長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-95.新宮の十郎(改訂決定稿)

 熊野の本宮(ほんぐう)から新宮(しんぐう)までは船だった。淀川下りのようにお酒を飲みながら、のんびりできるとササたちは思っていたが、山の中の川はそんな甘くはなかった。
 淀川のような大きな船ではなく、四、五人乗りの小さな舟で、曲がりくねった川を下った。流れは穏やかだったが、突然、急流になったりして、舟が揺れるのでお酒なんか飲めなかった。それでも天気に恵まれて、あちこちにある滝を見たりして、楽しい舟旅だった。
 新宮に着くと新宮孫十が待っていた。鈴木庄司から知らせがあって、御台所様(みだいどころさま)一行が来るのを待っていたという。孫十の案内で、宿坊(しゅくぼう)が建ち並んで賑やかに人々が行き交う参道を通って、『速玉大社(はやたまたいしゃ)』をお参りした。境内(けいだい)の中にはいくつも神社があって、住心院(じゅうしんいん)殿の言われるままにお参りをした。ここにも古い神様はいっぱいいるようだが、異国のササたちに語り掛けてくる神様はいなかった。
 速玉大社の近くにある大きな宿坊に入ると、ササは孫十から新宮の十郎の事を聞いた。孫十の話は、鈴木庄司から聞いた話とほとんど同じだった。十郎が琉球に行ったかどうかはわからないが、当時、熊野水軍が奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)の藤原氏のために琉球に行っていたのは事実だという。
 平泉の藤原氏が滅んだあとは、琉球に行く事もなくなって、鎌倉幕府のために働き、南北朝の争いの時は南朝のために働いた。今は京都の将軍様足利義持)のために働いているという。そして、十郎の姉の『丹鶴姫(たんかくひめ)』の事を詳しく知っていた。
 かつて熊野を支配していた熊野別当(くまのべっとう)は、今は消滅してしまったが、十郎が生きていた時代、絶大な力を持っていた。丹鶴姫は十六代熊野別当長範(ちょうはん)の長男、行範(ぎょうはん)に嫁いだ。行範は長い間、権別当(ごんのべっとう)を務めて、晩年に十九代別当になっている。丹鶴姫が生んだ長女は、十八代別当湛快(たんかい)の次男で、二十一代別当湛増(たんぞう)に嫁いだ。長男の範誉(はんよ)は那智執行(なちしぎょう)を務め、三男の行快(ぎょうかい)は弓矢の名手であり、二十二代別当となった。四男の範命(はんめい)は二十三代別当となり、六男の行遍(ぎょうへん)は歌人として有名になっている。
 長女が湛増に嫁ぐ二年前、父の源為義(みなもとのためよし)が保元(ほうげん)の乱で戦死した。そして、長女が嫁いだ翌年、平治(へいじ)の乱で、長兄の義朝(よしとも)を初めとした兄弟がほとんど戦死してしまった。生き残ったのは常陸(ひたち)(茨城県)にいる三郎義広(よしひろ)と、伊豆大島に流されている八郎為朝(ためとも)、そして、新宮にいる十郎義盛(よしもり)だけになってしまった。十一年後には、八郎為朝も伊豆大島で殺された。
 晩年になって別当に就任した夫の行範は、別当になってから一年後に亡くなった。夫が亡くなると、丹鶴姫は出家して『鳥居禅尼(とりいぜんに)』と称して、菩提寺(ぼだいじ)として東仙寺(とうせんじ)を創建する。夫や戦死した父や兄弟を弔いながらも源氏の再興を祈り、山伏たちを使って各地の情報を集めていた。京都にいる摂津(せっつ)源氏の頼政(よりまさ)とも連絡を取り合い、後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう)が平家打倒の令旨(りょうじ)を下す事を知ると、弟の十郎を京都に送り出した。この時、鳥居禅尼は父が速玉大社に奉納した源氏の宝刀を十郎に渡して、必ず、平家を倒して来いと言ったという。
 作戦が平家に漏れて、以仁王頼政は戦死してしまうが、十郎の活躍で各地の源氏が立ち上がった。伊豆に流されていた義朝の嫡男の頼朝(よりとも)、奥州平泉にいた頼朝の弟の義経(よしつね)、信濃木曽義仲、十郎も加わって、平家を京都から追い出した。
 壇ノ浦の合戦の時の熊野別当は、鳥居禅尼の娘婿の湛増で、初めは平家の味方をしていたが、鳥居禅尼に説得されて源氏方となり、熊野水軍を率いて壇ノ浦に行き、平家を滅ぼしている。
「丹鶴姫様と十郎様は、新宮が誇れる英雄でございます」と孫十は力を込めて言った。
「丹鶴姫様が住んでおられたお屋敷はなくなってしまいましたが、東仙寺がある山は『丹鶴山』と名付けられて、新宮の者たちは決して、お二人の事を忘れてはおりません」
 翌日は新宮に滞在して、熊野別当の屋敷跡地や丹鶴山に登って、十郎と丹鶴姫を忍んだ。
 十郎が琉球に行った事は確認できなかったが、十郎の活躍で平家を倒した事はわかった。久高島(くだかじま)の大里(うふざとぅ)ヌルも納得してくれるだろう、と丹鶴山から景色を眺めながらササは思っていた。
 玉依姫(たまよりひめ)が言っていたスサノオが祀られている山は、『神倉山(かみくらやま)』と呼ばれていた。神倉山の裾野にはお寺や僧坊が建ち並び、大勢の山伏がいた。その中にある『妙心寺』という尼寺は、熊野の比丘尼(びくに)たちを仕切っていて、住持の妙祐尼(みょうゆうに)は高橋殿の知り合いだという。熊野の比丘尼は絵解き比丘尼とも呼ばれていて、極楽図や地獄図を描いた絵巻物を持って旅をして、歌を歌いながら熊野信仰を各地に広めていた。
 妙心寺に寄って、おいしいお茶とお菓子を御馳走になり、神倉山に登った。急な石段を登って行くと、山の中腹に巨大な石があった。まるで、琉球のウタキ(御嶽)のようだった。
「昔は立派な神社がここにもあったんだけど、戦(いくさ)で焼かれてしまったわ。妙祐尼様は神社を再建しようと頑張っているんだけど、なかなか難しいみたいね」と高橋殿が言った。
 ササたちは巨大な石の下にひざまずいてお祈りをした。
「遅いぞ」と神様が言った。
 スサノオの声だった。ササは驚いて、体を震わせた。スサノオを祀っている山なので、スサノオがいるのは当然と言えるが、ここに来るまでスサノオの声を聞いていなかったので、スサノオは京都にいると思っていた。まさか、ここにいたなんて思いもしない事だった。
「あたしが連れて来たのよ」とユンヌ姫も一緒にいた。
「色々とお世話になったから恩返しよ。新宮の十郎も一緒よ」
「えっ!」とササはまた驚いた。十郎と会えるなんて考えてもいなかった。
「ユンヌ姫から聞いたぞ」とスサノオが言った。
琉球に行った男を捜しているそうじゃのう。この地から琉球に行った男は何人もおる。また、琉球からこの地に来た者も何人もおる。お前が探している新宮の十郎とやらを探すのは容易な事ではないと思ったが、丹鶴姫の弟じゃという事で、何とか見つける事ができたんじゃよ」
「丹鶴姫様を知っていたのですか」
「丹鶴姫はよくこの山に来て、源氏再興をお祈りしていたんじゃ。それに琉球に行った弟の事も心配しておったのう。けなげで可愛い女子(おなご)じゃったので覚えておったんじゃよ」
「美人だったのですね?」とササが聞くと、
「勿論、美人じゃが、それだけでなく、賢くて、強い女子じゃったのう。あの頃、熊野別当家を支えていたのは丹鶴姫じゃった。何となく、リュウに似ているな」とスサノオは言った。
リュウ?」
「お前が高橋殿と呼んでいる女子じゃよ」
「えっ、高橋殿も知っていたのですか」
「あれほどの舞を舞える女子は滅多におらんからのう」
「クミなのか」と誰かが言った。
「違います」とサスカサが答えた。
「その勾玉(まがたま)は覚えている。クミがいつも首から下げていた」
「新宮の十郎様なのですね」とサスカサが聞いた。
「そうだ。クミと子供たちがどうなったのか教えてくれ」
 ササは口を出さず、サスカサに任せる事にした。
 サスカサは息子の舜天(しゅんてぃん)が浦添按司(うらしいあじ)になって、娘のフジが浦添ヌルになった事を教えた。
「そうか、シンテンが按司になったのか」と十郎は嬉しそうに言った。
「舜天という変わった名前は、十郎様が付けたのですか」
「そうだよ。ここは出雲(いづも)の熊野に対して新宮と名付けられた。俺は琉球に行って、新しい天地に来たと思って、『新天』と名付けたんだ」
「新天だったのですか。今はなまってしまって、シュンティンと呼ばれています」
「そうか、新天の事はちゃんと語り継がれているんだな?」
「はい。初代の浦添按司だと伝わっております。新天のお母さんが、あなたが琉球を去ったあと、何をしていたのか知りたがっています」
「そうか。そうだろうな。戻ると言って琉球を去ったきり戻らなかったからな」
「どうして、戻らなかったのですか」
「今思えば欲が出たんだろうな。憎き平家を倒すのが目的だった。平家を倒したら、あとの事は甥たちに任せて琉球に帰ればよかったんだ」
 十郎は久し振りに話を聞いてくれる者を見つけたとみえて、子供の頃からの事を延々と話し始めた。
 十郎が生まれた時、父親の源為義(みなもとのためよし)は左衛門少尉(さえもんしょうじょう)を辞任して、京都から新宮に帰っていた。年の離れた姉の丹鶴姫は、十郎が生まれた年に熊野別当家に嫁いだ。
 母親の父親は速玉大社の禰宜(ねぎ)(神官)を務めていて、水軍の大将でもあった。十郎は水軍の荒くれ者たちに囲まれて育った。船に乗って海に出るのが好きで、大人になったら船乗りになって、遠い国々に行ってみたいと思っていた。元服(げんぶく)の時、先達(せんだつ)に連れられて神倉山に登って修行をした。以後、山の魅力に取り憑かれて山伏になろうと決心した。幼馴染みの弁慶(べんけい)と一緒に山に籠もって修行に励み、いつの日か『奧駈け』をして、吉野の大峯山(おおみねさん)まで行ってみたいと思った。
 弁慶は別当家の一族だが庶流なので、別当になる事はできず、先達山伏になって別当家のために働く事になっていた。十郎と同い年だったので、幼い頃から一緒に育っていた。
 十六歳の時に、京都で『保元の乱』が起こって父が戦死した。父の戦死を聞いても、十郎には実感がわかなかった。十郎が生まれた翌年、父は京都に行ってしまい、父との思い出はまったくなかった。亡くなる三年前、父は鳥羽上皇(とばじょうこう)の熊野御幸(ごこう)の警護をして熊野に来た。山の中で修行していた十郎は、姉に呼ばれて父と対面した。山伏姿の十郎を見た父は目を細めて、「大きくなったのう」と言った。十郎はただうなづくだけで、何も言わなかった。
 十郎にとって、実の父よりも、姉の夫である行範が父のような存在だった。行範は厳しい修行を何度もしていて、山伏たちから尊敬されていた。山の中に籠もって修行ばかりしていたので、姉を妻に迎えた時は二十七歳になっていて、姉より十一歳も年上だった。十郎も行範を尊敬して、父親のように慕っていた。
 父が亡くなったあと、十郎は行範から父親の事や会った事もない兄たちの事を聞いて、武士として生きようと決心した。
 翌年、十郎は弁慶と一緒に熊野水軍の船に乗って、奥州の平泉に行った。武士として生きるのなら、将来のために、平泉の藤原氏とつながりを付けておいた方がいいと行範に言われたのだった。
 当時、平泉では豪勢な寺院をいくつも造っていて、螺鈿(らでん)細工に使うヤコウガイを欲しがっていた。熊野水軍藤原氏の願いを引き受けて、ヤコウガイを手に入れるために琉球まで行っていた。十郎たちは琉球から帰って来た船に乗り込んで、平泉まで行ったのだった。
 山国育ちの十郎と弁慶にとって、平泉は驚くべき都だった。立派な屋敷が建ち並ぶ大通りを、華やかに着飾った人々が大勢行き交い、まるで、異国に来たようだと思った。平泉を見た十郎は、京都に行こうと決心した。
 平泉から帰った十郎は、藤代の鈴木氏の娘を妻に迎えた。その翌年、長兄の義朝に呼ばれて、弁慶と一緒に京都に上った。姉が家臣として二十人の兵を付けてくれた。平泉を見た十郎は京都も似たような所だろうと思っていたが、やはり、新しい都の平泉とは違って、重々しさが感じられた。そして、公家(くげ)や僧侶が多いのには驚いた。
 義朝は後白河上皇に仕えている武士で、左馬頭(さまのかみ)に任じられていた。十郎たちは兄の郎党(ろうとう)となって院庁(いんのちょう)の警護に従事しながら、都住まいを楽しんだ。
 京都に来て一年余りが建った頃、二条天皇後白河上皇が争い、そこに信西(しんぜい)という偉そうな僧侶が加わって、今にも戦が始まりそうな状況となった。六波羅殿(ろくはらどの)(平清盛)と呼ばれている武将がいて、義朝とは仲が悪いようだった。
「あいつは武士のくせに、公家になろうとしているんじゃよ」と兄は苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
 六波羅殿が熊野参詣に出掛けると、義朝の長男、鎌倉源太が東国の兵を率いて京都に入って来た。熊野からも妻の父親が兵を率いてやって来た。そして、戦が始まった。十郎にとって初陣(ういじん)だったが、恐ろしいという事しか覚えていない。我に返ると血だらけの刀を持って、弁慶と一緒に山の中を逃げていた。
「どうなったんだ?」と十郎が聞くと、
「負け戦だ」と弁慶は言った。
「再起を図るため、左馬頭殿(義朝)は東国に向かった。お前らは熊野に帰って待機していろ。熊野水軍に動いてもらう事になるかもしれんと言っていた」
 十郎と弁慶は八人に減ってしまった家臣たちを連れて新宮に帰った。山伏たちによって、義朝の死が知らされ、妻の父親の戦死も知らされた。義朝の長男の源太も討ち取られたという。源太は十郎と同い年だった。同い年なのに、東国の兵を引き連れて、まるで大将のようだった。羨ましいと思う反面、源太には負けられないと思ったのに死んでしまった。
 六波羅殿は残党狩りをしていたが、熊野まで来る事はなかった。姉から、兄たちの敵(かたき)を討たなければならないと言われたが、十郎にはそんな事ができるとは思えず、これからどうしたらいいのか、まったくわからなかった。
 京都の戦の噂も治まって、ほっと安心していた頃、後白河上皇が熊野にやって来た。一緒に六波羅殿もいた。十郎と弁慶は山の中に隠れた。後白河上皇たちが帰ったあと新宮に戻ると、六波羅殿は十郎の事を知っていたと姉に言われた。
 身の危険を感じた十郎はその年の冬、熊野水軍の船に乗って琉球に行った。弁慶も誘ったが、山伏の修行をすると言って、一緒には来なかった。
 琉球への船旅は楽しかった。海を見ていると嫌な事がすべて忘れられるような気がした。いくつもの島を経由して、着いた琉球は美しい島だった。
 大里按司(うふざとぅあじ)に歓迎されて、大里按司の娘で大里ヌルのクミと仲よくなった。やがて、新天が生まれ、フジも生まれた。
 熊野水軍は一年おきくらいに琉球に来て、熊野や京都の様子を知らせてくれた。後白河上皇は毎年のように熊野御幸をして、一緒に来る六波羅殿の家来たちは十郎の事を探しているという。六波羅殿は出家して、京都を離れて摂津(せっつ)の福原(神戸市)にいるが、今や平家の全盛時代になってしまった。
 琉球に来てから十三年の月日が流れた。琉球に来た熊野水軍から、義兄の行範の死を知らされた。姉の事が思い出され、新宮にいる妻や子の事も思い出された。ちょっと様子を見に行こうと十郎は思った。次に熊野水軍琉球に来る時には必ず帰るとクミと子供たちに約束して、十郎は新宮に向かった。
 弁慶が義朝の息子の義経と一緒に奥州平泉にいると聞いて、十郎は会いに行った。弁慶は義経の家来(けらい)になっていて、いつの日か、必ず平家を倒すと言っていた。熱弁を振るう弁慶を、そんな事は無理だと十郎は覚めた目で見ていた。
 琉球に帰ろうと思っていた矢先に母が亡くなった。その翌年に、福原殿(平清盛)と後白河法皇の対立が深まって、平家の時代に陰りが見え始めた。姉の鳥居禅尼は各地にいる源氏と連絡を取り合っていた。そんな姉を助けようと十郎は山伏姿になって、姉の手紙を各地の源氏のもとへと届けて回った。
 治承(じしょう)二年(一一七八年)三月、後白河法皇の二十二回目の熊野御幸が行なわれ、妹の八条院を伴っていた。八条院の周りには平家に反発する者たちが集まっている事を知っていた鳥居禅尼は、八条院に頼んで、十郎を八条院に送り込む事に成功した。十郎は京都に行き、八条院の蔵人(くろうど)を務めた。
「京都に行くにあたって俺は名前を変えたんだ」と十郎はサスカサに言った。
「義盛という名前のままだと危険なので、行家(ゆきいえ)と改めた。行は義兄の行範からもらって、家は曽祖父の八幡太郎義家からもらった。平治の乱から二十年近くが経っていたので、俺の顔を覚えている者などいないだろうし、名前を変えれば絶対に安全だと思ったんだよ」
 その年の十一月、高倉天皇に嫁いだ福原殿の娘(徳子)が男の子を産んで、都はお祭り騒ぎになった。翌年の七月、福原殿の嫡男の小松殿(平重盛)が亡くなった。そして、十一月、福原殿は大軍を率いて京都を攻め、後白河法皇を鳥羽に幽閉してしまう。翌年の四月、福原殿に所領を没収された後白河法皇の皇子、以仁王が『平家討伐』の令旨を発した。
 以仁王八条院の猶子(ゆうし)で、八条院摂津源氏頼政の支持があって、平家打倒を決心したのだった。その令旨を各地の源氏に伝える任務を見事に果たしたのは十郎だった。前回の旅と同じように山伏姿となった十郎は、各地を回って源氏の蜂起を促した。
 信濃木曽にいる甥の義仲、甲斐(かい)源氏の武田信義、伊豆にいる甥の頼朝、常陸志田にいる兄の義広、奥州平泉にいる甥の義経と回って京都に戻ると、頼政以仁王も福原殿にやられて戦死していた。
 熊野に帰ると熊野でも戦があって、平家方の田辺別当家の湛増が新宮に攻めて来たという。追い払う事はできたが、娘婿の湛増は何としてでも寝返らせなければならないと姉は言った。
 新宮で待機していた十郎は、八月に伊豆の頼朝が挙兵したとの知らせを受けると、倅の太郎と次郎を連れて、新宮の兵を率いて出陣した。水軍の船に乗って尾張の津島に上陸した十郎は、スサノオを祀る津島神社に戦勝祈願をして兵を募った。源氏の白旗のもとに兵たちが続々と集まって来た。
 五千余騎となった兵を率いた十郎は、頼朝を倒すために東国に向かう平家軍を墨俣川(すのまたがわ)(長良川)で待ち伏せした。
「あの時は最高の気分だった。俺も源氏の御曹司(おんぞうし)だと初めて実感したんだ。しかし、戦には負けてしまった。敵の方が兵力は勝っていたが、負けるなんて思ってもいなかった」
 戦に負けた十郎は三河まで逃げて態勢を建て直し、鎌倉にいる頼朝のもとへ行った。
「三郎(頼朝)の所は居心地がよくなかった。俺としても甥の家来になるつもりはまったくなかったので、三郎と別れて、木曽の次郎(義仲)と合流したんだ。そして、各地の平家を破って、大軍を率いて京都に入った。平家の奴らはみんな西に逃げてしまった。こんな事が起こるなんて信じられなかった。京都のあちこちに源氏の白旗がなびいていた。世の中が変わった事を実感して、なぜか、涙が溢れて来たんだ。戦死した親父や兄貴に、この眺めを見せてやりたいと思ったよ。俺は備前守(びぜんのかみ)に任じられた。それが気に入らないと鎌倉の三郎が文句を言って来た。自分より先に俺たちが京都に入ったのが気に入らなかったのだろう。俺と次郎との仲も悪くなって、俺は平家を倒すために京都を出た。播磨の室津(むろのつ)で平家と戦ったが、惨敗だった。俺は親父の本拠地だった河内(かわち)に逃げた。俺が河内で態勢を建て直している時、次郎は鎌倉から来た九郎(義経)の兵にやられて戦死してしまった。次郎が戦死したあと、俺は九郎と一緒にいる弁慶に会いに京都に行った。弁慶は喜んで俺を迎えた。令旨を伝えに平泉に行った時、次は京都で会おうぜと弁慶は言った。それが実現したなんて信じられないと言っていた‥‥‥そこまでだ。そのあとは悲惨すぎる。俺と九郎は鎌倉の三郎の兵に追われた。俺は南の島に帰ろうと思った。大物浦(だいもつのうら)(尼崎市)から船に乗って逃げようとしたんだが、暴風に遭って船は転覆してしまった。その後、九郎と別れて半年間の逃亡の末、隠れ家を敵兵に囲まれて戦死したんだよ。源氏の武将として立派に戦死したと、クミに伝えてくれ」
「かしこまりました。お伝えいたします」とサスカサが言った。
「ありがとう。俺もクミの事はずっと気になっていたんだ。そなたはどことなく、クミに似ている。会えてよかったよ」
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「ああ。構わんよ」
「あなたが琉球に行った時、大里グスクはどこにありましたか」
「馬天浜(ばてぃんはま)を見下ろす山の上にあったぞ。でも、俺たちは馬天浜の近くに屋敷を建てて住んでいたんだ。ウミンチュ(漁師)たちと一緒に海に潜ってヤコウガイを捕っていたんだよ。源氏だの平家だのなんて忘れて、幸せに暮らしていたんだ」
「その大里グスクの中にウタキはありましたか」
「ウタキ? ああ、クミがお祈りをしていたウタキがあったな。『月の神様』を祀っていると言っていた」
「ありがとうございます。わたしは今、そのグスクで暮らしております。今は島添大里(しましいうふざとぅ)グスクと呼ばれております」
「懐かしいな。グスクへと続く山道を子供たちと一緒に登ったのを思い出したよ」
 サスカサがササを見た。
 ササはうなづいて、「壇ノ浦で平家が滅ぼされたと聞きましたが、あなたはその戦に参加したのですか」と十郎に聞いた。
「そなたは誰じゃ」と十郎は言った。
「馬天浜のヌルです」とササは答えた。
「おお、そうか」と十郎は納得した。
「俺は参加しなかった。鎌倉の三郎の軍に入りたくなかったんだ。戦で活躍しても、手柄は三郎のものだからな。俺は河内で、拠点となる城を築いていたんだよ。壇ノ浦の大将は六郎(範頼)と九郎の二人だ。熊野水軍が加わって源氏が勝って、平家は滅んだんだ」
「朝盛法師(とももりほうし)って御存じですか」
「朝盛法師?」
陰陽師(おんようじ)です」
「そう言えば、一度会った事がある。源三位入道(げんざんみにゅうどう)殿(源頼政)と親しい法師殿だった」
「理有法師(りゆうほうし)は御存じですか」
「会った事はないが、福原殿(平清盛)が贔屓(ひいき)にしていたようだな。その二人の陰陽師がどうかしたのか」
「二人とも琉球に来ています」
「何だって!」
「最初に理有法師がやって来て、ヌルたちを殺しましたが、朝盛法師がやって来て、舜天と協力して、理有法師を滅ぼしました」
「そうだったのか。源三位入道殿が戦死したあと、朝盛法師の姿を見かけなくなったので、戦死してしまったのだろうと思っていたが、理有法師を追って行ったのか。理有法師は不思議な術を使うと聞いていた。その術を封じていたのが朝盛法師だと源三位入道殿から聞いた事があった。そうか。理有法師が琉球に逃げて、それを追って行ったのか」
「色々と教えていただきありがとうございました」とササはお礼を言った。
「こちらこそ、わざわざ会いに来てくれてありがとう」
 ササはスサノオにお礼を言おうとしたが、スサノオもユンヌ姫もどこかに行って、いないようだった。
 その後、ササたちは『那智の滝』をお参りして、大雲取りを越え、萬歳峠(ばんぜとうげ)を越えて本宮に行き、あとは来た道を戻って、京都に着いたのは八月一日になっていた。

 

 

 

源平合戦事典   決定版 図説・源平合戦人物伝 (歴史群像シリーズ)