長編歴史小説 尚巴志伝

第一部は尚巴志の誕生から中山王武寧を倒すまで。第二部は山北王の攀安知を倒すまでの活躍です。お楽しみください。

2-48.七重の塔と祇園祭り(改訂決定稿)

 サハチ(琉球中山王世子)たちは憧れの京の都に来ていた。
 京の都は想像を絶する都だった。明国(みんこく)の都、応天府(おうてんふ)(南京)とはまったく違った都で、考えも及ばない驚くべき都だった。
 牛窓(うしまど)港の『一文字屋』の屋敷にお世話になった次の日、サハチたちは室津(むろつ)に着き、その次の日に、明石海峡を抜けて兵庫に着いた。
 兵庫港には明国の船と朝鮮(チョソン)の船が泊まっていた。噂では明国の使者たちは上陸の許可が下りずに船に乗ったままだという。博多港で待たされ、兵庫港でも待たされるなんて、外国船がヤマトゥ(日本)と交易するのは大変な事だ。使者というのは忍耐を要する仕事だとつくづく思っていた。
 兵庫からは陸路で京都に向かった。二隻の船は淀川をさかのぼって京都に向かうが時間が掛かるので、陸路で行った方が速いと孫三郎は言って、孫三郎と娘のみおも一緒に来た。
 景色を眺めながらのんびりと歩いて、夕方には太田宿(おおだじゅく)(茨木市)に着いた。孫三郎の馴染みの宿屋に泊まり、次の日の正午(ひる)過ぎには念願の京の都に到着した。
 京の都は思っていた以上に大きかった。明国の都のように高い城壁で囲まれている事はなく、道は碁盤の目のように整然と区画され、道に沿って家々が建ち並んでいた。広い敷地を持つお寺や神社があちこちにあった。
 道を行く人々は様々な格好をしていた。サムレー(武士)はわかるが、天皇の家臣だというお公家(くげ)さんというのがいた。随分と高い烏帽子(えぼし)をかぶっていて、偉いお公家さんは牛に引かせた牛車(ぎっしゃ)という乗り物に乗っている。
 山伏や僧侶も多かった。僧侶の中には頭巾をかぶって、武器をかついだ大男もいて、尼(あま)さんと呼ばれる女の僧もいた。
 綺麗な着物を着た女がいるかと思えば、ぼろぼろの布をまとっただけの女が裸の子供を連れて、銭を恵んでくれとまとわりついてきた。
 サハチたちは何を見ても驚いていた。そして、何よりも驚いたのは京都の蒸し暑さだった。琉球の夏よりも暑いのではないかと思われた。皆が暑い、暑いと言って流れる汗を拭いているのに、ただ一人、ヂャンサンフォン(張三豊)だけは汗もかかずに涼しい顔をしている。修行を積むと暑さも感じなくなるのかと改めて感心するばかりだった。
 京都の『一文字屋』は北野天満宮の近くにあった。
 『天満宮』は菅原道真(みちざね)を祀る神社で、菅原道真が亡くなった九州の太宰府(だざいふ)にもあった。商売をするには『座』に入らなければならず、一文字屋は博多に店を出す時、太宰府天満宮の座に入った。その縁で、京都に店を出す時、北野天満宮の座に入ったのだった。
 サハチは二十二年振りに主人の孫次郎と再会した。今は次郎左衛門と名乗っていた。当時の面影はあまりなく、坊津(ぼうのつ)にいた父親にそっくりだと思った。商人としての貫禄が備わり、京都で成功した事がよく感じられた。次郎左衛門もサハチの変わりように驚いていたようで、お互いに相手を見つめたまま、しばらく声も出なかった。やがて、お互いに笑い出して、相手の笑顔によって二十二年前に戻って懐かしがった。
 サハチは息子や弟がお世話になったお礼を言った。去年、マチルギたちは京都まで来られなかったが、その前年には息子のジルムイ、弟のヤグルー(平田大親)、マウシとシラーも京都まで来て、次郎左衛門のお世話になっていた。そのまた前年には息子のサグルーと弟のマサンルー(佐敷大親)もお世話になっている。息子や弟から京都の話を聞いて、行ってみたいと思っていたが、ようやく、来られたのだった。
 次郎左衛門は立派な屋敷に住んでいた。屋敷にはお客用の離れもあって、裏には土蔵がいくつも並んでいた。
 サハチたちは離れで休む間もなく、京都の町へと繰り出した。次郎左衛門の娘のまりが案内してくれた。まりはみおと同い年の十六歳の可愛い娘だった。
 最初に行ったのは『北野天満宮』だった。赤い鳥居をくぐって、広い庭を通って行くと正面に門があった。門をくぐって土塀に囲まれた境内(けいだい)に入ると、右側に二重の塔があった。
「多宝塔っていうのです」とまりが説明してくれたが、何の事かわからなかった。
 さらに進むとまた大きな門があって、そこを抜けると正面に拝殿(はいでん)と呼ばれる大きな建物があり、その裏に本殿があるという。サハチたちは、まりに言われるままに従ってお参りをした。広い境内の中には、いくつも建物があって、色々な神様を祀っているという。ササはヤマトゥの神様に興味があるのか、一つ一つお祈りをしていた。
 田舎から出て来た人たちが山伏に連れられて、辺りをキョロキョロ眺めながらお参りしていた。見ていておかしかったが、サハチたちも京都の人たちから見たら同じように映っていただろうと思うと急に恥ずかしくなった。
 次に行ったのはヤマトゥの王様だった北山殿(きたやまどの)(足利義満)が暮らしていた『北山第(きたやまてい)』と呼ばれる御殿だった。北山殿が亡くなったあと、跡を継いだ将軍様足利義持)は北山第に入るが、父親の四十九日の法会(ほうえ)が済むと花の御所に戻り、今年になってからは祖父が暮らしていた三条坊門の御所に移っている。今、北山第で暮らしているのは北山殿の奥方様だけだという。
 高い塀に囲まれた広い敷地内を見る事はできなかったが、塀の外から『七重の塔』は見る事ができた。その高さは物凄かった。こんなにも高い建物が建てられるのだろうか。まったく信じられない事だった。まりが言うには三百六十尺(約百十メートル)の高さだという。ヂャンサンフォンでさえ、その高さには驚いていた。
「ここにできる前は、花の御所の近くにある相国寺(しょうこくじ)にありました」とまりは言った。
「でも、完成してから四年後に雷が落ちて焼けてしまいました。それで、今度は北山第に造る事になって、二年前に完成したのです」
「わしがいた妙心寺が潰された年に完成したのが相国寺の七重の塔じゃった」とジクー(慈空)禅師が言った。
「旅の噂で、雷が落ちて焼け落ち、北山第に再建されるとは聞いていたが、本当だったんじゃのう。こんな巨大な物を二つも造るとは、改めて、北山殿の凄さを思い知ったわ」
 ジクー禅師は七重の塔を見上げながら昔を思い出しているようだった。妙心寺は北山殿の怒りを買って潰されたと聞いている。ジクー禅師は北山殿を恨んでいたのかもしれなかった。
「上に登れるのか」とサハチはまりに聞いた。
「登れます。北山殿が生きていらっしゃった頃は、偉い武将やお公家さんたちを招待して、あの上からの眺めを楽しませていたようです。うちのお得意様のお公家さんも上まで登ったみたいで、お女中さんからお話を聞きましたけど、京都の街がすべて見回せて、まるで、鳥にでもなったような気分だったって言っていました」
「凄いなあ」と言いながら、皆、ポカンとした顔で七重の塔を見上げていた。
「七年後にまた雷が落ちて、焼け落ちてしまうわ」とササが言った。
「えっ?」と言って、皆がササを見た。
「高すぎるのよ。神様が許さないわ」
 ササはそう言って笑ったが、誰も笑わずにササを見ていた。まりは気分を害したような顔をしていた。
「この中に黄金色(こがねいろ)の御殿があるのか」とサハチはまりに聞いた。
「そうなんです」とまりはうなづいた。
「綺麗な大きな池の中に黄金色に輝く三層の御殿があるそうです。まるで、極楽にあるような華麗な御殿だっていう噂です」
「そんなに凄い御殿があるのに、将軍様はどうして、ここで暮らさないんだ?」とウニタキ(三星大親)が聞いた。
 まりは首を傾げた。
「よくわからないけど、噂では将軍様とお父上の北山殿は仲がよくなかったって言います。父親が造った御殿に住みたくないんじゃないですか」
「勿体ない事だな」
「偉い人の考える事は、あたしたちにはわかりませんよ」
 北山第を離れて、次に向かったのは今宮(いまみや)神社だった。厄除(やくよ)けの神様を祀る今宮神社には名物のあぶり餅(もち)があるという。
「うちと同じ名前の『一文字屋』っていうんですよ」とまりが笑った。
「別に親戚じゃありません。今宮さんの一文字屋さんは四百年も前からやっているらしいわ」
「楽しみね」とシズが言って、シンシン(杏杏)と女子(いなぐ)サムレーたちに琉球言葉で説明した。おいしいお餅があると聞いて、女たちはキャーキャー騒いだ。
「まりさん、あの山は何?」とササが右手に見える小高い丘を見つめながら聞いた。
「あれは『船岡山』です。葬送地なんです。疫病(えきびょう)が流行した時、亡くなった人たちは皆、あの山に葬られます」
「古いウタキ(御嶽)があるわ。行ってみましょう」
「えっ?」とまりは驚いた。
「あの山には誰も近づきません」
 まりがそう言っても、ササは行く気満々だった。いやがるまりを無理やり案内させて、船岡山に向かった。山の近くまで来るとササはさっさと歩いて行き、山頂へと続く道を見つけた。
「気味が悪いわ」と言って足を止めるまりとみおを、
「あたしたちがいるから大丈夫よ」とササは言って、山道に入って行った。
 ササが行きたいと言うのだから、きっと凄いウタキがあるのだろうと皆もあとに従った。
 それほど高い山ではないので、すぐに山頂に着いた。途中に死骸が転がっているわけでもなく、普通の山道だった。
 山頂にはウタキらしい岩があって、そこからの眺めは最高だった。七重の塔も見え、その周りに建っている大きな建物もよく見えた。その向こうにも大きな建物が建っているが、黄金色に輝く金閣は見えなかった。
 ササはウタキの前に座り込んでお祈りを始めた。
 サハチたちは京都の街並みを眺めた。真っ直ぐな道に沿って整然と家々が建ち並び、その中の所々に大きな敷地を有した立派な屋敷があり、森に囲まれた神社や大きなお寺も建っていた。遠くに東寺の五重の塔も見えた。サハチが思っていたよりも桁外れに大きい都だった。反対側に目をやると山々が連なっていた。どこを見回しても海は見えなかった。やはり、ヤマトゥの国は広いとサハチは感じていた。
スサノオの神様だったわ」とお祈りを終えたササが興奮した顔で言った。
対馬スサノオの神様を祀っている神社がいっぱいあったの。でも、スサノオの神様の声を聞く事はできなかったわ。まさか、京都でスサノオの神様に会えるなんて思わなかった。ここに都ができる前、スサノオという太陽の神様がこの岩に下りていらっしゃったのよ。スサノオの神様はヤマトゥ(大和)の国をお造りになった凄い神様なのよ」
スサノオの神様は今宮神社に祀られているわ」とまりは言った。
「疫病が流行った時は、スサノオの神様にお祈りして退治していただくのよ」
スサノオは太陽の神様なのか」とジクー禅師は首を傾げた。
対馬の船越にあったアマテル神社の神様はスサノオなのよ」
「アマテル神社の神様は天照大御神(あまてらすおおみかみ)じゃないのか」
「アマテラスはスサノオの娘なのよ」
 ジクー禅師はまた首を傾げた。
 サハチはマチルギからスサノオの事を聞いていた。『三つ巴』はスサノオの神紋(しんもん)だと言っていた。京都に行ったらお参りしようと思っていたが、京都に着いた途端に会えるとは思ってもいなかった。
「明日、お祭りがある祇園社(ぎおんしゃ)(八坂神社)もスサノオの神様を祀っているのよ」とまりが言った。
 お祭りと聞いて女たちはキャーキャー騒いだ。
 サハチには神様の声は聞こえないが、ウタキに両手を合わせて感謝のお祈りを捧げた。
 船岡山を下りて、『今宮神社』に向かった。赤い鳥居をくぐって参道を歩いた。参道の右側には土塀で囲まれた大徳寺という大きなお寺があった。
 赤い立派な門をくぐって中に入ると境内は広く、小さな神社がいくつかあった。大きな本殿は正面にあるのだが、塀に囲まれていて中には入れないようだった。中央にある門の所で参拝して、境内の右側にある門から外に出て、一文字屋であぶり餅を食べた。甘くておいしい餅だった。
 次の日は『祇園社』のお祭りを見に行った。物凄い人出だった。山鉾(やまぼこ)と呼ばれる大きな御神輿(おみこし)がいくつも出て、街を練り歩いた。その山鉾の大きさと美しさにサハチたちは呆然とし、これが都のお祭りというものかと感嘆した。
 お祭りは二日間あった。次の日もササたちはまりと一緒にお祭り見物に出掛けた。イハチとクサンルーも行ったが、サハチたちは人が多すぎて疲れると言って、お祭りには行かずに街中を散策した。
 北小路(きたこうじ)を東へと進み、今は使っていない将軍様の御殿『花の御所』を見て、その斜め前にある天皇の御所を見た。どちらも広い敷地を有していたが、豪華で立派な花の御所に比べて、天皇の御所は塀も所々が壊れていて、何となく惨めな感じがした。
将軍様天皇の違いがよくわからないのですが」とサハチはジクー禅師に聞いた。
天皇というのはヤマトの国を造った王様の子孫で、代々、続いている日本の王様なんじゃよ。伊勢の神宮に祀られているアマテラスが始祖なんじゃが、わしは以前から不思議に思っていたんじゃ。太陽神が女神だという事にな。昨日、船岡山でササが言った事は信じられなかったが、よく考えてみるとササの言った通りのような気がするんじゃ。本当の太陽神はスサノオで、その娘がアマテラスだった。なぜだか知らんが、スサノオは消されてしまったらしい。とにかく、アマテラスから代々続いているのが天皇家というわけじゃ。つい先頃まで、天皇家南朝北朝に分かれて争っていたが、その争いも治まった。しかし、長い争いの末に天皇家の力も弱まってしまい、今は将軍様の方が王様のようなものじゃな。元々は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)と言って、日本の北の方にいる蝦夷(えぞ)と呼ばれる異民族を征伐(せいばつ)するために、天皇から任命された役職だったんじゃが、各地のサムレーたちが力を付けるに従って、サムレーたちの総大将となった将軍様は、天皇よりも力を持つようになってしまったんじゃよ」
琉球が交易するとすれば、天皇ではなくて、将軍様なのですね?」
天皇は他国と交易するほどの財もあるまい」
 サハチはずっと続いている御所の塀を眺めながらうなづいた。
 御所の近くに、将軍様に最も信頼されている重臣、勘解由小路(かでのこうじ)殿の屋敷があるというので行ってみた。重臣らしい立派な屋敷で、門には武装した門番が立っていた。
 勘解由小路殿の名前はサハチも何度か聞いていた。名前は聞いているが詳しい事は知らない。ジクー禅師に聞いてみた。
「勘解由小路殿の本当の名前は斯波(しば)道将(どうしょう)と言うんじゃ。北山殿が出家なされた時に、一緒に出家して、家督を倅に譲っておる。斯波氏というのは将軍様と同族の足利一門なんじゃよ。勘解由小路殿の父上は足利尾張守(おわりのかみ)と名乗っておられた。将軍様を補佐する役職に管領職(かんれいしき)というのがあって、勘解由小路殿は何度も管領を務めておる。そして、越前、加賀、尾張(おわり)、遠江(とおとうみ)の国を治める守護でもあるんじゃ。亡くなられた北山殿が最も信頼されていた武将で、やりたい放題だった北山殿をお諫(いさ)めできたのは勘解由小路殿だけだったとも言われておる。二十歳の頃、越中の国を平定なされ、武将としても一流で、和歌や連歌も堪能で、文武両道の達人と言えるお方じゃな」
「いくつくらいのお方なんですか」
「六十前後だと思うが‥‥‥北山殿が亡くなったあと、家督争いが生じなかったのは勘解由小路殿のお陰だと、都の者たちは皆、感謝しておるようじゃ」
「成程。立派な人らしいですね。できれば会いたいが、難しいだろうな」
 土塀を見上げながら、
「忍び込んで、その立派な男とやらに会ってみるか」とウニタキが言った。
「だめです」とファイチ(懐機)が言った。
「冗談だよ」とウニタキは笑った。
九州探題の渋川道鎮(どうちん)が、この屋敷に滞在しているかもしれません」とンマムイ(兼グスク按司)が言った。
「渋川道鎮に会う事ができれば、勘解由小路殿にも会えますよ」
「渋川道鎮を知っているのはお前だけだ。お前は渋川道鎮を探してくれ」とサハチはンマムイに頼んだ。
「師兄(シージォン)、任せて下さい」とンマムイは調子よく答えた。
 サハチは赤間関(あかまがぜき)で広中三河守(みかわのかみ)から大内氏のお屋形様宛ての書状をもらった事を思い出して、
大内氏というのも将軍様と親しいのですか」とジクー禅師に聞いた。
大内氏というのはかなりの勢力を持った武将じゃった。しかし、十年前に将軍様との戦に敗れて、勢力は削減されたんじゃよ。わしがいた妙心寺大内氏との関係が深かったために、北山殿の怒りを買って潰されてしまったんじゃ。将軍様に逆らった大内氏じゃが、倅は許されて、将軍様に仕えているようじゃな。大内氏を頼りにするよりも、やはり、勘解由小路殿を頼った方がいいじゃろう」
「慈恩禅師(じおんぜんじ)の弟子の中条(ちゅうじょう)兵庫は将軍様の武術指南役です。中条兵庫を見つければ、将軍様にも会えるかもしれませんよ」と修理亮(しゅりのすけ)が言った。
「その手もあるな」とサハチは修理亮にうなづいた。
「わしは唐人(とうじん)を探してみよう」とヂャンサンフォンが言った。
「明国の使者が来るという事は、唐人の通事(つうじ)がいるという事じゃ。見つけ出して、会うことができれば、勘解由小路殿と会えるかもしれん」
「師匠、いい所に目をつけましたね。きっと、将軍様に仕えている唐人がいるはずです。お願いします」
「わしは禅僧を当たってみる」とジクー禅師は言った。
「勘解由小路殿は禅の修行もしておるんじゃよ。相国寺の春屋(しゅんおく)禅師に帰依(きえ)していたんじゃ。春屋禅師は亡くなってしまわれたが、今、帰依している禅師がいるはずじゃ」
「明日から手分けして、それらの人たちを探しましょう」とサハチは言った。
 みんなで協力すれば、勘解由小路殿に会う事ができるような気がした。
「ところで、俺たちはどこに向かっているんだ?」とウニタキが言った。
 勘解由小路殿の屋敷を離れて、話をしながら歩いていたので、今、どこにいるのかわからなかった。
 ジクー禅師が後ろを振り返って、
「これが勘解由小路じゃ」と言った。
「この通りをまっすぐ行くと、北野天満宮に向かう道とぶつかるんじゃ。そこを右に曲がれば帰れる」
「勘解由小路というのは道の名前だったのか」とサハチは感心した。
 琉球には道に名前なんてなかった。首里を立派な都にするには、道にも名前を付けた方がいいなと思った。

 

 

 

足利義満 - 公武に君臨した室町将軍 (中公新書)   室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)   管領斯波氏 (シリーズ・室町幕府の研究1)

2-47.瀬戸内の水軍(改訂決定稿)

 博多に着いて七日後、サハチ(島添大里按司)たちは『一文字屋』の船に乗って京都へと向かった。
 博多に滞在中、サハチたちはヤマトゥンチュ(日本人)に変装していた。琉球から来た事がわかると妙楽寺に閉じ込められてしまうからだった。サハチたち男はジクー(慈空)禅師を除いて、修理亮(しゅりのすけ)の真似をしてヤマトゥ(日本)のサムレー姿になり、ササたち女はヤマトゥの娘の姿になっていた。
 女子(いなぐ)サムレーが女の格好をしているのを見るのは初めてだったので、新鮮な驚きだった。男勝りのクムの娘姿は思っていた以上に女らしく、「お前、本当は美人(ちゅらー)だったんだな」とサハチが言うと、恥ずかしそうに顔を赤らめた。そんなクムを見たのは初めてで、クムも本当は可愛い女子だなと改めて感じていた。
 日本人に化けたサハチたちは、都見物にやって来た田舎者(いなかもの)の一行のように、ぞろぞろと街中を歩き回った。去年来たササたちは得意になって、色々と説明してくれた。明国(みんこく)の都を知っているファイチ(懐機)とウニタキ(三星大親)も、独特な日本の建物や人々の風習を見て驚いていた。
 ンマムイ(兼グスク按司)は九州探題の渋川道鎮(どうちん)の家臣で知っている者がいるので、会いに行こうと言った。会うのはいいが、そのあと妙楽寺に閉じ込められてしまうぞと言ったら、それはうまくないと苦笑いした。
「ヤマトゥにいた時、俺は右馬助(うまのすけ)って呼ばれていたんです」とンマムイは言った。
「ウマノスケ?」
「昔、そういう役職があったようです」
「成程な。ヤマトゥにいる間はウマノスケと呼ぶ事にするか」
 サハチがそう言って笑うと、
「師兄(シージォン)は佐八郎(さはちろう)殿です」と言った。
 そう言えば、サハチの本当の名はサハチルーだったのを思い出した。いつの間にかルーがなくなっていた。
「ウニタキ師兄は鬼武(おにたけ)殿で、ファイチ師兄は破一郎(はいちろう)殿です」
「ファイチが破一郎か」とサハチは笑った。
 ンマムイの案内で遊女屋に出掛けたが、目当ての遊女屋は潰れていた。仕方がないと別の遊女屋に行ってみたが、一見(いちげん)さんはお断りと言われて、入る事もできなかった。一文字屋の紹介があれば、高級な遊女屋にも入れるだろうと一文字屋に頼んだが、その場をササに見られて、結局、遊女屋には行けなかった。この時だけは、ササを連れて来るんじゃなかったと後悔した。
 サハチたちが博多を離れる時になっても、妙楽寺の門は閉ざされたままで、中にいる者たちと会う事はできなかった。それでもウニタキが忍び込んで新川大親(あらかーうふや)と会い、『何事も九州探題の言う事を聞いて行動し、サハチたちが京都から帰って来るのを待つ必要はない。先に朝鮮(チョソン)に行っても構わないので、うまくやってくれ』というサハチの言葉を伝えた。
 一文字屋の船は、シンゴ(早田新五郎)とマグサ(孫三郎)の船よりも一回り小さい帆船で、二隻で京都に向かった。たっぷりと荷物が積んであり、かなり重そうだった。一応、将軍様重臣への贈り物も積んである。もし、会う事ができれば、それを贈って、来年、正式な使者を送る事を告げるつもりでいた。会えなければ、京都の『一文字屋』に預けておいて、来年使えばいいだろう。
 サハチ、ウニタキ、ファイチ、ジクー禅師、ササ、シンシン(杏杏)、シズが一隻めに乗り、ヂャンサンフォン(張三豊)、修理亮、ンマムイ、イハチ、クサンルー、三人の女子サムレーが二隻めに乗った。一文字屋孫三郎と娘のみおはサハチたちと一緒に乗っていた。
 吹き上げの浜(海の中道)と志賀島(しかのしま)を右に見ながら博多湾を出た二隻の船は右に曲がって、九州の山々を右に見ながら東へと進んだ。
 博多から京都までは、早ければ半月で行けるという。琉球から坊津(ぼうのつ)まで半月掛かったのだから、同じくらい掛かる事になる。京都は遠いと思いながらも、サハチはまだ見ぬ世界に胸を躍らせていた。
 夕方になって九州と本州の境目にある馬関(ばかん)海峡(関門海峡)に入った。まるで広い川のようで、潮の干満によって潮流が変わり、しかも流れが速いので難所だという。
 確かに海峡に入ると船の速さが早くなった。凄い所だと思いながらサハチたちは周りの景色を眺めた。
 しばらく行くと少し広くなった所に出て、左側に港が見えた。船は進路を変えて、港へと入って行った。赤間関(あかまがぜき)(下関)と呼ばれる港には大小様々な船が泊まっていた。
「もう少ししたら潮の流れが逆になります」と一文字屋孫三郎は言った。
「潮の流れに逆らって進む事はできません。ここだけではなく、これから入る瀬戸内海は島が多く、潮の流れも複雑です。潮の流れを知らなければ、瀬戸内海での航海はできないでしょう」
 サハチは孫三郎の話を聞いて、京都に行くのは大変のようだと改めて思った。
 その夜は、この辺りを治めている大内氏の家臣、広中三河守(みかわのかみ)の屋敷にお世話になった。広中三河守は大内氏の水軍の大将で、広中三河守の許可がなければ、馬関海峡を通過する事はできないという。孫三郎は広中三河守とは昵懇(じっこん)のようで、サハチたちは歓迎された。
 サハチが中山王の世子(せいし)(跡継ぎ)だという事は隠して、中山王の家臣たちが将軍様と交易をするための下見に来たという事にした。
琉球の王様が将軍様と交易を始めるのは喜ばしい事じゃ。将軍様も歓迎なさるじゃろう。わしらのお屋形様(大内徳雄(とくゆう))は今、京都におられるが、必ずや、そなたたちの力になる事であろう」
 そう言って、広中三河守はお屋形様宛ての書状を書いてくれた。
「ところで女子(おなご)たちもおるようじゃが、あれらは何者なんじゃ?」と広中三河守はサハチに聞いた。
「ヌルと言いまして、祭祀(さいし)を司(つかさど)る女でございます。琉球では何事を決めるにもヌルに相談してから決めます。それに、無事な航海を祈るのもヌルの務めなので連れて参りました」
 サハチがそう説明すると、
「成程のう。巫女(みこ)のような者じゃな」と言って、広中三河守は笑った。
 次の日は潮の流れが変わるのを待ち、ようやく正午(ひる)頃になって船出した。昨日の夜中から降り出した雨も正午前にはやみ、船は速い潮流に乗って、馬関海峡を抜け出して広い海へと出た。左側に続いている山々が本州で、船は本州を左に見ながら進んで行った。
 二時(にとき)(約四時間)足らずの間、快適に走ったが、潮の流れが変わって、風も弱くなってしまい進めなくなった。近くにあった小さな港に入って、その日の航海は終わりとなった。こんな事ではいつ京都に着くのか先が思いやられた。
 サハチたちは上陸してみたが、山に囲まれた小さな漁村で、見るべき物は何もなかった。
 ンマムイとシンシンが船の上で笛を吹いていたら、村の者たちが集まって来た。どこから来たかと聞かれたので、琉球と答えたが、どこだかわからないようだった。しばらくして、長老らしい年寄りがやって来て、遠い所からよく来てくれたと歓迎してくれた。
 長老の屋敷に招待されたサハチたちは、捕れ立ての魚介と酒の御馳走になり、笛や三弦(サンシェン)を披露して村人たちに喜ばれた。村の若い者たちも流行り歌を聴かせてくれた。ウニタキの三弦に合わせて、ササたちが踊り出すと、村の娘たちも踊り出し、楽しい時を過ごした。
 長老は屋敷に泊まっていけと勧めたが、孫三郎が首を振ったので、サハチたちは船に引き上げた。
「この辺りの漁師は海賊になって暴れる者たちもいるらしい」と船に戻ると孫三郎は言った。
「この村の者たちが海賊かどうかはわかりませんが、あの屋敷に泊まるのは危険です」
 あの者たちが海賊には見えなかったが、サハチは孫三郎にうなづいて、その夜は星を見上げながら甲板(かんぱん)の上で横になった。
 夜中にササに起こされた。
「危険よ。村人たちが襲って来るわ」
「何だって! 奴らはやはり海賊だったのか」
「お宝を積んだ船がわしらの港に入って来た。天からの授かり物だって言っているわ」
「何てこった」
 サハチは皆を起こした。
 星は出ているが月がないので辺りは暗い。暗い中、船を出すのは危険だが、逃げるしかなかった。
 ゆっくりと船を出して、港から離れた。しばらくして、港の辺りにいくつもの灯(あか)りが見えた。松明(たいまつ)を持った村人たちに違いない。舟に乗って追って来るかと思われたが、追って来る事はなく、引き上げて行くのが見えた。
 サハチたちはホッと胸を撫で下ろして、ササに感謝した。
 あまり沖まで出てしまうと潮に流されるので、碇(いかり)を下ろして明るくなるのを待った。
 夜明けと共に、漁村から見えない場所まで移動して、潮の流れが変わるのを待った。
 巳(み)の刻(午前十時)頃になって、ようやく潮の流れが変わった。潮の流れに乗って船は気持ちよく走った。申(さる)の刻(午後四時)前に、室積(むろづみ)という大きな港に入った。
 室積には赤間関にいた広中三河守の家臣がいて、サハチたちの宿舎と食事の世話をしてくれた。宿舎は大きな寺院の中にある宿坊(しゅくぼう)で、昨夜、ろくに眠れなかったので、ゆっくりと休む事ができた。
 四日目も潮待ちをして、巳の刻頃、ようやく船出となった。一時(いっとき)(約二時間)余りで、上関(かみのせき)という港に着いた。
 上関は細く突き出した岬と細長い島との間にあり、周辺にもいくつも島があった。
 上関から先は村上水軍の縄張りだと孫三郎は言った。
 六年前、孫三郎の兄の孫次郎は京都に進出しようと考えた。シンゴの船が毎年、琉球に行く事になったので、明国の商品を京都で売ろうと考えたのだった。博多と京都を往復するには、水軍(海賊)と手を組まなければならない。一々、足止めされて艘別銭(そうべつせん)を支払うのは面倒なので、水軍の頭領に会って話をつけようと思った。
 孫次郎は早田(そうだ)三郎左衛門(サンルーザ)に仲介を頼んだ。当時、三郎左衛門は七十歳を過ぎていたが元気だった。三郎左衛門は南朝の水軍大将として活躍した村上長門守(ながとのかみ)(義弘)と共に戦った経験もあった。
 三郎左衛門を連れて上関に来た孫次郎は、村上水軍の頭領、村上山城守(やまじろのかみ)と会った。村上山城守は対馬の早田水軍の噂を知っていて、三郎左衛門を歓迎し、長門守の活躍話を聞いて喜んだ。
 長門守は伊予(いよ)(愛媛県)の水軍として活躍したあと、配下を率いて瀬戸内海を出て、九州で懐良親王(かねよししんのう)のために働いた。今川了俊(りょうしゅん)に敗れて、懐良親王太宰府(だざいふ)から高良山(こうらさん)に移った二年後、長門守は消息を絶ってしまった。敵にやられたのか、暴風に遭って遭難したのか、長門守の船が帰って来る事はなかった。
 長門守が亡くなったとの噂が広まると、長門守が拠点としていた瀬戸内海の島々は海賊たちに奪われた。長門守の跡を継ぐべく、信濃(しなの)(長野県)からやって来たのが同族の村上山城守だった。山城守は伯父と一緒に瀬戸内海にやって来て、奪われた長門守の縄張りを取り戻し、村上水軍を再結成させたのだった。伯父はすでに亡くなり、山城守は三人の息子たちを能島(のしま)、来島(くるしま)、因島(いんのしま)に配置して、西は上関から東は鞆(とも)の浦までを縄張りとして守っていた。
 鞆の浦から東を縄張りとしていたのは塩飽(しわく)水軍だった。三郎左衛門も塩飽水軍とは面識がなかった。それでも同じ水軍同士なので、頭領の塩飽三郎入道(にゅうどう)と会う事ができ、話もうまくまとまった。
 村上水軍も塩飽水軍も欲しい物は明国の銅銭だった。土地を持っていない水軍にとって、活躍した部下たちに与える褒美(ほうび)として、銅銭を与えるのが一番手っ取り早い方法だったのである。
 明国の銅銭は琉球で手に入れる事ができた。明国で取り引きをした代価が銅銭で支払われる事もあり、毎回、大量の銅銭が琉球にもたらされた。その銅銭は日本の商人との取り引きにも使われ、日本にもやって来る。シンゴに頼めば、必要な銅銭を手に入れる事は可能だった。
 今、頭領の村上山城守は能島にいて、上関にいるのは長男の又太郎だった。又太郎は二十代半ばの若者で、サハチたちが琉球から来た事を知ると、目を丸くして驚き、大歓迎してくれた。
 又太郎の立派な屋敷に招待されて、サハチたちは酒と料理を御馳走になった。又太郎は琉球の事を知りたがり、サハチたちを質問攻めにした。
 サハチが琉球と日本との間にある島々の話をしていた時、娘が入って来た。娘は刀を手に持ち、袴をはいたサムレー姿だった。
「あら、女子サムレーだわ」とササたちが騒いだ。
 又太郎が妹のあやだと紹介した。
「あやが十歳の頃、剣術の名人が、この島に滞在しておりました。わしら兄弟は指導を受けていたのですが、あやが一番熱中してしまい、このような有様となったわけです」
 又太郎はあやを見て苦笑した。
 サハチはササたちを見ながら、「あの女たちも皆、武術を身に付けております」と言った。
「あや殿のような格好で博多まで来たのですが、目立たないようにと娘の格好をしております」
「皆、かなりの腕よ」とあやは又太郎に言って、ササたちの前に座ると、「明日、御指導をお願いいたします」と頭を下げた。
「御指導だなんて」とササは言って手を振り、「あたしたち、毎朝、武当拳(ウーダンけん)のお稽古をしているの。一緒にやりましょう」と笑った。
武当拳?」
 ササはヂャンサンフォンを見ながら説明した。
 又太郎も武当拳に興味を持ったようで、ヂャンサンフォンに色々と質問した。
 武術の話に熱中しているうちに、上関に来た剣術の名人が慈恩禅師(じおんぜんじ)だとわかり、修理亮が目の色を変えて、慈恩禅師の事を尋ねた。
「ここを去ったのが五年前の事です。信濃の国に行くとか言っておりましたが、今、どこにおられるのかわかりません」
 又太郎はそう言ったが、信濃の国という手がかりが得られて、修理亮は喜んだ。修理亮がヒューガ(三好日向)の事を、ンマムイが阿蘇弥太郎の事を聞いたが、又太郎は首を傾げた。サハチもがっかりしたが、「聞いた事あるわ」とあやが言った。
「あたし、お師匠からお弟子さんたちの事を聞いたのよ。十人以上いたけど、三好日向は一番最初のお弟子だって言っていたわ。その次が中条兵庫(ちゅうじょうひょうご)で、三番目が阿蘇弥太郎だわ」
 それを聞いて、修理亮は飛び上がらんばかりに喜んだ。ンマムイも嬉しそうな顔をしてうなづいていた。サハチも嬉しかった。
「中条兵庫は将軍様の指南役になって京都にいるけど、三好日向と阿蘇弥太郎はどこにいるやらわからない。戦死してしまったのかもしれないって心配していたわ。二人とも琉球に行っていたなんて驚きだわ」
「中条兵庫は将軍様の指南役なのですか」とサハチはあやに聞き返した。
「お師匠はそう言っていました」
「その線から将軍様に近づけそうだな」とウニタキがサハチに言った。
 サハチはうなづき、「京都に行ったら、何としてでも中条兵庫を探して会おう」と言った。
将軍様に会うつもりなのですか」と又太郎が驚いた顔をしてサハチに聞いた。
将軍様は無理でも重臣の方と会って、琉球の王様が将軍様と交易ができるようにしたいと思っているのです」
「成程。そうなると、琉球の船がここに来るわけですね」
「そうなります。その時はよろしくお願いいたします」
「任せて下さい」と又太郎は力強く言った。
 サハチは瀬戸内の水軍の事を又太郎から聞いた。
村上水軍は上関から鞆の浦までを縄張りとしていますが、隅から隅まで見張れるものではありません。島が多すぎて隠れる所はどこにでもあります。それでも、一文字屋が持って来てくれる銭のお陰で、小さな海賊どもは吸収する事ができました。始末に負えないのは言葉の通じない奴らです。大した数ではないのですが、朝鮮や明国から流れてきた海賊どもが悪さをしています。言葉が通じれば何とかする手立ても見つかるのですが、お互いに何を言っているのかわからんので、どうしようもありません」
 朝鮮や明国の海賊がこんな所まで来ているとは驚きだった。
 又太郎は笑うと、ヂャンサンフォンから明国の事を尋ねた。又太郎の質問は延々と続いて、夜も更けていった。
 翌朝、サハチたちは屋敷の庭で、いつものように静座(呼吸法)と武当拳の稽古をやった。又太郎とあやも参加した。稽古のあと、ヂャンサンフォンとシンシンの模範試合を見た二人は唖然とした顔をして、「凄い!」と唸り、今日一日だけでいいから、ここに滞在して、武当拳を教えてくれと頼んだ。
 先を急ぎたい気持ちはあるが、これも何かの縁だろうとサハチは滞在する事に決めた。
 屋敷の裏にある山を登って行くと広い草原があって、サハチたちはそこで、武術の稽古に熱中した。
 一番年下のイハチは同い年の孫三郎の娘のみおと一緒に稽古に励んでいた。イハチは十一歳の頃から兄たちと一緒に剣術の修行を始め、去年から島添大里(しましいうふざとぅ)の武術道場に通っていた。師範はサムレー大将の苗代之子(なーしるぬしぃ)(マガーチ)だった。
 又太郎の妹のあやはササより一つ年下だった。ササはあやが気に入ったようで、妹ができたみたいと喜んでいた。
 楽しい一日が過ぎ、その晩は、昨夜よりも砕けた宴となって、酒もうまかった。
 ファイチはヤマトゥ言葉は難しいとぼやいていた。今回の旅のために、ヤマトゥ言葉を学ぼうと思ってはいても、毎日が忙しくて、そんな暇はなかった。旅の間に覚えるしかないなと笑った。
 翌日、又太郎と別れて船出した。又太郎は護衛の船を二隻付けてくれた。その船を指揮するのはあやだった。あやの船のあとに続いて、サハチたちの船は狭い上関海峡を抜けた。海峡を抜けると島がいくつも見えてきた。潮の流れに乗って東へと進み、大小様々な島々の間を通って行き、未(ひつじ)の刻(午後二時)頃、津和地(つわじ)港に着いた。潮の流れが変わって、これ以上は進めないという。
 津和地港は津和地島怒和島(ぬわじま)の間にある港で、古くから風待ち、潮待ちの港として利用されていた。
 あやのお陰で、宿舎の手配もすんなりと行き、まだ日が高いからと言って、武当拳の稽古が始まった。
「あたしが身に付けて、兄上に教えてあげるわ」とあやは嬉しそうに笑った。
 次の日は蒲刈島(かまがりじま)まで行き、その次の日に鞆の浦に着いた。蒲刈島から鞆の浦までの間は島ばかりだった。こんなにも大小様々な島が散らばっていれば、潮の流れも複雑になるはずだった。進貢船(しんくんしん)が瀬戸内海を進むには経験豊かな水先案内人が必要だとサハチは実感し、上関に滞在して、村上水軍と親しくなったのは正解だったと思った。
 鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央にあって、満潮になると四方から鞆の浦めがけて潮が流れ、干潮になると鞆の浦から四方に潮が引いていく。兵庫から来た船も九州から来た船もここで潮待ちをしなければ先には進めず、古くより潮待ちの港として栄えていた。山と海に挟まれた狭い土地に家々が所狭しと建ち並び、大きな寺院や神社がいくつも建っていた。
 鞆の浦では一文字屋の取り引き相手である商人『三星屋(みつぼしや)』のお世話になった。三星屋と聞いて、サハチもウニタキも顔を見合わせた。ヤマトゥにも三星を名乗る者がいたとは驚いた。理由を聞いたら、三星屋の先祖は渡辺綱(わたなべのつな)という有名な武将で、家紋が三星に一文字だという。『一文字屋』の一文字は家紋からではなく、先祖が備前(びぜん)一文字派と呼ばれた刀鍛冶だったためだった。お互いに一文字の縁だと喜んで、取り引きをする事に決めたという。
 あやたちは決まった宿舎があるらしく、そちらに移り、あやだけが『三星屋』に泊まった。明日は別れなければならないので、あやは日が暮れても武当拳の稽古に熱中し、あやの熱意に付き合って、サハチたちも稽古に励んだ。
 翌日、あやは朝早くに帰って行った。
「京都からの帰りには因島の兄上を訪ねてね」とササに言ったが、その目は少し潤んでいた。
 ササも目を潤ませながら、「また会いましょうね」と手を振った。
 潮の流れが変わるのを待ち、正午頃になって、サハチたちは船出した。島と島の間を抜けて、申(さる)の刻頃から潮の流れが速くなり、日暮れ間近に到着したのは児島(こじま)の下(しも)の津(下津井)という港だった。
 下の津で、塩飽水軍の頭領、塩飽三郎入道が待っていた。サハチたちは塩飽三郎入道が用意してくれた宿屋に入った。
 塩飽三郎入道はちょっと変わった男だった。サムレーというよりはウミンチュ(漁師)の親方といった感じだ。真っ黒に日焼けして、頭は綺麗に剃っているのに、顔は髭だらけで、赤い鞘(さや)に赤い柄(つか)の長い太刀を肩にかついでいた。
 サハチたちが琉球から来たと言っても別に驚く事はなかったが、博多に置いて来た進貢船の話をすると、急に目の色を変えて、どんな船だとしつこく聞いてきた。サハチは説明したが、わけのわからない専門用語を使うので、まったくお手上げだった。
 塩飽三郎入道は唸って、一人で納得したように手を打つと、「博多に帰る時、配下の船大工を一人、一緒に連れて行ってくれ」と言った。
 サハチがうなづくと、塩飽三郎入道はサハチの手を握って喜んだ。
「わしらは武士ではない。わしらは特別な腕を持った職人の集団なんじゃ。潮の流れにも詳しいし、帆や舵(かじ)の扱い方にも優れ、素早く移動できる船も造っているんじゃよ。武士と違って、平家だの源氏だの、南朝だの北朝だのは、わしらには関係ない。わしらの腕を高く買ってくれた者のために働く。一文字屋はわしらを高く買ってくれたんじゃ」
 そう言って、塩飽三郎入道は豪快に笑った。話を聞いていて、サハチは奥間(うくま)の鍛冶屋(かんじゃー)たちに似ていると思った。こういう集団は是非とも味方にしなければならなかった。
「夜明けと共に船出しろ」と言って、塩飽三郎入道は帰って行った。
 塩飽三郎入道の言う通りに、サハチたちは夜明けと共に船出をして、正午前には牛窓(うしまど)港に着いた。正午には流れが逆になっていたので、のんびりしていたら牛窓まで来られなかったかもしれなかった。
 牛窓には一文字屋の店があり、サハチたちは一文字屋の屋敷に入って、のんびりと過ごした。

 

 

 

村上水軍全史   歴史を変えた水軍の謎 (祥伝社黄金文庫)   水軍の活躍がわかる本: 村上水軍から九鬼水軍、武田水軍、倭寇…まで (KAWADE夢文庫)

2-46.博多の呑碧楼(改訂決定稿)

 サハチ(島添大里按司)たちを乗せた交易船(進貢船)は浮島(那覇)から順風を受けて一気に伊平屋島(いひゃじま)に向かった。伊平屋島で、馬天浜(ばてぃんはま)から来たシンゴ(早田新五郎)とマグサ(孫三郎)の船と合流して、シンゴとマグサの船のあとを追って北上した。天候に恵まれて、最高の旅立ちとなった。
 山北王(さんほくおう)の支配下になった与論島(ゆんぬじま)、永良部島(いらぶじま)、徳之島(とぅくぬしま)に寄る事はなく、奄美大島(あまみうふしま)の南にある島で水の補給をして、大島の北側まで行き、トカラ列島の宝島に向かった。
 宝島ではササは大歓迎された。去年と同じように、島人(しまんちゅ)たちから神様扱いされるササを見て、サハチたちは驚いた。二十年前にサハチがお世話になった長老は亡くなって、倅が跡を継いでいた。お互いに当時の事を覚えていて、懐かしそうに昔の事を語り合った。島人たちの歓迎を受けて、宝島には二泊した。
 ササ、シンシン(杏杏)、シズの三人と、女子(いなぐ)サムレーのクム、ハナ、アミーの三人、武寧(ぶねい)(先代中山王)の側室だったチータイ、サントゥク、ウカとイカの母子の四人、通事(つうじ)(通訳)のチョルの奥さん、合計十一人の女たちは交易船に乗っていた。彼女たちは見晴らし台の下にある部屋を与えられて、仲よくやっているようだった。
 サハチが火長(かちょう)(船長)のチェンヨンジャ(陳永嘉)に、「女を乗せても大丈夫か」と聞いたら、「わしらの家族はこの船に乗って、明国から琉球に来た。問題ない」と言って笑った。
 ヂャンサンフォン(張三豊)を紹介するとチェンヨンジャは驚いた。武当山(ウーダンシャン)のヂャンサンフォンかと確認して、間違いない事がわかると口をポカンと開けてヂャンサンフォンを見ていたが、慌てて深く頭を下げた。チェンヨンジャは杭州(ハンジョウ)にいた若い頃、ヂャンサンフォンの弟子から武当拳(ウーダンけん)を習っていたらしい。洪武帝(こうぶてい)や永楽帝(えいらくてい)がヂャンサンフォンを探していたのも知っていて、琉球にいたなんて信じられないと言った。ヂャンサンフォンのお陰で唐人(とーんちゅ)の船乗りたちの態度も変わって、サハチたちは快適な船旅を楽しめた。
 今回、サハチは一節切(ひとよぎり)を、ウニタキ(三星大親)は三弦(サンシェン)を、ササは横笛を持って来ていて、船上で演奏しては長旅の疲れを癒やしていた。シンシンはササからもらった笛を、ンマムイ(兼グスク按司)もどこで手に入れたのか笛を持って来ていて、船上で稽古をしていた。シンシンに文句を言う者はいないが、ンマムイは「うるさい」と水夫(かこ)たちに怒鳴られていた。物事に熱中すると周りの事は気にならないのか、ンマムイは怒鳴られても平気な顔をして下手な笛を吹いていた。
 ンマムイは宝島で、ササ、シンシン、シズの三人がヂャンサンフォンの弟子だと知って驚いた。ンマムイはシンシンと試合をして見事に負け、三人を師姐(シージェ)と敬った。三人の女子サムレーもシンシンの強さに驚いて、武当拳を教えてくれと頼んだ。シンシンは喜んで引き受けた。島の娘たちも混ざって、武当拳の稽古が始まり、それを見ていた島の男たちも習いたいと言い出して、ヂャンサンフォンの指導も始まった。サハチたちも一緒に稽古に励んだ。
 宝島から北上して、途中で風待ちはあったが、海が荒れる事もなく、無事に薩摩の坊津(ぼうのつ)に到着した。二十年振りの坊津の変わり様はサハチを驚かせた。ウニタキはようやくヤマトゥ(日本)に着いたと感激して、ファイチ(懐機)も初めて見るヤマトゥの景色に目をキョロキョロさせていた。サハチは『一文字屋』の主人、孫三郎と再会を喜び、一行は大歓迎された。
 シンゴとマグサの船は坊津で、一文字屋との取り引きがあるので、交易船は先に博多に向かった。
 シンゴが言うには、琉球の船が早田(そうだ)氏の船と一緒に博多に行くのはうまくないという。九州探題(たんだい)に色々と問い詰められて面倒な事になるので、別々に行った方がいい。それに、琉球の船は外国船なので、明国や朝鮮(チョソン)の船と同じように、許可が下りないと船から降りる事もできないだろう。運が悪ければ、博多の港で足止めを食らうかもしれないと言った。
 自由に行動ができないのなら京都まで行けなくなってしまう。サハチたちは交易船とは別行動を取る事にした。
 サハチ、ウニタキ、ファイチ、ジクー(慈空)禅師、ヂャンサンフォン、修理亮(しゅりのすけ)、ンマムイ、ササ、シンシン、シズ、三人の女子サムレーは交易船から下りて、マグサの船に移った。クグルーも下りろと言ったら、今後のために、博多でどんな手続きをするのか見ておきたいという。
「いい心掛けだ。親父に負けない使者になれよ」とサハチはクグルーの肩をたたいた。
 交易船にはクグルーとクルシ(黒瀬大親)と武寧の三人の側室が残った。三人の側室の世話はチョルの奥さんに頼み、新川大親(あらかーうふや)と本部大親(むとぅぶうふや)、又吉親方(またゆしうやかた)と外間親方(ふかまうやかた)に交易船の事を託して、サハチは交易船を送り出した。
 サハチたちは坊津に六日間滞在した。毎日、雨が降っていた。雨がやむと丘の上の広場で、武当拳の稽古をした。孫三郎の娘のみおも加わった。みおは去年、マチルギたちと出会って女子サムレーに憧れ、剣術の稽古に夢中になっているという。そろそろお嫁に行く時期なのに困ったものだと孫三郎はこぼしていた。去年は剣術をやっていたが、今年は奇妙な踊りをしていると言って、見物人たちが大勢集まって来た。
 シンゴの船に乗っていたイハチとクサンルーも一緒に京都まで行く事になっていた。イハチはサハチがヤマトゥ旅に出た時と同じ十六歳で、何を見ても目を丸くして驚いていた。首里(すい)のサムレーだったクサンルーは、いつの日か、進貢船(しんくんしん)を護衛するサムレーとして明国に渡るはずだったが、父親が浦添按司になったため、浦添に移って若按司になった。浦添按司の従者として明国に行く前に、ヤマトゥの国を見て来いと連れて来たのだった。
 シンシンとンマムイの笛も大分上達していた。シンシンの笛は明るくて、聞いていてウキウキしてくる曲だった。初めて会った時は両親の敵(かたき)を討つと言って、暗い影を持った娘だったが、琉球に来てササと出会い、明るい娘になっていた。ンマムイの笛は時々調子がはずれる、もの悲しい調べだった。調子がはずれる所もンマムイらしい曲だと言えた。
 甑島(こしきじま)を経て、五島(ごとう)の福江島に着き、シンゴの兄の早田左衛門三郎と再会した。二十年前、左衛門三郎は対馬の土寄浦(つちよりうら)にいたが、あまり話をした事もなかった。妻や子がお世話になったお礼を言うと、「お礼を言うのはこちらの方だ。シンゴが色々とお世話になっておるからのう」と言って歓迎してくれた。琉球の船は四日前に着いて、壱岐島(いきのしま)に向かったと言った。
 十五年前、五島にいた早田備前守(びぜんのかみ)が戦死したあと、左衛門三郎は五島に来た。あの頃と比べると五島も変わって来たという。宇久島(うくじま)から福江島に移って来た宇久氏が、琉球と交易を始めて勢力を拡大してきているらしい。宇久氏というのはジクー禅師から聞いていた。今帰仁(なきじん)に『五島館』という宿舎があって、それを利用しているのが宇久氏だった。山北王(さんほくおう)との交易で勢力を強めたのに違いない。
「ここは大丈夫なのですか」とサハチが心配すると、「大丈夫じゃ」と左衛門三郎は笑った。
「宇久氏は朝鮮(チョソン)とも交易をしている。朝鮮と交易するのに、わしらを敵に回すわけにはいかんからのう」
「宇久氏も朝鮮と交易していますか」
松浦党(まつらとう)の者たちは朝鮮から図書(としょ)と呼ばれる銅印をもらって、交易をしているんじゃよ。誰もが図書をもらえるわけではない。富山浦(プサンポ)(釜山)にいる叔父御(早田五郎左衛門)が宇久氏のために少々骨を折ったというわけじゃ」
「宇久氏に貸しを作ったという事ですね」
 左衛門三郎はうなづいた。
 五島の福江島から北上して、壱岐島(いきのしま)に着いた。早田藤五郎と志佐壱岐守(しさいきのかみ)に歓迎された。二十年振りに会った藤五郎は随分と老けて見えた。朝鮮に行く事を告げると、藤五郎は少し考えて、「わしも一緒に行こう」と言ってくれた。
「通事をお願いできますか」と聞くと、喜んで引き受けてくれた。倅の籐七郎も一人前になったので、そろそろ隠居して、一度、朝鮮に帰ろうかと思っていたという。
 サハチはお礼を言って、ウニタキとファイチを紹介した。
 今後の予定を藤五郎に話して、八月に富山浦で合流する事に決めた。
「早めに行って叔父御の『津島屋』で待っている。楽しい旅になりそうじゃな」と藤五郎は嬉しそうに笑った。
 壱岐島に二泊して、博多に着いたのは、琉球を出てから二十六日目の五月二十二日になっていた。
 博多の港には大小様々な船が泊まっていて、賑やかに栄えていた。琉球から来た交易船も泊まっていた。船上に人影が見えた。まだ上陸できないのだろうかと心配した。
 明国との交易を始めて、博多は昔のように活気のある都に戻ってきたとシンゴは言っていた。確かに二十年前とは雰囲気がまったく違って、華やかさが感じられた。その華やかさを象徴しているのが、『呑碧楼(どんぺきろう)』と呼ばれる楼閣だろう。その姿は、確かに明国の楼閣を思わせる立派な建物だった。遠くからやって来た者たちは、あの楼閣を見て、博多に着いたと実感するに違いない。
 船が港に入って行くと、二十年前と同じように武装したサムレーを乗せた船が近づいて来た。
 船が帆を下ろして止まると、ヤマトゥのサムレーが数人、船に乗り込んできた。マグサと顔なじみのようだった。簡単な手続きが終わるとサムレーの船は引き上げて行った。
 サハチたちは博多に上陸した。近くで見る呑碧楼は思っていたよりも高かった。十丈(じょう)(約三十メートル)はありそうだ。
「懐かしいなあ」と呑碧楼を見上げながらンマムイが言った。
「あそこからの眺めは最高ですよ」
「お前、あそこに登ったのか」とサハチが聞くと、
九州探題殿(渋川道鎮)に連れられて登ったんです」とンマムイは言って、急にニヤニヤした。
「その時、一緒だった遊女(じゅり)が物凄く綺麗だったのを思い出しました」
「博多にも遊女がいるのか」
「港町に遊女は付き物ですよ。あとで行ってみましょう」
「お前、場所はわかるのか」とウニタキがンマムイに聞いた。
「勿論ですよ」とンマムイは得意そうな顔をしてうなづいた。
「この楼閣は武昌(ウーチャン)の『黄鶴楼(ファンフェロウ)』によく似ておる」とヂャンサンフォンが言った。
 武昌は武当山(ウーダンシャン)から龍虎山(ロンフーシャン)に向かう途中に寄った都だが、サハチの記憶にはなかった。近くまで行かなかったので気がつかなかったのかもしれなかった。
 サハチたちは『一文字屋』のお世話になった。何と、坊津の『一文字屋』の孫三郎が先に来ていて、サハチたちを出迎えた。
「若い孫次郎だけでは心配になりまして、先回りして、お待ちしておりました」と孫三郎は笑った。
 どうやって先回りしたのだろうとサハチは不思議に思ったが、サハチたちが五島や壱岐島に滞在している隙に博多に来たのに違いなかった。
「わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」とサハチはお礼を言った。
「いえ、わたしも京にいる兄貴にちょっと用がありまして、一緒に行こうと思ったのですよ」
「そうでしたか。孫三郎殿が一緒に行っていただければ心強い事です」
 博多の『一文字屋』の主人は、サハチが二十年前にお世話になった孫次郎の長男だった。当時はまだ十二、三歳で、サハチは剣術を教えてやった事があった。父親の名を継いで孫次郎を名乗った主人は、懐かしそうにサハチを迎えた。
 九州探題の渋川道鎮(どうちん)は京都に行っていて留守だという。今年は三月の末に朝鮮(チョソン)から使者が来て、四月の末には明国から使者が来た。渋川道鎮は四月の半ばに朝鮮の使者を連れて京都に行ったまま、まだ帰って来ない。五月六日に北山殿(きたやまどの)(足利義満)の一周忌の法要があったので、それに参列してから戻って来る予定だったが、明国の使者も京都に向かったので、明国の使者と一緒に戻って来るかもしれないという。
 サハチは北山殿の一周忌というのを忘れていた。王様の一周忌なのだから盛大にやるに違いない。九州探題も当然、列席する。ンマムイの紹介で九州探題と会って、できれば九州探題と一緒に京都まで行こうと思っていたが、いないのなら仕方がない。一文字屋の船に乗って京都に行こうと決めた。京都に知人がいるというジクー禅師のつながりで、将軍様重臣に会える事を願い、あとは運を天に任せるしかなかった。
 その晩、一文字屋は歓迎の宴(うたげ)を開いてくれた。一文字屋の屋敷も二十年前よりも大きくなっていて、サハチたちはお客用の立派な離れに案内された。その離れの庭には舞台が作られてあって、松明(たいまつ)の用意もしてあった。サハチは二十年前に見た、男装した美女たちの舞を思い出した。今回も美女たちの舞が見られるのかとサハチは期待をした。
 サハチたち一行十五人とシンゴとマグサも加わり、孫三郎と孫次郎、それに孫三郎の娘のみおと孫次郎の娘のふさも加わった。みおは父親と一緒に坊津から来ていた。
 孫三郎と孫次郎が挨拶をして、サハチが挨拶を返して宴は始まった。庭の松明に火が灯され、舞台が明るく浮かび上がった。笛の調べが流れ、鼓(つづみ)の音が加わった。あでやかな着物を着た三人の美女たちが、笛に合わせて華麗に舞い始めた。ササたちが歓声を上げて、舞台のそばまで近づいて行った。舞台の周りには茣蓙(ござ)が敷いてあり、女たちはそこに座って舞台を眺めた。サハチたち男は縁側に移動した。
 美女たちの舞が終わると翁(おきな)が現れ、滑稽な仕草で見る者を笑わせた。やがて、波の音のような音が聞こえてきて、翁は消えて、釣り竿をかついだ漁師がゆっくりと現れた。
 漁師は松の木の枝にかかった美しい着物を見つけて手に取った。水浴びをしている天女を見つけた漁師は、その美しさに目を奪われ、天女の着物を隠してしまう。天女が現れて、羽衣(はごろも)を知らないかと言う。漁師は知らないと言って、天女と一緒に着物を探す。笛の音に合わせて会話をしたり、舞を舞ったりしながら物語が進んでいき、サハチたちは夢中になって舞台を見ていた。
 羽衣を失った天女は天に帰れなくなって、漁師の妻になって暮らし、やがて、子供も生まれる。何年かして、子供が歌う歌から、羽衣の隠し場所を知った天女は、羽衣を取り返して、天へと帰って行く。華麗な天女の舞で、物語は終わった。
 天女が舞台から消えると、女たちが歓声を挙げて拍手を送った。サハチたちも喝采を送った。
 舞台が終わると皆、もとの席に戻って宴は続いた。孫三郎が、サハチのそばにやって来て、酒を注いでくれた。
「楽しんでいただけましたでしょうか」
「充分に楽しませていただきました。舞台でああいう風に物語を演じるのを初めて見ました。もしかしたら、去年に来た者たちもこの舞台を見たのでしょうか」
 孫三郎は首を振った。
「去年は女子衆(おなごしゅ)が多かったので、是非、見せたかったのですが、北山殿がお亡くなりになったため、歌舞音曲(かぶおんぎょく)は禁止されてしまったのです」
「成程、そうだったのですか。去年、来た佐敷ヌルはお祭りの時、舞台を担当しているのですが、是非、見せたいと思いましたよ。琉球であの物語を演じれば、みんなが喜ぶ事でしょう」
「あの一座は『博多座』と申しまして、先代の九州探題今川了俊(りょうしゅん)殿が、京都には負けられないと作ったのでございます。了俊殿は博多を去りましたが、博多座は活躍しております。明国の使者や朝鮮の使者たちも御覧になって、大層お喜びのご様子です。京都には有名な一座がいくつもありまして、名人と呼ばれる太夫(たゆう)もおります。比叡座(ひえざ)の道阿弥(どうあみ)、田楽新座(でんがくしんざ)の増阿弥(ぞうあみ)、結崎座(ゆうざきざ)の世阿弥(ぜあみ)などが有名でございます。京都に行かれたら、是非、御覧になられたらよいかと存じます」
「芸能一座か」とウニタキがニヤニヤしながら言った。
「どうした?」とサハチが聞くと、
琉球にも作ろうと思い付いたんだよ」とウニタキは一人で納得したようにうなづいた。
 『博多座』の者たちも宴に加わった。舞台で踊った三人の美女たちは身近で見ても美しかった。漁師を演じていたのが座頭(ざがしら)の俊阿弥(しゅんあみ)だった。芸能一座の座頭は皆、出家して時衆(じしゅう)の僧侶となり、阿弥号を名乗るという。出家する事によって、現世の身分を超越して、高貴な人の前でも芸を演じる事ができるという。
 芸能談義に花を咲かせて、サハチたちは酒を飲んでいたが、ふと、ササの姿が見えない事に気づいた。何となく、いやな予感がして、サハチは座を立つと、みおとふさと話をしている女子サムレーのアミーに、ササの事を聞いた。
 アミーは辺りを見回してから、「ちょっとお庭を散歩してくるって言って、もうかなり前に出て行きました」と言った。
「シンシンとシズも一緒か」
 アミーはうなづいた。
「探して来ましょうか」とアミーは心配そうに言ったが、「いや、大丈夫だ」とサハチは言って、そこにいろと手で合図をした。
 もとの席に戻ったサハチはウニタキとファイチを誘って宴席から出た。
「どうしたんだ?」とウニタキが聞いた。
「ササとシンシンとシズがいない」
「三人は去年も来たんだろう。街に出て行ったんじゃないのか」
「ササは高い所が好きなんだ」とサハチは言った。
「高い所?」とウニタキが首を傾げた。
「ササたちが『呑碧楼』に登ったというのですか」とファイチが聞いた。
 サハチはうなづいた。
「まさか?」とウニタキは言ったが、「シズならできるな」とニヤッと笑った。
 ササたちが出て行ったか門番に訪ね、出た事を確認するとサハチたちは妙楽寺へと向かった。
 空には下弦(かげん)の月が出ていた。
 妙楽寺はひっそりと静まっていた。門は閉ざされ、門の外には門番はいない。門から入ったとしても奥にある呑碧楼までは遠い。サハチたちは石塀に沿って、呑碧楼の近くまで行った。
 呑碧楼を見上げても人がいるようには見えない。
「本当にいるのか」とウニタキがサハチに聞いた。
「いなければそれでいい。とりあえずは上まで行ってみよう」
「おい。ササをだしにして、お前が登ってみたいんだろう」
「まあ、それもある。首里の楼閣の参考にしたい」
 石塀は一丈(約三メートル)余りの高さがあった。飛びついて乗り越えられない事もないが、塀の上に棘(とげ)でもあったら怪我をする。
「俺に任せろ」とウニタキが言って、刀を鞘ごと腰から抜くと塀に建てかけた。
 ウニタキは刀の鍔(つば)に足を掛けて、塀の上に手を伸ばした。腕を縮めて塀の上を覗き、「何もない」と言って塀の上に上がった。帯に結んである紐をたぐって刀を引き上げた。
「中の様子は?」とサハチは聞いた。
「誰もいない」
 サハチとファイチは塀に飛びついて、よじ登った。
 寺の境内(けいだい)に下りると木陰に隠れながら、呑碧楼に近づいた。楼閣の入り口の扉(とびら)は外からカンヌキが掛かっていた。ウニタキは入り口から離れて、屋根を見上げた。入り口とは反対側の海側に来て、ウニタキは懐(ふところ)から縄を取り出して屋根に向かって投げた。縄は二階の欄干(らんかん)に引っ掛かったようだった。ウニタキは縄を登って二階に上がった。
 しばらくして、登って来いとウニタキが合図をしたので、ファイチが登り、サハチもその縄を伝わって登った。瓦(かわら)の屋根の上をそうっと歩き、欄干を越えて回廊に上がった。
 縄を片付けるとウニタキは二階の部屋に入った。サハチとファイチも入り、扉を閉めると中は真っ暗になった。それでも、暗闇の洞窟歩きを経験した三人には中の様子はわかった。階段を登って三階へ行き、さらに四階、五階と上がった。五階の扉は開いていた。小声で話す声が聞こえる。
 サハチはそうっと三人の前に顔を出した。三人は驚いたようだが、さすがに悲鳴は挙げなかった。
「あたしの勝ちね」とササが言った。
按司様(あじぬめー)が来るかどうか賭けていたのよ」
「何だって、俺が来るのがわかっていたのか」
 ササは笑ってうなづいた。
「御船(うふに)から上がって、この楼閣を見上げていた時の按司様の目は普通じゃなかったもの。登る気でいるわってわかったの。それで、先に来て待っていたってわけよ」
「お前の考えがササに見透かされていたんじゃないか」とウニタキが笑いながら顔を出した。
「いい眺めだな」とファイチも顔を出した。
 天上界に来たような気分で、サハチたちは下界を眺めた。
「去年も登ったのか」とサハチはササに聞いた。
 ササは首を振った。
「博多の街で見る物が珍しくて、なぜか、ここに登ろうとは思わなかったわ」
「そうか‥‥‥」
 サハチは月を見上げてから、沖に浮かんでいる琉球の交易船を見た。
「酒はあるのか」とサハチはウニタキに聞いた。
 ウニタキは驚いた顔をしてサハチを見た。
「お前の懐には色々な物が入っていそうだ。酒もあると思ったんだ」
 ウニタキは笑って、「瓢箪(ひょうたん)を手に入れて、酒も持ち歩こう」と言った。
「はい」と言ってシンシンがサハチに瓢箪を渡した。
「そう言うと思って持って来たのよ」とササは言った。
 サハチはお礼を言って酒を飲んだ。酒を回し飲みしながら月見酒と洒落(しゃれ)込んだ。
 次の日、琉球船の上陸許可が下りて、一行は妙楽寺に入った。一文字屋孫三郎が琉球の使者に会おうとして妙楽寺を訪ねたが、会う事はできなかった。まず、九州探題が交易を済ましたあと、妙楽寺を開放して、商人たちの取り引きを許すと言われたらしい。妙楽寺は厳重に警護されて、琉球の者たちも外には出られないようだという。
 坊津でシンゴの言う事を聞いてよかったとサハチはシンゴに感謝した。

 

 

 

 

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2-45.佐敷のお祭り(改訂決定稿)

 四月二十一日、佐敷グスクでお祭り(うまちー)が行なわれた。思紹(ししょう)(中山王)が大(うふ)グスク按司から佐敷按司に任命されて、佐敷にグスクを築いてから二十九年の月日が経っていた。
 サハチ(島添大里按司)が九歳の時で、村(しま)の人たちが総出で木を切り倒して整地をし、土塁を築いて屋敷を建てた。サハチは若按司と呼ばれるようになって、弓矢や剣術の稽古に励んだ。小さなグスクだが、島添大里按司(しましいうふざとぅあじ)(汪英紫(おーえーじ))に滅ぼされる事もなく守り通して、今の発展の礎(いしずえ)となったのだった。
 東曲輪(あがりくるわ)が開放されて、舞台では娘たちの踊りや笛の演奏が行なわれ、女子(いなぐ)サムレーたちによる剣術の模範試合、シンシン(杏杏)とササの武当拳(ウーダンけん)の模範試合も披露された。
 梅雨はまだ明けていないが、幸いに雨は降らず、大勢の人たちが集まってきた。
 中グスク按司のクマヌが山伏の格好でやって来て、サハチを驚かせた。
「中グスク按司ではないぞ。山伏のクマヌとしてやって来たんじゃ」とクマヌは笑った。
「久し振りに来ると、やはり懐かしいのう」
 クマヌは周りを眺めながら感慨深そうに言った。山伏姿のクマヌを見るのは久し振りだった。すでに六十の半ばになり、年齢(とし)を取ったなあと思わざるを得なかった。
「色々とありましたからねえ」とサハチは言った。
 クマヌはうなづいた。
「ここはマチルギが嫁ぐ前に築いたんだったのう‥‥‥按司様(あじぬめー)がヤマトゥ(日本)旅に行っている時、マチルギが突然やって来た。あの時は本当に驚いたのう。マチルギがここで娘たちに剣術を教え、女子サムレーもここで生まれた」
 屋敷の縁側に腰を下ろして、人々で賑わうグスク内を見ながらクマヌは様々な事を思い出しているようだった。
「親父も来ています」とサハチは言った。
「なに、中山王(ちゅうさんおう)が来ているのか」
 クマヌは驚いた顔でサハチを見た。
「中山王ではなく、東行法師(とうぎょうほうし)になって来たのです。また頭を丸めてしまいましたよ」
「なに、また坊主になったのか」
「困ったものです」とサハチは苦笑した。
「一の曲輪の屋敷でマサンルー(佐敷大親)と会っています。越来按司(ぐいくあじ)も美里之子(んざとぅぬしぃ)に戻って来ています」
「そうか、美里之子も来たか。ここの事を思い出すと皆、昔に返るようじゃのう。挨拶して来よう」
 クマヌはサハチに手を振ると東曲輪から出て行った。
 舞台の上ではウニタキ(三星大親)とミヨンが三弦(サンシェン)を弾きながら歌を歌っていた。ウニタキの妻のチルーが子供たちと一緒に見ている。ナツとマカトゥダルも子供たちを連れて来ていた。シンゴ(早田新五郎)とマグサ(孫三郎)、『対馬館(つしまかん)』の船乗りたちも楽しそうに舞台を見ている。ヂャンサンフォン(張三豊)と修理亮(しゅりのすけ)、兼(かに)グスク按司のンマムイもいた。
 舞台の進行役の佐敷ヌルとユリは、烏帽子(えぼし)をかぶって直垂(ひたたれ)を着て、ヤマトゥのサムレーの格好だった。二人の美人は男装姿も様(さま)になっていた。
 サハチはンマムイも朝鮮(チョソン)旅に連れて行く事に決めていた。ンマムイは一応、山南王(さんなんおう)(シタルー)の許しを得ていた。自分が原因で中山王と山南王が戦(いくさ)を始めたらまずいと思ったのだろう。山南王はンマムイの言った事に呆れて、しばらく声も出なかったという。それでも朝鮮に行く事を許し、朝鮮とヤマトゥの状況を詳しく知らせる事と山南王の五男とンマムイの次女の婚約を条件に出した。山南王の五男は七歳で、ンマムイの次女はまだ六歳だった。
 サハチもンマムイを連れて行くに当たって条件を出した。兼グスク按司として連れて行くと、中山王の家臣たちの反感を買うので、ヂャンサンフォンの弟子のンマムイとして連れて行くと言った。ンマムイは条件を飲んで大喜びをした。
 舞台を見ようとサハチが立ち上がった時、久高島(くだかじま)のフカマヌルが娘を連れてやって来るのが見えた。咄嗟にまずいと思ったサハチは二人を屋敷の方に呼び込んだ。
「お父さんが歌っている」と娘のウニチルが言って、舞台の方に駈け出して行った。
「あっ!」と叫んで、サハチはフカマヌルを見た。
「チルーがいるんだ」とサハチはフカマヌルに言った。
「手遅れね」とフカマヌルは首を振った。
 ウニチルは舞台まで行ったが、人が多くて舞台に近づけないようだった。
「ウニタキに呼ばれたのか」とサハチは聞いた。
 フカマヌルはうなづいた。
「あいつ、何を考えているんだ」
「もう無理なのよ」とフカマヌルは言った。
「奥方様(うなじゃら)は気づいてしまったわ」
「なに、マチルギが気づいたのか」
「久高島参詣の時、あの子の名前を知ってしまったの」
「今までずっと、チルーって呼んでいたじゃないか。チルーなんてどこにでもある名前だ」
「ウニチルは自分の名前を知っているわ。でも、『鬼(うに)』が付くのがいやで、自分でもチルーだって言っていたの。『鬼』はお父さんの名前からもらったのよって言ったけど納得しなかった。でも、あたしがヤマトゥに行っている時、お婆から『ウニチル』って名前はとてもいい名前だって言われたみたい。『鬼』っていうのは、とても強いという意味があって、あなたがヌルになった時、どんなに強いマジムン(悪霊)でも倒す事ができるでしょうって言ったみたい。ウニチルも自分の名前が好きになって、チルーって呼ばれると、本当はウニチルなのよって言うようになったのよ」
「マチルギにもそう言ったのか」
 フカマヌルはうなづいた。
「奥方様はすぐに気づいて、ウニタキにその事を確認したそうよ。そして、自分からチルーさんに説明して謝りなさいって言ったのよ」
「そうだったのか」
「あたしも隠しておくのに疲れたわ」
 舞台に行ったウニチルは人混みをかき分けて舞台の前まで出た。おとなしく歌を聴いていたが、歌が終わると思わず、「お父さん」と声を掛けた。
 ウニタキはウニチルを見て、笑いながらうなづいた。
 ウニタキの隣りにいるミヨンは驚いた顔でウニチルを見て、「誰?」とウニタキに聞いた。
 チルーもウニチルを見た。そして、ウニタキをじっと見つめた。
 舞台の脇にいた佐敷ヌルも驚いた顔をしてウニチルを見ていた。
 舞台から降りたウニタキはミヨンに、「お前の妹だ」と言って、ウニチルの事を頼み、チルーを連れて屋敷の方に向かった。
 屋敷の縁側でサハチと話をしているフカマヌルを見て、チルーは何もかも悟っていた。ウニタキとチルーとフカマヌルの三人を屋敷に上げると、サハチはウニタキの肩をたたいてうなづき、舞台に向かった。
 サハチは一節切(ひとよぎり)を披露した。マチルギから贈られてから、サハチは必死に稽古をしてきて、ようやく思い通りに吹けるようになっていた。
 初めて聴く一節切の音色は華やかな横笛と違って、渋くて重々しく、風の音のように人々の心の中に染み渡っていった。時にはそよ風のように優しく、時には嵐のように激しく、吹き抜ける風は人々を思い出の中へと引き込んで行った。サハチの吹く曲を聴きながら、誰もが懐かしい昔の思い出の中に浸っていた。
 サハチが一節切を口から離して、曲が終わると辺りはシーンと静まり返った。しばらくして大喝采が沸き起こった。
 屋敷の中では、ウニタキがチルーに頭を下げていた。
「あの子はいくつなの?」とチルーは聞いた。
 怒っているのか、悲しんでいるのか、よくわからない表情だった。
「七つです」とフカマヌルが答えた。
「マチと同い年なのね‥‥‥あなたが歌っている歌、久高島の歌だって聞いたわ。もしかしたらって思っていたのよ」
 フカマヌルもチルーに頭を下げた。
 頭を下げている二人を見ながらチルーの目には涙が溜まっていた。
 舞台から降りたサハチが屋敷に戻るとウニタキが一人、縁側にしょんぼりと座っていた。
「どうした? 許してくれたか」とサハチが聞くと、ウニタキは首を振った。
「今、二人で話をしている」
「マチルギが気づいたそうだな」
 ウニタキはうなづいた。
「チルーは泣いていた。怒ってくれた方がよかったのに‥‥‥」
「そうか‥‥‥」
 サハチには何と言っていいのかわからなかった。
「このグスクの裏山にある屋敷は今、どうなっているんだ?」とサハチはどうでもいい事を聞いた。
「あそこにはイーカチが住んでいる」
「なに、イーカチが住んでいるのか」
 サハチは驚いていた。今まで、イーカチは表に出て来なかった。ウニタキから時々、イーカチが描いた絵を見せられても、本人と直接に会う事は滅多になかった。ウニタキが明国に行っていた時、『三星党(みちぶしとー)』を仕切っていたのはイーカチだった。そして、マチルギの護衛役としてヤマトゥに行った。そのイーカチが佐敷にいたとは驚きだった。
「時々、首里(すい)の女子サムレーのチニンチルー(知念鶴)が顔を出しているようだ」
「チニンチルー?」
「一緒にヤマトゥに行った女子サムレーだよ」
「イーカチといい仲になったのか」
「そのようだ。十五年前、島尻大里(しまじりうふざとぅ)の城下を荒らし回っていた時、イーカチは一緒になるはずだった女を失っているんだ。大した傷ではなかったんだが、その傷が悪化して亡くなってしまった。イーカチはその女を守れなかった事をずっと悔やみ続けていた。チニンチルーはその女が生まれ変わったかと思うほどよく似ている。初めて見た時、俺は幽霊を見たかとびっくりしたよ」
 サハチはチニンチルーを知らなかった。
「イーカチはチニンチルーに惚れているんだが、何せ、年齢(とし)が離れすぎている。イーカチは俺たちより一つ年下だ。チニンチルーは二十四、五だろう。十歳以上も離れているからな、イーカチもそれで悩んでいるようだ」
「イーカチは今、いるかな?」とサハチは聞いた。
 ウニタキは首を傾げた。
「留守を頼んだから、俺の留守中はビンダキ(弁ヶ岳)にいると思うが、今はどうかな」
 いてもいなくもいいから行ってみようとサハチはウニタキを誘った。ウニタキは屋敷の中の二人を心配しながらも重い腰を上げた。
 イーカチは裏山の屋敷にいた。三人の女子サムレーが一緒にいた。チタとクニは知っているが一人は名前を知らなかった。名前は知らないが首里グスクのお祭りの時、チタと一緒にいるのを見た事があった。美人で背の高い女だった。
「チニンチルーも来ている」とウニタキは笑った。
 名前の知らない女子サムレーがチニンチルーのようだった。
 クニはサハチの従妹(いとこ)だった。叔母のマウシの三女で、祖母と一緒に新里(しんざとぅ)の屋敷で暮らし、佐敷グスクに通って馬天(ばてぃん)ヌルから剣術を習った。十八歳の時に佐敷の女子サムレーになり、翌年、首里の女子サムレーになっていた。馬天ヌルが旅をしていた頃は、ササも祖母に預けられたので、一緒に暮らしていた。ササより三つ年上だった。
 サハチとウニタキが来たのを知るとイーカチは驚いて、迎えに出た。
「お頭に按司様(あじぬめー)、一体、どうしたのです?」
「気にするな」とウニタキは言った。
「久し振りに来てみたかっただけだ」
 サハチとウニタキは縁側に腰を下ろして庭を眺めた。幼かったミヨンが庭を走り回っていたのが、つい昨日の事のように思えた。
「そろそろ、チタの出番じゃないの」と女子サムレーたちはサハチたちに頭を下げると出て行った。
「俺が運玉森(うんたまむい)に移ったあと、ここをお前に任せたが、ここで暮らしていたら、昔の事を思い出してしまうな」とウニタキが庭を見ながら言った。
「いえ、そんな事は‥‥‥」とイーカチがウニタキの背中に答えた。
「この屋敷を建てた頃、配下の者で女は五人しかいなかった。ムトゥとトゥミ、イチャ、クミ、タキだ。ムトゥは今、今帰仁(なきじん)にいて、トゥミとイチャは首里にいて、タキは越来(ぐいく)にいる。そして、クミは十五年前に亡くなった。もう充分に苦しんだんじゃないのか」
 イーカチは何も言わなかった。部屋の中でかしこまって座っていた。
「もしかしたら、お前は奥間(うくま)から来たのか」とサハチはイーカチに聞いた。
「はい、そうです」とイーカチはうなづいた。
「こいつは炭焼きの三男なんだ」とウニタキが言った。
「どうせ、村を出なければならないと言って付いて来たんだ。本当の名はサンキチだ。絵がうまいので、誰が言い始めたというわけでもなく、『絵描き(いーかち)』と呼ばれるようになったんだよ。あいつの絵で随分と助かっている」
「ヤマトゥ旅の絵を見たよ」とサハチは言った。
対馬の景色を見て懐かしかった。親父も感心して、大きな絵を描いて楼閣に飾ってくれと言っていた」
「イーカチ、チニンチルーと一緒になって、本物の絵描きになってもいいぞ」とウニタキは言った。
「えっ?」とイーカチは驚いた。
 サハチも驚いてウニタキを見た。
「お前の才能を裏方だけで終わらせるのは勿体ない。表に出て、その才能を生かすんだ。お前が描いた絵を首里グスクやこれから作るお寺(うてぃら)に飾るんだ。ただし、俺が朝鮮から帰って来るまでは副頭(ふくがしら)として、三星党の指揮を執ってくれ。頼む」
「かしこまりました」とイーカチは神妙な顔をしてうなづいた。
「年齢の差なんて関係ないぞ。チニンチルーもお前に惚れているようだ。幸せにしてやれ。お前も知っていると思うが、チニンチルーの親父は知念(ちにん)のサムレーで、チニンチルーが六歳の時に戦死した。今帰仁合戦の時、東方(あがりかた)の按司たちは島添大里グスクを攻めた。その時に戦死したんだ。母親もまもなく亡くなってしまい、チニンチルーは伯父夫婦に育てられたが邪魔者扱いされて、旅をしていた東行法師(サミガー大主)に拾われてキラマ(慶良間)の島に送られたんだ。チニンチルーは幸せな家庭を知らない。一緒になって幸せな家庭というものを味わわせてやれ」
 イーカチは深く頭を下げていた。
 ウニタキは立ち上がると去って行った。
「俺もお前の才能は伸ばすべきだと思うよ」
 そう言ってサハチもイーカチと別れて、ウニタキを追った。
「イーカチが抜けたら大変だろう」とサハチはウニタキに追いつくと言った。
「ああ、大変だ」とウニタキは苦笑した。
「朝鮮旅から帰って来たら考える。世の中、何とかなるもんさ」
 サハチは笑いながらウニタキを見ていた。
 佐敷グスクの東曲輪に戻ると、舞台では佐敷ヌルが横笛を吹いていた。ヤマトゥから帰って来た佐敷ヌルはユリから笛を習っていた。島添大里グスクでは子供たちが笛を吹いているので騒がしく、佐敷ヌルが吹いている笛の音(ね)はわからなかった。
 佐敷ヌルも独自の感性を持っていた。神秘的なその調べは、遙か遠い昔の神々の世界を思わせるような心の奥底に響く調べだった。サハチもウニタキも佐敷ヌルの吹く笛の音に聞き入っていた。
 曲が終わるとシーンと静まり、やがて喝采がわき起こった。
「お前ら兄妹はどうなっているんだ?」とウニタキは言った。
「お前の笛もそうだが、佐敷ヌルの笛も、まるで、神様の言葉のようだ」
「神様の言葉?」
「そうだよ。俺は久高島で神様の声を聞いた事がある。その時と同じ気持ちになるんだ。思わず、感謝をしたくなるような気分にな」
「お前、褒めてるのか」とサハチは聞いた。
「悔しいが、お前の笛は凄いよ」
「お前に褒められるとは思わなかった。笛をやってきてよかったと、今、改めて思ったよ。俺はずっと、お前の三弦に負けていたからな」
「これからが勝負さ。俺も負けてはおれんぞ」
 屋敷を覗くとチルーとフカマヌルの姿はなかった。
「どこに行ったんだ?」とサハチとウニタキは二人を捜した。
 舞台では修理亮と女子サムレーが竹の棒を持って模範試合を披露していた。ウニチルはミヨンたちと一緒にいたが、チルーとフカマヌルの姿はなかった。
 佐敷ヌルの屋敷かなと覗いてみると二人はいた。マチルギが来ていて、ナツも加わって四人が深刻な顔で話し込んでいた。サハチとウニタキを見るとマチルギは手を上げて、二人にうなづいた。この場はマチルギに任せる事にして二人は引き下がった。
「姉御のお出ましだ」とウニタキは言った。
 チルーはマチルギの叔母、フカマヌルは義妹で、二人ともマチルギより年上なのだが、ウニタキが言うようにマチルギには姉御という貫禄があった。
「ここにはササが住んでいるのか」とウニタキが聞いた。
「ササとシンシンが暮らしている」
「佐敷ヌルはいないのに『佐敷ヌルの屋敷』なのか」
首里に『ヒューガ屋敷』はあるが、ヒューガ殿は住んでいない。それと同じじゃないのか」
 ウニタキはサハチを見て笑った。
 屋敷の中からも笑い声が聞こえてきた。
 サハチとウニタキは顔を見合わせて、
「姉御がうまくやっているようだ」とうなづき合った。
 佐敷グスクのお祭りから五日後、梅雨が明けて暑い夏がやって来た。
 その翌日、朝鮮とヤマトゥに行く交易船(進貢船)は夏風を帆に受けて出帆した。来月に行なわれる『ハーリー』が気になったが、ヤマトゥの都と朝鮮の都に行くとなると忙しい旅になる。出帆はなるべく早い方がよかった。
 サハチ、ウニタキ、ファイチ(懐機)の三人は交易船の見晴らし台から琉球の山々を眺めながら、わくわくしていた。これから始まる半年余りの長い旅が素晴らしい旅になるように、琉球の神様に祈りながら、期待に胸を膨らませていた。

 

2-44.中山王の龍舟(改訂決定稿)

 サグルー(島添大里若按司)たちの噂も落ち着いてきた閏(うるう)三月の下旬、侍女のマーミから、ウニタキ(三星大親)のビンダキ(弁ヶ岳)の拠点が完成したので、ヂャンサンフォン(張三豊)と飯篠修理亮(いいざさしゅりのすけ)を連れて来てくれと告げられた。
「ヂャン師匠と修理亮を連れて行くのか」とサハチ(島添大里按司)が聞くと、
「新築祝いの宴(うたげ)を催すそうです。ファイチ(懐機)様も呼んであると申しておりました」とマーミは答えた。
「そうか。山の上に作ったのか」
「山の上には見張り小屋があるだけです。新しい拠点は山裾にございます」
 サハチは馬に乗ってヂャンサンフォンの屋敷を訪ねた。修理亮が庭で木剣を振っていた。ヂャンサンフォンは屋敷の中で彫刻を彫っていた。ヤマトゥ(日本)旅でヒューガ(日向大親)から教わって、道教の神様を彫っているという。首里(すい)グスクの楼閣が完成したら、守り神として安置するように思紹(ししょう)(中山王)から頼まれたらしい。
 兼(かに)グスク按司の阿波根(あーぐん)グスクから帰って来た二人は、島添大里(しましいうふざとぅ)の武術道場で若い者たちを鍛え、時には首里の武術道場にも通っていた。その合間に修理亮は自分の修行に励み、ヂャンサンフォンは彫刻に熱中していた。
 サハチはヂャンサンフォンと修理亮を連れてビンダキに向かった。山裾で馬を下りて細い山道を登るとすぐに山頂に出た。山頂に小さな小屋が建っていた。小屋の中から若い猟師(やまんちゅ)が出て来て、サハチたちに頭を下げた。
 山頂からの眺めは最高だった。運玉森(うんたまむい)が見え、その向こうに須久名森(すくなむい)も見えた。反対に目をやれば、首里グスクもよく見えた。
 サハチたちは若い猟師と一緒に山を下り、馬に乗って猟師のあとに従った。新しい拠点はビンダキの西側の森の中にあった。浮島(那覇)にある商品を保管しておく蔵のような大きな建物だった。
 建物の中は薄暗く、酒の匂いが充満していた。
「酒蔵(さかぐら)か」とヂャンサンフォンが言った。
 広々とした土間に、酒の入った甕(かーみ)がずらりと並んでいる。それでも半分以上は何も置いてない土間が広がっていた。
 サハチが甕の中を覗いていると、「どうだ、凄いだろう」とウニタキの声が聞こえた。
 振り返るとウニタキがファイチと一緒に立っていた。
「お前、酒屋でも始めるつもりなのか」とサハチはウニタキに聞いた。
「そのつもりだ」とウニタキは笑った。
「これはメイリン(美玲)が持って来た酒なんだ。メイリンは売れると思って持って来たんだが、ヤマトゥの商人たちは明国(みんこく)の酒はあまり欲しがらない。強すぎるからな。売れ残った酒を俺が引き取る事にしたんだ。この酒を遊女屋(じゅりぬやー)に卸したり、『よろずや』や『まるずや』でも売ろうと思っている」
「お前が商売をするのか」
「以前と違って、盗賊働きもできなくなっているからな。酒でも売って稼がないと、みんなを食わせていけんのだよ」
 ヒューガが海賊だった頃は、敵である山南王(さんなんおう)、中山王(ちゅうさんおう)、山北王(さんほくおう)の城下を荒らし回っていた。ウニタキも配下の者たちを率いて、盗賊となって敵の城下を荒らし、その戦利品を『よろずや』と『まるずや』で売っていた。今はなるべく敵を刺激しないようにしているので、ウニタキも盗賊の真似はできなかった。今、『よろずや』と『まるずや』では、不要になった物をお客から買い取って、それを修繕して売っていた。時には、交易の売れ残り品や傷物(きずもの)も処分していた。
 壁に細工(さいく)がしてあって、ウニタキが壁の一部を開くと、中に階段が現れた。階段を登って行くと広い部屋に出た。酒蔵の二階が隠し部屋になっていた。
「最初はビンダキの上に小さなグスクのようなものを建てるつもりだった。でも、運玉森のマジムン屋敷の代わりとなると、それではうまくない事に気づいたんだ。マジムン屋敷には配下の者たち全員が集まる事ができた。ここにもそういう建物を建てなくてはならんと思ったんだよ。しかし、こんな所にそんな大きな建物を建てたら目立ち過ぎる。目立たなくて大きな建物は何だと考えた末にできたのがこれだ」
「成程。酒蔵は隠れ蓑(みの)か」
「そういう事だ。これだけ広ければ、全員が集まれる。近くに湧き水が出ているので水にも困らない。最高の隠れ家だ」
 大広間の奥に小部屋があって、料理の載ったお膳が並び、宴の用意がしてあった。
「酒はたっぷりあるからな。遠慮せずに飲んでくれ」
 サハチたちはお膳を前に座り込んで祝杯を挙げた。
「こいつは上等な酒じゃな」とヂャンサンフォンが嬉しそうに笑った。
 サハチもウニタキも明国の旅で、明国の酒に慣れているので、うまい酒だとわかるが、修理亮は口をへの字に曲げて、「カー」と言って首を振った。
 ウニタキは笑いながら、「琉球には慣れたか」と修理亮に聞いた。
「はい、いい所です。ヒューガ殿が住み着いてしまったのもうなづけます」
「お前も住み着いたらどうだ」とサハチが言った。
「はい。それもいいのですが、慈恩禅師(じおんぜんじ)殿を何とか探し出して、琉球に連れて来たいと思っています」
「そうだったな。ヒューガ殿の師匠をぜひとも連れて来てくれ」
「ヒューガさんの師匠は禅僧なのですか」とファイチが聞いた。
「各地を旅をしている禅僧で、剣術の名人でもあり、彫刻の名人でもあるそうだ」
「ヒューガさんの師匠のためにお寺(うてぃら)を建てましょう」
「そうだな。首里に大きなお寺を建てよう」
「そろそろ、いいかしら?」と女の声がした。
 隣りの部屋の板戸が開いて、着飾った女たちが現れた。
按司様(あじぬめー)」と嬉しそうに笑ったのは『宇久真(うくま)』の遊女(じゅり)のマユミだった。
「『宇久真』の女将(おかみ)(ナーサ)は、ここの酒を定期的に買ってくれると約束したんだ。そのお礼として遊女たちを呼んだんだよ」
 マユミは当然のようにサハチの前に座り込み、ウニタキと馴染みのユシヌはウニタキの前に、ヂャンサンフォンと馴染みのアキはヂャンサンフォンの前に座った。
「初めまして」と言いながら、ファイチの前にはウトゥワ、修理亮の前にはシジカが座った。女たちが加わって、宴も華やかになった。日が暮れると蝋燭(ラージュ)(ろうそく)をいくつも灯して、昼間のような明るさの中で祝宴は夜更けまで続いた。
 四月の初めに梅雨に入り、雨降りの日が続いた。雨の降る中、丸太引きのお祭りが行なわれた。
 去年、久高島参詣(くだかじまさんけい)で戦死した者たちが出て、沈み込んでいるみんなの気分を変えようと急遽思い付いたお祭りだった。一度だけでやめるつもりでいたが、この先、お寺をいくつも建てるとなると丸太はいくらあっても必要なので、毎年の恒例行事にする事に決めたのだった。
 去年の暮れにヤンバル(琉球北部)から運ばれた丸太は浮島にあり、丸太を運ぶ台車も新しく作らせた。お祭り奉行(うまちーぶぎょう)は例のごとく佐敷ヌルで、ユリと一緒にお祭りの準備を進めていた。去年と同様に五本の丸太を首里、島添大里、佐敷、久米村(くみむら)、若狭町(わかさまち)の若者たちが引っ張り、守護神は首里がササ、島添大里がサスカサ、佐敷がカナ、久米村はシンシン(杏杏)、若狭町は『よろずや』のシズだった。佐敷ヌルは守護神にはならず、白い馬に乗って、先導役を務めていた。
 今年のササは最初から丸太の上に乗って掛け声を掛けていた。他の者たちもササを真似して、皆が丸太の上に乗った。雨に濡れて滑る丸太の上は危険で、サスカサとカナが滑り落ちた。二人とも見事に着地して怪我はなかったが、丸太の上に乗るのは諦めた。ササとシンシンとシズの三人はヂャンサンフォンのもとで修行を積んだお陰か、身が軽く、丸太から落ちる事もなく首里までやって来た。丸太から落ちたサスカサだったが、地上を飛び跳ねながら丸太をうまく先導して、ササの丸太と首位争いを繰り広げた。結局はササが勝って、去年の雪辱を果たした。
 雨の降る中、大勢の人たちが応援に現れ、浮島から首里へと続く街道は見物人たちで溢れた。太鼓や法螺貝、指笛が鳴り響き、丸太引きのお祭りは大盛況のうちに終わった。
 カナはお祭りの三日前に久高島から帰って来た。ササからお祭りの事を聞いて、佐敷ヌルに頼んで参加したのだった。カナはまもなく浦添(うらしい)に行く事になる。浦添に行く前に、どうしてもお祭りに参加したかった。佐敷ヌルはカナの頼みを聞いて、佐敷の守護神に任命した。
 カナは運玉森ヌル(先代サスカサ)と一緒に三か月間もフボーヌムイ(フボー御嶽)に籠もっていた。三か月間、神様から様々な事を教わった。そして、知念(ちにん)のセーファウタキ(斎場御嶽)で、厳かな儀式をして浦添ヌルになっていた。久高島に行く前とはすっかり変わって、一人前のヌルとしての貫禄も充分に備わっていた。
 丸太引きのお祭りの二日後、浮島で朝鮮(チョソン)に行く船の出帆の儀式が行なわれた。船は明国から賜わった進貢船(しんくんしん)だが、朝鮮とヤマトゥに行くので、進貢と書かれた旗ははずされた。
 馬天(ばてぃん)ヌル、佐敷ヌル、運玉森ヌル、浦添ヌルと四人のヌルによって航海の安全が祈願され、『ジャクニトゥミ』という神名(かみなー)が授けられた。
 積み荷はすでに完了していて、梅雨が明ければ船出となる。正使は新川大親(あらかーうふや)、副使は本部大親(むとぅぶうふや)、サムレー大将は又吉親方(またゆしうやかた)、サムレー副大将は外間親方(ふかまうやかた)、火長(かちょう)(船長)はチェンヨンジャ(陳永嘉)、朝鮮の通事(通訳)は鮫皮(さみがー)職人だったチョル、ヤマトゥの通事はカンスケ(勘助)と決まっていた。
 新川大親は三年前に正使としてシャム(タイ)に行っていた。官生(かんしょう)として明国に留学していた秀才だった。
 本部大親は去年、副使として明国に行っている。その時の正使は大(うふ)グスク大親だったので、随分と苦労したらしい。本部大親はヤンバルの出身で、二十歳の時に、兼グスク按司の花嫁の従者として浦添に来た。兼グスク按司の供をして明国に二度行き、物覚えがよく、明国の言葉もすぐに覚えた。その才能を買われ、従者として何度も明国に行き、副使を務めるまでになっていた。
 外間親方は五番組のサムレー大将で、五番組にはマウシがいた。マウシは明国に行くつもりでいたのに、急遽、朝鮮に行く事に決まって、少しがっかりした。ヤマトゥには行った事があるし、明国を見てみたかった。それでも、対馬(つしま)で親しくなった娘を思い出して、その娘との再会を楽しみにしていた。
 カンスケはイトの弟で、マグサ(孫三郎)と一緒にサハチの家臣になっていた。博多で交易をするとなるとヤマトゥ言葉と琉球言葉がわかる者も必要だった。一人では大変なので、カンスケの仲間三人が、カンスケの助手として手伝ってくれる事になっていた。
 サハチと一緒に行くのはウニタキとファイチの他に、クルシ(黒瀬大親)、ジクー(慈空)禅師、ヂャンサンフォン、修理亮、クグルー、そして、ササ、シンシン、シズ、女子サムレー三人も行く事に決まった。
 クルシは琉球から朝鮮までの海の事なら何でも知っているので船長の補佐役を務めてもらい、ジクー禅師はヤマトゥでの使者役、ヂャンサンフォンはいてくれるだけで心強い、修理亮は一旦ヤマトゥに帰って慈恩禅師を探し、クグルーは朝鮮での道案内役だった。
 ササは船乗りたちから八幡(はちまん)ヌルと呼ばれて信頼されているし、危険な事を回避するためにササの能力が必要だった。ササ一人を連れて行くわけにもいかないので、仲のいいシンシンとシズ、女子(いなぐ)サムレー三人を連れて行く事に決めたのだった。クム、ハナ、アミーの三人の女子サムレーは実力で選ばれていた。各組の隊長を除き、最も強い三人だった。
 それと今回の朝鮮旅の主役となる武寧(ぶねい)の側室だったチータイ、サントゥク、ウカの三人の朝鮮の女たちが乗る。浦添グスクが焼け落ちたあと、久米村で質素に暮らしていた女たちは突然の帰国に大喜びをした。一番年長のチータイは琉球に来て二十年以上が経っていた。武寧の四女を産んだが、その娘は勝連(かちりん)に嫁ぎ、奇病に罹って亡くなっていた。サントゥクは子供に恵まれず、ウカには九歳になるイカという娘がいた。勿論、その娘も一緒に朝鮮に送る。
 それとは別にシンゴ(早田新五郎)の船で、サハチの三男のイハチ(伊八)と浦添の若按司となるクサンルー(小三郎)もヤマトゥ旅に出る事になっていた。
 出帆の儀式の翌日、兼グスク按司(ンマムイ)がサハチを訪ねて来た。東曲輪(あがりくるわ)の物見櫓で別れて以来二か月振りだった。生き方を考え直すと言っていたが、見つかったのだろうかと思いながら待っていると、サハチの顔を見た途端、ンマムイは両手を付いて頭を下げ、
「師兄(シージォン)、俺も朝鮮に連れて行って下さい」と言った。
 サハチはポカンとした顔でンマムイを見ていた。
「どうして、急に朝鮮に行きたくなったんだ?」とサハチは聞いた。
「師匠も行くのでしょう。師匠と師兄が行くのなら、俺も行かなくてはなりません」
 そう言われてもサハチは返答に困った。
「それだけではありません。俺は二度、朝鮮に行って、博多にも寄っています。九州探題の渋川殿も知っておりますし、対馬の守護の宗(そう)殿も知っております。朝鮮の富山浦(プサンポ)(釜山)を仕切っている早田(そうだ)殿も知っておりますし、名前は忘れましたがウィジョンブ(議政府)の役人も知っています」
「ウィジョンブの役人とは何だ?」
「外国との交易を担当する役人です」
「成程、色々と詳しいようだな。富山浦の早田殿というのは『津島屋』の主人の五郎左衛門殿の事か」
「その通りです。師兄もご存じですか」
「ああ、かなり前だが、朝鮮に行った時、お世話になっている」
「お願いします。朝鮮の言葉もわかりますし、必ず、役に立つと思います」
「それは助かるんだが、今回、朝鮮の使者を出すのは中山王だぞ。お前、中山王の船に乗っても大丈夫なのか」
 ンマムイは黙って考えていた。
「阿波根グスクは島尻大里(しまじりうふざとぅ)グスクと豊見(とぅゆみ)グスクに挟まれた位置にありますが、俺は山南王(さんなんおう)の家臣ではありません。一応、同盟は結んでおりますが、今、山南王と中山王は戦(いくさ)をしているわけではありませんし、大丈夫だと思います」
「半年間も留守にする事になるぞ」
「師匠の阿蘇(あす)殿に任せておけば大丈夫です」
「そうか。俺の一存では決められんので、しばらく時間をくれ」
「師兄、よろしくお願いします」
 サハチの部屋を出たあと、ンマムイは子供たちと遊んでから帰って行った。サハチは侍女のマーミにウニタキを呼んでくれと頼んだ。近くにいたのかウニタキはすぐに来た。
「ビンダキの隠れ家も完成したし、朝鮮旅の前に子供たちと一緒に過ごそうと思って屋敷に帰っていたんだ」とウニタキは言った。
「かみさんの機嫌を取っていたのか」とサハチは笑った。
 ウニタキは苦笑した。
「ところで、何かあったのか」
 サハチはンマムイの事を説明した。
「面白そうな奴だな」とウニタキは言って、ニヤッと笑った。
「何となく、俺と境遇が似ているようだ。奴の母親は側室ではないが、浦添グスクに馴染めなかったんだろう。俺も勝連グスクには馴染めなかった。いつも、俺の居場所じゃないと思っていたんだ。浜川大親(はまかーうふや)になって、グスクから出た時はホッとしたもんだよ。奴も阿波根グスクに移った時はホッとしたのだろう。連れて行けばいいんじゃないのか。一緒に旅をすれば、奴の本心もわかるだろう」
「連れて行くのはいいが、山南王(シタルー)がどう出るかだな」
「シタルーはンマムイを攻めたりはしない。ンマムイは山南王にとって、山北王とのつなぎをする唯一の男だ。今は地盤固めをしているが、やがて、山北王と手を結ぶだろう。その時、なくてはならない存在がンマムイだ。奴がフラフラしているのは今に始まったわけではない。どうしようもない奴だと思うに留まるだろう」
「そうだといいんだが、ンマムイが原因で、留守中に戦が始まったら大変な事になる」
「シタルーは馬鹿ではない。今、戦をしたら負ける事がわかっている。それよりも、シタルーは東方(あがりかた)を狙っているようだぞ」
「どういう事だ?」
「今、玉グスクで石垣の修理をしているんだが、修理をしている石屋は山南王とつながっている。東方の情報を集めているようだ」
「玉グスク按司が山南王の石屋を使っているのか」
「そうではない。代々玉グスクの石垣を直している石屋だ。しかし、その石屋の親方は山南王とつながっている」
「そうか。もし、このグスクや首里グスクの石垣を直す事になったら、山南王とつながっている石屋に頼む事になるのか」
「そう言う事だな。各地にいる石屋の親方のその親方が山南王とつながっているからな」
「何とかして、その親方を味方に引き入れなくてはならんな」
「そうだな。難しいがやらなくてはなるまい」
「それと、油屋も山北王から切り離したい」
「油屋か。こいつも難しいがやらなくてはならんな。朝鮮から帰って来たら調べてみる。さっきの話の続きだが、シタルーは糸数按司(いちかじあじ)から東方を切り崩そうとたくらんでいるらしい。糸数按司の妻はシタルーの妻の妹だ。二人は義兄弟という関係にある。その関係を利用して味方に引き入れようと考えているようだ」
「糸数按司か‥‥‥周りの按司たちを敵に回すとは思えんが‥‥‥」
「糸数按司の長女なんだが、糸数按司が上間按司(うぃーまあじ)だった頃に、浦添の武将に嫁いで、その武将は南風原(ふぇーばる)で戦死して、子供を連れて実家に戻って来ている。今の中山王を恨んでいるようだ。娘のために中山王を裏切るとは思えんが、シタルーがうまい事を言えば寝返る可能性はある」
 サハチはうなづいて、「糸数按司の動きを探ってくれ」とウニタキに頼んだ。
「去年、玉グスクに『まるずや』を開いたんだ。まるずやの者に酒を持たせて糸数グスクに出入りさせるよ」
「玉グスクに『まるずや』を出したのか」
「明国との交易のお陰で、玉グスクの城下も栄えてきて、銭(じに)も使えるようになってきたんだ。玉グスクや知念からわざわざ、島添大里の『まるずや』まで古着を買いに来ている者がいるって聞いたんでな、玉グスクに出す事にしたんだよ」
「そうか。東方の按司たちを疑いたくはないが、これからは味方の動きも知っておかなくてはならんな」
「そうさ。ちょっとした不満から裏切りは起こる。それを未然に防ぐには、味方の按司たちが何を考えているのかを知らなければならない。それと、島尻大里(しまじりうふざとぅ)グスクの侍女から聞いたんだが、シタルーの三男は十七歳で、そろそろ嫁を迎える時期になっている。王妃が心配して、シタルーに相談したら、もう決めてあるから心配するなと言ったらしい。三男だから嫁は按司の娘でなくても構わんのだが、シタルーの事だから、子供たちを有効に使うはずだ。もしかしたら、山北王の娘を嫁に迎えるつもりでいるのかもしれん」
「山北王の娘に釣り合いの取れるのがいるのか」
「山北王の長女が十五歳だ。可愛い長女を嫁に出すなら周りにいる按司たちよりも山南王の息子の方がいいと思うのが親心だろう」
「十五か‥‥‥シタルーは来年辺りに山北王と同盟を結ぶつもりか」
「多分、そうなるだろう」
「来年から忙しくなりそうだな」
「もう旅にも出られなくなるだろう」
 サハチはうなづき、「ンマムイの事は一応、親父に相談するが、連れて行く事にするよ」と言った。
 四月十日、浦添グスクが完成して、小雨の降る中、浦添ヌル(カナ)によって、浦添按司の就任の儀式が厳かに執り行われた。サハチもマチルギと一緒に儀式に参加して、その後の祝宴にも顔を出して引き上げてきた。
「グスクの中は驚くほど広いのね」とマチルギが馬に揺られながら言った。
 幸いに雨はやんでいた。
「中山王のグスクだったからな。俺も一度だけ入った事があるが、立派な建物がいくつも建っていて、迷子にならないように必死になって、みんなのあとを付いて行ったんだ」
 マチルギはサハチの顔を見て笑い、「覚えているわ」と言った。
「東方の按司たちと一緒に行ったんだけど、誰も相手にしてくれなかったんでしょ」
「そうだったなあ」とサハチも当時を思い出して笑った。
「誰も相手にしてくれないので、独り言ばかり言っていた」
「あれだけ広ければ、今帰仁(なきじん)攻めの時に、ここに兵を集めればいいわ」とマチルギは言った。
 サハチはマチルギを見た。
 マチルギは笑った。
「それはいい考えだ」とサハチはうなづいた。
 察度(さとぅ)(先々代中山王)が今帰仁を攻めた時、浦添グスクにおよそ一千の兵が集結したと聞いている。今の浦添グスクは建物も少なく、一千どころか三千の兵も収容できるだろう。察度の時は南部の兵が浦添に集結したが、今の状況では南部の兵が出陣するのは無理だった。東方の兵が出陣すれば、山南王に東方を奪われてしまう。山南王から東方を守るために、島添大里の兵も残して置かなくてはならない。山南王がいる限り、今帰仁攻めは難しい。山北王を倒すより先に、山南王を倒さなくてはならないのかとサハチは馬に揺られながら考えていた。
 翌日、浮島の造船所で中山王の龍舟(りゅうぶに)が完成した。見事なできばえだった。船首を飾る龍の彫刻はヒューガが彫ったという。ちょっととぼけた顔をしていて、どことなく思紹に似ているのがおかしかった。馬天ヌルによって進水の儀式が行なわれ、慶良間之子(きらまぬしぃ)配下のサムレーたちが龍舟に乗り込んで、訓練が始まった。
 空はどんよりと曇っているが雨はやみ、海は穏やかだった。生まれたての龍舟は気持ちよさそうに海の上を走って行った。

 

 

 

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