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長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部はその後の尚巴志の活躍です。お楽しみください。

2-24.山北王の祝宴(第二稿)

 今帰仁(なきじん)グスク内の新しくなった御内原(うーちばる)の屋敷の縁側から、山北王(さんほくおう)の攀安知(はんあんち)は夕日に輝く海を眺めていた。正面に伊是名島(いぢぃなじま)と伊平屋島(いひゃじま)が見え、東の空には満月がぼんやりと浮かんでいた。
 背が高く引き締まった体にヤマトゥ渡りの渋い着物が似合っている。すっきりした顔立ちは、島人(しまんちゅ)よりもヤマトゥンチュに近かった。
 去年、一の曲輪(くるわ)の御殿(うどぅん)が新しくなり、そして、今、御内原も新しくなった。
 一の曲輪の御殿は今帰仁合戦の時に焼け落ちて再建したので、それほど古くはなかったが、首里(すい)グスクの御殿を見た油屋のウクヌドー(奥堂)から話を聞き、負けられるかと思い切って建て直したのだった。御内原はかなり古くなっていた。いつ建てたのかは知らないが、攀安知が幼い頃から建っていた。台風が来ると雨漏りがして、毎年、女たちが大騒ぎした。首里に送った材木でかなり稼いだので、御内原も新しくする事にしたのだった。これで、決して首里グスクに負けない美しいグスクになったといえた。
 攀安知は本部(むとぅぶ)で生まれた。父の珉(みん)は山北王(帕尼芝(はにじ))の次男だったので、本部大主(むとぅぶうふぬし)と呼ばれていた。羽地按司(はにじあじ)だった祖父が、今帰仁按司を倒して今帰仁グスクを奪い取ったのは攀安知が生まれる前の事だった。攀安知は生まれながらにして山北王の孫だったが、今帰仁グスクとは遠い存在だった。
 幼い頃、正月に父に連れられて、初めて今帰仁グスクに入った時は驚いた。祖父は山北王と呼ばれ、父の兄は若按司と呼ばれていた。若按司の子供たちは皆、綺麗な着物を来ていて、自分とは大違いだと思った。帰り道、父は、「強くなってサムレー大将になれ、そうすれば、今帰仁グスクに出入りできるし、城下に立派な屋敷を建てて暮らす事もできる」と言った。
 攀安知は父の言葉を信じて武芸に励んだ。攀安知が十歳の時、ヤマトゥの山伏アタグ(愛宕)が本部に来て、攀安知の武術の師匠になった。十五歳の時にはアタグと一緒に旅にも出た。中山王(ちゅうさんおう)の浦添(うらしい)の城下の賑わいを見て驚き、浮島にいる大勢の唐人(とーんちゅ)やヤマトゥンチュを見て驚いた。浦添と比べたら今帰仁は田舎だと思わざるを得なかった。
 その翌年、今帰仁合戦が起こり、中山王の大軍が攻めて来た。攀安知は初陣を見事に飾って、祖父に褒められた。しかし、信じられない事に、祖父は敵の襲撃に遭って戦死してしまう。祖父だけでなく若按司も、若按司の息子も長男と次男が戦死した。急遽、父が山北王を継ぐ事となり、攀安知は若按司となった。
 攀安知は本部の屋敷から今帰仁グスクに移った。一の曲輪にある山北王の御殿は焼け落ちてしまっていたが、まるで、夢を見ているような心地だった。
 戦のため城下は焼け野原になってしまい、再建するのも大変だった。父はグスクも拡張した。城下の者たち全員が収容できるように、正門の前に大きな曲輪を造り、それを囲むように高い石垣を巡らせた。城下の再建には一年以上も掛かり、父は毎日、忙しそうだった。若按司となった攀安知は相変わらず、武術の修行に励み、馬に乗っては領内を駆け巡っていた。
 十八歳の時には、弟の湧川大主(わくがーうふぬし)と一緒に『油屋』の船に乗って博多まで行って来た。琉球の北にあるいくつもの島々を見て驚き、博多の賑わいには腰を抜かすほどに驚いた。
 ヤマトゥ旅から帰って来ると、父から中山王と同盟を結ぶと聞かされた。まったく、信じられない事だった。中山王は祖父と伯父、従兄(いとこ)たちの敵(かたき)だった。敵と同盟を結ぶなんて考えられなかった。
「中山王と同盟して明国と交易をしなければならない」と父は言った。その頃はまだ密貿易船も頻繁に来ていなくて、明国と交易するには進貢に頼るしかなかった。
 父の母親は元(げん)の国から逃げて来た『白蓮教(びゃくれんきょう)』の娘だった。運天泊(うんてぃんどぅまい)に来た娘は、当時、羽地按司だった祖父に迎えられて側室となり、父が生まれた。『ミン』という名は白蓮教の教えから取った名前だった。明国の明と同じで、父は明が建国される十年以上も前から『ミン』と呼ばれていた。攀安知の童名(わらびなー)の『ハーン』も祖母が付けてくれた。元の言葉で王様を意味していて、お前はいつか必ず、王様になると言っていたらしい。祖母は九年前、王様になった攀安知に見送られて安らかにこの世を去っていった。
 父は祖母から元の国の話を色々と聞いて、敵討ちよりも交易が重要だと考えたのだろう。しかし、攀安知には納得できなかった。
 翌年の三月、同盟のために妹が武寧(ぶねい)の次男(兼(かに)グスク按司)に嫁ぎ、武寧の娘が攀安知に嫁いできた。
 妻となったマアサを嫌いだったわけではないが、敵の娘として、近づく事はしなかった。その頃、攀安知は一つ年上の父の側室といい仲になっていて、その側室は弟と妹を産んだが、実の父親攀安知かもしれなかった。
 その年の十月、中山王の進貢船(しんくんしん)に便乗して山北王の使者が明国に行った。その使者が無事に帰って来る前に、父は亡くなってしまった。父は幼い頃から体が弱かったらしく、武芸はやらず、難しい本ばかり読んでいた。祖父の死後、急に忙しくなって、城下の再建に身も心も疲れ果ててしまったのかもしれなかった。山北王でいたのは三年足らずの短い期間だったが、今思えば、父がみんなの反対を押し切ってやった、中山王との同盟は正しかったと言える。あの時、中山王と同盟していなければ、今の繁栄はあり得なかっただろう。
 父の死後、攀安知は二十歳の若さで山北王になった。父の葬儀も無事に済んで、落ち着いた頃、ずっと、父に反対されていた国頭按司(くんじゃんあじ)の娘、ウクを側室に迎えた。
 ウクと出会ったのはヤマトゥ旅に行く前だった。旅から帰って、ウクをお嫁に迎えようとしたが、中山王との同盟が決まっていたために反対された。武寧の娘を妻に迎えても近づく事はなく、ウクを側室にしたいと言ったがやはり反対された。
 反対する父が亡くなったので、攀安知は迷う事なく国頭に向かった。ウクの父親は正室ではなく、側室になる事に猛反対したが、ウクはお嫁にも行かずに迎えに来るのを待っていてくれた。ウクは父親に勘当されても、攀安知と一緒になる事を選んで、今帰仁グスクの御内原に入った。
 念願がかなってウクと結ばれ、幸せいっぱいの攀安知だったが、お嫁に来ても相手にされないマアサが気の毒でもあった。マアサには何の罪もないが、殺された祖父の事を思うと迎え入れる事はできなかった。
 父が亡くなった同じ年に、中山王の察度(さとぅ)も亡くなった。義父となった武寧から、葬儀に参加するようにと知らせが届いた。行く気などなかったが、大叔父の羽地按司に、「中山王になる武寧をその目でしっかりと見て来い」と言われた。察度は大した男だった。跡継ぎの武寧が大した男でなかったら滅ぼす事も可能だろう。今後、山北王が中山王とどう付き合って行くべきかを直接会って考えて来いと言われたのだった。
 攀安知は兵を引き連れて、船に乗って浮島を目指した。葬儀には山南王(さんなんおう)(汪英紫(おーえーじ))も来ていた。山南王は中山王の義父だという。
「わしから見れば、そなたは孫じゃのう」と髭だらけの顔をして山南王は笑った。
 攀安知は義父の武寧と一緒に酒を飲みながら様々な事を語り、少しだけだが恨みも薄れていった。武寧は父の察度に命じられて今帰仁を攻めたにすぎない。察度が亡くなった今、いつまでも敵討ちにこだわっていてもしかたがない。山北王として今帰仁を今以上に発展させなくてはならないと思い始めた。
 今帰仁に帰った攀安知は妻のマアサを初めて抱いた。マアサは涙を溜めて、ありがとうと言った。
 何かが吹っ切れた攀安知は王として動き始めた。まず最初にやった事は与論島(ゆんぬじま)攻めだった。与論島は勝連按司(かちりんあじ)が支配していたが、察度も亡くなり、今の勝連按司には反撃する力もないだろうと見た攀安知与論島に攻め寄せ、与論按司と若按司を倒してグスクを占領した。サムレー大将として活躍した叔父を与論按司に任命して、島の統治を任せた。
 中山王の進貢船に便乗して毎年、明に使者を送り、四度目の時、ようやく進貢船が下賜(かし)された。翌年、自らの船で明に使者を送ったが、洪武帝(こうぶてい)が亡くなり、明国は内乱となって応天府(おうてんふ)まで行く事はできなかった。進貢はできなかったが、明国の内乱のお陰で、密貿易船が次々にやって来た。
 内乱が終わって、永楽帝(えいらくてい)の時代になっても密貿易船が来なくなる事はなかった。浮島には明国から永楽帝使者が来て、密貿易者を捕まえて帰って行ったらしいが、運天泊に隠れていれば密貿易船も安全だった。薩摩(さつま)から島津家の使者が来て、交易したいと言ってきたのもその頃だった。
 そして、武寧は首里に新しいグスクを築き始め、大量の材木がヤンバルから浮島へと運ばれた。材木を積んで行った船は、明の陶器や絹などの財宝を大量に積んで帰って来た。武寧が殺され、新しい中山王の時代になっても、首里の城下造りで、大量の材木が消費され、攀安知はたんまりと稼いだのだった。わざわざ、明国まで進貢船を送らなくても、中山王から明国の商品を手に入れる事ができ、笑いが止まらないほどだった。
 首里の城下も完成し、材木の需要も減ってきた。さて、これからどうするか、それを考えるため、今夜は御内原の新築祝いと称して、主立った者たちを招待したのだった。御内原は男子禁制なので、普段は入る事はできないが、まだ引っ越し前なので、重臣たちも入る事はできた。新しい屋敷を自慢しながら、うまい酒を飲み、今後の相談をするつもりだった。
 招待したのは弟の湧川大主、叔母の勢理客(じっちゃく)ヌル、姉の今帰仁ヌル、妻の妹の浦添ヌル、師匠の山伏のアタグ、油屋のウクヌドー、博多の禅僧の宗安、明国の軍師のリュウイン(劉瑛)、志慶真(しじま)村の長老、大叔父の倅の羽地按司、叔父の国頭按司、叔父の名護按司(なぐあじ)、叔父の本部大主、従弟(いとこ)の恩納按司(うんなあじ)と金武按司(きんあじ)、重臣の平敷大主(ぴしーちうふぬし)と謝名大主(じゃなうふぬし)の十七人だった。叔父の永良部按司(いらぶあじ)と与論按司(ゆんぬあじ)は、この時期はまだ北風が吹かないので来られなかった。
 一つ違いの弟の湧川大主は攀安知がもっとも頼りにしている男だった。武術の腕も互角で、考える事も似ていて、攀安知が一々命じなくても先を見越して動いてくれる。攀安知がどこかに出掛ける時も、弟が留守を守っていてくれれば安心だった。
 勢理客ヌルは何でもずけずけ言うので苦手な叔母だが、ヌルとしての叔母は素晴らしく、重大な事を決める時には、どうしても必要な人だった。姉の今帰仁ヌルもすっかりヌルとしての貫禄が備わって来た。この先、頼りになる存在となるだろう。浦添ヌルは父の敵を討ってくれとうるさいが、可愛い所もある。今のところは姉に任せておこう。
 師匠のアタグは武術の師であり、ヤマトゥ言葉の師でもあった。もう二十年以上も琉球にいて、妻もいるし二人の子供もいる。今帰仁合戦の時はサムレー大将として先頭になって中山兵を攻め、攀安知が初陣を飾れたのもアタグのお陰だった。攀安知にとって軍師でもあり、父のいない今、父親のような存在でもあった。
 『油屋』のウクヌドーは博多の筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)の油屋で、アタグよりも前に今帰仁に来て、城下に店を開き、ヤマトゥの油を売っていた。初めのうちは山北領内だけの商売だったが、今帰仁合戦の前、中山王の様子を探らせるために、祖父がウクヌドーに頼んで、浦添に行商人を送った。敵の情報を得る事に成功し、さらに商売の方もうまくいった。浦添グスクも大量の油を必要としていて、取り引きの話がまとまったのだった。浦添城下に店を出し、行商人たちは各地を回って商売をしながら情報を集めている。十年前には山南王の城下、島尻大里(しまじりうふざとぅ)にも店を出し、浦添グスクが焼け落ちたあとは、浦添の店を首里に移していた。
 宗安は博多の妙楽寺(みょうらくじ)の禅僧で、今帰仁合戦の二年前、ふらっと本部に現れ、父と意気投合して、そのまま本部に居着いてしまった。父が山北王になると今帰仁城下の屋敷で暮らし、子供たちに読み書きを教えている。取り引き相手のヤマトゥのサムレーに送る書類なども宗安に頼んでいるので、ヤマトゥとの交易にはなくてはならない存在だった。
 唐人のリュウインは明国で始まった内乱の時に密貿易船に乗ってやって来た明国の軍師だった。永楽帝の弟に仕えていたが、主人が殺されて琉球に逃げて来たという。武芸の達人だったので、攀安知は立派な屋敷を建てて引き留めた。言葉が通じないので、『油屋』に頼んで、浮島から島言葉のわかる唐人も連れて来させた。今ではすっかり島言葉も話せるようになり、密貿易船でやって来る唐人たちの通訳を務め、書類の作成も担っている。宗安と同様に唐人との交易にはなくてはならない存在だった。
 志慶真村の長老は一族の長老だった。すでに八十歳を過ぎ、今帰仁の歴史を見てきた生き証人だった。
 若い頃の攀安知は歴史などまったく興味を持っていなかった。遠い昔の事など関係ないと思っていた。しかし、三十歳を過ぎ、父が読んでいた書物を読んでいるうちに、歴史とは先祖たちが築いてきたもので、その先祖がいなければ自分もいないという事がわかってきた。遙か昔に生きていた先祖から延々と命がつながって、今の自分がいる。先祖たちが苦労して生きてきたから、自分がこの世にいるのだとわかると過去の事が知りたくなってきた。祖父まではわかるが、祖父の父の事はまったく知らない。長老が生きているうちに古い話を聞いておこうと思い、今夜、招待したのだった。
 羽地按司、国頭按司、名護按司、本部大主、恩納按司、金武按司は皆、親戚だった。羽地按司は大叔父の倅(せがれ)、攀安知にとっては遠い親戚だが、弟の湧川大主の妻は羽地按司の娘だった。国頭按司は叔母の夫、名護按司も叔母の夫、本部大主は叔父だった。恩納按司と金武按司今帰仁合戦で戦死した若按司の遺児で、当時、六歳と四歳だった。従弟(いとこ)なのだが、攀安知にとっては弟のようなものだった。
 平敷大主と謝名大主は祖父の頃からの重臣で、うるさい事ばかり言うので、攀安知が山北王になった時、二人とも隠居させ、子供たちに跡を継がせた。当時は頼りない二人だったが、あれから十二年が経ち、二人とも立派な重臣に納まっていた。
 全員が集まると城女(ぐすくんちゅ)たちによって料理のお膳が並べられ、攀安知は挨拶をした。
「本来なら先月の中秋の名月を見ながら祝う予定だったが、一月遅れてしまった。幸い、今宵もいい月が出ている。御内原の新築を祝って楽しく飲もうではないか」
 乾杯をしたあと、攀安知は皆の顔を見回し、「実は今夜集まってもらったのは祝宴のためだけではない。今後の事を話し合おうと思っている」と言った。
「そんな事は別の時にやればいい」と国頭按司が言った。
「それよりも、この席に『油屋』がいるのは解(げ)せんな」
「『油屋』には各地の動きを話してもらいます」
「そんな事を聞いてどうするんじゃ」と名護按司が聞いた。
 まったくうるさい叔父たちだと思いながら、「敵の動きを知らなければ、こちらも動きを決められません」と攀安知は言って、「まず、長老から今帰仁の歴史について話していただきましょう」と長老を促した。
 長老はうなづいた。
 何を今更、歴史じゃと叔父たちはブツブツ言っていたが、長老には逆らえず、酒を飲みながら長老の話に耳を傾けた。
「王様(うしゅがなしめー)が歴史を知りたいと言い出すとはまったく、驚いております。先代の王様はわしを呼んでは様々な事をお尋ねになった。先代が亡くなり、もう年寄りの出番はなくなったと思っておりましたが、こうして、呼ばれるとは嬉しいかぎりでございます。年寄りの話を聞いて、今後の今帰仁の発展にお役立てくだされ」
 そう言って、長老は今帰仁の歴史を語り始めた。
 古い事なので正確な事はわからないが、長老が若い頃に古老から聞き集めた話や、長老の先祖たちが書き綴ってきた文書によると二百年余り前、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武将が兵を引き連れて今帰仁にやって来たという。
「武将の名は伝わっておらんが、この平家の武将こそが、わしらの御先祖様じゃ」と長老は言った。
「わしらの御先祖様はヤマトゥンチュだったのか」と国頭按司が驚いた顔をして長老を見つめた。
「何も驚く事はない。同じ頃、浦添を攻めて浦添按司になった舜天(しゅんてぃん)の父親は源氏の武将だったという。ヤマトゥンチュのサムレーは鎧に身を固めて、鋭い刀を持っていた。当時の琉球の者たちがかなうはずはない」
「平家と源氏か‥‥‥」と油屋のウクヌドーも驚いた顔をしてつぶやいた。
 長老は平家と源氏の事を簡単に説明して、話を続けた。
 平家の武将は今帰仁にグスクを築いて今帰仁按司になった。この頃は勿論、石垣はなく、土塁と堀に囲まれた山城だった。
 初代今帰仁按司の長男が二代目を継ぎ、次男が永良部島(いらぶじま)(沖永良部島)に渡って永良部按司になり、三男が羽地にグスクを築いて羽地按司となった。
 二代目今帰仁按司の長男が三代目を継ぎ、次男が名護にグスクを築いて名護按司になり、三男がグスクの南側に村を作って志慶真大主(しじまうふぬし)になった。
 三代目の長男が四代目を継ぎ、次男が国頭にグスクを築いて国頭按司になった。
 四代目の時に事件が起こった。
 百五十年ほど前、英祖(えいそ)という武将が現れ、浦添グスクを攻め落とし、源氏の子孫たちを滅ぼして浦添按司になった。英祖は源氏の武将に滅ぼされた浦添按司天孫氏(てぃんすんし))の末裔(まつえい)だった。見事に先祖の敵(かたき)を討ったのだった。
 英祖は各地に勢力を広げて、ヤンバルにも攻めて来た。攻めて来たのは英祖の次男で、湧川按司と名乗って運天泊を占領した。湧川按司は四代目今帰仁按司の娘を妻に迎え、運天泊を本拠地にして今帰仁按司に仕えた。それから十三年間、湧川按司は婿として、今帰仁按司に逆らう事はなかった。ところが、三代目が亡くなった二年後、突然、今帰仁を攻め、四代目を倒して、五代目今帰仁按司となったのだった。
「ほう、そんな事があったのか」と叔父たちも驚き、そんな古い話は知らなかったようだ。
「するとわしらの先祖は、その英祖の次男なのか」と本部大主が聞いた。
「そうではない」と長老は言った。
「幸いに湧川按司は男の子に恵まれなかったんじゃ。もし、男の子が大勢いたら、無理矢理に婿養子に入れて、羽地按司も名護按司も国頭按司も皆、乗っ取られてしまったじゃろう。湧川按司は娘たちを各按司のもとへ嫁がせたが、平家の血が絶える事はなかったんじゃよ」
 湧川按司は四代目と若按司と次男を殺したが、幼かった三男と四女は助けた。妻が自害してしまったため、その罪滅ぼしに助けたのかもしれない。三男は十八歳になると湧川按司の娘を妻に迎え、本部大主となり、四女は湧川按司の後妻に迎えられた。
 亡くなった妻も後妻も子供を産んだが女の子ばかりだった。何としてでも跡継ぎを作らなければならないと、何人もの側室を迎えても男の子は生まれなかった。
 志慶真村にウトゥタル(乙樽)という美しい娘がいた。その美しさは近隣の村々の噂に上り、今帰仁按司の耳にも入った。按司はさっそく、ウトゥタルを側室に迎えようと使者を志慶真村に使わした。ウトゥタルは勿論、村の者たちも驚いたが、按司に逆らうわけにはいかない。ウトゥタルは泣く泣く、按司の側室となった。
 その翌年、後妻が男の子を産んだ。按司は大喜びして、千代松(ちゅーまち)と名付けた。後妻もウトゥタルも千代松を可愛がった。しかし、五年後に按司は亡くなってしまう。
 按司の死を待ち望んでいる者がいた。按司の娘婿として信頼されていた本部大主だった。父や兄の敵討ちだと今帰仁に攻め寄せ、グスクを奪い取ってしまったのだった。按司の後妻になっていた姉の手引きによるものだった。
 跡継ぎの千代松は忠臣の潮平大主(すんじゃうふぬし)に助けられてグスクを脱出した。後妻もウトゥタルも同行するが、足手まといになると言って後妻は志慶真川に身を投げて自殺してしまう。弟が念願の敵討ちを果たしたが、自分は敵の子を産んでしまった‥‥‥恥ずかしくて、生きてはいられなかったのだった。ウトゥタルも女が一緒では無事に逃げ切れないと言って、途中で別れて村に帰った。
 ウトゥタルが志慶真村に帰ると村人たちはグスクを取り戻したとお祭り騒ぎをしていた。無事でよかったと村人たちはウトゥタルを迎え入れてくれた。ウトゥタルも一緒になって勝ち戦を喜んだ。
 ウトゥタルは翌年、志慶真大主の後妻となって男の子を産んだ。その男の子は長老の父親で、志慶真大主を継いだ。
 本部大主がグスクを取り戻したのが百年ほど前の事である。その頃、浦添では英祖の子孫たちが家督争いを始めて、戦乱の世となっていたが、今帰仁では平和が続いた。
 六代目今帰仁按司になった本部大主は娘たちを各按司たちに嫁がせて結束を固めた。もう二度とよそ者に今帰仁は渡さないと誓ったが、そうはならなかった。
「また、何かが起こるのか」と国頭按司が興味深そうに聞いた。
 皆、真剣な顔をして長老の話に耳を傾けていた。
「また戦が起こるんじゃよ」と長老は言った。
「本部大主が六代目になってから二十二年後の事じゃった。成長した千代松が大軍を率いて、今帰仁を攻めて来たんじゃ。六代目は討ち取られ、若按司もその長男も殺された。結束を固めたはずなのに、今帰仁が落城したのは裏切り者が出たのかもしれん。二十二年の間に六代目に反感を持つ者が現れたのかもしれんのう」
 グスクを取り戻した千代松は七代目今帰仁按司となり、グスクに石垣を巡らせて強化した。千代松が戻って来た時、長老の祖母のウトゥタルは悲しんでいいのか、喜んでいいのかわからなかったという。グスクを奪われ、城下や志慶真村も焼け野原となり、悲しくて憎らしかったが、立派に成長した千代松が戻って来たのは嬉しい事でもあった。ウトゥタルは千代松に会いに行った。千代松はウトゥタルとの再会を大喜びして、村の再建に全力を注いでくれた。
 千代松は城下を再建し、羽地按司、国頭按司、名護按司ともうまくやっていた。彼らの妻は千代松の姉たちだった。
 千代松が七代目になって五年後、長老は生まれた。長老の母は六代目の娘で、毎日、グスクを睨みながら、父と兄の敵を討たなければならないと言っていた。
 長老が七歳の時、祖母のウトゥタルは亡くなった。美しく生まれたために、幼い頃の千代松と出会ってしまい、一族の敵(かたき)である千代松を憎めない自分が許せなかった。苦しみながら晩年を送っていた祖母は愚痴一つこぼさず、静かにこの世を去って行った。
 ちなみに、千代松の孫が伊波按司と山田按司で、マチルギは千代松の曽孫(ひまご)、マウシは玄孫(やしゃご)だった。
 長老が二十三歳の時、察度が現れ、英祖の子孫の西威(せいい)は滅ぼされて、察度が浦添按司になった。長老が三十五歳の時、七代目の千代松は亡くなった。長男の若按司が跡を継いだが、一月ほど経った頃、羽地按司が攻め込み、八代目を倒してグスクを奪い返した。千代松に奪い取られてから四十年近くの月日が流れていた。
「そういう事じゃったのか」と名護按司が言った。
「わしが生まれたのがその年じゃった。わしの母は七代目の娘だったので、羽地按司を恨んでおった。わしも羽地按司は悪い奴だと思っていたが、英祖の子孫からグスクを奪い返した羽地按司は御先祖様の敵を討ったんじゃのう」
「わしの母親も七代目の娘で、羽地按司を恨んでいた」と名護按司も言った。
「わしらには尊い平家の血が流れておる。もう二度とグスクをよそ者に奪われてはならんのじゃ。羽地按司がグスクを取り戻してから、すでに五十年が経っている。今こそ一族が団結を固め、このヤンバルの地を守らなければならんのじゃ」
「長老、ご苦労だった」と攀安知はお礼を言った。
 攀安知もまったく知らない事だった。改めて、祖父は凄い事をやり遂げたんだと思っていた。
「さて、今帰仁の歴史を学んだ所で、これからどうすべきかを考えたいと思う。まず、中山王の事だが、同盟して硫黄を手に入れて、明国に進貢をすべきか、皆はどう思う」
「進貢など必要あるまい」と羽地按司が言った。
「毎年、密貿易船が来てくれれば、危険を冒して明国まで行く必要はない」
「明国の海賊、リンジェンフォン(林剣峰)はこちらが欲しい物はすべて用意すると言いました。面倒な進貢は必要ありません」とリュウインが言った。
 攀安知はリューインにうなづき、「よし、中山王との同盟はなしだ」と決断を下した。
「そんなの当然でしょ」と浦添ヌルが小声で言った。
 攀安知浦添ヌルを見て笑った。
「次に山南王だが、近いうちに同盟の打診があるかもしれん。受けるべきか、どう思う」
「山南王と同盟して、何か得があるのか」と国頭按司が聞いた。
「中山王を挟み撃ちにできる」と攀安知は答えた。
「王様(うしゅがなしめー)は中山王を攻めるつもりなのか」と羽地按司が聞いた。
「長老の話を聞いただろう。浦添按司の英祖はヤンバルに攻めて来て、今帰仁を奪い取った。わしらは今帰仁を奪い返したが、仕返しはしておらん。いつの日か、中山を攻めて首里を奪わなくては御先祖様に顔向けできんぞ」
「そうかもしれんが、中山を攻めるのは難しい。陸路で行けば首里に行くまでに、いくつものグスクを倒さなければならん。船で行ったとしても、敵に船を奪われたら帰って来られなくなる」と名護按司は無理だと言うように首を振った。
「策がある」と攀安知は言った。
「リンジェンフォンに鉄炮(大砲)を装備した船を頼んだ。明国の水軍から奪い取らなければならないので、そう簡単にはいかないだろうが、必ず、持ってくると約束してくれた。その船があれば浮島を攻められる。その船が手に入ったら、山南王と手を結んで挟み撃ちにする」
 攀安知は自信たっぷりに言った。
 叔父たちはそれはいい考えだという顔をして攀安知を見ながら、うなづき合っていた。
「ところで、山南王は中山王を倒す気があるのか」と羽地按司が聞いた。
「その件に関しては『油屋』に聞こう」と攀安知は言って、油屋を促した。
「山南王は首里グスクの普請(ふしん)に関わっておりました。苦労して建てたグスクを完成した途端に、今の中山王に奪われ、腹を立てております。先代の中山王は山南王の義兄でもありますので、中山王を倒すつもりでおります。ただ、今は地盤固めに専念しております。山南王は南部一帯を支配しているものと思っておりましたが、現地に行ってみますと決してそうではございません。南部の東半分は東方(あがりかた)と言って、中山王に従っております。中山王は東方の佐敷出身で、東方の按司たちの力を借りて、先代の中山王を倒したと思われます。南部の中程にある八重瀬(えーじ)グスクにいるのが、山南王の兄の八重瀬按司です。本来なら、兄の八重瀬按司が山南王になるはずなのに、弟が山南王を継いだため、この兄弟は南部の按司たちを巻き込んで、何度も戦をしております。今の八重瀬按司は中山王に従い、中山王の進貢船に乗って明国まで行っています。七月に帰って来たようですが、八重瀬按司の留守中に、山南王は八重瀬按司に従っていた按司たちを寝返らせています。そろそろ、兄弟の戦が始まるかもしれません。山南王としては兄の八重瀬按司を倒さない事には中山王を攻める事はできないでしょう。首里を攻めている間に、八重瀬按司に背後を襲われます」
「山南王としてもすぐには動けんという事だな」と攀安知が言って、「中山王は今帰仁に攻めて来る気配はあるのか」と油屋に聞いた。
「中山王としてもすぐには動けないでしょう。今年の一月に進貢船を送りましたが、大分、手間取っていたようです。詳しい事は存じませんが、久米村(くみむら)を仕切っていたアランポーという者がいなくなってしまい、様々な手続きに時間が掛かってしまったようです」
「アランポーには会った事がある」と攀安知が言った。
「察度の葬儀の時、武寧と一緒に久米村に行って、アランポーにあった。豪華な屋敷に住んでいて、まるで、久米村の王様のようだった。どうして、いなくなったんだ」
「それがよくわからんのです。村の者たちに聞いても、突然、一族共々いなくなったというだけで、もしかしたら、稼いだ財宝を持って、明国に帰ったのかもしれません」
「そうか‥‥‥」と攀安知はうなづいた。
「進貢船だけの事ではなく、領内をまとめるのはまだまだ時間が掛かるでしょう」
「それで、中山王は今帰仁を攻める気はあるのか」
「それもはっきりとわかりません」と油屋は首を振った。
「今の中山王は佐敷按司でしたが、今帰仁合戦のあとに隠居しています。頭を丸めて東行法師(とうぎょうほうし)を名乗って旅をしておりました。跡を継いだ若按司も変わった男のようで、グスク内で娘たちに剣術を教えたり、笛や踊りを教えたりしていたようです」
「娘たちに剣術を教えていたのか。面白い奴だな」と攀安知は楽しそうに笑った。
「佐敷、島添大里(しましいうふざとぅ)の娘たちのほとんどは剣術を身に付けております。その中でも強い者たちは女子(いなぐ)サムレーになって、首里の御殿を守っております」
「なに、女子サムレーだと?」
 油屋はうなづいた。
「白い袴を着けて、刀を差し、グスク内を颯爽と歩いております。その女子サムレーを仕切っているのが、島添大里按司の奥方様(うなじゃら)です。島添大里按司というのは佐敷按司になった若按司の事です」
「その奥方も強いのか」
「噂ではかなり強いようです。娘たちからは大師匠(うふししょう)と呼ばれています」
「そんな女子がいるのか。会ってみたいものだ。その島添大里按司というのは年齢(とし)はいくつなんだ」
「王様より三つか四つ、年上かと思われます」
「ほう。面白そうな奴だな」と攀安知は不敵に笑った。
「その島添大里按司ですが、佐敷按司になっても特に目立った動きもなく、誰も知らないような有様でしたが、先代の山南王が亡くなり、今の山南王と兄の八重瀬按司家督争いを始めた戦で、島添大里グスクを奪い取って、島添大里按司になりました。かなりの幸運だったようです。その時の島添大里按司は山南王の弟で、山南王の味方をしていて、八重瀬按司の兵に囲まれていました。山南王が勝利すると八重瀬按司の兵は引き上げました。長い籠城の末、島添大里グスクには食糧もなく、戦も終わって兵たちも安心して休んでおりました。そこを佐敷按司に襲撃されて敗れてしまったようです。その時、今帰仁にも噂が流れて来ましたが、島添大里按司を倒した佐敷按司とは何者なのか知りませんでした。その時に調べて、佐敷按司の事を知ったのです。島添大里按司になったのが余程嬉しかったとみえて、盛大なお祭りを催しましたが、その後は特に目立った事はありません。それが去年、突然、浦添を攻めて中山王を殺し、首里グスクを奪い取ったのです。島添大里按司はなぜか、中山王にはならず、隠居した父親を呼び戻して中山王にしています」
「中山王というのはあやつり人形に過ぎんな。島添大里按司が曲者(くせもの)だ。奴は奇襲攻撃が好きなようだ。何もしない振りをして、突然、攻めて来る。ここにも突然、攻めて来るかもしれんな。奴をしっかりと見張ってくれ」
 攀安知は油屋に命じた。
 油屋はうなづき、「島添大里按司は進貢船に乗って、明に行って来ました。明の都を見て驚き、首里にも大きな寺院を建てようと考えているようです。城下はほぼ完成しましたが、まだまだ材木が必要かと思われます」
「寺院か」と攀安知がつぶやくと、
「明の都に寺院は付きものです」とリュウインが言った。
 攀安知は宗安を見て、「今帰仁にも寺院を建てなければならんな」と言った。
 宗安はお礼を言い、「首里に負けてはおられません。立派な寺院を建ててくだされ」と両手を合わせた。
「中山王も山南王ももう少し様子を見る事にして、わしらは北(にし)に進出する事にする」と攀安知は言った。
「北というと奄美ですかな」と羽地按司が聞いた。
「そうじゃ。与論(ゆんぬ)と永良部(いらぶ)は支配下にある。その先の徳之島(とぅくぬしま)、大島(うふしま)(奄美大島)、鬼界島(ききゃじま)(喜界島)を奪い取る」
「成程、それはいい考えですな」と羽地按司は笑った。
「それらの島を支配下に置けば、ヤマトゥの商人たちを今帰仁に呼び込む事も可能じゃ」と国頭按司が言い、名護按司も賛成した。
 攀安知は勢理客ヌルと今帰仁ヌルを見た。二人とも大丈夫というようにうなづいた。
 与論島は十一年前に勝連按司から奪い取った。永良部島の歴史は古く、初代の今帰仁按司の次男が永良部按司になったのは二百年も前の事だった。三代目の永良部按司は英祖の弟に敗れて、永良部島を奪われた。本部大主が今帰仁按司になった時、奪い返すが、千代松が今帰仁按司になるとまた奪い返された。そして、羽地按司今帰仁按司になると奪い返し、今に至っている。
「話がまとまった所で、これからは無礼講じゃ。心行くまで楽しんでくれ」
 攀安知が手を叩くと美女たちが続々と現れた。この日のために各村々から集められた美女たちだった。美女たちが加わって賑やかに祝宴は夜更けまで続いていった。
 上空では半ば雲に隠れた満月が機嫌よさそうに笑っていた。

 

 

 

 

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