伝わって、『菊の節句』と呼ばれるようになって庶民にまで広まるが、琉球では重陽節句を祝う習慣はなかった。
 中秋(ちゅうしゅう)の宴は夜に行なわれたが、重陽の宴は昼間に行なわれた。中秋の宴の時と同じように、浮島(那覇)の天使館にいる冊封使を迎えに行って、首里グスクの北の御殿(にしぬうどぅん)に招待した。
 御庭(うなー)には菊の花で飾られた舞台が造られ、女子(いなぐ)サムレーたちによる『浦島之子(うらしまぬしぃ)』のお芝居が演じられた。お芝居を説明するために明国(みんこく)の言葉が話せる『宇久真(うくま)』の遊女(じゅり)たちが冊封使たちの接待をした。
 お芝居のあとには遊女たちが舞を披露して、女子サムレーたちが剣舞を披露した。素早い動きで剣を操る女子サムレーたちを冊封使たちは興味深そうに目を見張って見ていた。
 最後はファイチ(懐機)がヘグム(奚琴)を弾いて、娘のファイリン(懐玲)が三弦(サンシェン)を弾きながら明国の歌を歌って、宴はお開きになった。冊封使たちは機嫌よく、お輿(こし)に揺られて天使館に帰って行った。
 リーポー姫(永楽帝の娘)はシーハイイェン(パレンバンの王女)たちと一緒に平田にいた。十五夜(じゅうぐや)の宴が終わったあと、平田グスクのお祭り(うまちー)の準備のため、ユリたちと一緒に平田に移っていた。ウニタキ(三星大親)の話によると、リーポー姫は平田大親(ひらたうふや)の妻、ウミチルから笛を習って熱中しているという。
 十五夜の宴のあと、重陽の宴の準備のために首里にいたサハチ(中山王世子、島添大里按司)が久し振りに島添大里(しましいうふざとぅ)グスクに帰ると、サハチの六男、ウリーの具合が悪いと言って、ナツが心配していた。
 ウリーは兄のマグルーと一緒に武芸の稽古に励み、八代法師(やしるーほうし)のお寺(うてぃら)に通って勉学にも励んでいた。今まで病(やまい)に罹った事もないのに、どうしたのだろうとサハチも心配した。
 子供たちの部屋に行くと、ウリーが蒼白い顔をして横になっていた。
「お前、どうしたんだ?」とサハチが聞くと、
「大丈夫です。何でもありません」とウリーは言って、溜め息をついた。
 サハチはウリーの額に手を当ててみたが、熱はないようだった。
「お父様、お帰りなさい」とウリーの妹のマシューが顔を出したので、サハチはウリーの事を聞いた。
「九月になってから溜め息ばかりつくようになって、この二、三日は食欲もないみたい。ろくに御飯も食べていないわ」
「どこかで悪い病でももらってきたのか。ほかに具合の悪い子はいないのだな?」
「いないわ。あたしが思うには恋の病じゃないかしら?」
「なに、恋の病?」と言って、サハチはウリーを見た。
 ウリーは顔を赤くして、向こうを向いてしまった。
「相手は誰なんだ?」とサハチはマシューに聞いた。
「リーポー姫様だと思うわ」とマシューは言った。
 サハチは驚いた。
「なに、リーポー姫様だと?」
「好きになった人が明国の皇帝の娘だったから、思い悩んで具合が悪くなったんだわ」
「ウリー、そいつは本当なのか」
 ウリーは返事をしなかったが、また溜め息をついて、サハチを見るとかすかにうなづいた。
 ウリーはリーポー姫と同じ十五歳だった。リーポー姫と一緒に十五夜の宴の準備をしていて好きになってしまったのだろう。
「お前、リーポー姫様をお嫁に迎えるか」とサハチはウリーに言った。
 怒られると思っていたウリーは驚いた顔をしてサハチを見ると、
「そんなの無理に決まっているじゃないですか」と言った。
「何が無理だ。お前はまだ何もやっていないだろう。リーポー姫様がお前を好きになれば無理な事ではない。永楽帝(えいらくてい)はリーポー姫様の願いを聞いて琉球への旅に出した。リーポー姫様のわがままは永楽帝にも止められないんだ。リーポー姫様が琉球にお嫁に行きたいと言えば、必ず許してくれるだろう」
「でも、明国の皇帝の娘なんですよ」
「お前は琉球中山王(ちゅうざんおう)の孫だ。何の問題もあるまい」
「問題はあります。琉球王を冊封するのは明国の皇帝なんです。琉球王と明国の皇帝では位が違います」
「そんな事は気にするな。明国を造った洪武帝(こうぶてい)はまったく無名な男だった。その男が戦(いくさ)に勝って明国を築いて皇帝になった。お前のお爺さんと同じではないか。永楽帝はまったく無名だった洪武帝の息子なんだ。それに、リーポー姫様は宮廷を嫌って街で暮らしている。身分とか位とかを気にする娘ではない。お前はもっと自分に誇りを持っていいんだ。ただし、その事に驕(おご)ってはならんがな。明日は平田グスクのお祭りだ。子供たちを連れて行く。お前も行くか」
 ウリーはサハチをじっと見つめてから、うなづいた。
「明日のために、ちゃんと飯を食っておけよ」
 サハチは子供たちの部屋から自分の部屋に戻って、ナツに平田グスクのお祭りに行く事を告げた。
「ウリーも恋の病を煩(わずら)う年齢(とし)になったようだ」とサハチは笑った。
「まあ、やはり、そうでしたか」とナツは言った。
「それで、相手は誰なのです?」
「明国のアバサー(お転婆娘)だよ」
「えっ、リーポー姫様なの?」
 サハチはうなづいた。
 ナツは驚いた顔をして、「だって、言葉も通じないのに好きになったのですか」と聞いた。
「恋に言葉は関係ないだろう」
「そうかもしれないけど、よりによって永楽帝の娘さんを好きになるなって‥‥‥」
 ナツは呆れたような顔をして首を振った。
 翌日はいい天気だった。サハチはナツと一緒に子供たちを連れて平田グスクに向かった。昨日、蒼白い顔して寝込んでいたウリーは朝御飯もちゃんと食べて、顔色はまだいいとは言えないが、ウキウキしているように見えた。
 お祭りはまだ始まっていないが舞台の上でリーポー姫が横笛を吹いていて、子供連れのお客が数人、舞台の前に座って聴いていた。リーポー姫の姿に気がつくとウリーは舞台に飛んで行った。
 ナツがウリーを見ながら笑って、「若いっていいわね」と言った。
 子供たちをナツに任せて、サハチは弟の平田大親(ヤグルー)に挨拶に行った。一の曲輪(くるわ)内の屋敷に行くと、縁側にヤグルーと妻のウミチルが仲良く座って楽しそうに笑っていた。
「兄貴、いらっしゃい」とヤグルーがサハチを見ると立ち上がった。
重陽の宴は無事に終わりましたか」
「ああ、無事に終わったよ。中山王のお役目はこれで終わりだ。あとの事は山南王(さんなんおう)(他魯毎)に任せる。リーポー姫様の面倒を見てくれてありがとう」
「物覚えのいい娘さんですよ」とウミチルが言った。
「笛が上手になるにつれて、琉球の言葉も上手になっています」
「ほう、もう琉球の言葉を話せるのか」
「難しい言葉は無理ですが、普通の会話なら大丈夫です」
「賢い娘だな」
「賢いだけでなく、義理堅い所もあります。笛を習ったお返しだと言って、村(しま)の娘たちに武当拳(ウーダンけん)を教えてくれました。まるで、ササのように身が軽くて、とても強いのです」
 サハチは笑って、「ササと入れ違いになったな」と言った。
「ササがいたら、リーポー姫様はササの弟子になっていたかもしれない」
 ウミチルとヤグルーも笑って、
「確かに、ササと気が合いそうだな」とヤグルーは言った。
 サハチはうなづいて、「気が合いすぎて、ササたちを明国に連れて行ってしまうかもしれんな」と言って笑った。
「南の島(ふぇーぬしま)から帰って来たウミを見て驚きました」とウミチルが言った。
「もともとシジ(霊力)の高い娘だったけど、久し振りに見たウミはすっかり神人(かみんちゅ)になっていました。姉のサチも驚いていましたよ」
「ササはウミに運玉森(うんたまむい)ヌルを継がせるつもりのようだけど、それで構わないのか」
「ウミの事はササに任せます」
「運玉森ヌルで思い出したけど、須久名森(すくなむい)にもヌルがいたようだ」とヤグルーが言った。
「俺も馬天(ばてぃん)ヌルから聞いて驚いたよ」
「馬天ヌルの叔母さんがタミーの事を聞きに来たんだ。そして、一緒にタミーを育てた大叔父の屋比久大主(やびくうふぬし)に会いに行ったんだよ。この辺りの根人(にっちゅ)で、古い家柄なんだ。マサンルーの兄貴もこのグスクを築く時に挨拶に行ったらしい。兄貴が行った時、すでにタミーの両親は亡くなっていて、ヌルだったタミーの伯母さんも亡くなっていたようだ。馬天ヌルからタミーの活躍を聞いて、屋比久大主は涙を浮かべて喜んでいたよ。ずっと続いてきた須久名森ヌルが途絶えてしまうと残念に思っていたけど、タミーが継いでくれると言って、神様に感謝していた」
「そうか。タミーが須久名森ヌルか。ところで、ウタキ(御嶽)はどこにあるんだ。以前、クマヌ(先代中グスク按司)と一緒に須久名森に登ったけど、ウタキらしいものはなかったぞ」
「ウタキの事は屋比久大主も知らないんだ。でも、タミーなら必ず、見つけるだろうと言っていた」
「そうだな。亡くなった伯母さんが案内してくれるだろう」
 ヤグルー夫婦と別れて二の曲輪に戻るとユリとハルとシビーが舞台の準備をしていたが、リーポー姫とウリーの姿はなかった。
「二人はどこに行った?」とナツに聞いたら、
「みんながいるおうちに行ったみたい」と言った。
 城下にはお祭りの準備をするための屋敷があって、シーハイイェンたち、スヒター(ジャワの王女)たち、アンアン(トンドの王女)たちもそこに滞在していた。
「仲良くお話ししていたけど、リーポー姫様は琉球の言葉が話せるの?」とナツが不思議そうに聞いた。
「お芝居の準備をしながら覚えたようだ。賢い娘だよ」
「そうなの。でも、本当に仲良くなったら大変な事になるわよ」とナツは心配した。
「成り行きに任せるさ。二人はまだ十五歳だ。先の事はわからんよ」
 お芝居は与那原(ゆなばる)グスクのお祭りと同じだった。女子サムレーたちによる『女海賊(いなぐかいずく)』、シーハイイェンたちの『瓜太郎(ういたるー)』、旅芸人たちの『ウナヂャラ』で、前回不備だった点を直しての上演だった。サハチは与那原グスクのお祭りに行けなかったので、『女海賊』が観られるのはよかったと喜んだ。
 メイユー(美玉)がターカウ(台湾の高雄)にいたトンド王の弟の太守(タイショウ)を退治する話だった。唐人(とーんちゅ)たちの町を仕切っている太守は好き勝手な事をして町人たちを苦しめていた。見て見ぬ振りをできないメイユーは慶真和尚(きょうしんおしょう)と作戦を立てて、太守の妻のジャランも味方に引き入れて太守を倒す。メイユーの活躍は伝説となって、今ではターカウの守り神として祀られている。
 憎らしい悪人を倒すメイユーの活躍に子供たちは大喜びをして観ていた。サハチもメイユーを演じたチリに拍手を送りながら、メイユーに会いたいと思っていた。そして、メイユーがこのお芝居を観たらどんな顔をするだろうと思った。サハチにさえ内緒にしていた活躍を琉球の人たちが知っていると知ったらどんな顔をするだろう。来年、会うのが楽しみだった。
 シーハイイェンたちの『瓜太郎』はウニタキが言っていたように話が変わっていた。鬼(うに)に捕まった村娘は滅法強くて鬼たちを倒してしまい、逃げて行った鬼は大鬼(うふうに)を連れて来る。村娘も大鬼にはかなわず、瓜太郎たちに助けられる。リーポー姫は身が軽く、舞台の上で飛び跳ねていて、観ている子供たちは大喜びをした。瓜太郎を演じたシーハイイェンも身が軽かった。高下駄をはいて背の高い大鬼を軽く飛び越えて、観客たちを驚かせた。
 平田グスクのお祭りが終わった翌日、ユリたちと一緒にリーポー姫たちも島添大里グスクに帰って来た。後片付けを助けると言って残っていたウリーも、すっかり元気になって帰って来た。次は来月の馬天浜(ばてぃんはま)のお祭りの準備のために新里(しんざとぅ)の屋敷に行くだろうとサハチは思っていたが、シーハイイェンたちが山北王(さんほくおう)に会いたいと言ってきた。リーポー姫も一緒にいて、言い出したのはリーポー姫に違いなかった。
 やはり、来たかとサハチは観念した。今帰仁(なきじん)は遠いので、準備をするから少し待ってくれと言って、サハチはウニタキを呼んだ。
 ウニタキはすぐに来た。陰ながらリーポー姫を守っていたという。
「リーポー姫たちだけなら何とかなるが、シーハイイェンたち、スヒターたち、アンアンたちも一緒に行くとなると守るのは難しい」とウニタキは厳しい顔をして言った。
「難しいのはわかっている。そこを何とかしてくれ」とサハチは頼んだ。
 ウニタキは腕を組んで考えていたが、
「お忍びで行くのは無理だ。中山王の護衛を付けて堂々と行かせろ」と言った。
「なに、リーポー姫の事を公表して行かせるのか」
「民衆を味方に付けるんだ。各国の王女たちが行列を組んで行けば、人々が集まって来る。民衆に歓迎された王女たちを山北王としても歓迎しなければならなくなる」
「成程、各国の王女たちが正式に山北王に謁見(えっけん)するのだな」
「そうだ。まず、油屋に伝えて、山北王に王女たちを迎えさせるんだ」
 サハチはうなづいて、「よし、それで行こう」と手を打った。
 早速、サハチは浮島に行って水軍大将のヒューガ(日向大親)と会った。
 サハチの顔を見るとヒューガは笑って、「ササのお陰で母親と兄妹たちに会う事ができた」と言った。
「えっ?」とサハチには何の事だかわからなかった。
「ササが阿波(あわ)の国(徳島県)に行って、わしの母親のお墓参りをしたんじゃよ。母親がわしに会いたいと言ったら、ユンヌ姫様が連れて来てくれたんじゃ。直接、母親と兄妹たちと話はできなかったが、馬天ヌルを通して、話をしたんじゃよ。わしの母親と兄妹たちはわしが八歳の時に戦死した。突然の事じゃった。わしはその時、剣山(つるぎざん)の山伏と一緒に山に入って彫り物をしていたんじゃ。日暮れ近くに城に帰ったら、城は敵に奪われ、母も兄妹たちも皆、殺されていたんじゃよ。懐かしかったのう。みんな、あの時のままじゃった。みんなの言葉を聞いて、わしは涙を流したよ」
 ヒューガは照れくさそうに笑った。
「そうでしたか。ササは『瀬織津姫(せおりつひめ)様』に会えたのですね」
 ヒューガはうなづいた。
「富士山の裾野の森の中で会ったと言っておった」
「そうか。ササがやったか」とサハチは嬉しそうに笑った。
 ヒューガにリーポー姫の事を頼むと、ヒューガは少し考えてから、「名護(なぐ)までなら連れて行けるじゃろう」と言った。
「ミーニシ(北風)が吹き始めて来たからのう。本部(むとぅぶ)半島と伊江島(いーじま)の間でうろうろしていたら山北王の水軍に攻められるかもしれん。名護までなら大丈夫じゃろう」
「名護までで結構です。お願いします」とサハチは頼んだ。
 ヒューガと別れて、浜辺に出たサハチは空を見上げて、ユンヌ姫に声を掛けた。ヤマトゥ(日本)に戻ってしまったかもしれないと思ったが、
「ササたちは今、京都にいるわ」とユンヌ姫の声が聞こえた。
「いたのか、よかった。ササたちは阿波の国から京都に行ったのですか」
「阿波の国から奈良に行って、それから京都に戻ったのよ。御台所(みだいどころ)様(将軍義持の妻、日野栄子)と高橋殿も一緒よ。ササたちが京都に戻った次の日、交易船に乗っていた人たちも京都に着いたわ」
「えっ、今頃、着いたのか」とサハチは驚いた。
「戦(いくさ)のお陰で、博多で足止めを食らっていたのよ。でも、無事に京都に着いて、行列をしたわ。ササたちも加わってね。ササたちが御所に入ったので、あたしはアカナ姫とメイヤ姫を連れて琉球に戻って来たのよ。そろそろ、ミャーク(宮古島)のお船が帰る頃でしょう」
「ユンヌ姫様が一緒に行ってくれるのか」
「道案内よ」
「そうか。ミャークの船を見守ってくれ。ありがとう」
「任せてちょうだい」とアカナ姫とメイヤ姫が言った。
 ミャークの船はサシバを追って帰ると言っていたが、ユンヌ姫たちが一緒なら安心だった。
 サハチは浮島から南風原(ふぇーばる)の兼(かに)グスクに向かって馬を走らせた。
 兼グスク按司のンマムイと会って、リーポー姫の事を話し、中山王の使者として今帰仁に行ってくれと頼んだ。ンマムイは喜んで引き受けてくれた。妻のマハニも一緒に行きたいような顔をしたが、去年に生まれた三女のウニョンがいるので無理だった。
 兼グスクから首里グスクに向かったサハチは思紹(ししょう)(中山王)と相談して、リーポー姫の護衛として、苗代之子(なーしるぬしぃ)(マガーチ)に二十人の兵を率いさせる事に決めた。そして、思紹が書いた書状を油屋に届けた。
 翌日の晩、浮島の『那覇館(なーふぁかん)』で南の島から来た人たちの送別の宴が行なわれた。冊封使が来たので、サハチはあまりお世話ができなかったが、皆、楽しい時を過ごしてくれたようだった。
 ドゥナン島(与那国島)から来たナーシルは父親の苗代大親(なーしるうふや)と会って、苗代大親の家族たちにも歓迎された。マウシの妻のマカマドゥとも会っていた。山グスクから来たマカマドゥはナーシルに武当拳の試合を申し込んで、苗代大親の立ち合いのもと二人は戦った。勝負はなかなかつかなかったが、ほんの一瞬の差でナーシルが勝った。マカマドゥは悔しがりながらも、ナーシルを姉として認めた。
 苗代大親は同い年の与那覇勢頭(ゆなぱしず)と気が合って、与那覇勢頭は首里の武術道場で若い者たちを鍛えたり、慈恩寺(じおんじ)に行って、慈恩禅師の指導も受けたりしていた。
 クマラパは津堅島(ちきんじま)から帰って来てからは、ずっと慈恩寺にいて、ヤタルー師匠の代わりに師範を務めていた。山伏のガンジュー(願成坊)も修行者たちを鍛えていた。クマラパの妹のチルカマはギリムイヌル(先代越来ヌル)を手伝って、修行者たちの面倒を見ていた。クマラパの娘のタマミガは慈恩寺の隣りの『南島庵』で、イシャナギ島(石垣島)のミッチェ(名蔵若ヌル)とサユイ(於茂登岳の若ヌル)、ミャークのツキミガ(上比屋若ヌル)とインミガ(来間若ヌル)、多良間島(たらま)のイチ、ドゥナン島のユナパとフーと一緒に、女子サムレーたちと武芸の稽古に励んでいた。ナーシルもそこに通って、女子サムレーたちに槍投げの指導をした。それを見ていた慈恩禅師は苗代大親と相談して、修行者たちに槍投げの修行をさせる事にした。弓矢よりも威力のある槍投げ今帰仁攻めに使えそうだった。
 鍛冶屋(かんじゃー)のフーキチ夫婦は玻名(はな)グスクで暮らし、サタルーの案内で奥間(うくま)にも行っていた。フーキチは三人の若者を弟子にして、イシャナギ島に連れて行く事にした。
 サングルミー(与座大親)はペプチとサンクルを屋敷に迎えて、家族三人で暮らし、冊封使の接待で忙しいながらも幸せそうだった。ペプチは一旦、パティローマ(波照間島)に帰るが、マシュク村のヌルの座を妹に譲ったら、娘と一緒に琉球に戻って来ると約束していた。
 タキドゥン(竹富島按司とフシマ(黒島)按司とミャークのムカラーはサミガー大主(うふぬし)の屋敷に滞在して、カマンタ(エイ)取りを手伝い、毎晩、ウミンチュ(漁師)たちと一緒に酒盛りを楽しんでいたらしい。
 多良間島の女按司のボウ、野城(ぬすく)の女按司、与那覇(ゆなぱ)のウプンマ、根間(にーま)のウプンマ、ドゥナン島のラッパとアックは首里グスクに滞在して馬天ヌルを手伝い、池間島(いきゃま)のウプンマ、保良(ぶら)のウプンマ、高腰(たかうす)のウプンマ、大城(ふーすく)のツカサ、新城(あらすく)のツカサ、ユーツンのツカサは島添大里グスクに滞在して、安須森(あしむい)ヌル(先代佐敷ヌル)やサスカサ(島添大里ヌル)を手伝っていた。
 皆、楽しかったと言って、また来年も来たいと言っていた。
 リーポー姫たち、シーハイイェンたち、スヒターたち、アンアンたちもやって来て、別れを惜しんだ。来る時はミャークの船と一緒に来たが、アンアンたちはシーハイイェンたちとスヒターたちと一緒に帰る事にしたらしい。パティローマからトンド(マニラ)に行くのは難しく、明国の広州からトンドに帰った方が慣れた航路だった。
 サハチはみんなに挨拶をして回った。最初に挨拶をした与那覇勢頭は、「来年も必ず来ますよ」と言った。
琉球にヤマトゥの品々がこんなにも豊富にあるとは思ってもいませんでした。今まで、ヤマトゥの品々を手に入れるためにターカウまで行っていましたが、これからは琉球に来る事にします」
「歓迎いたします。琉球からも南の島に行ってみたいという人も出て来るでしょう。その時は連れて行って下さい」
「わしらも大歓迎です。目黒盛豊見親(みぐらむいとぅゆみゃー)も喜ぶでしょう。ところで、安須森ヌル様から察度(さとぅ)(先々代中山王)殿からいただいた刀の事を聞かれて、お見せしましたが、あの刀は中山王にとって大切な刀だったのではありませんか。安須森ヌル様は大切になさって下さいと言っただけでしたが、何となく気になっていたのです」
「昔、浦添(うらしい)の按司だった英祖(えいそ)殿という人がいまして、英祖殿がヤマトゥの鎌倉の将軍様から贈られた刀のようです。太刀(たち)と小太刀(こだち)と短刀の三つが揃って『千代金丸(ちゅーがにまる)』と呼ばれていたようです。今、太刀は山北王が持っていて、短刀は越来(ぐいく)のヌルが持っています。小太刀はどこに行ったのかわからなかったのです。目黒盛豊見親殿が持っている事がわかって、安須森ヌルも安心したようです」
「そんな大切な刀でしたら、中山王にお返しした方がよろしいのではありませんか」
 サハチは首を振った。
「与那覇勢頭殿はミャークから初めて琉球に来ました。その事に感激して、察度殿はその刀を贈ったのでしょう。大切にしていただければそれでいいのです。安須森ヌルは、その刀は居心地がよさそうだったので、ミャークに置いておくべきだと言っていました」
 与那覇勢頭はサハチを見つめてからうなづいた。
 クマラパに挨拶に行くと、「帰って来てよかった」と言って笑った。
津堅島の人たちも、わしらの事を覚えていてくれて歓迎してくれたし、慈恩禅師殿に出会えたのもよかった。武当拳について長年わからなかった事があったんじゃが、慈恩禅師殿に教えてもらったんじゃよ。慈恩禅師殿が編み出した『念流(ねんりゅう)』という剣術も凄いものじゃった。また来年も来たいと思っているんじゃ。よろしく頼むぞ」
「今年は冊封使が来ているので、何かと忙しくて、クマラパ殿とゆっくり話をする事もできませんでした。来年を楽しみにしています。来年はメイユーも来ると思いますので、ターカウの話を聞かせて下さい」
「伝説の女海賊と会えるか。噂は色々と聞いているんじゃが、わしは会った事はないんじゃよ。メイユーがそなたの側室になったとは驚いた。会うのが楽しみじゃ」
 思紹が帰って、マチルギが顔を出した。マチルギが何かとみんなの面倒を見ていたのをサハチは馬天ヌルから聞いていた。マチルギはニコニコしながらヌルたちに挨拶をして回っていた。
 タキドゥン按司も来てよかったと言っていた。来年は倅を送るので、よろしく頼むとサハチに言った。
 翌朝、ミャークの船はサシバを追って船出をした。誰もがササによろしくと言っていた。
 ミャークの船を見送ったあと、リーポー姫たちはヒューガの船に乗って名護へと向かって行った。

 

2-203.大物主(改訂決定稿)

 大粟(おおあわ)神社から鮎喰川(あくいがわ)を舟で下って八倉比売(やくらひめ)神社に戻ったササは、アイラ姫から父親のサルヒコの事を聞こうと思ったのに、アイラ姫はユンヌ姫と一緒に琉球に行ってしまっていた。幸いに『トヨウケ姫』がアキシノと一緒に残っていたので、ササはトヨウケ姫から『サルヒコ』の事を聞いた。
「父を祀った神社はいっぱいあるわ。阿波(あわ)の大麻山(おおあさやま)も、讃岐(さぬき)の金毘羅山(こんぴらさん)も父を祀っているのよ」とトヨウケ姫は言った。
「アイラ姫様が大麻山にサルヒコ様を祀ったと聞きましたが、金毘羅山にも祀ったのですか」
「金毘羅山は父が四国を平定した時に拠点にした場所なの。そこに神社ができて、役小角(えんのおづぬ)が金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)として、父を祀ったのよ」
役行者(えんのぎょうじゃ)様が‥‥‥そこに行けば、サルヒコ様に会えますか」
「多分、いないでしょう。いるとすれば、『三輪山(みわやま)』じゃないかしら」
三輪山も四国にあるのですか」
「四国じゃないわ。大和(やまと)の国(奈良県)よ。祖父(スサノオ)と父が三輪山の麓(ふもと)に都を造って、父はそこの御所にいて、ヤマトゥの国々をまとめていたのよ。亡くなったあと、三輪山に祀られたわ。父に会いたいの?」
「はい。一度も会っていないので、御挨拶したいのです」
「ちょっと気難しい人よ。でも、ササなら大丈夫ね。会ってくれると思うわ。三輪山に行くのなら住之江(すみのえ)の港から上陸すれば、一日で行けるわよ」
「住之江の港?」
「今、住吉大社(すみよしたいしゃ)がある所よ。あそこは重要な拠点だったから、祖父を祀る住吉大社ができたのよ」
 住吉大社なら熊野参詣に行く時にお参りしていた。宮司(ぐうじ)であり武将でもある津守摂津守(つもりせっつのかみ)が歓迎してくれたのをササは思い出した。
 御台所(みだいどころ)様(将軍義持の妻、日野栄子)と高橋殿に相談すると、兵庫に行って同じ道を帰るよりも、そっちの方が面白いと言って賛成してくれた。
 ササたちが勝瑞(しょうずい)の船着き場から船に乗って住吉大社に向かったのは九月の五日だった。いつの間にか九月になってしまい、ずっと南の島を旅していたササたちには、寒さが身に堪える季節になっていた。
 熊野参詣の時は何も考えずにお参りをした住吉大社も、ここにスサノオの拠点があったと聞いて、ササは興味を持ってお参りをした。
 宮司の話だと、ここだけでなく、重要な港には必ず住吉神社があって、博多とここをつないでいるという。対馬(つしま)と壱岐島(いきのしま)にも住吉神社はあった。カヤの国(朝鮮半島にあった国)から手に入れた鉄を運ぶ時、拠点となった港に、航海の無事を祈るための住吉神社が建てられたのだろうとササは思った。
 豪華な料理を御馳走になり、神宮寺(じんぐうじ)の宿坊(しゅくぼう)に泊まって、翌朝、三輪山に向かった。途中、河内(かわち)の守護所(しゅごしょ)がある高屋(羽曳野市)の城下に寄って、守護代の遊佐河内守(ゆさかわちのかみ)に歓迎されて、昼食を御馳走になったのはいいけど、護衛の兵まで付けてくれた。余計なお世話だが、御台所様が一緒にいるので仕方のない事だった。
 三輪山に着いたのは日暮れ近くになっていた。大和の国の奈良は南都と呼ばれて、昔、ヤマトゥの都だったはずだが、のどかな田園風景が続いていた。
「奈良の都はもっと北の方にあるわ。ここは大昔の都だった所よ」と高橋殿は笑った。
 御台所様も楽しそうに笑っていた。
 『三輪山』は富士山を小さくしたような形のいい山で、古くから神聖な山としてあがめられていた事がよくわかった。大三輪(おおみわ)神社(大神神社)の周辺には建物が建ち並んでいて賑やかだった。薄暗くなって来たので、参拝は明日にして、遊佐河内守が付けてくれた侍(さむらい)、水走助三郎(みずはいすけさぶろう)の案内で、ササたちは大きなお寺の宿坊に入った。高橋殿が一緒だと、泊まる所と食事の心配はしなくてもいいので助かっていた。
 そのお寺は平等寺という大三輪神社の別当寺(べっとうじ)で、奈良の都にある興福寺(こうふくじ)の末寺(まつじ)だという。興福寺は武力も持っていて、大和の国の守護も務めているという。お坊さんが国を治めていると聞いてササたちは驚いた。
「先代の将軍様足利義満)でも大和の国に守護として武将を送り込む事はできなかったのよ」と高橋殿は言った。
興福寺にも山伏がいっぱいいるのですか」とササは聞いた。
「ここは山伏がいっぱいいるけど、興福寺には僧兵がいっぱいいるのよ。最近はないけど、昔は気に入らない事があると、春日大社(かすがたいしゃ)の御神木(ごしんぼく)を奉じて京都まで行進して強訴(ごうそ)したのよ。相手が神様だから神罰を恐れて、手が出せないのよ」
武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)ですね」とササは聞いた。
 以前、高橋殿の屋敷で見た増阿弥(ぞうあみ)の田楽(でんがく)をササは思い出していた。
「そうよ。僧兵というのは弁慶みたいな人たちよ。頭巾(ずきん)をかぶって、大薙刀(おおなぎなた)を振り回すのよ」
 その夜の歓迎の宴(うたげ)では奈良の銘酒『菩提泉(ぼだいせん)』が出て来て、高橋殿は勿論の事、ササたちも、そのおいしいお酒を充分に堪能した。ササが『菩提泉』を琉球のお土産にしたいと言ったら、御台所様が将軍様に頼んであげると言ってくれた。
 翌日、平等寺の先達(せんだつ)山伏に連れられて、ササたちは大三輪神社に向かった。大三輪神社の神様は『三輪大明神(みわだいみょうじん)』あるいは『大物主大神(おおものぬしのおおかみ)』と呼ばれていて、どちらもサルヒコの別名のようだった。
 鳥居をくぐって参道に入ると、まっすぐ続いている参道の向こうに三輪山が見えた。参道には山伏、僧侶、神官、巫女(みこ)たちが行き交い、ササたちと同じように山伏に連れられた参詣客もいた。お寺や神社もいくつもあって、参詣客が一休みするお茶屋もあった。
 山門をくぐって境内に入ると正面に大きな拝殿があった。特に強い霊気は感じないが、心地よい神気が漂っていた。立派な拝殿の後ろに本堂はなく、三輪山御神体として祀っていた。
 ササたちは拝殿からお祈りをした。サルヒコの声は聞こえてこなかった。
 奥の宮はありますかとササは先達山伏に聞いた。奥の宮は三輪山の山頂にあるが登る事はできないという。先達山伏がどこかに行って宮司を連れて来た。御台所様と高橋殿の御威光(ごいこう)で、奥の宮には登れないが、拝殿の裏にある『三つ鳥居』に案内してくれた。
 三つの鳥居がくっついた不思議な鳥居があって、そこから先は神様の領域なので入れないという。拝殿ができる前は、ここでお祈りを捧げたが、拝殿ができてからは特別な人以外はここには入れないと宮司は言った。
 三つ鳥居の向こうには大きな杉の木が何本も立っていて、霊気がみなぎっていた。ササたちは三つ鳥居の前でお祈りを捧げた。
「ササというのはどいつじゃ?」という神様の低い声が聞こえた。
「わたしです」とササは答えた。
「話はトヨウケ姫から聞いた。琉球から来たそうじゃのう。アマン姫は元気にしておるかね?」
「はい。お元気です。アマン姫様を御存じなのですか」
「わしが親父(スサノオ)と一緒に九州に行った時、まだ六歳じゃった。わしらと一緒に九州平定の旅をしたんじゃよ。九州を平定して、わしらが九州を去った年に、アマン姫は琉球に行ったんじゃ。それ以後、会ってはおらん。十五歳の可愛い娘じゃった」
 神様は『サルヒコ』に違いないとササは確信した。
「そうだったのですか。アマン姫様は御先祖様として、琉球で大切に祀られております」
「そうか。それはよかった。『スクナヒコ』も大切に祀られておるのだな?」
「スクナヒコ? スクナヒコ様とはどなたですか」
「なに? スクナヒコを知らんのか」
 サルヒコは少し怒ったような口調だった。
「左端にいる娘はスクナヒコの子孫ではないのか」とサルヒコは言った。
 ササは驚いて、サルヒコから見て左端を見た。タミー(慶良間の島ヌル)がいた。
「あなた、スクナヒコ様を御存じなの?」とササはタミーに聞いた。
須久名森(すくなむい)の神様だと思います」とタミーは言った。
「えっ、須久名森? あそこに古いウタキ(御嶽)があるの?」
「わたしの伯母は須久名森のヌルでした」
「その娘が身に付けている勾玉(まがたま)は、わしがスクナヒコに贈ったものじゃよ」とサルヒコは言った。
「ええっ!」とタミーが驚いて声を上げた。
 ササたちも驚いてタミーを見ていた。
「これは伯母が身に付けていたガーラダマ(勾玉)です。でも、伯母はわたしが二歳の時に亡くなってしまったので、ほとんど覚えていません。母も十歳の時に亡くなってしまって、わたしは大叔父に育てられました。わたしがヌルになった時、大叔父は伯母がヌルだった事を話してくれました。そして、わたしがヤマトゥ(日本)に行く時、伯母の形見だと言って、このガーラダマをわたしの首に掛けてくれたのです。このガーラダマがそんなに古い物だったなんて、初めて知りました」
「スクナヒコは琉球では忘れ去られてしまったのか。情けない事じゃな」とサルヒコは言った。
「タミーと一緒に、わたしが復活させます」とササは言った。
「スクナヒコ様がどんなお方だったのか教えて下さい」
「奴のためじゃ。話してやろう。奴は豊玉彦(とよたまひこ)の船乗りとして琉球とヤマトを行ったり来たりしていたんじゃよ。わしが初めて奴と出会ったのは、当時、琉球に行く船が出ていたアイラ(鹿屋市)じゃった。小柄な男だったが、賢い奴でな、わしは軍師としてスクナヒコを迎えたんじゃよ。わしはスクナヒコと一緒に四国を平定してから、ここに来て、親父と一緒に三輪山の麓に都を造ったんじゃよ。この地がヤマトと呼ばれていたので、この国を『ヤマトの国』と呼び、今までに平定した国々をまとめて『大(おお)ヤマト』と呼ぶように決めたんじゃ。当時は奈良の盆地は湖になっていて、湿地帯も多かったんじゃ。稲作に適した土地だったんじゃよ。都ができてからも、わしらはここに落ち着く事なく、北へと向かって越(こし)の国(福井県、石川県、富山県新潟県)を平定して大ヤマトの国に加えたんじゃよ。ここに都が造れたのも、四国や越の国を平定できたのも、わしらだけでは無理じゃった。スクナヒコが一緒にいてくれたからできたんじゃ。奴は立派な軍師じゃった。決して忘れてはならない英雄なんじゃよ」
 そんな人がいたなんて全然知らなかった。
「勿論、豊玉姫(とよたまひめ)様もスクナヒコ様の事を御存じなのですね」とササは聞いた。
「当然じゃ。スクナヒコは豊玉姫様を送って、一緒に琉球に帰って行ったんじゃ」
 豊玉姫はどうして教えてくれなかったのだろうとササは思ったが、以前、ユンヌ姫が忘れ去られたウタキの事をササに教えて怒られたと言ったのを思い出した。教えられるのではなく、自分で見つけなければならないのだった。
琉球に帰ったら須久名森に行って、スクナヒコ様を探して、お祀りいたします」とササは約束してから、「サルヒコ様は大物主大神様と呼ばれていますが、『大物主』というのはどういう意味なのですか」とサルヒコに聞いた。
 琉球には『大主(うふぬし)』という尊敬すべき人に付ける称号がある。それと関係あるのかしらとササは思っていた。
「当時は天皇という言葉はなかったんじゃよ。国の指導者を『国主(くにぬし)』といい、いくつもの国をまとめている者を『大国主(おおくにぬし)』と呼んだんじゃ。当時、大ヤマトには三人の大国主がいた。九州をまとめていた『日向(ひむか)(宮崎県)の大国主』、中国地方と四国をまとめていた『出雲(いづも)(島根県)の大国主』、木の国(和歌山県)から越の国までをまとめていた『大和(奈良県)の大国主』の三人じゃ。その三人のうちの一人が、すべての国を治める『大物主』になるんじゃよ。親父は出雲の大国主として大物主になって、わしは大和の大国主として二代目の大物主になった。わしが亡くなったあと、出雲にいた『ホアカリ』が大和の都に来て、三代目の大物主になった。ホアカリが亡くなったあと、日向にいた九州の大国主だった『玉依姫(たまよりひめ)』が大物主になったんじゃよ」
「えっ、玉依姫様は『豊(とよ)の国(大分県)』にいたんじゃないのですか」
「親父が亡くなったあと、九州で戦が始まったんじゃよ。何とか平定する事はできたんじゃが、豊の国にいたのでは睨みがきかんので、玉依姫は日向の国に移ったんじゃ。日向の国には『隼人(はやと)』と呼ばれる南の島から来た人たちが住んでいた。豊玉姫様の娘の玉依姫は快く迎えられて、国主になったんじゃよ」
玉依姫様はここには来なかったのですか」
「来ていない。わしも呼びたかったんじゃが、九州を離れる事はできなかったんじゃろう。わしが亡くなってから五十年後、アイラ姫の孫娘がここにやって来て、大物主を継いでいる」
「えっ、アイラ姫様の孫娘が大物主になったのですか」
「そうじゃ。『豊姫(とよひめ)』じゃよ」
「えっ、豊姫様はアイラ姫様の孫娘だったのですか」
「そうじゃ。アイラ姫の娘が豊の国のミケヒコの孫に嫁いで、豊姫が生まれたんじゃよ。豊姫は玉依姫の跡継ぎになって、日向の大国主になったんじゃ。そして、わしの曽孫(ひまご)のアシナカヒコに嫁いで来た。玉依姫が亡くなって、大ヤマトの国々が分裂するのを防ぐために、豊姫は大和の都に嫁いで来たんじゃよ。豊姫の墓は近くにある。行ってみるがいい。それとな、生駒山(いこまやま)に『伊古麻津姫(いこまつひめ)』という古い神様がおられる。わしも何度か助けられたんじゃが、詳しい事はわからんのじゃ。お前ならわかるかもしれんな」
生駒山に行ってみます」とササは言ってから、「一つ聞きたい事があるのですが、玉依姫様は母親違いの妹ですよね。どうして、玉依姫様と結ばれたのですか」と聞いた。
「そんな事はわしにはわからん。好きになっちまったんだから仕方のない事じゃろう」
「当時は許されたのですか」
「今のように夫婦というものもなかったんじゃよ。同じ腹から生まれた兄妹が結ばれるのはうまくないが、腹が違えば何の問題もなかったんじゃ。玉依姫は実にいい女じゃった。いつも一緒にいたいと願っていたんじゃが、アイラ姫が生まれる前に別れて、その後、会う事はなかったんじゃ。お互いに亡くなってからはよく会っているがのう。実はお前の事は玉依姫からよく聞いていたんじゃよ」
 そう言ってサルヒコは笑っていた。
 ササはサルヒコにお礼を言って別れた。
 先達山伏の案内で、昔、大和の都があったという所に行ったが、稲刈りが終わった田んぼが広がっているだけだった。
「一千年余り前に、ここにヤマトの国の都があったと伝えられております。初代の天皇は『神武(じんむ)天皇』で、ここに立派な御所が建てられたそうです」と先達山伏は説明した。
神武天皇というのはスサノオの神様の事ですか」とササが聞いたら、
「まさか?」と言って先達山伏は笑った。
スサノオは熊野の神様じゃろう。大峯山(おおみねさん)の蔵王権現(ざおうごんげん)様もスサノオかもしれんが、神武天皇ではあるまい」
 そう言ったが少し考えてから、「神武という字は『神』と武勇の『武』じゃ。勇ましい神様と言ったら、スサノオという事になるのう」と言った。
 先達山伏は納得したように一人でうなづき、「もしかしたら、スサノオの神様の事かもしれんのう」とササを見て笑った。
 都の跡地の西側に大きな池があって、その中に樹木に覆われた大きなお墓があった。
 豊姫のお墓は『箸墓古墳(はしはかこふん)』と呼ばれていた。『日本書紀』という古い書物に、豊姫とは何の関係もない伝説が載っていて、いつしか箸墓古墳と呼ばれるようになったという。
 豊姫のお墓は前方後円墳と呼ばれていて、このお墓ができてから、このお墓を真似した大きなお墓が各地にできるようになったと先達山伏は言った。
 若ヌルたちが、「凄い!」と言って騒いでいた。ササたちは池の手前にひざまづいてお祈りを捧げた。神様の声は聞こえなかった。
「お留守かしら?」とササはお墓を見つめてから、空を見上げた。
「ちょっと待って」とアキシノの声がした。
「トヨウケ姫様が探しに行っているわ」
 ササはうなづいて、お祈りを続けた。
 ササが豊姫の事を知ったのは池間島(いきゃま)のウパルズの話からだった。その後、パティローマ(波照間島)に行って、パティローマ姫から豊姫が九州から奈良に嫁いだと聞いた。豊姫は玉依姫の弟、ミケヒコの曽孫と聞いていたので、ミケヒコを知らないササにとって、あまり馴染みはなかった。しかし、アイラ姫の孫娘だと聞いて、会いたくなっていた。
「連れて来たわよ」とトヨウケ姫の声が聞こえた。
「あなたの事は曽祖母様(ひいおばあさま)(玉依姫)から聞いているわ。会いに来てくれたのね。『ヌナカワ姫』が遊びに来たので、ちょっと、お山の上でお話をしていたの」と豊姫が言った。
「ヌナカワ姫様って、翡翠(ひすい)の国のお姫様ですか」とササは聞いた。
「そうよ。曽祖父様(ひいおじいさま)と結ばれて、二人の子供を産んだのよ」
「曽祖父様ってサルヒコ様の事ですか」
「そうよ。越の国を平定するために北に行った時、翡翠の国でヌナカワ姫と出会って、曽祖父様は一目惚れしたんですって」
瀬織津姫(せおりつひめ)様と仲良しだったヌナカワ姫様の子孫よ」とトヨウケ姫が言った。
翡翠の国の首長は代々、ヌナカワ姫を名乗っていたのよ」
「今もヌナカワ姫様はいらっしゃるのですか」
「今はもういないわ。勾玉が廃れてしまって、翡翠の国も消滅してしまったの。ヌナカワ姫の子孫は『奴奈川神社(ぬなかわじんじゃ)』の宮司を務めているわ」
「お祖母様(アイラ姫)は琉球に行ったそうね」と豊姫が言った。
「従妹(いとこ)のユンヌ姫様と一緒に行きました」とササは答えてから、「広田神社の浜の南宮で豊姫様が奉納した『宝珠(ほうじゅ)』を拝見いたしました」と言った。
「懐かしいわ」と豊姫は笑った。
「あの年は本当に大変だったわよ。大物主だった夫が筑紫(つくし)(福岡県)の香椎宮(かしいのみや)で、急に亡くなってしまったのよ」
「えっ?」とササだけでなく、何人かが言った。
「最初から話さないとわからないわね」と言って、豊姫は玉依姫が亡くなった時の事から話してくれた。
曽祖母様は偉大な人だったわ。曽祖母様が亡くなって、わたしは九州を統治していた『日向の大国主』を継いだのよ。大物主はホアカリ様の息子の大和の大国主が継ぐ事に決まったんだけど、大物主を継ぐ前に亡くなってしまったの。それで、誰が大物主になるのかが問題になったのよ。大和はホアカリ様の孫のアシナカヒコ様が大国主を継いで、出雲はイタケル様(サルヒコの弟)の曽孫のタケヒコ様が大国主を継いでいたわ。各国から長老たちが集まって相談したんだけど、なかなか決まらなかったわ。誰が継いだとしても内乱が始まりそうな雰囲気だったの。そして、決まったのが、日向の大国主のわたしが大和の大国主のアシナカヒコ様に嫁いで、二人で協力して大ヤマトの国々をまとめるという事だったの。わたしは大和の都に嫁いで、アシナカヒコ様が大物主になったわ。わたしは都の人たちに歓迎されたけど、都に落ち着く暇もなく、わたしたちは各国に挨拶回りをしなければならなかったのよ」
「九州の大国主が奈良に来てしまって、九州は大丈夫だったのですか」とササは聞いた。
「豊の国にはわたしの父がいて、日向の国には妹のソラツ姫がいたから大丈夫だろうと思ったのよ。わたしたちは角鹿(つぬが)(敦賀)の笥飯宮(けひのみや)に行って、木の国(和歌山県)の德勒津宮(ところつのみや)に行って、吉備(きび)(岡山県)の高島宮(たかしまのみや)に行って、国主たちに挨拶をしたわ。出雲の杵築宮(きづきのみや)に行って、出雲の大国主に挨拶をして、穴門(あなと)(長門)の豊浦宮(とよらのみや)に行った時、九州で問題が起きたのよ。南部にいる隼人たちが反乱を起こしたの。阿蘇津姫(あそつひめ)様の子孫たちで、山の中で暮らしている人たちなの。『熊襲(くまそ)』って呼ばれていたわ。海で暮らしている隼人たちは大ヤマトの国造りに協力してくれたけど、熊襲たちは反抗的だったの。それでも、曽祖母様が日向の国にいた時は、従ってくれていたのよ。曽祖母様が亡くなって、跡を継いだわたしが大和に行ってしまったので、また騒ぎ出したのよ。わたしが説得するって言ったんだけど、夫は攻め滅ぼすって言い張って戦支度を始めたの。わたしは熊襲退治よりも、カヤの国を攻めているシラの国(後の新羅)を退治すべきよと言ったけど、聞いてはくれなかったわ。筑紫の香椎宮に移って、戦の準備が整うと夫は兵を率いて松峡宮(まつおのみや)に向かったの。わたしは連れて行ってもらえなかったわ。お前が行けば静まるだろうが一時的な事だ。また騒ぎ出すに違いない。一気に滅ぼすと言って出陣したんだけど、負けてしまったのよ。夫は大怪我をして帰って来て、傷が悪化して亡くなってしまったわ。大変な事になってしまって、このまま帰るわけには行かなくなってしまったの。せっかくまとまり掛けていたのに、大物主の戦死が知れ渡ったら大ヤマトの国々は分裂してしまうわ。わたしは神様に祈って、シラの国を攻める事に決めたのよ。神様の御加護があって、航海も無事で、戦にも勝ったわ。筑紫に帰って、わたしは息子を産んだの。大和に帰る時、夫の息子たちが攻めて来たけど、それも何とか倒したわ。大和の都に帰って、わたしは大物主を継いだのよ」
「夫の息子たちって、豊姫様が嫁いだ時、別に奥さんがいたのですか」
「いたわ。わたしが嫁いだ時、夫は四十歳に近かったのよ。二人の息子がいて、わたしが息子を産んだのを知って、わたしたちを亡き者にしようと攻めて来たのよ。シラ国攻めが成功したお陰で、わたしは大物主になる事を認められて、大ヤマトの国々も分裂する事はなかったわ。わたしを守ってくれた瀬織津姫様に感謝して、広田神社を創建したのよ」
 お墓の東側にあったという都の様子を聞いて、ササたちは豊姫にお礼を言って別れた。
 平等寺に帰って昼食を食べ、午後は三輪山の東側にある長谷寺(はせでら)をお参りした。このお寺にも大勢の山伏たちがいた。高橋殿は先代の将軍様と一緒に来た事があると言った。
 翌日、生駒山に向かって、途中、南都の興福寺に寄った。大和の国の守護を務めているだけあって、興福寺は大きなお寺だった。噂に聞く僧兵も大勢いた。頭巾をかぶって腰に刀を差し、薙刀(なぎなた)や槍を杖(つえ)代わりに突いていた。先代の将軍様興福寺にはよく来ていたらしく、先代の将軍様が利用した宿坊に案内されて、昼食を御馳走になった。
「北山殿(足利義満)と一緒にここに来て、一乗院で世阿弥(ぜあみ)様の猿楽(さるがく)を観たのを思い出したわ」と高橋殿が言った。
「わたしが側室になったばかりの頃よ。もう二十年も前の事ね」
 昼食の後、興福寺別当を務めている春日大社をお参りした。春日大社の神様は藤原氏の神様で、御台所様の実家の日野家藤原氏なので、お参りができてよかったと御台所様は喜んでいた。
「ここの神様は俺の故郷の神様ですよ」と飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)が言った。
香取神宮の『フツヌシ』の神様と鹿島神宮の『タケミカヅチ』の神様です。どちらも武芸の神様です」
「えっ、藤原氏の神様って、武芸の神様だったの?」と御台所様が驚いた。
「それに、関東の神様がどうして、藤原氏の神様なの?」
 修理亮は首を傾げたが、案内してくれた興福寺の山伏が答えてくれた。
藤原氏の御先祖様の中臣鎌足(なかとみのかまたり)様は常陸(ひたち)の国(茨城県)で生まれたようです。詳しい事はわかりませんが、父親が鹿島神宮の神官だったとも伝えられています。鎌足様の息子の不比等(ふひと)様が、春日山に鹿島の神様をお祀りしたのが春日大社の始まりのようです」
香取神宮の大宮司(だいぐうじ)は大中臣氏で、鹿島神宮の大宮司を務める鹿島氏も中臣姓だったと聞いた事があります」と修理亮が言った。
 香取と鹿島の神様の事は以前、ホアカリから聞いた事があった。ホアカリは浅間大神(あさまのおおかみ)と関係ありそうだと言っていた。もしかしたら、瀬織津姫の孫たちだろうかとササは思った。
「あなた、故郷に帰りたくなったんじゃないの?」とカナ(浦添ヌル)が聞いた。
 修理亮は笑いながら首を振って、「まだ帰れんよ。まだまだ修行を積まなければならん」とカナに言った。
 興福寺門前町には商人たちの大きな屋敷が並んでいた。興福寺の山伏の案内で、ササたちは奈良の街中を通り越して西へと向かった。途中でちょっとした峠を越えたがあとは平坦な道で、一時(いっとき)半(三時間)ほどで生駒山の東麓にある『生駒神社(往馬坐伊古麻都比古神社)』に着いた。
 鳥居をくぐって石段を登り、山門をくぐって、さらに石段を登ると拝殿が見えた。どこからか巫女を連れた宮司が現れて、ササたちを出迎えた。興福寺から知らせが入ったとみえて、宮司は御台所様と高橋殿がいる事を知っていた。宮司の案内で拝殿に行き、本殿の方を見るといくつものお堂が並んでいた。
「当社は七座の神様を祀っております」と宮司が言った。
「創建当初は生駒山の神様であられる伊古麻津彦(いこまつひこ)様と伊古麻津姫様を祀っておりましたが、東大寺が建てられた頃、神功皇后(じんぐうこうごう)様、神功皇后様の夫の仲哀(ちゅうあい)天皇様、お二人の息子の応神(おうじん)天皇様、それと、神功皇后様の御両親様の五座の神様が加わったようでございます」
 中央におられるのが伊古麻津姫様かと聞いたら、伊古麻津姫様は一番右端で、中央におられるのは仲哀天皇様だと宮司は言った。
 一体、誰が伊古麻津姫様を隅の方に追いやってしまったのだろうとササは少し腹を立てていた。
 お祈りを捧げると、すぐに神様の声が聞こえた。
「阿波の叔母様(阿波津姫)からササの事を聞いて待っていたのよ」
「『伊古麻津姫様』ですか」とササは聞いた。
「そうよ。母は武庫津姫(むこつひめ)、祖母は瀬織津姫よ。祖母が突然、現れたのでびっくりしたわ。祖母が元気になったのはササのお陰だってね、ありがとう」
 神様にお礼を言われて何と答えたらいいのかわからず、ササは別のことを聞いた。
「伊古麻津姫様はどうして、生駒山にいらっしゃったのですか」
「当時はね、生駒山は半島のように突き出ていて、東側も西側も海だったのよ。武庫山からお舟で来られたのよ。三輪山の近くまでお舟で行けたわ。伊勢に叔母の伊勢津姫様がいたので、わたしは伊勢までの陸路を開いたのよ。母のいる武庫山から伊勢まで行くのは木の国(和歌山県)を一回りしなければならないので遠いのよ。陸路も険しい山道だけど、お舟で行くよりも早く着けたわ。伊勢まで行けば、祖母のいる富士山も近いしね」
「サルヒコ様たちがここに来る前から、伊古麻津姫様の御子孫たちがこの辺りに住んでいたのですね」
「そうよ。サルヒコが来た時、わたしの子孫のトミヒコはサルヒコに従ったのよ。トミヒコの妹がサルヒコに嫁いで、うまくやっていたわ。でも、サルヒコが亡くなるとトミヒコは妹が産んだ『ウマシマジ』に大物主を継がせようとして、出雲から来たホアカリを倒そうとしたのよ。ホアカリはサルヒコの息子だから喜んで迎えなさいと言ったんだけど、言う事を聞かなかったわ。神罰が下ってトミヒコは亡くなったのよ。ウマシマジは伯父に反対して、岩屋に閉じ込められていたから助け出されて、兄のホアカリに仕えたわ。尾張(おわり)(愛知県)と美濃(みの)(岐阜県)を平定したのはウマシマジだったのよ。お陰でわたしの子孫たちは尾張や美濃にもいるわ」
 聞きたい事があったような気がしたけど、日も暮れてきたので、伊古麻津姫様と別れて、ササたちは神宮寺に行って宿坊に納まった。
 次の日は役行者が開いたという山の中にある『千光寺』を参詣した。遊佐河内守の家臣の水走助三郎は生駒山の西麓にある枚岡(ひらおか)神社の宮司の息子だった。生駒山の事なら任せておけと言って案内してくれた。覚林坊(かくりんぼう)も千光寺には行った事があると言っていた。
 九月九日の重陽(ちょうよう)の節句で、境内には菊の花が飾られて、菊酒が振る舞われていた。いい時に来たわねと皆で喜んで、綺麗な菊の花を眺めながら、ササたちは菊酒を御馳走になった。
 生駒山役行者が開いた修験(しゅげん)の山で、空海も修行を積んでいたらしい。山伏たちも集まって来て、重陽節句を祝っていた。
 琉球の交易船が兵庫に着いたとアキシノが知らせてくれたので、ササたちは京都に帰る事にした。

 

2-202.八倉姫と大冝津姫(改訂決定稿)

 高橋殿と御台所(みだいどころ)様(将軍義持の妻、日野栄子)のお陰で、『浜の南宮』の秘宝である『宝珠』をササたちは拝むことができた。
神功皇后(じんぐうこうごう)様が豊浦(とゆら)の津(下関市長府)で海中より得られた如意宝珠(にょいほうじゅ)でございます。神功皇后様はこの宝珠のお陰で、危険な目に遭っても、それを乗り越えて、戦(いくさ)にも勝ち続けたのでございます。三韓征伐(さんかんせいばつ)から凱旋(がいせん)なされた時、『広田神社』を創建なされて、大切な宝珠を奉納されました。それからずっと、広田神社の秘宝としてお守りしております」
 宮司(ぐうじ)はそう説明した。一千年余りもの間、守り通したなんて凄い事だとササは思った。
 宝珠は直径二寸(約六センチ)弱の球形で、真ん中に一寸程の剣のような物が見えた。宮司の説明によると、『剣珠(けんじゅ)』とも呼ばれていて、古くから歌や詩にも詠まれているという。
 ササたちはお祈りをして、宮司にお礼を言って、浜の南宮をあとにした。
 兵庫の港にはまだ琉球の船はなかった。細川家の船に乗って、ササたちは阿波(あわ)の国(徳島県)に向かった。
 淡路島の東側を通って、四国の島に着くと吉野川を遡(さかのぼ)って、賑やかな船着き場から上陸した。
「ここが阿波の国の都、『勝瑞(しょうずい)(藍住町)』です」と細川右馬助(うまのすけ)が自慢そうな顔で、ササたちに言った。
「阿波の守護所は秋月郷(阿波市)にあったんだけど、右馬助の伯父さんが五十年前に、ここに移したのよ」と高橋殿が言った。
 人々が行き交う大通りの両脇には家々が建ち並んで、まるで京都のように栄えていた。大通りの突き当たりに、堀と土塁に囲まれた守護所があった。
 櫓門(やぐらもん)には武装した門番がいて、右馬助の顔を見ると驚いた顔をして、「若様」と言った。右馬助が高橋殿を紹介すると、さらに驚いた。別の門番が慌てて、どこかに走って行った。
 ササたちは守護所に入った。そこは塀に囲まれた広い庭で、厩(うまや)と侍(さむらい)の屋敷らしい建物が建っていた。右馬助に従って塀にある門を抜けると、そこには大きな屋敷がいくつも建っていた。
 守護所を守っている守護代の武田修理亮(しゅりのすけ)が現れて、ササたちは歓迎された。武田修理亮はササの噂を聞いていて、琉球のお姫様がやって来たと大喜びしたが、一緒にいるのが御台所様だと知ると、驚きのあまりに固まってしまった。
「お忍びだから内緒にしてね」と御台所様に言われて、武田修理亮は、「ははあ」と言って頭を下げた。
 ササたちは立派な客殿に案内されて、くつろいだ。
「先代の将軍様がここに来た時に利用した客殿よ」と高橋殿は言った。
「右馬助の伯父さんの細川常久(じょうきゅう)様(頼之)は、四国の四つの国の守護を務めていて、先代の将軍様が幼かった頃から管領(かんれい)という補佐役を務めて来た人なの。わたしが側室になった年に亡くなってしまったけど、北山殿(足利義満)から常久様の話はよく聞いたわ。北山殿が最も信頼していた人だったのよ」
 その夜、歓迎の宴(うたげ)が開かれて、豪華な料理を御馳走になった。新鮮な海産物はとてもおいしかった。若ヌルたちも高橋殿のお陰でお酒に慣れたとみえて、ニコニコしながらお酒を飲んで、おいしいと言いながら魚の刺身を食べていた。
 歓迎の宴に参加していた重臣たちの中に、三好筑前守(みよしちくぜんのかみ)という武将がいた。父の事を聞きたかったがササは黙っていた。
 高橋殿が調べた所によると、南北朝(なんぼくちょう)の戦の時、南朝方の阿波守護だった小笠原氏の守護代として『三好日向守(ひゅうがのかみ)』という武将がいて活躍していたという。五十年前に讃岐(さぬき)の国(香川県)で白峰(しらみね)合戦という大きな戦があって、三好日向守は戦死した。
 三好家も南朝北朝に別れて争っていて、細川家の家臣になっている三好氏は、三好日向守を倒した三好氏だから、三好日向の名前は口にしない方がいいと言われた。それと、白峰合戦から十数年後、『三好日向』を名乗る天狗のような男が現れて、南朝方の山伏たちを率いて、北朝方の細川氏を悩ませていたらしい。その三好日向は五年くらい活躍していたが、忽然(こつぜん)と姿を消してしまったという。天狗のような三好日向は、父に違いないとササは思った。
 翌日、一宮(いちのみや)城主の一宮長門守(ながとのかみ)の息子、又五郎の案内で、ササたちは『八倉比売(やくらひめ)神社』に向かった。
 昨夜、又五郎から一宮城の近くにある八倉比売神社に豊玉姫(とよたまひめ)様が祀られていると聞いたからだった。どうして、四国に豊玉姫様が祀られているのだろうと不思議に思ったが、ユンヌ姫に聞いたら、玉依姫(たまよりひめ)の娘の二代目豊玉姫だと教えてくれた。
「お祖母(ばあ)様(豊玉姫)が亡くなって、伯母様の次女が二代目の豊玉姫を名乗ったのよ。それまでは『アイラ姫』って呼ばれていたわ。アイラ姫は弓矢の名人で、鉄の鏃(やじり)の付いた矢を阿波の国に持って来たのよ。ウミンチュ(漁師)たちやヤマンチュ(猟師)たちに喜ばれたわ。ウミンチュたちは鉄の鏃をトゥジャ(モリ)に付けて魚(いゆ)を捕って、ヤマンチュたちは鉄の弓矢で獲物を仕留めたのよ。アイラ姫は亡くなったあと矢の神山に祀られて、やがて、お山の中腹に移されて、八倉比売神社になったのよ」
「八倉姫って、矢の倉の事ですか」
「そうよ。アイラ姫のお屋敷に矢の倉があって、矢が欲しい人たちが、海の幸や山の幸を持ってやって来ていたのよ。アイラ姫自身も弓矢を持って、お山の中を駆け回っていたわ。剣山(つるぎざん)にも登って、山頂にお祖父(じい)様(スサノオ)とお祖母様を祀ったわ。お父様のサルヒコは大麻山(おおあさやま)に祀ったのよ」
大麻山ってどこにあるの?」
「守護所の北に見えるお山よ」
「お母様の玉依姫様はどこに祀ったの?」
「お母様は長生きしたから祀れなかったのよ。お母様が亡くなった二年後に、アイラ姫は亡くなったわ。八倉比売神社でアイラ姫が待っているわよ」
「アイラ姫様はあたしのお父さんの事を知っているかしら?」
「さあ、どうかしら?」とユンヌ姫は頼りない返事をした。
 守護代の武田修理亮が警護の兵を付けてくれたので、大げさな一行になっていた。吉野川を渡し舟で渡って、鮎喰川(あくいがわ)を左に見ながら一時(いっとき)(二時間)余り歩くと八倉比売神社に着いた。この辺りは国府と呼ばれる古い都があった所で、古いお寺や神社がいくつも建っていた。
 『八倉比売神社』はいくつもの鳥居をくぐって坂道を登り、さらに石段を登った上にあった。神気の漂う森の中に古い神社が建っていた。侍たちと一緒に、腰に刀を差した女たちがぞろぞろとやって来たので、何事かと神官やら巫女(みこ)やら山伏やらが驚いた顔をして、ササたち一行を見ていた。
 宮司も顔を出して、一宮又五郎を迎えた。宮司は女性で、六十歳を過ぎた老婆だった。琉球のお姫様が参拝に来られたと又五郎が伝えたら、驚いた顔をしてササたちを見た。
 宮司の案内で拝殿から参拝したが、アイラ姫の声は聞こえなかった。
「この神社に奥の宮はありますか」とササは宮司に聞いた。
「奥の宮は気延山(きのべやま)の山頂にございます。古くはこの神社も山頂にありましたが、七百年程前にお山の麓(ふもと)に国府ができて、都として栄えた頃、山頂からこの地に遷座(せんざ)なさいました。当時は『矢の神山』と申しておりましたが、源義経(みなもとのよしつね)公が平家攻めの時に矢の神山に登って、一休みなさいましたので、『気延山』と呼ばれるようになったのでございます。そして、この神社は八倉姫様のお墓の上に建っているのでございます」
「えっ、お墓の上?」と言って若ヌルたちが騒いだ。
「古墳と呼ばれる古いお墓でございます。この辺りにはいくつもの古墳がございます。八倉姫様の御子孫たちの古墳でございましょう」
 ササたちは山伏の案内で、気延山に登った。四半時(しはんとき)(三十分)も掛からず、山頂に着いた。山頂には祭壇のような岩座(いわくら)があって、その近くに石の祠(ほこら)が祀ってあった。
 ササたちは祭壇の前に跪(ひざまず)いてお祈りをした。
「あなたがササなのね」と神様の声が聞こえた。
「噂は聞いているわ。よく来てくれたわね。歓迎するわよ」
「『アイラ姫様』ですか」とササは聞いた。
「そうよ。トヨウケ姫とホアカリの妹のアイラ姫よ。南の島に行って来た兄から、ササの事は色々と聞いたわ。瀬織津姫(せおりつひめ)様まで探し出したなんて凄いわね。鮎喰川を遡って山奥に入って行くと、『大粟山(おおあわやま)』というお山があるわ。そのお山に、『大粟姫様』という古い神様が祀ってあるの。剣山一帯に住んでいる人たちの御先祖様なんだけど、詳しい事はよくわからなかったのよ。今の地に八倉比売神社が建てられた頃、大粟山の中腹にも大粟神社が建てられて、『大冝津姫(おおげつひめ)様』が祀られたわ。大冝津姫様というのは大粟姫様の事なんだけど、詳しい事はよくわからなかったの。何度か、声は聞いた事があるんだけど、わたしの方から話しかけても返事はいただけなかったのよ。ササのお陰で、大粟姫様が瀬織津姫様の娘の『阿波津姫(あわつひめ)様』だってわかって、ようやく、謎が解けたわ。ありがとう」
「わたしが瀬織津姫様に出会えたのは、父と母が出会ったお陰なのです」とササは言った。
「わたしの祖母は大粟神社の巫女の娘だったのです。わたしと同じ、笹という名前です。御存じありませんか」
「残念ながら知らないわ。大粟神社で聞けばわかるんじゃないの?」
「はい。これから行こうと思っています。父の名は『三好日向(みよしひゅうが)』です」
「三好日向なら知っているわよ。小次郎の事でしょう」
「えっ、父を御存じなのですか」
 ササは驚いた。三好日向を名乗る前の父の名前は確かに小次郎だった。
「あなたのお父さんが小次郎だったなんて驚いたわね。小次郎ならよく知っているわ。初めて会ったのは十二、三の頃だったわ。妙蓮坊(みょうれんぼう)という剣山の山伏と一緒に来て、わたしを彫った像を奉納したのよ。荒削りな神像だったけど気に入ってね、その後の小次郎を見守る事にしたのよ」
「父が十二、三の時に彫った神像があるのですか」
「八倉比売神社の観音堂の中にあるわ。一尺ほどの像だからすぐにわかるわよ」
「帰りに見てみます。父が三好日向として活躍した事も御存じなのですね?」
「戦で家族を失った小次郎は伯母を頼って大粟神社に行ったのよ。家族の敵(かたき)を討つために妙蓮坊から武芸を習っていたわ。小次郎の敵は大西城の城主、三好孫二郎だったの。小次郎が十六歳の時、師匠の妙蓮坊が亡くなってしまって、小次郎は武者修行の旅に出たわ。当時、南朝(なんちょう)の国と言われていた九州を巡って、山伏たちがいる各地の修験(しゅげん)の山々を登って、熊野に行く途中で、慈恩禅師(じおんぜんじ)と出会うのよ。慈恩禅師と一緒に旅をしながら武芸の修行に励んで、阿波に帰って来たのは二十一歳の夏だったわ。五年間、留守にしていた間に、状況もすっかり変わってしまっていたの。阿波だけじゃなくて、讃岐も伊予(いよ)(愛媛県)も土佐(とさ)(高知県)も四国全土が細川氏によって平定されていたのよ。それでも、山奥には細川氏に反抗していた武士たちがいたの。小次郎はそんな武士たちと一緒に細川氏と戦っていたわ。その時、祖父が名乗っていた『日向』を名乗ったのよ。五年間、小次郎は細川氏と戦っていたけど、最後まで抵抗していた祖谷山(いややま)の菅生(すげおい)氏が細川氏に降参すると、小次郎も敵討ちを諦めて阿波から姿を消したのよ。対馬(つしま)に渡って、平和に暮らしていると思っていたけど、琉球に行ったのは知らなかったわ」
「父は敵討ちを諦めたのですか」
「慈恩禅師の教えがわかったのよ。慈恩禅師も若い頃、敵討ちをしたわ。敵討ちの虚しさを身をもって体験している慈恩禅師の気持ちがわかったんじゃないかしら。それに、敵だった三好孫二郎も小次郎が討つ前に亡くなってしまったしね」
「そうでしたか‥‥‥アイラ姫様がこの島にいらした時、この島はどんな風だったのですか」
「わたしが来た時、この島は東側が『粟(あわ)の国』、西側が『魚(いを)の国』と呼ばれていたわ。当時は海がこのお山の近くまで来ていて、わたしはここを拠点にして、兄がいた出雲(いづも)の国から鉄を手に入れていたのよ。粟と魚、それとお山で採れたカモシカや猪の肉や毛皮を鉄と交換していたの」
「阿波津姫様の御子孫の人たちが暮らしていたのですね」
「そうなのよ。当時、お山の事をムイ(森)って呼んでいたの。琉球と同じねって思ったんだけど、瀬織津姫様が琉球から来たんだったら当然だったのよね。その頃、そんな事にはまったく気づかなかったわ」
「アイラ姫様も琉球に行った事があるのですか」
「一度だけ、姉と一緒に行ったのよ。久し振りに行ってみようと思っているわ」
「歓迎いたします。是非、お越しになって下さい」
 ササはお祈りを終えて、アイラ姫と別れた。
 若ヌルたちもアイラ姫の声を聞く事ができたが、ウニチルとミワにはまだ聞こえなかった。二人は修行が足らないのねと悔しがっていた。
 ササたちは山を下りて八倉比売神社に戻って、観音堂にあるアイラ姫の神像を見た。
 父が彫ったという神像は荒削りで、一見しただけだと何だかよくわからない像だった。でも、じっと見ていると弓矢を構えている観音様のように見えた。
「わかりますか」と宮司がササに聞いた。
 ササはうなづいた。
「わたしにはこの像のよさがわかりませんでした。母にはわかったようです。ここに安置したのは母でした。今ではわたしにも、この像の素晴らしさはわかります。弓矢を構えている観音様なんて、ここにしかないでしょう」
 宮司はアイラ姫の神像を見ながら優しい笑みを浮かべていた。
 宮司と別れて、ササたちは『一宮城』に向かった。鮎喰川を渡し舟で渡って、一宮の城下に着いた。城は山の上にあって、普段暮らしている屋形(やかた)が山の麓(ふもと)にあった。若様が琉球のお姫様を連れて来たと大騒ぎになり、又五郎の父、一宮長門守に歓迎された。長門守は一宮城の城主で、武将でもあり、一宮神社の宮司も務めていた。一宮神社は『大粟神社』を勧請(かんじょう)した神社で、『大冝津姫』を祀っていた。
 ササたちは昼食を御馳走になって、一宮神社に参拝してから大粟神社に向かった。
 高橋殿が長門守から聞いた話によると、大粟神社の宮司長門守の弟の備前守(びぜんのかみ)が務めていて、以前の宮司は隠居させられてしまったという。備前守は巫女だった宮司の娘を妻に迎えて宮司になり、本当なら宮司を継ぐはずだった息子は神官として備前守に仕えている。先代の宮司は神社から追い出されて、悲嘆に暮れながら六年前に亡くなった。あとを追うように宮司の妻も亡くなっていた。
 ササは驚いた。父は自分を知っている者はいないだろうと言っていたが、まさか、大粟神社の宮司まで変えられてしまったなんて思ってもいなかった。
「どうするの? 大粟神社まで行っても、お祖母(ばあ)様の事はわからないかもしれないわよ」
「ここまで来たのだから行ってみます。お祖母様の事はわからなくても、『阿波津姫様』には会えると思います」
「そうね」と高橋殿はうなづいた。
 大粟神社は思っていたよりも遠かった。鮎喰川に沿った道をどんどんと山奥に入って行った。川に沿った道なので、それほど険しい場所はなく、天川(てんかわ)の弁才天社に行った一行にとっては何でもない道のりだったが、日暮れ近くになって、ようやく到着した。
 『大粟神社』は鮎喰川と上角谷川(うえつのだにがわ)に挟まれた位置にある大粟山の中腹にあった。鳥居をくぐって参道を登って行くと、強い霊気の漂った森の中に古い神社があった。
 守護の息子の細川右馬助と一宮城主の息子の一宮又五郎が、男装した女たちを連れて、ぞろぞろとやって来たので、村人たちが大勢集まって来た。
 又五郎が叔父の宮司にササの事を説明すると、驚いた顔をしてササを見た。
琉球のお姫様がこんな山奥までいらっしゃるとは驚きじゃ。どうして、大粟神社を訪ねて参ったのですか」
瀬織津姫様を御存じでしょうか」
 宮司は首を傾げた。
「古い神様です。その神様は琉球から日本に来ました。この神社に祀られている『大冝津姫様』は瀬織津姫様の娘さんです。それで挨拶に参ったのです」
「大冝津姫様が琉球に関係あるなんて初めて知りました。古い神様の事はよくわからんが、遠い所からよくいらしてくれました。歓迎いたします」
 細川右馬助が宮司に耳元で何かを言うと、宮司は驚いた顔をして御台所様を見て、それから高橋殿を見た。ササを見た時以上に驚いて、宮司は慌てて神官を呼ぶと何かを命じて、神官も驚いた顔をしてどこかに行った。
 ササたちは拝殿から神様を拝み、宮司の案内で山の裾野にある大通寺(だいつうじ)という大きなお寺に行った。大通寺には山伏たちが何人もいて、立派な袈裟(けさ)を着けた住職が挨拶に出て来て、ササたちは立派な宿坊に案内された。
「先代の将軍様もここまで来た事はないけど、阿波守護の細川常長(じょうちょう)(義之)様は時々、お参りに来ているみたい。その時、宿泊するのがこの宿坊らしいわ」と高橋殿が言った。
 ササは覚林坊(かくりんぼう)に、追い出された宮司の事を知っている者を探すように頼んだ。話を聞いていた飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)も一緒に行ってくれた。
 突然の事だったのに、御台所様のために奔走(ほんそう)したとみえて、宮司は山の幸の御馳走でもてなしてくれた。宮司と住職は御台所様と高橋殿の機嫌を取るのに夢中で、ササたちの事は後回しだった。お陰で、ササ、シンシン、ナナの三人は宴席を抜け出す事ができ、池のほとりにある弁才天堂の前で、覚林坊と修理亮が連れて来た老夫婦と会った。
 覚林坊が老夫婦にササを紹介すると、
「小次郎さんの娘さんなのですね」と老婦人が言った。
「父を知っているのですか」とササが聞くと、
「従姉(いとこ)です」と言った。
 ウメと名乗った老婦人は、隠居させられた宮司の姉だった。夫は三好日向と一緒に戦っていた久保孫七という男で、今は猟師をしていた。
「小次郎さんは八歳の時に妙蓮坊様という山伏に連れられて大粟神社にやって来ました。家族が皆、殺されたと聞いて、わたしは驚きました」とウメは言った。
「どうして、父だけが助かったのですか」
「妙蓮坊様と一緒に山の中で武芸の修行をしていたそうです。でも、あとで聞いたら、当時の小次郎さんはまだ八歳で、武芸よりも彫り物に興味があったようで、妙蓮坊様から彫り物を教わっていたようです。小次郎さんも夢中になってしまって、夕方になってお城に戻ると、敵に攻め取られてしまっていたのです」
「父はお城に住んでいたのですか」
「小次郎さんは田尾城(三好市山城町)という山の中のお城の城下で生まれました。四歳の時に小次郎さんのお祖父(じい)さんが大西城(三好市池田町)を奪い取って、大西城を任されたのです。細川氏が阿波に来る前は、小笠原氏が阿波の守護を務めていました。守護所は三好郷の岩倉城(美馬市)にあって、小次郎さんのお祖父さんは小笠原氏を助けて、守護代になったのです。南北朝の戦が始まって、北朝によって阿波守護に任命された細川氏が阿波に攻めて来ます。小笠原氏は細川氏に対抗するために南朝方となって細川氏と戦うのです。小笠原氏は守護所の岩倉城も奪われてしまって、山の中の田尾城を拠点にします。大西城には小笠原氏の一族がいましたが、細川氏に寝返ってしまいます。小次郎さんのお祖父さんは大西城を奪い取ったのですが、四年後に讃岐に出陣して、お祖父さんもお父さんも戦死してしまいます。その時に、北朝に寝返っていた三好孫二郎に大西城を攻められて、留守を守っていた人たちは皆、戦死してしまったのです。小次郎さんのお母さん、お兄さんとお姉さん、二人の妹も皆、亡くなってしまいます。妙蓮坊様と小次郎さんが山からお城に戻った時、お城は敵兵に囲まれていて、家族の安否はわかりませんでした。妙蓮坊様は小次郎さんを大粟神社に連れて来てから、家族を救い出すために大西城に戻ります。大西城の裏には吉野川が流れていて、その河原に戦死した人たちの遺体が捨ててあって、その中に小次郎さんの家族たちの遺体もあったのです。幼い子供たちも皆、無残に殺されていたそうです。妙蓮坊様は家族の遺体を舟に積んで運んで、途中で荼毘(だび)に付したそうです」
「父の母親の事は御存じですか」
 ウメは首を振った。
「叔母が嫁いだのはわたしが生まれる前で、わたしが十歳の時に、叔母は亡くなりました。わたしは一度も会っていないのです。母から聞いた話では、岩倉城を奪われて田尾城に移った小笠原氏が、剣山の山伏たちを味方に付けるために、大粟神社の巫女の娘を守護代の三好日向守の息子に嫁がせたと言っていました。大冝津姫様は剣山の山伏たちの神様だったのです。小次郎さんのお祖父さんとお父さんが戦死した讃岐の白峰合戦のあと、一宮神社の宮司で、一宮城の城主でもある一宮民部大輔(みんぶたいふ)(長宗)が寝返ってしまい、剣山の山伏たちも敵味方に分かれて争うようになってしまいます。小次郎さんが阿波に帰って来て、剣山の山伏たちを率いて反抗しますが、時の勢いには勝てず、皆、細川氏に降伏してしまいます。大粟神社も降伏して、領地は安堵されたのですが、小次郎さんが阿波から去って十一年後、突然、一宮の兵が攻めて来て、宮司だった弟は無理やり隠居させられたのです」
「ウメさんは大丈夫だったのですか」
「わたしは司(つかさ)の巫女を務めていましたが、わたしも隠居させられました」
「司の巫女とは何ですか」
「大粟神社に限らず、ほとんどの神社は昔から巫女が中心になって神事をつかさどってきました。宮司は女性だったのです。戦の世の中になって、神社も領地を守るために武器を持った神人(じにん)を抱えるようになります。それらを指揮する指導者が必要になって、男の宮司が生まれるのです。司の巫女というのは、神事をつかさどる巫女の事です」
 話を聞いて、琉球按司とヌルの関係によく似ているとササは思った。
「当時、わたしは孫七さんと一緒に村に住んでいたので、弟夫婦を引き取ったのです。弟は小次郎さんと同い年でした。代々続いていた宮司職を奪われた衝撃で、五十五歳で亡くなってしまいました。小次郎さんはお元気なのでしょうか」
「父は今、琉球の中山王(ちゅうざんおう)の水軍の大将として活躍しています」
「小次郎さんが水軍の大将ですか‥‥‥まさか、小次郎さんの娘さんと会えるなんて、夢でも見ているような気分です。きっと、大冝津姫様が会わせてくれたのでしょう。本当にありがたい事です」
 ウメはササを見つめながら泣いていた。
 ササは孫七から父、三好日向の活躍を聞いた。
「日向殿はわしより一つ年下でしたが、凄い人でした。わしは日向殿の弟子になって武芸を学んで、共に細川を倒すために戦ったのです。敵の虚を突いて、敵の食糧や武器を奪ったりしていましたが、幕府を後ろ盾にした細川氏を倒すのは容易な事ではありません。日向殿が阿波に帰って来て四年目の事でした。以前に阿波、讃岐、伊予、土佐の守護を兼ねていて、幕府の管領(かんれい)を務めていた細川常久が幕府から追われて四国に逃げて来たのです。当時、阿波の守護は細川伊予守(いよのかみ)(正氏)でした。細川同士で戦を始めたのです。幕府を追われたとはいえ、常久に従う者は多く、伊予守は南朝方と手を結んで戦いました。わしらも常久相手に戦ったのですが、常久の勢いを止める事はできず、伊予守も祖谷山に逃げ込みました。祖谷山の武士たちも寝返る者が多くなって、日向殿の敵(かたき)だった三好孫二郎が岩倉城で亡くなってしまうと、日向殿も阿波の国を去る事になりました。わしは日向殿を見送ったあと、大粟神社に行って、ウメに日向殿が去った事を伝えました。わしは以前からウメの事が好きだったので、その事を打ち明けて、ウメもうなづいてくれたのです」
 いつの日か、ウメの子孫が大粟神社に戻れる事を祈って、ササたちは孫七とウメと別れた。
 翌朝、ササはウメと一緒に神宮寺(じんぐうじ)の裏にある祖母のお墓に行った。森の中に草が刈られた一画があって、石が置いてあるだけのお墓があった。大きな石が一つと小さな石が四つあった。
 石の前にしゃがむとウメは両手を合わせて、「小次郎さんの娘のササさんですよ」と言った。
「小次郎の娘?」と驚いたような神様の声が聞こえた。
琉球という南の島から来たのですよ。小次郎さんは琉球で元気で暮らしているらしいわ」
琉球? 小次郎は無事に生きているのね?」
「ササと申します。お祖母様ですね。父は元気です」とササは言った。
 ウメが驚いた顔をしてササを見て、「あなた、叔母の声が聞こえるの?」と聞いた。
 ササは笑ってうなづいた。
琉球にはヌルという巫女のような人たちがいます。わたしの母はヌルで、わたしもヌルなのです。神様の声を聞く事ができます」
「そうだったの。わたしは生前、叔母とは会っていませんが、神様になられた叔母とはよく話をしていたのです。でも、そんな事を言っても信じてはもらえないだろうと思って黙っていたのです。あなたが神様の声を聞く事ができるなんて驚いたわ」
「小次郎はどうして、琉球に行ったのですか」と祖母が聞いた。
「戦の世の中にうんざりして、平和な南の島に来たと言っていました。そこで、わたしの母と出会って、わたしは生まれました」
琉球は戦のない平和な島なのですね」
「いいえ。琉球にも戦はあります。父は中山王を助けて、戦で活躍しました。わたしの母は中山王の妹で、父は水軍の大将です」
「小次郎が大将ですか‥‥‥会いたいわ」
「あたしが連れて行くわ」とユンヌ姫の声がした。
「今のは誰?」とウメがササに聞いた。
琉球から一緒に来たユンヌ姫様です」
「あなた、神様と一緒なの?」とウメは驚いていた。
「お祖母様を連れて行けるの?」とササはユンヌ姫に聞いた。
「阿波津姫様の子孫なら、瀬織津姫様の子孫でしょ。瀬織津姫様の子孫という事は、あたしたちと同族よ。お祖父様が造った道を通れるはずよ」
 ササにはよくわからないが、「それじゃあ、お願いするわ。父に会わせて、そして、また、こちらに戻してね」と頼んだ。
「任せてちょうだい」
「お祖母様、ユンヌ姫様と一緒に琉球に行って下さい」とササは言った。
「子供たちも連れて行ってもいいかしら?」
「大丈夫です」
「ありがとう」
「行ってくるわ」とユンヌ姫の声が聞こえた。
 ウメが叔母に語り掛けたが返事はなかった。
「叔母さん、琉球に行ったみたい」と言ってウメは笑った。
 ウメは祖母から聞いた話をササに話してくれた。
 ササの祖母の笹は、ウメの母親である姉のツタと一緒に巫女になるために育てられた。十八の春、田尾城にいた阿波の守護代、三好日向守から縁談があった。両親はあんな遠くに嫁ぐのは反対したが、笹は大冝津姫様の声を聞いて、嫁ぐ決心をした。笹は剣山の山伏たちに守られて、二日掛かりで山道を通って田尾城に嫁いだ。
 嫁いだその日に戦があって、笹は連れて来た山伏たちを指揮して戦った。敵を追い散らして戦に勝利して、笹は田尾城の城主、阿波守護の小笠原宮内大輔(くないたいふ)(頼清)に歓迎されて、三好日向守の長男、太郎に嫁いだ。初めて見る太郎は大冝津姫様から聞いた通り、好感の持てる男で、笹は嫁いで来てよかったと大冝津姫様に感謝した。
 翌年、長男の小太郎が生まれ、二年後に長女が生まれ、その二年後には次男の小次郎が生まれた。戦は頻繁にあったが、笹は幸せな日々を送っていた。
 嫁いで八年目、義父と夫の活躍で、大西城を奪い取って、義父は大西城主になった。笹は家族を連れて大西城に移った。
 大西城は百年以上前に、阿波守護に任命された小笠原氏が阿波に来て最初に築いた城だった。守護所が岩倉城に移ったあと、小笠原一族が守っていたが、南北朝の戦が始まってから、大西城の小笠原阿波守(義盛)は北朝に寝返ってしまう。
 敵対していた小笠原阿波守が亡くなり、息子の代になった所を襲撃して、大西城を奪い取ったのだった。大西城を奪い取った事で南朝方の士気も上がった。そして四年後、義父と夫が讃岐に出陣した留守を狙われて、岩倉城を守っていた三好孫二郎の奇襲に遭う。内通した者がいたらしく、敵はあっという間になだれ込んできた。笹も必死に戦うが、子供たちは殺され、笹も戦死した。
「内通した者はわかったのですか」とササはウメに聞いた。
「留守を任されていた貞光丹波守(さだみつたんばのかみ)らしいわ」
「えっ、留守を守っていた武将が裏切ったのですか」
「貞光氏も兄弟が敵味方になって戦っていたの。弟は小笠原阿波守に仕えていて、阿波守と一緒に北朝方になったわ。弟は戦で活躍して、細川氏に仕えるようになって、城を任されるようになったらしいの。弟の出世をうらやんで寝返ったのかも知れないわね。でも、戦死したみたい。敵に斬られたのか、裏切り者として味方に斬られたのかわからないけど」
「そうですか‥‥‥ところで、祖父のお墓はここにはないのですか」
「讃岐で戦死したから遺体の回収はできなかったのよ。ひどい負け戦で、あのあと、一宮城の小笠原民部大輔も細川氏に降参したわ。戦死したあなたの祖父と曽祖父のお墓は田尾城にあるらしいわ」
「田尾城というのは阿波の国の西の方にあるのですね?」
「そうよ。伊予との国境の近くの山の中よ。小笠原宮内大輔は讃岐の合戦で戦死しないで、田尾城に戻って来たけど、多くの戦死者を出して、戦う気力もなくなって細川氏に降参したらしいわ。今は孫の代になっていると思うけど、詳しい事はわからないわ」
 ウメと別れて大通寺に戻り、朝食を御馳走になったあと、宮司備前守の娘で巫女を務めているフサの案内で、ササたちは奥の宮がある大粟山の山頂に登った。
 樹木に覆われた山頂には、苔(こけ)むした石の祠と祭壇のような岩座があった。
 ササたちはお祈りをした。
「母が突然、現れたので驚いたわよ」と神様の声が聞こえた。
「『阿波津姫様』ですね」とササは聞いた。
「その名前で呼ばれるのは久し振りだわ。伊予の国では『伊予津姫』と呼ばれたし、御島(みしま)(大三島)では『御島津姫』って呼ばれたわ。やがて、『大冝津姫』と呼ばれるようになって、今では阿波津姫と呼ぶのは母だけだわ。長い間、富士山に籠もっていた母を外に出してくれたのは、あなただったのね。母を動かすなんて凄いわ。母がスサノオと一緒に現れて、あなたの事を楽しそうに話してくれたわ。母の笑顔を見たのは本当に久し振りだったわ」
「わたしが瀬織津姫様に出会えたのは、父と母が出会ったお陰なのです」とササはアイラ姫に言った事と同じ事を阿波津姫にも言った。
「わたしの祖母は大粟神社の巫女の娘だったのです。わたしと同じ、笹という名前です。御存じありませんか」
琉球から来た子孫だって、あなたの事を母が言っていたけど、わたしにはよく理解できなかったのよ。どうして、琉球にわたしたちの子孫がいるのだろうって不思議に思ったわ。母の生まれ島だから、わたしも琉球に行った事はあるけど、わたしたちの子孫が琉球に行って、子孫を増やしたのかしらって思っていたの。そうだったの。あなたのお婆さんがわたしの子孫だったのね。でも、笹という名前だけではわからないわ」
「わたしの父は小次郎という名前で、『三好日向』と名乗って、剣山の山伏たちと一緒に細川氏と戦っていたそうです」
「三好日向‥‥‥思い出したわ。三好日向のお母さんが笹だったのね。お嫁に行く時に、わたしに相談した娘だわ。阿波の守護代だった三好日向守の息子に嫁いで、大西城で家族と一緒に戦死してしまったのよね。息子の小次郎だけが助かって、大粟神社に来たわ。敵を討つんだって言って、剣術の修行に励んでいたわ。彫り物も上手で、わたしの像も彫ってくれたのよ。神宮寺にあるわよ」
「えっ、ここにも父が彫った神像があるのですか」
「わたしが剣を振り上げている姿よ。わたしたちの時代に剣なんてなかったけど、雰囲気がわたしによく似ていて気に入っているのよ」
「阿波津姫様も戦なんてしたのですか」
琉球から運んできた貝殻は貴重品だったから、それを奪おうとする悪人はいたわ。戦というほどではないけど、わたしも悪人たちと戦って追い払ったのよ」
「どうして、こんな山の中を拠点にしたのですか」
「最初は吉野川のほとりに拠点を造ったんだけど、あの川は暴れ川で、どうしようもなかったわ。それで鮎喰川に移したのよ。お山で採れた木の実や藻塩(もしお)漬けの肉や毛皮をここに集めて舟に乗せて、途中で集めた粟も乗せて海に出て、淡路島に沿って北上して、姉がいる武庫山(むこやま)(六甲山)まで運んだのよ。拠点はここだけじゃないのよ。南部の和奈佐(わなさ)(海陽町)という港も拠点にして、琉球に行く舟を出していたのよ」
「そこから琉球に行ったのですか」
「そうよ。瀬戸内海にある御島(みしま)も拠点にして、瀬戸内海の島々と貝の交易をしたのよ。御島は神様の島になって、わたしの娘の『伊予津姫』が祀られているわ」
「御島というのは大三島の事ですか」
「今はそう呼ばれているわ」
 村上あやから聞いた事があったのをササは思い出した。厳島(いつくしま)神社のある島から鞆(とも)の浦に向かう途中、いくつもある島の中の一つだった。帰りに寄る事ができるかもしれないと思った。
「伊予津姫様は瀬戸内海の島々と貝の交易をしていたのですね」
「そうよ。わたしの跡を立派に継いでくれたわ。弓矢が得意で、賢い娘なんだけど、お酒好きが玉に瑕(きず)だったわ」
「伊予津姫様はお酒好きだったのですか」
「可愛いから誰も文句は言わなかったけど、『酔ひ(えい)姫』って呼ばれていたのよ」
 ササは笑った。お酒好きと聞いて、仲良くなれそうな気がした。帰りに大三島に寄って行こうと決めた。
大三島の何という神社に行けば、伊予津姫様に会えますか」
「『大山積神社(おおやまつみじんじゃ)』よ。『大三島明神(おおみしまみょうじん)』とも呼ばれているわ。その奥にある『女神山』に祀られているんだけど、その山には誰も入れないわ。女神山の裾野に『入り日の滝』があるわ。そこに行けば会えるわよ」
 神様の声を聞いた事がない巫女のフサは目を丸くして、大冝津姫と話をしているササをじっと見つめていた。

 

2-201.真名井御前(改訂決定稿)

 京都に着いたササ(運玉森ヌル)たちは、三日後の夕方、『箕面(みのお)の大滝』に来ていた。大滝の下に役行者(えんのぎょうじゃ)が創建した瀧安寺(りゅうあんじ)があった。弁才天堂(べんざいてんどう)を中心に多くの僧坊が建ち並んでいて、大勢の山伏がいた。
 ササの連れの人数が多すぎるため、お忍びで行くのは危険だった。御台所(みだいどころ)様(将軍義持の妻、日野栄子)の名前は隠すが、高橋殿の広田神社参詣という触れ込みで、護衛の兵に守られての旅だった。護衛を務めたのは将軍様の近習(きんじゅ)、細川右馬助(うまのすけ)(満久)で、右馬助は阿波(あわ)の国(徳島県)の守護を務めていた。
 右馬助が率いる二十名の武士が馬に乗って前後を固めて、豪華な三つのお輿(こし)の周りに侍女たちが従っていた。お輿に乗っているのは坊門局(ぼうもんのつぼね)、対御方(たいのおんかた)、平方蓉(ひらかたよう)で、御台所様と高橋殿は侍女に扮して、侍女に扮したササたちと一緒に歩いていた。御台所様は久し振りの旅にウキウキしていた。高橋殿に付き物のお酒と食材を積んだ荷車も従っていて、総勢五十人余りの大げさな一行になっていた。
 中条兵庫助(ちゅうじょうひょうごのすけ)も一緒に来ていて、阿蘇弥太郎(あそやたろう)と昔の事を懐かしそうに話しながら歩いていた。二人は同い年で、共に慈恩禅師(じおんぜんじ)の弟子だった。三十五年前、慈恩禅師が弥太郎を連れて京都に来た時、一緒に修行をしていて、その時以来の再会だった。兵庫助の娘の奈美は一行には加わらず、陰ながら皆を守っているようだった。
 高橋殿の屋敷にいたタミー(慶良間の島ヌル)とハマ(越来ヌル)も一緒に来た。クルーは交易船の使者たちが来るかもしれないので京都に残っていた。
 瀧安寺に着くと役僧たちに迎えられて、かつて先代の将軍(足利義満)が宿泊したという豪華な宿坊に案内された。住職が直々に挨拶に来て、高橋殿は機嫌よく迎えて、役僧たちに豪華な反物(たんもの)を贈っていた。
 役僧たちが引き上げたあと、ササたちはホッとしてくつろぎ、大滝を見に行った。役行者が選んだだけあって素晴らしい滝だった。
「気持ちいいわね」と言って御台所様は喜んだ。
 若ヌルたちはキャーキャー騒いでいた。そんな若ヌルたちを見ながら、「子供たちも連れて来ればよかったわ」と御台所様は言った。
 御台所様には十歳の娘と八歳の息子と三歳の娘がいた。
「そうですね」とササはうなづいたが、子供たちが一緒ならもっと大げさな一行になっていたに違いないと思った。
 滝の近くにある弁才天堂には役行者が彫った弁才天が祀られてあった。天川(てんかわ)の弁才天とよく似ているが、持ってる楽器がヴィーナではなくて琵琶(びわ)に変わっていた。
 観音堂如意輪観音(にょいりんかんのん)にお参りをして、行者堂に行って、ちょっととぼけた顔をした役行者像にお祈りをしたら、「待っておったぞ」と『役行者』の声が聞こえて、ササたちは驚いた。
「ここはわしが若い頃に修行した所なんじゃよ」
「その時、如意輪観音様を彫ってお祀りしたのですね?」とササは聞いた。
「そうじゃ。そして、弁才天様を知ってから、弁才天様を彫って、瀬織津姫(せおりつひめ)様としてお祀りしたんじゃよ」
瀬織津姫様も一緒にいらっしゃるのですか」
「いや。瀬織津姫様はスサノオの神様と一緒にサラスワティ様に会いに行かれたよ」
「えっ、クメールの国(カンボジア)まで行かれたのですか」
瀬織津姫様はお前が吹いた笛を聴いたら、急に元気になったようじゃ。昔、『ピーパ』という楽器を演奏した事があって、その事を聞いたスサノオの神様がサラスワティ様が『ヴィーナ』という楽器を弾くと言ったんじゃ。そしたら、サラスワティ様に会いに行こうと出掛けてしまったんじゃよ」
 京都に着いた翌日、御台所様と一緒に御所に行く時、船岡山に寄ってお祈りをしたが、スサノオ様の声は聞こえなかった。まだ、富士山にいるのだろうと思っていたのに、瀬織津姫様と一緒にクメール王国に行ったとは驚いた。
「ピーパって琵琶の事ですか」とササは聞いた。
「多分、琵琶の前身の楽器じゃろう」
 琉球には琵琶はなかった。お土産に持って帰ろうかとササは思った。ウニタキ(三星大親)かミヨンが弾くだろう。
「広田神社は今、御手洗川(みたらしがわ)のほとりに建っておるが、昔は甲山(かぶとやま)の裾野にあったんじゃよ。今、『元宮(もとみや)』がある所じゃ。そこに瀬織津姫様が暮らしていた屋敷があったんじゃよ。神功皇后(じんぐうこうごう)様(豊姫)が創建した由緒ある古い神社なんだが、それほど大きな神社ではなかった。今のように大きな神社になったのは『真名井御前(まないごぜん)』のお陰なんじゃよ。真名井御前が広田神社の近くに『神呪寺(かんのうじ)』を建てて、広田神社と瀬織津姫様の事を世間に広めたんじゃ。それを助けたのが『空海(くうかい)』じゃった。淳和(じゅんな)天皇の妃(きさき)だった真名井御前と大僧都(だいそうず)となった空海のお陰で、広田神社は有名になって、二人の死から二十年後に神位(しんい)が従五位下(じゅごいげ)になり、三十年後には正三位(しょうさんみ)になり、四十年後には従一位(じゅいちい)まで登ったんじゃよ」
「神位って何ですか」
「神様に与えられた位(くらい)じゃよ。熊野の神様が正二位じゃから、広田神社の方が格が上というわけじゃ。人間が勝手に作ったものじゃが、位が上がれば領地も増えて、神社も豊かになるというものじゃ。最盛期には武庫山(むこやま)(六甲山)一帯が、広田神社の領地だったんじゃよ。鎌倉の将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)も土地を寄進して、平家討伐を祈願している。神宮寺(じんぐうじ)もできて僧坊が建ち並ぶようになると甲山の裾野では狭くなってきて、火災に遭って全焼したのを機に、今の場所に遷座(せんざ)する事になったんじゃ。瀬織津姫様が暮らしていた頃は甲山は海の近くにあったらしいが、川から流れてきた土砂で海が埋められて、今では海から大分離れている。南の島からいらした瀬織津姫様は航海の神様でもあったので、海の近くに別宮ができて、『浜の南宮(なんぐう)』と呼ばれている。その浜の南宮の秘宝として、瀬織津姫様の『宝珠(ほうじゅ)』がある」
「えっ、瀬織津姫様の宝珠?」
「その事を瀬織津姫様に聞いたんじゃが、知らんと言っていた。その宝珠は『トヨウケ姫様』が神功皇后様に贈ったものらしい。トヨウケ姫様は丹後の国(京都府北部)に玻璃(はり)(水晶)の工房を持っていたようじゃ」
「玻璃って何ですか」
「透明で綺麗な石じゃよ。それを丸く加工したものが宝珠じゃ。トヨウケ姫様はカヤの国(朝鮮半島にあった国)の鉄を手に入れるために宝珠を作っていたらしい」
「トヨウケ姫様の宝珠が浜の南宮にあるのですね」
「高橋殿と御台所様が一緒なら宮司(ぐうじ)が見せてくれるじゃろう」
 ササは役行者にお礼を言って別れた。
 翌日の正午(ひる)前に『広田神社』に着いた。大鳥居の前には市場があって賑やかだった。参道には神官、巫女(みこ)、山伏たちが行き交っていて、山伏に連れられた参拝客の一行もいた。鳥居をくぐって境内(けいだい)に入ると宮司たちが大歓迎して高橋殿を迎えた。先代の将軍は明国(みんこく)に使者を送っていたので、航海の無事を広田神社に祈願して、その都度、多大なる礼物(れいもつ)を贈ったらしい。
 宮司の案内でササたちは本殿を参拝した。拝殿から見ると本殿は五つあった。『五所大明神(ごしょだいみょうじん)様』と呼ばれていて、広田神を中心に、八幡(はちまん)神、住吉神、南宮神、八祖神が祀られてあるという。どんな神様なのか宮司に聞いたら、広田神は武庫津姫(むこつひめ)様、八幡神八幡大神様、住吉神は住吉大神様、南宮神は神功皇后様、八祖神はタカミムスヒノ神様だと教えてくれた。タカミムスヒノ神様とはどんな神様かと聞いたら、天地を創造した神様だと言う。
 参拝のあと、宮司は立派な客殿に案内して、豪華な昼食を用意してくれた。
「このお屋敷は先代の将軍様が兵庫に来た時の宿所として建てたの。今の将軍様が広田神社に寄贈したのよ」と高橋殿が言った。
 金閣を造った将軍様らしく、贅沢な造りの客殿だった。食事に付き物のお酒も楽しんだ。若ヌルたちは酔っ払ってしまい、玻名(はな)グスクヌルと喜屋武(きゃん)ヌルに任せて、ササ、シンシン(杏杏)、ナナ、カナ(浦添ヌル)、タミー、ハマの六人は御台所様と高橋殿と一緒に、元宮に向かった。中条兵庫助と飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)と覚林坊(かくりんぼう)が護衛のために付いて来た。
 『元宮』は女神山(目神山)の北側にあって、正面に甲山を望む地にある小さな神社だった。甲山は神様が降臨するのに相応しい形のいい山だった。
瀬織津姫様はここで暮らしていたのね」とササは甲山を見上げながら言った。
「広田神社には将軍様と一緒に来た事があるけど、ここに来たのは初めてだわ。いい所ね」と御台所様が楽しそうに言った。
 ヤマトゥ(日本)に来る度に兵庫から上陸して、京都に行く時にこの辺りを通っていたのに、瀬織津姫の事は知らなかった。南の島を探しに行ったお陰で、瀬織津姫を知る事ができた。ササは感謝の気持ちを込めて、元宮でお祈りをした。
「母から聞いたわよ」と声が聞こえた。
「武庫津姫様ですか」とササは聞いた。
「そうよ。母の跡を継いで、『武庫津姫』を名乗ったわ。でも、晩年は丹後に行って、『与謝津姫(よさつひめ)』を名乗ったのよ」
「与謝津姫様ですか」
「今、丹後の国と呼ばれている京都の北の方を昔は『与謝』と呼んでいたの。そこに拠点を造って、貝殻の交易範囲を広げたのよ。わたしが亡くなってから四百年余りが経って、『トヨウケ姫』が与謝にやって来たわ。その頃、わたしの子孫たちが『宝珠』を作っていたの。トヨウケ姫は宝珠作りの規模を拡大して、カヤの国との交易を始めたわ。カヤの国から鉄を手に入れて、宝珠作りも発展して、豊姫が持っていたような立派な宝珠が造れるようになったのよ。残念ながらトヨウケ姫は子孫を残さなかったけど、弟の『ホアカリ』の子孫たちがわたしの子孫と一緒になって、与謝を発展させて来たのよ」
 精進湖(しょうじこ)で会った時、トヨウケ姫様が子孫を残さなかった事を悔やんでいたのをササは思い出した。
「祖父が亡くなってから、父と一緒に戦(いくさ)をしていて、気がついたら子供を産めない年齢(とし)になっていたわ。子孫がいないのは寂しいものよ。あなたは必ず、子孫を残しなさいね」とトヨウケ姫様はササに言った。
瀬織津姫様は女神山で雨乞いの祈祷(きとう)をしたのですね?」とササは聞いた。
「そうよ。その頃は女神山とは呼ばれていなかったけどね。雨乞いはわたしもやったのよ。母が役小角(えんのおづぬ)(役行者)と出会ったのも女神山だったわ。あの頃の母は富士山に籠もっていないで、娘たちの所を巡っていたわ。丁度、母がここに来ていた時、役小角がやって来て、面白い男がやって来たと言って声を掛けたのよ。あの時、母がいなかったら、わたしは声を掛けていなかったでしょう。そしたら、今のように広田神社は発展しなかったでしょうね。戦で焼かれて、その後、再建される事もなく、忘れ去られたかもしれないわ。役小角が天川に弁才天社を建てて母を祀って、そこで修行した空海が母の事を知ったわ。そして、空海は京都の六角堂(頂法寺)で、わたしの子孫の『小萩』と出会った。小萩は空海から母の事を聞いて、広田神社を発展させたのよ」
「小萩というのは『真名井御前様』の事ですね?」
「そうよ。面白い子よ。『神呪寺』であなたを待っているわ。早く行ってあげなさい」
 ササたちは武庫津姫と別れて、女神山に登った。
 山の中にはあちこちに大きな石があった。それらの石は誰かが意図して置いたようで、大昔の磐座(いわくら)のようだった。山頂にも祭壇のような岩があって、瀬織津姫が雨乞いの祈祷をした場所に違いなかった。
 ササたちはお祈りをした。
「懐かしいわ」と言ったのは『トヨウケ姫』の声だった。
 ササたちは驚いた。
「トヨウケ姫の案内で広田神社の奥の宮まで行って来たのよ」とユンヌ姫が言った。
「奥の宮ってどこにあるの?」とササは聞いた。
「武庫山の山頂よ。女人禁制(にょにんきんぜい)になっているからササたちは行けないわ」
「ここにも女人禁制の山があるの?」
「山伏たちがそう決めたのよ。役行者が山頂に石の祠(ほこら)を建てて瀬織津姫様を祀って、真名井御前が修行した所よ」
「真名井御前様の頃は女人禁制じゃなかったの?」
空海と真名井御前が修行したので、武庫山は有名になったのよ。やがて、山伏たちが集まって来て、女人禁制になってしまったの」
「トヨウケ姫様もそこで修行したのですか」
「違うわよ」とトヨウケ姫は笑った。
「山の中を走り回って修行を始めたのは役小角よ。わたしが生きていた頃は仏教も道教もなかったわ。わたしは丹後から京都に出て行った小萩をずっと見守っていたの。小萩が修行していたから知っていたのよ。生前にも、ここに来た事はあったけど、武庫山の山頂には登らなかったわ」
「トヨウケ姫様がここに来た時は、まだ広田神社はなかったのでしょう」
「なかったわ。武庫津姫様が暮らしていた屋敷の跡地に、琉球のウタキ(御嶽)のように石が祀ってあったのよ」
「トヨウケ姫様は琉球に行った事があるのですか」
「三度、行ったわよ。初めて行ったのは祖母(豊玉姫)が琉球に帰る時、一緒に付いて行ったの。十八の時だったわ。二度目に行ったのは、祖父(スサノオ)が亡くなって戦が始まって、母(玉依姫)に頼まれて、祖母を迎えに行ったのよ。三度目は祖母が亡くなって、遺品を叔母(アマン姫)に届けに行った時よ。ユンヌ姫と仲良くなったから、久し振りに琉球に行くわ」
 歓迎しますとササは言って、お祈りを終えた。
 女神山を東側に下りて、小高い丘を越えると『神呪寺』が見えた。思っていたよりも大きくて立派なお寺だった。
「凄いわね」とササが言うと、
南北朝の戦でここも被害を受けて、先代の将軍様が修繕したのよ」と高橋殿が言った。
「でも、この大伽藍(だいがらん)を造ったのは鎌倉の将軍だった源頼朝らしいわ」
「えっ、鎌倉の将軍様がどうして、こんな遠くにあるお寺を建てたのですか」
「さあ、詳しい事はわからないわ。お寺の住職なら知っていると思うわ」
 立派な山門をくぐって境内に入ると山伏や僧侶が大勢いた。高橋殿が来る事を知っていたのか、偉そうな袈裟(けさ)を着た住職が出迎えた。住職の案内で本堂に上がって、御本尊の如意輪観音にお祈りをしたが、真名井御前の声は聞こえなかった。ここではなくて別の所にいるようだった。
 住職の話によると、神呪寺の住職は京都の仁和寺(にんなじ)の住職である永助法親王(えいじょほうしんのう)が兼帯していて、自分は代理だと言う。代理の住職に神呪寺の歴史を聞いたら、得意になって話してくれた。
 淳和天皇の妃だった真名井御前が神様のお導きによってこの地に来て、空海のもとで出家して『如意尼(にょいに)』と号した。如意尼は空海が彫った如意輪観音を本尊として、神呪寺を創建した。四年後、如意尼は三十三歳の若さで亡くなってしまう。如意尼が亡くなった翌日、空海高野山(こうやさん)で亡くなったという。
 創建当初は甲山の中腹にあったが、戦乱や災害にあって荒廃してしまう。それをこの地に移して再建したのが源頼朝だった。
 頼朝は如意輪観音を信仰していて、神呪寺の御本尊が空海の彫った如意輪観音だと知って再建する事にしたのだという。その後、南北朝の戦があって、ここも赤松氏が陣を敷いたりして破壊されたが、北山殿(きたやまどの)(足利義満)によって修繕されたと言って、代理住職は高橋殿に両手を合わせた。
 境内には大師堂(だいしどう)、不動堂、行者堂、薬師堂(やくしどう)があって、池の近くには弁才天堂もあり、五重の塔も建っていた。順番に参拝したが、真名井御前の声は聞こえなかった。案内すると言った代理住職の申し出を断って、ササたちは奥の院に向かった。
 神呪寺から参道が続いていて、途中には真名井御前が空海と一緒に修行をしたという滝があった。
「真名井御前様と空海様はいつ頃の人ですか」とササは高橋殿に聞いた。
空海様は弘法大師(こうぼうだいし)と言って、高野山真言密教(しんごんみっきょう)のお寺を造った偉いお坊さんで、遣唐使(けんとうし)と一緒に唐の国に行って、仏教の修行を積んできた人なのよ。五百年以上も前の人でしょう」
役行者様は空海様よりも古い人なのですね?」
役行者様は修験道(しゅげんどう)の開祖と言われている人だから、空海様よりも古いわよ。空海様は役行者様が開いた葛城山(かつらぎさん)とか大峯山(おおみねさん)とかで修行をしているわ」
平清盛(たいらのきよもり)が兵庫に福原の都を造った時は、神呪寺はあったのですね」
「その頃は奥の院の所にあったんだと思うわ。でも、源氏と平家の戦で、破壊されてしまったんじゃないかしら。広田神社もね」
 甲山の裾野に石段があって、登って行くと山門があり、その正面に『奥の院』があった。境内はそれほど広くもなく、頼朝が今の地に移したのもうなづけた。奥の院を守っている老僧が出迎えて、本堂に案内してくれた。ここの御本尊も如意輪観音で、ここの仏像の方が古そうだった。
「これは内緒ですが、この如意輪観音様がお大師様(空海)が彫られたものです。桜の大木で如意尼様の姿を写したのです」と老僧は言った。
 如意輪観音は首を傾げて物思いにふけり、腕が六本もあって、蓮の花の上に座って、左足を下げ、右足は曲げて左膝の上に乗せていた。優しそうな顔をしているが、真名井御前は女人禁制を破って大峯山に登った女傑(じょけつ)のはずだった。
 一番目の右手は頬に当てて、二番目の右手で如意宝珠(にょいほうじゅ)を持ち、三番目の右手で数珠(じゅず)を持っている。一番目の左手は蓮華座(れんげざ)に置いて、二番目の左手は蓮のつぼみを持ち、三番目の左手の指先で法輪(ほうりん)を回している。如意宝珠は意のままに願いをかなえてくれる玉で、法輪は仏様(ほとけさま)の教えが広まって行く様子を表現している。如意輪観音は如意宝珠と法輪を持ったありがたい仏様で、武庫津姫の本地(ほんじ)としてお祀りしていると老僧は説明してくれた。
 ササたちは老僧から教わった真言(しんごん)を唱えて、お祈りを捧げた。
「待ちくたびれたわよ」と声が聞こえた。
「『真名井御前様』ですか」とササは聞いた。
「そうよ。そこまで来たから、こっちに来ると思っていたのに、新しいお寺の方に行ってしまったわね」
「申し訳ありません。真名井御前様があちらにいらっしゃると思ったのです」
「あそこは騒がしくて苦手なのよ。頼朝には感謝しているけどね」
「鎌倉の将軍様は、ここの御本尊様を守るために神呪寺を再建したのですか」
「違うわよ。この御本尊様を守るのなら、御本尊様は向こうの本堂に遷座するはずでしょ。頼朝が再建したのは上西門院(じょうさいもんいん)の願いを聞いたからなのよ」
「上西門院て誰ですか」
「頼朝が伊豆に流される前に仕えていた人よ。鳥羽天皇の娘さんよ。頼朝はその人のお陰で、殺される事もなく流罪(るざい)で済んだの。恩返しだと思って神呪寺を再建したのよ」
「上西門院様は神呪寺と関わりがあるのですか」
「上西門院のお屋敷には歌人たちが出入りしていて、その中に『西行(さいぎょう)』がいたの」
「えっ、西行法師ですか」とササは驚いた。
 西行法師は思紹(ししょう)(中山王)が尊敬している歌人だった。思紹は西行法師の歌集を持って旅をしていて、西行法師にあやかって自ら東行法師(とうぎょうほうし)と名乗っていた。西行法師が頼朝と同じ時代の人だったなんてササは知らなかった。
西行役行者空海を尊敬していて、山々を巡っては歌を詠んでいたのよ。そして、天川で瀬織津姫様の事を知ったの。その後、ここにも来て、広田神社が瀬織津姫様を祀っている事を知って、その事を上西門院に教えたの。上西門院は広田神社にお参りに来て、神呪寺にも来たわ。当時、神呪寺は寂れていたけど、住職から空海とわたしの話を聞いて、再建しなければならないと思ったのよ。上西門院は後白河天皇(ごしらかわてんのう)の姉だったけど、平家との戦が続いて、神呪寺の再建はかなわなかったわ。それで、平家を滅ぼした頼朝に再建を頼んだのよ。頼朝も西行から瀬織津姫様の事を聞いていたみたい」
西行様は頼朝様と会っていたのですか」
「上西門院に頼まれて様子を見に行っていたのよ。出家した僧なら罪人となった頼朝とも会えるわ。十四歳の時に伊豆に流されて、挙兵するまで二十年間も頼朝は孤独だったのよ。妻を迎えて子供もできたけど、世間とは切り離されていたわ。流刑地(るけいち)から見る富士山が唯一の慰めだったのよ。西行から富士山の神様が瀬織津姫様だと聞いて、神呪寺の如意輪観音様も瀬織津姫様だと聞いたのよ。それで、上西門院から神呪寺の再建を頼まれて、喜んで引き受けたのよ」
「真名井御前様は、どこで瀬織津姫様と出会ったのですか」
「そこの女神山よ。わたしが京都の六角堂にいた時、空海様から如意輪観音様の本当のお姿は瀬織津姫様だって聞いたけど、その時はよくわからなかったの。大伴皇子(おおともおうじ)様が天皇になって、わたしを迎えに来たの。わたしは驚いたけど断る事はできなかったわ。天皇のお妃になるなんて、夢を見ているような信じられない話よ。でも、御所はわたしのいるべき場所ではなかったわ。四年後、空海様に頼んで御所から抜け出したの。空海様は天皇に信頼されていたから、御所に出入りしていたのよ。わたしは空海様に連れられて広田神社に来たわ。広田神社は哀れなほどに寂れていたのよ。それに、祭神の瀬織津姫様のお名前も消されてしまって、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の荒魂(あらみたま)になっていたのよ」
天照大御神の荒魂ってなんですか」
空海様が言うには、アマテラス様を皇祖神(こうそしん)として伊勢の神宮に祀ったので、アマテラス様以前の古い神様は皆、消されてしまったらしいわ。でも、由緒ある古い神社を潰す事はできないし、祟りも恐ろしいので、天照大御神の荒魂なんて名前を付けたんだろうって言っていたわ。荒魂っていうのは荒々しい状態の魂の事よ。このままだと瀬織津姫様は忘れ去られてしまう。何とかしなければならないと思ったわ。空海様と相談して、瀬織津姫様を鎮守神(ちんじゅがみ)として、お寺を建てる事に決めたの。それが『神呪寺』よ。空海様は天皇勅願寺(ちょくがんじ)として『鷲林寺(じゅうりんじ)』も建てたわ。勿論、鷲林寺の鎮守神瀬織津姫様よ。ここに来た時、わたしは二人の侍女と一緒だったの。二人もわたしと一緒に出家して、空海様のもとで修行したのよ。山の中での修行は厳しかったけど、御所にいた時に比べたら、わたしは生き返ったかのように楽しかったわ。そして、ある日、女神山で瀬織津姫様のお声を聞いたのよ。驚いたわ。わたしが神様のお声を聞くなんて。空海様の厳しい修行に耐えたお陰よ。瀬織津姫様に広田神社の事を頼まれて、わたしは以前に増してやる気を出したわ」
「山伏のように山中で修行を積んだのですか」
「そうよ。空海様は山の中をまるで飛んでいるような速さで駈けるのよ。あとを追うのは大変だったけど、わたしたちは必死になってあとを追ったわ。雪の降る中、山頂で座り続けた事もあったわ。厳しい修行に耐えて、わたしは『阿闍梨位(あじゃりい)』という真言密教で最高の位(くらい)を空海様からいただいたのよ」
「その位があったから女人禁制の大峯山にも登れたのですね」
「そうじゃないわ。わたしが空海様の弟子だと言っても信じてくれなかったわ。わたしは『気合いの術』を使って、山伏たちを動けなくして、大峯山に登ったのよ」
「気合いの術?」
「そうよ。空海様から教わったのよ。山の中で呼吸を整えながら座っていると、だんだんと気力が強くなって、気合いの術が使えるようになるのよ」
 気合いの術はヂャン師匠(張三豊)から聞いた事があった。空海役行者はヂャン師匠のような人だったのかとササは納得した。
「山中で出会った山伏たちも文句を言ったので、気合いの術で動けなくしたわ。わたしが弥山(みせん)で修行をして山を下りたら、瀬織津姫様の化身(けしん)が現れたって噂になっていたのよ。大峯山に登ったあと、わたしは空海様が登った各地の霊山に登ったわ。女人禁制なんてお構いなしにね。そして、広田神社の神様、瀬織津姫様の化身だって言い触らしたのよ。山伏たちのお陰で、広田神社の名前も瀬織津姫様の名前も広まって行ったわ」
 そう言って真名井御前は楽しそうに笑った。
「真名井御前様は神呪寺ができてから四年後に亡くなったと聞きましたが、お亡くなりになる前に各地の山々に登ったのですか」
 真名井御前はまた笑って、「あれは嘘よ」と言った。
淳和天皇はわたしが出家しても、わたしを連れ戻そうとしていたの。正良親王(まさらしんのう)様に天皇の座を譲ったあと、神呪寺の近くに鷲林寺を建てて、そこで暮らすと言い出したのよ。淳和天皇には可愛い皇后(こうごう)がいて、そんな事をしたら皇后が可愛そうだわ。そんな時、空海様が亡くなってしまったの。空海様が亡くなれば、天皇は強引にわたしを京都に連れ戻そうとするでしょう。それで、空海様が亡くなった前日にわたしも亡くなった事にして、神呪寺から旅立ったのよ。各地の山々を巡って、天皇がお亡くなりになったあと、故郷の丹後に帰って静かに暮らしたわ。故郷で『慈雲寺』を創建して、そこにいた時、広田神社が従五位下の神位を贈られて、従三位になって、正三位になって、わたしが六十六歳の時、従一位になったのよ。嬉しかったわ。空海様もきっと喜んで下さると思って安心したわ。その四年前だったわ。富士山が大噴火して、瀬織津姫様が造った都が埋まってしまったのよ。それ以来、瀬織津姫様のお声を聞いた事がなかったのに、突然、瀬織津姫様のお声が聞こえたので、とても驚いたわ。あなたのお陰らしいわね。瀬織津姫様を蘇らせてくれて、ありがとう」
 神様からお礼を言われて、ササは何と答えたらいいのかわからなかった。
「わたしにもあなたの笛を聞かせてくれないかしら。この山にも鎮魂すべき霊たちが大勢いるのよ」
 ササは笛を取り出して、瀬織津姫の事を思いながら吹き始めた。
 阿蘇山から瀬織津姫がここに来て、娘が武庫津姫を継いで、この山の麓(ふもと)で暮らした。その頃、ここは海の近くだったという。それから五百年余りの時が流れ、豊姫が来て、瀬織津姫が暮らしていた屋敷跡に広田神社を創建した。まだ仏教が伝わっていない頃なので、それは小さな祠(ほこら)だったのかもしれない。
 それから何百年か経って、役行者がやって来て、瀬織津姫の声を聞く。役行者は天川に瀬織津姫弁才天として祀る。役行者が生きていた時、伊勢に神宮ができて、瀬織津姫の娘の伊勢津姫が封印されてしまう。
 それから百年位経って、空海が天川の弁才天社に籠もって瀬織津姫を知る。空海は六角堂で出会った真名井御前に瀬織津姫の事を教え、寂れてしまっていた広田神社を再興する。
 広田神社と瀬織津姫の存在が世間に認められて、従一位の神位を贈られた頃、富士山が大噴火して、瀬織津姫が造った都は埋まってしまう。
 ササは瀬織津姫に関する長い歴史に思いを馳せながら笛を吹いていた。
 シンシンとナナはターカウ(台湾の高雄)で阿蘇津姫を知ってから今日までの長い旅路を思い出していた。カナは富士山で出会った神様たちを思い出していた。神様の声は聞いていても、神様の姿を目の当たりにするのは初めてだった。
 ササの笛を久し振りに聞いたハマは、その上達振りに驚き、改めてササの凄さを思い知った。ハマはササが吹く曲を聴きながら幼い頃のササとの事を思い出していた。初めてササの笛を聞いたタミーは、まるで神様が吹いているようだと感激して、去年、船岡山で出会った様々な神様たちの事を思い出していた。
 高橋殿はササの吹く笛に感動して、胸の奥に抑えていた芸心が騒ぎ出しているのを感じていた。若い頃から念願の女猿楽(おんなさるがく)をそろそろを始めなければならないと思っていた。
 御台所様は如意輪観音に両手を合わせながら、ササの笛の音に誘(いざな)われて、古代の神様の世界に酔いしれていた。
 奥の院を守っている老僧は、神様と会話をしているササたちを見て驚き、もしかしたら観音様の化身ではないかと思い、心の中でお経を唱えながら、心地よくて神々しい笛の調べに聴き入っていた。

 

 

 

イスム Standard 如意輪観音_仏像 フィギュア イSム isumu MORITA (にょいりんかんのん)